−水車物語2− 2.「下車(しもぐるま)」の大将と3つの水車 ひとくちに水車といっても色々なタイプの水車があり、米搗き、粉ひき用の動力水車や、揚排水用の足踏み水車等があるが、その動力水車にも、シシオドシの原理と同じ水の重さで杵突きをするバッタリ水車、水流をラセンの羽根で受け、それを動力に変えるラセン水車などがある。つまりその地域の地形、川幅や水の流れ、または建屋や用途によっても、より効率の良い動力を得る形に変形しながら発展してきたのである。 関東平野の米作地帯を流れる川の一般的な動力水車は、その地形からいっても水輪を上から落ちる水で回す上掛け式の水車ではなく、川の流れに任せて回す下掛け式の水車が多かったようである。 僕の家の水車は、その下掛け式水車を本格的に発展させた「ダイハチ」と呼ばれる胸掛け式水車で、水輪の直径が十五尺、建屋は東西間口十三間半、南北奥行き五間という大きなものだった。 胸掛け式水車というのは、川の流れを水輪を回すための水車堀に通し、水輪の真下の水路部分に傾斜を設け、その落差で生じる水の流速と重量で、より回転力を増すように工夫されたものである。水車堀に流れ込む水の流量は堀手前で横手に流れるバイパス脇水路の堰の高低で水量調節するようになっていた。この脇水路を含め水車堀を造るのは水車を作るより難しいといわれ、その出来如何によっては水車稼を左右する動力に大きな差が出たのである。
僕の家の本家の曾祖父が、明治時代にこの村はずれを流れる荒川の水車権利を得て本格経営を始め、祖父が分家する際の財産分与として水車及び付属施設を貰い受けた。そしてその息子である父は3代目の経営者となった訳である。水車自体の設置開始年とか、与良川から引き込まれた荒川そのものの成り立ちなどは、本当は大事なポイントなのだが、資料不足と僕の勉強不足もあって分かっていない。ただ、単純に水輪が回り建屋内で杵が上下するだけの共同水車などと違い、初めから個人の生業を目的とし様々な用途に対応出来るように考慮して作られた本格的な水車であるのは、その川の形態、水車堀、水輪や建屋の大きさからいっても分かると思う。 この水車建屋には馬小屋と四畳半くらいの座敷部屋があり、はしごで上る屋根裏二階もあった。馬は荷引きといって馬車で村を回り米や麦を集めてくる時に使い、座敷は遠方から精米や製粉に来る人の待合兼寝泊り用である。その前の建屋入り口の土間には煮炊きが出来る囲炉裏やかまどもあって誰でも勝手に利用できた。作業場はその奥にあった。 作業場は薄暗くいつもひんやりしていた。明るい庭から作業場に入ると、目が慣れるまで時間が掛かり、回る大中小の万力と呼ばれる歯車の噛む音や杵つき、すり臼の音が最初に襲ってきて、その後ゆっくりと本体が目の前に浮かび上がって来た。動力を伝えるベルトが小屋の中を縦横無尽に走り、フルイが足元でこきざみに揺れていた。目が薄暗がりに慣れ、気が付くと何処もかしこも粉だらけで真っ白だった。大万力の上にある小さな明かり取りの窓に外の水輪の回る影が映っていた。水車は生きている建物なのだ。
− 9 −
|
||