−水車物語−






座敷はけっこう賑やかな待合室になっていた。精米、製粉が一日がかりになる為、待ち時間を過ごす村の集会所、社交場になっていたのだ。今日は麦搗きだから長丁場だ、などといって仲間を何人も引き連れて将棋や博打を打ったりしていた。ほとんどが顔見知りの人達で、父や母が居なくとも勝手に杵や臼の調節をしては座敷に上がりこんだ。

「おい、下車の大将、麦見せとこれ」

「下車(しもぐるま)」とは家の水車の通称で、下車の大将とは幼い僕の事。村の人達は将棋や花札めくりをしながら時々僕にそう言って、搗いている米や麦を石臼から持ってこさせた。それを横目でちらっと見ては搗き具合を計っているのだ。ベテランになると搗き音で判るはずだが、勝負の劣勢を挽回するおまじないというか、気分転換というか、僕は何回も石臼と座敷を往復させられた。それでも嬉々として座敷を離れなかったのは、大人達の勝負を見るのが楽しかったというのもあるが、その周りの、村の人達が持ち寄ってくるお茶菓子や雑誌類が本当の目的だった。字ばかりの大人の雑誌はがっかりだが、漫画や写真の多い本を僕は飽きずに何度も何度も眺めていた。特に月刊少年漫画雑誌の「少年」や「少年画報」を持ってきてくれる大人は神様だった。そして、勝負事に付き物の喧嘩はしょっちゅうで、殴り合いになるような大喧嘩も恒例行事のように毎年二、三回はあったが大抵は僕の父が治めていた。父は兵隊上がりで村ではにらみが利いていた。それに「くるまや言葉」といって、水車の機械の中で毎日を過ごしているので自然と声がでかくなり、仲裁にも迫力があったのである。


 僕ら家族。父母、兄と僕と妹、それに病気で寝たきりだった祖母が生活する母屋は、水車建屋の傍の盛土した高台にあり、周りを石垣で囲んであった。東南の角地には大きなイチョウの樹があり、離れた村落からも良く見えた。いわば下車のランドマークツリーだった。

 母屋は南向きで真ん中に玄関があり、西側の木戸にかけて雨よけの庇が突き出ていた。木戸の向うには生活用水に使う掘抜き井戸の源泉があり、そこから竹樋が庇の内側に通って、コンクリート囲みの3段井戸に水が流れ込んでいた。1段目が飲み水や炊事用、2段目は食器や野菜などの洗い場、3段目は洗濯や汚れた手足の洗い場に使っていた。この井戸の水を飲む事は釣り人や水車屋に来る人達の楽しみになっていた。釣り人が帰った後などには3段目の井戸に何匹もお礼がわりの魚が泳いでいた。ここは高台にあった為、玄関前から水車建屋入り口にかけてゆるい坂になっていて、井戸の水は坂に沿って地中に埋められた土管で裏の堀に排水されていた。


水車建屋は東が入り口、西側に水車堀が通って水輪が回っていた。母屋裏を荒川が流れて水車堀へと水流を加速させて行くのだが、水量が多いほど水音が低く離れの水車の回る音も重く低かった。僕は川のたっぷりとした流れを感じながら眠るのが好きだった。逆に水量が少ないと、ざあざあという流れになり、水車も水受けの棚からばしゃばしゃと水が跳ねて落ちた。棚の大きさが違うのか水輪がいびつなのか、その水音が微妙に均等ではなくて、おまけに心棒の回転音までぎいっぎいっと鳴った。それはそれで眠りのリズムにしてしまえばどうって事はなかったのだが、一旦気になりだすと目が冴えて何回も何回も水車の回転を数える事になった。

 

 

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