−水車物語1− 洪水は谷中村強制廃村後も収まったわけではなかった。明治政府の治水問題の捉え方には、やはり鉱毒事件に関わるごまかしと偏りがあるから最初から無理があった。現に事件から50年経った後の僕の家の周りも台風が来る度、毎年のように水に埋まっていた。僕らは水が引くまで2、3日学校を休まなければならなかったのだ。ただ、どこからかやって来た昭和30年から40年代の日本の高度経済成長の波に乗り遅れまいとした地域農村部の、土地改良に次ぐ土地改良で結果的に大きな被害を出す洪水は徐々に無くなっていった。なし崩し的に水害が収まっていったのは、戦後のGHQ命令による農地改革に伴って、河川工事や土地改良そのものがやりやすくなったという事実と技術のおかげで、その二つとも外圧と時間がやった仕事だ、と言ってしまえば身もふたも無いが、技術はともかく土地改良が出来た事実の裏に谷中村があったと言う事だと思う。先に書いたように、この地域の水害問題には農地改革だけではとうてい解決できない、それ以前の問題があったからである。
地域の河川調査中に倒れた田中正造を見舞った村人達に、正造が放った最後の言葉は「おおぜいが集まってくれても嬉しくない。おおぜいが田中正造に同情するが、誰も正造の事業に同情しない」だった。田中正造の事を知ろうとする者は必ず最後にこの底なし沼の様な言葉に出会う。これは全てを擲って谷中村に入り、谷中村から学んだという正造の実践哲学「谷中学」の敗北なのだろうか? 正義は常に田中正造にあったが、ここでは何一つ正義は行われないまま事が進んだのだ。正造の葬儀には2万人とも3万人とも言われる人々が集まったというが、誰も「こわい、やかましい、面倒な、頑固な、きたない、貧乏な、嫌な親父」聖田中正造を論じる資格など無いのだ。そして僕も自らに問いかける事になる…そういうお前はどうなんだ、お前は何をしてきたのかと。還暦近いおっさんは反省などしない。してきた事もしてこなかった事も、もうどうにもならない。だから反省などしないが、葦原を吹き抜ける風のように胸を去来するものはある。それの名前があえて言えば田中正造という名前なのだ。……田中正造が居てくれて良かった。
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