−水車物語1−





「立入禁止」の札の立つ広大な遊水地の葦原を事件後百年の土手の上から見渡していると、川や沼、湿地の持つ本来の自浄作用が働き、鉱毒問題に絡む人間の利害、思惑とは関係なく自然はそれなりに順応しているようにみえる。人間の手が入らないと言うのが一番の自然保護のようだ。ただそんな事を言う事自体まだなんとなくタブーで、今になっても田中正造その人の本当の評価も、遊水地そのものの評価も定まっていない気がする。一方的な意見は腐るほどあるが、総合的なきちんとした評価と歴史はまだ伝えられていない。これは国(国民)の人間の生存権に対する哲学が、浦賀沖に黒船が現れて以来ずっと富国強兵の波に飲まれたまま今に至っている為だ。現に僕は学校で黒船の事は習ったが、この鉱毒事件はあまり学習した覚えがない。勉強は所詮、他人事のようだった。なぜ僕の家はいつもいつも小さな台風で、湖に残された小島のようになってしまうのか? 学校を休まなければならなかったのか?僕は問わなかったし誰も教えてくれなかった。僕の、地元の一番の問題だったはずなのに、ここを空白にして世界を勉強してもそれは中身が空っぽの知識だったとつくづく思う。この遊水地計画にしても田中正造を祭り上げる事で、まるで為政者だけが悪者のように言われてしまっているが、遊水地に流れ込む川の上流地域住民は大多数がこの遊水地計画に賛成し、谷中村住民も様々なあくどい切り崩し工作があったにしろ290戸の内16戸を残して殆どが村を去った。そして、当たり前だが抗争は残った16戸と田中正造だけにあった訳ではなく、賛成した人にも去った人にも、そのどの場面にもあったのである。ここを勉強しないで世界が解る訳が無い。 

そして葦原だけが残った。後世からの単純な判断で善悪は決められない。しかし、歴史はいつだって否応無く僕もその一員である加害者の現在から見た歴史で、皆、口を噤み、評価よりも風化、いわば今はかさぶたが固まり、そして自然に剥がれるのを待っている状態だ。


 

        


       そして葦原が残った           国土交通省の掲示版も風化…


 

巴波川、思川は勿論、我が荒川もその中に含まれる渡良瀬川下流一体は元々がそのどこか一箇所の堤や土手を強化する事は元より、杭ひとつ打っても、その杭の頭10センチを出すか出さないかによっても、他地域に水害や作物被害をもたらしてしまう様な、複雑で難しい歴史と構造を持った地域だったのである。――そして、その上流で何が起こったのかというと、鉱毒垂れ流しは論外だが、銅の精錬に使う燃料として足尾の山の木を切ったうえに、精錬工程からも亜硫酸ガスなど有害ガスを発生させて甚大な煙害を起こし酸性雨を降らし山を崩落させた。問題はより広範囲、長期的に深刻になった――。野蛮な犯罪がまかり通ったのである。明治の偉い大人達は坂の上の雲ばかり見ていて、肝心の足元なんかには思いも止めなかったのか、坂の下のどぶにこそ本当の歴史があるのではないかと、還暦近くなって生まれ育った地域社会の勉強をし始めた水車屋の息子としては一言も二言も言わずにはおれない。権力の無茶ぶりは昔も今も何等変わっていないのだ。

 

 

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