−水車物語1−





日本の公害問題の原点とされる足尾銅山鉱毒事件は、渡良瀬川下流に鉱毒溜りを設置するという遊水地計画で、鉱毒問題の強行解決を図りたい時の明治政府と、その為に廃村になる谷中村に居続け、村人に寄り添って生涯を閉じた反骨の義人田中正造の天皇直訴事件や川俣事件、足尾暴動や村民抵抗の事ばかり巷間伝えられるけれど、このいわば関東平野のへそのような所は、徳川家康の江戸入城後の利根川の東遷事業(そもそもが江戸扇状地の洪水をなくす為の大事業なのだが、所々に治水の不備があり、その為大雨が降ると川は渡良瀬合流地点で逆流するようになった。田中正造はそれを指摘し遊水地計画では治水問題の解決にはならないと主張した)や5代将軍綱吉が渡良瀬川下流右岸の館林藩領から出ているため、築堤は右岸守りに偏り、その左岸や上流地区は度々の洪水に襲われ続けた…等々、そしてそのずっと前から、浅間山の噴火土砂流出や洪水、溢水という自然災害と時の権力の暴力とによって翻弄され続けてきた所ではあった。

 

 

 

渡良瀬遊水地

 

 

明治政府は鉱毒問題を治水問題にすり替えて強引に村一つ潰そうとしている、と言うのが田中正造の主張で、事実あからさまな酷い権力行使が執行されたのは周知のとおりなのだが、誤解を恐れずに言うと、この明治時代に起こった公害問題が、この地方一体の水害問題をなし崩し的に解決していったのではないか、そしてその水害や旱魃に伴う地域間の水争い等も、多大な犠牲を伴ってではあったが、皮肉にも治水問題にすり替わった事で大局的には収めていったのではないかという気がする。結果オーライ。歴史は埋められた無邪気な100年かけて素通りする。僕はそれに歯軋りする。

人が生活するうえでの問題は、協定とか話し合いとかで纏めるのが理想ではあるが、この国では実際にはそんな事で解決した事などない。お上の一言で問題は起こり、お上の一言で問題は先送りされ、そうしてなし崩し的になるようになっただけか、なる途中であるか、だけだ。鉱毒は百年以上たった今もまだある、鳥も魚も以前のようには帰ってこない、ここにあった生活はもうない、ここは少し早まった未来だ。人間の描く未来図はいつも未完成なのに、自然はいつだって今現在が完成形だ。僕らはその間で揺れている葦だ。元に戻る自然という幻想は人間の宿痾のような強欲の裏の顔でしかない。

 

 

                   −5−