−水車物語6−





6.水車屋廃業の頃

 

1960年代に入り、水車小屋を取り巻く環境は大きく変わろうとしていた。

1962年、僕は10歳。前の年に第2室戸台風が来て、その2年前の伊勢湾台風に続いて、周辺より高台にあった僕の家の母屋でも、僕の知っている限り2度目の床下浸水になる洪水に見舞われた。床下浸水といっても実際は玄関土間の内廊下の縁まで水が来て、いろんな物がぷかぷか流れてきていた。水車建屋は屋根を残して沈んでいたし、僕の家の母屋と色づき始める前のイチョウの樹だけが突如出現した湖に孤立して浮かんでいた。伊勢湾台風の時は僕は二階で寝ていたのだが、朝、目が覚めると屋根が吹き飛ばされていて、青空をバックに父と村の若い衆が屋根の修理をしているのが見えたりした。第2室戸台風の時は、玄関軒下に水車小屋から避難させた馬が繋いであり、知らないで玄関を出た僕は危うく馬に蹴られそうになった。いずれの時も、次の日の朝は台風一過で良い天気になり、夜のうちに一家総出で畳上げした畳をそのまま盛大に干した記憶がある。

 

僕ら三人の兄弟は、親達の深刻な思いとは別に、学校を休める事(台風が来ると「下車」は大水で学校に来られないと学校側も了承していた)と、洪水時、臨時の舟に早代わりする裏の脇水路に架かる筏橋に乗り、竹ざお一本で、辺り一面湖に変わった田んぼや普段と違う林の中に繰り出すのが楽しみだった。じゃあ、それで学校に行けたのでは?なんて言いっこなしだ。橋が舟に変わるなんて、明智小五郎ならともかく少年探偵団には見破れまい。僕らは母屋玄関前の坂に棒を刺し、水がここまで来たとか、引いて来たとか、あくまでも無邪気だった。


父はこの二つの台風のそれぞれの後に、二つの決断をした。伊勢湾台風の後に村の農協に勤める事に決め、第2室戸台風の後に水車屋稼業そのものを止める事を決めた。

時代は高度経済成長期に入っていた。

一定の緩やかなリズムを刻んでいた水車動力は、人の思考力を奪って突き進むガソリン発動機や電動モーターに急速に変わりつつあった。早くて大量に生産する事を、所得倍増計画」の世の中は求めていたのである。最早小さな川水車の残る道はなかった。それにとどめを刺したのがこの2つの台風である。とりわけ伊勢湾台風の残した爪痕は大きかったと思う。この後、各地の農村風景はがらりと変わったのではないだろうか? 少なくとも関東平野は、なかんずく僕の家の周りの平野一帯は様変わりした。土地改良が加速し、田んぼの区割りや川の流れが変わる事で米作形態が個人から集団農法へと移行して行った。僕の家の水車を含め県南部の水車屋は基本的に個人相手の商売だから、必然として次々と廃業していく事になったのである。

戦争から帰ってきて13年、父は40歳になっていた。子供が三人、寝たきりの祖母、廃れてゆく家業と台風の後始末に追われる日々の中で、父は一つの決断をしなければならなかった。そして次の年の夏に祖母が亡くなると、父は水車建屋の周りに幾つもの花輪を飾り盛大な葬儀を執り行った。それを区切りに父は地元の農協に勤め出した。

 

 

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