−水車物語6− その伊勢湾台風で壊れた水車の修理に来た水車大工の手伝いに「太平さん」という人がいた。与良川下流、生井村の生まれで、一人だけいた身寄りを戦争で亡くした戦災孤児だったらしい。その人がその後、家の住込み雇い人になった。雇い人といっても賃金を払っている所を見た事がないから、要するにただの居候だったのだと思う。詳しい話は知らない。皆にあれは誰だと聞かれたがいつも説明に困った。父は世の中の流れで、水車屋だけでは食べて行けないと大分前から考えていた。土地改良計画の波も押し寄せてきていた。ただ、明治時代に父の祖父が水車経営の権利を買ってから三代目の自分で家業を潰す事になるのを躊躇ったのだと思う。そこにお誂え向きに「太平さん」が来て、水車屋稼業は母と「太平さん」に任せ、自分は給料取りになったのだと思う。 「太平さん」はその頃、30代の小父さんだった。こう書いていて不思議な気持ちになる。30代というが、子供の僕には“おじいさん”にしか見えなかったのだ。いつも僕の顔をみるとなにが嬉しいのか、日焼けした顔をくしゃくしゃにして「ウッホッホホ」と笑った。 母屋は玄関を真ん中にして、右側が住居、左側に倉庫を兼ねた農作業土間があり、その奥に「太平さん」の部屋があった。部屋といっても急遽建て増しされた小屋のようなものだった。畳と布団の他には何も無いおよそ殺風景な部屋だった。「太平さん」は着の身着のまま家に来て、そのままそこに寝泊りして仕事をした。吸込みという仕掛の鯉釣りと、花火を自分で打ち上げるのが好きで、その他には全く無欲な人だった。学校にはまともに行っていなかったらしく、字は書けないし、読む事も出来なかった。読み書きの必要があると小学生の僕や兄の所に来た。十歳位しか年の違わない父を「親父」と呼び、まるで僕らと同じ実の子供のように、頼りにしたり怖がったり反抗したりしていた。 しかし、その「太平さん」が手伝う水車仕事も段々少なくなっていった。元々、持込の精米等だけではそれほどの利益は上がらないので、遠方の村まで荷引きをして水車仕事の米や麦を確保しに行っていたのが、その水車屋のない遠方の村から必然的に普及した精米機械のために、急激に仕事が減っていった。近隣の村の人達は、僕の家の水車を便利にして使ってくれたが、ほとんどが各家で食べる分だけで、出荷する米や麦は農協組合が纏めて持っていくようになった。 いつしか「太平さん」は地元の土地改良の土方仕事にかり出され、水車仕事の方は母一人で細々と続けていく事になったのである。 第2室戸台風では水輪は壊れなかったが、建屋内の千本杵の一部や座敷部屋が流された。父は壊れた所を取り払っただけで修理をしなかった。馬小屋と座敷部屋の間の仕切り板が流されて、横木一本隔てて馬とヒトが顔を見合わせて暮らすようになった。 水車屋廃業の日。まず荒川の流れが変わった。脇水路の堰が外されると、水は脇水路を通って溜池へ向かい、反対に水車堀へ行く流れが止まった。母屋西の通路からシマへ行く堀に架かる橋が落され、埋め立てられた。堀の流れは断たれ水輪の回転が完全に止まった。 米作地帯の水車というのは米を基準に回る。稲の育っている間、水は田圃にまわす。だから秋の収穫が終わってから、田植えの為に田圃に水をいれるまでが、新米から精米という工程も含め、水車屋の稼ぎ時、水車の回り時なのである。冬、川に水が少なくなったからといって水車は回転を止める事はないのである。また、田圃に水をまわしても、夏場に水が枯れ水車が止まるというのは、無いわけではないが、よほどの旱魃にでもならない限りない。つまり修繕の時と洪水の時以外、水車は一年中回るのである。水車は止めると急激に傷む、止まらなければ十年持つと言われている。それだけにもう回らない水車を、西日を浴び冬枯れた建屋の壁に見るのはさすがに寂しかった。昼間、水溜りとなった水車堀の中に入り、僕らはワァキャア言いながら魚取りをした。その時使った網とかバケツが泥だらけのまま、水車の沈黙と一緒に辺りに放置されていた。 次の年の正月までには水輪が外され、水車堀は完全に埋め立てられた。荒川は脇水路が本流となり、水車建屋はただの藁葺き小屋になってしまったのである。
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