−水車物語4− 4.「主(ぬし)」 僕の最も古い記憶、つまり物心ついて最初の記憶は、水車堀の水輪の対岸のシマに十本位の桃畑があって、僕は一個の桃を両手で持ち、回る水車を見ているというものである。水輪の架かる水車堀の両岸は大谷石を積み上げて作ってあり、その石の上で猫がなにかを狙っていた。見ると対岸の水輪の土台の石の上を一匹のヘビが動いている。僕はその後、手に持っていた桃を水車堀に落としてしまう。桃は水輪の棚には入らず堀の側面との隙間に浮かんでいた。と、そこで記憶は途切れる。普通なら落とした桃を取ろうと堀に落ちる所だが、落ちた記憶は無い。誰かそばにいたのだろうか? 水車小屋は藁葺き屋根で冬暖かく夏涼しい。そして勿論水場である。その上、穀物を扱う為、たくさんの餌となるネズミがいる。という事で、冬眠するにも子育てするにもヘビにとっては理想的な棲家なのだ。よく母屋高台囲みの石垣や水車建屋の中の梁を渡っているのを見かけたけれど、家族にはそれほど忌み嫌われてはいなかった。水車屋にとってヘビはネズミを食べてくれる益獣なのだ。でも、そうは言っても、ネズミを追って僕らが生活する母屋にまで出没して、寝ている頭の上やご飯を食べている台所を這いずり回られるのはあまり気持ちの良いものではなかった。そこで最初の僕の記憶に出てきた猫が活躍する事になるのだが、猫はネズミもヘビも食べる。そして食べる前に、得意げに獲物を銜え、家の者に見せに来る。母は、ネズミを取ってくると「よしよし良くやった」と褒め、ヘビを銜えてくると「だめだめ、それは取ってきちゃだめ」と言い聞かせていた。ある時、家の者が居なくて僕一人の時に、猫がヘビを銜えてきた事があり、僕が母のまねをして「だめだめ」と言うと猫は僕をじっと見て「お前では話にならん」とどこかへ行ってしまった。
水車建屋の屋根裏二階は物置になっていて、季節毎に使用する農具や藁束や莚、縄、それに水車道具のベルトや歯車が置いてあった。この二階に上がるには急角度に立てかけられている梯子しかなく、本やおもちゃなど物を持って昇るのが子供には結構な冒険だった。ただ、それを犯すだけの十二分な価値がここにはあったのである。 床面は分厚く敷き詰めた杉の板の間で、板と板の隙間から、下の馬小屋でじっと外を見ている馬の姿が見えたりした。そして、建屋内作業場の方を見渡すと、中央にこの建屋を支える太い主柱が天井まで伸び、それに絡んだ梁が裸で縦横に組んであるのが見えた。梁には大小の歯車から伝わった動力を様々な回転に変えるシャフト・フーリーが取り付けてあり、そこから何本ものベルトが下の製麺機や自家発電機(といっても小さな電球1個分位の発電力だったと思う)などに渡してあった。 建屋内の壁には、洪水の時に作業場の機械や道具を緊急避難させる為の棚があり、各柱には、軽い道具類を吊るして非難させるロープが何本も垂れ下がっていた。馬車の車輪など前回の洪水の時のままに吊ってあるものもあった。
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