−水車物語3− 3.木立を抜けて僕らの王国へ 荒れた里山の話がでたので、ここでもう少し詳しく報告しておこう。なんといってもここは僕らの王国だったのだから。 荒川は前にも書いたように荒川水門(僕がこの文章の為に便宜上勝手に名付けたもので、与良川から荒川への水路取入れ口のことである。水門に名前があるかどうか知らない)から大きく400mトラック半分位の曲線を描いて僕の家の水車にたどり着く。家の母屋裏は水輪まで直線コース50mくらいの流れになっている。その直線に入る前の最も大きく曲がる所に小さな雑木林があり、僕の家から村へ向かう一本道がその林に沿ってあるのだが、この林は防風林ならぬ防水林の役割もしていた。大水が出た時は川のカーブに沿って水は流れないで稲田に直接溢れて、その勢いで稲をなぎ倒してしまう。それを防ぐ為に蛇行する川などの要所に雑木林がある。倒れて水に漬からなければ稲は案外強い。長年の経験から来る知恵であり、想定内の防災対策なのだ。当然、水の工場である水車小屋の周りにも洪水を想定したそういう林が沢山あるというか、そういう雑木林や竹林などに囲まれている。 そのひとつ、家の水車の南側から二つの川に挟まれて大きく広がる里山は、春から初夏にかけては周りの平地の水田の中に、より鬱蒼とした影を映してかなり遠くからも見分ける事が出来た。秋冬には露わになった大地の一画に、荒れて手付かずの木々や枯れた叢が一山残った。 家の西側にある三つの水門の一つ、新荒川口水門から流れてくる新荒川の流れと並走してわが荒川は流れている。新荒川は両岸が高さ4m、幅2mほどの土手になっていて、家の前 の道から続く坂を昇り、川に架かる土橋の上からじゃないと川の流れは見ることが出来なかった。荒川の方は水車堀に流れ込み、下車の水輪を回転させる仕事を終えると坂の下をくぐり、という事は新荒川土手の下を最初は新荒川と並走し、ゆっくりと蛇行し、膨らみながら僕らの王国である里山の縁を周り下っていくのだ。
荒れた里山と言ったが、確かにこの雑木林は手入れをされた事がなかった。ここから先、主に新荒川の「新」からくる僕の勝手な想像だけれど、渡良瀬遊水地のところで述べた地域一帯の治水事情から推察すると、新荒川は鉱毒騒ぎの後に出来た川ではないだろうか? 近隣地域との協定で土手や堤を作る事がなかなか出来なかった荒川は、その代わり里山や雑木林を作るというか利用する事で洪水の流れを緩やかにさせ、稲田を守っていた。そして時代が変わり、治水のための土手や堤を作る事が出来るようになった事で与良川の流れを分散し て下流に流せるようになった。それが新しい川、新荒川だったのではないだろうか? だから結果的に新荒川と荒川に挟まれる事になったこの小さな里山は、その本来の役割を終えて放置されていたのではなかろうか? 川岸の草刈りや冬場の土手焼きなど、村の人達は季節の作業を怠りなくやる。収穫に直結するからだ。里山の手入れなどは真っ先にしなくてはならない筈だ。けれど手入れをしなくなった事で、山全体でいうと竹藪や草が蔓延りジャングルになっていった。そうして日の光が当たらない林には、新しい樹木は殆ど育たなくなっていた。山は年々やせて朽ちてゆくばかりだった。
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