−水車物語2−
記憶の断片だけをこうして並べているとなんだか夢の中の出来事のようだ。建屋の中で水車が回っているというのはあり得ない事ではなく、地方によってはそれが主流になっている所もあるのだが、この地域は毎年必ずと言っていいほど洪水になるのに、その度に家ごと流される危険があるような建屋造りをするだろうか? 水車掘には普通、流れを逃がす脇水路、いまならバイパス水路とでもいうべき迂回水路があり、水輪が流れで壊れたり、建屋が流されたりしないような水路設計がされてはいるはずだが、それにしてもわざわざそんなリスクを負ってまで家の中で水車を回すメリットはないと思う。けれど、水路や水車の構造はそれぞれ違っているので、僕が根本的に思い違いしているだけなのかもしれない。ただ、その時はあまりに家の水車と違うのでびっくりし、ランプの灯りの下、水の流れがゆらめきながら段々井戸を下っていくのが非常に涼しげで新鮮な気持ちがした事を覚えている。僕にはそれが大事で、本当はどういう水車だったのか確かめる手立てがなかった訳ではないが、やめた。
下車の話に戻ろう。 いつだったか池袋の古書市で購入した栃木県都賀地区の古地図に、僕の家の水車記号が周りの水田記号に囲まれてポツンとあるのを見つけて一人で盛り上がった事がある。この「水車物語」を書いておこうと思った時、その地図を家中狂ったように探したが、見つからなかった。たった一つの記号なのだが、たくさんの情報がそこにはある筈なのだ。まず、時代は明治か大正か、そのどちらかだったと思う。陸軍の地図だったという事は覚えている。水車記号にしても年代によって少しずつ変化しているので、それも貴重な資料になる。仮に明治なら足尾鉱毒事件が発覚する前なのか、後なのかによっても地図の見方がかわる。この場合、軍の地図だというのがミソだ。もともとこの鉱毒事件は政財軍のトライアングルが引き起こした事件だ。なにしろ日露戦争に勝つか負けるかという時代だ。軍にとっても、というか軍の戦略にとってこそ足尾の銅は重要だった筈だ。それに荒川の水車権利を得て曾祖父が水車を造ったのか、それとも先に水車があったのを買ったのか、その辺りの事情も与良川、荒川周辺の地形の変化等により何か分かる事があるかも知れない。それに与良川・荒川水系の水車は比較的近い地域に三軒あり、記号が目に付かない訳はないと思うのだが、記憶では一つしかなかったと思う。家の水車屋が繁盛していたので、後の二軒が作られたのだろうか? それとも身内の事しか見えない、見ないという単なる見落としだったのだろうか。
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