−水車物語2−





僕の村にはもう一軒、同じ与良川の流れを利用している水車屋があった。僕の家の400mほど直線上流にあり、村ではそちらを上車(かみぐるま)、僕の家を下車(しもぐるま)とよんだ。だから僕は「下車の大将」という訳だ。上車は当主の名を取ってマッツァン水車と呼ばれていたが、僕はそのマッツァンも水車も見たことは無かった。兄と同い年のマスコという女の子がいたが、ひどく恥ずかしがりやで100m以内で顔を見たことが無かった。一本道の向こうにマスコを認めても、彼女は必ず回れ右をし、迂回路まで戻って遠くに曲がってしまった。お互いに村はずれの一軒家で、どういう訳か行き来は無かったが、村で電気が通っていないのはこの二軒だけだったので、僕はマスコの事が他人の様には思えなかった。小学校の六年生の時に初めて家に電気が来たのだが、マスコの家から有線電話がかかって来て、マスコの祖母が、電気の明かりはこんなにまぶしく明るいものかといって泣いていた。僕の父が電線の延長を市役所に掛け合い談判し、上車の分まで骨を折った事に対するお礼の電話だったが、僕は受話器の向う、祖母の傍にいるのであろうマスコの喜んでいる顔をおぼろげに想像して幸せな気持ちになった。


マスコには僕なりの後日談がある。

僕が中学二年生の時、地元の高校の演劇部が全国大会で入賞したとかで、がい旋公演を見に行った事がある。その高校の秋の文化祭の目玉で、劇中にキスシーンがあるらしいというので一部のマセた級友達の間で話題になっていた。そしてそのヒロインがどうもあのマスコらしいというのだ。僕は級友達と町の高校に向かって自転車をこぎながら混乱していた。          

「あの恥ずかしがりやのマスコに、いったい何があったのか?」

劇は「桜の園」。満員だった。級友の一人の自転車がパンクして開演に遅れた為、立ち見席しかなかった。講堂のうしろからでは顔を確認する事は難しく、それに出演者全員やたら化粧の濃い芝居だった。ただ、初めて聞くマスコのアーニャの声は、他の出演者の誰よりも張りがあり、講堂の後ろの方までよく通った。僕はその理由を知っていた。そして劇の終幕の桜の木を切る斧音を聞きながら僕は泣いていた。僕は自分が何故泣いているのか分からなくて戸惑った。もともと泣けるシーンなどほとんどないのだ。「没落貴族の悲劇」とは反対にどちらかといえば若いアーニャとペーチャの未来に向かう恋愛をメインにした演出で、カラッとした芝居になっていた。原作のどこにそんなシーンがあったのかなと思うほど大笑いさせたりしたのだ。そんな会場の中、僕だけ微妙だった。最初はマスコが登場する度よく分からない感情が湧き、しだいに抑えられない嗚咽が込み上げてきた。級友達には絶対見せられない醜態だったが、僕はその感情から逃れられなかった。

 

 

 

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