●「リボンの騎士」
「アトム」の終了後、新番組「リボンの騎士」が製作開始となり、
坂口尚三が演出に転出、私は原画に登用されました。
(DVD−BOXより・九里一平画)
虫プロでは、なぜか●「アニマル1」という、
手塚治虫作品ではないものも制作しました。
フリーとなっても●「アンデルセン物語」の原画を受注したりで、虫プロの仕事は続けます。
「ムーミン」では作画監督込みで原画を丸々1本個人受注するというようなことを数ヶ月続けました。
かなりムチャです(笑)。お金にはなりますが、3本でギブアップ!
そんなとき、演出をやらないかと監督のりんたろうさんに誘われたのでした。
アニメーターから始まる、私の番組との関わりの歴史をば、ざっと…
「ムーミン」や「ビッケ」そして「アルプスの少女・ハイジ」などの製作会社、ズイヨー映像が企画した
サンタクロースとトント(妖精)の物語が●「森のトントたち」です。
●「新・みなしごハッチ」
絵コンテ・演出でのタツノコ復帰です。
もっとも、フリーの一外部スタッフですが。
●「鉄腕アトム」
社内の作画体制が再編成され、坂口班は「ジャングル大帝」から
「鉄腕アトム」に移動となりました。
最終回のスタッフタイトルに初めて名前が載ったのが嬉しかったなぁ…
高校時代の友人である坂口尚三の誘いで、
’66から虫プロに移り、
●「ジャングル大帝」に参加しました。
勝井千賀雄演出・坂口尚三原画班に所属、
動画を担当しました。
●「小さなバイキング・ビッケ」
「ムーミン」が終わり、勝井さんが監督となった「小さなバイキング」に参加します。
制作集団が立ち上げられて、それにフリーで参加するという立場でした。
シリーズの途中で監督が交代となり、私も抜けることになりました。
前期26話の内、5本を演出しています。
「小さなバイキング」の制作デスクだった男がグループ・タックに移り、
私に新番組のスタッフに加わらないかと声を掛けてきました。
そこから●「まんが日本昔ばなし」「まんが偉人物語」「まんが子供文庫」
との関わりが生まれます。
●「あしながおじさん」
グループ・タックを離れ、仲間たち7人と制作1人でメルヘン社というスタジオを設立します。
タツノコプロがご祝儀?で私に映画を発注してくれました。
ヘラルドが企画の親子映画「あしながおじさん」です。
これにはミュージカルアニメーションと銘打って、7曲の歌が挿入されました。
曲に合わせたアニメーション作画に苦労しましたが、楽しい仕上がりになっています。
その数曲をカットした短縮バージョンが、TVスペシャルとして放映されました。
声の出演は田中裕子と米倉斉加年。
このポスターデザインは私です。
フジテレビ系列で放送された「森のトントたち」は
「パソコントラベル探偵団」と同じスタジオ・シャフトのグロス受注で制作されました。
キャラクターデザインをスタジオ・アローの白梅進さんに依頼しています。
フィンランドに行ってみたかったなぁ…
でも、寒いのは苦手(笑)。
内容は完全オリジナルなので、伸び伸びと制作を楽しみました。
この後、DIC(のちC&Dと改称)という海外との合作アニメを制作する会社と
個人専属契約を結びます。
●「リアル・ゴーストバスターズ」「ポプルス」などアメリカのネットワークや
シンジケーション番組のアニメーション・スーパーバイザー&ディレクターを
現地(LA)で担当。
アメリカ人に混じって私も絵コンテを切りました。
●「シンデレラ」「ヤンボウ・ニンボウ・トンボウ」「忍ペンまん丸」などの番組で
各話演出を担当しつつ、マンガ単行本の執筆も…
●「どろろ」
これは当時の作画監督・北野英明さんの絵をトレスマシンにかけたものです。彩色前のセルですね。
私はこの作品が終了したところで虫プロを退社します。
僅か3年半の在籍でしたが、青春真っ只中!濃密な体験は貴重です。
引き続き●「森の陽気な小人たち・ベルフィーとリルビット」というタツノコの番組で、
絵コンテ・演出・各話作監を担当。
その後、メルヘン社を退社して再びフリーとなります。
タツノコのシリーズ●「とんでも戦士・ムテキング」などを手伝っていると、
また監督の声がかかりました。
それが●「アニメ親子劇場」「トンデラハウスの大冒険」「パソコントラベル探偵団」
のアニメ聖書シリーズです。
バラエティーに富んだ内容で、どれもが面白く、
猫好きにはたまらない番組です。
特に「擬人化モノ」を作るのがムチャクチャ楽しかった。
☆「どろろ」「千夜一夜」こぼればなし
これはNHK教育で人気を博した子供向けお料理番組「ひとりでできるもん」のアニメキャラクターです。
私のデザイン。主人公の舞ちゃんとの絡みや単独でのアニメもあって、私も作画を楽しみました。
から
まで
●「ムーミン」
正しくは、東京ムービーから虫プロに制作が移っての
「新・ムーミン」なのですが、この20話の絵コンテを切ることになりました。
初めての演出に張り切ったは良いものの、りんたろうさんに徹底的に朱を入れられました。
原画を描いているときは、絵コンテに文句をつけてばかりいた私ですが、いざ自分がやってみると、そんなに易しいものではなかったのです。
「ママのハンドバッグ」と改題され、無事’72・5・21に放映されました。
実はこの日は、ちょうど私の結婚式当日だったのです。
式は昼間だったのですが、夜の披露宴会場にテレビを持ち込んで、皆で放映を見たのでした。
田舎の伯父さんが「バンザーイ!」と(笑)。
31話「おかしなケンカ」と40話「やぶれた絵本」計3本の演出を担当しています。
●「ホワッツ・マイケル」
C&Dが初めて国内の番組を受注するということで、
私が監督を請けることになりました。
週刊「モーニング」(講談社)に連載の小林まことの
人気マンガ「ホワッツ・マイケル」がそれです。
テレビ東京系列での放送。
●「ゴールFH(フィールドハンター)」
NHKの「衛星アニメ劇場」の最初の作品です。
C&Dから別れたイメージ・Kという事務所の制作。
私は監督を途中で降板し、各話担当の立場で参加しています。
発足したばかりのJリーグが後援、「清水エスパルス」の
サテライト(下部チーム)が舞台という、
寺島優のオリジナルストーリーです。
●「ひとりでできるもん」
画像は主題歌集のレコードジャケット。
デビュー間もないころの山瀬まみが歌っています。
番組開始時には声優(加代子役)も務めました。
●「パラソルヘンべえ」
引き続きC&D制作。
今度はNHK初の毎週夕方(月〜金)のアニメ帯番組。
藤子不二雄A原作。
講談社はこのマンガ連載のために「ヒーローマガジン」
という雑誌を創刊しました。
監督は私ですが、200話(殆んどがオリジナルストーリー)も
制作するということでシナリオ作りにも参加、ペンネームは「狭山太郎」。
ヘンべえの声は中村メイコです。
各話のゲストキャラクターデザインを担当したのは、
鈴木伸一さんです。
●「トラオが行く」
某政治家の長編(自伝)アニメ。
親しい友人のスタジオが制作を受注したことで監督を引き受けました。
この作品の完成を最後に、アニメの現場から去り、マンガ執筆に専念することとなります。
●「千夜一夜物語」
虫プロ最初の大人向け劇場用長編アニメで、アニメラマと名付けられました。
筆舌に尽くし難い壮絶な制作状況を経て完成。
月の残業が400時間!!!
最後には、動画も彩色仕上げもやり、身も心もボロボロ…
私は盗賊たちの戦いのシーンなどの原画を担当。
まだまだ下っ端のアニメーターです。
アニメーターとしてのスタートはタツノコプロダクションの
第一回作品「宇宙エース」です。
1965・5・8〜1966・4・28
フジテレビ 毎週土曜夜6時15分〜45分(全52回)
入社した時、たしか第5話の作画が進行中でした。
2003・2・6の虫プロ大同窓会での名札です。
(当時発売されたレコードジャケットより)
(主題歌集のレコードジャケットより)
☆総本舗に
これは誰?
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