2016/9/14更新 





燃えよ拳


 11日の北斗カップでは、講士館からも少年少女拳士が出場し日頃の稽古の成果を試した。みな着実に成長している姿が見れて非常に嬉しかった。なかでも4年Aクラスの部門では、講士館の二人が決勝を争って大人顔負けの白熱した好試合を展開し2年連続のワンツーフィニッシュとなった。この二人はタイプはまったく違うものの、お互いにしのぎを削り合う良きライバルとして、これからも成長し続けてくれるものと確信している。
 好敵手の存在は、絶対的に必要である。負けたくないと思う相手がすぐそばにいることで、技の磨き方にも熱が入り、日頃から闘志を熾火のように燃やしておくことが出来る。優勝したS君は特に闘志を前面に出すことが出来る素晴らしいファイターであるが、闘志を相手にぶつけるのはそう簡単なことではない。しっかりとした技術とそれを支えるスタミナがなければ空回りしてしまうのだ。ただ勝ちたいという思いだけでは力をぶつけられないのである。
 良い部品で作れば良いものが出来る。良いものは闘志というエネルギーを完全に燃やし尽くしてくれる。心と技術は常にバランスよく成長することが大切なのである。
                    2016年9月14日




見つめる鍋は煮えない


 最近読んだ本の中に「見つめる鍋は煮えない」という外国の諺が引用されていた。この本では新しい発見や研究を完成させるためには焦らずにじっくり時を待つことも大事だという意味のたとえで、煮えたかな、煮えたかなと鍋の蓋を開けて覗き込んでばかりいてはなかなか完成するものではないというような内容が書かれていた。それを読んで、運動においても同じことが言えるな、と思った。思考の土台は知識であり、運動の土台は体である。柔軟な体としっかりした基本が空手の土台となり、向上心と良い見本があれば着実に成長してゆく。ただし教わった技をすぐに身につけ、さらに使えるレベルまで持って行くのは大変な努力と繰り返しの稽古が必要なのである。勘のいい人間は技をなぞるのは比較的早く出来る。しかしそこで身についたと考えてはいけない。鍋でじっくり煮込むような、熟成させる期間が必要なのだ。空手の技を体で覚えるには、バランスよく体を動かすまでの第一段階があり、相手に当たるようにする、という第2段階があり、相手の動きに無意識に反応する、という第3段階がある。技の性質や段階によってかかる時間は人それぞれであるから、人と比較しても意味がない。まだ出来ない、まだ出来ない、と焦っても良い方向には進まない。技というものはひとつ身につくことで枝葉が伸びるように反応する幅が広がるから、即席にいろんなことを覚えるより、じっくりひとつのことを黙々と繰り返すことが大切なのである。
 諺はたとえを通して自分を見直し、反省もさせてくてくれる。私は煮るような料理はしたことがないが、空手指導においてこの言葉はあらためて勉強になった。
                    2016年8月15日




一度きりの夏


 毎年八ヶ岳で行われる夏季合宿では、夜空に天の川が見える。あいにく今年は曇り空だったため完全な暗闇になってしまったが、ここまで暗い夜も久しぶりであった。テレビは無いし新聞も見ないから外からの情報は入ってこない。まさしく空手漬けの四日間となるのである。
 もちろん空手の上達がメインテーマなのだが、それ以上に自然の中で団体生活をしながら、夏ならではの様々な行事を通して仲間と苦楽を共にし、身につけるものすべてに価値がある。合宿で覚えた新しい型を、忘れないよう仲間と一生懸命繰り返す子供たちの輝く瞳と素晴らしい気合は、ただ稽古を通して身につけたものとはひと味違う深みがあるように感じるのである。
 思い出すことはそれぞれだろう。型を覚えてゆく喜び、初めて会う仲間との組手、蹴られた痛み、虫の声で目覚める朝、演芸会の出し物の苦悩、マラソンの苦しさ、賞品をもらう嬉しさ、割ったスイカの美味さ、みんなとする花火の美しさ、きもだめしで泣いちゃったこと、ゲロ吐いちゃったこと、笑ったこと、怒ったこと、感動したこと…。
 恒例行事の合宿だけど、2016年の夏は一度きり。いつも新鮮で充実した合宿が無事終了し、私としては夏が早くも終わったような気分である。
                     2016年8月6日




おまめ事件


 私の生徒のA君は、高校時代国語のテストで「小豆」という漢字の読み方を、熟考の末「あずき」と書いた。隣に座っていたのはやはり私の生徒のB君である。A君は何気なく隣のB君の答えを見た。B君の解答用紙には「おまめ」と書いてあった。A君は迷った。あずきかおまめか…。考え抜いたあげく、A君は自分の答えを消し、「おまめ」と書き直して提出したのだった。
 私がその事を知ったのは、道場で二人が言い合っていたからである。A君は「お前がおまめなんて書くから俺まで間違えた」と言えば、B君は「カンニングするお前が悪い」と言い返す。あまりにレベルの低い争いではあるが、やはりここはA君が悪いのである。自信がないから人の答えに惑わされるのだ。
 型の審査の時、せっかく正しい動きをしていたのに隣の人の動きにつられて間違ってしまう生徒をたまに目にする。型の審査においては間違えたら不合格となるからこれは大きな失敗となる。審査のあとで昇級できなかった生徒同士が言い争ったかどうかはわからないが、大事な事は人に惑わされず自信をもって出来るよう、準備を怠らないようにしてほしい。
 A君はその後大学に進学したのち、教職課程を修了するまでになった。おまめ事件がバネになったのだとしたら、人生はどう転ぶかわからないものである。
                     2016年7月18日




人間宇宙


 昔、ある推理小説に、その人を見るだけで過去に何をしたかを見破ってしまう探偵が登場する物語があった。その探偵は生まれ持った特殊能力で、犯人がどこにいて何をしたかを当ててしまう。ところがそれを証拠として証明することが出来ないため、いつも犯人逮捕は別の人間の手に委ねることになるのだった。
 近い将来、それとほぼ同じことが科学で証明されるようになるらしい。例えば殺人事件が起きた現場に誰がいたのか。今までは指紋とか足紋とか、残された痕跡を探すことで立証しようとした。ところがこれからは、その場所の空気を集めて調べるだけで、誰が、大体いつ頃、そこにいたのかがわかるようになるのだという。
 これは、人は誰もが目に見えない膨大な微生物を、オーラのようにまといながら生きていることが判明したからである。そしてあらゆる場所にその「雲の断片」を残してしまう。特殊能力の探偵の言葉は証拠にならなくても、この「断片」は科学で立証される日がいずれやってくるという。
 それにしても、もしその微生物の大きさから物が見えたなら、人は宇宙のような存在に見えるのではないだろうか。空手の試合などは、さながら星雲どうしがぶつかりあっているような、壮大な景色に見えることだろう。
 生命活動が終わると、その周りに漂っていた無数の微生物も死に絶え、消えてゆく。
 人の命は、想像を絶する量の生命とかかわっているのである。
                     2016年6月21日




トラブル


 愛犬のナツを病院に連れて行った。皮膚の状態が非常に悪く、毛が随分抜け落ちてしまったのである。時間が無かったのでバイクに乗せて行った。足の間にガシッと挟み込み、動けない状態にして走る、いつものやり方だ。
 病院の中の待合室には数匹の犬と、同じ数のおばさんがいた。小さな毛並みの良い、一目で室内犬とわかる上品な犬たちである。おばさんたちはまるで赤ん坊をあやすように自分の犬を抱きながら、お互いの犬を褒め合っていた。苦手な雰囲気だったので、ナツと部屋の隅に行き、誰とも目を合わせないようにして待った。
 さて、事件は診察を受けて薬をもらい、病院を出たところで起きたのである。外で待っていた大型犬に驚いたナツが暴れ、その首がズボッと首輪から抜けてしまったのだ。アッと思う間もなく、ナツは一目散に走り去っていった。目の前はかなりの交通量の道路である。すぐにバイクにまたがって追いかけた。姿は見えなかったが勘で追う。走るうち不自然な渋滞に巻き込まれた。嫌な予感は的中するものである。予想通り、車道の真ん中にナツが立ちはだかり、渋滞の根源となっていたのだった。私はバイクを降り、車の間を縫って近づいて行った。ちょうどその時、先頭の車から女性が降りてきてナツをどけようとした。ナツがそっちに気を取られた瞬間、私は静かに間合いを詰め、一気に飛びついてナツを確保したのである。
 汗だくになるわ服は破れるわ、それでも一発勝負を制したことにわずかな達成感を感じつつ、ナツを足に挟んで帰路についた。一つ間違えば大惨事になりかねないトラブルであったが、とりあえず無事に済んで良かった。
                      2016年6月4日





 昭和の大横綱大鵬は、心・技・体、という3つの化粧まわしを用意し、横綱土俵入りの際に太刀持ちと露払いの二人に「心」と「体」をつけさせ、自分は「技」という文字の入った化粧まわしを好んでつけた。
 心・技・体という言葉はよく使われるが、一般的に「心」を最も重要視する向きが多い。体を動かすのは心であるからこれも当然ではある。もちろん勝負を決する要因はひとつではないし、根性や勇気や体力は絶対必要だ。しかし、そうしたものは一流の選手はみな備えているのである。根性勝負も、体力勝負も、もちろんたやすくはない。身を削るほど大変は労力を要するだろう。しかし、そこで一頭地を抜け出すとしたら、やはり「技術」で差をつけることが重要なのではないだろうか。技術といっても、空手で言えば単に蹴りが早いとか、変化が多彩とかだけではない。間とタイミングも大切な要素である。
 おそらく、技術を進歩させることは最も難しい。心や体はそれぞれ一からたたき上げるものだし、刻々と変化する現状をそう考慮しなくても指導することは出来る。だが、技術は先人の残したものを踏襲できる代わり、少しでも目が曇ると取り残されてしまうことがある。だから特に、過去に実績のある人ほど自分の尺度を曲げたがらない傾向があるから、そこは注意すべきだろう。
 「心」や「体」と比べ、「技」にはクールな響きもある。しかし人一倍情熱がなければ進歩させることは出来ないのだ。
 ここにこだわっていきたい。
                     2016年5月5日




親父とハンバーグ
 小さい頃、ハンバーグは一番のごちそうだった。ハンバーグと言っても、袋に入った焼くだけのマルシンハンバーグである。すごく好きだったのだが、たまにしか食べられない。しかもひとつ全部自分のものにはならなかった。そんなとき、母が私に一つ丸ごと焼いて出してくれたことがあった。小さな皿に、三つに切ったマルシンハンバーグが乗っていた。私は感激し、丁寧にソースをかけて食べようとした。すると、横で晩酌していた父が、「なんだこれは?」と言って、真ん中の一切れを箸でぶすりと刺し、一口で食ってしまったのである。
 どれほど落胆したことか…。私は座ったまま、涙をぽろぽろとこぼした。それを見ていた母が「なにしてんの、こどものでしょ!」と父をたしなめた。父は泣いている私を不思議そうに眺め、「男がそんなことで泣くな」と逆に怒りだしたのだった。
 こんなことをはっきりと覚えている。父は元々あまり空気を読まない男だったが、優しい人だった。でも、してもらったことよりこんなつまらない出来事に、はっきりと父の記憶が残っているのである。最近、男ってそういう運命なのかな、と思うことがたびたびある。
 男の優しさは、遠回りすることが多い。逆に不器用な部分ばかりが伝わる。誤解されたら誤解されたで、言い訳することもない。損する役回りが多いのである。
 今でもマルシンハンバーグは大好物である。いつも冷蔵庫に入れてあり、時々焼いて食べる。焼きながらいつも思い出す。あの時の感激と落胆。子供のおかずを、しかも真ん中を一口で食いやがって…。親父のバカ…。あの時の親父より年上になった私は、何故かそう思いながら、あの時とはまた違う感慨に浸るのである。
 父ちゃん、ごめんな。まだ思い出すんだよ。
 あまりいい思い出じゃないのにさ。
                     2016年4月21日




遺伝子を変える


 白髪の原因となるいくつかの遺伝子が判明したらしい。この遺伝子に働きかける薬を投与することで、白髪は黒髪にと変わってゆくのだという。
 様々な問題が、遺伝子レベルで原因解明、そして改善へと向かう時代を迎えている。人類はそう遠くない未来、現在ある病気のほとんどすべてを撲滅させ、ハゲや白髪の悩みは無くなり、ブスもデブもいなくなり、遺伝という系譜は断ち切られてゆくことだろう。
 若い頃にそういった情報を掴んだら、私は必ず空手に活かせるかどうか確かめたと思う。例えば2メートルくらいの身長になれたら、足の筋力を腕に持ってこれたら、スピードを2倍にすることが出来たら…。努力では到達できない場所まで行ける方法は夢の中の話だった(まあ冷静に考えれば、みな同じことをするだろうからまったく無意味なのだけど)。
 いずれにせよ、科学の進歩に人間のモラルが追いついて行かない限り、とんでもない事態に発展する恐れもあるから、しっかりとした監視は必要だろう。
 白髪の薬が出来たとしても、私は使わない。
 親からもらった遺伝子の白髪も、なかなか捨てがたいものだからである。
                     2016年4月13日




合同稽古


 4月2日の第31回ポイント&ノックアウト全日本空手道選手権大会において、閉会後に行われた流派不問の合同稽古で、古希を迎える佐藤勝昭佐藤塾塾長の号令のもと、約200人ほどの空手家たちが共に汗を流した。事情がありこの大会から遠ざかっていた私であったが、今回10年ぶりに代々木体育館を訪れ、約束通り空手着に袖を通したのである。
 開会式前、佐藤塾長や、佐藤俊和先生、岸先生、筒井先生たちとの久々の対面には、こみ上げてくる涙を抑えることが出来ず、共に同じ道場で拳を交えあった仲間たちとの再会にも、手を握るだけで多くの言葉は出てこなかったが、私にはもう充分であった。稽古前には大西や川北といった後輩たち、徳昭君ら現役選手たちとも挨拶を交わし、束の間の時間でも幸せであった。やっぱり、空手家は空手着になると、様々なしがらみや肩書や境界を越えて、純粋な一稽古生の頃に戻れるのだなとしみじみ思った。
 稽古が始まる直前、最前列の中央に位置した私は原田先輩を探した。斜め後ろで柔軟をしていた先輩を見つけ、「先輩!横に来てください」と叫んだ。先輩はぶつぶつ言いながらも横に来てくれた。私と原田先輩は塾長の指示をまじかで受け、号令もかけた。30年前、第一回大会で戦った尊敬する原田先輩。その後いろんなことがあったけど、この同じ代々木第2体育館で一緒に稽古していると、なんだか人生の縮図を体験しているような不思議な感覚に包まれた。かつて本気でぶつかり合った人たちと、何のためらいもなく声を掛けあい、肩を組み、笑いあえる。30年という時間が、その間の様々な出来事が、まるで一瞬の花火のようにキラキラと瞬いて消えてゆくようであった。
 もう二度とこんなことはないだろう。でもそれでいい、と思った。
 500本に満たない突きであったが、それでもう充分だった。
                     2016年4月5日




中西さとし先輩


 私が空手の選手としてピークにあった頃、当然のことながら道場の中に相手になる選手はいなかった。松井選手(現・日本国際空手協会代表)は道場より、中野サンプラザのトレーニング場で会うことの方が多かったし、私が任されていた文京道場の生徒たちはまだまだ育っていなかった。そんな時、体を張って練習台になってくれたのが中西先輩である。
 剣道の胴と面をつけ、私の攻撃を受けてくれた。後から聞くと、何度も嘔吐を繰り返しながら耐えてくださったのだという。思い返すたび、感謝で胸がいっぱいになる。
 その中西先輩が今年の参議院全国区の比例区に自民党より立候補する。地元の高地に帰ってから、市議、県議を経ての国会挑戦である。講士館の特別顧問も務めて下さっている先輩は、土佐っ子らしく豪快で明るく、親しみやすく頼りになり、質実剛健を貫く私の最も敬愛する先輩である。顧問の項の写真を見ても分かるように、先輩は眉も目も鼻も口もすべて豪快で大きい。空手の稽古の際、ヘッドギアが入らなかったという逸話が残っているほど大きな顔である。だが、坂本竜馬にしても西郷隆盛にしても、歴史に残る人物はたいがい大きな顔をしていたというから、これは傑物の証であるとも言えるだろう。遠くからでもはっきりわかる顏、常に堂々とはっきりものを言う剛直な気質、先輩はいわゆる≪持っている≫男なのである。
 こんな強さと優しさを併せ持った中西先輩の様な方が、日本の政治に参加出来ることを心から願っている。
                     2016年3月19日




神様が切った乗車券


 桜の花びらの小さな切込みは、神様が切った人生の乗車券だと書いた人がいた。そう思うと、悲しみに落ち込んだり希望を失った時も、舞い落ちてきた小さな花びらに「さあ、少し休んでまた歩き出そうよ」と励まされているように感じることが出来る。
 東北大震災の時、被災者が配給される食糧を受け取るために並んだ。食料を受け取った被災者は、当然のごとくそれを老人や子供に手渡し、自分はもう一度最後尾に並んだ。その光景を映した映像を見て、世界中の人たちは驚いたという。日本人は感情をあまり表に表わさないと言われることが多い。曖昧だとか、はっきりしない、とも思われていた。しかし、こうした災害時などでとる行動から、日本人はどんなに悲しい時でも人に対する思いやりや配慮を忘れない、本当の強さを持った民族なのだと見直されるようになった。その行為があまりに気高く、裏にある悲しみの深さを逆に感じさせるのだが…。
 3・11が近づくたび、あの時の混乱を思い出す。私は地元の府中であの瞬間を経験した。被災地にいた人々の衝撃はどれほどのものであっただろうか。5年の月日が流れた今、それぞれの胸に去来する思いは様々だろう。
 どんな悲しみのどん底にあっても、季節は移り変わり、またやってくる。抱える状況によって見える風景は変わるだろうけど、春になれば桜は咲き、その花びらは誰にも分け隔てなく降ってくる。そして、心をそっと支えてくれる。
                     2016年2月27日




チャーチルの肖像


 今年イギリスで発行される5ポンド紙幣の肖像画はチャーチルになる。ヒトラーと真正面から戦い、ヨーロッパにおいては第二次世界大戦を終わらせた最大の功労者であるチャーチルは、アメリカを戦線に誘導した優秀な戦略家であり、民衆を常に鼓舞し、名言を数多く残した頭脳明晰な政治家であった。葉巻や眼鏡や帽子のスタイルも有名で、日本の吉田茂首相をはじめ、多くの人に影響を与えた人でもある。
 私が極真会本部で稽古していたころ、大山館長がよく言われた「金を失うのは大したことではない、信用を失うのは苦しいが取り返せる、しかし、勇気を失うのは己を失うことだ」というのも、チャーチルの言葉である。「力なき正義は無力」というのも「力を伴わない文化は死滅する文化」という言葉を引用したものだろう。
 チャーチルの言葉の中で私が最も好きなのは、「悲観主義者はすべての好機の中に困難を見つけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見出す」というものと、「凧が一番高く上がるのは風に向かっているときであり、風に流されている時ではない」というものである。
 「光の素晴らしい輝きはその影がなければ存在しない。人生はひとつの全体であって、善も悪も共に受け入れなければならない」といった、人生経験を積まなければ理解できない言葉もある。
 チャーチルの言葉は様々な人を救い、人から人へと伝わり、形を変えて人を勇気づけてゆくことだろう。
 こんなことも言ってる。
 「教育の無い人間が名言集を読むのは良い事だ」
 私もチャーチルの言葉は何度も読み返したいと思っている。
                     2016年2月11日




冬の犬


 最近の朝一番の日課は、愛犬ナツの飲み水であるバケツに張った氷を叩き割ることである。このところ非常に厚くなってきており、中立ち一本拳では割りにくくなったので正拳を使っている。跳ね返りの水が冷たいので突き込まずに引く。加減した一発目でひびを入れ、2発目で砕く。見ていたナツが拍手する。毎日この繰り返しである。
 外は氷点下だが、ナツは小屋に入らず、そばにある木の下で丸くなって寝ている。種類によっては南極の冬さえ人の手を借りずに乗り切ってしまう犬であるから、この程度の寒さは屁でもないのかもしれないが、気になるのはナツがぶるぶる震えていることである。寒いのに見栄張っているのかどうかはわからないが、可哀想なので普段の倍のエサと牛乳を与えている。それもアッという間に無くなるのだから、やっぱり寒さに耐えるにはエネルギーがいるのだろう。
 冬の合宿や滝浴びといった寒中稽古はキツイいのだけど、その後の暖房や酒や食事によってものすごく体が温まるから楽しくもある。それがなかったら本当につらい修行になるだろう。動物だって本当は温まりたいのではないだろうか。風呂を知った猿が、恍惚とした表情で湯につかっている姿を見ると、毛皮を着ているから動物は寒くないんだよ、というこれまでの定説が人間の勝手な独りよがりだとも思えてくるのである。
 まあ、だからといってナツと一緒に風呂に入る気はない。やっぱり犬は真冬でも外で元気に尻尾を振っているのが正しい姿であると思う。してやれるのは散歩の距離を伸ばすことくらいである。そして缶コーヒーを分け合うことくらい。
 ともあれ冬は人と犬との距離が縮まる季節である。
                    2016年1月30日





 暖冬が一転して大雪となった。毎日バイクに乗る私にとってこれほど嫌なことは無い。若い頃はそれでも果敢に凍結した路面を攻めて行った。そして何度も転倒した。転んでも大したケガはしなかったし、それなりに慣れたりもしたのだが、下り坂でタイヤが制御不能になった時の恐怖感にはいまだに慣れることが出来ない。前輪ブレーキをかけた瞬間あの世行きであるから、恐怖に耐えながらハンドル操作だけで凍結部分を脱するまでバランスを取り続けるのである。もうこれは罰ゲームでしかない。
 でも、子供の頃は雪にすっぽり包まれて真っ白になった風景が大好きだった。今はあまり目にしなくなったが、昔はつららという氷の棒が軒先にいくらでもぶら下がっており、適当なものを折って舐めながら学校に通ったものだ。学校のダルマストーブはバカみたいに暖かかったから、外でどんなに雪にまみれてびしょびしょになっても平気だったのである。股の間から首を出して逆さまに見た世界が、まるで別世界に見えたのが不思議で、雪が積もるたびにいろんな場所でこれを試して楽しんだのもよく覚えている。
 あんなに好きだった雪が、バイクに乗るのがつらいというだけでこんなに嫌いになってしまうとは、俺も情けない大人になってしまったものだ。
                    2016年1月23日




初稽古


 私は寝起きが良い。目が覚めて上半身を起こした段階でカツ丼一杯は食える自信がある。起きた瞬間ほぼ100パーセントの状態になれるのだ。断っておくが血圧は正常である。
 だからというわけではないが、私は初稽古から一気にエネルギー全開したい方である。徐々にペースを上げてゆくというのは苦手だ。もともと試合偏重の時代が来る前は、武道にオンとかオフとかはなかったわけで、年末年始の休みなどもほんの少しだった。むしろ寒稽古などは最も大切な稽古のひとつとされ、精神修養のために滝を浴びたり、早朝寒さに耐えて体を鍛えたりするのは当たり前のことだったのだ。
 今年も一通り新年の初稽古は終わった。正月気分を一気に吹き払う稽古でみんなも目が覚めたと思う。やっぱり道場にいると心が落ち着く。帯を締めると気も引き締まる。
 2016年も全力で行きましょう。
                    2016年1月13日





 空手というものは型から始まっている。フルコンタクトカラテからスタートした人にはとても不思議な稽古と感じる場合もあるが(私も当初はそう感じていた)、根幹にかかわることなので、しっかりと体得した方が良いと今では考えている。私は極真会の本部に在籍していたので、例にもれず太極から入り、平安、安三、最破、三戦、十八と習っていった。その後師事した佐藤勝昭師範から、撃砕と征遠鎖を、やがて大会の演武などでも多く披露することになったこともあってきっちりと伝授された経験がある。型には緩急があり、強弱があり、なかなか奥が深いのであるが、私個人の意見としては、武道の稽古の一環として役立てばいいので、特に団体でやったりしてシンクロナイズドスイミングのように息を合わせる必要はないと思う。
 それはともかく、オリンピックの影響とかもあってやがて空手が普及してゆくと、格闘よりは老若男女を問わず出来る「型」のほうが、太極拳のような健康体操としても広がってゆく可能性はある。朝、公園で地域住民の健康体操として、スポーツクラブでのエクササイズとして、いろんな型が行われるようになるかもしれない。
 ただ、型というのは元々は周りから攻めてくる敵を確実に倒す技術なのである。だから動きの意味を問われた時、結構とんでもない説明を受けることになるだろう。
 綺麗なジムで軽い音楽に合わせ、美人インストラクターが笑顔で手本を見せながら
「はい、では右からくる相手の目を潰しましょう、そして髪の毛を掴んで顔面に裏拳です、確実に鼻の骨を折りましょう、」とか、「顔面にもろ手突きを打ち込みます。すぐに左右から裏拳で叩き、最後は抜き手で息の根を止めましょう」とか、「抜き手で下段を突き刺しましょう、さあ、金的を掴んで引きちぎりまーす…」とか、
 これはいくつかの型の実際の動きの意味である。おそらく実際には解釈を変えて普及するのだろうが、正確にやろうとすればそうなる。あー、恐ろしい。
 想像すると、笑ってしまう。
                     2015年12月24日




カワハギの肝


 この世で一番美味いと言われるカワハギの肝を食った。山田君が横須賀沖で釣り上げたものをそのまま狭山の私の自宅まで届けてくれたのである。山田君に大まかなさばき方を教わり、私はほとんど使ったことのない包丁をふるってカワハギの肝を取り出し、刺身を作った。皮がヤスリのように固く、骨は針のように鋭く、悪戦苦闘の末に出来上がったものは刺身といってもズタズタのミンチのような状態であったが、見た目はどうでもいいのである。息子に勧めたのだが気持ち悪がって食わないので、私一人で食った。
 うまかった!
 刺身には棘のような小骨がいっぱい入っており、口の中が血だらけになってしまったが、わさび醤油と肝が刺身にからんで、溶けてゆくような味わいであった。
 正直言うと、私はあまり食べ物の味にはこだわらない。納豆と味噌汁があれば十分だし、そもそも微妙な味の違いなどは分からないのである。若い頃は体造りのためもあって収入のほぼすべてを食費に費やしていたが、それは量のためであって質を求めたことは一度たりともなかった。
 でも、カワハギの肝は本当にうまかった。
、わざわざ横須賀で釣った貴重な魚を、はるばる狭山まで届けに来てくれた山田君の思いがこもっていたのだろう。
 涙が出るほどうまかったのだ。
                     2015年12月2日




痛みとつきあう


 年をとると体がきつくなるという。確かに50肩だの、頸椎症だの、テニスもしてないのにテニス肘だの、若い頃には経験しなかったような痛みは出てくる。体が衰えていくのだなあ、と感じるだろう。でも痛みに関して言えば…。
 稽古のあとで山田君や宮島君、裕也君たちの雑談を聞いていると、ふと自分が試合に集中していた時期を思い出す。思えばあの頃は体のどこかは必ず悲鳴を上げていた。骨折か打撲か捻挫か打ち身か、体のどこかは絶対痛いのである。それに加え、道場稽古以外にトレーニングは毎日行っていたから、筋肉痛は当たり前だった。それがなかったら逆に不安になったものだ。だから、私の今までの人生では20代が一番体が痛かったと言える。先日亡くなった有名な元横綱が『怪我も鍛えて直した』という言葉を残したが、格闘技に身を捧げた以上、痛みと付き合うのは当然のことと言えるだろう。
 あの痛みに比べれば、体の衰えに伴う痛みなどは悠長なものに感じるのである。もちろん、内臓系の疾患となるとまた話は別なのだろうし、血圧とかの影響で血管が切れたりしたら痛いとか痛くないとか、気合で我慢出来るとかの話でもなくなるので注意は必要だと思うのだが。
 選手時代に痛めた傷でいまだに癒えていない個所はいくつかある。交通事故から完全に回復していない部分もある。思えばこの体を随分酷使してきた。それに引き換えまだまだ余力がありそうな頭の方は一向に活躍しそうな気配がない。
 そこだけはちょっと心残りなのだ。
                     2015年11月26日




講士館杯


 私の息子が小学1年の時、ジュニア全日本大会に出場し一回戦で負けた。私は他のコートで主審をするため移動中で、歩きながら遠いコートで飛び蹴りに倒される息子を見た。ヘッドギアを外し、泣いていた。私は主審のコートに入り、少し乱れた気持ちを切り替えて集中させた。
 関東大会の時は,小学2年になった息子の決勝戦の主審を務めた。2度の延長でも旗は真っ二つに分かれ、私は相手の方に手を上げた。全く互角の勝負であった。私は立場上空手の試合においては息子を声を上げて応援することが出来なかった。息子もそのへんは理解していたはずだが、幼少の頃はさすがに複雑な気分であった。息子はその後黒帯を取り、大会でも優勝し、今は高校の陸上部で頑張っている。
 15日に第9回の講士館杯が行われ、今年も数々の名勝負とドラマが繰り広げられた。開会式において私は「勝負より大切なもの」として試合態度、そして勝ち方、負け方の話をした。人生は勝つことばかりではない。むしろ負ける事の方が多い。負けた時こそ次に進むための大切な物が手に入る時なのだ、と。
 思えば余計な言葉だったかもしれない。みんな素晴らしい戦いぶりだった。もちろん親としては、負けて泣く我が子を見るのは胸が締め付けられるような思いだろう。その気持ちは痛いほどよくわかる。でもその思いを子供たちは軽々と越えて行ってくれるのである。ひとつの試合ごと、頑張った分だけ強くなっていくのである。
 負けて泣いてた子が、試合後挨拶に来た。励ますと、まだ泣いた跡が残る顏で笑ってくれた。その顔は神々しいほどに輝いて見えた。
 頑張った小さな魂一つ一つを、これからも鍛え、応援してゆきたい。
                     2015年11月16日




宮島全日本二連覇


 宮島健太2段が、日本国際空手協会主催第19回全日本空手道選手権大会で優勝。見事二連覇を果たした。1回戦を下突きでノックアウト、2回戦と準決勝は本戦で圧勝、そして決勝戦では右のハイキックでまたもノックアウト勝ちという、ほぼ完璧な内容の横綱相撲であった。
 実は宮島は左ひざを痛めていたのである。それを隠して大会に臨んだ。試合が終わるまで誰にも知られてはならない秘密だった。ところが…、主審の宮川師範が開会式の前に「長谷川先生、宮島君は膝が悪いんですか?」と私に問いかけてきたのである。驚いて理由を聞くと、「だって、あれ」とメインコートを指さす。見ると、Tシャツ短パン姿の宮島が膝のテーピングを堂々とさらしたままシャドーをしているではないか。当然チャンピオンの動きは会場の全員が見ている。私はあわてて宮島のもとに駆けつけ、ひざを隠すよう指示した。間抜けな話である。
 幸いにも対戦者は誰も宮島の牙城を崩すことは出来なかった。2連覇達成だ。
 宮島の強さは食事の量にも支えられている。逸話が面白い。仲間数人で食事に行くと、宮島の注文を聞いた店員が全員分の注文を取り終えたと思って引き揚げようとする、とか。3人前の料理を食べ終え、デザートを薦められた宮島の注文がラーメンの大盛りだった、とか。数えればきりがない。とにかく楽しい男である。
 会場の埼玉県立武道館にはバイクで行ったので当日の祝杯は挙げられなかった。
 今度、宮島を満腹にしてやろうと思う。
                    2015年10月17日




DV


 文京道場に欠かさず稽古に来る松岡君は弁護士として活躍している。東大時代から真面目に空手にも取り組んできたから当然黒帯だ。そんな彼が現在多く取り扱っているのがDV(ドメスティックバイオレンス)の案件である。私の感覚では、自分に抵抗できないほど力の差がある女性や子供に暴力をふるう男には吐き気がする。幼児にまでそうした行為をする奴はもはや人間ではない。そういう話を聞くたびに、力のあるものに殴られ続ける苦しみがどれほどのものかを教えてやりたくなってしまう。
 だが、実際にはそんなことをしても何の効果もないらしい。現在そうした人間専門の更生施設は関東では千葉県にある。犯罪として成立したのが比較的最近であるし、本人には悪いという自覚があまりない場合もあってなかなかそこに送り込むのも難しいらしい。弁護士として被害者をかくまうのにもかなりの苦労があると松岡君は嘆く。空手で汗を流すことで、仕事で疲弊した精神を健全な状態に戻すのだそうだ。
 DV行為をする人間はほぼすべて、人を変えたいという欲望が強いという。自分は正しい、相手が悪い。自分勝手な妄想に縛られている。施設では毎日唱和するそうである。
「変わるのは自分、変わるのは自分、変わるのは自分…」
 松岡君は真面目一本の男であるから、一つの仕事に誠心誠意取り組む。あまり収入に還ってはこないらしい。稽古のあと、ロッカールームで苦笑いしながらこぼしていたので、
 「みんな儲かってるんだから、お前くらい損してバランスとれ」と言うと。
 「おーす、がんばります!」と笑って答えた。
 やっぱり、正義の味方はこうでなきゃいけない。
                     2015年10月1日




熱い星


 小学生の頃、「氷河期」という時代が地球にあったことを図鑑で知った。周期的に来るとも言われていた。寒さで凍えて死ぬのはどんなにつらいだろうか?マンモスが雪に埋もれて死んでいる絵などを見て、私は真剣に心配したものだった。ところが…。
 今年の7月末、イラン南西部の街で72.7度という体感温度が記録された。実際の気温は46度で、露点温度(空気を冷やすと凝結が始まる温度)が32度という異常な湿度。この二つをもとに算出する「体感温度」がなんと72.7度となったのだ。鶏肉を焼いた時の内部の温度の目安が74度だというから、その日この街を歩く人たちは、まさにオーブンの中で焼かれているような気分だったろう。アジアで暑さのために死亡した人は3000人を超えている。それが2015年の夏だったのだ。
 これだけで100年後の図鑑に載ってもおかしくない出来事ではないだろうか。
 地球は凍るどころか熱くなっていた。温暖化のブレーキは未だにかかっていないのだから、来年はさらに恐ろしい事態が待ち受けているかもしれない。日本でも起きた集中豪雨による被害は10年に一度と言われたが、偏西風の流れさえ変動してゆく世界になったのだから、もう今までの例と比較してもあまり意味がないような気もする。
 実際にあった氷河期ならだれでも予想は出来ただろう。でも現実は違った。まったく逆になった。ただ、自然の力で起こった氷河期とは違い、温暖化は人類の仕業なのである。だから人類の手で止めることは可能なのだ。
 100年後の子どもたちが、「ああ、こんな暑い時代があったのか、怖いね」と笑って言えるような世界になっていなければならない。
 子供の頃見た図鑑を思い出し、そう思った。
                     2015年9月19日





 千日の稽古をもって鍛とし、万日の稽古をもって練とす。という言葉は宮本武蔵の『五輪書』にあり、千日で基礎が出来、万日で完成するという意味である。空手家としては大山倍達先生の「武の道は千日をもって初心とし、万日をもって極みとする」という言葉がなじみ深いが、大山先生も宮本武蔵から引用したものだから同じ意味である。
 千日とは3年であり、空手を始めて大体の人が初段に到達する日数だろう。つまり、黒帯とは武道においては「初心」であり、「基礎が出来た」という段階だということだ。厳しい言葉だが、おそらく黒帯を締めるところまで稽古した人間ならば実感できるはずである。
 到達しなければわからないことがある。そこが楽園だと信じてたどり着いたところが、実はさらに奥深い境地に続く入口であったりする。そこからさらに進むかどうかは人それぞれだろう。でも、それが一つの貴重な「到達」なのである。別に武道に限ったことではない。どの道でも同様に、あるレベルまで来たからこそ本当の楽しさがわかる、ということはあると思う。
 千という数は、武道においてはひとつの区切りとしてもよく使われる。千本突きや千本蹴りは、稽古納めの時などにも行われることがあるが、腰をしっかり入れる為に蹴り足の膝を固定し、一本一本全身の力で一回転しながら千本蹴る稽古法がある。2時間近くかかり、軸足の裏は内出血してやがて皮膚は破れる。しかし一日で回し蹴りに腰を完全に入れる蹴りがマスターできる方法だ。腹筋の千回は、やはり腰が擦り切れて出血するが、百回の壁を超えると比較的すんなり到達できる。バカみたいに数をこなすだけの非科学的なトレーニングは現代では敬遠されがちであるが、時には千回という数に向き合い、一つの壁を乗り越えることも必要なことだと思う。
 私の後輩で、講士館副代表の阿部徹君のように、3千回とか5千回とかをノルマにする特殊な人もいるが、そこまでするかどうかは本人の自由である。
                      2015年9月2日




山田君の手術


 山田哲也3段が扁桃腺除去手術のため1週間ほど入院した。今までずっと、頻繁に襲ってくる高熱に悩まされており、考えた末の手術だった。あれだけ屈強な男がよく高熱を出すのが不思議でしょうがなかったのだが、病気に使う免疫すら空手につぎ込んでいるんじゃないかと思うほど稽古熱心であり、あまり寝ないってところに原因があるような気がしていた。アイドリングの高い車をずっとエンジン切らずにおいておくようなもので、そりゃ時々故障もするだろう。
 比べるのもなんだが、好敵手の宮島君はこういった病気は一切しない。悪いのは膝と頭だけ、と言われるだけあってケガはするが病気には掛からない。風邪すらひいたこともなく、熱のある状態というものが彼には理解できないらしい(これは褒め言葉である)。両極端なふたりであるが、この手術で山田君の体質改善が成功することを祈っている。
 ところで、彼も初めての入院なのでかなり苦労したようだ。食堂の椅子を片手で持ち上げて筋トレしたり、腹筋運動をしたりして看護師に注意されたという。治りかけてくると体がうずうずしてくる気持ちはよくわかる。私も事故で2か月半入院したが、途中からはベッドの上で隠れて毎日筋トレしていた。あるときジャックナイフという両手両足を一気に曲げ伸ばす腹筋運動をしていたら、見舞いに来てくれた友人が、ギシギシいうベッドの音と低いうなり声に、苦しんでもがいてるのじゃないかとカーテンを開けるのをしばしためらったという話もある。こうしたことは、快方に向かっている喜ばしい逸話と言えるだろう。
 山田君はまだしばらく声が出ない。「手話で指導したら?」と冗談で言ってみたが、当分は気合も無理だから生徒たちがどんどん声を出して盛り上げていってほしい。
                     2015年8月25日




阿修羅


 中学校の修学旅行は京都だった。高校の修学旅行も京都だった。そしてこの夏、久しぶりに家族で京都に行ってきた。空手の大会の審判員として訪れたことはあるが、観光としては37年ぶりである。実は過去2度行ったにもかかわらず、私には京都の名所旧跡の記憶がない。団体でゾロゾロ行くことに抵抗を感じていた高校生の頃は、名所に入る直前に仲間数人で列を抜け出して茶店に入り、甘酒を飲んだりしていたから実際見てない場所も多かったのだ。その後悔を解消すべく、清水寺や金閣、銀閣、龍安寺などを回り、何か心に響くものを探したかったのだが…。今や京都の名所は外国人だらけであり、中国語やら韓国語やらポルトガル語やらが飛び交う人混みの列に混じって見学して歩いても、詫び寂びなど感じるはずもなく、大量の汗をかいて『よし、見た』という確認作業に終わったような気がしないでもなかった。
 三日目に一人で奈良に行き、興福寺の国宝館で阿修羅像を見た。三つの顔と6本の腕を持つ有名な仏像である。他の仏像と阿修羅像とでは、全く顔が違う。仏像はほとんどが人の顔ではない。形は同じだが表情がない。達観しているのか、悟ったのか、まあ神様に近いのだからそうなるのだろうけど。ところが阿修羅像だけは苦悶ともいえる表情を浮かべている。神話では帝釈天に娘を奪われ(神様に常識は無いようだ)、戦って敗れた阿修羅である。戦いに明け暮れる事を仏語で修羅道というが、そうした運命をあの表情で表しているのだろうか。美しい顔である。悩みがあるから美しいのだろうか? 人もそうなのだろうか? と考えさせられるほどの美しさ。悩みなど超越したのか何も考えてないのかわからないようなほかの仏像とは(バチあたりですみません)一線を画しているような姿であった。
 歴史や世界遺産から学ぶことは多い。ただ心に感じるものは人それぞれ、状況によっても変わってくる。世界中の人が集まるのはすごい事だけど、一度でいいから一人っきりで見てみたいと思った。
                     2015年8月14日




森の中、虫の中


 合宿中、私のベッドは宿舎からふた棟離れた小さな家のロフトにある。だが今年は暑さのため床に寝ていたせいか、いつもより虫に悩まされた。夜中に突如顔や首筋にたかってくる。バッタかカマドウマだろうから払いのければ気にはならないのだけど、あまり気持ちいのいいものではない。まあ森の中で生活しているのだからこのくらいは当たり前なのだろう。私は噛みつかない虫なら平気なのだ。だからゴキブリはダメなのである(奴は噛みつくから)。 隊長の山田君は、部屋の中に舞い込んできたノコギリクワガタを、寝ている裕也(田中・今年の東都チャンピオン)の顔に乗せたらしい、裕也の絶叫は宿舎中に響き渡ったそうだ。
 周りは田んぼばかりだから蛙だらけである。踏まないように気をつける。あまりかえる跳びがうまくない蛙もおり、両足同時にジャンプしない。補強運動の時だったら私に注意される跳び方である。ひぐらしは朝っぱらから大合唱である。カナカナカナ・・・、という美しい響きは、夕方かすかに聞こえてくるから心地良いのであって、こうも多数で激しく応酬されると風情は感じられない。あちこちに蜘蛛が大きなネットを張っている。中には見惚れるほど美しいものもある。セミの羽化も見れる。かぶと虫もぶつかってくるから注意しなくてはならない。子供達は厳しい稽古の合間、思う存分虫たちとも戯れていたようであった。
 それもこれも、すべて夏の日の森の中の贅沢なのだろう。
 私としては、下の階で寝ている小宮君(副代表)の空気を切り裂くようないびきの方が厳しかった。
                     2015年7月25日




寝てはいけない


 眠たくなったときにどんな方法でそれを振り払うのが効果的だろうか? 先日稽古のあとの雑談の中で、電車の運転士のT君と、トラックの運転手であるT君が話していた。お互い運転中に眠くなった経験から、色々な手段を考えてきたらしく話は弾んでいた。
 たまたまその翌日、バイクで移動中に一瞬だが思わず寝てしまった。クラクションでハッとして背筋を正すと車線をずれていた。おまけにウインカーをつけたまま。昨日のあの話は暗示だったのだろうか? 意志だけでは襲ってくる睡魔に勝てないのは、私も経験からわかっていたことではあったのだ。20代後半の選手時代に一般部の夏季合宿の隊長を任された時、最終日に疲れが限界を超えたのか、食事中味噌汁やとんかつに何度も顔を突っ込んだ。さらにマラソンのあと、道路に倒れたまま深く眠り込み、最後は部屋の掃除中に箒を持ったまま寝てしまった。動いていても人間は寝てしまうのだ。そういえばもっと前、「僕は一日5時間以上眠ったことがないね」と豪語していた空手の大先生が、車の助手席に座ったとたんゴーゴーいびきをかき始め、30分ほど熟睡した後に目覚めるや「あ、少しうとうとしちゃったかな」とつぶやいてから私を見つめ、「長谷川君、僕、寝てたか?」と真剣な眼差しで聞くので、「オス、寝てません」と嘘をついてしまったこともあったっけ。睡魔には達人も勝てないのだ、とこの時すでに納得はしていたのだ。
 私は一旦バイクを止め、ガムを3つ口に放り込んで思い切り噛みながら残りの道を走り切った。
 よくカフェインが効くというが、即効性は疑わしい。コーヒーよりコーラの方が胃がガボガボいうので眠気は覚めるだろう。迷惑がかからないのなら大声で歌うのもいい。スクワットもいい(ただしやり過ぎると疲れて眠くなる)。自分で自分をひっぱたくのもいい。とにかく「俺は眠らない」などという意志だけでは駄目だ。
                     2015年7月15日




鳥になれなかった男


 ディーン・ポッターという冒険家の名は日本ではあまり有名ではないかもしれない。ロッククライマーとして世界的に名を馳せ、ウイングスーツによる絶壁からのダイブで多くの映像を残した男でもある。ウイングスーツというのはムササビのような特殊スーツで、高所から飛び降りて滑空してゆくものだ。ものすごいスピードで「落ちてゆく」のである。
 ポッターは6年前にアイガー北壁からジャンプし、2分50秒というウイングスーツによる世界最長飛行記録を樹立した。映像を見ると、本当に恐ろしいスピードで岩石の隙間を縫って斜めに落下してゆく。だが、このスーツに手を出した男たちの約8割は命を落としている。ポッターに対しても多くの友人から止めるよう忠告があったらしい。
 空を飛ぶ、という夢は誰もが一度は抱くものだろう。約100年前、ピーター・パンに憧れた30過ぎの男が手製のウイングスーツを身にまとい、エッフェル塔から飛び降りて地面に激突して死亡した。空を飛ぶ夢に憑りつかれた男の、最初の死亡事故である。ピーター・パンは楽しそうに空に浮かんでいたけれど、実際に人間が空を飛ぶには重力はあまりに手強過ぎるのだ。だが冒険家の多くは死ぬまで何度も冒険を繰り返す。自らの意志でピリオドを打てる人は少ない。おそらく普通の人が抱く安定した生活は彼らにとっては退屈極まりない時間なのだろう。地面にしっかり足をつけていたい自分のような男には理解できない心理である。
 今年の5月、ポッターはアメリカはヨセミテ国立公園の約900メートルの絶壁からジャンプした。そして数十秒後、切り立った岸壁に激突して死んだ。
 ポッターは鳥になることは出来なかった。でも最も鳥に近づいた男にはなった。
 彼の夢が叶ったのかどうかは、たぶん誰にもわからない。
                      2015年7月4日




心が育つ時


 最近の調査によって明らかになったことによると、子供の頃にいじめを受けた経験を持つ人が成長したのちにうつ病を発症する確率は、そうでない人の約3倍に上るという。成長期に心が受け止めたものは一生残るということだろう。
 逆もまた真なり、である。
 今回も充実した審査が終了し、ほっとしている。昇段した本人はもちろんのこと、その光景を目の当たりにした少年部の生徒たちの、驚きと感動の混じったような瞳の輝きも印象に残った。体は自然に成長するが、心は感動しなければまともに成長はしない。鏡のように素直な心は、テレビなどから流される作り物や狙ったものではなく、真に人の命の輝く瞬間をしっかり受け止めたことだろう。
 一般部女子、川崎初段の2段昇段も素晴らしかった。入門して10年、傍若無人なほどの明るさとパワーを持った川崎が必死に繰り出した突きと蹴りには、ぎっくり腰で前回から延期した分の執念と気合がこもっていたように思える。審査終了後に道場でみんなと酌み交わした酒も最高だった。
 さあ、これから夏本番である。しっかり鍛えよう。
                     2015年6月21日




天使の分け前


 天使の分け前、というのはウイスキーが樽の中で醸成される間に失われる数パーセントの酒の量をいう。職人が丹精込めて作った酒に、天使が最後のひと手間を加えてくれるという伝説である。しっかり自分の分を持っていく、というところがいい。
 何かを成し遂げた人の多くは、神様や天使といった自分の実力以外に何か不思議な力が働いた、という実感を吐露する。おそらくその「成功」に至るまで、何回も失敗を繰り返してきたのだろう。自分の非力さを痛感し、それでもあきらめなかった末につかんだものだからこそ謙虚な言葉が出るのだと思う。簡単に手に入るものからは、神の力はおろか、周囲への感謝すら感じないだろう。
 この世には、大した努力をせずに人並み以上の成功を収める人もいる。自分に自信を持つのは良い事だが、それが過信となり、慢心に変化すると「天使」の顔は「悪魔」に変わってしまうかもしれない。
 審査の季節が近づいてきた。長い時間をかけて自分を鍛え、黒帯という努力の勲章ともいうべき場所に挑む精鋭が今回もいる。稽古をみてきた側からすれば、丹精込めて熟成されたウイスキーを樽から解き放つような気分でもある。昇段組手は生易しくはない。でも頑張り抜いた時には、鬼のように立ちはだかった先生や先輩たちが君を胴上げし、一緒に喜び、泣いてくれるだろう。
 私も感動させてもらう。そこは「師範の分け前」ということで。
                     2015年6月1日




ハチ


 日曜日の稽古が終わって家に帰ると、軒先に直径30センチほどの大きな黒い塊が出来ていた。近づいてみるとなんとそれは蜂の大軍だった。ブンブン音を立てて周囲にも飛び交っている。うなりながら蜂と格闘していたわが愛犬を急いで車庫に移し、駆除の準備に取り掛かった。射程距離の長いジェット式強力殺虫剤を3本用意し、ヘルメットにジャンパーにゴム手袋を装着。慎重に接近して2本同時に発射した。しかし強い風に拡散され思ったように当たらない。そのうちこちらに気づいた蜂どもが攻撃をかけてきた。ひとまず退散する。部屋でジャンパーを脱ぐと2匹の蜂がついていた。
 夜を待ち第2ラウンド。ポータブルのガスバーナーがあったので火をつけてやろうかとも考えたのだが、家が燃える可能性もあったのでやっぱり殺虫剤にした。夜陰に紛れ蜂の塊に近づく。今度は覚悟を決めて手の届く距離まで接近して発射した。手ごたえはあったが反撃も来た。サンダル履きの足首に痛みも走った。しかしチャンスは今しかない。気合を入れながら引き金を絞り続けた。ボトリ、と塊の3分の一ほどが地面に落ちると同時に2本の殺虫剤は底をついた。素早く3本目で残りの塊に集中放射し、速やかに引き上げた。ジャンパーの下は汗が滲み、ヘルメットは降りかかった殺虫剤でべとべとになっていた。
 翌朝、軒下には大量の蜂の死骸が積み重なっていた。軒先に跡形は無い。可哀想だが全滅したようだ。愛犬を元の小屋に戻すと、「がんばったじゃん!」と嬉しそうに尻尾を振った。
 そして、何事もなかったように一週間が始まったのだった。
                     2015年5月19日




黄金週間


 田中裕也が東都大会で優勝した。中学生の時府中道場に入門した裕也は、高校大学を通して野球に専念するために数年間休会していた。そして20歳を過ぎて復帰した時、180を超えるまで体が成長していたにもかかわらず、瞳のキラキラ具合が少年時代と全く変わっていなかったのが印象に残っている。消防士になって1年、今年から大会出場も解禁になった彼はドア障害を乗り越え(注「ドア障害」参照)、東都の激戦区で見事圧倒的な強さで優勝を勝ち取った。まだまだ粗削りだが、明朗快活な裕也の可能性は無限大である。
 風林火山と東都の2大会が続いた今年のゴールデンウィークは、あわただしくも優勝を含めて5人が入賞し、入賞は逃したものの稽古の成果がはっきり出た生徒がほとんどだったので大いに満足している。
 東都大会では昔なじみの真樹道場の金子裕太君もシニアクラスに出場しており、その変わらぬ若々しさが嬉しかった。また、重量級で準優勝に輝いた勇志会きっての男前、下地丈矢君が「山田さんが世界チャンピオンになった時に先生が抱きしめたのは私です」とカミングアウトしてくれたことにより、引きずっていた疑問(注「世界1だ!」参照)に終止符を打てたのもありがたい事であった。
 お疲れ様です。
                      2015年5月7日




言葉


 大リーグのイチロー選手はケタ外れのアスリートであるが、言葉でも多くの名言を残している。雑誌の特集号であらためて読んでみて、他のスポーツや武道にも通じると感じるものも多く、ユニークな表現もあって非常に面白かった。一部紹介して感じたことも書いてみる。
『感覚だけでは長続きしない』
  だから理屈を求める。伝える立場になると特に理屈は必要になってくる。
『準備というのは言い訳の材料になるものを排除してゆくこと』
  自分に厳しい。こうした心構えが本番の強さを育むのだと思う。
『小さい事を積み重ねる事が、とんでもないところに行くただ一つの道』
  前人未到の域に達した人間ならではの言葉だ。名言である。
『4000のヒット(成功)には8000の失敗と悔しさがあった』
  天才ですらそうなのだ。
『Sは強いと勘違いさせられて、Mにいいように扱われている』
  これは単純に面白い。なるほどな、そうだったか。
『一番になりたい。オンリーワンが良い、なんて言ってる甘い奴が大嫌い』
  勝負の世界で生きる人間はこういう気概がなければ絶対勝ち残れない。一般社会では別だけど。
『言葉とは「何を言うか」ではなく「誰が言うか」に尽きる。その誰かに値する生き方をしたい』
  これなのだ。言葉は、それを発する人間の背景あってこそ力を持つものなのだ。
がんばろう!
                     2015年4月22日




森猛


 30年前、ポイント&ノックアウト第一回全日本空手道選手権の決勝戦の事は今でもはっきりと覚えている。
 私は準決勝で一本勝ちを収めて勝ち上がっていた。対する森猛選手も優勝候補の松井選手らを下して決勝の舞台に立っていた。パワー空手が全盛の時代、体格と力に勝る相手を技術で制して勝ちあがることに大きな意味があった。と、翌月の月刊現代カラテマガジンの大会特集号に書かれることになった決勝戦である。
 森猛は佐藤塾において私の先輩であり、私が生涯を通じて「天才」と感じる事の出来る数少ない男の一人である。動きに華があった。ハンマーのようなパンチ、襲い掛かってくるような飛び後ろ回し蹴り、バネ仕掛けのような大きなフットワーク、どれをとっても才能をきらびやかにまき散らすような華やかさがあった。
 戦っている最中、間合いの中には二人だけにしか共有できない呼吸と駆け引きの世界がある。好敵手との試合ではこれが最高の高みに達して陶酔するような瞬間がある。切り裂くような蹴りが髪の毛をかすめ、突きは容赦なく胸に腹に突き刺さり、鍛え上げた肉体が悲鳴を上げ、それでも無意識に致命的な技をかわし、反射的に返してゆく。
 最後は飛び後ろ回し蹴りで勝った。森先輩を見てから必死になって身につけた技だ。もちろんこの技に関しては私など足元にも及ばない。この試合に勝てたのは空手に対する私の執念だけだったと今でも思っている。
 森猛は素晴らしい男だった。明るくて、優しくて、いろんなことがあった。けどやっぱりお互い全力で戦ったあの決勝戦があったからこそ、ずっと理解し合えたのだと思う。
 訃報が信じられなかった。
 残念でならない。
 今出来る事は、森猛の雄姿を語ることだけである。
                     2015年4月1日




 私は石鹸が好きだ。ポンプの液体はあまり好まない。ヌルヌルした感じが洗った後もするからである。どうせ洗うならシャキシャキしたい。結婚するまでは頭も体も一個の固形石鹸で洗っていた。ところが髪の毛に良くないと言われて頭だけはシャンプーに切り替えたが、いまだにリンスというものはつけたことがない。
 私は外側からコーティングするものより、内側から攻めてゆくものの方が好ましいと思っている。だから肌とか髪とかに何か塗るよりも、しっかりと栄養あるものを食べるほうが良いと思う。体調に関しても、すぐ薬に頼るより体内温度を上げるものを普段からしっかり摂り、適度に酒を入れておいた方が免疫力の向上につながるのではないだろうか。
 最近、長年苦しんできた『花粉症』が収まりつつあるような兆しがある。春の課題が一つ減るのは嬉しい事だ。膝や腰や頸椎の痛みはとりあえず順番があるようで、一度に襲って来たことがないのが幸いである。毎週「やわらぎ整骨院」に通い、うちの師範代でもある林君や、ご存じ山田君のお世話になっている。彼らは名医である。痛みを和らげてしまうのだから凄い。山田君は若いし、多少強引にグキグキガシュンガシュン(機械の音である)やるのだが効く。何より「俺が直してやる」という気構えが伝わってくるのが良い。院長の林君はさすがにベテランだけあってそれほど急がないのだが、癒しのトークとマッサージテクニックにはまってしまうともはや抜け出すことは出来ない。ふたりとも適切な刺激で体内の治癒力を高めてくれているのである。
 もうすぐ桜が咲く。大嫌いな冬が終わってまずは一息である。
                     2015年3月20日




身を守る


 命のやり取りをする昔の武芸者たちは、まず危険な場所は避けて通った。塚原卜伝が人の集まっている場所は通過せず迂回したという話は有名であるし、武田惣角は絶対人に背後をとらせなかった。
 身を守る。レベルの差こそあれ、これこそが現代においても武道を習う最大の目的である。試合にはルールがあり、そのルールの範囲内に特化されてゆくのは当然であるとしても、一つ一つの技に自分の生死がかかわる、という意識を持った稽古も必要である。正直言うと、今の平和な日本で常にそうした気持ちで稽古することは難しいだろう。でも、悲しく凄惨な事件が起こるたび、この最も大切な目的を再認識してしまう。
 技も勿論大切だが、それ以上に大事なのは、いざという時の判断力と行動力である。直感で身を引くとか、声を上げるとか、最終的な格闘に突入する前にすべきことはいくつもある。卜伝や惣角のような達人にしてから、囲まれたらやられる、後ろから襲われたら危ない、という慎重で正しい認識があったのだ。
 10年ほど前、道場生の一人から相談を受けたことがある。いじめを受け、数人に待ち伏せをされているから助けてほしい、という内容だった。ならば、ということで私は空手衣のままでその場所に出向いた。誰もいなかった。その道場生によると私が来たことで驚いて逃げたのだという。その後、あからさまないじめは受けなくなったという報告も聞き、安心した記憶がある。手段の是非はともかく、その子には自分の危機をなんとしても回避したいという強い思いと、人を頼る行動力があったのだ。
 気合を入れろ、稽古ではいつも口を酸っぱくして繰り返している。腹に力を入れることを自分の意志で調節できるようになってほしい。集中力を高め、直感を磨き、しっかりした行動力を持ってほしい、生徒たちの顔を見るたびにそう思う。
                      2015年3月5日




心の底力


 本部道場の審査会の時は、いつも窓を外して父兄方が審査風景を見やすいようにしている。緊張の中頑張っている我が子の姿は是非見て頂きたいし、記録にもとどめておいていただきたいと思う。だが、審査も終盤、昇段審査の連続組手が始まると、ご父兄は全員が黒帯に挑戦している生徒を大声で応援してくれる。昇段はそれまでの稽古の集大成であり、厳しく大切な関門であることはみんなが認識している。だから必死で応援する。はじめてその光景を見る後輩も、共に汗を流してきた仲間も、経験者たる先輩も、指導してきた先生も、声を張り上げて応援する。もちろん道場内で立ち会っているお父さんお母さんにしてみれば、胸が張り裂けそうな時間であり、子供の一つの脱皮の瞬間を目の当たりにしているようなものだろう。
 今回の少年部二人の昇段も素晴らしかった。先生方からも「これからどんなことがあっても今日の事を忘れず、自信を持って頑張れ!」という言葉がかけられた。本人はただただほっとしているだけかもしれない。すぐに実感はわかないだろう。でも黒帯まで到達した、頑張った、という思いのほかに、すごく暖かいものを感じたのではないだろうか。みんなの熱い応援はきっと大きなエネルギーになったはずだ。道場全体が二人のためにひとつになった時間。これほどの愛情に包まれた経験こそ、これからの二人の「底力」として心に残ることと思う。
 おめでとう!
                     2015年2月16日




アイススケート


 たぶん2月だったと思う。小学校6年の時、アイススケート教室がよみうりランドで行われた。といっても初心者用のリンクで一般の客に混じり、滑り方を教わるでもなくただ先生が見守る中、滑って遊ぶというイベントだった。私はスケートなんて初めてだったから何度も転んだ。そして何度目かに転んだ時、リンクについた私の手の上を一般客の女性のフィギアスケートのエッジが通過していった。ガリッ、という音がして手袋が千切れ、血が噴き出した。「ぎゃあ」とかなんとか叫んだと思う。私は左手の中指がチョン切れたかと思ったのである。踏んでいった女性も悲鳴を上げ、周りのクラスメートたちも大騒ぎとなり、先生が慌てて私を医務室に運んだ。幸い爪がはがれただけで指の骨に異常はなかった。リンクに戻って心配していた加害者女性や友達を安心させ、私もほっとして切断を免れた指をポケットに突っ込み、大人しく見学をしてその日を終えた。
 2年生の時は学校の廊下を全速力で走っていたところを6年生と衝突して激しく後頭部を打ち、脳震盪を起こして病院に担ぎ込まれたことがあったし、階段を駆け下りるレースをしていて転んでひざを打ち、骨が欠けて医者に連れて行かれたこともあった。友達の家でかくれんぼをしていてリビングのガラス窓を突き破り、腕を切って医者に連れて行かれもした。「ハセはよく保健室に行っていた」と昔の友達に言われたこともあるが、振り返ると確かによく医務室や病院に運ばれる子供だった。それもくだらない理由で。今思えば本当に周囲に迷惑をかけたものである。
 アイススケートに関しては、その後も友達と何度かよみうりランドに通って一応滑れるようにはなった。だが空手を本格的にやりだしてからは、足首を常時痛めていたこともあってスケートはまったくやっていない。
                     2015年2月8日




寒い道場


 今の道場にはエアコンが完備されているところも多いが、一昔前は暖房の道場など考えられない事だった。道場というものは冬は凍えるほど寒く、夏は灼熱地獄となるのが当たり前で、それこそが鍛錬だ、という時代があった。だから冬は一生懸命体を動かして体内から温度を上げていくしかなかったのである。教わる側はまあそれでもいい。自分の稽古は汗を流して終わるわけだ。だがいくつかのクラスを続けて指導する側にとってはこれがなかなか厳しい。ひと汗かいた後に次のクラスまで急速に体温が下がるのである。私も今の本部道場が出来る前は剣道場を借りていたのだが、ここが冬は滅法寒かった。30代の頃までは空手衣の下にはパンツすら履いてなかったから(道衣とは本来そういうものである)ことさらこたえた。初心者クラスが終わると、次の生徒が集まるまで腕立てをしたり腹筋をしたり、とにかく体温を上げる作業に没頭した。さらに次のクラスまでのつなぎも同様である。若い頃はそれでも下に何かを着ることを自分自身で許さなかった。融通が利かなかったのだ。だから40代半ばに意を決してパンツを履いた時は、その暖かさに感動したものである。(今では場所によってはトレーナーまで着てしまうが)
 その寒い道場の頃、頑張っていた少年部のメンバーの何人かが今年も成人式を迎え、空手のポーズを作って撮った集合写真を送ってきてくれた。当時と全く変わらない顔もあれば、大きく変貌した顔もある。ただ拡大しただけの顔もあった。嬉しくてしばらく見入ってしまった。みんな空手の構えをして、あの頃の道場を思い出したことだろう。冬は寒く、夏は暑かったあの道場。そして怖かった先生(私だけど)に、しごき抜かれた少年時代を。
                     2015年1月22日




HAPPY NEW YEAR


 仕事で転勤していた本部黒帯の小保根君が、新年のあいさつに『山崎』を持って私の家に来てくれた。年末に田村や英大といった元狭山のメンバーで山田の祝勝会をしたらしい。小保根は山田の一つ年下だが私の門下生となったことでは山田より先輩である。以前私が主催した関東大会の決勝でも当たったことがあり、二人は良きライバルでもあった。その山田が世界チャンピオンになったというニュースに驚き、昔の仲間が集まったのだ。彼は山田が入門した日のことも覚えており、「世界チャンピオンになるために入門しました」と山田が言ったことも懐かしそうに話した。「ミットを持たせて蹴ったら吹っ飛んだくせに、それでも世界チャンピオンになります、と平然と言ってましたからね。あきれたと言うかなんと言うか、凄い奴には違いなかったですね」と振り返る。その山田が本当に世界チャンピオンになり、宮島も全日本タイトルを獲って雑誌の表紙を飾ったことについては「悔しくて買っていません」と言う。おかしくて笑った。そんなら一冊やるよ、とフルコンを渡すと、「オス、悔しいので全部しっかり読みます」と言ってうやうやしく受け取ってくれた。本当に面白い男である。体も頑丈で素質も抜群、性格も明るく前途洋々の彼は環境庁の指令ですぐに九州に帰ってゆく。あっちでトレーニングを積み、必ず復帰しますと言ってから、自転車にまたがって実家に帰って行った。嬉しいひと時だった。
 翌日には田村君が『竹鶴』を持ってやってきた。仕事の都合でやはりここ2年ほど道場を遠ざかっていた彼も、山田と宮島の活躍に触発され、復活を期している。これまた嬉しいひと時であった。
 若い若いと思っていても、あっという間に時は過ぎ去る。でも道は人それぞれである。 がんばれ!直行便だけが目的地に着く手段じゃない。
                     2015年1月9日




スパイを倒せ


 少し気になっていたパソコンの重さや余計な表示を業者に診てもらったところ、スパイウエアが大量に潜んでいるとの事だったので早速駆除してもらった。いろいろ質問もされたのだが、ほとんどわからない単語の連続だったり意味不明な現象の説明だったりしたので結局、「おまかせします」と言うしかなかった。サイバー攻撃は年々増加し、その手口も巧妙化しているという。まあ、なんであんなに重いのに飛ぶのかわからない飛行機に乗っているように、どういう仕組みなのかわからないネットとか、何処にあるのかわからないクラウドとかいうものとアクセスだかなんだかしているのだから、ウイルスだのスパイだの見たこともないものに知らないうちに攻撃されても、「はあ、そうですか」と言うしかない。実感がない。そうやって金を盗まれたりする世の中になったのだろう。そんなふうに隠れたところから陰険な攻撃をする奴らはいっぺん縛り上げて改心するまで美輪明宏の「ヨイトマケの歌」を聞かせ続けるしかないな、などと思ったりした師走の夕暮れ時であった。
 皆様、良いお年を。
                    2014年12月25日




泣くな勇者


 T君は相手のパンチがボディに決まり、崩れ落ちた。一本負けである。もちろん苦しかっただろう、そして悔しかっただろう、うずくまったままなかなか立ち上がらなかった。苦悶の表情に涙が浮かぶ。その時私は「立て!」と怒鳴った。T君はハッと気づいたように泣くのをやめ、立ち上がった。負けを宣告され、それでもしっかりと握手を交わし、試合場を降りた。そして、応援していたお兄さんの胸の中で泣きじゃくった。それはいいと思った。
 T君は人一倍負けん気が強く、稽古でも試合でも常に妥協を嫌う。誰だって勝ちもすれば負けもする。勝った時は余裕を持って敗者をいたわることが出来るだろう。だけど負けた時こそ大切なことがある。
 試合場で泣いたら、100パーセントの負けになる。子供の頃のケンカがそうだ。泣いたら終わり。それは完全な決着を意味する。もちろん試合の決着はついた。しかし試合には次がある。相手の前で泣いたら、次も負ける。絶対的な優越感を持たれてしまう。
 相手にボコボコにやられた奴が、「今日はこれくらいにしといてやるか」と言って立ち去るというコントがあるが、たとえ試合ルールで負けたとしても「今日のところは譲っとこう」くらいの顔をする根性があっていい。
 前向きな人間は痛みで成長することもある。負けっぷりも大事にしよう。
                     2014年12月10日




神様の微笑


 宮島はガタイがいいので応援のために大会に来た時などはアップのための良いサンドバッグになっているようである。先日の世界大会でも山田のセコンドとしてずっとついていながら、試合前には山田の強烈なフックを何発も腹に受け止めていた。山田も興奮状態にあったからほぼ全力のパンチだった。控室のサブアリーナに戻ると山田の世話のほかに、大会に出場していた合同稽古の仲間のスパーリングパートナーとなり、やはりほぼフルパワーの攻撃を体で受けてあげていた。宮島も選手の気持ちはよくわかるのである。だから応援の時は思い切り裏方に回る。さらに帰りは山田と私を車で送ってくれた。感謝の気持ちも込めて寿司屋で労うと、「嬉しかったけど本当に疲れました」と心底ほっとした笑顔を見せた。今年は主役として随分活躍もしたが、この日の脇役ぶりも見事だった。
 安岡は女子の中量級で決勝まで進出した。綺麗に技を決めることは出来なかったが、今回も前進を止めることなく、全力を尽くした。彼女は以前講士館時計にも書いた、本部道場のトイレのしぶとい汚れを指でこすり取ったその人である。空手に限らず、仕事や生活でも肝と根性の座った女性なのだ。今年の前半は怪我や不運も重なり思わしい成績を残せないでいたが、やっぱり悪い事ばかりじゃない。一心不乱に夢に突き進む人を神様は応援してくれるけど、影で力を発揮することをいとわない人間にも、微笑んでくれる神様はいるのである。
 強烈な歓喜とはまた違った、じわーっと染み込むような喜びもある。
                     2014年11月22日




世界一だ!


 KWF極真会の第1回世界大会中量級で山田哲也が優勝した。ここは極真古参の名匠、ルック・ホランダー氏が代表を務めるだけにヨーロッパでは会派を越えたまとまりがあって強い。実際日本を代表した名だたる選手たちも外国勢の強烈な攻撃力の前に次々と屈していった。
 山田の一回戦はカナダ代表。2回戦はカザフスタン代表。技あり判定等でここまでは楽勝。準決勝はヨーロッパ大会の準優勝者、ポーランドのベネル選手。強い。体幹が強く筋肉が日本人とは違う質で出来ている感じだ。千変万化の動きで主導権を握り続けた山田が判定を獲ることが出来た。そして決勝、相手はヨーロッパ選手権のチャンピオン、アルメニアのトロシャン選手。ここ数ヶ月で殻を破ったような成長を遂げたらしく、ここまで圧勝で勝ち上がってきた。『剛』の空手である。山田は『柔』、全身のバネとしなりを使って技にタメと威力をつける。日本人はこうしないと強く打てない。外国人でも黒人や南米の技能派選手は比較的こうした動きをする。だが北欧やロシア系の選手はここが全く違う。突きも蹴りもモノをぶち壊すように部位を叩きつけてくる。延長、体重判定でも決着はつかず、再延長にもつれ込む。最後の戦場に駆け上がる直前、山田は「俺は絶対勝つ!」と大声で気合を入れ直した(ゴジラのように)。そしてそこまでの戦法を変え、激しい打ち合いに持ち込んでいった。これまで何人もの強敵(多くはその時点で山田より強いと思われていた選手)を打ち破ってきたラッシュだ。トロシャンはその猛打の前に崩れ落ちて行った。一本!。山田の戦歴の中でもひときわ見事なフィニッシュであった。
 「世界チャンピオンになる!」山田が白帯のとき、審査用紙に書いた目標である。稽古を積み上げ、いつも上のものに挑みながら山田は成長していった。細胞だって危機にさらされなければ進化しない。彼がもがきながらその体に叩き込んだものは、逆境に打ち克つ確固不抜の精神力だったのである。
 一本の旗が上がった瞬間、私はとなりに立っていた人が誰だったか覚えていないのだが強く抱きしめてしまった。失礼しました。宮島や林君は泣いていたし、会派を越えた合同稽古のメンバーも、もちろん講士館の仲間たちも飛び上がって喜んでくれた。本当にありがとうございました。
 守りに入ったもの、挑戦しないものは衰退する。これからも山田が証明してきた道に続く者を、喜びも苦しみも共にしながら歩いて行きたい。
                     2014年11月9日




ゴジラの気合


 審査会では特に気合の大切さをいつも伝えている。気合という言葉はいかにも体育会あるいは軍隊規律のような響きがあるが、いざという時に体と心をしっかり結び付けてくれる底力となるものである。最初は腹から声を出すことで内臓も鍛え、技が当たる瞬間に力を集中させるために行う。そうした稽古を繰り返していると自然に集中力がつき、気持ちの切り替えができるようになる。現代の試合ではルールがあり、反則箇所以外の鍛えられる部分を徹底的に強化した者同士が戦うから持久戦になることが多く、一撃にこだわれない向きもあるので試合中に頻繁に気合を入れる選手は少なくなった。それでもここ一番という時、丹田に力を込められるのは稽古で培った気合の蓄積なのである。
 気合で思い出したのが『ゴジラ』だ。今年、久しぶりに見た映画が『ゴジラ』だった。喜ぶと思って連れて行った娘と息子は『トランスフォーマー』の方が良いというので館内で別行動となり、一人で見ることになったのだが、やっぱりおもしろかった。アメリカ版らしい兵士と家族の絆の物語も描かれていたが、なんといっても主役はゴジラである。自分の生活を脅かしかねないムトーという怪獣の雄と雌の遭遇を阻止するため、はるばる太平洋を泳いで横断し、力任せに叩き伏せようという姿勢が実にすがすがしい。最後の対決でニューヨークの摩天楼をバックに、「もう絶対、ぜーったい!おまえらカップル許さん!」と言わんばかりの物凄い気合を入れるシーンは圧巻だった。あれは相手に対する威嚇ではない。怒りと、自分に向けての気合だったのだ。
 本当は自分のためだけに行動したゴジラだったが、結果的に人類を救うことになった。戦いの後、一晩死んだように眠ったゴジラはやがて目覚め、ふたたび海に帰ってゆく。その雄姿に人々は感動の拍手を送るのだった。
 あのゴジラの、全身がはち切れるような「気合」。痺れました!
                    2014年10月22日




スマホ


 「長谷川先生にはスマホは似合いませんね」全日本大会当日、役員席の隣に座った総極真の門馬先生に、新しく取り替えたスマホのカバーを自慢していたらそう言われた。門馬先生はあのクールなまなざしで「やっぱり、長谷川先生にスマホは似合いません」と、とどめを刺すように繰り返した。2回言われると反論する気力も失せるもので、そうか、俺にはスマホはきっと似合わないのだな、と納得するしかなかった。
 同じ日、昭武館の岡野館長にはにこやかに肩を叩かれ、「長谷川さん、まだあんなスマホのゲームやってんの?」と聞かれた。岡野館長のゲーム好きは有名で、北斗会の市塚師範と競い合うほどである。私はゲームにはあまり興味はないのだが、バブルだけは岡野館長よりうまいのできっと悔しかったのだろう。「あんなのいつまでもやってないで、長谷川さんも物忘れがひどいんだから、頭の訓練になるゲームやりなさいよ」と言って最近『物忘れ防止ゲーム』なるものをスマホで始めたことを教えてくれた。そんなゲームがあるとは知らなかった。館長は「そろそろやばいよ、気をつけなよ。すぐにこのゲーム送るからさ、やりなよ!」と念を押してくれた。
 大会では宮島が優勝し、岡野館長は閉会式の総評においてもいつものユーモラスな口調で選手たちをねぎらい、私に対しても祝福の言葉を述べてくれた。本当に明るく優しい方である。
 あれから2週間が過ぎた。大会の余韻もそろそろ抜けてきたころである。似合わないスマホを今日も開いてみる。岡野館長からは何の音沙汰もない。
 『物忘れ防止ゲーム』…。忘れられちゃったようです。
                    2014年10月11日




ハートにマイナス


 宮島健太2段が日本国際空手協会主催の第18回全日本選手権で初優勝を飾った。対抗馬と目されていた中平君の反則による戦線離脱もあってか、ほぼ無人の野をゆく内容であった。1月のJKJO制覇と合わせ、これで今年の全日本2冠を達成できたことは喜ばしい限りである。ただ、忘れてる技があったりするところが宮島らしいといえば宮島らしい。破壊的なパワーと少年のような優しさとそそっかしさ、その不思議なアンバランスが彼の魅力なのだろう。ヘラクレスは未だ未完成なのである。
 大会を総体的にみると、今回においては少し顔面への反則パンチが多かったように思う。明らかに顔面に入ったパンチで選手が崩れ落ちる場面が数度あり、有力選手も星を落とさざるを得なかった。危険なことでもあるのでこの処置は仕方ないところだろう。
 ただ昨今感じるのは、顔面パンチや金的攻撃を受けたという過剰アピールをするシーンが増えてきたな、ということだ。今大会は無かったが、こうしたアピールの多くは大したダメージの無い、判定を有利にしたいというシミュレーションのように見える。ある若手の選手は東京でも大阪でも、出場する大会すべてで、ほぼ全試合でこうしたアピールをしていた。もうこうなると狼少年である。首あたりにかすったパンチやで苦しそうに倒れ、もがき、それでも試合再開となると猛ラッシュをかける。こうした行為は作戦なのかもしれないが、長い目で見れば本人にとっても決して良い事ではない。
 アピール出来ること自体、そう深刻なダメージは無い証拠である。闘志が十分に燃えていればそんな手段は必要ない。相手には当たったかどうかは分かる。当たった場合はともかく、当たってもいない技でそうしたアピールをされたら、途端に精神的優位に立てるのである。勝負というものは接戦であればあるほど精神的優劣が流れを分ける。わずか数分の戦いに、そうした行為で自らのハートが強くないことをさらけ出すのは愚作である。
 本人には自分の気持ちの弱さがわかるはずだ。そうしたことをしてしまったのなら、次からはもっと強化すればよい。
 マイナスは自覚すれば取り戻せる。
                     2014年10月1日




言葉の剣


 母親というものは、子供のことを真っ先に考えるものである。それは素晴らしい事であるが、周囲に人がいる場合は気を配ることも大切だ。一人の時は決して言わないであろう言葉を、子供に聞かせたいがために不用意に口にしてしまったのだな、という場面に私も何度か居合わせたことがある。
 道路工事をしている人の脇を通った子供連れのある母親が言った。「○○ちゃん、勉強しないとああいう仕事することになるわよ」
 力仕事している人が勉強しなかったわけじゃない。それがどれだけ大切な仕事かも、もちろんその母親だって知っているはずだ。
 もっと最悪なのは、身体障害者を目にした子供に向かって、「良い子にしてないとああいう病気になっちゃうわよ」と言った母親。おそらく悪気はないのだろう。身障者を気の毒に思う気持ちはあるのだと思う。ただ、あまりに浅はかなのだ。自分の子供しか見えていない。身障者にも家族はいる。その母親だって子供は自分の命よりも大切なのだ。そんな人の心を切り裂くような言葉は、絶対聞こえるように言ってはいけない。
 私が少年時代に兄の車椅子を押していた時、そうしたことで傷つくことがあった。必死で兄の気持ちを他に向けようとしたし、そういった視線を感じた方向に対しては思い切り尖った視線を向けたものである。ただ、兄を含めて身障者本人は、そんなことでは傷つきはしない。そんなことで傷ついてたらとても生きていけないからである。ただやっぱり残念に思うだろう。自分のせいじゃないんだから。
 先日はこんなことがあった。駅のベンチに腰かけて電車を待っていた時、私の前に高校生くらいの男の子が立って本を読んでいた。通りかかった親子、小さな女の子がその高校生を指さして言った。「ママ、ほらイケメン、イケメン!」すると母親は女の子の手を引きながら笑顔で言った。「こぉーら、ちがうでしょ」
 こんなことなら笑ってすむ。でも高校生くらいの男の子は結構繊細なんだよな。そんなつもりで言った言葉じゃなかったとしても、お母さん、あれは余計なひと言でした。
                     2014年9月15日




ポイントカード始末記


 最近どこで買い物をしても「Tポイントカードはございますか」と言われる。これがどうもうっとおしい。私はカードは持たない。とにかく持ち歩くものを最小限に抑えたくてしょうがないのだ。ポケットに入るものだけにしたい。それも出来る限り薄く。ところがある時どこかのガソリンスタンドで店員の問いかけにスラ返事をしていたらこのTポイントカードを作られてしまった。仕方がないのでバイクのポケットに入れておき、「Tポイントは…」と聞かれたら見せてやろうと備えておいた。ヤマダ電機で買い物をした時、案の定レジで「Tポイントカードは?」と聞かれたので出してやった。何故か知らないが「勝った」と思った。ところが少しすると店員は、このカードはIDの登録が済んでないのでポイントは貯まりますが使うことが出来ません、よろしいでしょうか?と言う。とにかく長居はしたくなかったので意味は分からなかったが「わかりました」と言って通過してきたのだった。
 ジュース買ったりコロッケ買ったり雑誌買ったりするのに、いちいちポイントなんかいらないんだよな。レジとかはパッと通り過ぎたいんだよね、パッと。
                     2014年9月6日




ガードマン・ブルース


 学生時代の夏休みはアルバイトで埋まった。収入のほぼすべては胃の中に消えてゆく。新聞配達を皮切りに、ガードマン、お茶のセールスマン、土方、絨毯の洗濯、パチンコ屋の店員、いろいろやった。炎天下の建設現場もきついし、重い絨毯を干す乾燥室の作業も辛いのだが、なんといっても一番しんどいのはガードマンだった。工事中の道路の真ん中に立ち、車の流れを旗を振って片側に導いたり止めたりするアレである。編上げの頑丈な安全靴を履き、アスファルトの上の炎熱地獄に一日中立ったままだ。頭も体も使わないから時間がなかなかたたない。いくら暑くても忙しければ時間はあっという間に過ぎてゆくが、こればっかりはずっと秒針をにらんでいるような仕事なのである。仕方がないので私はずっと歌を歌っていた。10曲歌って腕時計を見ると30分くらい経過している。これを繰り返してジリジリと焼かれる死ぬほど長い時間を誤魔化していたのだ。
 バイトのあとは稽古が待っている。すでに汗の塩分でザラつく体を道衣で包み、冷房なんてありえない当時の道場で力の限り稽古した。そのあとは仲間と飲んだり食い放題の店に行ったりしたが、いくら食ったって太るはずがないのだ。こうした日課はみんな同じようなものだったから特につらいとは思わなかった。ギラギラ光る太陽と勝負しているような仕事だったけど、今思い返すと懐かしい。
 この夏も道路工事のガードマンをよく見かけた。昔と違って学生ではなくかなり年齢の行った人が多い。歌を歌っている人はあまりいないようだ。熱い中、ご苦労様です。
                     2014年8月23日





 「ハハハ、地球人だって立派な宇宙人じゃないか。我が宇宙には1000億の太陽を抱える銀河系のような島宇宙が1762億4321万866もあるんだぜ」
 と、ペガッサ星人は言った。(ウルトラセブン研究読本より)
 今年、地球から約500光年離れた宇宙に、地球とほぼ同じ環境にある星が見つかった。太陽があってその周期を回る距離も質量も地球と同じくらい。水もあるらしい。ケプラー186fである(ケプラー宇宙望遠鏡が発見した☆にはこの名が冠される)。一光年は約9.5兆キロメートルだから、500光年となるととても想像できる距離ではないのだが、そこに星を見つけ、水があるかどうかまでわかってしまうところまで人類の科学は進んだのである。ウルトラセブンの頃には遥か遠い存在だった宇宙はどんどん近づき、星を発見してそこに旅立とうという、まさに宇宙人としての地球人になりつつあるのだ。
 夏季合宿の八ヶ岳からは、今年は例年よりもはっきりと綺麗な天の川が見えた。奥がどんなに深かろうが、この目に映るのは黒いスクリーンに散らばる美しい星の絵だけである。
 いつか「天の川」なんて言わなくなるのだろう。それぞれ正式な名称がつき、あそこはアメリカが先に行ったとか、あそこは中国が領有権を主張しているとか、あそことあそこは戦争状態にあるとか…。
 ああ、やっぱりまだ当分は天の川でいてほしい。
                     2014年8月2日




絶対条件


 友人から聞いた話だが、ブラジルにはサッカーの代表選手並みの技術を持つプレイヤーは、町中のいたるクラブにゴロゴロいるのだそうだ。こと足でボールを扱うことに関しては、ブラジルのサッカーレベルはとてつもなく高いという。それではなぜそういった選手たちが町のクラブどまりになっているのか? もちろんチャンスに恵まれなかったとか、スカウトの目に止まらなかったとか、いろいろ理由はあるだろうが、一番の理由は、本人にそれほど強い意志がなかった、ということらしい。
 納得のいく話である。以前書いたキューバの運動選手育成システムは、意志があろうがなかろうがその人の素質が十分活かせる道に向けて集中訓練させる、というあまり自由の感じられない方針だった。いくら頑張ったって、君には素質がないからこっちに行った方がいいんだよ、と言われるのは、自由主義の国で育った身には、理屈では分かっても納得できない部分が多い。好きなものを選んで良い。そしてどんなにうまくてもその気がないならプロなんかになる必要はない。それは人としては自然なことだ。
 人間には才能も大切だけど、やっぱり気持、意志が第一なのである。もちろんそれがビッタリ一致していれば言うことはない。それでもその人を輝かせるのは、いわゆるオーラのようなものは、意志の強さから生み出されるのだと思う。
 そのへんのおっさんがボール持たせりゃマラドーナ、みたいな現象がブラジルじゃあるのかもしれない。でもそれはおそらく、楽しむだけの空間だからできることで、それこそ国の代表という重圧の中では発揮できないものなのだろう。
 どの世界でも、トップを目指すには「強い意志」こそが絶対条件なのである。
                    2014年7月20日




判定


 6月最後の日曜日、極真連合の全日本ウエート制選手権大会で、中量級に出場した講士館の山田哲也が準決勝で敗退した。接近しての突きが反則とされて減点となったのが敗因である。掴んでも押してもいない、胸を合わせての突き合いが片方のみの反則というのは理解できない。オブストラクション、つまり反則を誘発する行為だとしての注意としても、あの場面で試合を完全に決定づける減点が妥当がどうかは、見ていた者全員が疑問に感じたことだろう。
 試合後、対戦相手の中嶋選手が山田の所にやってきて「すみません」といった一言に、試合内容のすべてが語られていると思う。中嶋選手にしても、しっかりと試合で決着をつけたかったはずだ。今回中量級において第一シードになった4人はどこに出てもトップに食い込む素晴らしい選手たちだったと思う。福地という天才的な選手も、本格派の的場選手も、試合巧者の中嶋選手も、うちのエース山田も、だからこそ思う存分戦わせてやりたかった。
 選手同士は試合後もお互いの実力を称えあっていた。いずれも血のにじむような稽古を積んできた者たちだ。何も言わなくても通じ合うものはあるのである。
 愚痴ではない。試合としてこの競技の未来を考えれば、将来にオリンピックという舞台も視野に入れるなら、たとえ主催者が単一の団体だったとしても、判定の公明正大さをもっと追究してゆくべきだと、あらためて思う。
                     2014年7月3日




父ちゃんカッコイイ!


 FIFAワールドカップの開幕戦、ブラジルの選手たちは嵐のような歓声に包まれながら、抑えきれない興奮やのしかかるプレッシャーを何とか跳ね返そうと必死に体を揺すり、大声で気合を入れていた。どんなに準備をしても、勝負をかけた大一番を前に平常心でいられる人間などいない。私はこういう極限の状態を迎えている人の姿を見ると無条件に感動してしまう。彼らはこの上ない幸せの瞬間にある。しかし同時に絶壁に立つような緊張感も味わっているのだ。
 ワールドカップといえば、日本が初戦を戦っていた日曜日、講士館の本部夏季審査会も予定通り行われた。今回一般の黒帯挑戦は一名、文京道場の須田君である。途中ブランクがあったものの、20年を越える歳月を経てついに今日を迎えた。少年部に通う息子二人を引き連れての10人組手である。私は組手の最中、須田君は倒れても絶対立ち上がると確信していた。立ち上がれないような状態になっても、子供に大声で応援されたら父親は絶対立ち上がるものである。そう思いながらも、というかそう思ったからこそだろうか、私は須田君を見ていたら涙が溢れて本当に困った。子供に背中を見せるのが父親の最大の仕事である。父親は強くなければならない。でも本当の強さとはなんだろうか? 親としての威厳とか、子供の視点との違いとか、いろいろあるだろうけど自分の身をもって心をひとつにする行為は本当に勇気がいるし、大変なことだと思う。一平、周平ふたりの眼にこの日の須田パパはどう映っただろうか? 今はわからなくても、記憶の底に深く残り、きっと二人の心の支えになるだろう。
 父の日、父ちゃんはネイマールよりカッコよかった!
                    2014年6月21日





 忘れてしまいたいことや、どうしようもない寂しさに包まれたときに、男は酒を飲むのでしょう…。カラオケで歌ったこともある有名な歌だ。でも私はそういう酒を飲んだことがない。挫折や深い悲しみに落ち込んだことは何度となくあったが、そんなときにはどうしても酒を飲む気になれなかった。悲しみを酒で紛らわせば、酔いがさめた時のつらさはそれ以上になってしまうだろうし、何も解決しないのは明白だからだ。そのかわり、めちゃめちゃに走ったり、サンドバッグを叩きまくったりしたことはあった。これだって何も解決しないのは同じなのだが、なぜだか心の整理がつき、頭の中をリセットするきっかけがつかめるのだった。もしかしたら、自分からいろんなものが失われたとしても、空手だけは体から消えてゆく事はないんだ、という最後のよりどころを確認したかっただけなのかもしれない。
 昔の映画で、年老いて見る影もなくなったボクサーが、自分の不摂生から家族に見捨てられ、友達も失い、それでも若き日の雄姿を思い浮かべつつたった一人でシャドーボクシングをするというシーンがあった。プログラムの最後のコメントには「この男は最後まで自分の間違いに気づいていない」という一文で締めくくられていたが、必ずしもハッピーエンドで終わるとは限らない人生、その不遇な結末の中で、もがくしかない男の姿としては納得がいくような気がしたものだ。
 私には1人で酒を飲む習慣がない。悲しい酒も飲まないのだから、飲むときはいつも誰かと楽しく飲む。バーの片隅に腰かけて一人バーボンをロックで飲みたいとも思うが、フィリップ・マーロウじゃあるまいし、なんだかそういうのは面倒なのである。
                     2014年6月1日




ポール・マッカートニー倒れる


 ポール・マッカートニーのコンサートには一度だけ行ったことがある。20年くらい前に東京ドームで行われたものだ。ビートルズは中学時代から好きで(もちろんリアルタイムではない)高校の頃バンドを組んでコピーしていたくらいだからチケットが手に入った時は嬉しかった。席はかなり上の方だったが、斜め下に見下ろすポールのあの首の揺らし方は今も瞼に焼き付いている。昨年ポールが再び来日した時も、極真時代の後輩であり、友人の福田君から「チケットが手に入りましたから行きましょう」という誘いを受けたのだが、その日は稽古指導が外せなかったので涙をのんで辞退した。今年は連絡はなかったものの、おそらく福田君は10万円のプラチナチケットを買って、準備万端整えて待機していたことだろうと思う。こんなことになって非常に気の毒だ。
 ジョンとポールは天才である。でも当然ながら数多くの曲を聴いて自分たちの肥やしにしていた。1966年にビートルズとして初来日した時も、ホテルの部屋で日本の様々な音楽を聴いていたという。素材を多く仕込むからこそ、その才能を利用して自分の味に料理することも出来るのだろう。先日、初めてバッハのCDを聴いていて感じたことの一つは、ああジョンとポールはバッハを聴いていたんだな、という当たり前と言えば至極当たり前のことだった。ベートーベンやモーツアルトもバッハを土台にしているのだから、バッハを聴いていない音楽家はいないにしても、200年以上離れたクラシックの匂いをロックのメロディに自然に流し込むとは、やはり「さすが」としか言いようがない。
 ポールは70を超えた今も、コンサートでは2時間以上全身で歌い続ける。次回は私も準備を整え、福田君と「観戦」に行きたいと思っている。
                     2014年5月25日




グレートマザー


 野生動物の番組でライオンの親子を見た。群れを離れた母ライオンが、子供たちを引き連れて孤軍奮闘しながら生きてゆく姿である。子守り役がいないから狩りの時も子供がついてきてしまう。獲物を見つけて接近し、草むらに身をひそめて近づく。子供たちも真似をする。ところがあと少しのところで子ライオンが飛び出してしまい、狩りは失敗の連続となる。人間だったら言葉で注意して同じことを繰り返さないようにするところだが、ライオンの母は黙っている。飢えに苦しみ、命の危機にもかかわらず失敗は続いた。ところがある時、飛び出した子ライオンが逃がした獲物を、それを予測して待ち伏せた母ライオンがついに仕留めたのである。子供の失敗を利用して成功に導くとは、まさに偉大なる母である。子ライオンは自信をつけ、次第に狩りが上達する。いつの間にか母ライオンの後ろをついてきていた子ライオンが母親と並ぶようになり、やがて狩りの先頭に立つようになった。群れで暮らす子ライオンより、格段に早い成長だ。
 子育ての真髄を見た思いである。積極的な失敗は許す、という母ライオンの命がけの態度が子供の力を委縮させず、失敗が成功に変わるという体験で、やる気を飛躍的に伸ばしたのだ。人間だったら「私はこうして子供を自立させた」といった本でも出すところだが、そんな出過ぎたことはしない(当たり前だけど)この母ライオンは尊敬に値する。
 母の日に良い番組を見させてもらいました。私は成長が遅かった方ですが、母にはもちろん感謝してます。
                      2014年5月15日




たぶん、永遠に


 背中の痛みが悪化し、東都大会は欠席させて頂いた。頸椎からきているらしく、どうやら阿部君と同じ症状のようである。まあ誰でも50を過ぎれば多少のガタは来るのだ。上手く付き合っていくしかない。まだ飛び後ろ回しで空中のリンゴも割れる。
 若い頃、その動きは一生鈍らないと思っていた。稽古を続けていればずっと続くと思っていた。そして何かアクシデントが起きたら、体が思うように動かないような何かが起きたら、きっぱり空手はやめてしまおうと、ぼんやり考えていた。
 1950年代のアメリカに、サチェル・ペイジという黒人野球選手がいた。人種差別のあった時代なので全盛期に大リーグで活躍することは出来なかったが、今でも史上最高のピッチャーと多くの人が認めている名選手である。あまりに速い球を投げるので、新聞記者から「それほどの速球をいつまで投げられると思うか?」と尋ねられ、ペイジは「たぶん、永遠に」と答えた。これは、取り方は様々だと思うが、私は究極の本音だったと思う。自分の実力は決して衰えないと心からそう思える時期、つまり『若さ』の絶頂期なのだ。慢心ではなく、まっすぐに自分の道が未来に伸びていると感じられる無敵の季節なのである。
 誰でも肉体の老化には直面する。病気や事故で加速される場合もある。でも若いうちから先のことを心配して力をセーブしてはいけない。必死に鍛錬して、自画自賛するような動きが出来て、「たぶん、永遠に」出来る。と思うくらいやってみるべきだ。自惚れるくらい、やってみるべきだ。
                      2014年4月20日




でっかい太陽


 マサト君がドイツに旅立った。小さなころから私のもとで空手を習い、小学生時代には大会で何度も優勝した生徒である。私が指導した中でも、5本の指に入る勘の良さを持った男だった。高校を卒業してドイツに向かった彼が目標にしているのは、ブンデスリーガでサッカー選手としてデビューすることである。そのためにまず現地での大学入りを目指してホームステイし、バイトしつつ5部まであるサッカーリーグのチームにチャレンジしてゆくのだという。空手で鍛えたおかげでサッカーの試合でも、相手と交錯した時は決まって相手が吹っ飛んでゆくだけで自分はノーダメージです、と笑う。口数の少ない男だけに、夢を語る時も飾ることなく朴訥に話す。そこに信念の強さを感じるのだ。
 誰も知る者のいない未知の国に、夢だけを抱えて飛び込んでゆく。これこそ若さの特権だろう。「大きな空にはしごをかけて、でっかい太陽その手でつかめ…」。一昔前に流行った青春ドラマの主題歌そのままではないか。
 送別会のあと、握手して別れた。数日後、道場の私の机の上に彼からの手紙が置いてあった。私との出会いを喜び、必ず成長して帰ってきますという内容が、簡潔に、男らしく綴られていた。
 これから良いことも辛いこともいっぱいあるだろう。でも君の夢はきっと叶うよ。でっかい太陽、つかんで俺に見せてくれ。
                     2014年4月10日




クラークのタイヤ


 ジム・クラークというF-1レーサーがいた。アイルトン・セナに抜かれるまで年間優勝回数や、ポールポジション獲得回数を保持していた天才ドライバーである。抜群に速かったらしい。そして彼が運転するとタイヤの摩耗が他のドライバーと比べて断然少なかったという。つまり力づくではなく、理にかなった、マシンと調和する流れるようなドライビングだったのではないだろうか。
 空手でも無理のない流れるような動きが大切である。体重移動をバランスを保ちつつしなやかに行い、相手の技をわずかにずらし、すかし、流れのままに技を返す。対戦者にしてみれば攻撃が吸い込まれていくような、技が溶かされてゆくような嫌な感覚を覚えるだろう。そして自分の摩耗、つまりダメージは少ない。これこそが剛柔の「柔」であり、小よく大を制す武道の理想の一つの形だ。そういった空手家を一人でも多く生み出していきたいものである。
 大東流合気柔術の始祖、武田惣角の履いていた下駄は、左右ともまったく均等に、水平に減っていたという。クラークのタイヤ、惣角の下駄。おそらく本人はそこをことさら意識してはいなかっただろう。速さのため、隙のない動きのため、自然とそうした現象が起きたのだと思う。
 全く違う世界でも、達人のエピソードには共通するものがあって面白い。
                     2014年3月30日




筋肉が邪魔


 阿部徹君の第一回目の手術が無事終了した。まずはヘルニアの手術である。一昔前、これはかなり危険を伴う手術だった。今では大きく切開することもなく、小さな穴をあけるだけで背骨を矯正、金具固定が出来るらしい。ところが彼の場合、背筋が異常に発達していたためこれを掻き分ける作業が困難を極め、通常の何倍も時間がかかってしまった。何しろやり出したら数千回をこなす阿部君の背筋である。おそらく鋼鉄のワイヤーロープをよじりあげたようなものだったのではないだろうか。ドクターには深くお礼申し上げたい。
 私も事故で太ももを骨折した時、手術をした医者はなかなか骨までたどり着けずに苦労したとこぼしていた。長い年月をかけ、汗水たらして鍛え上げた筋肉である。量もさることながら、その収縮力は常人とは違う。肉を透かして見るレントゲンではつかみきれないものなのだろう。
 そういえば私の時は大腿部の骨折で収縮した筋肉を伸ばすため、手術の前に一週間足を滑車につけた重しで引っ張り続けたのだ。これが夜中になると、ビクビク筋肉が痙攣するのである。骨は折れたままだからそれは物凄い激痛で、うとうとするたび、ビクッという痙攣で何度も飛び起きたものである。
 ベッドで痛みに耐えている阿部君を見たら、その時の自分を思い出してしまった。彼にしても、そんな筋肉をもう積み上げることもないだろうと思うと少し可哀想になったので何となく慰めると、「でもこれでまた弱った背筋を鍛えられます」と言う。
 なんともまあ、こればっかりは死ななきゃ治りませんな。
                      2014年3月12日




雪と拳の記憶


 記録的な大雪に見舞われた2月中旬の週末、東京と本部の春季審査会は予定通り行われた。金曜の府中は吹雪の中、土曜の文京では乱れたダイヤをかいくぐり、日曜の本部はまだ深い雪に足を取られながら、昇段審査でも無事3人の黒帯が誕生した。みんな本当にご苦労様でした。
 初段昇段の少年部二人、そして田中裕也の10人組手は素晴らしい内容だった。才能は経験を積んでこそ花開く。人間は山も谷も自分の足で踏みしめて経験しなければならない。上手くいくときもいかない時も、成功も失敗も、感動も失望も、全てひっくるめて人格が出来上がる。豊かな感情や優しさや、心の強さが形成されてゆく。
 執念というものは特に後天的な部分が大きい。育ち方や境遇だ。裕也のような物事にあまり執着しないあっさりとした性格は悪い事ではないが、勝負に関してはマイナスとなる。私も若い頃よく師に言われたことである。試合で優勝を逃した時、そんなものは予選で負けたのと同じだ、と毎日のように言われ続けた。師から見たら、当時の私の勝負に対する甘さが歯がゆくてならなかったのだろう。褒められて伸びる人も、叩き落される時があっていい。内に眠る虎を揺すり起こすため、あの手この手を周りは使う。昇段の壁もそのきっかけとなれば言うことはない。
 おそらくこの日の事は昇段した3人の記憶に一生残るだろう。たとえばこの先大雪に見舞われた日には、体のどこかが疼くかも知れない。そして思い出すのだ、この時の感動と、胸を貸してくれた先輩のしびれるほど痛かった拳の味を。
                      2014年2月27日


言い訳を一つ


 偶然が重なって誤解が生まれることがある。ある土曜日の事、私は自宅から空手着を着て、その上にトレパンとジャンパーで本部道場に行った。稽古を終え、やはりジャンパーを羽織って電車に乗り、文京道場に向かった。稽古をすべて終え、池袋から西武線の特急に乗って帰途についた。暑かった。特急は前向きの指定席だし、隣が空席ということもあって私はジャンパーを脱いだ。つまり空手着で座っていたことになる。でも駅に着けば上に着るのだからいいだろうと思っていた。そこへ車掌がやってきた。偶然にもその日、その電車の車掌が私の道場生のY君だったのである。Y君は空手着で座っている男に驚き、さらにそれが私だったことに衝撃を受け、挨拶もせずに立ち去ったらしい。後から聞いた話でその時私は全く気がつかなかった。
 また、とある日曜日、午前中の稽古のあと、やはり空手着に上着を着て帰ろうとしたのだが、生徒と食事をすることになった。和食レストランに入り、そこが個室になっていたので気にも留めず私は上着を脱いだ。つまり空手着で座っていたことになる。でも個室で人に見られるわけじゃないし気にしなかった。ウエイトレスが注文を取りに来た。私はメニューを見ながら注文した。なかなかウエイトレスが引き下がらないのが少し気になった。食事を終え、お金を払おうとしたら、レジに立っていたのは少年部の生徒のお母さんだった。さっきのウエイトレスその人で、笑いをこらえているようだった。
 私は普段、直接空手着で街を歩くことは一切ない。たまたまあの2回だけが例外だったのである。確かに誰にも見られるはずもないという油断はあった。しかし、偶然そこにああした形で居合わせたのが見知った人だったというのはほとんど奇跡に近いのではないだろうか。
「長谷川先生は普段から空手着で生活している」という噂を耳にした方、そういったわけでそれは誤解です。
                     2014年2月11日




未完成ヘラクレス


 宮島がJKJO第5回全日本空手道選手権大会の最高峰、一般重量級で優勝した。並はずれて強靭な体幹とバネを備えながらも開花しきれなかった大器が、ようやく掴んだ全日本のタイトルである。会場の代々木第一体育館を出て、その夜に原宿で飲んだビールは格別の味だった。隣で飲んでいる酔っ払いたちまでいい人に見えた。
 地力の割に試合内容にはやや不安定な部分もあったが、なかなか完成しないところが宮島らしいところかもしれない。良いではないか、明日から欠けてゆく満月より14番目の月が好き、というユーミンの歌もある。未完成の魅力は底知れぬ力を持つ者にしか纏えないものなのだ。
 運もあったと思う。だけど「運」は誰にでも巡ってくるもので、不運の時はじっと耐え、幸運はしっかり掴み取ることが出来るかどうかが問題なのだ。今がやるべき時だ、と感じた時、即座に最大限に力を発揮できるかどうか、万全の準備がものを言う。
 試合前、最近涙もろくなってしまいました、という宮島に、「腹が減ってるだけだろ」と茶化していた私だったが、優勝が決まって泣きながら報告に来た宮島と握手を交わした時はさすがに感極まった。
 応援団も大喜びだった。手術を間近に控えた阿部徹も笑っていた。腕の骨折で来れなかった小宮もメールで喜んでた。
 勝利は仲間も幸せにするのだ。
                     2014年1月30日




寒中お見舞い申し上げます


 毎年の事ながら年末年始はあわただしくて、好きな読書も進まなかった。並行して寝る前に読んでいた数冊の本は枕もとで途中に栞が挟まったまま。開くと眠ってしまう。読もうと思って買っておいたS・キングの「11/22/63」上下もまだ開いていない。勢いで買ったカルロス・クライバーのCDは一度かけてみたのだが、やはりベートーベンの重さにはちょっとビビッてしまい、数分で切り上げてしまった。ゆっくり聞く時間と耳を養う余裕が必要と感じた。
 だがとりあえず稽古全クラスはぐるっと回り、調子は戻ってきた。試合も近い。今年は1月から大きな舞台が控えてるし、春先からは大会が次々とやってくる。みんな気合入っているからこっちも身が引き締まってくるのだ。幸せなことだと思う。
 息抜きは犬の散歩である。毎回散歩前は喜びに身をよじって暴れ狂う愚かな愛犬のナツと早朝か夜中に歩く。リードを引っ張り、引っ張られ、いくつかのコースを気の向くまま選んでゆく。ある朝、用水路に張った氷にナツを乗せようとしたら滑って氷が割れ、手がどっぷり冷たい水につかって飛び上がった。見事に身をかわしたナツはそんな私を振り返り、口に手を当てて「シシシ」と笑った。
 早く暖かくなってほしいものです。
                      2014年1月21日




GINZA


 高橋力先輩の紹介で、銀座・三笠会館の東平圭司顧問と会食の機会をいただいた。現在83歳の顧問は東大法学部卒業後、通産省の試験に合格する超エリートでありながら「民間」にこだわり、「チッソ株式会社」に入社する。水俣病の裁判で辣腕を振るい、当時の新聞に顔写真が載るほどの注目を集めた。その後「三笠会館」の顧問として社員教育などの職務に従事してこられた方である。お話を伺うにつれ、私はこの方の人格の素晴らしさに頭が下がる思いでいっぱいになった。私のような若輩に対しても丁寧な言葉使いで、空手の話にも熱心に耳を傾けてくださったうえ、謙虚ではあるが適切で鋭いアドバイスを随所に入れてくれる。高齢であり、ずば抜けた頭脳と経験を持ちながらも腰が低く、目線を合わせたうえで難しい話も分かりやすく話してくれた。
 感動したのは、顧問が三笠会館に入った当時、レストラン業が経済界では低く見られており、そうした中で活動することで皆の人格がしっかりしていった、という話だった。立場が高い(と思っている)人間は高慢で進歩がない。謙虚な心を無くした者は滅びていく、というのは確かに歴史が証明している。顧問が教育した研修生は、みんなどこに出ても自信を持って仕事が出来たということだった。
 銀座といえば、あの「海賊と呼ばれた男」のモデルである出光佐三の本拠地もあり、戦後から日本の復興、成長の中心地でもある。その中で磨き抜かれた男は、こうした柔和な自然体になるのだな、と得心した思いである。
 それにしても…、まだまだ修行が足りないな、俺は。
                     2014年1月10日




道場より愛をこめて


 松井代表率いる勇志会の新本部道場落成パーティーが練馬で行われた。3階建ての綺麗な新築ビルの1階が道場になっており、多くの関係者がお祝いに訪れていた。松井代表は私の顔を見るなり「乾杯の音頭と挨拶をお願いします」とのことで、僭越ながら、一緒にひたすら強くなることを目指した日々のことを思い出しつつ祝辞を述べた。将来のことなど全く考えず、空手に没頭していた20代前半の頃だ。すぐに頭に浮かんだのは、この綺麗な道場とは対極にあるような若き日の彼の住まいである。中野のおんぼろアパート。引越しの手伝いに行った私が、思わず靴を履いたまま上がろうとしてしまった暗い部屋。蒲団と電気釜とどんぶりとプロテインしかなかった狭い部屋だ(詳細は『カラテ狂時代』に)。流派を超えた空手仲間が集まれば、空手談義で飲み明かすこともたびたびであった。そんな中でも人一倍体を造ることに燃えていたのが松井代表だった。今でこそ空手界の一翼を担う人物であるが、はっきり言って当時は道場はおろか自流を起こすことすら全く考えてはいなかったはずだ。強くなって試合に勝つこと。お互いそれだけで精いっぱいだった。必死に空手に生きてきた結果、こうした成果というか形が出来たということだと思う。
 祝賀会がお開きになっても、松井代表の奥さんを交えた数名で飲み続けた。思えば私も同じだが、あの頃の何もなかったぼろい部屋にも「夢」はいっぱい詰まっていたのだ。だから給料のほぼ全てを食費と鍛錬費につぎ込んで笑っていられたのだろう。でもあの頃に戻りたいわけではない。松井代表もそうだと思う。なぜなら今もその夢は形を変えて続いており、お互い大好きな空手の渦中にいることは少しも変わっていないのだから。
                    2013年12月25日




歯が痛い


 今年もあとわずかとなり、やることはやっとかなくてはならない。私も決心して歯医者に行くことにした。誰でも歯医者は苦手だと思う。私も同じである。10年前に被せた奥の銀歯が2年前から外れて痛み出してはいたのだが、何度もアロンアルファでくっつけてごまかしていた。だがついに限界が来たようだ。それでもわずかに抱いていた「痛みを散らすだけで終わるかも」という淡い期待は、歯科医の冷たい態度ですぐに消え去った。もう手遅れ、抜くしかない。最悪である。
 20年ほど前に右下の奥歯2本を抜いた。歯というやつはつっかえが無くなると伸びてくるようで、右上の奥歯は異常に長い。もちろん毎日きちんと磨いているのだが、とにかく歯医者が嫌いなので多少の痛みは我慢しているうち、いつも最後はこうなるのだった。
 「空手の方がずっと痛いでしょ?」私の奥歯に麻酔を打ちながら、悪魔のような歯科医は戯言を言った。どこの医者も同じようなことを言う。面白い返事をしてやったのだが、開けた口に手を突っ込まれた状態だったので「あががが」というもがき声にしかならなかった。歯の根っこがバキバキに割れていたらしく麻酔も余計に打たれ、痛みはずいぶん長く続いた。稽古に影響が出ないよういつもより大声を出して指導した。でもついつい左手を頬に当ててしまうので違和感を持った生徒がいたかもしれない。
 皆さん、多少気乗りがしなくても今年中にやることはやっときましょう。
 それにしてもやっぱり、私は歯医者が大嫌いである。
                    2013年12月15日




ムサシの彗星


 アイソン彗星が太陽に焼かれて消えた、という新聞記事を読んだ。社説には「イカロス」を連想させる、と書いてあった。私は「ハチのムサシ」を思い浮かべてしまった。40年位前に流行った「ハチのムサシは死んだのさ」という歌である。
 「お日様めがけて剣を抜き、試合を挑んで負けたのさ。焼かれて落ちて死んだのさ…」というような歌詞だったと思う。意味はよく分からなかったが好きな歌だった。たった一人で巨大な敵に向かってゆく、その潔さとか、徒党を組まない気高さとか、決断力とか、そういったことにカッコよさを感じたのだろうか。もちろん彗星に意思はないにせよ、単独で太陽に突っ込むなんて見上げた根性である。
 ハチのムサシの二番はちょっと泣ける。
 「ハチのムサシは死んだのさ、夢を見ながら死んだのさ、遠い昔の恋の夢、ひとりぼっちで死んだのさ…」
 明日か明後日あたり、夕暮れの空を見上げれば、アイソン彗星の消えゆく残骸が見えるかもしれない。
                    2013年12月3日




阿部徹の空手


 阿部徹副代表の手術が決まった。まずは腰の手術、さらに股関節を人工のものに取り換える手術である。普通の人間ならとっくに車椅子の生活になっているのだが、彼の特殊な能力により警察の激務にこれまで耐えてきた。だがそれもついに限界を迎えたようだ。
 阿部徹という男は私がこれまで接してきた空手家の中で最も稽古に妥協のなかった男である。150センチ台の小さな体で、体重無差別の全日本のタイトルを2度獲るというのは生半可な努力では叶わない快挙なのである。若い頃の山田に言ったことがある。「阿部徹の10分の1でも稽古をすればお前なら必ずチャンピオンになれる」。本気だった。山田の素質もあるが、10分の1といってもたとえば腹筋運動なら日々400回を超える量になる。通常考えられないような量を阿部は自分に課してきた。
 大東流柔術の武田惣角、講道館柔道の西郷四郎、合気道の塩田剛三、空手でも藤平昭夫大先輩など、武道において、本当の達人は人並み以下の体格である場合が多い。そうした偉大な方々も当初は自分の体の小ささから普通の稽古では通用しないと考え、人の何倍、何十倍の量を、周りには悟られないように積んできたのだろう。
 文京道場の稽古に顔を出した阿部君は、参加していた稽古生全員にスパーリングで胸を貸した。手術後はもう二度と空手の動きは出来ない。稽古の後、二人で飲みながらこれからのことを話した。交通事故後、私も元通りには動けなくなったが、自分を納得させるのは簡単ではない。ましてや阿部徹の心と体は空手で出来ているのである。この世の終わりと感じても仕方ないのだ。でも、乗り越えなければならない時は来た。
 私が20代だったころ、一人で夜中まで稽古していた時、道場の隅っこでずっと私を見ていたのが少年時代の阿部徹だった。話しかけてみると、目をキラキラ輝かせて「僕も強くなれるでしょうか?」と聞いてきた。「なれるよ、頑張ればね」私は言った。その日から阿部徹は私の弟になった。何度も組手で叩き伏せた。厳しくもした。どんどん強くなった。チャンピオンになり、試合から退いて指導する立場になっても、体にガタが来はじめても、寝る時間を削って稽古した。40歳を超え、4段昇段をかけて連続組手に挑んだ時は、どんな状態になっても現役の山田や宮島に手を抜かないように言ってください、と私に念を押した。山田や宮島も、阿部の拳を受けながら、また阿部の体を叩きながら、この男の魂を注入されたはずだ。
 だから阿部徹の空手は、彼らの拳となってこれからも戦い続けるのである。
                    2013年11月16日




講士館杯白書


 感動は行動のエネルギーとなる。いかに理論的に説得されようが、心が動かなければ人は自発的に歩き出さない。感動する心は素直である。誰の心にも波長があり、どんな素晴らしい出来事もそれを受信する状態になっていなければ反応することもない。ではどうした時に人は感性を研ぎ澄ますのか? ひとつjは全力を出し切った時だと思う。自分の力を出し切ったとき心は浄化される。負けて泣く、勝って泣く。心は大きく動いている。さらにその時、自分の境地を越えている人を見た瞬間、そこに純粋な目標が生まれ、頑張る意味を理屈抜きに理解することがある。こうした経験が大切なのである。
 無事終了した講士館杯のプログラムをあらためて見直す。赤いボールペンで書かれた勝ち抜き表の中に、選手たちの奮闘する姿が甦ってくる。あの子はあんな戦い方をするのか、という驚きや、必死の形相で向かってゆく逞しさを見た時の感動、隠された才能を発見した喜びなど、全てが私にとっては大切な記憶となった。コート二面で進行していたため行ったり来たりしていたのだが、途中から真ん中に立って両コートを見守っていた。ご家族の懸命な応援や、先生たちの心配そうな視線、それぞれの思いも伝わってきて、何度も熱いものが胸にこみ上げてきた。
 体にじかに響く衝撃や痛み、それを乗り越える強さ。踏み込んでいく決断。そして勝つ喜び、負ける悔しさ、そのすべてが「本物」なのだ。全力を絞った結果の脳と体の記憶が、これから自分の歩く道を照らしてくれるだろう。
 すべて、素晴らしい試合だった。
                    2013年11月9日




忘れる


 土曜日、本部道場の稽古を終え、文京道場まで移動しようとしたときに携帯を家に忘れてきてしまったことに気づいた。文京道場に向かうときはバイクを本部に置いたまま電車を使う。緊急連絡が入ることもあるので仕方なく荷物を道場に置いたまま一旦自宅までバイクで戻ることにした。ところが家についてポケットを探ってガックリ。鍵を道場に置いてきてしまったのだ。道場まで引き返す。何を忘れてどこに向かっているのかこんがらがってきていた。
 考え事をしていると、何かを忘れてしまう。いつもバイクで走る道を、たまたま故障で自転車を使った時もそうだった。あることで頭がいっぱいだった私は、乗っているのが自転車であることを忘れ、いつものように右折車線の先頭で信号待ちをしてしまった。信号が青に変わり、一気に右折しようとして右手を回した瞬間我に返り、大慌てで脱出して事なきを得たのだが、あの時は危なかった。周りの車もおかしいとは思っていたのだろうが、クラクションも耳に入らなかったのかもしれない。
 秋も深まり、そろそろ朝晩冷え込んできた。大嫌いな冬がやってくる。冬の良い所はポケットのいっぱいある服を着れるということだけだ。何かを手に持っていると忘れてしまうから、出来る限りのものをポケットに詰め込む私にとっては。
                    2013年10月19日




完全燃焼


 完全燃焼している強い炎は、澄み切っていて静かである。メラメラといかにも燃え盛っているかのような炎には実は不純物が多く、燃え切っていない。
 闘志と同じである。ギラギラと人を威嚇するような態度は実は弱気の裏返しですぐに折れてしまう。覚悟が決まり、本当に集中した人間が発するオーラはむしろ静溢で他を威圧しない。捕食者が獲物を捕まえるときに殺気を消すのとも似ている。体の全機能が相手を倒す一瞬に向けて凝縮されているような状態である。
 先日、川崎で行われた第17回JIKA全日本選手権で5度目の優勝を果たした渡邉将士選手の戦いぶりは、まさに凄まじい闘志を完全燃焼させた本当に見事なものだった。北斗の中平君やうちの宮島なども、圧倒的な判定や鮮やかな一本勝ちを重ね、肉体的には王者を凌駕する部分もあったのだが、いざ渡邉選手と向かい合うや、その闘志に呑み込まれ、焼き尽くされた感がある。以前のように離れても接近しても対戦相手を圧倒できるような状態では無かったようだが、決め技一発で仕留める技量と集中力は絶品としか表現しようがない。円熟と言うより、いまだ勝負執念で若手とは全く別次元のレベルにあった。
 チャンピオンは常に追われている。その座を狙うものは王位が空く前にチャンピオンを倒さなければならない。巨大な壁を突き破ってこそ、王座に就く価値が増すのである。
 決勝戦に向かう宮島に私は言った。「ビビるな。思い切り殺されて来い!」迷いや怖れといった不純物を振り切り、しっかり決断して飛び込むしか勝機はないと思ったからである。結果的にはそれが出来なかった。勝者は勝利が紙一重と感じても、敗者はそれをとてつもない差と感じる。その境界線を常に自分に引き寄せる渡邊選手が「あっぱれ」なのであるが。
 勝負が決した瞬間、ほんのわずかの間、渡邊選手は顔をくしゃくしゃにして泣いた。そこにはチャンピオンの孤独と重圧から一瞬だけ解放された本当の顔があったように思う。
 完全燃焼した男の、純粋で美しい顔だった。
                    2013年10月2日




雨と雨の間に


 北斗会の主催する北斗カップが川越の芳野台体育館で行われた。当日は台風直撃前とあって朝から大雨であった。カッパを着てバイクにまたがり、アイホンで場所を検索して出発する。しかし、甘かった。まずは激化した雨。土砂降りなんてもんじゃない。滝に打たれてるようなものである。途中から道も川と化した。さらに場所。アイホンで確認しながら走るには天候が悪すぎた。何度も道をそれ、たどり着けない。田畑ばかりなので仕方なくでかい建物を目指したあげく、工場やら学校やらをたらい回しにされた(自分で運転しといてこんな言い草してしまうほど疲れた)。道を聞こうにも歩いてる人がいない。時折すれ違う車は声の代わりに水しぶきをかけてくれた。結局、慣れていれば30分で着くであろう距離を1時間半かけてたどり着いたのだった。
 それでも試合内容は充実していた。予選、決勝共にリーグ戦方式で試合数も多かったし、ルールも最後まで気の抜けないよう工夫があった。市塚師範の選手に対する心遣いが感じられる大会でもあった。私の生徒も頑張り、努力家だがこれまで勝負運に恵まれていなかったA君も見事に入賞した。出稽古も含めて週に5回、クラスにして8クラスの稽古を黙々と続けているA君である。負けても負けても道場では笑顔で頑張ってきた。今回の勝利と入賞に、彼は試合後しばしうずくまったまま泣き続けた。1勝や1敗の感じ方は人それぞれだろうが、彼の小さな体に詰め込んだ思いはどれほどのものであったか、常に稽古を見てきた私にも痛いほど伝わってきた。
 大会後は雨も綺麗に上がり、帰り道は順調だった。だが途中、少し寄り道をして買い物をしたのが余計だった。帰宅直前、一瞬にして豪雨に包まれ、結局はずぶ濡れになってしまったのである。
 雨と汗と涙と、最後は再び雨に締められた一日であった。
                    2013年9月20日




怖さを知る


 ポジティブとか、プラス思考とか、とにかく強気に前向きに考えることが良い結果を産む、といった思考形態が今やメジャーである。これに異論はない。ただし、性格を曲げてまでやみくもに強気になることがプラス思考ではないと思う。軍鶏は自分を大きく感じているというし、牛は逆に自分を小さいと思っているという。人も感じ方はそれぞれなのである。元来臆病で優しい人は、ことさら自分を鼓舞することが苦手かもしれない。なんでもかんでも「自分が有利だ」と思い込もうとする必要はないのだ。
 試合当日、選手に調子を尋ねると、「楽勝ですよ」というその顔が蒼白だったりすることがある。闘志に燃える目ではなく、明らかに緊張でひきつった状態で不自然に強気な言葉を口にするのは逆効果だ。無理矢理引っ張った感情は往々にして一気に反対方向へ流れ出す。むしろ弱音を吐くことでリラックスしたり、とにかくストレスを生み出さない方向を探った方が、特に短時間で決まる勝負には得策ではないだろうか。
 全日本チャンピオンにもなったO選手は抜群の実力を持ちながら、風貌とは裏腹に、いつもネガティブな言葉を口にしていたという。試合前に「今度の相手はむちゃくちゃ強い、もうだめじゃ」と頭を抱えていた後、その相手の膝を蹴り折って一本勝ちしたりした。
 マイク・タイソンが若い頃、試合前に怖くなって逃げ出したことがあるというのも有名な話だ。逃げては元も子もないが、いざリングに上がった時のタイソンの強さは誰でも知っている。
 試合場に上がった途端に肝は座るものなのだ。だからそこまでの時間、強がるより本音でプレッシャーから解放されるのならそれも良いではないか。納得のいく稽古が出来たなら、本番は絶対大丈夫。相手と向かい合えば、気持ちは逆に落ち着いてくる。
 恐怖と正直に戦った時間こそ、経験という土台になるのだ。
                     2013年9月7日




ニックネーム


 お盆休みで実家に帰り、幼なじみと久しぶりに飲んだ。その中に横田君という40年ぶりに会う友人がいた。昔の友人に会うと真っ先に思い出すのは「あだ名」である。彼のことは「たこ」と呼んでいた。タコに似ているからではなく、よこた、という名をさかさまに読んで「たこよ」から「たこ」となったのだ。当時の横田君は紅顔の美少年であり、いくら「たこ」と呼んでも本人はもちろん、誰も何とも思わなかった。だから、今回横田君と再会した瞬間、私が彼を「おう、たこ…」と呼ぼうとしたのは反射に近いものだった。だが、そこで私がつい口ごもってしまったのには理由がある。40年の歳月を経、彼の頭髪は見事に消え去り、昔の面影を残した可愛い丸顔はそのまま日に焼けて赤く、つまりは外見的に完全な生き物の「タコ」になってしまっていたのだ。これはまずい、と咄嗟に思った私は「おう、横田くん」と呼んでしまった。それを聞いた彼は「なんだよハセ、昔の呼び方でいいよ」と言ってくれた。「そうか、じゃあ…」とは言ったものの、知らない人が見たらこれは完全に悪口でしかないだろうな、などとまた余計なことを考えてためらってしまったのだった。
 ニックネームというのは欠点を突くものとか、「そのもの」では駄目なのである。そこにユーモアと思いやりが要るのだ。小さい人間を「ちび」と呼ぶのは中傷でしかないのである。そういえば私が20代の頃、トレーニング場に「パンチさん」と呼ばれている人がいた。ちょっとトロイ感じの人だったがボクサーではないし、パンチパーマでもなかったので不思議に思い、仲間にその由来を聞いたところ「パンチドランカーみたいだから」というあまりに直球な答えが返ってきて笑ってしまったことがある。これなんかもあまり褒められたつけ方ではないだろう。
 横田くんの場合は仕方ないのである。本人が勝手にあだ名と似てきてしまったのだから。
 「で、たこは今何やってんの?」なにげなくそんな会話をしながら、現在の横田君の顔を見つつ、かすかな罪悪感を感じていた私であった。
 横田君がこの文章を間違っても読みませんように。
                    2013年8月25日




アメリカの大和魂


 ニューヨークの本間師範率いる本間道場の、日本における合宿の打ち上げに招待されて参加した。池袋で行われた祝宴は、国籍様々な道場生のほか、大勢の関係者でにぎわっていた。現都議会議員であり、空手における私の先輩でもある石川良一先生や、今ではプロレスラーである元極真空手の強豪小笠原師範。格闘ドクター小山先生、Kー1のレフェリーだった大森先生や荻野先輩など、旧知の方々との嬉しい再会もあり、私にとっても楽しい会だった。本間師範の人望の大きさを改めて感じさせられる。
 本間師範との出会いは約十年前、ニューヨークのオリバー師範を訪問した時のパーティーでのことであった。私は当時誠道塾の門下生であった彼に対し、礼節を重んじつつも筋を通すためにはどんな相手にも臆さず意見を言う古き頑固な日本男児、という印象を持ったことを覚えている。その時はなぜかニューヨークにこういう日本人が存在することが嬉しくてたまらなかった。その後私も彼も独立し、手紙のやりとりだけが続いていたのである。久しぶりに再会した本間師範は相変わらず頑固そうな顔をしていた。嬉しかった。
 空手界の枠にとらわれず交流を深めようとする姿勢は、この会に参加した全員に共通していた。私が空手を始めた頃すでに全日本大会で活躍していた石川先生や、天才的な選手だった小笠原師範など、試合レベルの空手に深く没頭したことのある人たちとの会話は、すぐに話が通じて一気に盛り上がってしまうから面白い。経験と実感がこもった理論には説得力もある。
 時間の経過が恐ろしく早く感じた。情熱的であり、礼節をしっかりと身につけた武道家たちは、多少暑苦しいが酔い方も実に律儀であった。
 人のつながりは会う回数に比例するものではない。
                    2013年8月10日




 合宿


  八ヶ岳の夏季合宿が無事終了した。詰め込み過ぎかな、とも思った内容だったが、稽古も遊びもイベントも、みな一生懸命かつ楽しみながらこなしていたので「あっ」という間に終わった感じだった。朝練、グラウンドトレーニング、プール、本稽古(新しい型特訓、組手強化にひたすら集中した三日で6時間の濃い内容)、一般選手の特訓、マラソン大会、バーベキュー、バイキング、すいか割り、演芸大会、花火、きも試し、最終日の千本突き…。
 4時半起床〜9時消灯の団体生活はもちろん楽しい事ばかりではないだろうけど、休み時間も虫捕りや仲間とのいろんな遊びに興じる子供たちの物凄いエネルギーは、環境の変化と刺激による影響も大きいのだろう。
 中学生のRは黒帯であり体も大きく強い。選手特訓にも参加し、宮島のパンチに沈んで泣いたりもした。比較的おとなしいRだが、夕食のあと見つけた巨大なカエルを抱えて各部屋を回るというやんちゃな一面も見せた。猫のような大カエルに頬ずりして「かわいい」という姿は異様でもあったが。
 大学受験を控えた千葉の高校生2名も参加し、選手特訓では山田、宮島、田中らに伸ばされながらも最後まで踏ん張った。演芸会では擦りむけた足の裏に練りカラシ、トウガラシ、わさび醤油などを次々と塗ってどれが一番効くかという自虐ネタ(プロデューサー山田いわく「夏の自由研究」)まで披露し、最終日のマラソンもフラフラになりながら完走した。
 ひぐらしの声で目覚め、夏の自然の中で仲間と空手に没頭する幸福の時は短いが、まるで時差があるかのように帰宅して日常に戻るのにいつも時間がかかる。何かが完全にリセットされるのだろう。
 合宿が終わると、もう気分的には秋なのである。
                    2013年7月27日




ドア障害


 講士館期待の若手であるYはドアが苦手である。何故だかわからないがドアの開け閉めに問題がある。兄貴分の山田と風呂屋に行った時のこと、Yはトイレに入った後、何故か中からドアをガンガン叩き、「出してくださいよ!お願いしますよ!まずいっすよ!」と大騒ぎをしている。不思議に思った山田が「なにやってんのおまえ?」とドアを引きあけると、汗だくのYが驚いた顔で言った「あ、引き戸だったんですか」。
 先日も稽古場である学校の門を開けることが出来ず、「やばいよ、壊れてるよこの門」と騒いでいたところ、見ていた小学生が「こうだよ」と開けてくれたという。府中の稽古のあとでもドアの施錠にもたついて宮島に文句を言われていた。誰しも一度くらいなら勘違いで済むが、こう度重なると見過ごせない。本人いわく「ドア障害」なのだそうだ。意味は分からない。人間いろんなのがいるものである。でもYは消防官を目指しているから「ドア障害」はまずいんじゃないだろうか。災害時に人を救出に行ってドアでつまずいてたんじゃ話になるまい。そう言うと、Yはきっぱりと「消防は人命救助が第一ですから、その時はドアを壊します」と言い切り、「あちょ!」と足刀を決めて見せた。
 アホである。みんなに可愛がられているが、そそっかしい。このあいだも宮島にジュースをおごってやる、と言われて「やったー、CCレモンいいすか」と自販機のボタンを押したYだったが、抱えていたバッグが別のボタンに先にぶつかり、出てきたのはコーヒーだった。残念…。
 なんだか冴えないやつ、と思われるかもしれないが、そうではない。Yの顔は端正で空手の素質も抜群なのである。近い将来、奴は大会で旋風を巻き起こすだろう。
 会場のドアさえ無事通過出来れば。
                    2013年7月15日




笑う


 私の母は笑い上戸だった。時も場所も関係なく、ツボにはまると些細なことで周りがびっくりするほど笑った。呼吸困難になるんじゃないかと心配するほど笑った。幼少の兄を施設に長期入院させなければならなくなったときは一晩中泣き明かしたという母だったが、苦しい時代を乗り越えられたのは、悲しみに沈みそうな時でも何か小さなことで笑えることが出来たからだろう。私が少年時代、人を笑わせることに生きがいを感じていたのは、きっと母が笑い上戸だったからだと思う。母が笑ってくれるから、暗い状況の時でも母が笑顔だと安心できたから、一生懸命笑わせることを考えていたのだろう。
 笑いには大きなエネルギーがあるらしい。ナチュラルキラーなんとかいう免疫が分泌されるのだという。悲しい時に一人ぽつねんと笑うのは痛いかもしれないが、誰かに肩を叩かれるだけで心に詰まった塊がほぐれることもある。笑顔はもらう方も幸せになるのだ。
 強くなるっていうのは、どんな時でも歯をくいしばって耐えるばかりではなく、苦しくても幾通りかの道を見出せる余裕を持つということじゃないだろうか。そうすれば転ぶたび人は強くなる。
 ピンチに立ったら笑ってみよう。見えなかった道が、うっすらと見えてくるかもしれない。
                     2013年7月7日




夏の陣


 講士館では、昇段は自分の意志で決めさせている。受けろとは言わない。自分から受けますと言わない限り受けさせない。しっかり決断しなければ突破できないからだ。
 23日の千葉本部での審査を最後に夏季審査会が終了した。今回も昇段に挑む若手にはあえて厳しい言葉をかけ、背水の陣を敷かせた。踏ん張りどころ、勝負どころを見極め、絶対つかみ損ねない決断をしてほしいのである。
 初段昇段と同時に金バッジが授与される。黒帯は空手家としての実力と努力の証、バッジは講士館の仲間としての誇りを、つけていなくても常に胸に抱いていてほしい。空手は個人のものだけど、仲間が周りにいるからこそ、互いに磨きあっていけることを。
 昇段決定の時、胴上げの祝福を受ける。これがまたとてつもなく気持ちが良いのである。その前に地獄を見たからなのか、精も根も尽き果てた力の全く入らない体だからなのか、ついに難関を乗り越えたという安堵感からなのか、おそらく全部ごっちゃになっているのだろう。私自身の記憶でも、あの時の空中に浮かんでいた時間がやけに長く感じられる。その後、全日本大会で優勝した時も胴上げの栄誉に浴したが、浮遊感という点では比べ物にならないほど初段昇段のあとの心地よさは格別だった。
 きちんと準備する人が本番に強い。普段の稽古から本番のイメージを常に持っている人が普段通りやるからリラックスしながら集中できるのだ。
 節目は大事にしよう。
                    2013年6月27日




VS新種


 事務仕事をしていた私の眼の端を何かが横ぎった。ゆっくりと動かした視線の先に、ヤツがいた。私は動きを止め、机の脇に置いてあるワルサ―P38を握り、冷静に照準を合わせて引き金を引いた。弾丸は正確にヤツの背中に命中し、絶命。狙撃後の静かな余韻にしばしひたり、私はワルサ―を置いた。次の作業は捕獲。ティッシュを手に接近する。出来ればじかに触りたくない。
 ゴキブリは死んだふりをする。そして噛むのである。この事実は私が敬愛していた空手の先輩から30年前に聞いた話だ。下宿の部屋で裸でうたた寝をしていた先輩は、胸の上にゴソゴソ動く異物がいることを何となく感じていた。払おうとした瞬間、針を刺すような鋭い痛みが走り、飛び起きてその異物を掴むと、それがなんと一匹のゴキブリだった。その時まで先輩はゴキブリが人を噛むとは思ってもみなかったので、驚きと怒りで思わず握り潰したという。窮鼠猫を噛むというが、ゴキブリに噛まれるとは、おそらく先輩の部屋には長い間ろくな食べ物もなかったのだろう。
 人類はおろか、恐竜の時代から幾多の生物が誕生し、滅んでいく中を延々と種を守り続けてきたゴキブリの強さは脅威である。最近また新たに殺虫剤が効かない種が出てきたらしい。それまで大好物と思われていた甘いものを「苦い」と感じて(ほんとかなぁ?)食べないのだそうだ。
 でも誰が、どこからそんな操作をしているのだろう? おそらく進化というものはあるのだろうが、個々の危機が種全体の性質を変えるというシステムが理解できない。とにかく薬品では奴らは耐性を持ってしまうようだ。
 だからシンプルに、私は打撃で戦う。一発で仕留めたのは嘘じゃない。
                    2013年6月17日




宇宙に届く


 紙を30回折ると宇宙に届く。以前そんな話を聞いた時は笑い飛ばした。しかし冷静に計算すると確かにわずか0.1ミリの薄い紙も、30回折るとその厚さは10万メートルを超えるのだ。ありえないが成り立つパラドックスのような話である。
 ほぼ互角の勝負を称して「紙一重の差」という言葉が使われる。この差を取れるものがすべてを掴み、取れなかったものがゼロとなる。まさに天と地の差。さらにその紙一重を取ったものは勝負の分かれ目を体得するためか、その後ますます勝負強くなる傾向がある。紙一重は途方もない大きなものに変化してゆくのだ。
 だが、負けた時に得るものだって大きい。反発のエネルギーほど大きく爆発するものだ。しっかりとした準備をしたものほどそれがバネになるだろう。紙一重をひっくり返すのは予想以上に大変かもしれないが、逆転のチャンスは常にある。
 日々の稽古なんて、考えてみれば一枚一枚紙を重ねていくようなものである。高くなっているんだかどうだがなかなか実感がない。突き一本一本、腕立て一回一回、それが一筋の筋肉となり、一本の神経となり、体を強靭に、感覚を鋭く、反射を研いでゆく。夢中で流す汗の一滴一滴がそうした大事なものを作り出す。その成果が帯であるか、タイトルであるか、求めていた理想であるかはそれぞれにせよ、それは自分の夢という宇宙に到達したことになるのではないだろうか。
 積み重ねれば、宇宙に届く。パラドックスではなく。
                     2013年6月3日




感動通信販売

 現代はネット販売という便利なものがあって、いろんなものを家に居ながら選んで購入することが出来る。昔も通信販売はあったけどかなり怪しい物が多かった。世にも珍しい蝶々が安く手に入るという雑誌広告を見た小学生の私は、その頃まだ≪現金書留≫というものを知らず、茶封筒に直接百円硬貨を数枚入れてポストに投函したことがある。当然のことながら郵便局より不正郵送の罰金を請求する通知が来た。親には怒られ、ガキだった私はビビッてしまい郵便局に行かなかった。すると不思議なことにやがてその金がそのまま戻ってきたのである。私は喜んだ。同時に通信販売などという危ないものには(危ないのは自分だったんだけど)二度と手を出すまいと誓った。
 その私が再び通信販売に手を染めてしまったのは高校生の時。『カラテ狂時代』にも書いてある通り、買ったのは「ハンディまきわら」である。フェルト製の、木に縛ってすぐに拳で突ける鍛錬用具だ。手に持って叩いても効果あり、というわけのわからない注釈までついていた。私は庭の柿の木に縛ってひたすら突きの稽古をした。さらにバイト代を投入し「鉄下駄」を購入。ガラガラ音を立てて街中を歩いた。ほとんどマンガの世界であるが本人はいたって真剣だった。近所のおばさんたちは鉄下駄でやっとこさ歩いてる私を見て、「あら、かずくん凄いわねえ」などと微笑んでくれていた。良き時代だったのか、まあ心の中では「かわいそうに」と思っていたのだろうけど。
 物は直接見て、選んで買うのが普通であるが、今となってはメジャーなネット販売ならかなり鮮明な画像が見れるし保証もあるから安心だろう。でも、イラストで描いてあるだけだったり、説明だけだったものを「どんなものが来るのだろうか?」とワクワクドキドキしながら到着を待つのも楽しいものだった。ほとんどはがっかりするものだったと思う。インチキも多かった。私の場合買ったのは鍛錬器具だけだったけど、箱を開けるたびに感動したものだ。ああいったマイナー通信販売はもう存在しないのだろう。
 そういえば現実を知ってからは忘れ去ってしまったあの鉄下駄。どこへいったのだろうか?。見つかったら道場に飾っておこうと思う。
 二度と履かないけど。
                    2013年5月25日


 理由


 「なんで空手なんかやってるんですか? 痣作ったり骨折ったりしながら」 若い頃よくこういう質問をされた。これは言ってみれば、一心不乱に遊んでいる子供に「なんでそんなことをしているの?」と尋ねるのと同じことである。かっこいい言葉を考えたりしたけどなんだか嘘くさい。プロの格闘家でない以上金銭が目的ではないし、人類や地球規模の理由まで用意しようと、「没頭」とか「熱中」を語る言葉にはならなかった。
 逆に落ち込んだ時、自分に問いかけたことはある。「何のためにこんなことをやっているのだろうか?」どんなに好きなものでも、打ち込むほどに辛くなることも増えてくるから誰でも一度は考えるだろう。無理して納得する言葉を探そうとした。でも、そんな理由が要らなくなったのは、いつも希望の方がすぐに大きくなったからだ。
 勝つ奴は例外なく負けず嫌いなのである。壁にぶつかっても挫けずもがく。そしてそこが次のステージへの扉となって開いた時の喜びが、さらに大きな壁にぶつかってゆく力になる。厚い壁は大きな扉となり、その繰り返しが歩く道を固めてゆく。
 「どうしてそこまでするのですか?」 何か一本道を突き進んでいる人にそうしたことを尋ねる裏には、聞き手にとって納得できる損と得のバランスが欲しいのだろう。
 年齢を重ね、モチベーションを外に求めるようになってくると、皮肉にもそのバランスがとれてくる。
 たぶん多くの場合、そうなったらひとつの終りだ。
 非論理的な、だからこそ無尽蔵だったエネルギーがついに底をつくと、常識的な理由でエンジンを動かす辛さとの葛藤が始まる。
                     2013年5月12日




チェックメイト 


 チェスではクイーンの戦闘能力は群を抜いている。将棋でいうと飛車の力を持っているのがルークで角と同じ力がビショップ。その両方の能力を備えたのがクイーンである。まさに最強のエースだ。キングは一番大切な駒なのだが動きが鈍く戦えない。勝負はクイーンたちにもう一つ、ナイトという飛び道具も加えた4種の駒の働きでほぼ決まる。将棋と比較するとチェスは狭い戦場の中で、より可動範囲の大きい戦士で戦う攻撃的なバトルマッチだといえる。獲った駒を使える将棋は、捕獲、再生といった柔らかい側面を持つが、チェスは敵を倒すのみという過酷な生き残りゲームだ。それだけに相手のキングを追い詰める最終局面は、クールな判断力と怒涛のラッシュが必要となる。
 技も頭脳もある空手選手の戦い方を見ていて、チェスのラストシーンを連想してしまうのは私だけだろうか(たぶんそうだろうな)。打撃系格闘技はある意味空中戦であり、相手との距離(間合い)の使い方が命運を分けることが多い。相手の動きを予測してフィニッシュまで一気にもっていける選手の手順は、チェスの名手が仕掛ける盤上の「チェック」に似て憎いほど無駄がなく、激しく、美しい。
 ウエート制が徹底してきた影響もあるのだろうか、最近、軽中量級にスピードとボディバランスの良い若い選手をを目にすることが多い。大会という坩堝で誰かが効果的に使った技は散らばり、それぞれの場所でわずかに進化して再びぶつかり合い、知らぬ間に成長している。
 パワーで叩き潰すのも、ひたすら打ち合いに耐える強靭な体で勝ちあがるのも立派ではあるが、体力以上に優れた頭脳を感じさせる選手を見るのは楽しいものである。
 駒は揃えておこう。それを動かす方法は星の数。そして勝負を決めるのはクールな判断力を持つ冴えた頭脳! ということで。
                     2013年5月1日




消えゆく筆


 今年から中学校で書道の授業が無くなるらしい。全国一斉の動きではないかもしれないが、そういう流れなのだそうだ。いずれ筆文字は古代日本人の記録と芸術の中でしか目にできない貴重なものになっていくのかもしれない。
 私が小学校に入った頃、みんなの筆箱に必ず入っていたものの一つに「ボンナイフ」というものがあった。ジャックナイフ型の小さなカミソリである。駄菓子屋で20円で買えた。今聞くと眉をひそめる人もいるだろうが、当時は鉛筆を削るための必需品だったのだ。電動式鉛筆削りも出始めたころだったが、ナイフで綺麗に鉛筆が削れる人は「なかなか出来るやつ」だったのである。私は不器用だったから削るたびにどんどん鉛筆が短くなっていったのだが、たまに綺麗に仕上がった時は自慢したいくらい嬉しかったものだ。
 今では伝達手段として筆記用具すらいらない時代になった。
 時代は進化し、夢のような道具を人類は次々と生みだして生活を向上させているのだ。
 ただ、全てに歩調を合わせる必要もないな、と思う。遅いものには遅いものなりの、不便なものには不便なものなりの、味わいは確かにあった。
 たとえば、墨を磨る。墨汁もいいが固形の墨をするときのあのなんともいえない匂い。半紙を敷いて文鎮を置いて、やっとすりあがった墨で手や服まで汚して、書く。大概はへたくそな字。
 鉛筆を削る。がりがりゴミを出して、何度か失敗して時には指まで切ってやっとこ尖らせた芯。すごく気持ちいい。だけどすぐ丸くなる。すぐ折れる。
 もちろん必要に迫られてやってただけなのだ。それを一生懸命、仕方なくやってた。それしか方法がなかったからだ。でも懐かしいのはその行為に自分の成長過程が刻まれているからだろうか。作ってから使うので自然と大事にもした。
 おそらく、いつの世も進歩の喜びと、おいてけぼりになったものへのノスタルジーは交錯しながら時代は変わってゆくのだろう。今、最先端を行く機器にしても、いずれ必ず過去の遺物になる時は来る。
 ところで講士館の昇級、昇段免状は私の毛筆による味のある手書きである。何十年か後に、芸術的価値が出るかもしれないので大切に保管しておきましょう。
                     2013年4月17日




 CRP


 体がだるく動きが重い。まあこんな時は寝れば治る。だが翌日、下腹の痛みが午後になって徐々に悪化。夜も痛くて眠れない。三日目、ついに血尿が出たので病院に行った。診察前に体温を測ると38度。微熱だがひたすらだるい。
 触診、レントゲン、検便、検尿、血液検査。約一時間の診療から帰り、道場へ向かった。生まれてこの方、怪我は大小数知れずしたものの、内臓系は初めてなので勝手がわからない。
 二日後、病院から携帯に連絡が入り、検査結果を聞きに行った。すると先生は神妙な顔で「入院治療が必要かもしれません」と言う。白血球が増加し、血液のCRPという炎症度合いを表す数値が15を超えているのだという。通常0.3以下で、2を超えると中症、10を超えると重症、15を超えるのは先生も初めて見たそうだ。(大袈裟に言っているのではないかと帰ってからパソコンで調べたら本当にそうだった)先生は私を見て不思議そうに「立っているのも大変なはずなんだけどね」と首を傾げ、「とにかく抗生物質で様子を見て、再検査の結果が出るまで出来る限り安静に」と診断を下した。
 土曜日だったので本部道場の稽古をつけ、文京道場は黒帯に任せる。自覚症状が軽くなったからといって無理することもない。あれ、そんなはずはないんだけど、と思っているうちにバッタリいっても人間不思議はないし、そういう仲間も随分多く見てきた。三日後の再検査まで自分なりに慎重に過ごす。そして結果は…。ほぼ回復していた。ほっとした。3月に入ってからこれまで経験なかったことが続いて調子も崩したのだろう。
 一部ご迷惑もお掛けしました。スギ花粉も去ったようだし、ふたたび頑張ります。
                     2013年4月4日




 自分だけの未来


 キューバでは、将来有望な運動選手になりそうな子は中学生の頃に選別され、専門のコースに乗せられるらしい。その時、自分でやりたい種目を選ぶことはできないのだという。自分の夢と素質が合っている子はいいが、そうでない場合は何だか可哀想な気もする。社会主義と言ってしまえばそれまでだが、こうした方が君にとっては幸せだよ、と上から言われて「はい、じゃあがんばります」と言えるほど人は単純ではない。
 もしかしたらそれはある意味正しい。たとえば将棋などは、小学生の時点である程度(かなりのレベルである)の成績を出せてないとプロの道は閉ざされる。音楽でも生まれ持った才能のない人間には、クラシックなどの部門で頂点を極めることは出来ないのが現実なのだそうだ。でも、あまり早い時期に自分の未来を決められるのはやっぱり…、つまらないではないか。効率的に生きるだけが幸せではないだろう。
 マイケル・ジョーダンはプロバスケットボールのスーパースターだったが、本当の夢は野球の選手になることだった。彼はそれをバスケットで栄光の渦中にいるとき実行に移した。結局努力は報われず、メジャーの舞台に立つことはなかったけれど、彼自身が人生を振り返ったとき、その失敗覚悟の挑戦の日々が、栄光とは別の意味で重要な場面になっているに違いない。
 失敗して人は自分の道を選んでゆく。谷に落ちるから這い上がる。もちろん素質があったからといって成功するとは限らない。だからこそ自分の意志が何より大事なのだ。人生に道しるべはいくつも立っている。でも選ぶ自由は自分にあり、どれだけ頑張るかは自分にしか決められない。
 決めたら頑張れ! 自分だけにしか届かないところまで。
                    2013年3月25日 




父ちゃん 


 昨日(12日)の早朝、病院からの電話で父の危篤状態を知らされた。3年前から癌を患い、様々な治療を施してほぼ完治した直後、癌が消えた場所にできた穴をふさぐため再び入院したのが一か月ほど前で、見舞いに行く都度弱っていくのがわかったから覚悟はしていた。
 強い父だった。十代で招集され、戦地に赴く前に終戦を迎え復員し、母と結婚して上京した。私が小さい頃は何かにつけ「男はすぐに泣くな」とか「弱っちいなお前は」とか「根性がねえな」とか言われるので少し煙たい存在だった。剣道をやらせたかったらしく、空手を始めた時もあまり喜んじゃくれなかった。家族旅行などはしたことがなかったし、褒められた記憶も、語り合った記憶もない。
 父は退職すると、庭に囲炉裏のある小さな離れを作って過ごすようになった。あるときその中をのぞくと、私の写真を使った大会のポスターや、私が大会で獲った楯などが壁の一面に貼られていた。そんなものをいつ持っていったのか、不思議な気分だった。
 でも今になるとわかる。子供はいつまでも子供であり、親は永遠に親だ。私が捨てたかもしれないものを拾い、身近にずっと貼り付けておく。お互い何も言わなかったけど、そんなことをしてくれる人はもういないだろう。
 最後まで、話す言葉なんてほとんど見つからなかった。ただ、いずれ自分も同じような道をたどるだろうなとはいつも思っている。寂しさも嬉しさも、黙ってすべてしょっていくのが男なんだ、という手本ではなく見本として。
 父ちゃんもおれと話したかったんだろうな。でも口は悪かったし、気の利いた言葉も見つからなかったんだろう。
 ありがとうございました。
                     2013年3月13日




春一番 


  やっぱり今回も感動した。逞しく戦う姿、あの顔、あの必死の眼差し、心が勝手にシャッターを切っている。
 一人一人の力では、どんなに頑張っても越えられない壁がある。だからそれを越えた経験者の力を借りて、自分の限界を引き伸ばしてもらうのだ。
 昇段審査のあと、かける言葉は毎回同じ様になってしまうけど、いつも思う。こんなに頑張れた魂が、この先どんな困難に会っても、乗り越えていけますように。泣きそうな時もこの日のことを思い出して、自分の力を信じられますように。
                     2013年3月3日


 ある指導者の場合


  空手道H会のT師範と初めて会ったのは約8年前、佐藤塾当時の私が開催した関東大会に師範が出場申し込みをしてきた時である。その大会は国際大会出場をかけた最後の枠を競うもので、T師範も年齢的に最後のチャンスと考え、死に物狂いの稽古を積んできただろうと推察できた。ところが大会当日の朝、T師範は沈鬱な表情で出場の辞退を申し出てきたのである。理由を聞くと、少年部の門下生が喧嘩をし、相手を傷つけてしまった。その子に対し、自らの夢を犠牲にして、どれほど責任の重さがあるかを諭したいのだと言う。棄権の謝罪とともに、朴訥に話すT師範の苦渋に満ちた表情は強く印象に残った。
 生徒と一対一で向き合い、自分の夢を潰してまでその肝に銘じさせようとする。これは生半可な覚悟でできることではない。戦って敗れた夢ではないだけに、その無念さはどこにもぶつけようがなかっただろう。だが、その思いは必ずその生徒に届いたと思う。頬を何発か殴られるより、何十倍も効いたのではないだろうか。
 指導する側とされる側の溝に寂しさを感じるニュースには事欠かない昨今だが、指導者の在り方や時代は変化しても、心をぶつけていくT師範のようなやり方や、様々な実話に接しながら、そうした立場にいる人間は考え、悩み、成長していかなければならないと思う。
 こういう話で実名を出すのは本人が嫌がると思いイニシャルにさせて頂いた。JIKAに所属するH会は現在子供から大人まで、全日本クラスの大会で大活躍している。
                    2013年2月20日




 ウイリアム・オリバー落花抄


  人は、尊敬する人物や目標にしていた人の没年を超えると、ある種の区切りを感じるのではないだろうか。その人から「ここからは一人で行け」と背中を押されたような寂しさとともに、自覚を新たにする機会になる。人生は長さ勝負ではないが、年齢を重ねるごとに月日が過ぎ去るのは早くなる代わり、突き進むばかりだった心のスピードは少し緩められるようになるらしい。
 私は空手家を志した時、伝説的な過去の格闘家や武道家が目標に到達した年齢や、亡くなった年齢を気にするようになった。自分が自分なりにもやらなければならないことに対し、だらだら先延ばしにすることを避けたかったからである。
 ウイリアム・オリバーは憧れの空手家だった。高校時代に記録映画「地上最強のカラテ」で見た極上の足技を操るスター選手である。飛び後ろ回し蹴り、という当時世界で完全に使える者のいなかった技を見事に駆使していた小さな黒人空手家だ。私もその後、この技を徹底的に師に仕込まれ、自分でも必死に稽古した。自主トレの場所だった神社の境内では、周りの林の木の枝をこの蹴りと左回し蹴りで蹴りまくり、眼の高さの葉はほとんどすべて蹴り落としてしまったほどだ。
 このオリバーに一度だけ面会する機会があった。佐藤塾時代、国際大会への招待のため、先生方に随行してニューヨークまで飛んだ時のことである。この時、オリバー師範は「賢士会」という独自の道場を運営していた。そしてオリバー師範と私は、来たる国際大会の舞台でルール説明の演武をすることが決まったのだ。あのウイリアム・オリバーと飛び後ろ回し蹴りを応酬する場面を想像するだけで興奮した。空手衣に着替え、向かい合って蹴りを出し合った。本当に嬉しかった。最後に握手していただいた時、オリバー師範は私の手を強く握り、「体に気をつけるんだぞ」と言ってくれた。その晩にマンハッタンの居酒屋で飲んだビールの味は忘れられない。
 帰国して間もなく、オリバー師範の突然死が知らされた。全身の力が抜け落ちてゆくような気分だった。「体に気をつけろよ」あの時、師範がくれた言葉が遺言のように何度も頭の中を駆け巡った。夢のような演武は永遠に夢で終わることになったのだ。8年前の事である。
 今年の元旦、私は53歳となり、オリバ師範の没年を一つ上回った。オリバー師範が味あわなかった時間を、私は今生きている。あれからいろんなことがあった。でも空手に対する情熱と、蹴りへのこだわりは少しも変わらない。新しい蹴り技とかに出会うと、オリバー師範だったらこんな技をどう消化するだろうか?と、今もふと考えることがある。
                    2013年2月6日




 遥かなる横綱


  府中の大国魂神社では、節分になると力士の豆まきが行われるのが恒例だった。祖母が元気だったころ、兄と私を連れてってくれたことがある。主役は時の横綱・玉の海だった。参道の凄い人ごみの中、はぐれまいと兄の車椅子につかまりながら長時間待った末、やっと垣間見た玉の海。ものすごく大きく見えた。実際は比較的小柄な力士なのである。しかしその時、羽織袴に大銀杏の横綱は本当に大きかった。私の印象として、あれほど人間が大きく見えたのはあの時が最初で最後である。数年後、同じ大国魂神社で見た横綱・輪島と大関・魁傑は、何故か随分と小さく見えた(あくまでも私の印象)のだから不思議なものだ。
 その偉大な玉の海を、本場所千秋楽で下し、さらに優勝決定戦でも倒して優勝したのが晩年の名横綱・大鵬だった。あの頃は今より力士の社会的地位は格段に高かったように思う。あの場所のあの二つの取り組みは、私が見た相撲の中で最高のものだった。「二つ連続で負けはしないよ」とインタビューで答えていた最盛期の玉の海を、「二つ連続」で大鵬は勝ってしまったのだ。≪玉の海が可哀想! 大鵬ってなんて強いんだろう! 勝負は厳しいものだ! 相撲は本当に真剣勝負なんだな!≫それらの事を一気に感じた。今でも鮮明に覚えている。
 だからその直後、玉の海が死んだというニュースを聞いた時は本当に驚いた。まさか盲腸の手術で死んでしまうとは、だれにも予測できなかっただろう。
 そして今年、大横綱・大鵬が亡くなった。あの時、二人の横綱がぶつかった頃は大相撲のひとつの黄金時代だったと思う。時代を象徴するような人が亡くなるということは、やはり寂しいものである。
 もうすぐ節分。今年も各地の神社では力士の豆まきが行われるのだろう。今では玉の海や大鵬より大きい力士はいくらでもいる。でも印象の大きさは遠く及ばない。
 昭和の力士は強さの象徴だった。
                      2013年1月27日


 二十歳の頃


  今日は成人の日である。成人の日の思い出はというと…、ない。私は成人式に出席しなかったのである。ちょうど空手に埋没していたころで、式に出る意味も必要性も感じなかったのだと思う。でもその年は元日から山中での滝浴びや、空手衣一枚で早朝マラソンに出かけたりと気合は入っており、近くの八幡神社で試合出場と黒帯取得を誓った記憶がある。
 私が今でも生徒たちに勧めているのが、年頭、一年の目標を立ててそれを書きとめる。同時に半年後の目標も書いておく、という作業である。出来るだけ具体的に、何項目にわたっても良い。半年後を入れたのは途中経過のチェックも兼ね、簡単に投げ出さないためだ。
 大きな夢や目標は大事だけど、漠然としたものは実現に向けた積極的な活動が無ければ形にならずに終わってしまう。一年前に「こうなりたい」と考えていた自分に今なれていたら単純に嬉しいではないか。はっきり進歩を自覚できる。一歩一歩の進歩を踏みしめて行けば、遠かった夢も実現できる近い将来としてやがてはっきり見えてくるはずである。
 考えているだけでは駄目なのだ。言葉にすると「言霊」が宿るといわれるが、文字にして書き残せばさらに大きな力で自分の道標になるだろう。
 二十歳の頃、もうその二倍以上(へたするとじき三倍)生きてきたのだが、あの頃の気持ちは今でもよくわかる。当時の自分にもしアドバイスするとしたら何を言うか?
 そうだな…、親のためにも式くらい出とけ。とでも言いますか。
                     2013年1月14日




 ヨイトマケの唄


  美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を初めて聞いたのは、思い出せないくらい遠い昔の事である。それでもはっきり覚えているのは、そのテレビ放送をコタツで一緒に見ていた母と祖母がそろって涙ぐんでいたからだった。一度聴いたら忘れられない歌詞、メロディ、声、そしてあの顔。その時は何だかわからないなりに「凄い歌だな」と感じたことを覚えている。
 紅白で久しぶりに聞いたその歌。ああ、そういえばこういう歌詞だったんだな、と懐かしくもあり、なんだか久々に歌で感動した。
 親の仕事をネタにいじめられる主人公。みな貧しい時代でもいじめは存在する。悔しくて泣きながらの帰り道、土木作業の男たちに交じって必死に働く母の姿を見て衝撃を受ける。母が歌う「ヨイトマケの唄」には、いじめの傷など軽く跳ね返せるくらいの、そして貧困や差別を吹き飛ばすくらいの力強さがあったのだ。
 人に思いを伝えるのは難しい。力み過ぎては伝わらないし、押しつけがましくなれば反感すら買ってしまう。この歌の特にすばらしい所は、思い切り泥臭い詩の中に、悲しみと強さと、そして微かにユーモアがあるところだ。苦しさを「エンヤコーラ」と吹き飛ばす母親と、それを見て感動する息子には、根底に「明るさ」があるのである。歌詞に差別用語があると批判する人もいるらしいが、はっきり言葉にしているからこそ陰鬱な響きが残らないのだと思う。
 大人になった主人公は言う「どんな綺麗な声の、どんな綺麗な歌よりも、母ちゃんの歌は世界一」。美輪明宏の渾身の歌声は胸を打つ。
 この歌の良さがわかるようになった私も、トシを積み重ねてきたということだろう。
                      2013年1月8日




おしゃれ 


 日本国際空手協会理事専用のジャケットが出来上がり、さっそく全日本ジュニアでお披露目となった。鮮やかなブルーである。評判はどうだったかというと。
 「ドラえもんみたい」(ある道場生)。まさしくあの青だし、白いシャツと赤いネクタイと揃えばカラー的には完全なドラえもんである。
 「人ごみの中でも探しやすくていい」(ある審判員)。まあな、目立つもんな。そういえば今回は係の人も目当ての先生、すばやく見つけてたな。
 「U字工事ですか?」(山梨の寺西師範)。そりゃいくら何でも言い過ぎだろ。
 散々な出足に見えた。しかし、大船渡からデザインを担当した琢磨会の中嶋師範が登場するとガラリと見方が変わった。中嶋師範は臙脂色のシャツを着ていたのである。そして「濃い色のシャツを着れば派手な色のジャケットも落ち着くんですよ」と事も無げに言った。さすがおしゃれな男は違う。自ら見事に着こなし、なんだかんだとケチつけてた我々(岡野館長とか西久保館長とか高橋力先輩とか私とか…)を黙らせたのである。高橋先輩が対抗意識を燃やして「俺だってホントはおしゃれなんだよ」と悔しそうに言ってたけど、誰も聞いちゃいないようだった。
 服装の流行とか組み合わせとか、運動家の多くは疎い。私もはっきり言って興味がない。大体が体育会系のゴリラとかカニみたいな体の連中が「おしゃれ」を語ってはいけないのである。空手家は空手衣が似合っていればいいのだ(負け惜しみだけど)。
 そんな私が言うのもなんだけど、格闘家のファッションセンスって微妙なのが多い。べつに自由だしケチつける気はないんだけど、なんというか、怖いんだよな。ああいう顔で金の鎖とかつけてると。
 芸能人とかが野球のユニフォームや空手衣を着てもまったくサマにならないのと同じで、やっぱり外装ってのは、滲み出てくるものを違う色にはできないのですね。
 皆様良いお年を。
                    2012年12月25日




 猫になりたい


 猫は全身の力を抜いて雑巾のように寝ていながら、背後で少し音を立てるとピクンッと反応する。それが大きな音だとパッと体勢を入れ替えて一瞬で戦闘モードにスイッチするのである。飛び上るほどの動きをノーモーションで瞬時にこなすのだ。凄いものである。
 私は小さい頃からの犬派なので猫とはあまり縁がなかったのだが、子供が欲しがったせいもありここ何年か猫とも暮らしている。こと反射神経に関しては、猫の鋭さは犬の比ではないことにも今さらながら気がついた。猫はどんなにじゃれついていても少し速く手を近づけると射程距離を外そうとする。試しに私の犬にも同じことをしたのだが、こいつが多少の音には全く反応しないし、シュッと手を近づけたら、ベロン、と嬉しそうに嘗めやがった。個体差はあるにしても、やはり犬の方が鈍いらしい。
 あの猫の動きがモノに出来たらすごいだろうな、としみじみ思う。相手の攻撃は完璧に外す。どんなフェイントも通じない。そしてパンチもキックもノーモーションだから面白いように決まるだろう。
 ああ、悪魔のようにその能力を取り込めるなら、私は猫を食いたい!
 そんなことを考えながら、わが愛犬とたわむれた休日の日暮れ時であった。
 …ちょっと疲れてるかもしれない。
                   2012年12月13日




 シャークとマンタ


  ノロだのロタだの、いろんなウイルスが蔓延している。そういった病気に何故か必ず引っかかるのが山田なのである。宮島曰く「山田さんは流行の最先端を行くんですね」。なんだか知らないがあんなに強いのに不思議なものである。体内の免疫まですべて空手のために使ってしまったのだろうか。そういう宮島は一切そういった病にはかからない。生まれてこの方風邪も引いたことがないという。そのかわり怪我が絶えないのだ。
 千葉本部の高校生が合宿中に山田と宮島につけたニックネームがある。山田は「シャーク」。なるほどサメのように素早く強い。顔つきにもキレがある。それに対して宮島は「マンタ」。でかくてゆったりとしていて、でも実は海の中にほとんど敵がいない。見事に個性を捉えているな、と思わず笑ってしまった。
 講士館の黒帯諸君はよく本を読む。読書好きが多い。意外と思うかもしれないが宮島もかなりの読書家なのである。その中でこれまた意外なことに山田は本を全く読まない(「カラテ狂時代」だけは読んだらしいが)。山田は映画も見ない。以前、師範代の林君が良い映画だからと薦めたDVDも、始まったとたんに眠ってしまったという。
 個性とは面白いものである。まったく違うタイプでありながらある部分ではぴったりとマッチしてしまうのだから。
 だからみんな、無理して人に合わせることなんかないんだよ。自然に合うのが一番なんだから。
                     2012年12月2日




 勝ち方負け方


  勝つと嬉しい。両手を上げたくなる。負けると悔しい。泣きたくなる。いろんな思いにぶつかる。それはそれでいい。だけどもし、その時に相手がどう思うのかを考えるだけの大きさを持ったなら、その動作に何か歯止めがかかるのではないかと思う。
 たぶん両方の立場を何度か経験し、自分で理解してゆくしかないのだ。言葉で教えられているだけではピンとこないものである。
 講士館杯も6回を数え、子供達の試合後の姿を見るたびに思う。負けて人目もはばからず泣きじゃくっている子、がっくり声も出せない子、力を振り絞った後なのだから、今はそうした感情を思い切り出していい。
 その中で、勝ち方にしろ負け方にしろ、ああ成長したな、と感じる子を見たとき、私は心の中にじんわりとした喜びを感じる。「かっこ良かったぞ!」と、その背中に声をかけてやりたくなる。
 全力を尽くした後は心が浄化されているから、見たもの感じたものが素直に心の中に入ってくる。だからいつまでも心に残る記憶になるのである。 
 戦ったみんなは勿論疲れただろう。でも戦わなかったんだけど、熱戦が多かったので見ているこっちもくたくたに疲れました。
                    2012年11月21日




 クラスメート


  少し前になるが、中学時代のクラス会に出席した。いつからか4年に一度、オリンピック開催年に行われているのもので、私自身は8年ぶりの出席だった。40年前は少年少女だった仲間たちである。「あの頃よく喧嘩をしてたよね」と何人かに同じことを言われた。毎日どこかで取っ組み合いが起きていた時代だから別に私だけではない。当時は空手も知らず、他愛のない子供のケンカである。誰それとやってたね、と言われてもほとんど思い出せないものばかりだった。しかし、『U』とのケンカだけはよく覚えている。
 あの時は確か自習時間、言い争いから『U』は突如椅子を持ち上げ私に挑みかかってきた。「そんなもの使うな、卑怯だぞ!」私は怒鳴った。周囲からも「やめろ!」とか「危ないよ!」と『U』を批判する声が飛び交った。『U』は多少ためらいがちに椅子を私の足元に投げた。私はそれをパッとかわし、転がったその椅子をつかんで思い切り奴に叩きつけてやった。何故か教室中が爆笑に包まれたのだった。
 ウマが合わないやつというのは誰にでもいるもので、それは時が経ってもあまり変化しない。私がしばらくぶりで『U』と再会したのは、15年位前のクラス会の時だった。奴は「今、彼女が数人いる。一番若いのは10歳下だ」などと皆の前で自慢げにほざいていた。相変わらずムカつく。私は『U』を酔いつぶし、ジーンズのチャックを開け、テーブルにあった灰皿の吸い殻を全部その中に入れてやった。
 今回も奴は来た。かなりさびしくなった頭頂に、脇の髪をむりやり横断させていた。一応にこやかに会話していたのだが、私が取り分けてやった料理に奴は一切箸をつけなかった。昔のことを根に持っているのか、それとも何か新たな危険を感じたのかは私にもわからない。
 クラス会は盛会だった。二次会ではさらに盛り上がった。散会時、今は飲み屋を経営している友人がしきりに「ハセ、今夜は飲み明かそうぜ」と誘ってくれたのだが、翌朝の稽古もあったので辞退し、私はそこで切り上げることにした。
 今にして思えばあのまま、40年前にタイムスリップしたまま、一晩くらい過ごせばよかったかなと、ちょっと後悔している。
                     2012年11月13日




勝利の潜在意識 


  本部での審査会の後、道場で昇段祝いと山田君のワールドカップ入賞祝いの祝杯を挙げた。山田君は仲間たちの熱い応援に対するお礼のあと、「頑張れば必ず報われると信じてほしい」と後輩たちに激励の言葉も忘れなかった。努力は必ず実を結ぶという言葉自体は月並みかもしれないが、そうした実感は結果を出し続けて初めて確信できるものである。どの種目でも成功した人の多くが「神様はいるんだなと感じた」という言葉を口にしている。もちろん生半可な努力ではないにせよ、頑張ればうまくいくんだ、と思える《勝利の潜在意識》を持つことが大切なのである。それが自信となり、つらいこと、苦しいことを乗り越えさせてくれる。戦いのさなか、勝敗を分ける分岐点を越えさせてくれる。逆に努力が結果に結びつかない経験が度重なると、踏み込むことにためらいを覚えてしまう。それが諦めに結びついてしまうと悪循環に落ちてゆく。試合だけではない。難関を突破する経験が人生には必要なのである。自分の力が信じられるか否かは、成功経験が大きくものを言うからだ。
 はた目には大変な試練に思える昇段審査などもまさしくその一つである。連続組手で大きな壁に真正面からぶつかってゆく生徒たちの必死の眼差し。あれこそ、自分の力で「勝つ道」の扉を開けようとしている懸命な姿なのだ。
 …祝杯に酔いが回り始めたころ、隣で飲んでいた阿部徹君(副代表)が「先輩、もう僕に審査のあとの一言を振らないでください」と言った。何故かと聞くと、「涙をこらえるのが大変で言葉が出てこないんです」と、目を真っ赤にしていた。
 涙もろい男なのだ。私もなんだかグッと来て、「わかった」とうなづいた。
 また次の時も、こういう男に何か言ってもらおうと思う。
                     2012年10月31日




 ワールドカップ


  10月14日。大阪府立体育館。WKO第一回空手ワールドカップは、その名にふさわしい華やかなオープニングセレモニーで幕を開けた。国旗を先頭に入場する選手たちは、それぞれに晴れがましい表情で行進していた。山田、宮島、講士館を代表する二人はこの日、日本を代表する男としてこの舞台に立ったのだ。
 山田は昨年の、極真連合会主催の全日本大会中量級優勝の実績により、宮島は今春の白蓮会主催全関東重量級を制覇しての出場権獲得だった。出場選手それぞれが、各派全日本レベルの大会を勝ち抜いてこの檜舞台に立っている。思い入れがあって当然である。会場は多くの観客で埋まっていた。講士館の応援団も、関東から多数来場していた。
 本戦が始まると、実力未知数の外国勢に崩され、初戦敗退する日本勢も続出した。宮島もやられた。実をいうと宮島は2週間程前、古傷が爆発してしまっていたのだ。打ち合いにかけては、これまで自分より大きいアメリカの黒人やロシアの大男にも負けたことが無かった宮島だが、試合開始後まもなく異変が起き、延長1回で自滅してしまった。好調時のあの圧倒的パワーをもう一度取り戻せるよう、これからは苦しくとも忍耐強く再起を目指してほしいと願う。
 山田は一回戦不戦勝。2回戦の相手が外国勢の本命、シードされたイランの2年連続チャンピオン、モハメド・レナーニ選手である。ひとつの正念場だった。延長2回の激戦だったが、最後はラッシュで完全に差をつけ勝利した。苦しい試合をもぎ取ることで地力をつけてきた山田らしい勝ち方だった。次の試合も順当に取り、準決勝の福地君との試合が事実上の決勝と目された。互角の緊迫した戦いとなった…。
 正直言うと、はっきり決着がつくまでやらせたかった。でも、これはもう仕方がないことだ。これからも素晴らしい選手同士、お互いに磨きあって行ければ良いのである。
 山田は世界第3位として表彰台に立った。
 大阪は今では年に一度か二度、試合で訪れるだけだけど、いつもガチンコの熱い魂が私たちを刺激し滾らせてくれる。
 ひとつのクライマックスは終わった。でも、まだまだ勝負はこれからだ。
                    2012年10月18日




 遠回り


  星飛雄馬は少年時代、父一徹の決めたランニングコースを毎朝走っていた。ある冬の寒い朝、そのコースの途中が道路工事でふさがれていた。仕方なく飛雄馬は近道になるコースを選んで走った。遠回りになる道も知ってはいたが、それは寒い朝の人情である。すると、道の終点に父一徹が立っていた。一徹は物も言わず、いきなり飛雄馬を殴り飛ばした。何度も殴りつけ、倒れた飛雄馬を蹴った。そして言った「いつもの道が通行止めだったなどと言い訳するな。何故遠回りを選ばん、遠回りを選んでこそ成長がある。これから先、もし道が二つに分かれていたら必ず遠回りを選べ。近道を選んだ時は、もう父と息子ではない!」飛雄馬はすべて知っていた父一徹の厳しい教えに感動する。そして美しい朝焼けをしばし親子二人で見つめるのであった。
 今となっては寓話のようにも聞こえる『巨人の星』の一挿話である。近道を選ぶな、遠回りを選べ! どれだけの人が実行に移せるだろうか? だがこの言葉は深い。近道を走り続けることの危険さは、行き止まりにぶつかるまでわからないことが多いのである。
 結果を出すことは大切である。しかし目先の勝敗にあまり囚われ過ぎると、すぐ効果を発揮することに集中し、基礎をおろそかにしがちになる。自分にとって大事なものならば、じっくり練り上げる部分は少なからずあるはずなのだ。
 ただし、コツコツと積み上げるものでも、しっかりとした目標と工夫と意志によって実行するものでなければならない。飛雄馬のランニングだって、巨人の星になるという確固たる目標が無ければ、ただのダイエットで終わったかもしれないのだ。
                     2012年10月8日




 台風列島縦断


  JIKA主催の全日本大会が無事終了した。優勝は琉道会館の長田裕也選手に決まった。優勝候補最右翼だった渡邊選手や、このところ好調な坂田選手らが直前に負傷欠場してしまった中ではあったが、その戦いぶりは非常に安定しており、盤石の完全優勝だったといえるだろう。長田選手は今年の第27回ポイント&ノックアウト全日本選手権でも優勝を果たしている。私が優勝した第1回当時、今23歳の彼はまだ生まれていないどころか、影も形も無かったのである。今回の決勝が終わり、祝福の握手をした際に感じたのは、全く違う時間と空間を生きた人生が時折交差する不思議な感覚であった。
 主審を務めていただいた郷英会の宮川館長の采配ぶりも際立っていたように思う。急を要する判断も適切で素早く、試合中は消えているようにも感じさせる見事なものだった。大会が引き締まった一つの大きな要因でもある。
 クラス別選手権部門の各クラスも充実した内容だった。ただひとつ、精鋭会の西久保館長が、あの鉄の拳を50歳以上のクラスで振るうのはいささか危険のような気が…。ひやひやしながら対戦相手の身を案じていたのは私だけではなかっただろう。
 ともあれ台風列島縦断の真っただ中、異常な蒸し暑さの中で記憶に残る大会にもなった。
 皆様、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
                     2012年10月2日




東北の熱い一日 


  極真門馬道場主催の「東北復興チャリティー全福島空手道選手権大会」に行ってきた。あの震災の翌日、崩れた家具や書類で雑然とした事務所の中、門馬師範は偶然その中に紛れていた私の『カラテ狂時代』を手に取り、あらためて読み直して元気が出た、と言ってくれたことがある。会社の社長であると同時に、多くの道場を回りながら指導している門馬師範は、被災された後もそれまで以上に精力的に活動を続けておられる。私の尊敬する空手家の一人である。
 東北道須賀川インターを降りたら目の前に目的地の須賀川アリーナがそびえ立っている。大会は「最高の県大会を目指します」という門馬師範の言葉通り、多士済々の来賓の方々、テレビ放送を含む膨大な後援企業やスポンサーの数、またスタッフの手際の良さなどすべてにおいて見事なものであり、門馬師範の人望、行動力、道場の団結力がひしひしと伝わってくる大会であった。また、一般重量級で優勝した陳選手は現中国チャンピオン(中国地方ではない、中華人民共和国である)であったり、女子の部の優勝があの《女子天下無敵》木村敬代さんであったり、内容的にもかなり充実していたと思う。
 来賓が多いことや復興の思い入れもあってか開会式は一時間近くにも及んだのだが、その間立ったままの選手たち、特に門馬道場の幼い少年拳士たちが微動だにもしなかったのにも感心した。福島は今でも復興に向け大変な取り組みをしている最中だが、渦中の方達は確実に逞しく前進しているように感じる。
 大船渡の中嶋師範(琢磨会代表)も元気に選手を引き連れて来ていた。相変わらず陽気に振る舞われてはいたが、道場や職場の中華料理店も津波の被害を受け、今も立ち直るために必死の努力をしているはずである。息子さんの翔吾君の試合では私もリングサイドで応援させてもらった。
 大会はいつもエネルギーに満ち溢れている。その日のため、さらに大きな目標のため、参加理由はそれぞれにせよ、みな日々一生懸命培った力を発揮しようと集まってくるのだ。熱くて当たり前なのである。勝利の歓喜、敗北の涙。喜びも悔しさも隠さずさらけ出し、また新たに気持ちを引き締める機会でもある。開会式で大石先生が仰っていたが、負けて悔しかった記憶こそ、しっかり残って自分を戒めてくれる、というのは本当だと思う。
 月末には協会の全日本があり、10月にはワールドカップがある。秋から冬に向かって講士館杯もジュニアもやってくる。
 熱い東北に負けず、みんながんばれ!
                     2012年9月19日




快気再会祝い 


  中西先輩の快気祝いで久しぶりに昔の仲間と飲んだ。先輩曰く「身長が一センチ伸びた」という両足の股関節に人工の軟骨を入れる大手術からの帰還である。もちろん回復に相当時間はかかると思われるが、先輩は元気だった。早く型の稽古がしたいらしく「騎馬立ちがしっかりできない」とぼやいておられた。議員として復帰するのに騎馬立ちはどうでもいいと思うのだが、早く元に戻りたいという気持ちはよくわかる。私も足の力を落としたくないばかりに、事故後の松葉杖生活中に密かにスクワットをやってた。後から考えれば失敗だったのだが、あの時は我慢できなかったのだ。
 幹事は森先輩が務めてくれた。私や松井君(現・勇志会代表)と一緒に一時期共に戦ったあの森猛である。久しぶりの再会だったから話も尽きなかった。私の事故からの復活も心配してくれたらしく、この「講士館時計」もよくチェックしてると言っていた。相変わらず明るく気配りも細かい。30年前は「どうやって倒そうか?」といつも考えていたライバルだけど、同時に素晴らしい戦友だった人だ。本当に嬉しかった。
 中西先輩が作ったJCB空手同好会出身の、松ちゃんこと松本隆之氏も元気に顔を見せていた。かつて一緒に目標に向かった仲間の変わらぬ(いろいろ苦労はあろうとも)キャラに接すると実に心が和むものである。
 人は生きていると、好むと好まざるとに関わらず様々な壁で区切られてしまう。流れに乗ろうと逆らおうと、自己を殺そうと主張しようと、見えない壁に囲まれ、あげく身動きが取れなくなってしまうこともある。でもそんな壁の多くは無意味で曖昧で打算的なものなのだ。うんざりするほどのそうした壁は私の周りにもいっぱいあるけど、空手が心から好きな仲間とはどんな壁も乗り越えて行こうと思っている。
                      2012年9月3日       


 夕陽


  4年前の3月に私はあの事故に遭った。6月に退院してからしばらくは松葉杖での生活だったから、その間の行動範囲はかなり限られたものだった。それでも7月には合宿に同行し、8月は富士山の一日バスツアーに家族と参加した。息子が持っていた小さなゲーム機にアンテナをつけた画面から、水泳の北島選手がオリンピック連覇を達成した瞬間を見たのは、丁度富士山の五合目に着いた時だった(もちろんそれ以上上には登らなかったのだが)。それだけにはっきりと覚えている。4年という期間は長いようで短いけども、ピークを維持するという意味では厳しいほど長いものだろう。
 一流アスリートのピークは一日の凝縮のようなものがある。
 朝陽の時期、昇る勢いはめざましい。怖いもの知らずで多少生意気なもの。若さと気負いと自信に溢れ、壁を次々と打ち破ってゆく。失敗もエネルギーに変えていける。
 中天の時期、夢を実現させた喜び。周囲からも認められ、祝福を受ける。尊敬と羨望は、同時に大きな責任と期待を背負うことでもあり、ある意味孤独でもある。
 夕陽の時期、自分の意志と体が同調しなくなってくる。追い抜かれる瞬間がやってくる。苦しみ、悩み、それでも最後のきらめきに、人はその選手の全風景を見届け、惜しみない拍手を送るのだ。
 「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」後輩たちのこの言葉に、北島選手が残してきた足跡の偉大さを改めて感じることが出来る。同時に4年という時間、太陽が夕陽に変わりゆく、宿命の時間も。
 陽は高ければ高いほど、夕陽も美しい。
 ただ、本人にはわからないのだ。
 悔しさが、いつしか消えてゆくまでは。
                     2012年8月15日




 欠ける


「欠」という字は、人が口を開けている姿を現している。「欠伸」(あくび)という漢字などはまさに人が口を開けて伸びをしている姿そのものだ。「飲む」にしても口を開けて食うというか食物を呑み込むといった姿だろう。いずれにしても口を開けた姿に「欠けている」という意味をつけるとは、やはりどこか間が抜けている、あるいは緊張感が欠落しているように見えるからだろうか。
 あいた口がふさがらないといえば、今回のオリンピックの判定などはまさしく、である。柔道のあれはなんなんだろう。あのジュリーとかいうやつ。ビデオで細かく調べるのもいいけど、格闘技にしろ球技にしろ試合には流れというものがある。細切れに検証して見えたものがすべてではないのだ。ビデオをよく使うアメリカンフットボールにしても審判の裁定を重要視し、ビデオ判定を求めるには「チャレンジ」という貴重な札を監督が切って初めて行われるものだ。間近で見ている審判の判定がああもコロコロ覆るなら存在する必要がないってことになる。世界基準という理由がまたよくわからない。ルールに合わせることに格闘技の本質が削り取られていく。オリンピック種目になるということはそういうことなのだろうか。何か大事なものが欠け、置き去りにされていくような気がする。
                     2012年8月1日




 莫妄想


  『禅の言葉』の中に「莫妄想」(まくもうぞう)という言葉がある。過去への執着や未来の不安などに思い迷わず、今に集中するという意味である。元寇の危機にさらされていた鎌倉時代の執権、北条時宗が強大なモンゴル相手にどう戦うか悩んだあげく、禅師・無学祖元のもとを訪れると、祖元はこの言葉を時宗に諭したという。時宗はこの一言で心を決める。今出来るすべての力を注いで防御を固め、あとは天命を待つ心境に至ったというのだ。結局、モンゴル軍は突然襲った嵐によって壊滅状態になり、日本は救われたのである。
 前後の事を思い悩み、肝心の今がおろそかになっていないだろうか? 強大な敵を前にして半ばあきらめかけてはいないだろうか? この言葉はそんな迷いを振り払ってくれる。開き直らせてくれる。実際に歴史を左右した言葉だ。当時の蒙古モンゴルといったら、世界史上最大の版図を征服したフビライの覇道国家である。降伏を迫る脅迫のような書状を読んだ北条時宗の心境はとても計り知れない。無学祖元の言葉、時宗の決断力が1パーセントの運を呼び込んだともいえるだろう。
 禅の言葉は、大きな真理を短い言葉にしてくれている。その言葉と意味を覚えたからといって悟りが開けるわけでもないが、自分の境遇に適した言葉をその都度見つけて決断の助力にすることはできる。
 心の中に置いておくだけでも、気持ちが少しだけ楽になることもある。
                     2012年7月17日




 自殺


  「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
 昔、こんなキャッチコピーの映画があった。時代は変わっても、国が豊かになっても、本当にその通りだと思う。
 「強くなければ生きていけない」 大人から見ればほんの些細な子供同士のいさかいやトラブルでも、本人にとっては生死にかかわることだってある。時が経てば笑い話だとか、友達がいれば大丈夫だとか、自分の経験だけに当てはめても解決できないこともある。何度も言うが心だけが強くなることなんてない。男は物理的に強くなることが重要なのだ。降りかかる火の粉の無い世界なんて無いのである。
 そして「優しくなければ生きている資格がない」 人にやさしくできるということは、自分が世の中に存在価値あることの証明なのである。自分が生きていく力に余裕があるということなのだ。病気で死ぬ寸前でも人を思いやる人もいる。価値ある人なのだ。心がギリギリの奴は人を引きずりおろそうとする。落そうとする。殺すほど人をいじめる人間は人の中に存在する資格などない。自分が崖にしがみついていながら横の人間を先に落とそうとする。まともに自分を鍛えたことのある人間にこういうやつはいない。
 でも、すぐに折れる男はやっぱり駄目なんだよな。やけっぱちでも何でもいい。全力で開き直らなきゃ。殴られたって自分の心を守らなきゃ。
 優しくないやつ、人を平気で追い詰めるやつ…。カッコ悪すぎて話にならない。
                      2012年7月7日




 イグアス


  何回か前の柔術の話でブラジルに行った時のことをいくつか思い出した。楽しくも少し残念な思い出があるので書いておきたい。
 サンパウロまでは確かロサンゼルス経由で26時間ほどの長旅だ。エコノミークラス症候群を意識せずとも、なかなか座りっぱなしでいられる時間ではない。最初の時はつらかった。しかしこれが2度目の時は案外落ち着いていられたのだから、人の順応性はすごいものである。
 その2度目の訪問の時、一日だけ休暇をもらい、私は同行した立崎先輩とカタラタスまで飛んでイグアスの滝を見に行った。世界最大の水量が落下する滝だ。その周りが一つの国立公園になっており、驚くほど多くの動物も放し飼いにされていた。たとえばイグアナのようなでっかいトカゲも人に紛れてのっしのっしと歩いている。ちょっと日本では考えられない光景である。滝はいろんな角度から見られるように道や階段が網羅されており、全部回るにはフルに一日かかる。メインの場所は「悪魔の喉笛」と呼ばれる、爆発的な水量が渦巻いて落ちてゆく滝の中心部だ。ガイドの説明を聞いた後、立崎先輩はしみじみと「凄いねハセさん、悪魔の口笛だってさ。あのすごい音はホントそんな感じだもんね」と感心しておられた。本気で間違えてるようなので私もしばらくは訂正できなかった。雄大な滝であったがしかし、「ここに来たら人生観が変わるよ」と巷でよく言うほどの事は、正直なかった。それはおそらく、私のこの滝に対するアプローチの失敗にある。飛行機が旋回しながら着陸態勢に入ったとき、上からこの滝を見てしまったのだ。それは広大なジャングルの中にぽっかりあいた小さな水たまりに見えた。まさかあれじゃないよな、と思ったが、そのまさかだった。確かに近づくにつれそれは巨大化し迫力も感じられては来たのだが、まず最初に俯瞰すべきではなかったとしみじみ思う。映画のラストシーンを見てしまった後で最初から見るような、なんだかまずいことをした気分で心が揺さぶられなかったのだ。
 まさにイグアスの滝など、車でジャングルを分け入った後にたどり着いたとしたら、まさしく人生観が変わっていただろうな、と思う。
 世界遺産にしろ国宝にしろ、堪能するには知識と順序が大切です。
                     2012年6月24日




リラックス>緊張 


  集中力を高めろ、しかしナーバスになるな。リラックスしろ、固くなるんじゃない。
 よく耳にする。口で言うのは簡単だが、相反する言葉のように聞こえるだろう。
 大切な勝負を前にして緊張しない人間などいない。集中するためにもある程度の緊張は必要である。しかし過度の緊張が体の動きを縛るのは事実だ。では脱力しつつ適度の緊張を保つとはどういうことなのか? 腹と下半身に力が漲り、逆に肩の力は抜け、頭の中に雑念が入らず回りが良く見える状態である。どうすればそうした状態を作れるのか?
 「気合い」である。そらきたバカ体育会系、と笑った人、黙って読みましょう。
 一心不乱に突き、蹴り、腹から気合を振り絞る稽古を繰り返していると、その気合いによって臍下丹田に気が満ち、上半身の力が抜けてくる。そして頭がスッキリ冴えてくるのである。こういう状態を体で覚えれば、緊張する場面でも腹に力を込めて気合を入れると、自然に力が下半身に降りてくるのを感じることが出来るようになる。俗にいう「肝が据わった」状態である。
 精神力のみを発達させる方法を私はあまり信用していない。滝を浴びるのも、業火に身をさらすのも、ただその行為だけによって不動の精神が出来上がるものではない。肉体の鍛錬と伴っていなければ何の役にも立たないだろう。それならばひたすらフィジカルの強さを高めた方が気持ちにゆとりが生まれると思う。
 もし、どんな強い相手を前にしてもリラックスしていられる強さを持った人間なら、気合など必要ないかもしれない。しかし残念ながらそのような強靭な精神力を持って生まれなかった大多数の人は、気合を入れて丹田に力を込め、心を鼓舞するやり方が最も集中かつ脱力を可能にする方法ではないかと思う。
 もちろんこれだって、口で言うほど簡単ではないですけどね。
                     2012年6月8日




 ちょっと怖い話(2)


  私が幼少の頃の実話である。暑い夏の日の夕方、母と買い物をした帰り、遮断機が下りた踏切の前に二人で立っていた。ほどなく電車がやってきた。と、その時、いきなり横にいた女性が遮断機をくぐって踏切の中に駆け込んだのである。一瞬、私はその女性が母だと思い、咄嗟に後を追って遮断機をくぐった。焦ったため足がもつれ、そのまま線路の上に転んだ。悲鳴、電車の迫る音、自分の泣き声、それだけが頭の中でぐるぐると回っていた。幸い駅のすぐ横の踏切で、電車も各駅停車で停止したため私は轢かれることなく、結果的に怪我は転んだ傷だけで済んだ。すぐ後ろからあわてて私を抱き起したのは母だった。母は猛烈に怒った。なんでいきなり飛び込んだりしたの、と大声を上げて私を叩いた。私は私で母が先に行ったからだと泣き喚いた。家に帰り、家族中から叱られながらも、私はその時の事情を必死に説明した。ところが母はもちろん踏切に飛び込んだりはしていないし、私が見たような人、つまり遮断機をくぐって走って行った人などいなかった、と母は確信を持って言った。その時はとりあえず怪我も大したことはなく、子供だから訳のわからないことを言っているのだろう、といった雰囲気に収まり、これからは絶対こういうことのないように、と厳しく戒められて終わったのだった。だが、日を追うごとに私の中にあの時の光景がくっきり浮かぶようになっていった。私は確かに見たのである。スカートを翻して踏切に飛び込んでいった女性の後ろ姿を。あれは幻だったのだろうか? 子供の頃はそうした不思議なものが時折見えるものなのだろうか?
 今でも思い出すたびにゾッとする。もしあれが急行電車だったら、私はあの時にこの世から消えていたのだ。時々耳にするのだが、交差点にスーッと、まるで何かに引き寄せられるように入っていき、車に撥ねられる人がいるという話。不注意だとか、何かに気を取られていたからだとか、回りは理由をつけるだろう。
 でもそれだけじゃない。
 その出来事から約20年後、その踏切では大事故が起きた。工事の大型トラックが踏切内でユンボを落とし、あわてた作業員がそのユンボを動かそうとしたまま間に合わず、走ってきた上り急行列車が激突脱線。さらに下りの列車もそこに突っ込み二重脱線するという未曽有の大事故である。おそらく記憶されている方もいるだろう。私はこれを実家の2階ベランダから目撃した。事故の直前、電車のけたたましい警笛に驚いて目を向けた先に、突っ込む列車と線路上のユンボが見えたのだ。いそいで駆けつけた現場は逃げ惑う人の悲鳴や叫び声が交錯する修羅場と化していた。
 踏切や交差点では気をつけた方が良い。魂を引きずり込む特殊な力が、時折働くことが確かにあるのだ。
                      2012年5月28日




 夢のあと


  「この先、幸せが来なくてもいいからオリンピックに出たい」
 体操女子の田中選手が言ったこの言葉が最近では印象に残っている。死んでも勝ちたいとか、命を懸けて戦う、といったよく聞くセリフは耳を素通りしてしまうが、この独特の言い回しはまっすぐに心に突き刺さった。一心不乱に夢にかけている若者の切ないほどの思いが感じられる。スポーツのハイレベルな競争に身を置いている選手は犠牲にするものも多い。同年代の若者が享受する一般的な楽しみの多くを捨て、苦行のような毎日を繰り返すのである。だがこれは自分で選んだ道であり、そこから得られる喜びは、普通の生活では決して味わえないものなのだ。
 目標には、受験のようにその後のためのものと、達成することが最終到達点となるものの2種類ある。もちろん人生はその後も続くから新たな目標は出来てくるものだけど、一度でも後のことなど全く考えられないくらいに命を燃やせるというのは本当に幸せなことだと思う。
 以前、空手で血のにじむような修業を積んでいる選手が、「全日本チャンピオンになれるなら腕の一本くらい無くなってもいい」と仲間に吐露していたという話を聞いたことがある。実力のある選手だったが結局その夢は果たせなかった。
 現在、その選手は優秀な指導者になり、多くの立派な空手家を生み出している。
 夢の実現は素晴らしい。でも破れた夢の続きだって、捨てたもんじゃない。
                     2012年5月12日




 ブラジルの柔術


  グレイシー柔術の始祖エリオ・グレイシーは、ブラジルにやってきた柔道の王者、木村政彦に挑戦し、敗れた。1951年の事である。試合はほぼ完全なデスマッチルールで行われ、結局腕を決められてもタップしなかったグレイシーは、木村政彦にその腕をへし折られている。凄惨な試合だったようだ。だが、エリオ・グレイシーはそこから立ち上がり、研鑚を積み重ね、その後寝技に関する限り世界でも無敵の牙城を築き上げたのである。
 誰だって看板背負って負けたくはない。でも負けることが大きな飛躍につながることだってある。むしろ失敗こそ、自分をしっかり見つめるチャンスになるのだと思う。要は、転んでもただでは起きない根性と、責任転嫁しない素直さが大事なのだ。
 10年ほど前、サンパウロで行われた空手の国際試合にコーチとして随行した時、街中の洋品店にはやたらと柔術のシャツが飾られていた。ブラジルではグレイシー柔術をはじめ、組技系格闘技が本当に浸透しているのだなあと思った。アデミール・コスタ師範(極真会の第3回世界大会4位の世界的空手家)のサンパウロの道場でも時間貸しで柔術のクラスがあり、みな一生懸命寝技を掛け合ってトレーニングしていた。外人特有の体臭と汗とコロンの混ざったような匂いがきついような気がしたのだが、もちろん生徒たちは気にする風もなく、汗みずくの胸毛の胸板で男同士顔面を押さえ込んだりして鍛えあっていた。あれだと本当に必死で逃げようとするだろうな、と見ていて思った。
 ただ、格闘技としての完成度からグレイシー柔術は尊敬に値すると思うが、若い頃からもう一度やり直すとしても、私は離れて戦う打撃系格闘技(ストライカー)を選んだだろう。組技系の格闘者(グラップラー)にはならなかったと思う。
 もちろん男同士で密着したくないとか、汗の胸毛の顔面押さえ込みがいやだとか、そんな単純な理由で言っているのではない。あくまで性格的に、なのである。念のため。
                     2012年5月2日




 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか


  副代表の小宮君から送られた「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本を読んだ。2段組み700ページの膨大な文字量だったが一気に読み切ってしまった。木村政彦の自伝「わが柔道」は買って読んでいたし、以前(20代の頃)新聞に連載されていた氏の回顧録も切り抜いて保存し、心のバイブルにしていた時期もあったから、木村政彦のけた外れの強さ、異常なほどの稽古量、人間味あふれる武勇伝についてはよく知っていた。だが、この本は客観的に十年以上取材検証して書き記された格闘技のひとつの歴史書にもなっている。現在の講道館主体の柔道世界が、実は決してすべて正当なものではないという事実まで史実に則って書かれていた。そして、木村政彦の栄光と苦しみが痛いほど刻み込まれており、それに関しては悲しくすら感じるほど複雑な読後であった。
 山下泰裕選手の全盛期はリアルタイムで見ていたが、一昔前の人は口を揃えて「木村の方が強い」と言っていたのを思い出す。双葉山と大鵬とか、モハメド・アリとマイク・タイソンとか、時代の違う強豪を比較するのは格闘技好きのロマンでもあるが、こと木村政彦に関する限り、じかに見た人のかたくななまでの支持は印象的であった。格闘技を志す者にとっては神のような存在だったのだ。
 どの本で読んだのかは忘れたが、「宮本武蔵の時代に生まれ、剣術を志していたら、私は必ず武蔵に勝った」という木村政彦の言葉は心に残っている。宮本武蔵は巌流島で、天才剣士佐々木小次郎を策略を含めて倒しているが、皮肉にも「昭和の巌流島」と騒がれたプロレスという舞台の決戦で、木村政彦が佐々木小次郎役になってしまったというのは、それもやはり何らかの策略の上で倒されてしまったというのは…。私ごときが今さら言うまでもないが、つくづく人生は皮肉であり、残酷なものである。
                     2012年4月22日




 本と寅さん


  本が好きなので時間が空くと何かしら読んでいる。でも読む速度はあまり速くない。一時期速読術を覚え、短い時間によりたくさん読もうと思ったのだがすぐにやめた。別にあわてる必要もないと気づいたからだ。本の楽しみ方は人それぞれだけど、私にとって心に残る本の多くは、たいしてためになるとも思わず読み進めたものばかりである。飛び抜けて面白いというわけではなくても、何度も読み返す魅力に満ちていた。
 「伊豆の踊子」を初めてきちんと読んだのは、高校生になってからだったと思う。読んだ後、涙が止まらなかった。何故だかわからなかった。特に印象的な場面の無い小説である。不思議なのでもう一度読んだ。やっぱり泣けた。最後のシーンで主人公の青年が旅芸人一行と別れて船に乗り込むのだが、そこで出会った身寄りのない老婆の世話をしようというところで決まって涙が出てくるのである。ことさら悲しい別れの舞台を作らなくても、なにか人の心に無意識に共鳴させるものをさりげなく挿入させる川端康成は、やっぱり大作家なのだと思った。
 「坊っちゃん」は小学生の時に読んだ。おもしろかったけど特になんとも思わなかった。ところがやはり高校生の頃に再読し、以来何度か読み直すようになってしまった。何がそれほど良かったのかというと、坊ちゃんの性格と文章のリズムにつきる。スパッ、スパッ、と切れ味のある文体は読んでいて気持ちが良い。まさに坊ちゃんの気質にピタリとはまっている。これほど余計な飾りのない骨太の小説には、いまだ出会えないでいる。
 フーテンの寅さんは、本ではないが一番何作も見た映画だ。顔で笑って心で泣いて、やせ我慢をしながら生きていくのが男。ときには相手の理解を求めることなしに、心を砕き、大切な何かを捨てる。男の見栄とか意地とかは大概空回りだったり、自己満足であったりするけど、それが無くなったら残るのは味気ないリアリストだけである。
 今日もまた失恋し、ラーメン屋に入った寅さんが言った。「おばちゃん、ナルト入れないで。目が回っちゃうから…」
 笑わせながら泣かせるってのは、やっぱり寅さんだけにしかできないな、と思う。
                     2012年4月4日




 さらば花粉


  花粉症になってから25年、今年は比較的楽に乗り越えられそうである。なりたての頃、ひどい時は風呂の中に潜って口の中に手を突っ込み、耳や鼻に通じる穴をかきむしるように洗ったり、目を血が滲むまでこすり続けたりして悪化させたものだ。これは一旦「掻いてはいけない」という我慢の糸が切れると、もうどうにも止まらない若い花粉症患者特有の悲しさなのである。
 最初に行った神田の病院がアレルギーについてやたら慎重で、細かい検査を何度もやるのに嫌気がさしてずっと医者には掛からずに来た。市販の点鼻点眼薬を大量にさしまくって毎年の春を過ごしてきたのである。人からは「空手であんなに鍛えているのに、花粉に負けるなんて面白いですね」と言われたりしたが、体の強弱と花粉症は関係ないのだ。
 そういえば花粉症の薬のテレビコマーシャルで、踊りながらやってくる花粉に対し、筋肉隆々の薬の成分がタックルをかましてやっつけるというのがあった。しかし、そもそも何の害もない花粉に対し、体側が過敏に反応してしまうのが花粉症なのである。いわば街中を歩く善良な市民を、殺人犯人逮捕にあせった警察が片っ端から捕まえてるようなもので、その騒動の影響が症状なのだ。通過してしまって本当は一向に構わないのである。それをさらに「ええい面倒だ」てんで風船だろうが雀だろうが撃ち落としまくるパトリオットミサイルを配備しようというのだから笑えるではないか。
 そうなのだ、花粉症なんて話題になっていること自体、平和な証拠なのである。
 とにかく今年の花粉よ、さらば。もう顔も見たくない。
                      2012年3月23日




 壁の絵


  学生時代に道場で出会った後輩に、O君という男がいた。美術の専門学校に通う無口な男だった。画家志望の彼は、私のような空手バカとは少し雰囲気は違ったものの、かなり熱心に稽古にも参加していた。ところが緑帯に進級したころ、パタリと姿を見せなくなったのである。挫けたかと思っていたら、しばらくしてO君が病気にかかり、視力がほぼ失われたという噂を聞いた。ショックだった。画家を志した人が視力を失うのは絶望を意味する。私は道場仲間と二人で彼のアパートを探し、見舞いに行った。夜だったが電灯がついていなかったことにあらためて視力を奪われるという現実を思い知った。その狭い部屋で見たものは、壁一面にまき散らされた絵の具のめちゃくちゃな模様だった。正直、息をのんだ。O君は表情を無くしていた。悲しみを通り越し、あきらめの境地に入っていたのだろう。嘆くこともなく、ぽつりぽつりと故郷に帰る予定を聞かせてくれた。でも壁の絵の具から、やりきれない思いが痛いほど伝わってき、私にはかける言葉が見つからなかったのである。
 帰路、同行した仲間とも交わす言葉はなかった。試練とはなんだろう、と思った。神様は残酷だなあ、と思った。病気にしても天災にしても、必死に絶望と向き合っている人に「頑張れ」などと気安く言えるものではない。
 先日、アメリカに指先で絵の具の色を感知する盲目の画家がいる、という話を聞いた。幼い頃から画家を目指していた彼は、病のため徐々に視力を奪われ、若くして全盲になった。それでもカンバスに向かい続け、やがて鋭敏に研ぎ澄まされた指先でモデルの顔かたちを触ることで認識し、精密に描けるようになったのだそうだ。そして今では絵の具の色まで触感で識別できるのだという。
 思い出したのはO君だった。でもO君が同じように画家の夢を捨てていないでほしいとは思わなかった。乗り越え方もそれぞれだと思う。若い頃は真正面からぶつかることだけを考えていたが、今はいろんな方法があっていいと思うようになった。
 時が経ち、絶望の時期を振り返れるようになれたらいいと思う。
 O君にはあの夜以来会っていない。もう30年も前の話だ。
                     2012年3月14日




 黒帯親子


 昇段審査の都度、その生徒が入門してから今までの稽古風景などが次々と浮かんでは消える。自己紹介も出来ずに泣いていた子、母親の陰からなかなか出てこられなかった子、そんな弱々しかった子が今、何回も倒されながら自分の力で立ち上がる。必死の形相で先生たちに向かってゆく。幼虫がサナギから蝶になるように、本当に見事に殻を打ち破ってくれるのだ。どうしても涙があふれてくるのは、その過程に注ぎ込んだ思いや記憶が一度に甦ってくるからだろう。
 今回はさらに、昇段審査で講士館最高齢の初段記録が樹立された。内田達氏は私と同じ52歳である。ご子息の諒君は小学生の頃から私の道場に通っており、その頃毎回のように諒君に付き添って稽古を見学していたお父さんが、今回昇段した内田さんである。空手を始めたのは、諒君が初段を獲得した直後だった。
 体は固い。技を覚えるのに時間もかかる。でもリズム感が良い。さらにマラソンで鍛えたスタミナと根性があった。苦節7年。たどり着いた今回の昇段審査。十人組手の9人目には、二十歳になった息子の諒君が登場した。
 世の中に武道の黒帯親子は大勢いるだろう。でも息子が先に黒帯を締め、父親の昇段の相手に立つ、という構図を経て黒帯親子が誕生するのは滅多にない事だと思う。親子の断絶が絶えず話題に上る現代において、おやじと息子が道場で仲間として拳を交えるなんて、なんとシンプルで深い交流だろうか。言葉などいらなかっただろう。組手を終え、握手する二人にだけ通じる思いもあったに違いない。
 昇段は確かに難関である。でも、それぞれの夢と同じように、自分の中でしっかり描いた未来は必ずやってくる。平坦な道ではわからない。山に登ればこそ、時々つまずくからこそ、一歩一歩の大切さが身に沁みるのだ。
                     2012年2月28日 




 確率


 今後4年間に首都直下型地震の起こる確率が70パーセント、という数字が世間を騒がせている。正式発表は若干ゆるくなって30年となった。大した差はないが。
 ある本によれば、地球に巨大隕石が激突して人類が滅亡する確率は毎年0.0001パーセントだそうである。そしてそれは人類が類人猿だったころから計算すると今までに7回起きていて不思議ではない確率だそうだ。勿論一回も起きていない。
 おそらくどれも学者が膨大な資料や統計から計算を繰り返して出した数字なのだろう。専門家ではないのでよくわからないが、予想を超えることが起きたり、起こるだろうことが起きなかったり、確率とはどう見たらよいのだろう? 平たく言えば「かもしれないけど、はっきりわかるわけじゃないです」てことか。
 先日、本部道場で稽古が終わったとき、窓にガツンと何かがぶつかって落ちた。誰かが投げたボールかと思いきや、それは一羽のメジロだった。狭山では夏になるとよくカブトとかクワガタといった虫が家にぶつかってくるのだが、鳥は珍しい。狭い木々の隙間をすごいスピードで縫うように飛ぶ鳥である。窓なんぞにぶつかる確率はそんなに高くないはずだ。メジロは気絶したまま絶命し、窓にはかすかに激突の跡が残った。
 少しづつ日が伸びてきている。稽古中に窓を開ける日も近い。再び鳥が襲撃する事態にも備えなくてはなるまい。
 今年起こる確率は…。
                     2012年2月13日




 アンチ・ヒーロー


 映画の主人公がバッタバッタと敵を倒す。観客は主人公になった気分でスカッとする。でも、バッタバッタと倒された者にだってかけがえのない人生があったのではないか。中心人物の視点だけを重視することにものすごい不条理を感じた。と言ったのは、あの大作家梶原一騎である。「巨人の星」「あしたのジョー」など、主人公がライバルに負ける場面が印象に残る作品は強烈なインパクトがあった。単なるヒーローものではなく人間としての苦悩や成長過程が、生きることの厳しさ、素晴らしさを教えてくれた。
 歴史の中で影に回った人物は、メインストーリーの中では淡々とした記述しかされないことが多い。しかしその中には思わず目を止めてしまう存在もある。
 ヴェルチン・ジェトリックスはローマ帝国と戦ったガリア(現フランス)の武将だ。ローマ帝国と戦ったことではカルタゴのハンニバルが有名だが、このジェトリックスは最も偉大なユリウス・カエサル(シーザー)の率いるローマと戦ったのである。しかもカエサルよりずっと年下のジェトリックスは烏合の衆だったガリアをまとめ上げ、あわやというところまでカエサルのローマを追い詰めた。だが当時のローマは最強だ。善戦むなしく敗色が濃厚になるや、ジェトリックスは民衆を救うためにただひとり馬を駆ってカエサルの前に投降する。カエサルという人物は、敵であっても降伏したら許して講和条約を結ぶという、古代では飛び抜けて寛容な人物だった。だがそのカエサルをして、ジェトリックスにだけは極刑を命じたのである。ローマ帝国はその後さらに大きくなってゆき、黄金時代を迎える。カエサルは人類史上もっとも偉大な指導者として今も名を残しているが、そのカエサルが信念を曲げてでも殺さざるを得なかったところに、ジェトリックスの凄さを感じる。主人公の武功を称えるローマ人の物語では、静かに消えて行った脇役の一人でしかないが。
 歴史の中心人物になれず、消された才能は数知れない。時折そのアンチ・ヒーローに魅かれるのは、もしかしたら梶原一騎氏の影響かもしれない。
 拙著「カラテ狂時代」のカバー写真の隅に、私の試合を見ている晩年の梶原一騎氏の姿が映っている。あとから気づいたのだけど、嬉しい事だった。
 先日逝去された真樹先生は梶原一騎氏の実弟である。もうこの世にいない御兄弟である。特に深い交流があったわけではないが、私の心の中で消えることない存在である。
                      2012年2月1日 




 リハビリ


  講士館の特別顧問であり、私の大先輩である中西哲高知県会議員が股関節の手術をされて現在リハビリ中である。人工関節を入れる大手術だ。「わしの骨は固かったから削るのに人の1.5倍かかった」となぜか楽しげなメールをいただいた。阿部君には「身長が2センチ伸びた」と、これまたポジティブな話をされてたらしい。さすが還暦過ぎても先輩は天真爛漫である。でもたぶん、四苦八苦しながらリハビリに取り組んでいるのだろう。
 このリハビリというやつ、なかなか大変なのである。やりすぎてもいけない、というところが難しい。どうしても早く元に戻りたいから、少しづつやるところをガンガンやってしまい医師に怒られる運動家は多い。治りかかっているときは気も急くから余計にもどかしく感じるものだ。また、医者というのは通常、運動する人間の専門的な内容までは理解していない。だから特に骨折などの場合、「動かしても大丈夫ですよ」と言われたからといってすぐにサンドバッグを蹴ったりしては駄目である。逆戻りして泣くのは自分なのだ。
 私の場合、事故後最初の手術から約一年、紆余曲折のリハビリもようやく一段落ついたころ、右ひざの皿を縛ったワイヤーが切れてしまった。中から尖った針金が皮膚を突き上げる。痛みがひどく、すぐにでも抜き取ってほしかったので病院に行った。あいにく担当医が不在だったため若い女医が診てくれたのだが、「安静にして様子を見ましょう、そのワイヤーを今抜くことはできません」と言う。ではこのワイヤーが皮膚を突き破って出てきたら抜いてくれるのか? と私は一応聞いてみた。すると女医は、その時は抜きましょうと答えた。その夜、ワイヤーは私の皮膚を突き破った。私は出血を押さえ病院に駆け込んだ。断っておくがこれは私が故意にしたことではない。あくまでも偶然なのである。しかし私を見た女医の眼は完全な疑惑の光で満ちていた。大きなため息の裏には「やりやがったね」というつぶやきが聞こえてくるようだった。結局入院し、ひざのワイヤーはより太いもので巻き直されたのである。
 大きなけがは完全に元に戻るとは限らないが、最善の状態まではとにかく慎重に、自分の体と精神をしっかりコントロールできなければ回復は望めない。
 ともあれ、中西先輩、またリハビリ中のみなさん、くれぐれも焦らずに。
                     2012年1月23日




 真樹先生、安らかに


  真樹先生が急逝された。古稀のお祝いではあんなに元気だったのに…。先生はテレビなどでも少々型破りな、ガラの悪いキャラを作っておられたが、本当は思いやりのある優しい方だった。私が極真会の本部で茶帯を締めていたころに師範代として赴任してこられ、つらい稽古の後でたびたび励ましの声をかけて下さった。講士館を立ち上げた時も、「俺とお前は本部で一緒に汗を流した仲だから、何でも力になってやる」と、熱い言葉をいただいた。さらに私が事故からようやく復帰し、大阪の大会会場でお逢いした時は私の顔を見るなり、厳しい顔になったな、と目を丸くした後、「男は地獄を見ると厳しい顔になるんだ」そして自分の顔を指さし、「でも見すぎるとこういう顔になっちまうけどな」と豪快に笑っておられた。派手な外見とは裏腹に、細やかな気配りの出来る方だったのだ。真樹道場の生徒さんたちを見てもわかる。後藤さんや安里さんなど、試合でも顔を合わせたメンバーをはじめ、非常に礼儀の正しい方たちばかりである。
 一度、真樹先生と関西の大会で飛行機に同乗させて頂いたことがある。徳島空港からの帰り、先生は金属探知機に何度も引っかかった。確かに真樹先生はいろんな場所にたくさん金属を付けてはいるのだが、いくら外しても服を脱いでも、空港係員のかざすラケットのような探知機はピーピー鳴りっぱなしであった。困り果てた真樹先生は苦笑しながら「やっぱり俺は鉄の男だからな」と言い、緊張気味だった係員や私たちは大笑いしたのだった。その後なんとか飛行機には間に合って帰ってこれた。
 ポツリポツリとそんなことを思い出してしまう。先生は自分の年齢のことなど全く気にしてはいなかったんだろうな、とも思う。空手やってるとそうなのだ。空手着着ると年齢など忘れてしまうのだ。
 真樹先生、さようなら。
 謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。押忍。
                     2012年1月11日




備えあればこそ 


  あけましておめでとうございます。日常、午前中にやっている仕事がクリスマス少し前から繁忙期に入るや終日勤務となり、休日返上の年末年始に突入しました。これが落ち着くころには初稽古を迎え、すぐに本格的な稽古が始まります。あっちが痛えこっちが痛えとか言ってる暇はない。それにしても大晦日、正月としっかり区切りをつけてた頃が懐かしいなあ。まあどっちにしても年末年始はあわただしいものだけど。
 それでも毎朝犬の散歩の途中で日の出が見れる。寒い冬は日が昇る時が一番気持ちいい。今年も始まった、という気分になる。また今思うのは、昨年のあの大災害も正月のこの時点ではだれも予想することは出来なかった、ということだ。気を引き締めていても想像を超える災害や事故はやってくる。「人は後ろ向きに明日の扉を開ける」とは真実だ。
 野生の動物は地震や嵐を予知するという。いつも地面にじかに接触し、自然に溶け込んでいる生物は、地殻や風のちょっとした変調を感じ取るのだろう。ぼんくらな私の犬でだって、エサ以外にも実は何か感知しているのかもしれない。
 その野生動物の祖先である恐竜でも、宇宙から降ってくる隕石などは予想もつかなかっただろうし、もちろん対処できるはずもなく絶滅した。災害を予想して防ごうなどとは人間の思い上がりなのかもしれない。
 しかし、大難を小難で逃れることはできる。情報収集はもちろんだが、身を守るということは一人一人の問題である。心身を鍛えること、体調を万全にしておくこと。頭の中だけでいろいろ考えても、パニックになるとそんなものは吹っ飛んでしまう。過信は禁物だが、瞬時の身のこなしや判断力は後天的に十分養えるものだ。
 備えとは、物質だけではない。自分の中にこそ蓄えるものだと思う。
                      2012年1月5日




受験生Sの苦悩 


  講士館杯第5回錬成大会を12月4日に開催した。講士館の年間締めくくり行事として祭りのような大会なのだが、今年もこの大会をめぐって非常に面白い出来事があったので紹介したい。
 S君は高校3年。台東道場に所属している。空手が大好きで初段もすでに取得し、今年も錬成大会に出場するつもりで稽古に励み、申し込みも済んでいた。だが、いかんせん受験生である。大事な時期に怪我でもされたら困ると、ご両親は大会出場を許さない。話し合いの末物別れに終わり、S君は決心した。「隠れて行こう」と。ところがそんな息子の思惑などお見通しのご両親は、道着を隠してしまった。しかしS君はすぐにそのありかを察知する。自宅1階の店舗の中だ。昔、S君の祖父が煙草屋を開業していた場所である。今は閉まったままになっている、ここにあるのは間違いない、と読んだ。で、S君は行動に出た…。以下はS君本人が芝山支部長宛に翌日送ったメールをそのまま掲載する。

 押忍!昨日は本当に申し訳ありませんでした。道着が1階の店の中かも知れないことが分かったのですが、店へはいったん外に出なければ入れず、降りようとしても親がうるさいので家の裏側の2階の窓から飛び出そうとしました。窓から降りようとしたら携帯が落下し、携帯を取ろうとしてバランスを崩し自分も落ちました。携帯は水たまりに落ちて電源が切れ、自分も足と腰を痛めました。昨日はずっと勉強していました。先ほど携帯は修理に出しました。腰はだいぶ良くなったのですが足はまだ痛みます。

 本人の必死な様子は目に浮かぶのだが、なんともおっちょこちょいな行動が笑いを誘う。文章が簡潔で分かりやすいのも良い。なんだか昔の自分を見ているような気分で妙に楽しくなってくる。
 S君よ、受験がんばれよ。そりゃお父さんお母さんの心配当り前さ。大学入ったら思いっきり打ち込めばいい。君は絶対強くなる。
                      2011年12月13日



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