集中力と時間

 時はいつでも誰にでも同じリズムで流れている。 でも、集中力は時間を変える。
 昔、野球の神様といわれた人が「ボールが止まって見える」と言ったそうだが、今でもイチローがボールにバットを当てる瞬間は違う時間が流れているような気がする。鍛錬した空手家が相手の技の隙を突く時も同じだ。ただ勘で動いているのではなく、そこには集中した稽古から培った「確信」があるのだ。例えば相手が蹴りを放つ瞬間(→当たる箇所を予測する→受けるか合わせるか選択する→合わせることにする→相手の攻撃が終わった瞬間の態勢を読み、急所に照準を合わせる→出す技を選択する→技を出す)ここまでをほぼ一瞬で行うわけだ。結果、一本勝ちとなったりする。これが技の醍醐味である。
 文字にするととてつもないが、人間は凄いのである。
 寒い季節の稽古は身が引き締まり、稽古の集中力も増す。冬の稽古はやったあとが暖かい。着替えてしばらくは体がポカポカと火照っている。無我夢中でやった稽古は「あっ」とう間に終わるけど、肉体に確実に刻まれ、心に長く残る。「千里の道も一歩から」というとなんだか果てしないが、上達する実感、強くなる実感は楽しいものだ。ひとつひとつ良い稽古を重ねよう。
 集中力といえば…。私は最近35年ぶりに書道を習い始めた(大昔、少年部4段を取得しており、子供が習うようになって一緒にまた始めたのです。といっても月に3回くらいしか出来ないけど)。宮本武蔵をはじめ、いにしえの剣豪には書の名人も多い。空手協会の高名な先生の中にも、死の間際まで筆を取っていた方もいる。
 墨の匂い、真っ白い半紙、筆を下ろす時のなんとも言えぬ、心が無になるような気分。書道は集中力を楽しみながら養えるように感じる。河口先生(全日本書道芸術院師範。私の師)の許しも得たので、まだまだ未熟ですが、現在の私の書をひとつ載せておきます。すみません。

闘う山羊


 男は誰でも「闘い」に少なからず興味を持っていると思う。私も子供の頃から格闘技は勿論、動物の闘いにも興味があった。だが動物同士の闘いというのはルールがないから悲惨なものが多く、今はあまり見ない。そんな私が久々に見てしまったのが、なんと「闘山羊」だった。
 闘牛や闘犬は知っていたが、「闘山羊」(正式名称は違うかもしれないが)は初めて聞く。たまたま某テレビ局のお昼の生番組で、地方の珍しい風習などを現地から中継するものの中心にそれがあったのだ。
 中継は小雨パラつく野原から始まった。そこに簡単な檻が作られており、白いテーブルについたアナウンサー、解説者、ゲスト、そして立ち見の地元民が見守る中、レフェリーが決勝に駒を進めた2匹の山羊を呼び出す。かたや「曙2号」対するは「明星(めいせい)4号」呼ばれて登場したのは・・・、普通のやぎ。しょっぱなからなんだか怪しげだった。
 解説者はベテランと新進気鋭の対決だというが、白やぎ同士まったく区別がつかない。「決勝ですから両者とも気合が入ってますね」といわれても、当のやぎたちはめずらしそうに周りを見ながら「なんだべー」みたいな顔で闘う気などまったくなさそう。アナウンサーは新人らしく生真面目に「闘山羊頂点対決」を中継しだした。しかし・・・、事態はどんどん取り返しのつかない方向へと進んでいった。やぎが闘わないのである。解説者がいかに闘山羊が激しいものであるかを説明しようが、その歴史を紐解こうが、やぎは「やっぱり闘うより紙でも食っていたほうがましだなあ」とばかりに仕方なくじゃれあう程度。というか、どう見ても2匹は仲良く遊びだしてしまっている。「ファイト!」レフェリーの叫びもむなしく、ついには一匹が背後から抱きついて甘えだす有様。
 まずいムードを察知したレフェリーが突然2匹の間に割って入り、「明星4号の勝ちいー!」と宣言した。実直なアナウンサーは不思議そうに「今のは、明星4号が勝ったのでしょうか?」と解説者に聞く。解説者は「ええ、明星4号の勝ちです」と力強くうなづく(しかないのだろう)。よせばいいのにアナは「あの、どのへんで勝敗の区別がつくのでしょうか?」すると解説者、「目です。目を見れば分かります」と言って追及をかわした。
 雨脚が強くなってきた野外の悲惨な表彰式。勝者に贈られる手製のメダルが首にかけられるのを嫌がり暴れる明星4号。もうやりたい放題。笑顔で無理やりその首にメダルをかけるゲスト。開き直り笑う解説者。それでも必死にまとめるアナウンサー。暗黙の中みんなムカついている。でも誰も突っ込まない、突っ込めない状況は悲しく面白く、笑えた。さらにこのあと、みんなで大なべに煮た山羊汁を食う、というおまけまでついていたのである。繰り返すがこれはバラエティではない。真面目なローカル番組なのである。
 こんなのどかな「闘い」もたまにはいいかな、と思った。
 それにしても明星4号・・・。今も闘っているのだろうか?。山羊汁になってしまったかもなあ。
判断する力

  

 ローマ帝国に挑戦したカルタゴのハンニバルは、戦うときは先頭に立ち、対外的な戦略も内部の政治に関してもすべてを自力で実行していたという。忙しすぎて道端で毛布をかぶって仮眠をとることもあり、兵士たちは横を通る時は音をたてぬよう細心の注意を払った、という逸話も残っている。
 キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラはアメリカの帝国主義に反発し、ボリビアでの活動中に討ち死にした。一度は政府の要職に就いたのに、理想の為ゲリラに復帰し、苦闘の末に力尽きた。ゲバラといえば、戦うときは真っ先に立ち、食事の配給の列には最後に並ぶ。という伝説も有名だ。
「ゲバラ日記」はゲバラの最後の戦いの記録だが、不思議とそこには、行軍の困難さは淡々と記されているものの、こちらが想像するような悲壮感が感じられない。これは凄いことだと思う。イデオロギーの是非はともかく、その志の強さと散り際の潔さは美しいとすら感じる。
 理想を追求する行動力を備えていながら、夢半ばに散った英雄たちのたどった道は、歴史の上では行き止まりの裏街道になってしまった。その道の先に何があったのかは誰にも分からない。
 鳥の眼、虫の眼、魚の眼。物事の判断には3つの眼が大切だと聞いたことがある。現状を客観的に見る「鳥の眼」、現場をしっかりと把握する「虫の眼」、そして大きな流れ、潮目を読む「魚の眼」。
 大きな事から小さなことまで、人生は判断の連続だ。その判断基準がしっかりしていないとフラついてしまう。後悔してしまう。損得よりも信念を基準に据えて、大きな敵に立ち向かった人間がいたこと。いつも心のどこかに置いておきたい。


うまくいかなくても


 物事がうまく行き過ぎている時は注意すべきだ。とは聞いていても、誰もが自分で経験してみるまでは格言のありがたさなど実感しないものです。空手の稽古が絶好調で技が面白いように決まる時が私にもありました。全日本選手権を2つ取った後だったので、ああ俺の空手は完成したな。などとひそかに思っていたりもしました。そこに落とし穴があった。ある試合で私は思わぬ技に対する受けが甘いことを思い知らされ敗北を味わったことがあります。逆に稽古でどうしてもうまくいかないことがある。試合までに修正できない。注意して試合に臨んだときは、思いのほか対応できたこともあります。やはりいくら稽古していても向上心がかけると慢心になり、油断が生まれる。向上心があるがゆえにうまくいかないことがわかる、というものなのかもしれません。稽古ではたくさん失敗しよう。うまくいかせる稽古、予定調和ばかりを繰り返す自己満足の稽古では井の中の蛙になってしまう。道場稽古というものはいわば内側のものだけど、意識は常に外側に向いていなければならないのです。


講士館の仲間達へ



 3月28日金曜日の夜、府中道場からバイクでの帰宅途中、交差点を信号無視して突っ込んできた車に衝突され、両足を複雑骨折してしまいました。
 今、病院のベットの上でこれを書いています。
 試合も迫ったこの時期に非常に悔しい思いだし、みんなにも大変申し訳ないと思っています。
 選手は、間近でアドバイスしてあげられないけど 今まで頑張ってきた稽古を信じて全力を出し切って頑張って欲しい 私も病院のベットから応援している。 がんばれ!
 二ヶ月で私は戻ってきます。 これからの稽古も 岩瀬先生、小宮先生をはじめ黒帯の先生、先輩方の指示をよく聞いて どうか頑張って心も体も強くなって下さい。


事故顛末


3月28日金曜日 PM10:35 某交差点
 その時、青信号の交差点に入る直前、左側から走ってきた車が停止線を越えてもスピードを全くゆるめていない事に一瞬途惑い、私は右にハンドルを切り(バイクの)ブレーキを握った。思わず大声で叫んでいた。が、車はブレーキをかけず、私の左側から突っ込んできた。もの凄い衝撃でヘルメットがフロントガラスを割り、私は宙に弾き飛ばされていた。交差点の中央にたたきつけられた私は、とっさに腕立ての格好で上体を起こした。 『車が来るぞ! 歩道に逃げろ!』 誰かが叫んでいた。私はしびれる体に力を込めて立ち上がろうとしたが、左足を見て血の気が引いた。太股から変な方向に曲がっていたのだ。 『折れた』 私は直ぐに指先を動かしてみた。 動く。 くっついてはいる。とっさに思い、右足を見た。曲がっちゃいないが痺れて動かない。回りを見ると幸い、さっき声を出してくれた人がそばに来てくれて車を止めてくれた。ありがたかった。
 バイクは粉々になっており、横にぶつかった車があった。私は運転手を探した。歩道で携帯電話を耳にあてた男がこちらを見ていた。怒りが込み上げてきた。男は何度も頭を下げた。でも、こちらへは来ようとしない。 そばにいた人が携帯で救急車を呼んでくれた。私はあきらめてアスファルトにがっくりと体を倒した。痺れが、じわじわと激痛に変わっていった。何故か左足が道路の中に沈んでいくように感じる。私は必死で曲がった太股を握りしめ、救急車を待った。 この足が出してくれたいろいろな技を思い出していた。
 運ばれた救急病院で、右足ひざの開放性粉砕骨折が新たにわかった。が、頭と上半身、そして神経系は、ほとんど無傷であることがわかった。又、左太股の動脈も切れてはおらず、切断せずに済むこともわかった。
 家族の事、空手の事、自分の技の事、頭の中は整理し切れないまま それでも最悪ではなかった事を神に感謝し、私はベットにくくりつけられた。

 そして二週間が経った。
 痛みと床擦れに苦しみながら、1回目の手術が終わり、二回目の手術も昨日(4月10日)終わりました。
 みんなに心配をかけて、本当に申し訳ありませんでした。これからが私の努力の番だと思っています。
 励ましの手紙やお見舞を頂いた仲間、諸先輩方、諸先生方、心に染みました。ありがとうございます。
 そして家族と、講士館道場生のみなさんの助けに救われました。本当にありがとうございます。
 私の不在中、試合に出場した選手には、一人一人にアドバイスしてあげたいところですが、もう少し待って下さい。


情熱を注げ


 試合では、気持を集中させるだけでいい。
 それだけで、しっかり動けるようにしとくのが稽古なのだ。だから準備は慎重に、自分のプラス面を最大限伸ばし、マイナス面を徹底的に埋め、くり返す。くり返す。嫌というほどくり返す。
 常人にはマネの出来ない技を平然と使いこなせれば、違う次元で勝負できるから圧倒的優位になる。でも、これも地道なくり返し、それも失敗を何度も克服してからやっと身につくものだ。
 だから無駄な努力を恐れてはいけない。それが無駄かどうか、後になってみなければわからないものだ。空回りしているようでも、結果が出た時、ああした努力全てひっくるめて神様の目にかなったのだなあ、と感じるものである。
 ビートルズの詩に、こういうのがある。
「最終的にあなたが受け取る愛は、あなたが注いだ愛と同じ量になる」
 私は空手が好きだから、なんでも空手にあてはめるが、やっぱり注いだ情熱と同じ分が自分に戻ってくると強く思う。そして、成長する。合理性だけがすべてじゃない。一心不乱に打ち込む姿勢が大切だ。結果が出ないと悩むなら、もっと情熱を傾けろ。
 絶対、同じ量になるのだから。


三つの目標


先日、副代表の阿部徹君が病院まで面会に来てくれていろいろと話した。彼は腰と背骨の調子が悪く、医者に診てもらってもダメなため悩んだ末に筋肉で保護しょうと決め、毎日五千回を目標に腹筋運動を実行し始めたところだと言った。
「五千回?多すぎないか?」と聞くと、恥ずかしそうに「実は昨日は情けないことに千回で止めてしまいました。でも、とにかく三千回は必ずやるつもりです。」と目を輝かせた。「五千回を目標にすれば三千回も途中ですし、千回は最低でもやれますから」
 阿部徹はこういう男で、だからこそ小さな体でもあんなに強くなれた。35才過ぎても空手バカぶりは健在である。そして何気なく設定した目標にも三つの具体的な数を出すところが彼らしい。大きな目標、途中の目標、間近な目標。この三つを、大会とか審査とかに置き換えても良い。それぞれが目標をしっかり作ってほしい。大きな夢だけでは本気で近づこうとはしなくなる。くじける率が高い。途中の目標があれば具体的にプランが出来る。すぐの目標は実行あるのみだ。そして大切なのはそれを文字に書いてハッキリさせておくことだろう。思ってるだけじゃダメなんだ。言葉にも「言霊」があり、口から発した時にある種のパワーを持つ。文字はより強い。ズレだしても引き戻す手助けにもなる。文字にしよう!
 エベレストに挑戦する人も途中のベースキャンプをまず目指す。
 そういえば三浦雄一郎は75才でエベレストに登ろうとしている。上には上がいるものです。


ああ、鳥は飛べるんだった・・・


 道場の話が耳に入るたび、気持ちが焦る。なかなかつかない大腿骨のレントゲンを見るたび、いろいろ角度を変えてみたりしながら落胆する。入院とはそういうものか・・・・。
 その間、ミャンマーや中国の四川で大災害が発生した。
 ああした災害の映像が、今回はもの凄く身近に感じた。
 瓦礫の中から助け出される人、一命をとりとめた人もこれから苦労は想像以上だろう。でも、「命を失わなかった」事実は 計り知れない。
 九死に一生を得た人が空を見上げて「ああ、鳥は飛べるんだった大空を・・・・」という短歌を作った、という話を聞いた。日常を失った時に痛切に感じるのは、なんでもない毎日がいかに貴重なものであるか、という事。そして同時に心が浄化されて些細な事にも感動する事。「ああ、鳥は飛べるんだった・・・・」という歌は、実感として私にはズシン、ときた。
 倒れると空が見える。動けない自分にとって、大空を飛ぶ鳥は不思議なくらい美しく、自由で感動的だ。普段は当たり前過ぎて気にもしないことが、強く心に残ったりする。
 パラリンピックに出てくる人達は、みんなどこかで喪失の瞬間を味わい、乗り越えてきている。挫折が深い分、感動も大きいだろう。健常者の栄光とはまた一味違う、パラリンピックの選手達の、生きる事に直結したスポーツの意義についても、私は改めて感じ入った。
 早く道場の空気を吸いたい。


退院報告。少し遅れましたが。


長谷川です。退院しました。多くの励まし、手助け、本当に有難う御座いました。松葉杖ですが歩けるようにもなりました。家に戻って、まず机の前にぶら下げてあった懐中時計のネジを巻きました。止まっていた時計が又動き出し、力が湧いてくるのを感じました。一つづつ、出来ることから確実に頑張ります。又宜しくお願いします。


JIKA

 日本国際空手協会(JIKA)に講士館は加盟いたしました。協会代表理事の松井師範はかつて同門で,20代の一時期競い合った仲でした。当時、松井師範のケタ外れのパワーは有名で、一緒に横浜に遊びに行ったときなど、乗った氷川丸の船室のノブをもぎ取ってしまったこともありました(本人は不思議そうに取れたノブを見ていましたが、あれは彼が壊したのです(笑)もう時効ですけど)。
 若い時期に同じ夢を追った仲間との時間は時がたっても鮮明に蘇るものです。また、新たな気持ちで目標に向かっていきたいと思います。
 それにしてもあの頃、何故か休みには空手仲間だけで横浜とか銀座とか六本木とか行ったんですね。それはまさに田舎ものが名所めぐりをするようなもので、銀座に行っても結局「養老の滝」とかでしか飲まないくせに、銀座はもう分かった、みたいな顔してたもんです。たしか横浜には私と松井師範の二人で私の車で行ったんじゃないですかね、今考えると相当恥ずかしいですね。


夏の合宿


 暑くなってきました。夏です。夏といえば、やっぱり合宿ですね。
 合宿には忘れられない思い出がいくつもあります。10代の頃、初めて体験した極真会の合宿。ぐったり疲れた朝練から宿舎への帰り道。へこたれ気味だった私の耳に、何処からか矢沢栄吉の「時間よ止まれ」が聞こえてきたのです。楽園のような心地よい曲でした。今でもあの曲を聴くと、あの合宿のマラソンコースの、やたら濃かった草の匂いが蘇ってきます。
 20代半ばの佐藤塾での合宿では、隊長でもあって張り切りすぎ、最終日には食事中にも眠ってしまうほど疲労困憊していました。夕食のキムチを切っていて、左手の親指の先端を爪ごと切り落としてキムチに入れてしまったのもこの時で、最後のマラソンが終わったときは道端に座り込んだまま、深い眠りに落ちてしまいました。
 少年合宿を初めて行った6年前からは、子供達の一日ごとの成長、泣き笑いなど普段の稽古では見えないものが発見できたりして、お互いとても有意義な時間を過ごせてきたと思っています。田園地帯の朝のマラソンのあとの牛乳、みんなで食べるバーベキュー、工夫を凝らした演芸会…。あとで思い出すのは案外、厳しい稽古よりそういった何気ないことかもしれません。なんでもないようなことばかり、不思議ですね。


出る杭の魂


 野茂投手が引退した。メジャーリーグで2回ノーヒットノーランを達成した偉大な投手だった。また、日本の野球がメジャーでも通用することを先駆けとして証明した男でもあった。後に続くのと、先を切り開くのとでは大きな違いがある。繁栄の前には必ず、決死の覚悟で臨んだ先駆者がいる。スポーツの大きな流れで言えばアメリカ、メジャーリーグのジャッキー・ロビンソンは、さらに険しい道を歩いた。人種差別の激しい時代、黒人が白人の世界に割って入ることの厳しさは想像を超えている。私がロビンソンを知ったのは、中学校の教科書が最初で、そのあと伝記をいくつか読み、もの凄く感動した覚えがある。今では黒人のヒーローは当たり前にいるが、マイケル・ジョーダンにしてもタイガー・ウッズにしても、その栄光はジャッキー・ロビンソンが命がけで作った道があったればこそなのである。
 「出る杭は打たれる」ということわざがある。この言葉を「だから目立つことはするな、周りに合わせていけ」と考えるか、「自分の意志を通すのなら打たれるのは覚悟しろ」と取るかはそれぞれだろう。でも、自分をしっかり磨いていれば、どんなに周りが邪魔をしても頭角を表すものだ、と先駆者達は後ろ姿で語っている。「出る杭になれ、叩かれて叩かれて、もっともっと強くなれ」って言ってくれている。


反射・反応


 ファイティング原田というボクサーは、19歳の若さでキングピッチというフライ級チャンピオンを打ちまくって倒した超一流のファイターだった。その原田選手が引退したあとのこと、奥さんがふざけて原田選手を叩こうとしたら、原田選手は思わずパッとよけ、左フックで奥さんを殴ってしまったという。笑い話のようだが、身についた反射とは恐ろしいものです。テレビ番組の特集で「動体視力」を取り上げ、優秀なスポーツ選手が目から脳、脳から筋肉へと伝えるスピードが医学では説明できない、といったことを学者が不思議そうに語っていたが、現実に「見えて」から判断していたのでは遅い。あえて言えば「動き出し」の察知、そしてその軌道を読むカンなどが電気のようにパパパッと繋がっているのだと思う。脳は経由してない部分がある。
 意識的に行っている体捌きがどの時点で無意識下に移行してゆくか?これは個人差はあるにしても、やはり「量」と「心」で決まるのだろう。カンが繋がっても体が追いつかなければ技にはならないし、またそれをモノにしようという強い欲求が無ければ無意識の領域までは到達しないのではないだろうか。
 無意識の反射とは少し違うが、反応スピードのアップが空手には大切だ。反応は一瞬ではなく、2手、3手先まで読んだ体の流れに伸びてゆくことが出来る。
 何事も「出来る」ようになってきたら面白くなってくる。出来ないことが出来るようになる。その喜びが次の挑戦へとつながっていくわけですね。


月面宙返り


 オリンピックのたびにため息が出る種目がある。体操である。中でも鉄棒にはいつの大会も感嘆してしまう。それは素人目にもハッキリ分かる技術の明確な進歩と、誰かが編み出したウルトラ級の技を、すぐに誰もが使いこなしてしまうという所である。子供の頃、メキシコ大会とかミュンヘン大会で見た鉄棒の主だった技は、大車輪からの単純な飛び越し(コスミック)とかフルターンとかで、着地はせいぜい2回転だった。だから自分には出来ないながらも、なんとなく「こんな感覚なんだろうな」とは思うことが出来た。ところが「月面宙返り」の登場が、まさしく鉄棒の技を「月面」に運んでしまった。もう体を動かす感覚が全く理解できない世界となった。さらに飛び越しも「トカチェフ」が現れ、宙返りは「ギンガー」とか「イエーガー」とか、良く見ても分からないようなレベルになっていき、今では「コールマン」などという超離れ技までこなす選手が多数存在する。そして高校生選手でも普通に月面宙返りをやるようになっているという。きっとこれらも何年後かにはさらなる大技に切り替わるのだろう。
 目に見えないくらいの少しづつの積み重ねが、いつの間にか誰の目にもハッキリ分かる成果として現れる。そこに良い指導者がいて、良い好敵手がいれば、いつの日か第3者からは「月面」にいるような感覚で見られる高みに達するのかもしれない。
 それにしても採点競技というのは大変だなあ、と思う。ミスが許されないプレッシャーの中での演技なんて私にはとても出来ない。だが、体操選手にそういうと、必ず「空手のほうが大変ですよ、だって体操は誰も殴りかかってきませんからね」と言われる。まあ肉体的にも精神的にも、自分に適したものを選ぶべきだし、自分の分野以外のものは、ああ大変なことしてるなあ、と感じるものなのだろう。
 オリンピックはいろんな形での勝負や、努力の縮図が見えて勉強になる。みんな多くのものを犠牲にし、歯を食いしばって辛い練習を乗り越えてきたはずだ。ライバル同士も闘い終わった後は、お互いのこれまでの苦労を理解できるだけに、相手を思いやる気持ちも自然に出るのだろう。結果はともかく、終わったときのそういった柔らかい光景も、私は好きだ。


車椅子


 私の兄は幼い頃から足に障害があって車椅子に乗っていた。養護施設に長い間入院していたせいもあってか、私は兄と兄弟げんかをしたことが無かった。小学生の頃、友だちが兄弟の悪口を言ったり、けんかをしたなどという話を聞くと、最初は不思議で仕方なかった。そのうち悔しくなってきた。健康だからこそ喧嘩が出来る。それを当たり前のように話す友達がやたら幸せそうに見えたからだ。
 日曜日はいつも兄に会うために施設に行った。施設には兄と同じような障害をもった子が何人もいて、みんな車椅子を自分で操作して移動していた。それぞれ大変なのに、私にはみんないつも優しくしてくれた。やがて退院した兄の車椅子を押して外出するようになると、子供心に周りの人たちを気にした。兄に優しくしてくれる人にはもの凄く感謝したが、当時は珍しかった車椅子での外出を興味深そうに眺めてくる人には、少し歪んだ気持ちで睨みつけたりした。今思えば、兄は達観していたのに、私だけが勝手に独り相撲をとっていたように思う。
 時代は変わり、障害者に対してはさまざまな優遇措置がとられるようになった。電動車椅子も出来た。シルバーシートやバリアフリー、障害者用の自動車も出来た。社会が少しづつ成熟してきたのだ。良いことだと思いつつ、特に意識することも無くなっていった。
 そんな私が今年、突然の事故に見舞われしばらくの間寝たきりとなった。そしてその後車椅子に乗った。久しぶりの車椅子、しかし座っているのは私自身だ。遠い日の兄や、兄の同級生達を思い出した。普通に歩くということが、とても大変な作業に思えた。
 杖をついて歩けるようになり、指導のために外出できるまでになると、それ自体は嬉しいのだが、道のちょっとした段差やくぼみが気になった。そして駅の人混みや階段がはじめのうちは怖かった。周りを見ていない人が多いように感じたからだ。イヤホンをつけ、周辺の音を遮断してうつむきながら歩いていたり、携帯電話を見つめながら歩いている人は自分の世界に埋没している。とまっているときはいい、だけど人の中を歩く時くらい、世間の雑音に耳を貸し、周りの人を目の片隅にでも入れるようにすべきではないだろうか。からだに何の不自由も無かった時の自分への反省も含めて思う。さまざまな障害者に対する措置も、人の思いやりなくしては機能しない。
 先日、電車に乗っていると、ある駅から器用に車椅子で乗車してきた若者がいた。見ると太股は細かった。一時的なものではないのかも、と思いながら少し気にしていた。車椅子は電動ではないが、操作しやすそうなものだった。若者は次の駅で、これまた器用な車椅子さばきで下車し、スイスイと走っていった。堂々としていた。その後ろ姿を見つつ、「がんばれよ」と心の中で余計なおせっかいを焼いてしまった。


リズムの力


走り続けているうちに苦しい一線を越えると、疲れを忘れて陶酔感覚になることがある。これをランニング・ハイという。空手の稽古でもそれと同じような経験をした人は多いと思う。喉元に熱い玉のようなものがせりあがってき、痺れているような感覚で体がいくらでも動くように感じる。そして凄く気持ちいいのである。もしかしたらロックンローラーがエレキ弾きながら悶えているのもそうなのかもしれないが、とにかくひとつの限界を超えると体の中からリズムがあふれ出て来るようで普段以上の動きが出来るものだ。そう、リズムが生み出す力は非常に強く、重要である。
 リズムは何も8ビートとか16ビートだとかのように的確に刻む拍子ばかりではない。強弱も大切な要素である。話し方にもリズムの良い人とそうでない人がいる。リズムの良くない人の話は聞きづらい。稽古もそうだ。指導者は稽古生の状態をしっかり見極めながら、注意をするときでも稽古全体のリズムを把握していなければ、それぞれの力を引き出すことは出来ない。稽古中にハイ状態になるのは、引っ張る方も受け取る方も気持ちが一体となり、リズムが合った時だ。
 試合においては自分のリズムをしっかりと維持できる人が主導権を握る。いわばリズムとリズムのぶつかり合いだ。だからこそ逆に、相手のリズムの中に入り込んで(同調させて)技を決めると相手は防ぎようが無いのである。ここは大いに工夫の余地がある。
 昔、祭りで二人の男が大きな太鼓を両側から叩いていた。二人とも「ハイ状態」に突入して狂ったように打ちまくっていた。そのとき、片方の男がバチを落として拍子をひとつ外してしまった。そしたらもう一人の太鼓打ちはなんと心臓麻痺を起こして死んでしまったという。
 これもリズムの持つ魔力のせいなのだろう。


法曹界デビュー


 文京道場所属の松岡君(1級)が司法試験に合格した。苦節?年、ついに難関を突破したのだ。彼は非常に生真面目な男で、試験勉強に没頭する傍ら、空手の稽古も手を抜かず、必死についてきていた。試合に出場する選手のためのハードな内容のときでも、途中でへばることなく頑張り通した。そうした肉体の挑戦が、頭脳の挑戦を続けている彼に好影響を与えていたのだとも思う。
「急用は忙しい人に頼め」という言葉がある。矛盾しているようだが違う。時間というものは、余っているから使えるものではない。作らなければ使えないものだ。時間の使い方の上手な人は、メリハリのつけかたが上手であり、行動に手早く決着をつけてゆけるのだ。また、違うことをすることで気分転換をすると同時に、精神のコリをほぐし、やるべきことへの集中力を高めてもいるのだろう。
 松岡君の印象的な行動をひとつ紹介しよう。私が今回事故で入院したことを彼は図書館でホームページを見て知ったらしい。驚いた彼はそのまま文京道場に向かい、岩瀬師範に事情を聞き、湯島天神でお守りを買って、一目散に私の病院へ駆けつけてきてくれた。息を切らせながら病室に現れた彼は、大きく目を見開いて私をしばし見てから、「ああ、良かった」と言った。私が想像以上に元気そうだったからだ。朴訥で不器用だが、暖かい心を持った男である。判事、検事、弁護士、彼がこの先どの道を進むのかはわからないが、いずれにしても法律という厳格な人間のルールに携わる職業に、こういう人間味あふれる強い男が加わったことに、乾杯!


ピーの話

 私が子供の頃、家で飼っていたコロという犬が子犬を産んだ。名前を「ピー」とつけた。ピーはものすごく元気でえさも親の分まで食べて走り回っていた。スピッツの血が混じった雑種で真っ黒い毛が熊のようにモワモワしていた。そのため太って見えるけど実は痩せていて、大きくなっても幅10センチくらいの門の隙間からよく脱出していった。
 私は散歩の途中でピーをよく多摩川に放り投げた。泳いで戻ってくると、ピーはお返しとばかりに必ず私の横に来てから体を振って水しぶきをかけた。年老いたピーは後ろ姿に哀愁が漂うようになり、やがて病気で死んだ。私は父と一緒にピーを袋に入れて多摩川に連れて行き、穴を掘って埋めた。父もいつもより無口だったような記憶がある。その後多摩川べりは急速に開発され、草ぼうぼうだったあの場所が何処なのか今では分からない。
 「子供が生まれたら子犬を飼うといい。子犬は子供より早く成長して、子供を守ってくれるだろう。そして子供が成長すると良き友となる。青年となり多感な年頃に犬は年老いて、死ぬだろう。犬は青年に教えるのである。死ぬ悲しみを」
 何の本で読んだのか忘れたが、この一節は心に染みた。ピーは一生忘れない。


左回し蹴り


 左足の再手術のため短期入院してきました。今回は簡単な手術だろうと油断していたためか、術後の痛みは予想をはるかに超えて苦しかった。再び2本松葉杖になってしまい、道場のことが気になるばかりであるが、これも前進のための後退、跳ぶための助走であると考えて頑張りたい。
 それにしても夢というのは不思議ですね。ギリギリ手の届かない所を見る。事故の直後は夢など全く見なかったのに、最初の手術が終わったとたんに立っている夢を見た。松葉杖で歩くようになると、夢の中では普通に二本の足だけで歩き、軽くランニングまでしている。そして昨日、夢の中で私は左の回し蹴りをしていた。さすがに途中で夢と気付き、目が覚める前にと必死で何回も蹴りまくった。あの感触、腰が回転し、左ひざが高く跳ね上がり、足先が風を切って走る…。空手を始めてから数え切れないくらい蹴ってきた左のハイキック。
 華麗な蹴り技に魅了されて空手の世界に入った私にとって、強さを追求することは蹴り技の切れと精度を徹底的に磨くことだった。そのため、目の高さの葉っぱを回し蹴りの指先でつまみ取ったり、足の指にカミソリを挟んで吊り下げた新聞を切る練習をしたりした(カミソリは真っ直ぐに入らないと切れずに破けるのである)。武道家を含めスポーツ選手の足というのは命に近いものがある、とつくづく思う。
 焦ってはいけない、と思いつつも、夢の中でもいいから蹴りたい、というのは今の私の実感である。


伊師さんに捧ぐ


 同じ夢を追っていく途中で知り合い、競い合い、支えあった友達がいた。振り返るとわずかな時間の交わりであり、自然にさらりと別れ別れになった。だけど今思い出すと、まるで幼馴染のように感じる仲間。昨年の秋に44歳で突然亡くなった伊師さん(当時新極真会本部師範)はまさにそういう存在だった。
 中野サンプラザホールのトレーニング場は、当時空手仲間の溜まり場だった。拙著『カラテ狂時代』にも書いてある通り、私達は各所属道場での稽古の傍らここで筋力鍛錬をし、サンドバッグを蹴り、組手をし、外に出てダッシュや競争をした。そして飲んだ。空手連中は礼儀正しく、伊師さんも私のことを「先輩」と呼んで立ててくれたが、みんなを気分的にも引っ張っていたのは底抜けに明るい伊師さんだった。彼のエピソードは尽きないが、そのひとつに好きな女の子を初めてデートに誘ったときの話が私は忘れられない。伊師さんは聞いてもいないのに事細かにデートの予定を語り、この場所でこういうジョークを飛ばして笑わせるとか、彼女がこう言ったらこう言い返して気を引くんだとか、必死にリハーサルをしてみせた。笑って聞いていたが、彼はそれを仕事(水泳のコーチ)の最中も独り言でやっていたらしい。プールで子供に泳ぎを教えながらぶつぶつしゃべっているから子供が不思議に思い、「先生誰と話してるの?」と聞いた。伊師さんはとっさに「うるさい、大人の話に口を出すんじゃない」と叱ったという。本当に楽しい逸話の多い男だった。いつも今を精一杯正直に生きていた。
 伊師さんはその後、オーストラリアへ指導員として派遣され、帰国した後は新極真会の本部師範となって活躍していた。いつ会っても明るく、変わらず優しかった。
 伊師さんが倒れた、という連絡を受け、信じられない思いで病院に駆けつけたとき、すでに伊師さんはICUで意識不明の状態だった。手を握ったが、握り返してはくれなかった。五日後、訃報が届いた。
 あれから1年が経つ。
 伊師さんを思い出すとき、目に浮かぶのは顔をくしゃくしゃにして笑うあの笑顔ばかりだ。「やだなあ先輩、冗談ですよ」って、笑いながら突然現れてくれるような気が、まだしてしまうのだ。


転んだら起きる


「今日、出来ることは今日中に」という言葉がある。当然だが、厳しく感じる部分もある。また、「明日で間に合うことは明日やればよい」という外国のことわざもある。なんとなく気楽になるが、少しだらしない気もする。この二つの言葉は反対のように聞こえる。でもどちらの精神も大事だなと思う。やらなければならないことはしっかりとケリをつけていかなければならない。目標や夢があるならそれをそのまま終わらせるのではなく、逆算して今日にでも出来ることはやらなければいけない。しかし誰でも調子の良い時ばかりではない。張りつめた糸はぷつんと切れてしまうこともある。そんな時、自分に多少の精神的ゆとりを与えてやるのは大切なことだろう。人生には短距離勝負のときもあれば、長期忍耐勝負のときもある。一つのリズムしか知らないと止まらなければならなくなる。前ばかり見つめていると行き止まりに当たったとき、横にある小さな抜け道に気がつかないかもしれない。一つ呼吸を入れ、違う視点から見るのはけして消極的な考えではない。
 勝てない時もある。でも大切なのは、簡単にあきらめないこと。次の勝負があるということだ。
「七転び八起き」もしかしたら「八転び九起き」転ぶ数は関係ない。起きる方が多ければいいのだ。


タイ(その1)


 約20年前、ムエタイの本場でキックの試合を見ようと仲間たち4人でタイに行ったことがある。先日私のお見舞いにわざわざ来てくださった中西先輩の顔を見たら、あの旅を鮮明に思い出してしまったので書いてみようと思う。雑誌「フルコンタクトカラテ」にも手記が掲載されたが、ここに書くのはただの思い出話である。
 そもそもは中西先輩(現・高知県会議員)の誘いであった。それに乗ったのが私と松井さん(現・JIKA代表理事)、吉井さん(現・2児の父)の当時現役バリバリの3人だった。私たちは成田から飛び立ち、タイの田舎、チェンマイに着いた。夜も更けていた。すぐにホテルにチェックインして寝た。
 翌朝起きて窓を開けると、そこには軽い密林のような素晴らしい田舎風景が広がっていた。松井さんが横に来て「良い眺めですね」と言った。Tシャツの背中は真っ黒だった。見るとベッドに寝た形跡がない。「ベッドは腰に悪いので床で寝ました」と彼は言った。吉井さんが「松井さんすごいっすね」と笑った。
 朝食をとるためホテルのレストランに入った。バイキング形式で食べ終わると、中西先輩は観光しようとしきりに私たち3人を誘った。しかし私たちは翌日バンコクに移動してムエタイを見るのが目的だったためチェンマイではのんびりしたかった。で、中西先輩が一人で観光することになり、私たちは空手の話などでそのまま居座った。そのうち腹が減ってきたので私が料理を注文した。「ええ!朝食を食べたばかりじゃないですか」松井さんはそう言って笑っていたが、いざ料理が来ると、「見たら食べたくなった」と別のものを注文した。すると笑っていた吉井さんも注文した。空手の話は尽きない。それを食べ終わり、コーヒーを飲んでいると、そろそろ昼近くなってきた。私たちはそのまま昼食を注文した。昼食を食べ終え、相変わらずのんびりと話をしているとなんとなく腹が減ってきた。食べたばかりじゃないですか、と松井さんは笑ったが、またも私の料理を見ると吉井さんまでが順繰りと追加注文をした。そんなことをくり返していたら夕方になった。中西先輩が観光から帰ってきた。私たちはレストランの窓から手を振った。先輩は「お前ら一日中食い続けていたのか!」と驚いていた。そうなのだ、私たちはタイの記念すべき第一日目を、レストランの椅子に座ったまま食べ続けて過ごしてしまったのである。
(続く)


タイ(その2)

 バンコクは大都会だった。しかしタクシーの運ちゃんは混雑する道路を、平気で車に接触しながら走った。バンパーは当たってもいいのだ、と本気で思っているらしい。車はどれもところどころ剥げ、錆が浮いている。「バンコクではこれが当たり前だよん」と運ちゃんは言った。繁華街に無数に散らばる看板は、どれもタイ語で(当たり前だが)意味が全く分からない。英語や中国語なら会話はともかく文字を見ればなんとなく理解できるがタイ語はお手上げである。目を離すと自然にはぐれてしまう松井さんを見失わないように私たちは歩いた。ホテルに入ると何故か最上階のスイートルームに通された。どうやらホテル側の手違いでこうなったらしい。我々は大喜びで大きな部屋ではしゃぎまくった。だが吉井さんだけは部屋の片隅で上半身裸になると「昨日サボってしまったので」とスクワットを始めてしまった。なにも旅行に来た時くらいリラックスすれば良いのに、他の3人は吉井さんを無視して一生に一度泊まれるかどうかという「スイートルーム」探検に燃えた。一段落してビールを飲んでいると、汗みずくになった吉井さんがようやく加わってきた。なんとなく納得がいかず、腕立てを50回やってから飲みなおした。
 夕方、ついにラジャダムナンスタジアムに赴き、キックを第一試合から観戦した。驚いたことに登場したのはどう見ても小学生くらいの少年だった。「あんな子が闘うんですか?」誰ともなくうなった。ガリガリに痩せた少年の板チョコの様な胸に尖った膝が突き刺さるたび、そのあどけない顔面にパンチが炸裂するたび、心が痛んだ。さらに驚いたのは、そうした少年に大人達が金を賭けていたことだった。だから負けて傷つき帰る少年に向かって、賭け負けた大人たちが罵声を浴びせるのだ。「うーん」私たちは言葉を失くした。貧しさから少年といえど戦士となって稼がなければならない。国の事情は様々だ。
 試合が進むにつれ、年代は上がっていった。金網越しに野次るファン。それは格闘技ファンと言うより、競馬や競艇を見て興奮している人に近いように感じた。       
(続く)


タイ(その3)


 翌朝、松井さんがシャワーを浴びた後、バストイレは水浸しであった。カーテンをしないで浴びたらしい。どうしてかと聞くと、「別に自分は見られても恥ずかしくないからいいんです」などとわけの分からないことを言っている。「そうじゃなくてだな…」説明すると松井さんは「ああ、そうなんですか」と大きくうなづいた。吉井さんが「松井さん、すごいっすね」と笑った。中西先輩も「カカカカ」と独特の笑い声を上げて背後で笑っていた。
 朝食後、今度は居座ることもなく船上マーケットに行った。木製の細長い船に数人で乗り、後ろの船頭が川の中の市場(野菜や果物を載せた船が集まっている)まで漕いで行ってくれる。猿の手みたいな小型のバナナを買ってみんなで食べた。その後、陸に上がり「果物の王」といわれるドリアンも食べた。何処が王なのか分からなかったがうまかった。午後、ボクシングの現役世界チャンピオン、カオサイ・ギャラクシーがいる「ギャラクシー・ジム」を訪問し、チャンピオンに面会することが出来た。ジムはトタン屋根の粗末なものだった。リングとタイヤ、サンドバッグが屋外にぶら下がっている。タイではボクシングとキックが同じジムで一緒に練習している。というより基本的にはキックを練習して、ボクシングでモノになりそうだったらそっちへ行く、という方針らしい。やはり国際的なボクシングの方が成功した場合は金になるからだ。カオサイはタイでは国民的な英雄だが、気さくで優しい人だった。このときも数人の子供が遊びながらキックの練習をしていた。昨日の試合が甦り、このあどけない子供たちもすぐにリングに上がるようになり、酔ったギャンブラー達に闘犬のように尻を叩かれるのか、と思うと複雑な気分であった。だが、子供たちはこっちが勝手に想像するような悲壮感は微塵も感じさせないほど陽気で、純粋な目をしていた。大人の事情など関係ないのだ。彼らはただ強さに憧れ、チャンピオンベルトを夢見て毎日頑張っているに違いない。みな見応見真似の技ながら、実に楽しそうに練習していた。
 夜、もう一度ラジャダムナンスタジアムに行った。曜日の関係でルンピニー(ラジャダムナンスタジアムと並ぶキックの殿堂)では試合が開催されていなかっためだ。今度はギャラクシージムにいた若者が案内役をしてくれた。彼曰く、物売りが来ても決して金を持っている素振りをするな、日本人というだけで周りからはマークされているはずだ、という。今日からは気をつけよう、とみんなで確認しあった。ソーセージにベーコンを巻いた串焼き売りが来た。私たちは小銭を渡して買った。なのに松井さんはポケットからおもむろにバーツの札束を取り出し、数えだした。案内役の若者があわてて遮った。中西先輩が背後で「カカカカ」と笑った。       
(続く)


タイ(その4)
 試合は迫力に満ち、スタジアムの中は熱気で息詰まるほどであった。ムエタイの選手はスリムで贅肉が全くない。にもかかわらず非常に打たれ強かった。膝蹴りは誰もが最も高い頻度で使うが、巧みにブロックされてしまう。同じく危険なヒジ打ちは比較的良く決まり、それによるKO勝ちがいくつか見られた。カウポンやディーゼルノイといったトップクラスは出場しなかったが、みな闘いというものを分かっている。非常にレベルの高い試合ばかりであった。二日続けてムエタイの中央リングでの試合を観戦し、その技術レベルや底辺を支える少年たちの存在、ギャンブルゆえにより観衆が盛り上がる仕組みなどを目の当たりにし、得るもの、感じることは大きかった。出来たらジムで少し練習したいとも思ったが、それはかなわなかった。
 ホテルへ帰る夜道、私は一人で少しだけ街道をそれて寄り道をしてみた。大通りをそれると先が見えないほど真っ暗な道がくねっていた。よく見るとその暗がりの道端に、何人か男たちがしゃがんでこっちを見ている。気分は悪かったが体の小さい男ばかりなので恐怖は感じなかった。そういえば「こわい」という言葉は、タイでは使ってはならない。よくわからないがタイ語の卑猥な言葉と語感が一緒らしいのだ。
 翌日、腹筋とスクワットをした後、中西先輩に導かれてバンコクの有名なエメラルド寺院を観光した。タイのお坊さんたちには非常に厳しい戒律がある。女性には直接触れてはいけないため、お布施を受け取る時もハエ叩きの様な板に乗っけてもらうなど、見ていてかわいそうなほど不自由な様子だった。そして食事の規制も厳しく、みな驚くほど痩せていた。悟りを開くのは並大抵ではないのだ。私たちは深く反省しつつ、それでも屋台に出くわすたび律儀に食い続けるのであった。
 夜、「トムヤンクンを食おう」ということになり、比較的立派なレストランに入った。辛くてうまかった。ビールもチャーハンもうまかった。中西先輩がおごってくれるというので甘えることにした。先輩は座ったままボーイを呼び、「いくら?」という意味のタイ語「タオライ」というところを、ほろ酔い気分で上機嫌だったのだろう「ツァオルァーイ」と外人っぽく言った。しかしボーイは「は?」という顔で首をかしげた。「ツァオルァーイ」先輩は陽気にくり返した。ボーイは理解できずに固まっている。先輩は気分を害し、「たおらい!」とはっきりひらがなで怒鳴った。ボーイは「オー、OK」と伝票を持ってきた。
 言葉は難しいものであります。                         (続く)
左から、中西先輩、私、吉井さん、松井さん 


タイ(その5)


 翌日、私たちはバンコクを後にし、帰国の途に着いた。そしてすぐに稽古を開始した。私は沖縄での試合が迫っていたのでフル回転だった。ムエタイ式の腰の入れ方は理解していた。裸で闘うムエタイと空手衣で闘う空手とは前蹴りで使う筋肉が違うのだな、と思ったりもしたが、今にして思えば当時の空手家の平均的な試合数とムエタイ選手の試合数は全く比較にならなかったのだ。ムエタイ選手の体はほど良く脱力されていた。空手家特有のというか一撃にこだわる種目特有の〈緊張と力み〉というものが彼らにはなかった。そうした雰囲気の違いのようなものが、あの頃は体では理解できていなかったように感じる。
 その後、中西先輩は故郷の高知県に帰り、漁師になった。やがて県会議員となり、今では国会にまで進出しようかという勢いである。先日お会いした時は「弱っていた腰が、熊の古道を歩いたら治った」とよく分からないことを言っておられたが、あの笑い方も健在だし元気で何よりである。
 吉井さんは当時は極真城西支部の若手で、東北大会で準優勝するなど非常に強い空手家だったが、その後脱退してキックの試合にも出場するようになった。この時の影響があったのかもしれない。黙々と自分の道を歩む人だった。今では年賀状でしか挨拶していない。その年賀状も子供の写真しか写ってないからどんなおやじになっているかわからない。
 松井さんは持ち前のパワーに磨きをかけ、一時代を代表する空手家のひとりとなった。現在は『日本国際空手協会』の代表理事を務めている。いつもマイペースで性格的に格闘向きではなく、非常に優しい男である。皆しっかりと目標を見据え、努力を惜しまない男達であった。今回の思い出話、20年前の事であるため、行動順序が多少前後しているかもしれませんが嘘はありません。
 その4をアップした後、中西先輩から電話がありました。怒られるかな、と少し緊張して受話器をとると、あのパワフルな声で「オー、長谷川見たぞ。今度俺もあのタイ旅行の本を出すからな」と豪快に笑っておられました。これも楽しみです。


沖縄(その1)


 タイから帰国して約一ヵ月後、私は沖縄で開催された大会に出場した。沖縄実戦空手の老舗「琉誠館』が主催し、極真会から伝統派までが参加する当時沖縄で随一のフルコンタクトルールの空手トーナメントであった。剛柔流沖縄館の仲本先生に招かれての出場なのだが、これには1年前の大会からの因縁があった。このことは『カラテ狂時代』にも書いていないので、ここに記しておこうと思う。
 これよりちょうど1年前(1986年)私は初めてこの沖縄大会に招待されて出場した。この年は大会の日程が集中しており、春のポイント&ノックアウト第1回全日本大会で優勝したわずか6日後、テコンドーの第7回全日本大会に出場し、重量級で2位となった。だが、怪我の痛みでろくに動けず内容は惨憺たるものであった。そしてすぐに沖縄に飛んだ。ついた翌日が大会である。1回戦を判定で勝ち、2回戦で沖縄不動の王者、知花選手と闘った。開始10秒ほどで私の左回し蹴りがあごに決まり、知花選手は足元に崩れ落ちた。通常なら一本である。しかしここのルールではテンカウントまでに立ち上がればそのまま試合は続行となる。知花選手は必死に立ち上がった。その直後、知花選手の変則的な蹴りが私の左目の上を掠めていった。痛みはなかったが足の爪が私のまぶたを切ったため、大量の出血となってしまった。そしてドクターストップである。病院へ向かうため会場を去る間、お客さんの大きな歓声にも顔は凍りついたままだった。病院で目のすぐ上に麻酔注射をされ、目のところだけをくりぬいた布をかぶされて縫合してもらった。初めての沖縄の試合で私は表彰台ではなく手術台に乗ってしまったのだ。悔しさと恥ずかしさで痛みも感じなかった。そんなわけだったから絶対借りは返さなければならなかったのである。
 一年ぶりの沖縄は少し余裕を持って眺められた。喫茶店でアイスコーヒーに砂糖を用意されても(ガムシロではない)、ステーキにとんかつソースをかけられても(ステーキソースではない)落ち着いていられた。(これは20年前だからではなく、長く統治していたアメリカの影響なのだろう。今年、横田基地で食べたばさばさのステーキにはやはりこのソースがかかっていた。アメリカ軍の味覚って、変!)
 試合の前日はホテルに泊まった。一年前の記憶が甦って妙に興奮し、眠れなかった。しかし大会前日に眠れないことなど気にはならない。当日は良い天気だった。晩夏の沖縄であるのに去年のような蒸し暑さはなく、むしろカラッとして気持ち良かった。
 開会式で紹介された。極真全日本ベスト8の親泊選手と上地流の強豪屋嘉選手も、そして当然連覇を狙う知花選手も紹介された。重量級は全日本レベルである、と主催者は締めくくった。
 控え室で親泊選手がそばに来て「何でわざわざ沖縄まで来んのよ?」と至極当たり前のことを聞いてきた。私は「うーん、なりゆきでね」とひどく歯切れの悪い返答をした記憶がある。当時私は極真会を脱退した流派に属するという理由で極真会の大会には出場を拒絶されていたため、親泊選手とはこの機会に闘いたいと思っていた。(続く)


沖縄(その2)


 一回戦、若く動きの良い選手が相手だった。左ハイキックが数発入り、勝った。
 二回戦、パワーで押してくるタイプ。途中で動きが読め、呼び込んで飛び後ろまわし蹴りを顔面に決めた。快勝であった。昨年のことを覚えているのだろうか、観客が非常に好意的で私に対する応援が良く聞こえ、その声も力になった。反対側のブロックでは親泊選手が屋嘉選手を延長の末に下した。柔道出身でもの凄いパワーを持った屋嘉選手であったが、親泊選手には及ばなかった。知花選手も順調に勝ち抜いていた。そして私、知花選手、親泊選手の3人が残った。
 準決勝は変則的なシステムで、3人の対戦をくじ引きで決めることになっていた。その結果、知花選手と親泊選手が闘うことになり、勝った方と私が決勝を争うことになった。
 準決勝戦はしかし、知花選手の一方的な攻勢で終始した。屋嘉選手との対戦で疲労したのか、親泊選手にいいところは全くなく終わった。決勝の相手はやはり知花選手。昨年のドクターストップという屈辱を晴らす機会が一年ぶりにやってきたのだ。
 重量級決勝戦は大歓声の中で始まった。私は気合を入れて構え、すぐにフットワークを使って蹴りで勝負する形を維持した。知花選手はそれほど大きくはないが、頑強な筋力を武器にどんどん前に出てくるファイターである。受け止めたり、かわしたり、変化をつけながら技を返した。中盤過ぎ、私の左ハイキックが顔面にヒットした。しかし知花選手は倒れない。空手発祥の地、沖縄の王座を守ってきた男だ。真正面から打ち合う堂々とした戦い方であった。だが延長に突入すると、二人のリズムにはっきりと差が出てきたように感じた。私は崩されずにペースを守り、顔面にも蹴りを入れ、追い込んでいった。判定は、私に上がった。嬉しかった。知花選手の顔も氷解したように微笑んでいた。全力を出し切ったあとには借りも貸しもなかった。抱き合い、握手を交わし、お互いの健闘を称え合った。私は満足し、仲本先生のところへ向かおうとした。が、しかし、私は試合場から下りることを許されなかった。そのまますぐに中量級と軽量級の優勝者二人と連続して闘い、総合優勝を決めるのだという。びっくりしたが、私が知らなかっただけかも、と考え直し気持ちを切り替えた。
 中量級のチャンピオンは技師であった。私は疲労していたが、重量級の選手と連戦してきた体に中量級のパワーは感じない。相手が左右の連続後ろ回しを繰り出した直後に同じ技(後ろ回し蹴り)で顔面を蹴り倒し、技有りを奪って快勝した。
 すぐに軽量級チャンピオンが目の前に現れた。まるで昇段の10人組手である。主催者側も必死だったのだろう。試合が始まる。軽量級にしては力強い攻撃であった。だが、私は左ハイキックを冷静に決めることが出来た。相手は崩れ落ち、鼻血を流しながらそれでもファイティングポーズをとった。見ると鼻が曲がっている。折れたのだ。勝負はついた。しかし、主審は見てないふり?で「続行!」と声をあげる。これではあまりに危険である。私は主審に相手の鼻骨骨折を伝え、裁定を待った。そして一本勝ちということで私の総合優勝が決まった。軽量級王者の必死の健闘を称え、私はやっと試合場を下りる事が出来た。観衆が集まって私を称えてくれた。一人の女性が赤ちゃんを差し出し、「この子も強くなれるように抱いてやってください」と言った。照れくさかったがとても光栄なことである。私は人垣の中で赤ちゃんを高く抱き上げた。また歓声が上がった。(続く)                2009年1月5日


沖縄(その3)


 こうして私は2度目となった沖縄での試合で重量級優勝と総合優勝を獲得することが出来た。結局この試合が、私が東京以外の地で出場した最後の大会となった。
 大会会場を出ると、仲本先生はそのまま観光客があまり訪れないという海に連れて行ってくれた。エメラルドグリーンの美しい海は、もう夕暮れ色に染まりつつあった。体中が痛かったが、あまりにも綺麗なので思い切り飛び込んだ。何メートルも下の水底までくっきりと見えるのがちょっと怖いくらいである。誰もいないので途中からパンツを脱いで素っ裸で泳いだ。やってみると分かるがこれが本当に気持ち良い。普段海パンで固定されていたモノまでが自由に泳ぎだすのである。男の人は一度やってみるべきだ(人のいない海で)。
 空はオレンジ色から紫色に変わり、やがて陽は海に溶けるように消えた。何試合も闘った疲れは、泳いでいるうちは全く忘れていた。
 その夜は仲本先生の友人のお宅でご馳走になった。仲本先生はご機嫌で、友人の蛇味線似合わせて歌も歌ってくれた。そして若き日、奥さんの気を引くために待ち伏せして蛇味線を弾いた事まで話してくれた。この「好きな人の気を引くために待ち伏せして蛇味線を弾く」というところに痛く感動した。ひと昔前の沖縄ならではといった感じではないか。私も沖縄の地酒をしこたま戴いた。
 翌日は朝から釣りに連れて行ってくれた。地元の漁師の釣りで、海のポイントに仕掛けた餌を、船で引き上げて回るという漁法だ。シイラという大型の魚が釣れるという。弁当を持って船に乗り込んだ。しかし途中でひどく酔ってしまい、引き返してもらって私は下りた。胸がむかむかした。我慢して弁当を食べようとしたが、おかずは肉のフライと魚フライとイカフライという、フライ3連発であった。吐きそうになったので蓋を閉め、船が戻るのをベンチで寝て待った。これがこの時の最後の思い出だった。
 それから何年か後、後輩の石川君と沖縄に観光に行った。仲本先生のところへ一応連絡すると「いいところへ来た、すぐに来なさい」と言う。行った途端に『那覇ハーリー』という船の団体レースに助っ人として駆り出されて死ぬほど漕がされた。先生は「この沖縄伝統のレースに出られるなんて君たち運がいいな」と笑っておられた。
 私にとって沖縄は生涯忘れられぬ地である。                     2009年1月11日


寒さに強くなる本


 沢木耕太郎の「凍」というノンフィクション小説には、アルバインスタイル(簡単に言うと一人の力で困難な登山に挑む人)を貫き通して世界的な登山家となった山野井夫妻のクライマー人生が描かれている。その登山に対する情熱は、読んでいて息を呑むほどである。私は登山の経験は皆無であり、垂直に切り立った岩壁にハーケンを打ちながら何日もかかってよじ登るなどという苦行は想像すらしたことがなかった。しかし物凄いと感じたのはその労力よりも凍傷で手や足の指を何本も失いながら平然と新しい山に挑もうとする姿勢であったり、壁に張り付いたまま氷点下の夜をザイルに体を結んで眠るその精神力などだ。普通は都会の冬でも屋外で寝たら一晩で死ぬといわれるが、彼らは体が震えているうちは体内にエネルギーがあるのだから大丈夫と考え、凍りつきそうな体のまま睡眠をとる。たった数メートルの壁を移動するのに何時間もかけ、指を一本づつ犠牲にしてハーケンを一本づつ打ち込む場所を慎重に探る。人間は何処をギリギリだと決めるかで死線すら変えられるものなのか、と感嘆してしまう。
「本を読むことは川の水をざるですくうようなものだ」という。すぐに利益や効果が現れるものではない。でも「いつしかキラキラした砂金がそこに溜まってくる」と続く。知らないうちに知恵や力となって人生を支える柱の一つに本はなり得る。山野井夫妻の生き方は、この本を読んだ記憶が消えても心の中に残っているだろう。でも、この本の一面には即効性もある。読んだ後、間違いなく寒さに強くなる。すぐに強くなる。一日の終わりに風呂があって布団がある人は、寒さなんぞに負けてはいけません。                         2009年1月22日


ガッツポーズ


 題名は忘れたが、一昔前「播磨灘」という最強力士が、横綱にあるまじき傍若無人な振る舞いの数々で、相撲協会を敵に回して暴れまくるという相撲漫画があった。親方や協会が躍起になって守ろうとする伝統を、踏み潰すがごとく我が道を行く…。先頃、朝青龍のガッツポーズが問題になったが、朝青龍を見ているとこの「播磨灘」を思い出してしまう。ただ、それはそれで悪役をしっかり勤め上げるというのは(本人にそのつもりはないにせよ)物凄いエネルギーの持ち主であることに間違いはない。
 相撲や武道は日本の伝統文化という一面もあるから、大切な精神世界を継承しなければいけない。しかしこれがグローバル化してくるとそれを維持するのが非常に難しくなってくるのだろう。広めるか、守るか。柔道はオリンピック種目となって45年。今では試合のルールやマナーでもヨーロッパ主導となり、古来の雰囲気は消え失せた。剣道は今のところ守る形をとっているのか、試合においても礼節を重視する面がルール化され、その美意識は維持されているように感じる。相撲にしても外国人力士が増え、横綱がモンゴル人で独占されてはいるが協会の主要人物は全員日本人でもあるから、ルールには明記されていない不文律も、維持するのはそれほど難しくはないはずだと思う。ルールは規則であり、マナーは人間としての思いやりであり、礼節は心を清廉にする心得であり美徳でもある。規制はされなくても、武道に限らず、人間がお互いの尊厳を守る為にも心にとどめておきたいものである。
 アメリカの野球選手の中に、ホームランを打っても絶対ガッツポーズはとらない、と宣言している選手がいた。「一生懸命投げた相手の投手に失礼だからだ」とその選手は言っていた。私はこの選手を、カッコいいと思う。
                                      2009年2月2日


心に残る言葉


 名古屋の空手団体「誠心会館」を率いる青柳政司館長は、私達の世代の空手家にとっては一つの目標ともいえる大きな存在だった。極真の第10回全日本大会での衝撃的なデビュー以来、ガッチリとした体躯から繰り出す下段蹴りの圧倒的な威力で活躍し、『東海に怪力無双の青柳あり』(カラテマガジンでのキャッチコピー)とその名を轟かせていた。
 正道館主催第2回全日本大会。2度目の大会出場だった私の2回戦の相手が青柳館長だった。初めて対戦する本格的な強豪に、畏怖と期待でワクワクしながら私は闘った。思ったとおりの凄いローキックだった。負けた後で挨拶に行くと、青柳館長はとても優しい顔で微笑み、「若いんだから、これから頑張れよ」と励ましてくれた。
 数年後、共に出場した両国国技館での『梶原一騎追悼・格闘技の祭典』では試合の後、普段は力士達が使う風呂に白蓮会館の杉原館長と3人で入った。当時から怪我に悩んでいたようであったが、そのさらに数年後、プロレスラー大仁田篤とのデスマッチを行い、それを機になんとプロレスの世界にも入って暴れまくった。
 その青柳館長から忘れられない言葉を戴いたのは一昨年、私が講士館を立ち上げた時である。
「長谷川君、試験だったら答えに正解と不正解があるよな。でも長谷川君の人生で長谷川君自身が決めたことは全部正解だからな。絶対間違いなんかないからな」
 美しい言葉ではなくても、相手を思いやる心がこもるとどんな格言より心に響くものだ。自身の力で道を切り開いて来た青柳館長だからこそ言える言葉なのだなあ、とも思った。
 青柳館長は今でも現役レスラーとしてリングに上がっている。プロレス興行のポスターに写真入でファイティングポーズをとる姿を、今でも時々発見して嬉しくなる。
                                     2009年2月14日


音無しの剣


 江戸時代の剣豪、高柳又四郎は「音無しの剣」の使い手として有名である。この技はその名の通り、高柳又四郎が音もなく相手を打ち倒してしまうところから来た。剣と剣がぶつかる音がしない、つまり相手の剣に触れずに打ち込んだといわれているのである。実際の話、真剣を振るう場合、むやみにガチャガチャと剣を合わせていたら刃こぼれして戦えなくなってしまうだろう。果し合いでは面とか胴を打ち込むのではなく、主に小手をちょこっと切って戦闘能力を失わせることが重要視されたらしい。
 フルコンタクト空手の試合ではどうか? 打ち合いは避けられない。だが、正面衝突しているだけでは、我慢比べのマラソンレースになってしまう。その段階を踏まえたうえで、相手と自分の体の流れをつかむことが大事だろう。間合いは大切だが、一定の間合いだけにこだわると簡単につぶされる。流れに合わせて軸を払ったり、相手の体重移動をある程度予測してその方向に加撃すれば、炸裂音もなく相手は倒れてくれる。合わせ技がこれである。接近していても可能である。鍔迫り合いからサッと足元をすくう。流れを利用して態勢を崩し上段を狙う。技がタイミングよく決まるときは派手な音などせず、ズブッという鈍い音と共に決まるものだが、同時に自分自身に返ってくる衝撃もほとんどない。 まともに攻撃を受け止めない。受けて返すのではなく、受けながら返す。
 古の剣豪の技には、現代の格闘にも通じるコツと真髄が宿っている。
                                    2009年2月25日


銀色のジャンパー


 私はこの冬、ずっと同じ上着を着ていた。左のひじの部分が破れた銀色のジャンパーである。これは一年前のあの事故の時に着ていた服だ。長い入院から帰宅して、部屋に掛かっているこのジャンパーを見たときは、もうこの服は着れない、と思った。事故の記憶がぐっと甦ってきたからだ。しかしすぐに考えは変わった。あれだけの事故で、下半身に重傷を負いながらも、上半身が全くの無傷だったのはわれながら奇跡だったと思う。病院の先生も当初は懸命に脳波や上半身の動きを気にしていたものだ。言ってみれば上半身は、このジャンパーが守ってくれたのである。そう思い至り、手放せなくなったのだ。
 私は占いとか運勢とかは信じない方である。そして恨みや悔しさの感情が長続きしないたちでもある。まだ骨折は完治していないし、生活も元には戻っていない。でもこの一年良いことはたくさんあった。ベッドで動けない時期、窓から満開の桜が見えた。眠る時は窓から月が見えた。何とか松葉杖で立ち上がった時、真っ先に窓を開けて顔に浴びた風の、どんなリゾート地でも浴びること出来ないような気持ち良さも味わった。
 痛みや苦しみも、その深さの分だけ些細なことに大きな喜びを発見できる。生きている限り、新たな感動に出会える。
 暖かくなってきて、そのジャンパーともそろそろお別れである。去年は窓越しに見ていた桜が、もうすぐじかに降って来る。
                                  2009年3月10日


虹の道


 先日、合気道を習っている人たちの会話を偶然耳にした。一人が言った。「先生にうまくいったところをイメージしてやるようにしなさい、といわれるけど、うまくいったことがないから分からないんだよな」すると全員がうなづきながら、そうそう、と笑いあっていた。なるほどそうかもな、と思った。経験していないことは具体的にイメージ出来ないものである。一つの技のイメージとは少し違うが私にも似たような経験がある。試合に初めて出場しようとしていた時だ。何度も夢を見た。それは試合の呼び出しが私を呼んでいるのにまだ着替えていなかったり、組み合わせと全く違う相手が目の前に立っていたり、試合場に上る階段がなかったり・・・・。目が覚めて冷や汗をかいてることもあった。戦うイメージすらなかったわけだ。なによりもまず経験をし、そこから体で覚えるしかない。その積み重ねが多彩なイメージの構築に繋がり、不測の事態にも対処できる精神力と柔軟性を養ってくれる。技一つのイメージなどはもっと単純である。全力でやった気持ち良さを感じることだ。最初は立派なイメージが無くても良いのだ。
 腕相撲の際、相手の腕が倒れてゆく「虹の道」を頭の中に描いてみると、その通りに力が働くことがあると聞いた。不思議なことに、決まった技は体がそのタイミングを覚えている。そこに「虹の道」が出来上がっているのだろう。否定する思考の入り込む余地が無ければ体は自然に「虹の道」を通る。よく使われる例えでいえば、自転車に乗れたら一生乗れる。泳げる人が突然泳げなくなったりはしない、というやつだ。「体で覚える」ためには、頭であれこれ考えすぎず、失敗をくり返さなければならない。泳げない人は結構いるけど、自転車に乗れない人はまずいないだろう。「うまくいかない」と考えている人は、自分が初めて自転車に乗れたときのことを思い出してみてはどうだろうか。
                                     2009年3月21日



 1960年代初頭、ボクシングのヘビー級タイトルマッチで、時のチャンピオン、ソニー・リストンに挑戦した若き日のモハメド・アリは、試合中しきりに相手を挑発しながらも、ラウンドの合間で椅子に腰掛けた時には、実に苦しそうに首を振りながら「もうだめだ、おれはもうだめだ」と弱音を吐きまくっていたという。フィルムに映し出された姿でも、それは手に取るように分かる。トレーナー、セコンドはそのアリを隠すように囲い込んでいる。ところがアリを追い詰めていたリストンが突如肩の不調を訴え、ドクターストップによりアリは半ば偶発的に王座についた。もしもあの時、アリの弱気をリストンに見抜かれていたら、紙一重の勝負はどちらに転んだか分からない。あの偉大なモハメド・アリの伝説すらも存在しなかったかもしれないのだ。自信をつけたアリは、リターンマッチでリストンをあっという間にKOしている。もう時代は変わったのだった。
 顔というのは心の中を微妙に露出させてしまう。勝負師はポーカーフェイスでなければならないといわれる。相手に自分の弱さ、脆さを少しでも見抜かれたら命取りになるからだ。しかしアリというボクサーはポーカーフェイスとは無縁の男で、その後、逆に自分の顔を使って巧みに相手を罠にかけた。リストン戦から約10年後、兵役拒否によりタイトルを剥奪されていたアリは、リストンを上回るハードパンチャーのジョージ・フォアマンに挑む。予想ではほぼ100%のKO負け。ところがアリはリング上での挑発とロープを使った作戦でフォアマンを追い詰めていった。ラウンドごとに、一方的に打ち続けながら怒りに我を忘れてゆくフォアマンの表情の変化は印象的であった。その顔を見つめながら、アリは一発のタイミングを冷静に計っていた。自分の感情を激しく露出させ、それまでの試合では徹底的に無表情だったフォアマンのポーカーフェイスを崩してゆく。焦りを見抜いてゆく。そしてアリは時代を引き戻した。
 体は静止しているといかにも安定しているようだが、一瞬のタイミングを逃すことが多い。顔も、堅固に固めていても崩れ始めると脆い。勝負では弱さを見せてはいけないが、ただ表面上を消しているだけでは、内面を完全に遮断することは出来ない。逆に顔を適度にほぐすことが、心のガス抜き、リラックスにつながっているような気がする。                                   
                              2009年4月1日


おじいさんの飛び後ろまわし蹴り


 4月5日の東都空手道選手権にて、宮島が重量級優勝を果たし、一つの段階を乗り越えた、という実感がしている。協会の選手達にも良い影響を与え、刺激し合える関係でいたい。それにしても今大会を見て、選手年齢が昔に比べてずいぶん上がったものだと感じた。50歳以上のクラスにエントリーしている選手が11人というのも凄いが、その中で決勝を戦った二人が60代であったことは驚きである。それも全く歳を感じさせない戦いぶり(失礼ですが)には頭が下がる。節制と稽古、気力がどこまで人間を強くするのか?未知の領域でもある。選手寿命が延びているということは、人間の寿命が延びていることの証だろう。今大会にもあった「新人シニアクラス」という名称は考えてみると非常に面白いが、40代で試合にデビューする人が増えているということだろう。やり方によってはそれでも目標を20年後に置くことが可能なわけである。「燃えよドラゴン」や「空手バカ一代」が産んだ第一期実戦空手ブームのころ、試合においては20代でほぼ終わっていたのだから、時代は変わったものである。それに現段階でシニアクラスを戦っている人のレベルは非常に高い。若い選手層は一時期に比べると空手界全体で若干減少しているが、一撃の破壊力ではシニアが若手を追い上げているようにすら感じてしまう。さらに今回、女子の38歳以上のクラスも新設されていた。詳しい先生に聞くと、女子には子供を産む痛みに耐えるという特殊な潜在能力があり(男では耐えられないそうである)男子より体のしなやかさもあるため、男が考えるより打撃に強いのだという。
 少し前、還暦を超えたおじいさんが鉄棒で大車輪をやっているコマーシャルがあった。運動年齢、格闘年齢は上がっている。これからは街角でおばあさんがひったくりを後ろ蹴りでノックアウトしたり、マナーの悪い若者をおじいさんがバックドロップで仕留めたりしている光景を目にするようになるかもしれない。若者よ、油断するな。
                                 2009年4月13日


賞状


 誰にも少年時代に、嬉しくて忘れられない思い出と、恥ずかしくて忘れたい思い出があるだろう。私にもある。皮肉にも私の場合はその二つが同時に起きてしまった。
 小学生の時、書道の市内展で特選に選ばれた。私にとっては初タイトルである。嬉しかった。さらに先生から「朝礼で校長から賞状が渡されるぞ」と言われ、その日は柄にもなく緊張していた。良い天気だったが、時折強い風が吹く冬の寒い朝だった。名前を呼ばれ、全校生徒の前に進み出た。周りからは「オー」とか「すごい」とか「ハセがかよ」とか声もかかった。校長の前に立ち、一列に並んだ先生方から拍手された。この夢のような状況が突如悪夢に変貌するなどとは予想するすべもなかった。校長は賞状を高らかに読み上げると、私に恭しく手渡そうとした。私が礼をして手を出したまさにその瞬間、ビュッと風が吹いて賞状を空に舞い上げた。私はうろたえ、咄嗟に賞状を追いかけた。どうせならずっと遠くに飛んで行ってしまえば良かったのだと思う。だが、それはほんの数メートル横に落ちた。私は飛びついた。しかし私の手が触れる寸前、次なる風が賞状をさらってしまい、焦った私は転んでしまった。非常に気まずい静けさの中、頭が真っ白になった私は賞状に向かって再度ダッシュした。しかし悲劇は終わらなかった。風は嘘のように賞状を私の手のギリギリ届かない所へと飛ばし、転がし、結局私は全校生徒の前を一拍遅れのモグラ叩きのごとく無様に走り続け、校庭の端にある体育館の前でようやく破けて汚れた賞状をつかみ上げたのである。その距離およそ50メートル。なんと長く感じたことか。当然ながらみんな笑っていた。私はそのまま家に帰ろうかと思った。栄光の授与式が一転してコントである。笑うのも惨めだし、泣くにも泣けず、私は仕方なしに真剣な顔で列に戻ったのだった。
 以来、私は人前で物を貰うのが嫌いになった。大人になって空手の大会で優勝し、賞状を戴く時も実はこのときの記憶が鮮明に甦ってきており、人知れず慎重になっていたのは誰も知らない(屋内だし、風も吹いてないのにね)。さらに今では大会等で賞状を渡す側に回っているが、私はいつも必要以上に丁寧に扱っているつもりだ。ただの紙切れだと思うかもしれないけど、貰う人にとっては努力の証しだし本人にしか分からない喜びも詰まっている。それに賞状ってのは、貰う瞬間こそが一番嬉しいものだからね。
                              2009年4月26日


日記・記録


 選手を目指す生徒には、稽古日記をつけることを強く薦めている。別に感想など書かなくても良い。ただこなした量をセット数と内容だけでも記しておくだけで、それが自分自身の貴重な資料になるからだ。サーキットトレーニングのセット数、組手稽古の回数、シャドーやラッシュ、ミット打ち等の記録と回数。ひとつの大会が終わると体の作り直しにかかるから、書き留めてないと忘れてしまうのだ。そして過去の自分の記録を上回るように稽古の質と量を上げてゆく。また、単なる回数の羅列の行間に自分にだけわかる悔しさや喜びが隠れているものであり。それは大切な思い出にもなるだろう。
 選手時代が過ぎ、稽古日記をつけなくなった私だが、去年の入院生活の最中には思い出して一行日記をつけていた。手術した足が曲がる角度を毎日少しづつ大きくするように、また筋力を戻す為に足に錘をつけて屈伸した回数、そしてお見舞いに来てくれた人の名前や手紙のこと。見直してみたら、ちょうど一年前のGW明けに府中道場のK君が来てくれた事が書いてあった。そういえばこの日、中学生のK君は駅から来る途中で道に迷い、通常10分の道のりを3時間もかけて来てくれたのだった。彼はルービックキューブをいともたやすく全面クリアしてしまう明晰な頭脳の持ち主である。こういう人は脳の中を駆け巡る電気信号が素早く最短距離を通るのであろう。それにしては病院までの最短距離を通れなかったのは不思議であるが…。
 たった一行の日記からでも、記憶のページはパラパラとめくれて甦るものです。
 ところでルービックキューブのような難解なものがどうして出来るのだろうか? 私はこうしたものが大の苦手である。知恵の輪などもダメである。焦れた挙句、一応力まかせに引っ張ってみたりしてから投げ出すタイプである。こっちの方の記録は、一生残せそうにない。
                         2009年5月6日


水の季節


 家の周りの水田に水が入った。たんぼが目覚める一番美しい季節。私は一年で一番この時期の水田の景色が好きだ。早朝、風に揺れる小さな波の縞模様。昼の太陽にギラギラ輝き、夕方には優しく雲の色を映す水面。優雅に泳ぐカモたち。あぜ道で区切られた水田の微妙な色の違い。これが夜になるとまた一味違った顔を見せてくれる。
 夜、たんぼのあぜ道をゆっくり歩く。たんぼの中ほどで止まり周りを見てみるとそこには幻想的な風景が広がっている。半分から上は闇の中にわずかな家の明かり、その上に月がぽっかりと浮かんでいる。そして半分から下は、それが正反対に映っている全く逆の世界。空の月は遠いけれど、足もとにある月は簡単にすくって持って帰れそう。上下の狭間にいる自分の存在が消えてしまいそうな静かな時の流れ。実際は静かではない。蛙の声が前後左右から聞こえてくる。しかしこの音はいくら耳から入っても脳の中で不愉快に反響することなく、むしろ脳みそをマッサージして通過していってしまうようだ。だから全くの無音状態よりよほど神経をリラックスさせてくれるのである。
 誰にも疲れや悩みを癒す場所や空間があるだろう。苗が育ち始めるまでのほんのわずかな間、夜のたんぼは私の(所有物ではないけど)特別な空間となる。
 蛙の声をBGMに、たんぼの上を渡ってくる涼しい風を浴びながら、一杯いきましょう。
                             2009年5月16日


4度目の手術


 右ひざに痛みを感じて触ってみたら、中からとげのようなものが皮膚を突き上げていた。事故で砕けた膝の皿をつないでいたワイヤーが切れ、動いていたのである。内出血で膝が赤黒く染まり、痛みが激しくなっていった。それでも道場が一番気持ちが落ち着くこともあり、毎日稽古指導は行っていた。しかし、ついにワイヤーが皮膚を突き破って出てきてしまった。残念ながら手術が決定。これで4度目である。甘く見ているつもりはないのだが、どうにも今回の怪我に関しては気持ちが空回りするばかりである。まだまだ精神が未熟なのだろう。道場生の皆さん、また一旦入院してきます。申し訳ない! 審査までには必ず戻るつもりです。
                           2009年5月25日



 膝を真横に一直線、その上にホチキスの針が20個、鉄道のごとく横断している。これが今回の手術の跡。まだ抜糸してない。割れた膝の皿の間に大腿骨から骨を削って移植したらしい。医術はいまやプラモデルのように人間の体を組み立てなおす、というのはオーバーか。ともあれ今回も数え切れないほど体に針を刺し、注射、点滴で薬を体内に入れた。間違いなく生まれてから去年の春先までの48年ちょっとの年月で刺した針の数より、この一年の間に刺した量のほうが多い。それまで注射なんて大っ嫌いだったのだが、今回、新米の看護師さんがおっかなびっくり私の腕に点滴針を刺すのを、「リラックスしてやれば大丈夫だよ」と励ますくらいには慣れた。大部屋の中はどこかを骨折したじいさんばかりだった。ベテランもいれば初めてかつぎ込まれた新入りもいる。夜はみなさんのいびきが不連続に襲ってきて眠れたもんじゃない。無呼吸症の人の「が、が、ぐががが」というドリルのような唸りもあれば、廊下の果てまで響くような重低音を出してくれる人もいる。まあ私は合宿等でこうした騒音の中で過ごす夜は何度も経験しているから別にどうという事はないのだけど。
 3度目の手術の時に初めて経験した脊椎麻酔を今回もかけられた。腰骨から注入された麻酔薬で徐々に下半身がポカポカしてくる。意識はあるのに動かそうとしても動かなくなってくる。これはすごく不快だ。寝ていて手術の様子は見えないがいろんな音は聞こえてくる。トンカチで強く石を叩くような音が何度も聞こえてきた。あれはなんだったのだろうか? 本格的に痛いのは麻酔が切れてから約半日。何度経験しても慣れない。我慢するしかない。高校の文化祭で天井から落下し、右腕を骨折した時も七転八倒するほど痛かったっけ、と遠い昔の痛みを思い出して紛らわそうとする。でもあの時は何故かばあちゃんが患部に巣鴨のお札を貼ってくれたら痛みが消えたのだった。
 長い。それにしても長い。不自由な時間は長い。
                           2009年6月9日



 超音波治療器という骨折部位の再生を促す器械で毎日40分間治療している。これはニューヨークヤンキースの松井秀喜選手も使っていたものだ。超音波なので全く感じない。痛くもかゆくもない。ゆえにかけたまま寝てしまうことがしばしばある。いったい超音波って何をしているんだろうか? 骨に向かってアニマル浜口みたいに「気合だ!気合だ!気合だー!」と喝を入れてくれてるんだろうか。骨も素直じゃないから苦労していることだろう。
 骨折ってのは実際痛い。でもやっぱり多少は慣れてくる。「大人は痛くても泣かないの?」と、息子に聞かれたことがある。「うん、大人になると痛みでは泣かないんだ」と答えた。いつからだろうか?痛みや悲しみや悪意や攻撃に対しては絶対泣かなくなったのは。そして逆に、善意や暖かさ、感動にはめっきり弱くなってしまったのは。
 男の子はよく泣く。私もそうだった。父親に「男のくせに泣くんじゃない」とよく怒られた。でも母はこういった。「男の子は大きくなったら泣かなくなる。泣いてはいられなくなる。だから小さいうちにいっぱい泣くんだよ」
 今回も昇段審査で連続組手を耐えぬき、少年部から黒帯が3名誕生した。痛さや怖さで泣いていた子供たちが、その痛みを耐え、苦しみを乗り越える。もう体の痛みくらいでは泣かなくなった。確実に強くなった瞬間だ。そして審査のあと、道場の隅で誰にも気付かれないように泣いている後ろ姿もあった。こういう涙の味を知り、子供は親の想像を超えて強くなっていくのだろう。
                          2009年6月28日


老人と海


 どういう大人になろう、と考えたことは無かったけど、最近になってどういう老人になったらいいかな、と考えることがある。一番はヘミングウェイの「老人と海」の漁師の老人だ。たった一人で巨大カジキと格闘し、仕留めたものの無残にもサメにすべて持っていかれる。それでもやっとの思いで帰り着き、自分の小屋で疲れ果てて眠る。ライオンの夢を見ながら……。「誇り」と「挑む心」を失くしてはいけない、と老人は行動で示している。2番目は大間のマグロの一本釣り漁師。はからずも両方とも漁師になってしまったが偶然だ。それなら漁師になれよ、と言われるかもしれないがそんなわけではない。大間の漁師を追ったドキュメントの中、ある老人が「70歳も20歳も、漁師は漁師。おんなじだ」と気負いもなく淡々と語っていた所が非常に良かったのだ。ああ、老人になるってカッコいいんだな、と単純に感じたのである。
 手術から一ヶ月の検診を受けた。先生いわく「運動機能の回復状況は驚異的」だそうである。運動のプロなのだから当然かもしれない。どちらかというと問題は、頑張れるか、というより、どの辺でやめておくか、という点だった。悪化させないように徐々に、というのが難しいのだ。だがしかし、通常の運動機能のはるか彼方に空手の運動レベルはある。私の場合、言ってみれば山から深い谷底まで転がり落ち、ようやく這い上がってきて平地までたどり着こうか、というところなのだろう。もう一度山に登るため、平地をしっかり踏みしめて固めたい。
 カジキの大きさにこだわりながらも、「誇り」は結果ではなく挑み続ける心にあった。山の高さにはこだわりたいけど、どうやって登ったか、が肝心なのだと思う。老人になったとき、気負わず、淡々と語れたらいいなあ、と思う。今の調子では、熱く語っちゃいそうだけど。
                          2009年7月7日


一期一会

 私が通っていた小学校の校庭の端に池があった。4年生の頃、私は仲間二人とその池に石を投げ込み、跳ね返ってくる水しぶきをよけて遊んでいた。そこへ一学年下のM君がやってきて、偶然にも跳ね上げた水を頭から浴び、全身びしょ濡れになってしまった。M君は泣いた。仲間二人は逃げた。だが私はM君を知っていたので残った。屋台の焼き鳥屋をやっているお父さんと二人暮らしの子だった。私は石を投げたことを謝り、持っていたしわくちゃのハンカチで頭やジャンパーを拭いてやった。M君が泣いたのは、そのジャンパーが買ってもらったばかりの物だったからだと、すぐに分かったのだ。私たちは仲直りし、M君の家の途中まで送ってから帰った。
 翌日、M君は学校で昨日の事件を先生に報告し、石を投げて逃げた生徒二人が職員室に呼び出された。二人は「長谷川君もやりました」と言い、私もすぐに呼び出された。先生はM君に、何故私だけをかばったのかと聞いた。でもM君には上手く説明ができなかった。石を投げたのは同じである。そのあとの経緯を上手くいえなかった。私も石を投げた事実に負い目があったため、謝って仲直りしたことは言えなかった。で、結局同じように説教を受け、先生の前でもう一度M君に謝った。職員室から教室に戻る途中、M君は私に家に来てくれと言った。私は学校から帰ると、すぐにM君の家に行った。小さな借家だ。M君は嬉しそうに「待ってて」と言うと、父親の商売道具である焼き鳥を冷蔵庫から取り出し、器用に焼き始めた。火を使ったことすらなかった私は、半ば尊敬のまなざしでM君と手元で焼ける鳥を見ていた。焼き鳥はうまかった。生焼けだったのか、いくら噛んでも噛み切れなかったけどうまかった。
 高校2年の夏、友達が暴走族のようなバイク数台にからまれた。私も帰路だったので仲裁に入った。するとバイクの中の一人がヘルメットのバイザーを上げてこっちを見た。その顔は、まぎれもなくあのM君であった。M君もすぐ私に気づき、「あ、ハセ?」と顔を綻ばせた。そしてすぐに仲間を促して走り去って行った。
 M君は数年前に事故で亡くなった。だがそのことを私が聞いたのはつい最近であった。すぐに思い出したのはその三つの場面だ。それほど親しかったわけではないし、彼がどういう人生を歩んだのかも全く分からない。ただこれだけの思い出でも胸に込み上げてくるものはある。ずぶ濡れで泣いていた幼い顔。焼き鳥を焼く真剣な顔。たくましくバイクにまたがって笑っていた顔。ホンの一瞬でも気持ちが通じたら友達なのだ。一期一会、という言葉は、たいてい二度と会えなくなってから思い出す。
                            2009年7月19日


般若心経


 立禅という稽古をしていた時、気持ちを集中させるために般若心経を何度も頭の中で唱えた。般若心経自体覚えるのは容易ではないが、立禅という孤独な稽古を続けるために当時の私には必要なものだったのだ。冬の午前5時頃、真っ暗な林の中でこの稽古をするとき、どうしても気のなるのが背後だった。突如人の気配を感じ、バッと振り返ってみれば誰もいない。風が木々を揺する音が無気味にも感じ気が散って仕方ない。闇の恐怖感からか過敏にもなっている。振り返る、何もない。振り返る、何もない。こんな無駄なことをくり返しているうちに空が白んできてしまうのだった。で、般若心経を頭の中でくり返そうと考えた。難解だから気が散る暇がないのだ。これがしかし覚えてみると結構面白い。有名な「色即是空空即是色」の部分にしても、「あるものは無い、無いものはある」と直訳されても意味不明だが、例えば人間の体を何百万倍かに拡大したら、細胞の間隔すら開きすぎてそこには何もないように感じる。しかしそこに人間はいる。見えないところに精神や心は存在するからだ、と心の存在を説いていたりするわけだ。たった数文字の漢字で宇宙の真理を説こう、というのだから凄い。しっかり学んだわけではないので深く理解しているわけではないが、興味をそそられる部分も多かった。
 目的のための手段だったものがその後に影響を及ぼすことがある。脇道にそれすぎるのは困るが、多少の寄り道は人生を豊かにしてくれるかもしれない。今でも般若心経の冊子は机の上のラックにある。たまに唱えてみたりする。人類が存在する限りこのお経は唱えられ続けてゆくのだろう。そしてどんなに科学が発達しても、人間が必ずぶち当たる悩みを、多少なりとも助け、軽くしてくれることだろう。
                             2009年8月3日


明日はわからない


 ウサイン・ボルトがめちゃめちゃに速い。するとまたしても誰かが言う、「ジャマイカ人は足が速いのだ」確かにパウエルも速いし、オッティも速かった。足の速い陸上選手が昔から多く存在したから子供たちもそうした英雄に憧れて陸上の短距離が盛んになったのだろう。だが、それをすぐに国や地域で区切って特別視するのは間違っていると思う。
 日本人が柔道が強いのは、畳の上での生活風土の特性による、という説が一時期あったが、もう誰もそんなことを信じてはいない。空手のローキックにしても最初の世界大会当時は、日本人特有の胴の長さと和式便所で知らぬ間に鍛えられる足腰があるからこそ強いのだ、という分析があった。が、稽古次第で足の長い外国人だってローキックにも強くなる、という当然といえば当然の結果が出たのはそのすぐ4年後だったのだ。
 人種や国籍だけでその競技の優劣が決まることはまず無い。歴史の違いとか食べ物の違いとか生活風土の違いとか、多少有利に働く部分があったとしても、その壁は必ず覆されている。逆に言えば、そういう分析の専門家に惑わされて多少なりとも諦めの気持ちを持ったときこそ、一番危険なときだということだろう。
 勝者は表彰台を下りたとき、勝利を称える群衆の中にも虎視眈々と次を狙って見つめている視線を感じなければならない。あなたに感動した人間は、あなたを越えようとしてくるだろう。
 明日はわからない。
                            2009年8月17日


ちょっと怖い話


 私は霊感が強いほうではない。占いとかにも全く興味は無い。しかし去年のあの事故の少し前に起きた二つの出来事に関しては、思い返すたびに首を傾げてしまう。
 あれは事故の1週間ほど前のことだった。私はバイクで交差点にさしかかった。信号は青に変わった。私はそのまま直進した。すると横からイヤホンをつけた若い男が自転車で信号を無視して突っ込んできたのである。自転車は私のバイクの後部に車輪を引っ掛け、転倒した。驚いてバイクを止めて振り返ると、男はパッと立ち上がり、自転車に飛び乗って走り去って行った。こちらを振り向きもせずに。
 その数日後、やはり交差点。私は青信号を確認して走り出した。そのときまたしても、信号無視の黒いセダンが目の前をスー、と横切ったのである。さすがにクラクションを鳴らして怒鳴った。しかし何の反応もなく、車は消えていった。
 それまであんなにはっきりとした信号無視を体験したことはなかった。それが連続して起きた。しかもその相手方の反応の希薄さは無気味ですらあった。謝罪するか、怒鳴り返してでもくれれば、へんな言い方だが「手ごたえ」があったはずだ。そしてその数日後、あの信号無視の車に、今度は完全に真横から激突されてしまったのである。
 虫の知らせ、とはこういうものなのだろうか? にしても交通ルールを守らないものに対しては注意のしようも無い。それでもより慎重な人だったなら鋭敏に察知してかわせたのであろうか? それとも…、あの二つの出来事が頭の片隅にあったからこそ、3度目のあの時、命を取りとめることが出来たのだろうか?
 世の中、まだまだ不思議なことがあるものです。
                           2009年9月1日


正統と異端


 剣聖、上泉伊勢守が能に招待されたときのこと、名人の舞いを見た上泉は、「一部の隙もない。剣の道にも通じるものがある」と褒め称えた。後年、宮本武蔵にも同じ場面が訪れる。武蔵は能の名人が舞っている最中、いきなり大きな気合を入れた。すると名人は驚いて尻餅をついてしまった。武蔵は大声で笑い、「こんなものですよ、踊りは踊りです」と言い放ったという。
 おそらく実話ではないだろう、でも言いたいことはわかる。名人と達人の違い、正統と異端を象徴している話だ。過去の人物は、それを書き記した人の技量によって大きく変わってしまうから正確には分からないが、宮本武蔵という人は自画像を見ても感じられるように一種異様な天才だったのではないだろうか。二本の刀を使い、言うなれば強烈な我流を押し通した傑物、といった感がある。
 剣の道に限らず、才能ある人間の我流には力強い輝きがある。しかしそれは概ね一代限りである。真似ができないのだろう。たとえるなら、険しい山をルートすら選択せず、ただ己のひらめきと力で道なき道を登りきってしまった、というようなものだ。凄みがあって当然だが、そこにあらたな道が出来ることは稀である。
 人を指導することは、山の登り方を教えるのに似ている。山頂から見下ろしたまま、「こっちだこっちだ」と言っている師もいれば斜め前方に立ち、麓から一緒に登ってくれる師もいる。前者の場合、登る側によほどの熱意がないとたどり着けない。そのかわりその道はまた独特の個性的なものになるだろう。後者の場合なら誰でも不安なく登って行ける。師が弟子の力量を見抜き、伸びる方法を取ることが大事だ。いずれにしても、師と弟子が共に研究工夫をしてこそ道は確実になり、短縮されてゆく。到達する地点が高くなれば、さらに高い山も見えてくることだろう。
 剣といえば、史上最強の剣士は針谷夕雲(はりがやせきうん)だ、というのが多くの専門家の見方である。武蔵に関しては、「達人だったのか否か」昭和中期に直木三十五と菊池寛が言い争った、という逸話もあるくらい人によってその評価は分かれていた。私は、個人的には幕末の榊原健吉が好きだ。どこか異端な方が、記憶には残るものらしい。
                           2009年9月16日


山田


 JIKA主催の全日本大会で、山田哲也が準優勝を果たした。ノーシードで1回戦から決勝までの5試合すべてが素晴らしい戦いぶりだった。特に優勝候補の一角だった吉川選手との激戦を終えてすぐの準決勝、110キロの大豪、鈴木選手を相手に飛び後ろ回し蹴りを顔面にヒットさせた技術には、観ているものの目すべてを一瞬大きく見開かせたのではないだろうか。決勝では力尽きたが、壁をいくつも乗り越えてファイナルを戦った経験こそが大きな宝なのだ。この夏も苛烈な稽古を強いてきただけに、この結果は感慨深い。『明日はわからない』の項でも書いたが、感動は次の挑戦のエネルギーになるのだ。
 山田は入門した十代のころ、短髪を赤く染め、さらに「Z」だか「X」だかの剃り込みを入れたいわゆるヤンキー風の若者だった。しかし内面にはち切れそうなエネルギーを持っており、なんでも同時に平気でこなした。二十歳の頃には、重なってしまった国家試験と昇段審査と出産(山田が産んだわけではないが)の三大行事をすべて見事にクリアする離れ技をやってのけ、「一ヤンキー」から一気に「国家資格を持つ黒帯の父ちゃん」になったのだった。
 昨年の夏、それでもスランプ状態だった山田に喝を入れたくて、持っていた松葉杖を床に叩きつけて怒鳴ったことがある。山田を怒ったのはその一回きりだ。
 技で勝負する人間は一瞬のミスが命取りになる。だからこそ刹那、刹那を何回も踏みしめ、確実にしていかなければならない。華麗な蹴り技が決まる寸前、運動機能すべてはその一瞬に向かって一斉に動き出す。そして絵に書いたような瞬間が訪れる。これはまぐれでも偶然でも衝突でもないのである。戦い方は十人十色だ。そこに美学を求めるのは単なる自己満足かもしれない。でも、だからこそ楽しいし、名人芸ってのはそういうものじゃないだろうか。
                           2009年9月30日


道場・オブ・ドリームス


 『フィールド・オブ・ドリームス』という映画をご存知だろうか?私はこの映画が好きで何度もビデオを借りたことがある。ケビン・コスナー主演のアメリカ野球を題材にした映画で、天啓に打たれた農夫がトウモロコシ畑を切り拓いて作ったグラウンドに、今は亡き昔のメジャーリーガーの幽霊たちが現れ野球をする、というストーリーだ。野球に対するアメリカ人の愛情の深さと、フィールドへの思い入れがジワー、と伝わってくる所が感動ものなのである。
 自分が打ち込んだものならば、誰でもその種目だけでなく、場所も大切な思い出として残るはずである。私にとっては道場がその「夢のフィールド」そのものだった。そして講士館は、この秋に狭山の道場を移転して新本部道場とし、新たにスタートを切る。小さいが、内部は非常に綺麗で道場らしい雰囲気に満ちた常設の専用道場になる予定だ。私の事故などの影響もあり、いくつかの話や予定が消えたりずれたりしてしまい、諦めかけた時期もあったが、やっと、である。
 実は、私の『カラテ狂時代』が出版される時、題名をどうするか編集者から相談を受けた際、「カラテ狂時代」と「夢の道場」の二つの案を出していた。結局インパクトがある方、ということで「カラテ狂」に決まったのだが、「夢の道場」の方は、この「フィールド・オブ・ドリームス」が頭にあったからにほかならない。
 道場もグラウンドも体育館も、思い入れがなければただの空間である。そこに自分の夢や目標を持って立ち、汗や涙、時には血をも染みこませながら、仲間と喜び悲しみ、達成や失望を味わうから貴重な場所になるのだ。きっと道場の数だけ「夢のフィールド」があるのだろう。
 『フィールド・オブ・ドリームス』では、トウモロコシ畑から忽然と現れたシューレス・ジョー(20世紀初頭のイチロー、とも言える名選手)がフィールドをゆっくりと見回し、「いいグラウンドだ」とつぶやく名シーンがある。
 新道場に立つとき、万感の思いを胸に、私も最初の気合を込めたい。
                          2009年10月14日


11.8 道場開き


 11月8日、新本部道場の道場開き。関係者、友人、黒帯道場生など約60名が集まっての祝宴を挙げさせていただいた。日本国際空手協会からも開宴前から岡野副代表理事、西久保師範、市塚師範、高橋師範らが駆けつけてくれていた。こうした自分の道場のお祝いというのは初めてで慣れぬゆえか、準備やらなにやら雑事に追われてこの日まで予想以上に忙しかった。この「講士館時計」もご無沙汰だったのはそのためだ。だが、それでも予定通りには行かないもので、開始時刻になってもオードブル料理が届かない。ビール類や寿司は届いたがこれでは片手落ちだ。私は仕方なく地元民の井上君に店までひとっ走りしてもらい、軽く気合を入れてきてもらうことにした。その時、乾杯の音頭をとってもらうことになっている協会の代表理事、松井師範から連絡が入った。「いやすみません、ちょっと遅れちゃいましたけど今「狭山市」駅を降りましたから、で、どっちに向かって行けば…」駅を間違えている。しかも降りている。ここは隣の「新狭山」から徒歩3分なのだ。それを告げると「えええ!」と松井師範は悲鳴を上げていた。上げたいのはこっちだった。電話を切ると、もうすでにセレモニーは開始しており、すぐに私の挨拶である。考えていた言葉は吹っ飛んでおり、戻ってくる気配はなかった。さらに挨拶の途中で胸の携帯が激しく振動し出した。井上君だろうか松井師範だろうか、また何か新たなトラブルか?、気は散り放題である。何とか挨拶をまとめ、建設会社の安食社長の言葉を戴き、特別昇段の授与式も終え、入間川愛指導員の型演武に入る段階でようやく料理が届く。とりあえずほっとした。愛ちゃんの型は素晴らしく、観衆はみな見惚れていた。これも気分良かった。続く山田君の試し割りも喝采を浴び、調子は上向きである。いよいよ乾杯。その寸前に松井師範が到着。すべてはギリギリセーフであった。
 最初のビールを飲み干すまでに、かくも長く孤独な闘いがあったのである。まあしかし、めでたしめでたし。感謝、感謝。旧友や道場生とも久々に酌み交わし、時間は瞬く間に過ぎていった。
 宴半ば、ふと窓から神社の方を見ると(道場は薬師堂の目の前にある)大黒様がこちらに向かって歩いてくるではないか。よく見ると正吾塾の西田師範であった。西田師範は樹齢800年の屋久杉にも匹敵するといわれる胴回りを揺らし、いつものように汗だくになりながら来てくれた。失礼なことを書いたが、この方は本当に強く優しく律儀な方なのだ。師範は道場らしい雰囲気に感心し、トイレまで写真に収めてくれていた。
 予定をだいぶオーバーし、嬉しい祝宴はお開きとなった。最後は私の指名により伊豆君の絶叫型一本締めで締めくくった。新道場のスタート。講士館はこれからが本番だ。
                          2009年11月11日


世界大会・全日本大会・錬成大会


 本部道場開きの翌週、空道(くうどう)の世界大会を観戦した。大道塾の東塾長が作り上げた空道は空手とはまた違ったひとつの格闘種目であり、試合としても完成された形になっていた。見たのは初めてであったが、ロシアの選手が圧倒的に強い。筋力、骨格、性格の違いだろうか、技とその連係のスピードが日本人とは全く異質で、常に「タメ」を作ろうとする日本選手の技を随分遅く感じさせるほどだった。ロシアでは空道人口が5万人を超えているらしい。凄い普及速度である。挽回するのも並大抵なことではないと感じた。
 その翌週、22日には大阪で白蓮会主催の全日本大会を観戦した。やはり最高水準の選手が集い、素晴らしい大会だった。常に進化する技術のいくつかを非凡な選手から垣間見ることも出来た。事故以来初の訪問であり、真樹先生や長谷川一幸師範(極真連合代表)、青柳館長から強く暖かい励ましの言葉を頂けた事もありがたいことであった。
 その翌日の23日には、我が講士館の第3回錬成大会を開催した。今年も各道場から老若男女一同に集い、型と組手で稽古の成果を競い合った。勝つ喜びも、負けて流す悔し涙も、自分の力で経験した貴重な思い出になるだろう。
 大会はやる側と見る側と作る側の3つで出来ている。作る方を経験すると見る側に回ってもそっちの苦労が伝わり、その労力にも頭の下がる思いがする。しかしやっぱり大会は出場する選手達が主役だ。私の現役の頃、大会が近づくたびに「選手の方が楽でいい」と愚痴をこぼす人がいたが、私はその協力には感謝しつつも心の中で「あなたは一年間毎朝5時に起きて準備しますか?」と思っていた。3つの側すべてが満足するものを作るのは大変なことだが、開会式の緊張、試合中の熱中、表彰式の安堵。感情が入れ込み、起伏し、終わるとぐったり疲れるのはみんな一緒です。
                          2009年11月24日


ヒーローの形


 少年時代のヒーローはさまざまであり、数も多い。たまにその形が多少変わってたり、人とは違っていたりしてもそれはそれで永久に心に残るものだ。
 遠い夏の日、おそらく小1か小2の頃だから40年以上前、父親が多摩川へ連れて行ってくれた。遊べると思って喜んでいた私は、それが父親の仕事仲間の酒宴だったとやがて分かり、つまらなくなって暴れだした。いくら暴れても相手にされないことに苛立ったのだろう。私は川にあったボートのオールを外して来て、酔っ払いたちが騒いでいる大きなテントをぶち壊しにかかった。するとさすがに怒った一人の酔っ払いが私からオールをもぎ取り、顔面をひっぱたいた。私はふっ飛び、土手をごろごろと草むらまで転がり落ちていった。そして草むらの中で声をあげて泣いた。父は、何故かそれでも私を助けには来なかった。すると、どこからか「ぼうず、どうした?」酒臭い息が吹きかかり、大きな太い腕が私を抱き起こした。あまりに酒臭かったので顔を上げてみると、上半身裸でニッカーポッカーをはき、酒か日焼けか赤黒い顔をした見知らぬおじさんが私の顔を覗き込んでいた。おじさんは上半身のほぼすべてに色鮮やかな彫り物を入れていた。「突き落とされたんだ」と私が土手の上を指さすと、おじさんは「なんだと」と眉をつり上げ、「そうか、泣くんじゃねえぼうず。おまえみたいな子供を突き落とすなんて俺が許さねえ!かたき取ってやる」と私を抱えたまま土手をよじ登りはじめたのだった。不思議な成り行きに少しワクワクして私はおじさんに身を任せていた。おじさんはあっという間に土手を登ると、躊躇なく父達の酒宴のど真ん中に飛び込んだ。ミツバチの群れに乱入したスズメバチのようであった。そして、「こいつを土手から突き落とした奴、出てこい!」と怒鳴った。
 その後は、それこそ蜂の巣をつついたような騒ぎである。父も仕方なく私を連れて帰ることになった。数人に押さえ込まれながら、それでもおじさんは「ぼうず!おまえを落とした奴は絶対に許すんじゃねえぞー」と叫んでいた。私は父の自転車の後部に半ば縛り付けられた状態で後ろを振り返り、遠ざかってゆくおじさんを見ていた。そしておじさんが見えなくなると急に悲しくなり、「お父ちゃんが悪いんだ」と泣きながら父の背中を叩き続けた。
 出会い方は大事である。以来、私は子供ながら、刺青を入れた酒臭いおじさんが嫌いではなくなった(まあ、あまりいなかったけど)。
 多摩川もずいぶん変わったが、今でも土手に立つとあのおじさんの颯爽たる雄姿を思い出す。姿形は良くなかったけどそれは確かにヒーローの姿として私のまぶたに焼きついている。
 「あの人に会いたい」というテレビ番組のコーナーがあったが、出来ることならあのおじさんにもう一度会って…、いや、やっぱりあれはあれで心にしまっておこう。ヒーローはいつの世もかっこよく消えてゆくものなのだ。
                          2009年12月8日


試し割り


 空手には試し割という演武がある。一昔前までは、試し割りを中心とした空手の演武会は結構頻繁に行われていた。試し割りと聞いてまず最初に思い出すのは「自然石割り」だ。石を手で割るなど奇跡だと思った。空手に神秘のベールがかかっていた頃の懐かしい感覚である。しかし、割り方が分かったからといっても、その方法だけを取り上げて簡単だというのは失敬である。何故なら、最初に挑戦した人はそんな方法もわからず、ただ必死に、割りたくて割りたくて挑み続けたのであろうからだ。懸命に取り組んだ末、偶然、何かの拍子にポンと結果が出ることがあると聞く。でもそれは打ち込んだ情熱の産物なのだから「必然」ともいえるだろう。
 人間、自分の痛みはことさら大きく感じるわりに、人の痛みや苦労はなかなか理解できない。だから人のやっていることを見て、俺にも出来そうだ、と思うことのほとんどは出来ないものであり、ああ結構大変なんだろうな、と思うことは、本当に至難なものだ、という話を聞いたことがある。ほんの少し抜きん出るためにその人がした努力というものが、途方もないものだったりもする。これは特別なことではなく、日常的なことでもあるのだ。
 李青鵬が(突然ですが「空手バカ一代」に出てきたカンフーの達人です。知ってるかなあ?)指先でジョッキの底を(漫画で)抜いたのを見て、スイカに一生懸命一本指抜き手を突っ込んでいたのは私だけではあるまい。むしろ由利達郎(知らないだろうなあ)の湯呑み茶碗人指し指抜きの頃からのチャレンジャーもいたはずである。
 試し割りにはロマンがあった。いくつか私が参加した試し割り演武について、これから紹介していきたい。
                           2009年12月23日


試し割り・パート2


 私が参加した試し割り演武の中で、最初の本格的なものが、ソ連大使館で行われた演武だった。1979年の夏、極真会は第2回世界大会を控え、いくつかの場所で演武を行ったがそのひとつだ。その中でもこの演武会にはかなり力を入れていたような気がする。なにしろメインが当時まだお元気だった大山館長のビン切りであり、その前には盧山師範のバット折り、西田師範の角材折りが行われ、さらにその前に三瓶先輩と中村誠先輩の氷柱割りなどが次々と行われたのだから豪華なものである。私はまだ十代で茶帯だった。それでも前座として、瓦の手刀割りと頭割りを命じられており、初めての体験だったのでとても緊張していたことを覚えている。なにしろ瓦を手刀で割り、振り向いて後ろから来た相手が振り下ろしてくる瓦を頭で割って決める、という単純な内容だったにもかかわらず、手刀で割ったあとに振り向くのを一瞬忘れてしまったほどなのだから。したがって本当に背後から瓦で襲われたようなもので、その時脳に受けた衝撃はいまだに忘れられない。二度と頭割りはすまい、と誓ったものである。
 試し割りには2種類ある。ひとつは「こんな硬いものを割るんだぜ!」という「破壊型」。氷柱割りとかレンガ割りとかだ。もうひとつは「こんな難しいことするんだぜ!」という「曲芸型」(もちろん本当の呼称ではありません)である。バック転で割ったり、高いものを飛んで割ったりするやつである。当時は破壊型の演武が主だった。とにかく演武といっても試し割りオンリーでバッカンバッカン割りまくる。型とか組手とかはなし。でもこれはこれで非常に単純明快で良かったと思う。割ったあとに観衆が見せる驚きの顔を見るのも気分が良いもんだった。
 ソ連大使館での演武は屋外で行われ、演目が進むにつれ日が落ちて行った。黄昏から星空に変わり行く夜空はとても綺麗だった。ロシア人たちにも今ほど空手が普及されていない時代だったからみんな興奮して見ていたようだった。
 最後の演武で大山館長は裏拳でビン切りをした際、割れたガラスで腱を切ってしまい、演武後のパーティーでは包帯姿であった。試し割りにはこうした怪我も時折ついて回る。演武のレベルを上げようとすればこうしたリスクも避けられないのだ。ただ、このあと大山館長自らの試し割りはぐっと減った。私はあの演武以来見たことがない。
 振り返れば30年以上前のことであるが、いろんな意味であの夜のことは忘れられない。
                            2010年1月3日


試し割り・パート3


 佐藤塾に在籍していた当時も、試し割り演武は数え切れないくらい行った。三鷹市の警察署内、ロードショー封切りの日の映画館、ボディビル選手権のゲスト、テレビ番組収録、DVD撮影、学園祭、結婚式、試合を引退してからは全日本大会でも毎年のように演武をした。最初はいろいろなものをいろいろな方法で割っていたが、途中からは、飛び後ろ回し蹴りによるリンゴ割りが私の定番となった。もちろんリンゴを割ることに力はいらない。割り方が問題なのである。前回書いた「曲芸型」だ。頭に乗せたリンゴ、ナイフに刺したリンゴ、さらに後ろ回しの2回転目、3回転目で割ったりと難易度を上げたりした。私が中でも一番難しいと感じたのは、リンゴ3つの同時割りというやつである。ナイフに刺したリンゴを両手に一つづつ持ってもらい、頭の上にもひとつ乗せる。その3つを水平にして、一振りの飛び後ろ回し蹴りで全部割る、という決まれば本当に美しい試し割りだ。両手の間隔は約50センチほどだから、そこを真っ直ぐに切るのが難しく、どれかひとつは割れずに飛んでしまうことが多かった。また、蹴るポイントをミスり、リンゴに刺したナイフで足首がスパッと切れたこともあった。そもそもひとつの蹴りに強打のポイントは1箇所だから3つを割るというのは道理に合わないのだが、足を振り切る軌道とスピードを極限まで試すことが足技を身上とする私にとっては大事なことだったのだ。
 ただ、リンゴ割りは他の試し割と違い、果汁が派手に飛び散るという難点がある(美しい点でもあるのだが)。なので結婚式での金屏風など、高価なものがそばにあるときはその向きなどに気を使った。そういえば「月刊空手道」の創刊何周年かのパーティー会場での演武では、屏風を避けたものの見事に飛び散ったリンゴが羽織袴を着ていた某先生に頭から降りかかってしまうというハプニングもあった。
 今となっては、試し割りに以前のようなサプライズを求めるのは難しい。しかし最後の剣客、榊原健吉の「兜割り」のように伝説になる試し割り(あれは試し切りだが)にも、まだめぐり合いたいとも思う。そうなのだ、試し割にロマンがあったのは「一撃必殺」という空手の夢を、空手家たちが工夫して必死に体現していたからなのだ。
                          2010年1月18日


犬派


 私は犬派である。うちの犬は白い北海道犬(たぶん)で、ソフトバンクのCMに出てくるあの「お父さん」にそっくりである。家の前を通りかかる子供たちがよく「あ、お父さんだ、お父さんだ」と声をあげる。すると別の誰かが「ほんとに? ほんとにこれがあのお父さんなの?」などと言って騒いだりしている。んなわけねーだろ、と思いつつも何故か悪い気はしなかったりしている。
 散歩の最中、私の犬は始終地面に鼻をくっつけんばかりにして何かを嗅ぎまくり、草むらを見つけると熱心に探りを入れている。気がつくと何かを食いながら出てくることもある。犬だから何を食っても大丈夫だろうとは思いながらも、その「わからないものは一応食ってみる」習性は出来たら直したいと考えている。
 散歩の最中、当然ながら排泄をする。犬がそこらじゅうに尿をかけるのは、自分の勢力範囲の拡大を目論んでいるからだ、と聞いたことがある。昔は道を覚えるためにやっているんだ、などと言っていたものだがどうやら違うらしい。自分より大きな犬や、強い犬の尿がかかった場所には遠慮してしないそうである。いずれにしても動物として己の存在を形にして残したいという本能が、ああしたマーキング行為となっているのかもしれない。
 してみると…、犬も人も、たいした差はないのですね。
                            2010年2月3日


誇りを賭けて闘う



 以前、所属道場は違うが、熱心に稽古していた後輩のJ君の結婚式のスピーチで、お嫁さんになる人にこう言ったことがある。
「私と同じで、J君にとっても空手は趣味ではないのです。言ってみれば『背骨』のようなもので、自分をしっかり支えてくれるものでもあるのです。なので、どうか空手の稽古をする時間を、生活の中でも尊重してやってください」
 お嫁さんはうなずいていたが、その後の話を聞くと理解はしてくれなかったようだった。
 べつに『趣味』の定義とか詳しく考えたわけではなかった。空手が趣味で悪いことなんかひとつもない。ただ、深く没頭した人間にとっては「楽しみ」だけではないのだ、ということを少しでもわかってもらい、それが彼を彼たらしめているのだ、などということを理解してもらいたかっただけだったのだが、選手レベルの結婚生活というものはなかなか思うようにはいかず大変な部分が多いようである。
 確かにトップレベルを目指そうとすれば、その練習量は膨大なものになる。怪我もする。アマチュアスポーツや武道では勝利がお金に直接結びつくわけでもない。家族の理解を求めることは土台無理なのかもしれない。でも、強さはやっぱり男の夢であり、魂を駆り立てられ、のめりこむのに損得は関係ないものである。また、それがその人の胸の中に大きな誇りとなって、生きる活力の源となっているものは確かにあるのだ。
 私も、とにかく好きで選んだ道に全力で足跡を残してやろうと思ってがんばってきた。今では幸いにも空手は私の仕事ともなっているが、やはりトップレベルの選手を目指す人間には時に厳しいことも言う。金を目的とせずに闘うのは、その『誇り』を賭けているからなのだ。だからこそ途中で投げてはいけないのである。一昔前、武道の試合においては負けることは死を意味するのだ、と教えられたこともある。さすがにそれでは腕を磨くことが出来なくなってしまうが、強くなればこそ、それ相応の気構えと誇りは持つべきである。勝ち負けは時の運としても、自分自身を軽んじるような闘いをしてはいけない。
 どんな状況でも、自分を高めることは出来るはずである。
                          2010年2月11日


黒帯


 現代でも、世界のあちこちの部族の中では、さまざまな関門を通じて若者を一人前の男と認める儀式が行われている。高い崖から海に飛び込んだり、巨大な石を飛び越えたり、獰猛な野獣に挑んだり…。理解しがたいものも中にはある。しかしこれを野蛮と決めつけてはいけない。こうした儀式を行う時、忘れてならないのは、愛情を込めて見守っているその部族の大人たち、仲間達がいるということだ。厳しいと知りつつ、それを乗り越えて逞しくなってほしい、現実の試練にも立ち向かえる人間になってほしいという思いが、古来からの独自の形として残っているのだ。だからこそ難しくても若者は挑み、その試練を乗り越えた時、お互いに感動を共有してひとつの絆で結ばれるのである。
 ただの時間的な通過として本人に何の心構えもさせないと、一部のアホは成人式ですらあんなことをしてしまう。厳しさを知らない人間は大人になどなれない。
 黒帯を巻く。という、武道において一人前と見なされる地点まで到達する時、やはり大きな試練がある。昇段審査は厳しい。見ているほうがつらくなるときもある。だけどこれは、言ってみれば飛び降りる崖まで上り詰めたからこその、仲間の力を借りて踏み切る偉大な儀式でもあると思っている。まだ、あどけなさが残る少年少女たちも、子供を持つ大人も、難関に挑むときの目は鋭く、美しい。
 年を重ねた空手家のほとんどが、初めて黒帯を締めたときのことを「今迄で一番嬉しかった思い出のひとつ」と振り返っている。何年経とうが色あせない鮮明な記憶。手に入れた皆さん。本当におめでとう!
                           2010年3月1日


黒帯(2)


 「大沢食堂」の大沢先生といえば格闘家で知らぬものはいない。元は空手家なのだが、大沢昇というリングネームで約40年ほど前キックのリングにも上がり、小さな体ながら本場ムエタイでも「ビッグハート」と呼ばれた偉大な格闘家である。私も若い頃、この伝説の人に憧れて大沢食堂に足を運んだことがある。知り合いの人に紹介してもらい、恐る恐るお話を聞かせていただいたのだが、こっちの緊張をよそに非常に気さくに話してくださった。もちろん、先生が作る有名な超激辛カレーも死ぬ気で残さず食べた。帰った後で大沢先生がその知人に「あいつは強くなるよ」と言ってくれたという話を聞き、なにか神様からパスポートを貰ったような気分になったのを覚えている。後から聞くとそういわれた人間は結構いたらしいのだが、その気になって稽古に打ち込めただけでありがたいことだった。
 大沢先生の凄さはその稽古量である。誰もが目標にしていたが、なかなか匹敵するような人はいなかった。もちろん比較する気など毛頭ないが、ただ、私が私の知る範囲で舌を巻くほどの稽古量を積んだ人間といえば、後輩の阿部徹君が一番である。やはり160センチに届かぬ小さな体なのだが、その体が擦り切れるほど稽古した。だから全盛期には抜群の腰の強さとバネで難敵を次々と退けることが出来たのだ。腰を悪くした後、それほどの量はこなせなくなったものの、今でもやり始めると凄い。今回彼が志願して10人組手の昇段審査に挑んだ。体の状態と多忙な仕事と、年齢を考慮してそこまで追い詰める必要はないと忠告したのだが、午前4時からのランニング、腹筋3千回を毎朝のノルマとし、道場稽古もしっかり重ねていった。ほとんど睡眠時間のない日もあったことだろう。審査当日、阿部君は私のところへ来てこう言った。「山田や宮島に、絶対本気で闘うように言ってください。倒れそうになっても手を抜かないように言ってください。どんなにやられても立ちますから」
 内容がなければどんな勇ましい言葉もむなしくなる。だが、やっぱり阿部徹は本物だった。何故か遠い昔を見ているような10人組手だった。凄い内容だった。涙が出た。
 終了し、阿部君はひとしきり号泣した後、少し落ち着くとポツリと漏らした。
 「ただの自己満足ですけど、本当に嬉しかったです」
 叩かれて教わることはある。しかし、叩きながら教わることもある。今回、阿部君の相手をしたものは、阿部君の体を叩いた拳から、痺れるものをもらったはずである。
                          2010年3月10日


ゴッド・ファーザー


 「ゴッド・ファーザー」のビト・コルレオーネを演じたマーロン・ブランドは、映画の撮影に入る前、当時のニューヨークマフィアの大ボス、カルロ・ガンビーノに面会したという。あの印象的なシワガレ声は実際のガンビーノの声を真似たものらしい。本物に接することの大切さをマーロン・ブランドは知っていたのだろう。その人しか持ち得ないオーラ、漂う空気、感じ取るしかないものは、想像や自分の中での解釈の枠を越える。
 見ること、真似ることは大切である。ピカソでもベートーベンでも、最初は必死に先人をコピーし、真似た。いずれそこから脱却する時が訪れ、独自のものが生まれてくる。
 感じ取る、という行為はさらに感覚的なものかも知れない。ほんの少しでも自分の感性に触れるものがあると、電流のようにそれが全身に回ることはあるだろう。たぶん人にはそれぞれ長さの違うアンテナがあり、感応する周波数も十人十色なのだ。だから一般的に鈍感だと思われている人だって、実はある周波数に対しては驚くほど敏感に反応することがあるのではないだろうか。何かの分野に突出している人に強烈な個性があるのは、そうした理由なのかもしれない。人と違っていても、だから気にすることはないのだ。
 感覚は、たぶん、努力では磨かれない。しかし、感じたことを体現し、自分のものとして消化するには大きな努力が必要になってくる。話は戻るが、おそらくマーロン・ブランドはそうした努力を怠らなかった人なのだろう。
 「ゴッド・ファーザー」は、今見ても最高におもしろい。
                            2010年4月2日


阿部徹師範の手記


 「今回の昇段審査は自分にとって特別なものでした。不完全燃焼のまま現役を離れて今に至っている自分の気持ちにケジメをつけたかったのです。出来ればもう一度試合に出て一花咲かせたい、などと勝手な想像をしていたのですが、現実と理想のギャップはどうしようもないほど離れているので、少しでも体の動くうちに「引退試合」の真似事でもしようと思って挑戦させていただきました。
 実際に10人組手をやってみると、まともに出せた攻撃は最初のカウンターパンチだけ。ワンツーを一発打った直後に、一人目の山田君の一発目の膝をボディのいいところにもらってしまい、その後は手も足も出ない「亀」状態。一人目から現実の厳しさを叩きつけられた思いでした。でも自分の体の状態もあり、「思い切って空手が出来るのはこれで最後だ」「今のこの状態の自分のすべてを出そう」と思いながら、一発一発パンチを打っていきました。
 終わってみれば、あっという間でした。過去の自分のしてきた昇段審査と比べても動きは悪く、また、苦しくてキツイ審査でしたが、「息子に空手をやっているところを見せたい」という願いも叶い、終えたときの達成感や喜びは最高でした。
 余談ですが、審査終了後も、自宅で空手の話はあまりしていないのですが、一週間くらいたって、下の子供が風呂場で、「正直に言うけど…。かっこ良かったよ」と、思い出したように言ってくれました。決して「カッコいい」組手ではありませんでしたが、子供の中で良い記憶となってくれてるようで、大変嬉しい出来事でした。
 道場生の皆さんは、空手が好きであったり、それぞれの目標があると思いますが、一生懸命あきらめずに頑張れば、大なり小なり必ずいい結果が出ると思います。その結果をもっと良くするために、もっと頑張るわけですが、頑張れば頑張るほど、一緒に大きな感動や達成感などもついてくるはずです。
 私も皆さんとそんな空気をもっと共有したいのですが、なかなか道場に来れなくて本当に申し訳ありません。たまにしか顔を出さないかもしれませんが、心はいつも道場にあります。
 一緒にがんばっていきましょう。これからもよろしくお願いします。  押忍!」
                           2010年4月21日


進化の瞬間


 「その時、真横から私の顔面に衝撃が走った。その見たこともない恐ろしい必殺技に私はなすすべがなかった」
 これは後にキックの鬼と呼ばれる沢村忠が、初めてタイ式キックの選手と対戦し、完敗した後に語った言葉である。その必殺技とはなんと、「回し蹴り」だ。
 今では空手を習い始めたその日から教わる最も使う蹴り技が、約40数年前の空手界には無かったのである。これに似たことはその後も数多く現れる。
 空手の世界に限ったことではないが、まず誰かが積極的にそれまでの常識を打ち破ること、そしてどんどん新しい血を導入することでその世界は進化し、生まれ変わってゆく。「稽古」という言葉は「いにしえをかんがえる」と読み、そのままではただ基本を繰り返せば良いみたいに聞こえるが、その基本だって時代と共に少しずつ変わっているのだ。
 そうした意味でも未知の対戦相手は自分を成長させてくれるコーチともなる。勝っても負けても、自分の目標を見失いさえしなければすべては肥しになる。それが「敵ながら天晴れ」と思えるくらいの好敵手ならばなおさら幸運だ。しのぎを削る相手のレベルは高ければ高いほど良い。そして仲間同士、自分の経験を出し合って研究するのである。
 自分がしっかりマスターした技は、やられた場合の防御の方法や体捌きまで身についてしまうものである。攻防は表裏一体となり、それは勝利することで確固たる次世代の基礎ともなるのだ。
                           2010年5月2日


小さな失敗


 選手時代、夜中にランニングした帰り道、たまたま道端に駐車していた車の窓に自分の顔が映った。思わず私は自分をにらんでみた。人通りもなかったので、そのままウインドウを鏡代わりにして、試合のイメージで構えてみたりした。ふと気がつくと、無人と思っていた車の中にはアベックがおり、恐怖に引きつった顔で私を見ていた。
 小さな失敗はよくある。これもずっと以前の話だが、合宿で初めて見る後輩が同じ班にいた。当時の私より二歳下の高校生だった。自己紹介はしたはずなのだが名前を忘れてしまい、あえて聞き直すのも嫌だったので、みんながその子を呼ぶのと同じように呼ぼうとなんとなく決めていた。聞いていると、どうやら「タコハチ」とみんなが呼んでいる(ように私には聞こえた)。そういわれればその子は坊主頭で小さくて、なるほどタコに似ている。ニックネームだと合点し、わたしはそれから「タコハチ、タコハチ」と気さくに呼び続けて可愛がった。後で思い返せば、そのたびにその子が戸惑うような表情を見せたのだが、その時は全く意に介さなかった。合宿最後の稽古の時、私はその子がだらけているように見えたので「しっかりしろ、タコハチ!」と怒鳴った。すると、その子は意を決したように「タコじゃありません!」と言い返してきた。何をいまさら、と思ったが私もそれ以上は突っ込まなかった。だが、ふと心に引っかかるものがあったので何気なくその子の帯を見直した時、衝撃的な事実を私は知った。そこには「高橋」と薄いマジックで書いてあったのだ。私はすべてを理解した。「ああ、みんなは高橋と呼んでいたのか…。タコに似てるという先入観があったのでそれをタコハチと聞いてしまったのか…」私は回し蹴りの移動稽古をしながら、それまでどれだけ「タコタコ」と呼び続けてしまったことか、うつろな思いで自分を責め続けたのだった。
 あの時は決まりが悪くて素直に謝れなかったっけ…。ごめんな、タカハシ。
                            2010年5月16日


iイソップ
 風林火山空手道大会の会場で、郷英館の宮川館長といろいろ話をする中、どんな本を子供たちに読ませたいか?という話題になった。読書は私の唯一の趣味なのに最近あまり読んでないのですぐには思いつかなかったのだが、やっぱり「イソップ」に落ち着いた。子供の頃にもらって読んだのが私の最初の読書体験だったと思う。今でも幼少時に読んだものではっきり思い出すのは「イソップ童話」の寓話の数々である。
 狼少年、蟻とキリギリス、兎と亀、裸の王様(これは違ったかな?)…。人間として生きてゆくうえで大切なこと、陥りやすいこと、戒め、教訓など、ほとんどこの2千年以上前に書かれた童話集の中に網羅されている。中でも私が何度となく共感したのが「北風と太陽」の話である。力づくで動かそうとしても人は抵抗する。しかし真心のこもった行為、優しさには一歩譲ってしまうもの。
 俳優の宝田明氏が少年時代に中国で終戦を迎え、日本に引き上げてきた時の回想をテレビ放送で見た時もこの話を思い出した。さまざまな苦労を経験しながら、母親と共にやっと故国に帰れることになった宝田少年に、荒んだ世間の風は冷たかった。それでもどんなつらい目にあっても歯を食いしばって耐えた。弱音を吐いたら負けなんだと強く気を引き締めていた。やっとたどり着いた故郷、宝田少年は露店の前でふと立ち止まる。そこには食べたくても高くて手の届かないリンゴがあった。思わずそのリンゴに目を奪われていたが、我慢だと気を取り直してまた歩き出した。すると背後から店のおばさんが声をかけてきた。振り返るとおばさんはにっこりと微笑み、「このリンゴ食べて」とリンゴの入った紙袋を宝田少年の手に乗せ、「お帰りなさい、大変だったわね、ご苦労様」と言ってくれたのだった。その瞬間、宝田少年の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。そして涙がぽろぽろと溢れ出し、人目もはばからずに声をあげて泣き出してしまったという。
 逆風には負けない。だけど人の心の暖かさ、優しさに包まれた時、心の鎧は自然に取れ、裸の自分になってしまう。大昔の寓話がいつの時代にも当てはまるのは、人間が強さと弱さを併せ持ち、それでも必死に生きているからなのだろう。
 分かり切った失敗もする。調子に乗って天狗にもなる。挫けて落ち込みもする。
 たまには一旦立ち止まり、子供の頃に読んだイソップを思い返して、今の状況を見直してみるのも、いいんじゃないかな。
                         2010年5月31日


真樹先生の古希


 13日。逗子マリーナで、真樹先生の古希を祝う会が開かれた。先生の本業たる出版業界の方々や、哀川翔、力也といった芸能人、藤原敏雄や初代タイガーマスクの佐山聡などのプロ格闘家系。そして真樹道場の幹部門下生をはじめとする空手関係の面々などで会場は大変な賑わいであった。梅雨に入る直前の日曜日で天気も良好。鎌倉の海に転々と散らばったヨットの帆、風に乗ってふわふわと飛び交うカモメ達、のんびりと平和な初夏の海岸はとても気持ちが良かった。パーティーは、いつものようにド派手ないでたちで真樹先生が登場したしょっぱなから、常にリラックスムードに溢れた楽しいものだった。また、全日本チャンピオンにもなった後藤さんや田沢さん、安里さんなど、若き日に拳を交えたこともある真樹道場の現支部長方(真樹道場の皆さんは本当に礼儀正しいのである)、極真時代に仲間だった神谷さんとも久しぶりに杯を交わし、昔話にも花が咲いた。神谷さんは現在「岐神空手」の師範を務める先生だが、30年前の第2回世界大会で一緒に選手係を勤めた仲なのだ。当時の本部の稽古に話が及び、「そういえば組手をやりたいものは出て来い、と言われて、先輩はよせばいいのに出ていっては青タン作って帰ってきましたよね」と物凄く懐かしい思い出話もしてくれた。私よりずっと年下で、あの頃は中学生だったと思うが、苦楽を共にした仲間は良いものである。そういえば私達が茶帯の頃、真樹先生が師範代として本部に赴任してこられたのだ。当時40代目前、すでに人気劇画「ワル」の原作など、作家としても多忙であり、自分の道場の稽古があったにもかかわらず、本部に顔を出しては私たちのような血気盛んな坊主どもに組手で胸を貸してくれた。今にして思えば大変な重労働だったはずだ。それでも稽古が終わると「長谷川、今日は調子良かったぞ」などと声をかけて可愛がってもくれた。そういう下の者に対する思いやりが真樹先生の魅力でもあった。
 古希といえば70歳。世界的に平均寿命を超えている。然るに真樹先生はきらきらのスーツに定番の長いマフラー、真っ黒い髪をバッチリ決めてグラス片手にカラオケを熱唱されていた。60をクリアした人の平均寿命は90を超えるというが、それにしても凄いパワーである。
 いつまでもお元気で、と言う気も引けるほど、この日の真樹先生は全開であった。
 あらためて、おめでとうございます。
                          2010年6月17日


審判とは
 審判の難しさとその権限の範囲については、どのスポーツでも常に大きな課題である。今回のサッカーワールドカップでは、入ったゴールが認められなかったという大きな失敗があった。人間がやることだから仕方がない、とは言うもののひとつのゴールのためにそれまで選手達が費やし、払った代償のことを考えるとこうしたミスを審判の技術だけの問題にしてしまうのはおかしいのではないだろうか。野球でもフットボールでも誤審は起こるが、ビデオを取り入れたりして改善の方向を模索している。おそらくサッカーでも何らかの方策が立てられることだろう。
 格闘技の審判でも間違いが起こることがある。オリンピックの柔道で日本の選手がかけた返し技を主審が見逃して相手の方に技ありを入れてしまった、という有名な事件があったが、その主審の未熟さもさることながら、その後も間違いを認めようとしないところに問題は残り続けると思う。
 格闘技の場合、団体スポーツほどの審判の難しさはない。しっかりした経験者が間近で見ていれば誤審はめったに起こるものではないのだが、それでもああしたことが起こってしまうのが、まあ人間の限界なのだろう。ただ格闘技では「技が決まったかどうか」よりも「実際どっちが強いのか」にこだわる見方もあるから、選手と審判との間でルール及び判定基準の見解一致を徹底することが必要になってくる。以前、ある空手団体の判定基準において、そこの代表的審判が「実績のある強い選手は1回戦や2回戦では全力を出さない。ケガなく勝ちあがり、後で良い試合をしてもらうためにもそのへんは考慮して判定を下す」とプログラムに書いておられたが、これには疑問を感じた。審判は選手の情報を持っていたほうが良いのは当然だが、まっさらな気持ちでその闘いを裁く意思なくして試合場に立つべきではない。虎視眈眈と牙を研いできた無名の選手が、それでは闘う前からハンデをつけられてしまう事になるからだ。また、こうしたぬるま湯での判定で勝ちあがってきた選手は、それこそもっと大きな対外試合や第三者が審判になった場合、必ず苦戦することになるだろう。
 審判は堂々としていなくてはいけない。動作判断に切れがなければならない。技術と経験と信念を持って試合場に立つのだ。そうでなくては必死に鍛えてきた選手を裁くことは出来ないし、観客に理解されることもない。
                            2010年7月5日


主審とは


 シュガー・レイ・レナードという極めて優れたウェルター級のスターボクサーが、ミドル級不動のチャンピオン、マービン・ハグラーに挑戦した世界タイトルマッチは今でも強く印象に残っている。レナードは持ち前のスピードとテクニックを駆使してヒットアンドアウェイ戦法を貫き、いくつもの有効打をハグラーにヒットさせた。だがハグラーの頑丈な体にはほとんどダメージを与えることが出来ない。一方ハグラーはハードパンチャーである。体を揺すりながらレナードを追い詰め、強打を繰り出す。しかしクリーンヒットがない。見た目には派手なパフォーマンスをまじえて舞うように闘うレナードが光っていた。だがラウンドを重ねるごとに、じわじわとハグラーの強打がレナードにダメージを蓄積させていくのがわかる。あと少しでレナードは倒されるんじゃないか?というところで試合は終了した。直後、レナードはぐったりと座り込み、逆にハグラーは踊りながら余裕を見せていた。判定は、レナードに上がった。当然のことながら、ハグラー陣営は納得できない。「どっちが勝っているかは見れば分かるじゃないか」と、疲労困憊のレナードを示して自分の勝利をアピールした。だが、もちろん判定は覆らなかった。
 これは格闘技が抱える判定問題の象徴的なパターンとも言える。試合の主導権を握ったものと、実際にダメージを与えたものが別々になることがあるのだ。たいていの場合はそれでも順当な判定は下されるが、この時のように二人の技量が極端なほど両極に秀でていた場合、甲乙つけるのは非常に難しかっただろうと思う。
 私は空手だけに限らず格闘技は好きなのでよく見るのだが、数多く見たことと、自分が戦う側に立った時の経験が(ギリギリの線で勝敗が分かれたときなどの記憶は特に)判定を下す側になった時に大きな財産となった。闘っている人間の気持ち、心の動きが理解できることは判定基準に厚みをもたらす。わずかな反則を受けた時に示す態度でその選手の闘う姿勢は伝わるし、厳しい勝負の中にも自分のこだわりを通そうとする選手には敬意すら感じることもある。
 柔道の山下泰裕選手が晩年、齋藤選手を下して最後の全日本王者になった試合、主審は、故・神永昭夫さんだった。神永さんは東京オリンピックでヘーシンクに敗れた方だが、それに関する記事や手記などから、私は深く尊敬していた。神永さんは通常なら有効に近い崩し技を出した齋藤選手に上げる旗を、必死の攻勢をかけ続けた山下選手に上げた。途中から守りに入ったような挑戦者と、攻め続けた王者の差を見極めたような名判定だったと思う。批判もあったが、毅然とした主審の風格がそこにはあった。主審とはこうありたい、と私は今でも思っている。
                            2010年7月21日


思いやり


 今回の夏期合宿初日、バスで合宿地に向かう中央道でトレーラーの火災事故が発生し、高速を途中で降りての渋滞状態がえんえん続くというハプニングに見舞われた。予定は狂い、休憩をとる場所が見つからず困った。細い公道を大型バスが歩くような速度で進む。ようやくわずかなスペースに停車し、見つけた食堂に駆け込んで子供たちにトイレ休憩をさせようと主人に緊急の事情を説明した。だが客などほとんどいないのに、一見温厚そうな老主人は首を横に振り、トイレは貸せないと言う。その歳まで生きた人間の思いやりとか、困った人にほんの少しの手を差し伸べる優しさもないらしい。一瞬キレそうになったが、ぐっとこらえてバスに乗り込み次に望みを託すことにした。すると、捨てる神あれば拾う神あり。やはり小さな食堂だったが、今度の女性の店主は快くトイレを貸してくれた。それどころか子供たちに冷たい水まで飲ませてくれたのだ。
 その後徐々に動き出した流れに乗り、大幅に到着は遅れたものの子供たちに大きな体調不良も見られず、何とかホッと胸をなでおろすことが出来たのだった。振り返ればあの対照的な田舎食堂の対応だけが心に残った。
 少し前、「60歳の女性が高校男子を暴行傷害」というちょっと耳を疑うようなニュースがあったが、何でもかんでも「近頃の若い者は・・・」風な物言いはむしろ一方的過ぎると思う。確かに老人が来たら若者は席を譲るのがマナーだが、かと言ってそれが絶対的な老人の指定席というわけではないし、傘で顔を突くなどはどう考えても行き過ぎである。優しい子なら老女に対して反撃はしないだろうからさらに可哀想だ。
 もう2年ほど前になるが、私は事故から復帰し、2本の松葉杖をつきながら電車に乗って都内の道場には通っていた。帰りの車内の混雑はかなりつらいものがあった。もちろんそれは承知で乗っているのだし、リハビリとも考えて私は立っていた。逆にシルバーシート付近は避けた。物欲しそうに見えるのが嫌だったからだ。そんな私に離れた所からでも席を譲ってくれる人が何人もいた。そのほとんどは若い子だった。あるときなど、杖で脇を支え、吊革をつかんでいた私の肩を背後から叩く人がいた。振り返ると、ぼさぼさ頭でジーンズを腰ばきにした少しだらしない格好の若い男が立っていた。男は私に自分が立った席を示し、無言で立ち去って行った。私は少し感動した。
 優しさや礼儀、思いやりなど、年齢には関係ない。外見でも判断は出来ない。最近の若いやつは、と嘆く大人たちの中に、どれだけ咄嗟に自分の損得を顧みず行動に移せる人がいるだろうか。
                            2010年8月11日


夏と水


 夏バテはしたことがない。実を言うと疲れとバテてる状態がどう違うのかわからない。空手に限らずおそらく何か集中的に運動をした人間はそうだと思うが、何度かは倒れるくらいトレーニングするし、そうした状況に達成感、充実感を感じつつイってしまうわけで、春夏秋冬を問わず体は常に限界を見ているから特に夏に限ってどうこうということはないのだ。しかし今では「熱中症」なるものがかなり大きく扱われ、運動禁止令などが出てしまうようになったのだから、私が生きているほんのわずかな時間の中でも時代は変わったものである。
 まず、一昔前は稽古中に水を飲むなどは御法度だった。ある夏の日曜日のこと、18歳だった私は真昼間に茶帯研究会という茶帯だけが集まる2時間の稽古を終え、やっと水が飲める、とそれだけを楽しみに道場を出た。ところがそこで黒帯の先輩に「おう、今日は茶帯も全員黒帯研究会に参加しろ」と捕まってしまった。黒帯研究会、通称帯研は茶帯研のあとすぐ始まり2時間行われる。通常黒帯だけなのだが時折こうしてお声がかかってしまう。断れるやつなどいない。ありがたくもう2時間の稽古に出ることになり、当然水分補給はおあずけとなった。当時、帯研はランニングが多かったのだが、その日もやはりそうであった。焼けたアスファルトの上を黙々と走る。坂道を何本もダッシュする。だが、走るつらさなどどうでも良くなるくらい、渇きの苦しみは大きかった。すれ違う若者達が缶ジュースなどもっていようものなら、我々の視線は獲物を狙う狼のようにその缶に集中し、次にそれを飲もうとしている若者の顔に注がれた。若者はたぶん身の危険を感じただろう。そこで我々が襲いかからなかったのは、黒帯という怖い存在が猟犬を束ねる猟師のように背後にいたからだけだったかもしれない。
 高校野球の経験者などもよくそういった思い出話をする。ある人は牛乳瓶に水を入れ、何本かグラウンド隅の倉庫の裏などに隠しておき、練習中にボールを追うフリをしてそこまで駆けていってお湯のようになった水にありついた、という。苦労した水分補給作戦というのは面白い。指導者もその頃は「そうやって根性もつけるのだ」と本気で思っていたから、こっちが熱射病(今の熱中症か)状態でフラフラしようもんならかえって「ようし、頑張ったな!」などと喜ばれたものだった。実際苦しい中での稽古は実になるし思い出にもなったのだ。
 それでも夏は一番好きだった。有無を言わさぬ絶対的な暑さ、凶器のような陽射しとビシッと分かれた陰影が好きだった。今でも夏が終わりつつあるこの時期は寂しい。夏休みの残りの日数を数えていた頃と同じである。
                            2010年8月22日


運動会


 そろそろ運動会の季節だ。幼稚園や小学校で元気な声が聞こえてくると思わず立ち止まって見てしまう。この行事の様式はかなり昔、戦前からあまり変わっていないらしい。だから誰が見ても懐かしく、楽しい。運動会の良い所は足の速い子も遅い子も、運動神経抜群の子も全く運動センスのない子も一緒くたになって、一生懸命頑張っているところだ。特に走っている場面が面白い。必ずリレーの大事な所で転んだり、バトンを落としたりして衝(笑)撃的な逆転シーンが見れたりする。でも本人は必死なんだ。
 私は3年か4年の頃、障害物競走で一度だけビリになったことがある。網の障害に引っかかって抜けなくなり、焦れば焦るほど事態は悪化、ついにビリの6位でゴールした。屈辱だった。さらにうんざりしたのは、係りのお姉さんが「ハーイ6位の人」と笑顔で私の腕を引っ張り、『6位』と書かれた旗の元に並んで座らせてくれたことである。勝負に敗れ、うなだれたビリの列は暗い。そのレースが終わるまで、さらし者にされたまま虚しく時を過ごさねばならない。1位や2位の子達は立ち上がって他の子を応援したりしているが、6位の群れはうつむいて砂をいじったりしている。無口である。ビリ同士目があったらお互い苦笑いしたりして、これがまた悲しく長い時間だった。いまだに覚えているのだからよほど悔しかったのだろう。
 これが高校の体育祭あたりになると全く雰囲気が変わってくる。その象徴はなんと言っても3年の花形、殺気ムンムンの棒倒しだ。号砲と共に互いの棒めがけて走り出すと、すれ違いざま飛び蹴りで敵を倒そうとするやつがいたり、棒を抱えている人間の頭を殴ったり踏みつけたり、必ず体育の教師が割って入る流血マッチとなってしまうのが通例だった。空手とか格闘技をやっていない人間は逆に加減を知らないから始末に終えない部分もあったようだ。また間に入った熱血教師が「どうしてもやめないなら俺を殴ってからやれ!」などと怒鳴ったりして、それで一気にシラケて収まったりもした。
 閉会式。砂埃まみれの体育着、鼻の穴まで真っ黒で髪の毛はジャリジャリ。見上げれば、薄い雲がかかった空はやけに高かった。ついこの間まで空を支配していた入道雲は見事に消え去り、飛行機雲やうろこ雲にその場を明け渡している。勝とうが負けようが、やり終えた満足感と共に何故か微かな寂しさをいつも感じていた。そう、運動会が終わると、もう空も風も完全に秋なのだった。
                           2010年9月8日


やわらぎのある場所


 由美ちゃんという同い年の幼なじみがいた。6歳から7歳の頃だった。タンクみたいな体格の活発な女の子で、ざわざわ森のガンコちゃん(NHK教育テレビ参照)みたいにパワフルな子だった。まずあの頃の重い自転車のスタンドを立てるのに(サイドスタンドではなく後輪が完全に浮くやつ)荷台をひょいと持ち上げて足払いのごとくスタンドを蹴って立てる。それだけで当時の私には相当ショックだった。すげえチカラだ、と思った。さらに自宅の2階から降りる時、その丸っこい体でぴょこんと手すりに尻を乗せ、あっという間に滑り降りてしまう。すごいスピードだった。私には出来なかった。こうやるんだよ、と由美ちゃんは何度も見本を見せてくれるのだができなかった。当時の私の家は平屋だったから練習も出来ず、由美ちゃんの家に行くたびにやらされたのだがうまくいかない。そのうち手すりはぐらぐらになり、由美ちゃんの母親から禁止令が出ておしまいとなった。二段ベッドの下が由美ちゃんのスペースで(上には弟がいた)そこにでかい封筒が画鋲で止められており、切り抜き写真がたくさん入っていた。「ここにはジュリーの写真を入れるんだよ」と楽しそうに笑っていた。よくわからなかったが「すごい」と思った。当時の私にとってはまさしくアネゴ。一歩二歩も先を行く大将だったのだ。しかし、幼い頃の通例で、次第に同性の仲間が出来てくると由美ちゃんの家から足も遠のき、いつの間にかめったに顔もあわせなくなってしまってそれきりである。
 その由美ちゃんの家があった場所は、現在『やわらぎ鍼灸整骨院』となっている。京王線武蔵野台駅からほど近い、旧甲州街道沿いのビルである。院長の林慎一郎先生は講士館の3段で空手の指導員としても医師としても大変人望の厚い好漢だ。うちの山田哲也も宮島健太もそこに勤めている。日本最強の整骨院なのだ。
 金曜日の府中の稽古のおりにこの『やわらぎ』の前を通ると、そういえばここには昔アネゴが住んでたなあ、と時折思い出して一人笑いをしてしまうことがある。
 まあ、だからなんだと言われれば別になんでもないですけど。
                         2010年9月23日


山田と宮島の10月3日


 10月3日の全日本大会まであと10日と迫った夜の稽古、宮島は絶好調だった。最後の仕上げに私はミットを持ち、山田と宮島の攻撃を受けた。ミットを通して体の芯まで響くような二人の攻撃力に満足し、ここまで二人が積み上げてきた稽古の成果を感じていた。若く、はち切れんばかりのパワーが漲り、自信に満ちた姿は輝いて見えた。
 その一週間後、私が見たのは目を疑うような宮島のげっそりと落ち窪んだ暗い瞳だった。毛管出血が腹腔内に溜まり、緊急入院が必要となってしまったのだ。よくよく聞いてみると最終段階に入ってのかなり無茶なトレーニングが裏目に出たらしい。昨年の外傷による全日本欠場に一念発起しての必死の取り組みを見てきただけに、この現実を受け入れるのが非常に苦しかった。
 山田は、最後の最後に来て脱落した相棒の分までと過分な重圧を感じたことだろう。だが大会当日は実に見事に試合の主導権を握り、強豪たちにはっきりと差をつけ決勝まで駒を進めた。今春の白蓮全関東優勝に続く2年連続全日本準優勝。もうひとつで頂点は取り逃がしたが70キロに満たない体で大男に対しても倒しに行く戦法を取れるのは、稽古の質と量もさることながら、好敵手や先生達から「これは」と思うものを吸収する器と柔軟性を持っているからだろう。
 宮島は病院を抜け出して山田の応援に来ていた。左腕には入院患者ブレスレット、点滴の脱脂綿のテープ止めが痛々しい。心中察するに余りあるが、これも試練として調整の大切さを心底思い知るしかない。仲間の多少手荒い激励も心に響いたことだろう。
 表彰式が始まる前に宮島は病院へと帰っていった。闇は深ければ深いほど差し込んだ光はまぶしく大切だと知れる。数年後振り返った時、この日のことを笑い話に出来る宮島になってほしいと切に願う。
                           2010年10月6日


特効薬


 糖尿病の特効薬が出来たらしい。これは大変なことだ。しかし、先天性の患者にとっては文句なしに良いことなのだが、医師に言わせると後天性の患者にとっては善し悪しなのだという。つまり努力して節制し、体調を管理するという大切な工程を無視するものが現れるに違いない、という心配だ。確かにこの吉報を聞き、ニンマリと酒宴の準備を始めそうな糖尿病の知り合いが私も二、三頭に浮かぶ。
 酒の飲み比べや、どちらかが潰れるまで飲むとかいうことは、いける口の人は誰しも経験があるだろう。十人前の寿司桶にビールを3本注いで一気に飲むとか、ピッチャーのサワーをそのまま飲むとか、あまり薦められたことではないのだが調子に乗って羽目を外したことは私も過去にある。でも結局のところ、面白半分に無茶なことをし続けていると必ずそのツケは回ってくる。好き放題やったことがチャラになる特効薬などあるはずがないのだ。たとえある部分に特化した薬が出来ても必ず別の場所に歪みは出る。その薬の効果を上回る、もしくは効かない部分が出てくる事だってあるだろう。
 ただ若い頃は酒にしろメシにしろ、大量に消化してしまうのだ。ギャル曽根とかが出てからはアホらしくて比較する気もなくなったけど、大食いはいっぱい見てきた。私は最高でワンポンドステーキ2枚とライス大盛り2杯くらいだから空手仲間ではたいしたことはないが、副代表の阿部君などは一食に飯だけで五合を食った。五合というと平均的な3人家族が余裕で一日もつ量らしいから、一度に全部食っちまう阿部君はちょっと困った人ということになる。もっともそれだけ食べる力があったから独身時代の彼のボロ下宿(冬には外気温と同じになるという隙間風だらけの部屋。窓を完全に閉めても何故かカーテンが揺れていたというほぼ屋外と同様の部屋に彼は住んでいた)でも風邪ひとつひかなかったのだろう。私が阿部君に今まで飯をおごった金額はおそらく百万円を超えると思われる(いいんだよ、気にするな徹)。でもそろそろ内臓をいたわる時期なのかもしれない。
 そういえば、若い頃ジュースやビールの栓を「こんなものはこうだ」と言って歯で開けていた私の先輩の自慢の歯は五十代で歯茎ごと崩壊した。阿部君とは別に大食いを得意として、あちこちの『完食したら金一封』を制覇していた友人は内臓を壊し、今では猫のような食生活を送っている。
 煽る人間がいるし、無茶をするお調子者がいる。お互いそのときは楽しいんだけど、特効薬を期待したり頼っててはいけない。若者はみな自制するように。
 ああ、なんだか横っ腹が痛い。
                           2010年10月20日


亀の根性


 バイクを走らせていたら、信号待ちをしていたハーレー・ダビッドソンの脇に並んだ。大きなマシーンのエンジンには1250と刻まれていた。私のバイクの25倍なわけだ。チワワとサラブレッドくらいの差だろうか。信号が変わると同時に、まさしく鉄の馬らしい地響きを立てて走り去っていったハーレーだが、また次の信号で引っかかっているところに追いついてしまった。これが3度も続くとなんだかこっちが申し訳ないような気分になってくるから不思議である。ハーレーに乗ったサングラスのオヤジもこっちをひと睨みしてから三たびかっ飛んで行った。あわてなくても速いのに。
 文京道場の松岡君が入門15年目にして、ついに初段に到達し黒帯を巻いた。その間、彼は東大を卒業し、司法試験も辛苦の末に突破した。何事にもコツコツと努力する男が積み上げるものは地味だが堅固である。十人組手も彼らしく無骨で泥臭いものだった。まともにぶつかっては何度も倒され、もがき、また立ち上がる…。でも私は松岡ならどんなに厳しい内容でも立ちあがるだろうとは思っていた。何故か?、もう彼の中では目の前の壁など、華麗に飛び越えなくとも絶対突き崩せるという信念があるだろうからだ。
 慰労会で松岡君は言った。「15年前に入門した時、同期に6人の白帯がいました。その中で黒帯を締めることができたのは二人です。その二人とは一番下手だった僕と、二番目に下手だった僕の友人でした」自分自身で噛み締めるような言葉だった。亀の底力(失礼)だと思った。
 以前、アメリカ映画の最高峰、アカデミー賞を受賞したある女優に対し、どうしたらアカデミー賞を獲れるのでしょう?、という質問が飛んだ。その女優は少し考えてからこう答えた。「受賞するまでやめないことです」。
 この言葉にも、なかなかに亀の根性を感じるではないか。大切なのは『自分のやり方で到達すること』なのである。
                          2010年11月3日


現時点での全力


 関東の空手と関西の空手は少し違う。実際に今回、白蓮会主催の第26回全日本空手道選手権大会において、出場した山田のリズムや間合いの狂い方にそれを改めて感じた。と同時に「敵ながらあっぱれ」と思わせる強豪が今回も発見できたことに軽い衝撃と大きな喜びを感じている。
 研究をすると言っても、実際にやりあってみなければ本当の意味で理解できない部分がある。噛み合わない相手に戦術が崩れれば、頼るのは自分のエネルギーだけだ。そうした経験を積むからこそ、古くからある戦いの格言を心底理解することが出来るし、それを勝利に利用するようにもなれるのだろう。
 スピードのある選手は自分より速い相手とぶつかるまではスピードの怖さを知らない。力で勝ってきた人は力に潰される時まで戦い方を工夫しない。拳を交えた数秒の間に相手の力量は伝わって来、想像を超えたときに勝負執念のないものは自ら崩れてしまう。
 初の大阪遠征の山田はそれでも長丁場を戦い抜き第3位に入賞した。勝敗を超えて得たものは山田自身の血の中にもう溶けて流れているはずだ。
 白蓮会全日本のレベルは高い。初日を通過し、決勝日の開会式に入場してきた山田と宮島。宮島は長い戦線離脱のためか試合勘が戻っておらず苦杯を喫したが、ふたりとも痛い目を見ながら一歩一歩鍛えあげてきてこの日があったのだ。これからが勝負だ。 
 二人の雄姿には、私自身、ひときわ感慨深いものがあった。
 ありがとうございました。
                            2010年11月22日


師の愛、親の愛


 私の娘が小学校4年生の時、運動会の日に40度を超える熱を出した。休ませようかと思ったが娘は絶対出ると言う。学校の先生に相談したところ、ベテランの女性の担任は「出しましょう」と即答してくれた。娘は自分の競技以外は保健室で眠り続け、競技の時に母に連れ出されて出場するという繰り返しで運動会に参加し、100メートル走ではなんと1位にもなった。さすがに運動会が終わったとたんに精も根も尽き果てて倒れこみ、私がおんぶして家に帰ったのだが、この時の担任には今も深く感謝している。生徒に無理をさせてよいことは教師にとっては何もない。悪化したら責任問題にもなりかねないのだ。でも、担任は即断してくれた。最悪の時にやれたという自信を娘に持たせてくれたのだ。本当に骨のある良い先生だった。
 それを思い出したのは、勤労感謝の日に開催した「講士館杯第4回空手道錬成大会」にて、ある出来事があったからだ。
 少年の組手部門、優勝経験もあるK君は不運にも数日前に受けたインフルエンザの注射が体に合わず、ひどい熱と痛みで病院に運ばれる状態だった。それでも本人は試合に出ると両親に訴えた。悩んだ末、ご両親はK君を試合に出場させた。K君は全力を尽くして戦った。苦戦に次ぐ苦戦、それでもなんとか第3位に入賞したのである。
 大事な時にいつも調子が良いとは限らない。K君のこの経験はこの先、苦しいことや不調の時でもやれば出来るという確信として心の中に生き続けることだろう。これは快調な時の勝利よりもある意味大きな財産になったはずだ。K君も偉いが、ご両親の我が子に対する向き合い方に私は深く感じ入った。なかなか出来ることではない。見ていられなかったのではないかとも思う。子供に過保護でなにかあるとすぐに学校や環境のせいにしたがる親が多いが、かばうばかりが愛じゃない。元々強い人間なんてめったにいないのだ。親や周りが機会を与え、大切に見守るから強くなっていけるのである。
 さまざまな思いがつまった今年の大会は、本当に素晴らしい内容だった。
                           2010年11月29日


ジョン・レノンの夜


 中学生から高校生にかけて、ビートルズに深くのめり込んだ時期があった。残念ながらビートルズ自体には少し遅れたが、ジョン・レノンやポール・マッカートニーはリアルタイムだった。高校一年の時に仲間とバンドを組み、放課後や休日に教室などで練習した。ドラムキットやアンプは私の家の物置においてあり、リヤカーに乗せてそのたびに高校まで運ぶ私たちを、同級生達は笑いながら通り過ぎていった。
 ジョン・レノンが殺された日、私は大学生だった。空手の稽古から帰宅し、門を開けたときに二階の窓から兄が顔を出し、「おいカズ、ジョンが死んだぞ」といった瞬間の驚きと周囲の情景は今もはっきりと覚えている。
「ビートルズはキリストより人気がある」と若き日に言って物議をかもしたジョンの言動は、晩年にはキリストのような博愛主義になり、それでもただメッセージを出すのではなく、それを聞き惚れさせる音楽にして発信した。そこに真の天才の力を感じる。
 どの分野でも成功した人の言葉に人は一度は耳を傾ける。でも、耳を傾けさせ続けるためには過去の栄光を完全に捨てた上で、新たなエネルギーを出し続けていかなければならない。さもなければいかに偉大な人の言葉も、老人の独り言になってしまうだろう。
 ジョン・レノン没後30年の特別番組を見た夜、いつものようにビートルズのCDを聞いた。ジョンの曲はいきなり始まりすぐに終わる。やっかいなパートはポールに任せてぶっきらぼうに叫ぶジョンの声は、ジョンより10歳年上になってしまった今でも深く胸に突き刺さってくる。
                          2010年12月13日


ストレス


 現代はストレス社会だといわれ、その発散方法は十人十色である。スポーツや趣味に時間を割くのがノーマルなのだが、聞いた話によると一部中年男子の間では「女装」するのがアンダーグラウンド的に流行っているらしい。マンションの一室に同じ趣味を持つおじさんたちが集まってそれぞれ女装し、化粧をする。かなり社会的に地位の高い人たちも多く集うのだそうだ。無気味な話だが、そうした中にはマンションの中だけに飽き足らず、勇気を出して近所のコンビニまで行ってきたりする人もいるらしい。仲間の冒険に刺激され、さらに勇気を奮って買った弁当をレンジでチンして、つまりじっくりとその身をさらしてから帰ってきたりする人もいるんだと(なんだかな)。きっと見られていることに緊張と興奮を覚え、会社でのストレスなど吹き飛んでしまうのだろう。人に迷惑をかけているかどうかは微妙な所であるが、このくらいならまあ「良かったね」で済むかもしれない。しかし今年の夏に捕まったロシア兵のように、女性の下着を盗んでは身につけ、それを自分で写真にとってパソコンで管理までしてしまう所までいくと、もうこれはアウトである(こいつがドルフ・ラングレンみたいな顔してんだ)。
 「ちょんまげクラブ」というのもあるらしい。これは女装ではなく、みんなで頭にちょんまげのズラをかぶり、武士になった気分で「本日はお疲れ様でござる」とか「失礼つかまつった」とか言いながら和むのだそうだ。さすがにその格好でコンビニなどには行かない。たぶん捕まるから。
 結局のところ全く別の人間になることで、リフレッシュというか現実逃避のようなことを形を変えてやっているのだろう。きっと想像を超えるようなクラブもまだまだあるに違いない。
 ストレス発散とは少し違うかもしれないけど、私は若い頃何か自己嫌悪に陥ったり、反省すべきことがあったときなどは、より稽古に打ち込んだ。そして自分で自分を許した。「こんだけやったんだからまあいいか」という具合に(勝手だね)。実際には仕事でのミスや人間関係のもつれなど、空手の稽古で埋まるもんじゃないんだけど。でもまあ、女装とかちょんまげとかにはまらなかったので良かった。と今では思っている。
                          2010年12月23日


ライオンは変われない


 直木賞作家、山口瞳の小説の中にこういう文章がある。「才能のある人間が生きるのはなんでもないことなんだよ、宮本武蔵なんてちっとも偉くないよ、あいつは強かったんだから。本当に「えらい」のは一生懸命生きてるやつだよ」と、ぶきっちょだけど必死に普段の暮らしを守ろうとしている主人公を称えている。
 昨年もいじめが原因で自殺する子供たちがいた。いじめなど今に始まったことではないにせよ、救いようのない話だ。結局こんなものはウイルスと同じで根絶することはないのだろう。
 だから強くなるしかないのである。根っから強い人間は別として、弱い部分が人には必ずある。嫌なことや悲しいことは精神力を発達させるというが、脆い心は発達する前に挫けてしまうかもしれない。稽古をして鍛えたくても、鍛えるだけのスタミナがなければ鍛えられないのと同じである。だから自分のスピードでスタートすれば良い。
 自然は弱肉強食である。強い野獣の代表格たるライオンですら弱いものは生きていけない。ライオンだったらそれはもうほとんど生まれた時に決まってしまう。ライオンは意識して変わることが出来ないからだ。しかし人間は違う。
 小さな自信でも一度手に入れると人は劇的に変わる。昨日まで苦しんでいた問題が嘘のように解決してしまうことがある。他人が自分に向けてくる感情などは、結局自分の中でどのようにも処理できるのだから、ありのままの自分を大事にした方が良い。
 格闘技で名を上げるほど強くなった人の中には、子供の頃いじめられっこだったという人が多数いる。負のエネルギーが強いバネとなり、必死で鍛えることが出来たのだと思う。
 べつに格闘技のように直接的な強さでなくとも良い。自分に合ったものを始め、心に余裕が生まれるくらい自信がついたら、周りの風景も変わってくるだろう。限りなくぶつかる問題は、その都度必ず乗り越えられる。
 宮本武蔵はライオンのように強かった。でも鍛えて変貌した人だったかもしれない。
 人は変わることが出来る。ウイルスなんかに負けるな。
                           2011年1月9日


会話の達人


 聞くとはなしに人の会話を耳にしてしまうことがある。気づくのは、お互いに相手の話は全く聞いていないことが良くある、ということ。特に老人同士の場合はすごい。交互に話す内容が完全に違うのだが、笑いが合っていたりする。若いもの同士だと話題を変える前に一応断わりが入るのだが老人にはそれがない。お互い相手の話が終わると自分の話を始める。これは話を聞いているというより、待っているといったほうが近い。まあコミュニケーションも経験豊富になるとそれでいいのかもしれないが。
 友人と3人で飲んだ時、Aはコンピューターの話をしたがり、Bは格闘技の話をしたがった。私は一応両方に相槌を打っていた。Aの話とBの話は交互に「さっきの続きだけど」とか「話は戻るけど」とか言いながら同時進行した。私は途中まで全く違う話の共通項を探して接続する努力もしたのだが、しまいにはわけが分からなくなったので強引に昔話にもっていきまとめる、という力技を使った(司会者じゃあるまいし別にまとめる必要もなかったのだが)。
 話しのうまい人は聞き上手という。嫌われるタイプとしては自分のことばかり話すやつ、逆に全く自分のことは話さないやつ、の二つがよくあげられる。まあ気にしすぎるとしゃべれなくなるからあまり注意することもないと思うのだが、私の経験から言うと、人の話を聞いてすぐに「ていうか」とは言わない方が良い。そういうやつがいたのだ、何か話すたびに「ていうか」と言ってから、たいして変わらないのにいちいち自分の言葉に置き換えたがるやつが。冗談すら「ていうか・・・」と言われた時にはさすがに私も切れましたね。「うるせえ!」と丁重に口を封じたことがあります。そいつのことはしばらく「ていうか」と呼んでいました。
 皆さんも人の話は否定しまくらないよう注意しましょう。いつからか文体が変わってしまいましたがもう収拾つかないので今回はこれで終わります。
                          2011年1月26日


久々の宮島


 極真空手千葉グランプリ一般部重量級で講士館の宮島初段が優勝した。約2年ぶりの復活である。その間、ケガによる故障やら病気やら張り切りすぎて入院やら、勝負どころか土俵にも上れない日々だったからやれやれである。決勝までの4試合ともほぼ危なげのない戦いであった。まだフル回転には遠い感じもしたが、ともあれ勝利は大きな収穫である。本人もホッとした事だろう。悪くない再スタートだ。
 宮島は市川海老蔵に似たくっきりとした顔立ちをしている。高校の頃はカメラマンを目指す紅顔の美少年でもあった。3次元バーコード(QRコード)を浮き上がる騙し絵かと思ってじっと見ていたり、海外旅行に行く途中でパスポートを電車に置き忘れたり、腹を鍛えようと二人同時に踏ませて内出血を起こしたり、とかく「まさかこんなことしないだろう」という事をやらかすおっちょこちょいな一面もあるが、フィジカル的には大きな外国人を正面から打ち負かすナチュラルパワーも備えている(過去の大会でアメリカの巨大な黒人やロシア人選手も二人ほど打ち破っている)。すべてひっくるめて宮島なのだからそれはそれで仕方なくも素晴らしいのである。
 大会会場では、極真連合の大石代悟最高師範と34年ぶりの挨拶をさせていただいた。実は私が池袋の本部に入門した高校生の頃、筆頭指導員が大石師範だったのである。『カラテ狂時代』にも書いたが、とにかく当時は恐ろしくて口も聞けない大先輩であった。師範から「懐かしいな」と言っていただき恐縮した。月日の経つ矢のごときスピードと、あの頃とある面では激変し、ある面では全く変わらぬ空手の世界に生きてきた歳月を、しみじみ噛み締めた昨日でもあった。
                         2011年2月7日


変化することだけが永遠 


 「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉は、慣れ親しんだものは自然に身に付く、という意味だが、昔の剣術家のように門の外から声だけを聴いて技を身につけてしまう、というように能動的な姿勢の大切さも含まれているように思う。何かを学び取るうえで受動型には限界がある。一から十まで教わったものは十で終わる。そのまま行くと十一を待つようになる。しかし貪欲に盗み取る意識を持って身につけたものは自分のものになっているから進化することができるのだ。
 どんな偉大な選手も最先端に居続けられる時間は限られている。空手なら型のように普遍的な部分はあるにせよ、戦いにおける技術は進化し、変化する。『変化することだけが永遠だ』という言葉は真理だろう。ネガティブな思考は後退だ。極意を門外不出として隠している間に革新的な変革が起き、錆びついた「極意」には誰も振り向かなくなった、などと笑い話にもならないことが起きたりもする。蟻の一歩は小さいが、ちょっと目を離すともう見つからなくなる。新しい波を侮ってはいけない。交じり合うことを恐れてはいけない。
 基本は大切だけど、それは基本の中の原則を理解する(体で覚える)ことが大切なのである。それは実戦、応用を繰り返すことで螺旋状に発達していく。白帯が感じる基本の理解度と、黒帯が感じるそれとでは差があって当たり前なのだ。東大に合格した人がよく「教科書さえ読んどけば大丈夫」と言うのも、理解レベルの差があることを認識しなければならない。基本に帰れというのは同じ場所に戻り続けろという意味ではないのだ。
 教わる立場は誰もが経験する。何かひとつ教える立場まで到達すると見方がガラッと変わることがある。教える立場が長すぎて息づまることもあるだろうが、いずれにしても能動的に、明るく取り組むことが大切だと思う。
                       2011年2月28日


復興


  この大地震の報道を見るたび、3年前の事故で入院した時にテレビで見た「四川大地震」の惨状を思い出す。自分が寝たきりだったこともあり、あの時の瓦礫の下から救い出される人たちの心情に実感として深く共鳴する部分があった。「死ななかった」ことはやはり何事にも代えられない。日常を失った時に感じる何でもないことに対する強い感動は、マイナスから見た普段が尊く見えるだけではない。3年前と同じことを書いてしまうが、空を飛ぶ鳥を見て「ああ、鳥は飛べるんだった」という当たり前のことに心が震えるような、人が勝手に自分を縛る「日常」という呪縛から解放され、生きているだけでいいんだ、と全て肯定させる何かが心を満たす瞬間があるのだ。「平凡な日常の幸せ」を実感するのは次の段階、少し余裕が出たころに感じ出すもので、ここからは直面する本当に厳しい現実と戦っていかなければならない。
 昨年暮れに極真会の長谷川先生の紹介で知り合い、意気投合した門馬師範は福島の人で、今回大変な被害にあった。地震、津波、火災、放射能…。それでも電話から聞こえた門馬師範の声には、気合を振り絞るような張りがあった。助からなかった命が多数ある。生きている人間は復興してゆかなければならない。そういう強い思いが感じられた。
 被災地の避難所で消息が不明だった家族が巡り合い、抱き合って泣いていた。それを見ていたほかの被災者たちは拍手をしてわがことのように喜んでいた。自分がどん底にあって他人の幸せに拍手を送れる人たち。この心に涙があふれる。また放射能の中、原発の復旧作業に踏み込んでいく消防隊員たち、言葉が出てこない。
 懸命に頑張っている人たちに、頑張れなどと言えるものではない。
                       2011年3月21日


心を支えるもの 


 生きていれば山もあり谷もある。とても稽古などできないような心理状態や苦しみの時でも空手衣に腕を通し、帯を締めれば、突き出す拳が迷いや悩みを一本づつ消していってくれた。蹴りはどんな時でも気持ち良く空中を切り、心を楽にしてくれた。
 たとえ何を失ったとしても私は空手衣を着て、帯を巻き、拳を突く。他に出来ることはない。
 どんなに想像を超えるようなことが起き、先の見えない状況になっても、自分を支えてくれるものが誰にも自分の中にきっとある。
 船も家族も失った漁師が、残骸の中で漁の道具を直していた。 
 心を立て直す順番は、自分にしか分からない。
                      2011年4月5日


踏み込むこと 


  星飛雄馬は左門豊作に速球を打たれて彷徨したあげく、ある禅寺で座禅を組んだ。この時、寺の和尚に言われた言葉に突如開眼するのである。それは「打たれまい、と思う心で凝り固まっている。打たれて結構、いや、もう一歩進んで打ってもらおう。と我が身を捨てた時に肩の力が抜け、理想の姿勢が出来上がっている」というものだった。これにより飛雄馬は、実際に打者のバットにボールを当てて打ち取る<大リーグボール1号>を完成させてしまうのである。和尚の言った意味とは少し違うような気もするのだが、そんな深読みをせず、直接「打ってもらう」魔球を作ってしまう飛雄馬の邪気の無さ、素直さには頭が下がる。
 ところがこの言葉は実際深いのである。まあ梶原一騎原作の漫画であるから、本当にどこかの和尚が言った言葉であるかどうかは不明だが、「打たれまい、打たれまいと自分を守る心が我が身を縛る」というのは人生にも当てはまるし、打撃系格闘技などにはビッタリ当てはまる言葉である。もともと空手は護身のための術で、手や足を刃物だと思って捌こうとする場合もあるが、必要以上に打たれることを恐れると上達が望めなくなる。相手の間合いに一歩踏み込むことで解決する問題は驚くほど多い。
 「刃の下は極楽」という言葉もある。まあいろんな意味にとることはできるが、ここはひとつ飛雄馬のように邪気を捨て、素直な心で読もうではないか。刃から離れていても問題は打開しない。踏み込むこと。勇気を出して踏み出すこと。 
 そこに極楽があると信じて。
                        2011年4月18日


幸せの尺度


  「しあわせは自分の心のどん底が決める」相田みつをの言葉にあった。底が深ければそれだけ幸せを感じる心の幅が大きくなる。逆に、贅沢に慣れてしまうと感性もマヒしてしまう。90年代初頭、バブルが弾ける直前の日本は確かにどこかおかしかった。楽して儲ける算段にのめりこんだ人たちがいくつも砂上の楼閣を建てた。躓いてから振り返ったとき、初めて現実を思い知った人も多かったことだろう。
 思えば、戦争を経験した私の親たちの世代は、本当に小さなことを大切にして毎日を生きていた。何もないところから汗水流して働き、一つ一つ積み上げていったものを慈しみ、隣近所助け合いながら活力旺盛に生活していた。
 上ばかり見ていると、幸せの意味を勘違いしたまま社会の波に呑み込まれてしまう。いつか、何らかの形でそれに気づく。早いか遅いか、かすり傷ですむか大怪我となるか、それはわからないが。
 テレビで見た。震災の被災地の小学校に給食が復活した時の映像だ。給食センターの回復が遅れ、その日のメニューはコッペパン一個と牛乳だけだった。それでも子供たちは「食べられない人たちがいるのに僕たちは幸せです」と笑顔を見せた。こみあげるものがあった。それでも「これだけで足りるの?」と聞かれた子は、大きな声で「足りません!」と言い、回りの生徒たちは声をあげて笑っていた。幼いうちに幸せを感じる尺度が変わる災害を経験するも、無邪気に不満も口にできる元気さ、無邪気さに、正直ほっとさせられた。
                        2011年5月1日


柔軟性 


 私は小さなころから体だけは柔らかかった。小学生のころ、テレビジョッキーという番組で「奇人変人コーナー」というちょっと変わった人を紹介するコーナーがあったのだが、そこに両足を頭の後ろに組み、尻をテーブル代わりにラーメンを食う人が出演した。真似してみたら出来たので、さっそく学校でやったらみんな大喜びしてくれた。ああ俺は人より体が柔らかいんだな、と思った。高校生の時、文化祭の打ち合わせで輪になって話しているうち、眠くなった私はあぐらをかいたまま前に倒れ、おでこを床につけて寝てしまった。気が付くと周りにみんなが集まり、真似しようとしても出来ないと言いながら私を見ていた。
 空手をやるようになり、その柔らかさはようやく役立った。特に膝の柔軟性は自分でもありがたい特質だと感じた。若い時期、思い通りに動く体はずっと変わらないと感じるものである。年を取ると体は固くなり回し蹴りなどできなくなるぞ、という人がいたが、そんなことは古い迷信だと思っていたし、実際稽古を続けていれば柔軟性は保てるという確固たる自信もあった。試合から退いてからは、幾つになっても素早い上段回し蹴りや飛び後ろ回し蹴りを使える空手家でいようと思っていた。ところが…。
 事故で両足が折れ、筋肉も大きな損傷を受けてしばらくは足を開くことも出来なくなった。体が前に曲がらないというのは初めての経験であり、硬い人の気持ちがわかったような気がした。だが、ということは私が柔軟性を高めていけば、よい手本になるなとも思った。
 で、やっと開脚して(まだ180度とはいかないが)腹と胸を床につけることが出来た。久しぶり、約3年ぶりの感触だ。
「やればできるじゃん」ちょこっと自分をほめてしまった。
                        2011年5月16日


コンプレックス万歳 


 約20年ぶりに、中野サンプラザホールのトレーニング場で共に鍛えた空手仲間と再会した。所属道場は違っても、同じ目標を目指していた仲間たちである。年齢を重ねて容貌は若干変わったが、みな話してみると本質は全く変わっていないのが嬉しかった。それぞれ自分の分野で活躍している。もともとやたら元気な男たちだから人生に挫けている者などいないことはわかっていたが、顔を合わせるとあらためて感心することが多かった。
 今回、特に感動したのは慶一君という男のその後であった。彼は当時普通科の大学生で、極真会本部で黒帯を取ってはいたが、大会等で目立った成績は出すことが出来ないでいた。優しく、どちらかというと地味なタイプの男だった慶一君はその頃、人生に一度挫折する。それは「女性にモテない」ということを痛切に感じた出来事があったからだという。「俺は女にモテない。このままでは駄目だ」と悩んだ慶一君はひとつの決断をする。それは「医者になってやる」というものであった。この思考展開は想定範囲を超えているが、考えてみたら実にシンプルで男らしい。ケンカで負けた人間が一念発起して格闘技のチャンピオンを目指す、といった通常の根性物語よりずっとおもしろい(良い意味です)。
 動機はともかくとして、彼が立派なのはそれを決めたら確実に実行に移していったところだ。必死に勉強し、32歳で大学の医学部に再入学。ずっと年下の同級生の中で苦学して医学博士号を取得。今は某有名大学病院に勤務し、整形外科の医師として華麗なメスさばきを見せているという。もちろん、女性にもモテるようになり、結婚して子供も生まれた。これこそ世間の常識などにとらわれず、自分の人生を自分の力で切り開き夢を叶える、という見本のようなものではなかろうか。
 ちょっとした挫折で死を選ぶ人がいる。本人にとっては「ちょっとした」ことではないというかもしれないが、なんでもかんでも過剰に保護されたものに反発力は生まれない。慶一君は「女にモテない」という事実を真っ向から受け止め、堂々とそれを乗り越えたのである。それも安直な道を進まず、「医者になるしかないのだ」とある面わけのわからない独特の結論を出して茨の道を突き進んだのだ。
 コンプレックスは、受け取り方によってものすごいエネルギーになるのである。
 蛇足だけど、私は彼を尊敬している。
                     2011年5月30日
 


名 言


 「嚢中の錐」という言葉がある。多くの師からいただいた様々な言葉の中で、この言葉を私は今でもよく思い出す。錐は先が尖っている。どんな袋に閉じ込めようとしても、その切っ先は袋を突き破って出てきてしまう。いかに回りが覆い隠そうとしても、磨き上げたものはいつか必ず認められる、ということだ。だからどんな不遇な時もいじけたり自棄になったりせず、しっかりと自分を磨き続けろ、と私は教えられた。
 言葉はその時の状況や精神状態によって響き方が違ってくる。今、役立つ言葉の数々が多くの本になって発行されている。これは良いことである。本を読むときは自分が吸収しようという状態になっているから素直に頭に入るだろうし、たいていの本はその道の成功者が書いている。「どんなことを言ったか」より「誰が言ったか」が重要な時も確かにあるのだ。
 だけど、やっぱり自分に向けて言ってくれた「生」の言葉は、著名人の名言より心に残るものだと思う。「大阪の天気は大阪の人に聞け」というのは、どんな偉大な気象学者より、その場所にいる人の方がその地のことは詳しい、ということだ。
 先生、先輩、兄弟、友達、そして親…。誰の周りにも近くで見て、適切なアドバイスをくれる人がいる。聞き方だって少し変えてみると、ぐっと心に響くものがあるかもしれない。
 ノーベル賞学者や金メダリストの言葉は壁に飾れる。でも状況に応じて一緒に考えてくれるのは、身近にいる人たちなのである。
                    2011年6月15日


優勝した! 


  山田哲也が極真連合全日本選手権中量級で優勝した。思うようにウエートが伸びないことに一抹の不安を感じていたが、持ち前の勘の良さと根性で難関を突破したのだ。シード後の2回戦から決勝までの5試合すべてに得意の後ろ蹴りを的確に決め、直突きもしっかりと水月をえぐった。私が言うのもなんだが、本当に見事な極真初挑戦初優勝だったと思う。長い時間しゃがめないのでリングサイドでの応援こそ出来なかったが、気持ちは常に試合場の中にあった。応援に来てくれた渡辺道場の渡辺師範、木村敬代さん、勇志会の杉沢君にも本当に感謝している。
 重量級に出場した宮島は1回戦こそ余裕を持って勝てたものの、次の試合で3位となった内藤選手のペースにはまって完敗した。出直しである。大器晩成ということだろう。
 朝一番の新幹線で大阪に入り、表彰が終わる午後6時頃まで、何も口にしていなかったことにも気づかなかった。これほど緊張、興奮、胃の痛みを感じたのは初めてだ。もちろん、自分の選手時代にもなかったことである。
 大会主催者側の審判のジャッジが問題視されることが今でも多いが、今大会はその点非常に公平だったと思う。軽量級では今や敵なしの福地君が優勝。重量級ではやはり優勝候補の北島選手が圧倒的な強さで優勝した。極真の牙城を守ろうと死力を尽くした纐纈選手は準決勝での内藤選手との激戦の影響もあってか決勝で涙をのんだ。涙をのんだ、という言い方は当たらないかもしれない。試合直後控室に駆け込んだ彼は激しく号泣していた。たまたま部屋の前にいたのだが、それは喉が張り裂けるような叫びであった。かたや歓喜の輪の中で勝利に酔うものがいれば、悔しさにただひとり身をよじって苦しむ者もいる。これが勝負である。それでも纐纈選手は真っ向から強敵たちに立ちはだかった。突き、蹴り、態度、すべてが正統派であり立派であった。負け方があっぱれなものは必ず復活するものだ。
 チャレンジを恐れないものは着実に強くなる。逆に少しでも怠ったとき、守りに入ったとき、その引いた足元は必ず誰かに踏み込まれる。
 そんな気がした。
 勝って兜の緒を、締めよう。
                      2011年6月29日


空手家の黄金比 


 書道には昔の石碑の文字を書き写す臨書という部門がある。中国の碑文には時代によってかなり特徴のある文字もあり、それを書き写すことで知識が増え、筆力が養成されて行く。自由に自分の感性で書くのも楽しいが、ある法則に則って時代の書き手に思いを馳せながら書くのも良いものである。漢詩は簡潔で奥深い。その意味が好きで書く人が多い。そして同様に、その書き手による文字の美しさに魅かれて書く人も多い。
 毛筆の中には美しさがある。その美しさは、やはり臨書などを通して形やバランスを感覚として身につけてこそ表現できるのかもしれない。美しさは人それぞれ感じ方は違うが、黄金比のように共通するものはあるようである。
 空手においては[型」が書道の臨書に似ている(そら来たと思った人、黙って読みましょう)。運動の法則に則った動きには流れと美しさがある。それこそが空手らしさ、とも言えるのではないだろうか。自由に戦っていても、身についたものは自然に滲み出る。それは勝負に勝つだけの術にとどまらず、その人の所作や言動にも現れてくるはずである。
 極真連合の全日本大会で主審を務めたある師範から暑中はがきをいただいた。その中に先日の大会で優勝した山田について、試合態度、技術、精神面、すべてにおいて最高の選手でした、というお褒めの言葉と労いも頂戴することが出来た。本当に嬉しい事だった。
 第3者に勝利を認めてもらえる総合的な実力が山田に備わりつつあるということ。そして、挑戦者の勝利を認め、称える大きさを持つ人に出会えたということ。
                     2011年7月18日 


暑中お見舞い申し上げます


  今回の合宿は天候にも恵まれた。台風が一日遅れていたら中央道が通れなかったのだから運も良かった。参加人数は例年より少なかったが、新しい型のマスターや、高校生及び一般希望者の強化トレーニング、最終日には全員で千本突きをやったりと、合宿ならではの内容で充実していた。演芸会では子供たちの出し物の中、一般参加の世界的フルーティスト上野善己さんが余興とはいえ、ン百万の大変貴重なフルートの音色を披露してくれ、みなうっとり聞き惚れる場面もあり、いつもとは少し感触の違う合宿となった。
 合宿が終わると私の夏は半分終わる。印象的にはほぼ終了する。今年はいつにも増して「あっ」という間だった。行事が多かったせいか、トシのせいか?
 合宿から帰った翌日、松井宣治師範(JIKA代表理事)と打ち合わせがあり、松井師範の運転するバイクの後ろに同乗させてもらった。乗り慣れてない場所だし、110ccの小型バイクだし、あまり運転がうまい人とも思えないし、持つところもないしで正直怖かった。二人合わせて180キロ(私は75キロだが)の重さはタイヤに気の毒というか、微妙な揺れ方をするのでやっぱり怖かった。カーブでバイクが傾いたときなど、思わず松井師範のでかい尻を太ももでギュッと挟みつけちゃったりして、お互いに気色悪くもあった(ごめん、乗せてくれたのに)。
 今年は今のところ去年ほど暑くはないが、台風や大雨の被害はまだまだ増えそうだ。春先の大災害から始まり、予想外の悪い出来事も多発している。こんな年はより仲間同士力を合わせ、出来ることを一つづつやっていくしかない。三歩進んで二歩下がる、と歌の歌詞にもある通り、二歩下がる時だってある。
 それにしても、夏はもっと暑い方がいいな。入道雲見ながらかき氷食いたい。
                      2011年8月1日


戦争の記憶 


 終戦記念日が近づくと、戦争の特集や記事を多く目にするようになる。戦争の記憶は今やどれほど残っているのだろうか。
 私の両親は戦争真っ只中の世代で、私も小さいころからよく戦争の生の話を聞かされて育った。母方の祖父はミッドウェーで戦死している。祖母と母はその頃吉祥寺の甲州街道沿いに住んでいたのだが、夜中になるとよく兵隊の行軍が靴音をたてて街道を通ったそうだ。すると必ず祖母は戸を開け放し、縁側を兵隊さんたちの休憩所にしてもてなしたそうである。出すものが足りなくなると祖父のために作った慰問袋すら開け、兵隊さんに食べさせたそうだ。母はいつもその光景を見ては「お父さんに渡すものが無くなっちゃう」とハラハラしていたらしい。
 父は19歳の夏、赤坂の駐屯地に入った。部隊に配属された日の夕食。茶碗には赤い飯が盛られていた。「おお、赤飯だ」と喜んで箸をつけたらポロポロと落ちる。それはバサバサの高粱(こうりゃん)だったのだ。農家の父は戦時中でも米と麦は食えていたので「こんなものを食って戦えというのか」と、ひどく失望したそうである。やはり夜中の行軍訓練に参加した父は、仲間数人と時折隊列を抜け出し、街道沿いの梨畑に潜り込んでは梨を盗んで食った。「真っ暗だったからバレなかったよ」85歳の父は今も懐かしそうに笑っている。
 母は横浜や川崎など、兵隊の出征地をたびたび訪問した。戦地に行く親戚や知り合いを見送るためである。「でもみんな帰ってこなかったね」と母はため息をつく。私が幼い頃、母と高幡不動尊にお参りに行くと、白い布をまとった片足や片手の傷痍兵が道端に座り込み、粗末な楽器を奏でていた。私は最初その姿が怖かった。しかし母はそうした傷痍兵を見ると必ず持っていたお金を渡していた。そして「あの人たちは戦争で、日本のために体を傷つけたんだよ」と私に言った。泣いていることもあった。
 終戦の放送を父は川崎で聞いた。上官たちはみな泣いていた。だが父は「負けて当たり前だ」と思ったという。ろくなものも食わしてもらえず、殴られるだけでアメリカに勝てるわけないだろう、と。
 立場や境遇によって戦争の記憶も様々だろう。それも次第に薄れてゆく。だけど形は変わっても語り継ぎ、残す義務が日本人にはある。戦死した命、兵隊一人一人は大切なものを守ろうとして戦った。だから守られた子孫は感謝して強く生きなくてはならないのだ。
 男は生物学的に女より弱い、と言われ出して久しい。本当に弱い男は増えた。そんなこと、命をかけて戦った兵士たちが聞いたらどう思うだろうか?
 「ああ、よかった。平和なんだな」と笑ってくれるだろうか。
                      2011年8月8日


 お盆・祖母の思い出 


  そのラーメンのスープは真っ黒だった。どんぶりを引き寄せ、不思議な色に思わず「ずいぶん真っ黒いね、新しいラーメン?」と私は祖母に聞いた。高校から帰るといつも腹が減って仕方がない。インスタントラーメンは夕食までのつなぎに時折祖母が作ってくれた。「あ、そうだろ」何故か祖母は言葉を濁し、包装袋を丸めて捨てようとしていた。私は箸を取り一気にすすりこんだ、むせた、ソースの味がした、わかった、これは焼きそばである。「ばあちゃん!」見ると祖母は逃げる態勢になっていた。そして「なんだよ、食べられるだろ?」と開き直った。おそらく作っている途中で焼きそばをラーメンにしてしまったことに気づいたのだろう。しかし私が気づかないかも、と思って出したのだ。私は「ああ、ソース味のラーメンもいいかも」なんて言うわけもなく、黙って部屋に戻った。
 これが『焼きそばラーメン事件』の顛末である(私しか知らないけど)。そのあと祖母は、もったいないからとこれを食べてしまい、寝込んだ。私は父に怒られた。なんで怒られるのか納得いかなかったが。
 私の祖母は明治時代の人である。9人兄弟の2番目で、弟や妹たちの世話で学校などほとんど行ったことがない。奉公に出て働き結婚して17歳で私の母を産んだ。祖父は日華事変以降太平洋戦争まで3度招集を受けてついには戦死したから、平和な夫婦生活はごくわずかだったと思う。母が結婚し、しばらく一人暮らししていたのだが、兄の病院通いが続いたため母の負担を考え同居することになった。だから私の幼少時代は祖母といつも一緒だった。私はよく当時のぼろい物置に、この祖母に閉じ込められた。おそらく何か悪いことをしたお仕置きだったのだと思うが、憶えているのは私が「出してくれえ」と泣き叫んでもなかなか許してはくれず。「悪い子は犬に食わしちゃうからな」などときっちり脅し、骨身に沁みるまで反省させてから出してくれることだった。知らない子でも悪いことをすると叱っていた。「ばあちゃんのコキンタマは痛えぞ」と握り拳を振り上げるとみな逃げた。とにかく存在感のある、私にとっては偉大な祖母だったのだ。
 老境に入ってから祖母は好きだった煙草をやめた。体に悪いと医者や家族に勧められたからである。ところがある日、私は隠れて煙草を吸っている祖母を見つけてしまい。子供心に祖母のためだと強く注意した。祖母もそれからは一生懸命我慢していたようだった。
 私が大学生の時、72歳で祖母は死んだ。そのあと私は何度も後悔した。あの時、煙草を吸っていた祖母を見逃してやればよかった、と。好きなものひとつくらい好きなだけ楽しんでも良かったではないか…。
 今でも祖母の墓参りをするとき、私は煙草を一本供える。自己満足でしかないけど、それで少しは気も落ち着く。
 あのラーメンの味は、忘れようにも忘れられない。
                      2011年8月22日


勝負はわからない 


 11月に開催されるJIKA(日本国際空手協会)主催の第15回全日本大会に、極真連合の世界チャンピオンである纐纈卓真選手の出場が決まった。極真会館の世界大会を制した男が他団体の全日本大会に出場してくるのは前代未聞のことである。先日のウエイト制全日本での惜敗が彼の中で何か変革をもたらしたのか? あの日の全貌を見たことは前にも書いたが、どちらにしても纐纈選手が非常に前向きであり、前例や過去のプライドにこだわらない男であることは間違いない。チャンピオンというのは、その時のために多くのものを犠牲にし、鍛え、勝ち残った者たちが全国あるいは世界から集まった中で最後に残った一人なのである。栄光である。当然羨望の的となる。しかし上に立てば追われる。立ち止まれば追い抜かれる。走り続けるのは宿命なのだ。
 組み合わせ公開抽選会の日、協会の現全日本チャンピオンである杉澤君も絶好調の様子だった。第一シードの彼とウチの山田はA、Dブロックの両隅に分けられた。そして纐纈選手もCブロックにシードされた。勝負は何が起こるかわからない。確かなのは、あきらめた方が終わりということ。
 大会関連の仕事を終え、帰宅して世界陸上を見た。どの勝負よりも勝ち負けがはっきりしていると思われた男子100メートル決勝。そこでの目を疑うような光景は、世界中の人が見たことだろう。
 やっぱり、勝負は終わってみなければわからないのである。
                       2011年9月1日



現代カラテマガジン 


  「現代カラテマガジン」を今の空手家たちは知っているだろうか? 約40年前、極真空手の機関誌としてスタートし、通信販売のみで売られていた当時唯一の専門誌である。モノクロで非常にマニアックなものだったが、写真が鮮やかに空手の技をとらえたものが多く、私たち若きカラテマンにとっては常に話題に上る月刊誌だった。この本が本屋に並ぶようになったらいいのにな、とあのころは思っていた。やがて「パワー空手」が極真本部からやはり通信販売で売られるようになる。これは「カラテマガジン」より豪華だったが機関誌色は強くなっていたようだった。数年のち、福昌堂から「月刊空手道」が創刊。本屋の店頭に並んだ。最初は伝統空手の専門誌であったが、私たちの世代が選手として動き始めたころ、少しづつ実戦系空手(まだフルコンタクトカラテという呼び方は無かった)も取り上げてくれるようになったのである。
 そして「フルコンタクトカラテ」の登場だ。創刊号が丁度ポイント&ノックアウト第一回全日本大会の時期と重なったため、優勝者として紹介される栄誉もいただいた。そのあとは、今から考えると不思議なくらい(やっぱりブームだったんだな)空手や格闘技雑誌が次々と創刊され、本屋に並ぶようになった。私も何度か特集などで取材を受けたり、手記を掲載して戴いたりした。その後訪れた「K−1」人気のころがその系統の雑誌にとってもピークだったようである。…気がつくと、老舗「月刊空手道」と「フルコンタクトカラテ」以外の空手専門誌(機関誌は除く)は消え去っていた。
 今回、その「フルコン」で山田の特集記事が組まれた。出来上がった本を手にした時、ふとあのころの空手雑誌のいくつかを思い出してしまった。中でもやっぱり「現代カラテマガジン」である。あの思いっきりマイナーなモノクロ表紙が懐かしく、押入れの奥を探り、変色してしまった大昔の「マガジン」を開いてみた。すると大きく切り抜かれた部分があった。すぐに「ははあ」と思い出した。あの頃、高校生の私はその切り抜きを机に貼っていたのである。
 ウイリアム・オリバーが飛び蹴りをしている写真を。
                      2011年9月25日


トイレの神様


  会社や学校や駅などで、トイレ掃除をしている人を見ると思わず頭が下がる。仕事だとしても大変なことだと思う。シモの処理ということならば、少し話は違うけど稽古を長いことしているとそうした必要に迫られる場面にもよく出くわす。私が狭山で初めて道場を開設した11年前、初日に集まった小学2年の男の子は私の気合いを聞いた途端、ビクッとしたかと思うと、ザザーッとおしっこを漏らしてしまった。子供だけではない。大人でもあった。組手の最中、腹部に強烈な攻撃をもらった方が一気に大きい方を排出してしまったということもあったし、腹筋にメディシンボールをたたきつけてたら出ちゃった、てなこともあった。
 そうした際の処理、掃除は何度かしたことがあるにしても、これまで一人暮らしの経験がなかったせいもあり、私は正直あまりトイレ掃除はしてこなかった。だから、本部道場を持ってからのトイレ掃除は初の担当任務だったのだ。だが、最近少しサボったせいか便器に汚れの首輪なる黒い輪っかが出来てしまった。これがいくらこすっても洗剤を変えても落ちない。半ばあきらめかけていた。ところが、都合で日曜の本部稽古をY2段に任せた翌日、道場のトイレを見たらピカピカになっていたのである。便器の中もキラキラだった。驚いて聞いたみたらYは少し言いにくそうに「気合い入れました」と言う。よく聞くと、Yがなんと指で便器の中を磨いたことが分かった。自分の生徒を褒めるのもなんだが、これにはあらためて感心してしまった。自分の家の便所ならいざ知らず、こうした半ば不特定多数が使うトイレを指示もなしに素手でそうそう洗えるものではない。それをさらりとやるあたり、本人が言うように「気合いが入っている」のだろうし、心が磨かれているのだろう。
 Yは岩手や静岡の大会で優勝、準優勝の経験もある講士館女子の筆頭である。
 トイレの神様がもしいたら、きっと彼女の味方になってくれるに違いない。
                      2011年10月6日


 100回記念


 
 冲靜得自然(魏文帝) 落ち着いて静かに人工の加わらぬ自然を得る。という意味。
講士館時計も100回を超えたので、最近書いた文字を載せました。
2011年10月26日


 はじまりは文化祭


 秋は文化祭の季節でもある。文化祭というと、私は高校一年で初めて経験した時のことを思い出す。この時私たちのクラスは「お化け屋敷」を企画し、開催したのだった。準備とかも結構楽しく、廊下にあったロッカーを移動して通路を作ったり、いろんな担当を分けて入場者を迎えた。私はロッカーの上からこんにゃくを竿につるし、来た人の顔に当てて脅かしては喜んでいた。また手首から先のおもちゃを用意し、中に青い豆電球を入れて上からニュッと顔の前に突き出して脅かしていた。ところが慣れてきたころに油断もあったのだろう。調子に乗って体を乗り出しすぎた私は、一旦バランスを崩したと思う間もなく不覚にも頭から落下してしまった。すぐ下にいた同級生で幽霊係の発する「あ、ハセ、落ちる落ちるー」という声が妙に間が抜けて聞こえたのを覚えている。
 で、右手首を骨折した。かなり大騒ぎになったので救急車が来るまで保健室は黒山の人だかりとなってしまった。府中の医王病院で石膏のギプスをしてもらい、自宅に帰った。後日、肩から腕を吊って高校の保健室に顔を出すと、保健の先生に「この高校はじまって以来の騒ぎになったわよ」と言われた。クラスでは私が右手首のおもちゃで脅かしていたら同じ右手首を折ったからこれはたたりだ、などと勝手なことを言っていたらしい。とにかくこれが初めての骨折だった。だからギプスが煩わしく、運動がしたくて仕方がない。やめときゃいいのにゴムボールの野球に参加してバットを振り、再び骨が離れて激痛に身をよじった。これはあまりにアホな話なので医者にも言えず、結局「痛くない、治った」と嘘をついてギプスを外してしまったのだ。あの後の数週間の長かったこと…。
 そういえば空手を始めるひとつのきっかけになったのも、翌年の文化祭で見た空手同好会の演武だった。府中の高校生では当時「地上最強だろう」と(仲間内では)言われていた後藤という男が、組手で極真の茶帯をブッ飛ばしていた。(註・『カラテ狂時代』参照) この後藤と先日、府中道場で35年ぶりに再会したのだが、その話はまた別の機会に。
 とにかく、高校の文化祭は一生の思い出になる出来事が起こる。きっと。
                      2011年11月1日


全日本大会雑感


  約5年ぶりに全日本の舞台で主審を務めた。日本国際協会主催の第15回全日本空手道選手権大会である。協会では自分の生徒の試合を裁くことは禁じられているので、山田が戦った準決勝も決勝も主審はできなかったが、高い試合台上も久しぶりだったのでやはり少し緊張した。今回私が主審を担当した5番目の試合、2回戦の第5試合に極真会の纐纈選手が登場した。夏の大阪での印象が残っていたせいか、師匠である長谷川一幸先生から聞いた彼の実に朴訥で一心不乱な稽古内容を思い出したせいか、はたまた世界タイトルを持ちながらも挑戦者に戻って戦おうとするその心意気のせいか、彼の戦う姿に私は若干心を揺さぶられるものがあった(もちろん主審としての眼はゼロにしてある)。が、残念ながら顔面への反則パンチにより注意の指摘を2度受けたため減点1となり、内容は互角だったものの初戦で消えることとなってしまった。相手の中平選手(北斗会)も抜群の身体能力を持つ実力者であるが、やはり少し固くなったためか突きに正確さを欠いてしまったのは惜しまれる。でもこれが勝負である。ボルトだってフライングすれば失格するのだ。それにしても、数少なくなった昭和の匂いのする空手家である彼の(私個人の感じ方だけど)これからの試合も見ていきたいと思う。
 今回の大会では、やはり杉澤君と山田の技術と落ち着きが際立っていたように思う。二人とも全盛期に差し掛かっている。これからさらに大きな空手家に成長してほしいと強く願う。纐纈選手と戦うことはなかったが、世界を極めた彼の出場が大きな刺激となり、切磋琢磨できたことは間違いないのだから。
 最後に、二晩にわたって貴重な時間をいただいた長谷川一幸先生、門馬先生、本当にありがとうございました。お手伝いしてくださった皆さん、応援に来てくれた皆さん、感謝しています。そして角坂さん、都築さん、宇津木さん、ありがとね。嬉しかったです。
                     2011年11月10日


 眼


 無意識に実行していたことが、それを表現する言葉が新たに生まれたために何だか新鮮に感じる、ということがたまにある。「アイコンタクト」という言葉は近年サッカーの戦術確認からよく使われるようになった。いわゆる「目くばせ」である。瞬間的に「わかってるよな」「うん、わかってる」という程度なら普段誰でもやってることだ。ふつうそれほど多くのことを伝えることはできないけど、時にはいくら言葉を費やしても伝わらないことが一瞬にして伝わることもある。
 先日の全日本空手道選手権で有力選手が試合中、幾度となく招待席にいる自分の師匠を見ていたという話を聞いた。どう戦うか指示を仰いでいたのだろうと誰かが言った。わずかな時間でも野球のブロックサインのように伝えることが出来るのだそうだ。だけど私は違うと思った。彼は師を見ることで心の動揺を抑えようとしていたのだと思う。師と弟子は選手とコーチとは違うのである。戦いの上で万策尽きたとしても、師の眼の中に自分とのつながりを感じるだけで心を奮い立たせることが出来るものだ。苦しい時ほど、ほんの小さな支えで人は甦ることが出来る。私はその選手の気持ちがわかるような気がする。その時、師がうなづいてくれるだけで火の中にも飛び込めるような気になったことだろう。
 師だって同じである。一緒に戦っているのだ。今年よく言われた言葉にすると「絆」というものだろうか。まあ、こういう言葉はあまり熱く語ったりせず、心の中にしまっておくだけでよいのだけど。
 眼は口ほどにものを言う。だけど余計なことは言わない。だからそれだけで十分なのだ。
                     2011年11月21日