家なき子




 大家のおばさんが腰をさすりさすり引き上げたあと、おねえちゃんはハギビスさんを引っぱって、不動産屋をさがした。あたらしいアパートを借りるなら、不動産屋に行くものだ。おねえちゃんもそのくらいのことは知っていた。
 駅前にこじんまりとしたJ不動産があった。入り口や窓にべたべたとアパートのチラシがはってある。事情を考えると、あまり高い部屋は借りられない。ちょうどよさそうな安い物件があることを確認してから、ぼくたちは中に入った。
 店の主人は頭のはげたおじさんだった。
「いらっしゃ……。」
 おねえちゃんのうしろにハギビスさんの姿を見たとたん、おじさんの顔色が変わった。よごれた犬でも見るような目つきになったのだ。
「部屋を借りたいんだけど。」
「あんたかね?」
「いえ、この人なんですけど。」
 おねえちゃんはハギビスさんを紹介しようとしたが、おじさんはそれをさえぎった。
「あー、わるいけどね、売り物がないんだよ。」
「へ? だって、外のチラシ……。」
「ないったらない。出てってくれ。」
 それっきりおじさんは、そっぽを向いてお茶をのみはじめた。おねえちゃんが何を話しかけても何もいわない。しかたがないのでぼくらは外に出た。おねえちゃんは怒ったが、ハギビスさんは微笑していった。
「どこもこんなもんだよ。」
 おねえちゃんはおどろいた顔をした。
 となり街にA不動産という店があったので、同じように入ってみた。店にはキツネみたいな顔をした女の人がいた。
「こんにちは。」
「あら、おじょうさん、こんにち……。」
 この人もまた、ハギビスさんのすがたを見たとたん、けわしい顔をしてくちびるをつき出した。
「なんの用?」
「部屋を借りたいんです。」
「だれが?」
「この人です。」
 女の人はハギビスさんを見て、やっぱりねという顔をした。
「えーっとねえ、部屋を借りるには保証人がいるの。あんた日本語わかる?」
「わかります。」
 ハギビスさんはきれいな発音で答えた。
「保証人は日本人じゃなきゃこまるよ。それもふたり。」
「ふたりですか?」
「そう、ふたり。」
 ハギビスさんは考えこんでしまった。あとで知ったのだが、保証人というのは普通はひとりでいいそうだ。この女の人は、ぼくたちを追っぱらう口実にそういったのだ。
「住民票も必要だよ。それから、外国の人は一年分の家賃を前ばらいしてもらうことになってるんだ。」
「一年分?」
「無理だろう。そうだろうね。じゃあ出てっとくれ。」
 キツネの女の人は、にこにことぼくらを外に追い出した。
「なんなのよ。あれは。」
 おねえちゃんはふんがいしたが、ぼくにはだんだん事情がわかってきた。天音レイコの「なんにもわかってない」とはこういうことだったのだ。
 P不動産のまえで、ぼくらが物件の書いたチラシを見ていると、店の中の男がハギビスさんを見た。男はハギビスさんに、犬でも追っぱらうみたいに、シッシッと手をふった。
 どこもこんな調子だった。ぼくらはつかれはててハギビスさんのアパートにもどってきた。
「どう? わかった? 世の中ってこういうもんなのよ。」
 帰ってきたおねえちゃんに、天音レイコはそう言い放った。
「あんたがしてくれたことの重大さに、気づいてもらえたかしら?」
 天音さんが、おねえちゃんの顔をにらみつけて冷ややかにいうと、おねえちゃんはだまりこくってからだじゅう小さくなった。思いっきり後悔している。
「やめなさい。レイコ。」
 ゆかに座りこんだハギビスさんが、肩をおとしながらいった。
「どっちみち、ここに住むのはもう限界だったんだ。私がふがいないばかりに、引っ越しもできず何年もたってしまった。無理なんだよ。もう。」
 しばらくのあいだ、部屋が静まりかえった。するとマリキットがハーモニカを吹きだした。いつものように、ドヴォルザークの九番『家路』の曲だ。ものさびしいメロディが部屋に響いた。
 窓から夕日がさしこみ、アパートの質素なへやが明るくなった。このへやはこの時間しか日がはいらないことに、ぼくはそのとき気がついた。
 ハギビスさんが立ち上がった。
「このままこうしているわけにもいかない。今夜は友だちの家に泊めてもらえるようにたのんでみよう。」
 部屋には電話がなかったので、ハギビスさんは近所の公衆電話から友人に連絡をとった。ボックスの中のハギビスさんはちょっと明るい顔になったが、すぐに残念そうな顔をして出てきた。
「弱ったよ。彼もせまいアパートに暮らしていて、子どももいるんだ。私ひとりぐらいならなんとかなるが、三人は無理らしい。」
 こうしているあいだにも日はどんどん沈んでいく。夜がせまっていた。ハギビスさんは、こまり果てた顔をしているし、天音さんは夕日を見つめている。
 おねえちゃんは、何か口のなかで、もごもごいっていた。
「あたしが……。」
 やがてはっきりといった。
「レイコとマリキットをあたしの家に泊めます。」
 これには一同、びっくりした。天音さんはぽかんと口をあけているし、ハギビスさんもおどろいた。
「あまえるわけにいかないなんていう余裕は、いまの私にはないんだが……。」
 ハギビスさんはとまどっている。
「しかし、家の人が許してくれるだろうか。」
「そこだよ。おねえちゃん。」
 ぼくも気がかりだった。
「パパとお母さんは事情をいえばなんとかなると思うけど、あの家はおじいさんのものだ。おじいさんは絶対ゆるしてくれないよ。」
「まかせて!」
 おねえちゃんはまっすぐにハギビスさんを見た。
「絶対、なんとかするからあたしを信じて。」
 おねえちゃんがきっぱりといったからだろうか、ハギビスさんは、ふたりの娘をおねえちゃんにたのむことにした。さっそくみんなで荷づくりをして、貴重品や衣類をボストンバッグにつめこんだ。おねえちゃんは、ハギビスさんの友人の住所と電話番号と、ウチの住所と電話番号などを書いた紙を交換した。
「あっ、うちに電話するときは、かならずあたしを呼び出して。月波久子だから。」
「ありがとう。」
 そういって、ハギビスさんはぼくら一行と別れた。



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