天音さんの危機




 キッチンにあるテレビから、聞き覚えのあるメロディが流れてきた。シチューのCMのようだ。幸せそうな、あったかい家族がテーブルをかこんでいる。
「あ、この曲……。」
 おねえちゃんも気がついたようだ。
「マリキットのハーモニカの曲だね。」
 ぼくらは顔を見合わせた。
「懐かしいわねえ。それは確か、『家路』って歌よ。」
 横からお母さんが顔を出した。
「家路?」
「遠きー、やーまにー、ひーはおーちてーって歌よ。」
「はっはっは、それは微妙にちがうな。」
 笑いながら台所にパパが入ってきた。パパはこういう時、あれこれいいたくなるタチなのだ。
「どうちがうのよ。」
 お母さんはちょっとむっとしたようだ。
「その歌にはバージョンちがいがあって、『遠き山に日は落ちて』というやつと、もう一つが『家路』なんだ。『家路』の歌詞は、”ひびきわたる鐘の音に……”っていうのさ。他に宮沢賢治も独自の歌詞をつけているのだぞ。」
 例によって、パパは得意そうにウンチクをひろうする。
「原曲は『ドヴォルザーク交響曲第九番・新世界から』の第二楽章なのだよ。」
「あら、それをいうなら『新世界にて』じゃないの?」
「いや、『から』だったと思うけどなあ。」
「『にて』よ。絶対。」
 ここで『から』なのか『にて』なのか、ふたりの論争がはじまったのだが、ぼくがあとで調べたら『新世界より』だった。正解はどれなんだろう。
 ドヴォルザークという作曲家が、新大陸アメリカで作った曲で、ふるさとを懐かしむような、一方で新しい世界に希望を見るような、そんな思いで作った曲らしい。
「いい年をして何をいいあらそってる。」
 おじいさんが台所に入ってくると、パパもお母さんもだまりこんだ。いつものように暗い食事がはじまった。テレビのCMとはかなりちがう。
 ここはぼくの家であってぼくの家ではない。もともとぼくら一家はパパの会社の社宅に住んでいたのだが、パパがリストラに会ってしかたなくこの家にころがりこんだのだ。したがって、みんなおじいさんに気を使う。
「ケンジ。ニュースにしなさい。」
「はい。」
 おじいさんはニュースと時代劇ぐらいしか見ない。他の番組は低俗でくだらないのだそうだ。
 テレビでは、渋谷の飲食店が強盗に入られた事件をやっていた。捕まった犯人は、不法滞在のアジア系外国人らしい。
「また、外国人の犯罪か。あんな連中がいるからこの国の治安が乱れるんだ。さっさと追い出せばいいのに、政府は何をやっとる。」
 おじいさんはテレビに説教をはじめた。
「でも、悪い人ばかりじゃないと思うよ。」
 こんなとき、ぼくは、つい、いわなくてもいいことをいう。
「わしがいってるのは、日本に住むからにはきちんとしろということだ。外国人が日本に住むのは仕方がない。だが、日本に住むからには日本人になるべきだ。ちゃんと日本の国籍をとって、正々堂々と日本で暮らせばいいのだ。そうすれば、犯罪者なんか入ってこないし、ちゃんとした人間だけ日本に住むことになる。これが正論というものだ。ちがうか?」
 ぼくは答えられなかった。日本の国籍なんて、そんな簡単にとれるものなんだろうか?


 よく朝、ぼくとおねえちゃんはいっしょに登校した。おねえちゃん、天音さんと一緒に登校してるうちに、早起きの癖がついたのだろうか。
 通学路を歩いていると、小さな人がきができていて、そのむこうで何やら言い争っている。
「へんな話でみんなを振り回すのは、もうやめてほしいの!」
「私が私であることは変えられないわ。」
「ホラ話をやめろっていってんのよ!」
 おお、天音さんに、いつぞやの三つあみ委員長さん(?)が突っかかっている。
「あら、私、ホラとウソは大嫌いなんだけど。」
 すごい。天音さん涼しい顔して動じない。
「外国の映画に出たとか、療養所にいたとか、ウソっぱちはやめなさい!」
「あら、どうしてウソだなんていうのよ。」
「ウソくさい話だからよ。ここにいるあんたの取り巻き以外は、たいていの子はそう思ってるわ!」
 ああ、やっぱりそうなんだ。みんな、おねえちゃんよりは頭がいい。
「清里の療養所で美少年と語り合ったですってえ、そんな昭和の昔話みたいなこと、誰が信じられるっていうのよ。あんたたちも目を覚ましなさい!」
 委員長さんに一喝されて、取り巻きさんたちがざわめきだした。
 天音さんが言葉につまった。これはちょっとピンチかもしれない。
 見物してるぼくのそでが、おねえちゃんに引っぱられ、ぼくは細い路地に連れこまれた。
「助けたい……。」
 おねえちゃんが渋い顔でつぶやいた。
「ええ、本気なの? あれだけ振り回されたのに!」
「レイコってさ、たぶん、空想と現実がごっちゃになっちゃうところがあるんだよ。悪気はないんだよ。――たぶん。」
 最後はちょっと自信なさげに、おねえちゃんはいった。
「でも、助けるといったって、どうやって……。」
 その瞬間、ぼくの口から神聖な音声がもれだした。
「オーーーーン……、ナムナラヤ・ビデムヒ・ワスデワ・ディムヒ・タンノ・ビシュヌ(化身の神)・プラチョダヤット…………。」
 おねえちゃんの胸の”カウストゥバ”が光り、おねえちゃんのからだ全体が、うすい明かりに包まれながら変形していった。背が伸びて、髪が短くなり、足が長くなった。
 気がつくと、おねえちゃんは男の人になっていた。顔はおねえちゃんに似ているが、まちがいなく男の人だ。着ている服までも変わっている。さっぱりとした身なりの好青年だ。
「そうか。こういうことなのか。」
 おねえちゃんは、ちょっとハスキーな声を出し、自分の両手を見た。
「行ってくる。」
 路地を飛び出した青年姿のおねえちゃんは、まっしぐらに天音さんにむかった。
「レイコ、レイコじゃないか!」
「ふぇっ?」
 突然現れた好青年に、天音さんも委員長さんも取り巻きのみなさんも、あっけにとられた。
「ぼくだよ。軽井沢拓也だよ。何年ぶりかなあ。清里のサナトリウムで一緒だったじゃないか。」
 どっから思いついたのか、おねえちゃんは適当な名前をでっちあげた。
「ああ!」
 天音さんが絶妙のタイミングで、思い出したという顔をした。
「拓也さん! 懐かしいわ。私ずっとあなたのことを待っていたのよ!」
 アドリブでこの反応はすごい。この人は本当に役者になれる。
「レイコ!」
 おねえちゃんは、感激して天音さんに抱きついた。まわりから「キャーーーッ!」っていう声が上がる。天音さんの目があさってのほうをむいて、口だけ微笑んでいる。ちょっとこっけいな顔だ。
「ウッソーーー。」
 委員長さんが目を白黒させている。ここは切り上げどきだ。
「軽井沢さん。もう、みんな出発するところです!」
 ぼくは、乱入といった感じで中学生たちの中に入りこんだ。
「うっ、えっ……。」
 おねえちゃんがおどろいている。ぼくはたたみかけた。
「また、長野に帰るんじゃないですか。みんな待ってますよ。」
「そうか……いや、そうだった。レイコ。君のことは、このケンジくんに聞いたんだ。ぼくは帰らなければならない。」
 天音さんが、羽の生えた猫でも見るような目で、ぼくを見た。
「それじゃ、元気でね! 君のことは忘れない!」
 おねえちゃんは腕を直角に立てると、くるりとふりむいて、走り去った。みんながそっちに注目してるうちに、ぼくも後ずさりしながら、逃げ出したのだった。



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