桜の木の下で




 どのくらい時間がたったのだろう、冷たい暗やみの中でぼくは気がついた。からだが動かない。全身の力を使いはたしたみたいだ。
 ぼくの手をちいさな手がつかんでいるのを感じる。たぶんマリキットだ。顔を思い浮かべた。どんな時でも変わらない無愛想な顔だ。でもいまはその顔が見たい。このやみの中で、ぼくはマリキットとふたりきりなんだ。なぜだかそう思った。
 ポケットをさぐると、ペンライトがあった。小さな明かりをつけると、やっぱりマリキットだ。ぼくの腕にしがみついてきて、とてもあたたかかった。
 ここはどこだろう。まわりをてらしてみると、そう広くもない空洞の中にいるのがわかった。かべはコンクリートだ。下もコンクリートで中央に水が流れている。これは地下水道にちがいない。昔、小川だったところに、コンクリートのふたをして、上に木を植えて、ほそくて長い長い公園にしてあるのだ。世田谷にはそんな緑道がいくらでもある。
 とにかく出口をさがすために、気力を出してぼくらは歩いた。おねえちゃんはどこにいるのだろう。天音さんはどうなったんだろう。長いあいだ歩いたような気もするし、そうでもなかったかもしれない。暗がりの中で時間の感覚があいまいだった。
 ぼくらはやがて、コンクリートの台座のようなものを見つけた。台座の上のほうを照らしてみると、低い天井に金属の円盤があるのが見えた。これはたぶんマンホールだ。
 ぼくは台座と天井のあいだのせまい空間にからだを入れて、マンホールのふたを持ち上げようとした。だが、今のぼくの力ではびくともしない。
(おねえちゃんがいれば……)
 くやしがるぼくの腕をマリキットがつかんだ。そうだ。ここはひとりでなんとかしなくてはいけない。
 考えたのは、腕の力より足の力のほうが、強いのではないかということだ。ぼくは台座の上に寝そべり、足をひんまげて空間にもぐりこんだ。その足をマンホールのふたに当てて、力いっぱい足をのばしてみた。すると、マンホールのふたが持ち上がった。そのままふたの位置をずらすと、街灯の明かりが差しこんできた。外は夜だった。
 ふらふらと地上に出たぼくらの目の前に、黒い巨大な建物が見えた。高くそびえる二つの円柱には、王冠のようなかざりがついている。
「駒沢の給水塔だ。」
 駒沢の給水塔は、このあたりのかくれた名所だった。大正時代につくられた、何十メートルもの高さの、巨大な二基のコンクリートの塔だ。
 西洋の城みたいなふたつの塔は、人をよせつけない古風なきびしさを持って夜空の中に立っている。ぼくはあまりにも大きい塔を、ぼんやりと見あげた。
 塔のすすけた灰色のかべを見ているうちに、疲れ果てたぼくは猛然と眠くなってきた。草の上に腰をおろし、マリキットの気配を感じながら、ぼくはしだいに眠りのなかに入っていった。


 夢の中でおねえちゃんの姿が見える。
 暗やみの中で横たわったおねえちゃんの、”カウストゥバ”が、光りつづけている。
 おねえちゃん起きろ。
 ぼくは夢の中でさけんだ。
「うーん。」
 頭をふりふり、おねえちゃんが目をさました。
 そばに天音さんがいる。
「チャコ。ここはどこ?」
 ”カウストゥバ”のうっすらとした明かりのなかで、ふたりは立ち上がった。
「わかんない。どこか地下みたいなところだけど……。」
「いったいぜんたい、どうしたっていうのよ。これは!」
 天音さんは混乱した表情で、両手をふりまわして、おねえちゃんに問いただした。
 おねえちゃんは、ただひとこと、
「神の力。」と、
 ある意味、本当のことをいった。
「冗談はやめて!」
 天音さんは、さけんだ。
「おかしいわよ。私たち、あなたの家の二階にいたわけでしょ。それがなんで、こんな洞くつみたいなところで目が覚めるわけ?」
「あんた、神さまの存在を信じないの?」
「それは信じてるけど……。」
「だったら深く考えなくていーじゃん。それよりケンジたちをさがしましょ。」
 おねえちゃんたちは、”カウストゥバ”の明かりをたよりに歩きだした。天音さんはカウストゥバを見て、「懐中電灯にもなるペンダント」だと感心した。
 おねえちゃんたちはしばらく無言で歩いた。
 しかし、暗やみの中で女の子ふたりがいつまでも押しだまっていられない。
 先に口を開いたのは、おねえちゃんだった。
「レイコさ、ここを出たらどうする?」
「え?」
「マリキットを見つけて、そのあとよ。」
「それは、父のところに……。」
「外国に行っちゃうの?」
「わかんないわ。」
 ふたりはまた、だまりこんだ。
 しばらくしてこんどは天音さんから話しだした。
「ねえチャコ……。」
「うん?」
「本当はね。私の父は、もうもどってこないんじゃないかという気がするの。」
 やみの中で、おねえちゃんの心はぐらついた。
「なぜかっていうとね、こんなことをいうと、またウソだと思われるかもしれないけど、父は私たちが嫌いなんじゃないかと思うの。」
 もう一度、おねえちゃんの心は大きくぐらついた。
「マリキットはね、ほとんど父にかまってもらえなかったのよ。もちろん育ててはくれたけど、愛されていたかどうかはわからない。だからかしら、私はあの子を大切にしているの。あの子には私しかいないんだって、いつも思ってた。」
 おねえちゃんは、だまって聞くしかなかった。
「チャコ。マリキットにやさしくしてくれてありがとう。」
 おねえちゃんは何もいえない。
「私たち、ふたりきりでも生きていけると思う。」
 そこでことばがとぎれた。
 そのあとで、おねえちゃんが口を開いた。なぜそんなことをいったのか、後になってどうしてもわからなかったそうだ。
「そうそう、レイコ。あたし、いいそびれてたんだけどさ。きのう、ハギビスさんから電話があったんだよ。」
「えっ?」
「いつになるかわからないけど、必ずむかえに行くっていってた。」
「それ本当?」
「本当に決まってるじゃない。」
 おねえちゃんは、かなしそうに笑った。この時、おねえちゃんはたしかにウソをついたのだ。
 その直後、おねえちゃんの耳にハーモニカの音が聞こえてきた。
「聞こえる? レイコ。」
「なにが?」
 天音さんには聞こえなかった。
 ”カウストゥバ”はどんどん明るくなり、おねえちゃんには、音が聞こえる方向が、はっきりとひとつの道のように見えた。
「こっちだ!」
 おねえちゃんは、天音さんの手をひっぱって、反対方向に歩きだした。途中、地下水道が枝わかれしてるところがあったが、ハーモニカの『家路』の曲がおねえちゃんをみちびいた。
 やがてふたりは、あのマンホールの台座を見つけた。
「ケンジ!」
 穴からはいでた、おねえちゃんが、ぼくに駆け寄る。ぼくは夢の中で、眠っているぼくの姿を見た。
「ケンジ、ケンジ!」
 ゆさぶられながら、ぼくはぼくの中にもどっていった。
 ゆっくりと目をあけると、おねえちゃんが、必死な顔でぼくをゆり動かしていた。
「おねえちゃん……。」
「よかった、生きてた〜〜。」
 天音さんもマリキットに抱きついていた。
 ところがどうしたことか、マリキットはハーモニカを吹きつづけるのをやめない。何かにとりつかれたように吹きつづけた。『家路』の曲は一段と大きくなり、ものさびしく懐かしいメロディが、ふたつの給水塔のまわりを、上へ上へと渦をまくようにのぼっていった。
 ”カウストゥバ”はあたりの地面を照らしだし、おねえちゃんのからだは全身がうすいみどり色の光りでおおわれた。
「マリキット! どうしたのよ!」
 曲をふき続けるマリキットを天音さんがゆさぶった。
 彼女は気がつかなかっただろう。おねえちゃんのからだは宙に浮きだした。
 おねえちゃんが、ゆっくりと上昇していくにつれ、給水塔の上の王冠型のかざりが光りだした。あとで知ったのだが、あれはもともと光るように電球がとりつけられているのだそうだ。電気も流してないのに、二基の黒い円柱の、はるか上の頭の部分が、幻想的に光り輝いている。
 そして、夢の中でなつかしい人があらわれるように、暗がりの中から男の人があらわれた。ハギビスさんだった。
 マリキットがハーモニカを吹くのをやめた。そのとたん、給水塔の光はすべて消え、街灯の明かりだけになった。
「あら〜〜〜〜〜〜っ!」
 さけび声を上げて、おねえちゃんのからだが落下していくのが見えた。木の中につっこんだから、たぶんだいじょうぶだ。
「レイコ。マリキット。」
 ハギビスさんはゆっくりと近づいてきた。
 天音さんは、ぼうぜんと父親を見つめている。
 マリキットの顔が少しずつ、やがて力いっぱいうごいた。
「うわああああああん……。」
 表情をくずし、大きな声で泣き出したのだ。この子はちゃんと泣くことができるのだ。
 ハギビスさんは、ふたりに駆け寄って抱きしめた。天音さんは泣いていたし、マリキットの声はあたりにひびきわたった。
 おねえちゃんが腰をさすりさすりあらわれて、ハギビスさんに事情を聞いた。それによると、アパートに荷物を取りにきたら、なぜだかこっちに足がむかったのだそうだ。その前にぼくらの家に電話を入れたが、月波久子は不在だといわれたらしい。
「なんだか、ごたごたしてたようだよ。」
 ハギビスさんは首をひねる。
 おねえちゃんが電話をかけたとき通じなかったのは、すでに友人といっしょに引越しをしたあとだったかららしい。友だちとともに川口のほうで仕事が見つかったのだそうだ。
「職場がアパートを世話してくれたんだ。」
 ハギビスさんは、おねえちゃんにお礼をくりかえした。本当に申しわけないと頭を下げ、おねえちゃんは何度もハギビスさんをはげました。それを天音さんは、あたたかい、やさしげな目で見つめるのだった。
「とりあえず、ここから出ようよ。」
 照れかくしだったのだろうか、おねえちゃんはそう提案した。ここは柵の中にあり、ハギビスさんもどこから入ってきたかよく覚えてないらしい。そう高い柵でもないので乗りこえるのは簡単だ。
 桜が満開だった。街灯に照らされた夜桜の下で、ぼくらは別れることになった。
 マリキットは、もとのように無愛想な顔になっていたが、小さな手をぼくにさしだした。ぼくはその手をにぎって握手した。
 おねえちゃんと天音さんが、ぼくらを見て、ほほえんだ。
「おわかれなんだね……。」
 おねえちゃんがつぶやいた。
「チャコのこと、わすれないわ。」
 天音さんが、やさしくいった。
「また会お……」
 ふたりで同時に同じことをいいかけて、ふたりでくすりと笑った。
 それから天音さんとおねえちゃんは、いつかケータイを持つことになったら、メルアドを交換することをちかいあった。
「腹心の友だよ。」
「心の友よー。」
 おねえちゃんはふざけて笑ったが、天音さんはおねえちゃんに抱きついた。
 そして、おねえちゃんのほほに、そっとキスをして離れた。
 おねえちゃんは、びっくりして何もいわずに天音さんを見つめていた。
 いつまでも、いつまでも、おねえちゃんは見つめていた。
 桜の花びらがおねえちゃんの頭につもるころ、三人は去っていった。あとには、おねえちゃんとぼくがとりのこされた。
「帰ろうか。」
 おねえちゃんは桜を見あげた。



《《前へ章目次へ次へ 》》