脱出




「カギが必要だ。」
 ぼくはそういった。「かくれ家」はすでに安全じゃない。内側からかんぬきみたいなカギをとりつけておけば、いざというときに時間かせぎができるのじゃなかろうか。
 だが、いまのおねえちゃんは冷淡だった。
「あたし、お金ないよ。」
 それはぼくも同じだった。あれ以来、食事をくすねるのは、かなり難しくなってしまったので、ぼくらはコンビニやスーパーやお弁当屋さんで、天音さんたちの食事を手にいれていたのだ。おねえちゃんはもともとお金のない人だが、ぼくの貯金も残り少なかった。
「レイコたちにお金をださせたら?」
なんてことをおねえちゃんはいう。しかしぼくは反対だった。天音さんたちは、この先どうなるかわからないのだ。お金はできるだけ残しておいたほうがいい。
「家の道具箱になにかあったかもしれない。さがしてみるよ。」
「あっそ。」
 おねえちゃんは気のない返事だ。天音さんとの関係が徹底的に悪化しているのだ。それでもいちおう義理みたいに食事をはこんでいるが、おねえちゃんはもう、つかれはてて、どうでもよくなっているようにみえる。
 ぼくは、家の物置にある、大工道具などが入った箱の中に、かんぬき型のカギがあるのを見つけた。古いものだがないよりはましだろう。
 部屋にかえってみると、おねえちゃんがぼくのパソコンを立ち上げている。
「なにやってんの? おねえちゃん。」
「ハギビスさんにわたした紙に、ここのメルアドも書いたでしょう。もしかして、メールが来てるんじゃないかと思ってさ。」
「ああ。きのうまでチェックしてたけど、それらしいメールはなかったよ。」
「今日もないみたいだね。」
 そういって、おねえちゃんはため息をついた。いったいこの状態は、いつまで続くんだろうと思っているのだ。
 その時ぼくは、あのことばを思いだした。
「バランガイ・ルンバンって、おぼえてる?」
「レイコの日記にあった夢の国とやらでしょ?」
 おねえちゃんは、完全に空想の国だと思っている。
「調べてみるよ。」
 やがて検索画面が出てきた。

『一九四五年(昭和二十年)二月から三月にかけて、旧日本軍はフィリピンのバタンガス地方で一万三千人もの住民を殺害した……』

 ――? なんだろう?

『すでに日本の敗色は決定的で、米軍の攻撃によって敗走に敗走を重ねていた。日本軍司令官は米軍に通報するフィリピン人ゲリラを恐れ、ゲリラ殲滅の命令を下した。しかし、ゲリラと一般住民の区別などつくはずもなく、日本軍は通過する村々で、老若男女を問わず、あらゆる住民を殺害してまわった。』

 ――これは半世紀以上むかしの記録だ。日本がアメリカやイギリスや中国などを相手に戦争をしていた時代だ。アジア全体が戦場になって、各地でぼうだいな犠牲者が出た時代だ。もちろん、日本は戦争にまけて焼け野原になったのだ。それは知っているが、日本軍がフィリピンの住人を殺していたなんて話は聞いたこともない。

『多くの人びとは一ヶ所に集められ、銃剣で突き殺すなどして谷川に投げこまれた。惨劇にあった村の中でも”バランガイ・ルンバン”の犠牲は特にひどく、千六百人の住民のほとんどが殺害された……』

 ――これは本当のことなのか? ネットの情報はウソが多い。しかし、本当だとしたら……。
「おねえちゃん!」
 すぐよこで、おねえちゃんも画面をにらんでいた。
「ケンジ、本当なの? これ。」
「わかんないよ。けど、本当だとしたら……。」
 本当だとしたら、ハギビスさんはこの村の出身ということになる。戦争中日本人にほとんど皆殺しにされた村の人だ。何十年たっても、日本人に対するうらみは、語り伝えられて消えないだろう。そんな人がどういう事情か、日本に出稼ぎにきて、日本人女性と結婚して子どもが生まれたのだ。
「ハギビスさん、もどってくるんだろうか?」
 ぼくが疑問を口にすると、おねえちゃんは飛ぶように階下に下りていき、しばらくしてかえってきた。
「電話が通じない。」
 ハギビスさんの連絡先の電話が不通になっていたのだ。本当の連絡先なのか、考えたくないことだが、デタラメの番号をおねえちゃんにわたしたのか。
 どうなってしまうんだろう。ハギビスさんは、このまま天音さんたちを置き去りにして、どこかへ行ってしまったのだろうか。
 おねえちゃんとぼくは、もう一度、バランガイ・ルンバンについての記事を読みかえした。
『”バランガイ・ルンバン”の犠牲は特にひどく、千六百人の住民のほとんどが殺害された……』
 ぼくらは考えこんでしまった。
「とにかく、カギをつけよっ!」
 おねえちゃんが、あたまをふりふりいった。考えたくないことを考えるのは、おねえちゃんの性に合わない。
 「かくれ家」に入ったぼくは、危険だから念のためとだけいって、かんぬきの取りつけ作業にかかった。日は傾いていたし、部屋のあかりはランプだけだったから手もとが暗い。ぼくは、ペンライトを口にくわえながら、作業をつづけた。
 それでも背中に、おねえちゃんと天音さんたちの気配は感じていた。
「なんか、あぶないことでもあるの? ベッキー。」
「う……、まあね。」
 おねえちゃんは、ベッキーとよばれても怒りもしなかった。
「なんだかへんよ、チャコ。かくしてることでもあるんじゃないの?」
「な、なにもないよ……。」
 おねえちゃんの声はうわずっている。
 カギのとりつけはすぐに終わった。ねじクギで固定しただけのチャチなものだ。ふりかえると、天音さんがおねえちゃんの顔をのぞきこんでいるのが見えた。
「どうして目をそらすのよ。」
「べつに……。あたしって、ほら、シャイだから。」
「およそあなたに似合わないことばよ。」
 おねえちゃんは、天音さんに自分の表情を見せたくないようだ。まだ何もわかっているわけでもないのに、最悪の状況を考えてしまうのだろう。
 天音さんの視線をさけて、窓の外をながめていたおねえちゃんがつぶやいた。
「あれは……なに?」
 家の前の路地の先に、黒っぽいバンが停まっていた。電信柱のかげに、ケータイを持ったあやしい男が、しきりとだれかと話している。車のほうから、四、五人の男がわらわらと飛び出して、門から中に入ってきた。
 ぼくたちは顔を見合わせた。
 続いて、階段を乱暴に駆け上がってくる音が聞こえた。
「そこです! そこ、本だなのうらだ。」
 おじいさんの声がして、何かを動かす気配がした。
「あったぞ、ドアだ。」
 ガチャガチャとノブをまわす音が聞こえた。マリキットが天音さんのそでをつかんだ。
 ドアをたたく音がした。
「入国管理局の者だ。ドアを開けなさい!」
 ドアをたたく音はしだいにはげしくなる。
「ちい、バレたか。ケンジ! マリキットをつれて、ベッドの下にかくれなさい。」
「どうするのよ、チャコ?」
「戦うのよ! 戦って、スキを見て逃げるのよ!」
「チャコ……。」
 おねえちゃんと天音さんは、緊張して身がまえた。
「ドアをぶちやぶってくれ! わしが許可します。」
 また、おじいさんの声だ。
 ドアに体当たりする音がした。
 震動がひびいたが、ドアは無事だ。おねえちゃんがぼくを見た。
「つかまったらガス室に入れられたりするのかな。」
 もう一度ドアに体当たりする音がして、かんぬきがこわれた。
 おねえちゃんは決死の顔をした。次の一撃で、男たちがなだれこんでくるだろう。
「オーーーーーーーーーーーーーーン……。」
 その時、ぼくの口からあの神聖な音声がもれた。
「ナマッシヴァーヤ・マハーカーラ(大黒天)・スヴァーハー!」
 おねえちゃんの胸の”カウストゥバ”が緑色に光った。光はおねえちゃんの全身にうつり、一瞬、床がぬけたような感覚におそわれた。
 落ちる、みんな落ちる。おねえちゃんも天音さんもマリキットも、そしてぼくも、暗黒の地下へ、どこまでも続くふかい地下へ落下していった。神の声だろうか、大きくてはげしい、ぶきみな笑い声が聞こえた。



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