広がる疑惑




 桜の花が八分咲きになっても、おねえちゃんと天音さんはまだケンカしていた。
 やれ、レンタル屋でCDを借りてこいだの、おやつのケーキは高井堂にかぎるだの、一つ一つはくだらないことだ。しかし、つまんないことでもストレスがたまるとシャレにならない。そういえば、おねえちゃんの服を、天音さんが勝手に着たなんてこともあった。おねえちゃんは怒ったが、天音さんのほうが着こなしがいいのは明白なので、おねえちゃんのプライドは傷ついた。
 ぼくはそういう争いはさけて、自室のパソコンをネットにつなぎ、外国人のことをあれこれとしらべていた。
 ハギビスさんは不法滞在だそうだ。不法滞在というのは、国が許可した期間を過ぎても日本にとどまっていることで、これは立派な犯罪だ。つかまったら、普通の監獄とはちがうらしいが、とにかくろうやに入れられる。
 しかし、ハギビスさんは日本人の妻と結婚している。日本に住んでもよさそうなものだが、それでも不法滞在なのは変わらないのだそうだ。住み続けるには特別の許可がいる。ここでややこしいのは、奥さんがどこかへ出て行ってしまったことだ。それでも許可がもらえるんだろうか。
 天音さんのことを考えると、天音レイコの天音はお母さんの姓なんだろう。母親が日本人なんだから、天音さんは日本の国籍を持つことになる。もちろん日本に住める。
 マリキットになると、もっと複雑だ。母親は日本人らしいが、届けも出さずに出て行ったとなると、それを証明できるだろうか? どうにもわからない。
 ハギビスさんは日本人の子どもを育てているわけだから、日本に住み続ける特別な許可をもらえる可能性がある。ところが、許可をもらいに行って、そのままつかまっちゃった人も多いらしい。おいそれと役所に行くわけにもいかないのだ。
 そんなわけで、この一家はどうなっちゃうのか、調べてもぼくにはさっぱりわからないのだった。
 ぼくが頭を左右にふっていると、ノックもせずにドアが開いた。
「ケンジ! マリキット来てない!」
 ケンカしてるはずの、おねえちゃんと天音さんが、そろって青い顔をして部屋に飛びこんできた。
 マリキットが行方不明になったのだ。天音さんがトイレのために「かくれ家」を出たあとで、どこかに行ったらしい。
「茶室にはいなかったの?」
「いないの。二階にはどこにもいない。」
 広びろとした茶室にはかくれるところなんてどこにもない。
「すると一階にいるんだろうか。まずいよ、おねえちゃん。」
「あんたがちゃんとつないでおかないからよ。」
「犬といっしょにしないで!」
 ぼくらがいい合っていると、あの、ハーモニカの音が聞こえてきた。
「『家路』だ。」
「ドザルヴォークの……。」
「ドヴォルザークだよ。おねえちゃん。」
「マリキット!」
 マリキットは庭にいた。入り口の門の上に腰かけて、夕日をあびながらハーモニカをふいているのが見える。
「連れもどさなきゃ。」
「しかし、どうやって?」
 その時、一階の玄関が開いたらしく、だれかでてきた。あのうしろすがたは、よりによっておじいさんだ。ぼくらは息をのんだ。
「こりゃっ! うちの門に腰かけるな!」
 ハーモニカの音がやんだ。マリキットがゆっくりとこちらをむいた。おじいさんはマリキットの顔を、じいーっと、無遠慮にのぞきこんだ。
「おまえ、日本人じゃないな。どこの子だ? うちはどこだ?」
 マリキットはゆっくりとこちらを指さした。あわててぼくらは窓の下にかくれた。
「馬鹿をいうな。あれはわしのうちだ。へんな子どもだわい。とにかく、ここから立ちされ。シッシッ!」
 おじいさんは、犬でも追いはらうようにマリキットを門からどかせた。
 しばらくがまんの時間がつづいた。おじいさんが家に入って外を見てないことが確認できないと、動くわけにはいかない。やがて一階でおじいさんの気配がした。どうやらだいじょうぶだ。
「行くよ、ケンジ!」
 おねえちゃんは、音をたてずにすばやく階段をおりた。ぼくは必死でついていった。風のように玄関をとおりぬけ、そとに出ると、コンビニのそばでマリキットがゆらゆらと歩いていた。
「マリキット!」
 おねえちゃんが、マリキットの肩をつかむと、マリキットのほうもおねえちゃんの服にしがみついた。表情がまったく変わらないのだが、これはよろこんでいるのだろうか?
 問題はどうやって家にもどるかだ。おねえちゃんがひとりで門のところまで行って、だれか見てないか確認した。注意すべきは通行人じゃない。近所の人やぼくらの家族、とくにおじいさんだ。
 合図を見てから、ぼくはマリキットを連れて、すばやく玄関にたどりついた。そのまま静かにとびらを開ける。オーケー、だいじょうぶだ。例によってぬき足さし足で階段をのぼろうとしたとき、ぼくは心臓が止まりそうになった。寝室にいたおじいさんと目が合ったからだ。
 ほんの一瞬だったが、おじいさんはびっくりした顔をしている。ぼくはそのままスローモーションで階段をのぼった。登りきり、「かくれ家」に入ってから、いまあったことをおねえちゃんに話した。
「あんたもなの?」
 おねえちゃんのほうも、失敗したという顔をしている。やはり階段の登り口で、台所のお母さんにすがたをみられたというのだ。これは大変なことになってしまった。ただではすまないだろう。
 夕食の時間は奇妙なふんいきだった。
 パパはひとりで陽気にしゃべりまくり、おやじギャグを連発しては台所を沈黙させた。おじいさんもお母さんもなにもいわないのが、かえって不気味だった。
 食事のあとで、それとなくおじいさんを観察していると、和室のほうで、なにやら図面らしきものとにらめっこしている。
 そこへパパが通りかかった。
「なに、やってるんです?」
「おい、この家になにか、かくし部屋みたいなものはなかったか?」
「まさか、そんな。」
 パパは笑いだしたが、おじいさんはあくまで真剣な顔だ。あれはきっとこの家の図面なのだろう。おじいさんはにらんだままだ。
「外人の子どもというのは、みにくいもんだな。」
「は?」
 パパが不思議そうな顔をした。
 ぼくは不安にたえられなくなり、二階へあがった。するとお母さんの声が聞こえてきた。
「へんだへんだと思ってたのよ。」
 ついにばれたのだ。食べものをかくし持って階段を上がったおねえちゃんが、お母さんにつかまってしまったのだ。おねえちゃんは手に、パンやタッパーやペットボトルを持ったまま、お母さんの追及をうけている。
「ケンジ。あんたもいらっしゃい。」
 お母さんは静かに、そしてきびしい口調でぼくに命令した。ぼくらはならんで、お母さんの取調べを受けることになった。
「いったい、この食べものをどうするつもりなの? 答えなさい、チャコ!」
 おねえちゃんは、ひたすら首をすくめて何もいわない。
 時間だけがたっていく。ぼくはもう、このまますべてをお母さんに話してしまおうかと思った。お母さんなら事情を話せば、許してくれるかもしれない。お母さんはおじいさんとはちがう。味方になってくれるんじゃないだろうか? ぼくのあたまはぐるぐるとまわった。
「あなたがたが、自分でいってくれるのを期待したんだけど……。」
 お母さんはかぶりをふった。
「こうなっては仕方がないわね。」
 お母さんは、おねえちゃんの部屋のドアを開けて中にはいった。しばらく考えてから、クローゼットやベッドの下をのぞきこんだが、だれもいない。
 お母さんは首をひねり、こんどはぼくの部屋にはいった。やはりあちこち調べたが何もない。ただ、ベッドの下をのぞかれたときはひやりとした。『少年少女世界文学全集』の中身を押しこんであるのだ。それがなんなのかも気づかず、お母さんはいらない本は捨てなさいとだけいった。
 茶室のほうを開けてみても、もちろんだれもいない。お母さんの顔に迷いの色が出てきた。それをおねえちゃんは見逃さなかった。
「ごめん、お母さん。あたしらしくないんでだまってたの。実は毎晩、夜中に起きて勉強してるんだ。おなかがすくから夜食を用意してたのよ。」
「勉強? あんたが?」
 お母さんは疑わしい顔をした。
「そりゃあ、いつも、ひっどい成績だけど、あたしだって恥ずかしいとは思ってたんだよ。ちゃんと高校にも行きたいし、」
 半信半疑といった顔でお母さんは、おねえちゃんの顔を見つめていたが、急に思い出したようにいった。
「それじゃあ、昼間いた女の子はだれなのよ。あの子は何ものなの?」
 やはり見られていたか。もうだめだ。ごまかしようがない。
「ああ。あの子ならケンジの友だちの子よ。」
 ええっ? おねえちゃん、なんてでたらめを。
「本当なの? ケンジ。」
 お母さんが、ほこ先をこっちへむけた。きびしい目でぼくをにらんでいる。ぼくのあたまはまたぐるぐるとまわったが、口のほうは意外に平静に答えた。
「うん……。友だちの妹なんだ。今日は用事があるから、ちょっとあずかってくれって、いわれて、それで……。」
 お母さんは複雑な顔をした。信じてるような信じてないような、不思議な顔だ。
「まあ、いいわ。今日のところは。」
 そういって、お母さんは階段をおりていった。
 ぼくは悲しかった。この一週間で一生ぶんのウソをついたような気がする。決して気分のいいものじゃない。ウソをつくとあの世でえんまさまに舌をぬかれるという、小さいころに聞かされた話が頭をよぎった。
 おねえちゃんもつかれた顔をして階段の下をのぞいていた。そして、お母さんがおくの部屋に行ってしまったことを確認してから、「かくれ家」のとびらを開けた。
「おそいわよ、ベッキー。」
 天音さんが、からかうような口調でいった。
「いろいろあったのよ。」
 おねえちゃんはつかれはてている。
「聞こえてたわよ。もうちょっとうまい言いわけが思いつかなかったの? 夜中に勉強してたなんて、およそレベルの低いごまかしかただわ。」
 天音さんがけらけらと笑ったので、おねえちゃんは怒って部屋を飛びだしてしまった。
「なに、怒ってんのかしら。」
 天音さんはきょとんとしている。
 ぼくはひと言いいたくなった。
「おねえちゃんは、天音さんたちのために、つきたくもないウソをついてるんだよ。そこは察してあげたっていいと思うよ。」
「それがどうしたっていうのよ。」
 天音さんはプイとよこをむいた。
「ウソがばれたところで、こまるのはあなたたちじゃないわ。私たちよ。あなたたちのウソなんて、しょせんは子どもらしいむじゃきなウソで許されるだけよ。私たちはそうはいかないわ。」
 もっともな話なので、ぼくは何もいえなかった。思えば天音さんは、ずっと自分と自分の家族を守るためにウソをつき続けてきたのだ。そりゃあ、楽しんでついたウソもあっただろうが、ウソをつくのは天音さんの生活の一部になってしまっていたのではなかろうか。
「この部屋を出たら……。」
 天音さんは窓の外を見ながら、夢みるようにつぶやいた。
「お父さんのふるさとにいくのよ。」
 ふるさとというと、日記にあった……。
「バランガイ・ルンバンのお屋敷に……。」
 いいかけて、天音さんはだまってしまった。
 バランガイ・ルンバン――このことばが、ぼくのあたまに残った。お屋敷は天音さんの想像の産物としても、バランガイ・ルンバンは実在の地名ではないだろうか。



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