天音の日記




 桜の花が、あちらの木こちらの木とふえてきた。気温もだんだん上がっている。世間の人びともなんとなくウキウキと楽しそうで、こころのなかはもう春だ。しかし、「かくれ家」のほうでは、おねえちゃんと天音さんの仲が険悪になっていった。
 きっかけはというと、天音さんがこういったからだ。
「ねえ、ベッキー。なんだか部屋にほこりがたまってきたわ。そうじしてくれないかしら。」
 いきりたつおねえちゃんをおさえて、ぼくは一階から掃除機を持ってきた。天音さんたちにはぼくの部屋にうつってもらい、ぼくらはそうじをはじめた。
「これなんだ?」
 おねえちゃんが一冊のノートを手にしている。
「どこにあったのさ。」
「ベッドのまくらの下。」
 おねえちゃんは平然といった。
「まずいよおねえちゃん。プライバシーの侵害になるよ。」
「なあにがプライバシーよ。あたしらにそうじをさせといて。見てやる見てやる。」
 おねえちゃんはノートをパラパラとめくった。
「うはは。これ日記だよ。おもしろー。」
 ますますまずい。
 だが、最初はにやにや読んでいたおねえちゃんの表情が変わり、しだいにけわしくなってきた。あきらかに怒っている。
「あんのヤロー。」
「どうしたのさ。」
「ケンジ。これ読みなさい。」
「えっ、いいよ。」
「読めったら読め!」
 おねえちゃんに強引に押しつけられて、ぼくは日記を読んだ。


○月×日
 くだらない人が多かったけれど、こんな状況になってしまうと、たいていの人は懐かしく思い出されます。来学期は会うことはないと思うから。
 でもエリは……まあ、あの子も悪い子じゃないのよね。ただちょっと下品なだけなのよ。サクラは、もっと勉強したほうがいいわ。好かれる性格じゃないから、頭だけはよくないと。シオリってアイドルにしか興味ないのよね。そのままだと馬鹿だと思われるわよ。ミサキはかわいい子だわ。私のあとをついて歩いてたけど、自分ひとりで何かできることがあるのかしら。ハルカは田舎くさいわね。英語までなまることはないんじゃない?
 テツヤは足がはやいだけがとりえの子ね。ラブレターは面白かったけど幼稚な文章だわ。ミノルは中学生にもなってアニメばっかり見てるオタクね。私はいいけどみんなはキモいっていってる。アツシは気が弱くて、私のそばでうろうろしてたっけ。好きなら好きっていえばいいのに。ユウキは便利な子よね。いろんなことを知っている。でも、ただそれだけよ。コウタロウはおっかしいの。あんなでっかいからだして、耳まで真っ赤になって、好きですなんて。ごめんなさい、私の趣味じゃないわ。
 みんなみんなさようなら。もう会うこともないでしょう。神さまのおめぐみがありますように。

○月×日
 かくれ家での生活は単調でつまらないものです。ベッキーは食事をはこんできてくれるけど、おせじにもおいしいとはいえません。あ、ベッキーは本当はチャコっていいます。私が勝手にベッキーってよんでるの。このかくれ家につれてきた子だけど、同時に私たちが自分の家を追い出された原因をつくった子。
 それにしてもチャコって単純ね。怒らせようとすると簡単に怒るんだもの、あんなあつかいやすい人はいないわ。顔はケバいし、変なアクセやコスメで身をかためているのは、ひょっとして自分に自信がないのかしら。うーん。チャコは頭がわるいから、そのせいよきっと。その場のいきおいで行動するのは見てて面白いけど、ケンジ君を虐待するのはよしたほうがいいわ。
 あ、ケンジ君というのはチャコの弟です。けっこうかわいい子。頭もよさそうだし、ほんとうにきょうだいなのかしら。でも、ちょっとオタクが入ってるところがあるから、将来が心配です。
 ああ、マリキットも私も、このせまいところからはやく解放されて、お父さまのバランガイ・ルンバンのお屋敷に行きたいものだわ。その日を信じて耐えましょう。神さまのおめぐみがありますように。

○月×日
 バランガイ・ルンバンのお屋敷についてあれこれと考えてみます。そこは広い広いお屋敷で、ベッキーみたいな召し使いが何人も働いているの。庭には大きな池があって、浮いているハスの葉の上でカエルが鳴くの。大きな家をヤシの木がとりまいて、涼しい木かげが窓の上をゆれているんだわ。
 あっ、ベッキーがきたみたい。ちょっと中断。

 ベッキーったら、雑誌のクイズの答えを教えてくれだって。馬鹿みたい。だってあんまり簡単な問題なんだもの。当選すれば一万円当たるらしいけど、正解者ばっかりで絶対当たらないわ。それでもうれしそうにハガキを書いてるのが単純というか欲の皮がつっぱってるというか……。
 ああ、悪口はよしましょう。マリキットと私によくしてくれているのは事実なのだから。多少の人間的欠陥には目をつぶるべきだわ。そういえばこの部屋もほこりっぽくなってきたわね。ベッキーにたのんでそうじしてもらいましょう。


「どう思う?」
 おねえちゃんは悪鬼のごとき形相でぼくにせまった。
「うーん。」
 こまってしまった。しんらつというか的確というかなんというか。ただ、ちょっと気になることがあった。
「バランガイ・ルンバンってなんだろう。」
「どうせまた、てきとうに夢みたいなこと書いてるんだよ!」
 おねえちゃんは鼻から息をふきだした。
「どうしてくれよう!」
 ぼくは必死で止めたのだ。だけどおねえちゃんは、日記の上にあれこれとらくがきしてしまった。こんなぐあいだ。


 ばーか、ぶーす、調子こいてんじゃないぞ。あたしが食べものをはこんでこなかったら、あんた飢え死にだぞー。文句をいえる立場か、よーく考えろ! チャコより。


 その日、そうじが終わったあと、夕食をはこんでいったときの「かくれ家」の空気たるや、それまでで最悪のものだった。
 日記のことこそ口にしなかったけど、天音さんは冷たくそっぽをむいていた。おねえちゃんもだまりこくって、ふたりは目に見えない火花をちらしているようだった。
 夜、お風呂に入れるために、おねえちゃんは天音さんたちを無言でつれだした。ぼくは最後にのこって「かくれ家」のとびらをかくそうとしていたが、ふと中をのぞくと、出窓にノートが置いてあるのに気がついた。見ると、読んでくださいとばかりに開いて置いてある。こんなことが書いてあった。


 あらベッキー、この日記を読んでくれてうれしいわ。あなたには本当に感謝してるのよ。文章ならいいにくいこともいえるわね。実はいままであなたにいえなかったことがあるの。あたし、あたし、マンゴーが食べたいの。買ってきてくださる? 腹心の友セーラより。


 天音さんもいい根性をしている。どうしたものか迷ったが、ぼくはノートをおねえちゃんに見せることにした。
「○×〜□×○!!〜〜××□○!」
 おねえちゃんは更衣室で、声を出さずに怒りまくっている。
 しばらくゼーハーいっていたが、ぼくにえんぴつを要求してこんなことを書いた。


 ゼータクいうなアホ! てめーなんぞリンゴのしんとかミカンの皮でじゅうぶんじゃ! マンゴーだとお、ここを出てから腹いっぱい食え!


 ぼくは日記をもとの場所に置いたが、これはどうなるんだろう。
 つぎの日に、ぼくがおつかいから帰ってくると、なんとぼくの部屋のつくえの上に、問題の日記が置いてあった。


 いやあね、ベッキー。あなたにそんなことをいう資格なんてないことよ。だってあなたのせいで、私たち姉妹はこんなことになったんですもの。毎日毎日せまい部屋にとじこめられて、楽しみといったら食べることだけ。みんなあなたのせいなのよ。ちょっとした幸せをわけてくれてもいいと思うわ。きっと神さまもよろこんで、罪をゆるしてくださるわよ。


 おねえちゃんに見せると、これはもう怒り爆発寸前といった感じだったのだが、ぼくはなだめた。
「まあ、おねえちゃん。天音さんのいうことにも一理あるんだから、なんとかしようよ。」
 おねえちゃんは、ふーふーと深呼吸して怒りをおさめた。
「とりあえず、お母さんに当たってみる。」
 気がすすまないようすで行動を開始した。
 お母さんにマンゴーの話をすると、意外なことに買ってきてもいいことになった。パパがそばにいて、自分も食べたいといいだしたからだ。おねえちゃんとぼくは自転車をとばして、高級スーパーに行ってマンゴーを買ってきた。家にもどると、ぼくたちは自室で食べるからとウソをついて一個確保した。もちろん「かくれ家」へ持っていくのだ。
 天音さんは大満足だった。
 なれた手つきで皮をむき、たてに三つにスライスすると、一つをマリキットにやった。表情を変えないマリキットも、こころなしかおいしそうによろこんで食べている。天音さんはもう一つを食べながら、ほう……っと息をついた。
「やっぱりおいしいわ。いつも食べられるといいのにね。」
 上品にほほえんだ天音さんにくらべ、おねえちゃんのほうはちょっと品がなかった。ふたりが食べるのをよだれをこらえながら、じっと見ている。
「あたしにもちょうだいよ。」
 がまんできずにおねえちゃんがいった。
「あら、まだ食べてなかったの?」
「ホントはあたしたちの分なのよ、それ!」
 ほとんど悲鳴みたいな声だ。
「ごめんなさい。食べおわっちゃったわ。」
「まだあるじゃない!」
 いじきたないおねえちゃんは、テーブルの上にのこったもう一つのスライスを指さした。
「それはだめよ。ベッキー。」
「だれがベッキーだ!」
 おねえちゃんはのこったマンゴーにかじりついたが、へんな顔をした。
「それは種なのよ。でも少しは食べるところがあるから、どうぞ。」
 そういって天音さんは鈴のなるような声でころころと笑った。
 ここでぼくは重大なミスを犯した。つられてちょっと笑ってしまったのだ。おねえちゃんは見逃さなかった。
「ちょっと、ケンジ! あんたどっちの味方なのよ!」
 これはこまった。そんなことをいわれても……。すると天音さんがフォローするつもりで火に油をそそいだ。
「あらあ、ケンジ君をこまらせるもんじゃないわ。彼にも立場ってものがあるもの。内心でどう思おうと、こわい姉には逆らえないものよ。」
「ちょっと何よそれ、あたしが無理矢理ケンジにいうことをきかせてるみたいじゃない。」
「ちがうのかしら?」
「ちがうよ! あんたこそ、へんな色気でケンジをたぶらかさないでよ。」
「私はケンジ君が気に入ってるの。」
「ぬけぬけと! ケンジ! どっちか選びなさい!」
「ホントのこといってみたら? 私が好きだって。」
「うそよ! あたしよね。」
 ぼくは頭をかかえてしまった。マリキットがあきれたように見上げている。とにかくあとがこわいので、うなだれたままおねえちゃんのほうを指さした。
「やった……。」
 おねえちゃんがよろこびの声をあげかけたとき、天音さんがぽつりといった。
「私のハダカを見たくせに……。」
 うつむいてすこし赤くなっている。
 おねえちゃんが爆発した。
「あんた、なんてことを! 逃げるなケンジ!」
 これ以上その場にいられない。ぼくは一階に逃げおりた。
 階段をおりて居間にかけこむと、台所のほうからお母さんとパパの声がきこえてきた。
「最近、食べものがよく無くなるのよね。どういうことかしら。」
「うーん。ひょっとして……。」
「なにか思い当たるの?」
「ほら、子どものころ、やったじゃないか。犬とか猫とかこっそりと飼ったりして。」
「わしゃ絶対、ゆるさんぞ!」
 おじいさんの声だ。
「おとうさま。まだそうだと決まったわけじゃありませんよ。」
「そうだよ父さん。子どもたちに聞いてみないと。」
「なら、おまえたちが追及しろ。かならず吐かせるんだ。」
「そんな頭ごなしに……。」
「手ぬるい! おまえらの教育はなっとらん。」
 おじいさんは怒りまくっている。
 ぼくはあわてて二階にかけもどり、「かくれ家」にいたおねえちゃんたちに事情を説明した。天音さんたちには絶対に音をたてないように指示してから、おねえちゃんもぼくも自室にこもり、勉強しているふりをした。
 五分ほどしてから、ドアをノックする音がした。
「ケンジ。ちょっといいか?」
 パパだ。ぼくはろうかに出た。
 見ると、おねえちゃんも、お母さんに連れ出されてろうかに出ていた。おじいさんもいて、するどい目で、しきりに周囲に目をくばっている。
 おねえちゃんとぼくは、ならんで質問をうけた。パパがせきばらいをした。
「君たち。何かかくしてることはないか?」
 じっと、ぼくたちの目をみつめる。
 おねえちゃんもぼくも沈黙してしまった。これはまずいと思った。だまっているのは、かくしごとを認めることになる。
 やがておねえちゃんは、なんだかからだをくねらせるようにしていった。
「かくしてるっていうか、あたしいままで、いおうとしてもいえなかったことがあるの……。」
 おねえちゃんは、ぽつりぽつりと語りだした。おねえちゃん、まさか。
「とってもいいにくいんだけど……。」
 おねえちゃん!
「パパ、太ったね。」
 そういわれたパパは、あんぐりと口をあけた。
「間食って太るんだよ。健康にもよくないし。大事なからだなんだから……。」
 パパはあうあうと口を動かしているが声にならない。お母さんは横目で冷ややかにパパを見た。
 さすがはおねえちゃん。たいした高等テクニックだ。これでお母さんは、無くなった食べものは、パパが間食したのだろうと思ったにちがいない。パパにはとっても気のどくだし、正直いって、ウソをつくのは気分のいいもんじゃない。しかしこれはしょうがないことだと、ぼくは自分を納得させた。
 それにしても気になるのはおじいさんだ。おねえちゃんとパパの、このやりとりのあいだ、じいーっと本だなを見て、何ごとか考えこんでいる。ぼくの胸に不吉な予感がひろがった。



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