秘密の生活




 やがて春休みに入り、ぼくらにとって奇妙な、本当に奇妙な日課が始まった。
 二階にも小さな洗面所とトイレがあるので、とりあえず朝はそこで用をすませてもらう。したがって最初の問題は朝食をどうするかということになる。
 おねえちゃんは、毎朝パンと牛乳をくすねるのが仕事になってしまった。異様な減り方にお母さんが疑問をもった。
「なんだかすごくパンが減るのよ。二倍はやく減ってるわ。」
「それはもう、食べざかりなの。あたしー。」
「以前はダイエットとかいってたのにねえ。」
「健康が一番だってわかったの。えへへ。」
 こうして苦労してはこんだ食事も、天音さんには不評だった。
「クロワッサンとベーコンエッグが食べたーい。」
「無茶いわないでよ。これだって苦労してんだから。」
「ああ、私はとらわれのお姫様みたい。白馬の騎士はあらわれるのかしら。」
「ベーコンエッグを持って?」
「そうよ!」
 朝食が終わり、パパやお母さんが仕事に出かけると、おじいさんがテレビの時代劇を見る時間になる。
 この時間を使って、少しはからだを動かしたほうがいいということで、体操をすることにした。この謎の部屋――「かくれ家」とよぶ――は、石づくりのため震動がつたわらない。天音さんの発案でヒップホップダンスをした。ごく静かに音楽をかけてみんなで踊るのだ。ぼくもむりやり踊らされたが、おねえちゃんに「タコおどり」とよばれてしまった。
 昼はお母さんがパートに出たままなので、家にはおじいさんしかいない。この時は、お母さんが作りおきしてくれたおかずを、どうどうとくすねてくる。
 午後、天音さんはマリキットに絵本を読んできかせる。
「セーラはいいました。
『まあ。ねずみのメルキセデリが子どもたちをつれてきたわ。』
 そうです。かわいらしい子どもたちが、ちょろちょろと出てきたのです。
 そのとき、こつこつとかべをたたく音がしました。
『あら、ベッキーがよんでるわ。』
 召し使いのベッキーは、いつもセーラの心配をしているのです。
『ああ、セーラお嬢さま。おさびしくはありませんか。』
 ベッキーは、セーラのために泣いていました。
 セーラもこつこつとかべをたたきました。
『安心してベッキー。わたしにはメルキセデリがいるからさびしくないわ。』
 セーラはそう伝えたかったのです。
 でも、召し使いのベッキーはセーラが気のどくでなりませんでした。
『お気のどくなセーラお嬢さま。ベッキーはいつでもあなたさまの味方でございます。』
 ベッキーは心からセーラをしたっていたのです。」
 聞きながらおねえちゃんは、ぼりぼりと頭をかいた。
「なんなのよ。あれは。」
 わからないらしい。
「小公女だよ。おねえちゃん。」
「うえーっ、あの、金持ちがビンボーになって屋根裏部屋にすむという……。」
 うるさいわねえ、と天音さんがいった。
「お茶でも持ってきてよ、ベッキー。」
「だれがベッキーよ!」
 マリキットがねむってしまうと、それぞれの部屋に分かれて勉強することになる。そういうたてまえだが、おねえちゃんはマンガでも読んでるんだろう。
 夕方、家族全員がそろうこの時間は、かなりあぶない。夕食をくすねるのはひと苦労だ。ひと通り食事がおわったあと、おねえちゃんは洗いものを手伝う。最初のうちはお母さんがたまげた。
「あ、あ、あんたが自分からお手伝いするなんて、どうしたの? 熱でもあるの?」
 この世の終わりでもきたようなおどろきかただった。
 とにかく、さっさとかたづけを終わらせて、お母さんを台所から追い出す。そうしてから残りものをタッパーにつめるのだ。
 しかし残りものは残りものだ。やはり天音さんは不満だった。
「ああ、寝てるあいだに暖かいスープとすばらしいごちそうが用意されていないものかしら? ねえ、ベッキー。」
「そのベッキーってのやめてよ。」
「おとなりにインドのダイヤモンド王とか住んでない?」
「いないよ。そんな人。」
「残念だわ、ベッキー。」
「やめてってば!」
 おねえちゃんはキレそうになった。
「そうねえ。あなたのことばかりベッキーとよぶのは不公平ね。こうしましょう。私のことは『セーラお嬢さま』ってよんでいいわ。」
 おねえちゃんはキレた。かべに描いてある何かの絵を思いっきりけとばしたのだ。しかしこのへやは石でできているので、おねえちゃんは足をくじいてしまった。
「痛い、痛いー。」
「神様をけとばしたりするからだよ。」
「神様? あ……。」
 ヒマラヤの雪山の絵のよこに、あぐらをかいて瞑想している、ぼさぼさ髪の男の人の絵が描いてある。
「うわあ、なんかおっかなそうな絵だね。」
 ほとんどはだかで、首とか、からだのあちこちにコブラを巻きつけていて、肌の色がなんだか青っぽい。
「おねえちゃん、これはシヴァ神だよ。」
「シヴァ?」
「日本でいうと、”大黒天”なんだって。三軒茶屋のカレーショップに同じ絵があったんだ。死と破壊をつかさどる、力の強い暗黒の神だそうだよ。」
「ふうん。」
 夕食が終わるとお風呂だ。当然のことながら、これがもっとも危険なことだ。天音さんはアロマオイルを用意したりして、なんだかのんきだが、こちらはたいへんだ。四人が、ぬきあしさしあしで一階におりる。ぼくはだれかこないか見張りだ。おねえちゃんは更衣室に入り、いかにも自分が入浴してるふりをする。そのあいだに天音さんとマリキットが浴室に入る。
「ぬるいわよ、ベッキー。」
「そりゃそうよ。パパが入ったあとだもん。」
「なんだか、ばっちいわね。」
「だったら、シャワーだけにすれば!」
 口げんかの果てに、おねえちゃんは更衣室を飛び出してしまった。
「ケンジ! あと、あんたにまかせる。」
 かなり怒っている。
 しかたがないので、ぼくが更衣室に入った。
「ベッキー。怒ってるの? 短気はそんよ。」
「ベッキーは用事で席をはずしてます。」
 ぼくがそう答えると、浴室のとびらがいきなり開いた。
(うわあーっ……)
 ぼくは声にならない悲鳴を上げた。天音さんがすっぱだかで立っているのだ。
「ケンジ君……なの?」
 ぼくはもう、馬鹿みたいに首をたてにふっていた。
「よっぽどチャコを怒らせちゃったのかしら。」
 それはいいから、とびらをしめてくれ!
 とびらが閉まったとき、ぼくは生涯最大のため息をついていた。心臓が飛び出しそうになるとはこのことだ。
 一瞬だったのに、やたらと長く感じた。湯気のなかの天音さんはすごくキレイで、ぼくの目にしっかりと焼きついてしまった。おねえちゃんはよく、下着すがたでのし歩くことがあるが、まるで比較にならない。おねえちゃんはおねえちゃんだ。
 就寝前、ほの暗いランプの明かりの下で、天音さんは、またしても小公女の絵本をマリキットに読んでやる。
「セーラとベッキーは部屋のとびらをあけました。
『ああ、やっぱり夢じゃなかったのね。』
 だんろの火はあかあかと燃え、テーブルにはすばらしいごちそうがならんでいました。
『セーラお嬢さまあ、おいしくておいしくて涙が出ます。』
『あらあらベッキー、ごちそうは逃げなくてよ。』
 セーラは王女さまのようにわらいました。」
 ふたりを見まもるおねえちゃんは、ふきげんなままだ。
「ほかの本は読まないの?」
「これが一番、気に入っているのよ。」
 実際、そのとおりで、マリキットはすぐにねむりにつくのだ。



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