プロローグ




 けたたましいサイレンとともに消防車が集まってくる。
 燃えているのはこのビルだ。
 窓の外から黒煙があがり、ぼくらの足もとを灰色の煙が川のように流れている。ものが焼けるにおいがものすごい。
 おねえちゃんとぼくは、前後左右に首をまわし、とりのこされているはずの子どもをさがした。
 室内にはガラスの棚が立ち並び、人形とかぬいぐるみ、乗り物の模型がごちゃごちゃとかざられていた。ここはオモチャ屋さんだった。
「ウキーーーッ!」
 奇声を発して、おねえちゃんが倒れた。何かにけつまづいたらしい。
「何よこれっ!」
 おねえちゃんが、おもちゃの消防車を投げ飛ばすと、かべにぶつかって、音をたてて落ちた。
 そこに子どもはいた。何かをかかえて、かべぎわのすみっこにうずくまっている。
「あ、見つけた見つけた。ケンジ、さっき窓から見えたのはこの子だよね。」
「まちがいないよ。おねえちゃん。」
「ほーら、恐くないからこっちおいで。」
 おねえちゃんは、やさしそうにその子を手まねきしたが、うずくまってでてこない。
「おいでおいで。」
 おねえちゃんの笑顔が張りついている。
 サイレンの音は激しくなり、煙がだんだん濃くなって息が苦しくなってきた。
「ええい、めんどくさい、こっちゃこんかい!」
 本性を出したおねえちゃんは、子どもをむんずとつかみ引き寄せた。
 カラカラカラと音がして、子どもの手から何か落ちた。
「ハーモニカ?」
 おねえちゃんのスキをついて、その子は落としたものにしがみついた。
 しかたなく、おねえちゃんは、子どものからだにダイビングした。ぼくも続いて、おねえちゃんのからだにしがみついた。こうなってはこのまま逃げるしかない。
「オーーーーーーーン…………。」
 ぼくのくちから神聖な音声が流れた。意識して出るのではない。自然に出てくるのだ。
「ハレー・クリシュナ・スタパティア・ハレー……、シッディ・マハー・シッディ!」
 おねえちゃんの胸のペンダント、”カウストゥバ”が緑色に光った。おねえちゃんの欲にまみれた心が一瞬、無になり(なるらしい)、下から光につつまれた。
 タイツの上の九千八百円のスカートが黄色く光り、ロゴだらけの一万円なりのパーカーが白く、赤く、緑に明滅した。光は上昇し首のところで灰色、ケバい顔を縦断してひたいでまた白くなり、イタリア帰りの美容師にカットしてもらった頭から光がふきだした。
 その瞬間、まわりの空間がマーブル模様にぐにゃりと曲がり、流れるような感覚がして、気がついたときには、ぼくらは緑道の草の上に倒れていた。
「うーん。」
 おねえちゃんとぼくは頭をさすった。”これ”をやると、しばらく地面がぐらぐらする。
「おねえちゃん、ここはどこ?」
「さあ。サイレンの音が聞こえるから、茶沢通りから離れてないと思うけど。」
 木のむこうに、燃えているオモチャ屋のビルが見える。消防車の放水がはじまったようだ。じきに火は消えるだろう。
「ケンジー。あの子がいない。」
「えっ!」
 おねえちゃんは、ぼけらっと座っている。
「ま、いいか。逃げ出せたのは確かだから、そのへんで迷子になってんでしょう。」
「無責任だなあ。」
「あにが無責任よお。危険をおかして火事の中で子どもを助けて、ほんとに割に合わないわ。何の得にもならないし、誰に感謝されるわけじゃなし……。」
 うーむ。雲ゆきが怪しい。おねえちゃんのワガママがはじまるのだろうか。
「今日は三学期の試験が終わった日なのよ。」
「そうだね。」
「お祝いに、パパがごちそうしてくれるから、三軒茶屋にきてるのよ。」
「うん。」
「それなのに、火事の中に飛びこむのは、あんまりじゃない?」
「まあね。」
「でねー、ケンジィ。」
 おねえちゃんが、ケバい顔の前で手を合わせた。
「三学期の成績がやばいのよー。何とかならないかなー。」
「何とかって……。試験はもう終わってるんじゃあ。」
「だからさあ、通知表の数字だけ、ちょちょいのちょいと、こいつの力で……。」
 おねえちゃんは、胸の”カウストゥバ”をぶらぶらさせた。
「ダメ! 絶対ダメ! もう、くだらないこといってないで、パパと待ち合わせのお店に行こう。」
 ぼくが立ち上がり、おねえちゃんも立ち上がると、緑道のむこう、大通りのほうから、誰かが歩いてくる。
 セーラー服の女の子と、五、六才の子のふたり組だった。
 奇妙なふたりだった。
 中学生のほうは、おねえちゃんと同じ学校の制服じゃないだろうか。はっきりいって、おねえちゃんより美人だった。エキゾチックというのか、日本人ばなれした美しさで、それでいて、おねえちゃんみたいにケバくはない。あざやかな目から強い視線をはなっている。
 もうひとりは、これは女の子なんだろうか? ワンピースを着ているが、これが女の子だとしたら、こんなみにくい子はめったにいない。口をへの字に結んでしかめっつらをしている。だが、その小さな子の服はあちこちススだらけで、顔も黒くよごれている。
「あ、そうか。」
 ぼくとおねえちゃんは同時に声をあげた。
 さっき助けた子はこの子なのだ。



章目次へ次へ 》》