八日は特別な日





 ぼくらはあらためて、この洋館でのことを秘密にしておくことを誓わされ、外へ放免されることになった。
 一条ユカなど家へもどることをしぶったが、ぼくの必死の説得で、成城の自宅に帰っていった。宮村トシキは羽根木へ、倉持ユタカは豪徳寺へ、それぞれ電車で帰った。
 おねえちゃんとぼくは、すこし洋館に残った。少尉という老人が、何をたくらんでいるか、さぐりたかったからだ。
 帰るふりをして一度そとへ出たあと、洋館のそばの植え込みに姿をかくし、ぼくらはこっそりと中をのぞいた。
 窓のむこうに老人が見える。壁にむかっているので、こちらから表情はわからない。老人は洋だんすに手をかけ、ゆっくりととびらを開けた。
 そこには何か写真のようなものがあった。誰かの写真なのだが、よく見えない。老人はぶつぶつとつぶやいているのだが、残念ながら、何をいってるのかさっぱりわからなかった。
「うーん、くやしいなあ。声が聞ければねえ。」
 おねえちゃんが、さも残念そうにいったとき、ぼくの口からマントラが流れた。
「オーーーーン…………タット・トゥヴァム・アシ・ハレー・ヴァイシュラーヴァナ(多聞天)!」
 おねえちゃんの胸のペンダントが緑色に光り、そこから老人の声が流れだした。
「聞こえる!」
「シッ」
“ふっふっふ、都合のいい子どもたちが来たわい”
 ぼくとおねえちゃんは顔を見あわせた。
“今こそ使命を果たす時がきたのだ。見ておれよ……”
 老人は、少尉はそれっきり黙りこんでしまった。
 おねえちゃんとぼくは、しかたなく門の外へ出た。駅への道を歩きながら、さっきの老人のひとりごとは、いったいなんのことなのか、ぼくらは話しあった。
「都合のいい子どもだって。」
「使命を果たすともいってたね。」
「続けて考えると――。」
 おねえちゃんが、ひたいをつついた。めずらしく頭を使っている。
「あたしたちを利用して使命を果たすってことじゃない?」
「わからないのは、その使命だよ。何をしようっていうのかなあ。」
 どう考えても情報不足だった。わかりっこない。
 おねえちゃんが腕を組んでうなった。口もとがにやついている。
「これはもう、明日もプールに行くしかないね。水色の水着の出番だな。」
 きびしい顔をよそおっているが、うれしそうなのがバレバレだ。新しい水着のデビューなのだ。


 よく日の朝、池尻の駅に、おねえちゃんとぼくは降り立った。家から地下鉄で数駅なので、五人の中ではぼくらが一番近い。
 門は開いていた。おねえちゃんはずんずんと奥へ入り、洋館の居間に踏みこんだ。
 少尉はいない。たぶん、奥の部屋、あの高射砲の部屋にいるのだろう。そちらの部屋はぴったりとドアが閉まっており、ぼくは中を見るのはあきらめた。
 おねえちゃんがぼくを手まねきした。洋だんすのとびらを開けたのだ。
 おねえちゃんは黙って中を指さす。そこにはセピア色の大きな写真があった。
 軍人の写真だった。おそらく旧日本軍の将校だろう。顔がどことなく少尉に似ている。
「ケンジ。これは若い頃のじーさんだよ。」
「やっぱりそう思う?」
「自分がえらい軍人だったころを、写真を見て思い出していたんだよきっと。ナルシストめー。」
 そうなんだろうか。ぼくは軍服にくわしくないので、階級とかよくわからない。この軍人が少尉だとすると、やっぱりあの老人なのだろう。
「こんにちはー。」
 ユカちゃんの声だ。ぼくはそっと洋だんすのとびらを閉めた。
「来たぞー。」
 トシキの声だ。意外にも、ふたりは一緒に来たようだ。
「やあやあケンジくん。」
 今日はサッカー少年っぽいかっこうをしたトシキが、きげんよく手を振った。
 おねえちゃんとユカちゃんが話している間に、トシキはこっそりとぼくに耳うちした。
「おどろいた? ユカちゃんのケータイ番号を聞いておいたんだ。電話で話して時間を合わせたのさ。」
「やるなあ。」
 ぼくは素直に感心した。
「あんな女の子には、もう会えないかもしれないからなあ……。」
 誰にともなく、トシキはぽつりといった。彼は一週間後には東京からいなくなる。
「みんな早いなあ。」
 ふりかえると倉持君がいた。自分が最後なので驚いているようだ。彼には、あとでこっそりとあの写真を見てもらおう。
 その時、音楽がはじまった。天井のスピーカーから、最初は雑音だらけに、やがてはっきりと聞こえた。悲しげに何かが歩いているような曲だ。曲はどんどん大きくなってくる。
「なんなの?」
 おねえちゃんが顔をしかめた。曲は悲壮感を増し、それでも同じテンポで歩き続ける。どこまでもどこまでも。それは永遠に続くような。
「この曲は……。」
 ぼくは思い出した。
「ベートーヴェン第七番第二楽章、『不滅のアレグレット』だ。」
「そうか。パパの好きな曲だよね。」
 ぼくはうなずいた。
 曲はどこまでも歩き続ける。淡々とかたくなに、倒れそうになりながら、それでも倒れない。いつまでも歩き続ける。
 ユカちゃんが不安な顔でスピーカーを見上げた。
 トシキも倉持君も、これから何が起こるのか、こわごわと天井を見ていた。
「みな、集まったな。」
 曲にのせて、スピーカーから老人の声がひびいた。
「今日は何の日か知っておるか。」
 さらに老人は語る。みんな首をかしげた。
 今日は八月八日だ。
「原爆の日だっけ?」
「そりゃ、六日と九日だ。」
 トシキと倉持君が話している。
 終戦記念日は八月十五日だし、八日が何の日かは誰も知らなかった。
 不滅のアレグレットは流れ続ける。くりかえしくりかえし。
「本日は大詔奉戴日である。」
 老人の声がいった。
「タイショウホウタイビ? 包帯がなんなのよ。」
 おねえちゃんがさけぶと、スピーカーから返事があった。
「包帯ではない。宣戦の大詔をいただきたてまつった日である。」
「はやい話が……。」
 倉持君が小声でいった。
「天皇の、戦争に関する“みことのり”をありがたくいただいた日らしい。」
「天皇のおことばかあ。何をいったんだろ。」
 トシキがつぶやいた。
「ねえ、これじゃないの?」
 ユカちゃんが、テーブルの上のパンフレットを持ち上げた。例によってぼろぼろだ。
 こんなことが書いてある。

 ――わが国は、さきに内鮮一体の実を挙げて、東洋平和の基を築き、今また、日満不可分の堅陣を構えて、東亜のまもりを固めました。しかも、東洋永遠の平和を確立するには、日・満・支三国の緊密な提携が、ぜひとも必要であります。わが国は支那にこの旨を告げて、しきりに協力をすすめました。ところが支那の政府はわが誠意を解せず、欧米の援助を頼みに排日を続け、盛んに軍備を整えて、日・満両国にせまろうとしました。

「なんだか難しいなあ。“鮮”というのは朝鮮半島のことだろう。“満”は満州国だな。今の中国東北部に日本がたてた国だ。“支”は支那のことか。支那そばのシナだ。」
 倉持君が解説した。
「ようするに、日本は、みんなで仲よく協力しようといったのに、中国が欧米の援助を受けて、日本に刃向かってきたといいたいわけだ。」
「ふーん。」
 ぼくはとまどっていた。日本側から見れば、そうなるんだろうけど。
「続きがあるぞ。」

 ――ところで、米・英の両国は重慶政府を助けて、支那事変を長引かせるばかりか、太平洋の武備を増強し、わが通商をさまたげて、あくまで、わが国を苦しめようとしました。しかも、わが国はなるべく事をおだやかに解決しようと、昭和十六年の春から半年以上も、誠意をつくして、米国と交渉を続けましたが、米国は、かえってわが国をあなどり、独ソの開戦を有利と見たのか、仲間の国々と連絡してしきりに戦備を整えました。こうして長い年月、東亜のためにつくして来たわが国の努力は、水の泡となるばかりか、日本自身の国土さえ危うくなって来ました。
 昭和十六年十二月八日、しのびにしのんで来たわが国は決然としてたちあがりました。

「そうか! 真珠湾攻撃だ。パールハーバーだ。」
 倉持君がさけび、ぼくもわかった。
「あれは十二月八日だよね。」
「なるほどなあ。日本がアメリカやイギリスと険悪になったのは、それらの国が中国を支えて、日中戦争が終わらなくなったからなんだな。」
「ニュースでよくいう、泥沼化ってやつだね。」
「たしか、当時の日本は経済封鎖されてたらしいぞ。経済制裁をくらってたわけだ。」
 うんうんと、ふたりで納得してたら、トシキがいった。
「だけど、パールハーバーは十二月八日だろ。今日は八月八日だ。月がちがうじゃないか。」
 うーん。またみんなで考えこんでしまった。
「ふっふっふ。おまえたちがわからないのも無理はない。」
 老人の声がひびいた。
「真珠湾攻撃の日から毎月八日は、天皇陛下のみことのりを胸にきざむため、特別な記念日となったのだ。それが大詔奉戴日である。」
「あらあ、毎月八日は記念日なのね。近くのショッピングセンターも、八日が開店記念日なの。全品10%オフですって。」
 ユカちゃんがうれしそうにいった。
「おおっ、開店記念日と開戦記念日!」
 おねえちゃんが手をたたいたので、みんなで笑った。ざぶとん一枚だ。
「ばかものおっ!」
 スピーカーからものすごい声がとどろいた。音楽は止まっている。
 ぼくらは青ざめて静まりかえった。
「いまから、そっちへ行く。」
 老人の恐ろしい声がした。






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