八紘一宇





 少尉どのが早々に室内に引き上げたので、ぼくら五人は、貸し切りのプールで思う存分楽しんだ。
「ユカちゃん、どーだ!」
「きゃあ、おねえさま、冷たい!」
 女の子の黄色い声に、ぼくがぼうっとしていると、水中から突然、足をひっぱられた。
「ぶわっ、げーっ」
「あははは。びっくりした?」
「げほ、げほっ、トシキは泳ぐのうまいなあ。」
「ケンジはクロールできなそう。」
「うっ。」
 痛いところをつかれた。
「あれっ、倉持君は?」
「あいつなら、ずっともぐってるよ。意外にも、もぐりの名人だぜ。」
「へえ。」
 うわさをすれば、ぼくの目の前に、ざーっと水をしたたらせて、男が立ち上がってきた。
「き、君だれ?」
「倉持ユタカだよ。」
「倉持君、顔が全然ちがうじゃないか。」
 メガネをとった彼の目は点てんのように小さかった。
「ほっとけ!」
 気を悪くしたのだろうか、どぶんと水中へ消えてしまった。
「おーい、男の子たち、また競争しようよ。」
「ハイ! チャコさん。よろこんで!」
 トシキは喜々として、女の子ふたりの間に入っていく。
 みんなで泳いだり歩いたり、もぐったり、それはそれは、楽しい時間だった。
 つかれたら、今度はこうらぼしだ。プールサイドに寝っ転がって、さんさんと日光をあびる。
「おねえさま、日焼け止め塗ってあげますわ。」
「おたがいに塗りっこしましょ。」
 男3人は、見るともなく女の子に目がいってしまう。おねえちゃんは白のワンピース、ユカちゃんはピンクのワンピースを着ている。美少女ユカちゃんは妖精のようだし、、認めるのもなんだが、おねえちゃんもスタイルはいい。
 水着がわりのトランクスが乾くまで、ぼくら三人は、ドキドキしながらふたりを見ていた。


「ここは穴場だよ。毎日でも来たいよね。」
 おねえちゃんが、ミックスジュースを飲みながらいった。
 心地よいつかれを感じながら、ぼくらは居間でくつろいでいた。少尉どのによると、小休止のあとで、勉強させるのだそうだ。なんの勉強か知らないが、ぼくらは、まあいいやという気分になっていた。
 やがて少尉どのがやってきた。あいかわらず暑苦しいかっこうをして、手には細長い棒をもっている。
「挨拶はどうした?」
 じろりと少尉どのは、こちらをにらんだ。それはいかにも教師みたいだったので、倉持君がとっさにさけんだ。
「き、起立!」
 全員あわてて立ち上がる。
「礼! 着席!」
 座ろうとして、みんなこまった。どっちを向いて座ればいいのだろう。
 その時、部屋に黒板があるのに、ぼくは気がついた。伝言板か何かだと思っていたのだが、これは黒板なんだ。ふつう、黒板というのは緑色なものだが、この黒板は文字通り、本当にまっ黒だった。
 少尉どのがその前に立ち、木の棒でビシリと黒板をたたいた。ぼくはビクッとした。
「座れ」
 押し殺した声で老人がいった。ぼくらはそちらを向いて着席した。
「本日はおまえたちに、“ハッコウイチウ”の精神について教える。」
「ハッコウイチウ?」
 みんな首をひねった。老人はうなずいて、黒板にチョークで文字を書きはじめた。

  八紘一宇

 なかなか立派な字だ。だが、意味はさっぱりわからない。
「おまえたち。この国はどうしてできたか知っておるか。」
「ええと……。」
 倉持君が答えた。
「一万数千年前に縄文人が移住してきて、三千年前ぐらいから、弥生人が住み着いたんだ。小さい国がほうぼうにできたあと、一番大きな国に統合された。それが古墳時代だったと思うけど、そのころのことは、文献がなくてよくわからないんだよな。」
「うむ。おまえがいうのも、一つの見解じゃ。だが、魂が欠けておる。」
「魂?」
「日本人の日本人たる心じゃ、われわれがなぜ日本人であるかというと、おそれおおくも……」
 ここで宮村トシキが、あくびをおさえた。老人は木の棒でトシキのほっぺたを音が出るくらいひっぱたいた。
「なにすんだよ!」
 トシキの目から涙が出ている。そのくらい痛いんだろう。
「よいか。“おそれおおくも”といったら、背すじをのばしてかしこまれ。そのあとにわしがいうのは、神のごとき御方のお名前である。」
(神のごとき……?)
 なんかぼくは、わかったような気がする。
「おそれおおくも……」
 老人がいうと、全員背すじをのばして緊張した。
「天皇陛下がいらっしゃればこその日本人なのじゃ。」
 場が静まりかえった。
 老人は小さな冊子を配りだした。ぼろぼろでそうとう古いものだ。開いてみると、古代人みたいな神さまの絵とこんな文章が書いてある。

 ――遠い大昔のこと、イザナギのみこと、イザナミのみことという、お二方の神さまがいらっしゃいました。

 この神さまが、橋の上から海の水をかきまわすと、一つの島ができたのだそうだ。島は大きくたくさんの島となり、それがこの国になったということらしい。
(これって、国生み神話というのじゃなかったかな。古事記だか日本書紀か何か……。)
 思い出せないが、そんなところだろう。
 読み進むと、神さまの一人、アマテラスが、ニニギのみことにこんなことをいう。

 ――「日本の国は、わが子わが孫、その子その孫の、次々にお治めになる国であります。みことよ、行ってお治めなさい。」

 アマテラスはニニギのみことに、鏡と勾玉と剣、つまり三種の神器をわたすのだ。
 やがて、“日本は神の国”という文章があった。

 ――天照大神の仰せによって、神のお血すじをおうけになった天皇が、日本をお治めになります。臣民は、祖先のこころざしをうけついで、ひたすら、天皇の大みわざをおたすけ申しあげてまいりました。

 ふうん。天皇は神の血すじをうけている、ということになっているのか。ぼくは皇居の広い森を思い出した。
「さて、みなは、最初の天皇陛下の名を知っておるか?」
 少尉どのが聞くと、倉持君がおずおずと答えた。
「神武天皇……だと思うけど、最初の二十人かそこらは、架空の存在なんじゃあ……。」
「これは魂の問題なのだ。」
 老人は語る。
「神武天皇はわが国を平定した偉大な天皇である。その御方が即位なされるときに、“はっこうをおおいて、いえとせんこと、またよからざらんや”との詔勅をくだされた。
 よいか。はっこう、あめのしたとも読むが、これは世界という意味だ。世界を一つの家のようにして、平和な国を作るということなのじゃ。
 これぞ、偉大な天皇の大御心である。なんと素晴らしいことか。われら臣民は、天皇陛下の御為に心血をそそいでこの大御心を実現せねばならぬのである。
 それが八紘一宇の精神じゃ。神の国の臣民たる日本人は、したがわぬものを平らげ、世界を神の家とするのだ。」
 少尉どのは大まじめに語った。ぼくは思うのだけど、これでは悪の秘密結社の世界征服計画みたいではないか。
 みんなも同じ思いだったらしい。なんだか重っ苦しい空気になった。それを破ったのは、おねえちゃんだ。
「おー、かっこいい! ようするに世界征服するのね。」
 おねえちゃんが、身もふたもない言い方ではしゃぎ、少尉どのは苦い顔をした。
「あたし、そういうの好きなのよ。お色気のコスチューム着て、手下にいうの。『やっておしまい!』。」
 ゴホン、ゴホン、ゴホンッと老人がセキをした。
「それはちがう。そういうのではない。八紘一宇とは、大東亜に平和を建設するという、大きな善なる心なのだ。」
「大東亜ってなんですの?」
 ユカちゃんが、のんびりといった。
「ふむ。ちょっと待っておれ。」
 老人が席をはずしたスキに、みんなでひそひそ話になった。
「あのじーさん、完全にいかれてるぜ、おお、いてえ!」
 さっき殴られたところをさすりながら、トシキがいった。
「いや、あれは太平洋戦争中の教育なんだ。」
 倉持君が博識なところを見せた。
「なんか、日本中がイカレてたらしい。本気で世界制覇しようとしてたのだとか、テレビでやってた。」
 うーん、と、みんな腕組みをしてしまった。






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