池尻の闘い





 マーブル模様の空間が正常にもどったとき、そこは洋館の屋根の上だった。
 すでに日は暮れている。むし暑い夜、庭木の影のあいまから、渋谷のビルの灯りが見えた。
 屋根のずっと先に、天文台のようなドームがある。
「回転してる!」
 おねえちゃんがさけんだ。
 たしかにドームは動いている。おねえちゃんは、屋根の上を走りだした。
 回転が止まり、こんどはドームは開きだした。東と西の線に割れ目が入り、どんどん開いていく。その線の先には赤坂があり、米国大使館があるはずだ。
 おねえちゃんは、ドームにとりついているが、どうすることもできない。ぼくはようやく、おねえちゃんに追いついた。
「オーン……、ハレー・クリシュナ・スタパティア・ハレー……」
 口から神聖な音声がもれだし、ぼくはおねえちゃんにしがみついた。
「シッディ・マハー・シッディ!」
 空間がマーブル模様にぐにゃりと曲がり、次の瞬間、ぼくらは、巨大な高射砲の上にいた。
「照準自動追尾、コリオリの力、入力されていきます。計算終了、発射準備完……」
 そこまでいってから、倉持ユタカは目をまん丸にして、ぼくらを見上げた。
 高射砲の砲身の上に、ぼくは猫みたいにうずくまっていた。おねえちゃんは砲身にしがみついて、バカみたいに足をぶらさげている。床から五メートルはあるだろう。
「ケンジ! なんでこんなとこに!」
「し、知らないよ! おねえちゃんのせいだ!」
 声が聞こえたのか、少尉が上を見た。
「ウヌっ、おまえら、じゃまをしに来たのか!」
 少尉は、ふところから拳銃をとりだすと、こっちへむけた。
「おりてこい!」
「いやあ! 撃たないで!」
 おねえちゃんが足をバタバタさせた。
「おりてこいというに!」
「おりたいのは山やまなんだけど、動けないんだよー。」
 少尉は湯気を出して怒った。
「ようし撃つぞ。本気で撃つぞ。念仏をとなえろ!」
 そのとき、ぼくの口からまた、神聖な音声がながれた。
「オーーーーーーーン……、マニ・パドメ・フーム・タット・トゥバム・アシ・ハレー・ハヌマン(猿神)!」
 カウストゥバが光り、おねえちゃんの目の色が変わった。空中でくるりとさかあがりすると、らせんをえがいて、しゅるしゅると高射砲をおりてしまった。
 続いて、右に左に、拳銃の銃口をさけながら、みごとなフットワークで少尉にせまる。少尉があっけにとられて口をあけたとき、おねえちゃんの回しげりが炸裂した。
 少尉の手から拳銃がふっとぶ。カラカラと軽い音がして、ぼけらっと見ていた宮村トシキのほうへころがった。
 トシキはあわてて拳銃をひろった。ねらいを定めようとしたが、そのときすでに、おねえちゃんは、この円形の部屋の「壁」を走っていた。特撮映画のアクションのように、おねえちゃんは、真横になって、壁を走ってくる。動けないトシキにパンチをくらわせ、またしても拳銃がふっとんだ。
 拳銃はカラカラと、今度は一条ユカの足もとにころがった。彼女は銃をひろいあげ、ピタリとおねえちゃんにむけた。
「動かないで! このまま砲撃を続行するのよ!」
 一条ユカのかわいい顔が、ひどく真剣にゆがんでいる。だが、ぼくはあんぐりと口をあけた。
 ぼくだけじゃない。トシキも倉持君も、おねえちゃんまで、目をまんまるにして、口をあけている。
 一条ユカは、銃をあべこべに持っていた。拳銃の銃身のほうを握って、グリップを相手にむけているのだ。
「ユカちゃん、その銃……。」
「動かないでって、いってるでしょう!」
 彼女の指が引き金にふれた。
「ちょ、ちょっとその状態で撃ったら……。」
「やめろ! 大けがするぞ!」
 トシキも倉持君もパニックになった。ぼくも加わって、反対だ反対だと大声をあげた。
 ユカちゃんは何をいわれているのか、なかなか理解できない。
 そのうち、彼女の視線が、おねえちゃんを通りこして、そのむこうへうつった。
 みんなもその視線を追った。そこには、胸をおさえて、もがいている少尉の姿があった。
「少尉さん!」
 ユカちゃんが拳銃を放りだして走った。
「少尉!」「少尉どの!」
 高射砲の上からおりられない、ぼくをのぞいて、みんなが少尉に駆けよった。
「胸の発作だ。」
「ひどく苦しんでいる。」
「ユカちゃん! 救急車!」
 一条ユカはケータイを出した。
「まて。ここの住所、知ってるやついるか?」
 宮村トシキが聞いた。
「いや、GPSケータイなら、むこうで住所を勝手にしらべてくれるはずだ。」
 さすがに倉持君はくわしい。
 一条ユカは119番を押して、あれこれと話をはじめた。
「え? 名前?」
 すぐに彼女は、すっとんきょうな声をあげた。
「ねえ、だれか少尉さんの名前、知ってる?」
 みんな顔を見あわせた。そういえば、少尉の本名をだれもしらない。
「少尉です。とにかく少尉さん。えっわたしですか?」
 一条ユカはとまどった。なんと説明すればいいのだろう。
「近所の子ども。」
 おねえちゃんが、小声でたすけ船をだした。
「近所の子どもです。だから、その、名前、しらないんです。」
「この部屋じゃまずいな。」
 倉持君が、しごくもっともなことをいった。
「リビングのソファーにみんなでそっと運ぼうよ。」
 おねえちゃんの提案で、(ぼくをのぞく)全員が少尉をゆっくりと運んだ。そのあいだに、ぼくは四苦八苦して、やっとのことで高射砲からおりることができた。
 サイレンが近づいてくる。
 みんなは少尉のそばにいたが、ぼくは洋館を出て、鉄柵の門をひらいた。やってきた救急車をまねきいれ、玄関のそばに車を誘導した。
 どかどかと救急隊員たちがおりてきた。
「患者はどこです?」
「こっちです。こっち!」
 洋館の中に入った隊員たちは、酸素マスクのようなものを当てたり、なにやら応急処置をほどこしていたが、すぐにタンカが用意され、救急車で運ばれることになった。
「あたしがつきそいます。あたしが一番年上なんです。」
 おねえちゃんは、きっぱりといった。
「…………いいでしょう。」
 おねえちゃんは車に乗りこんだ。ちょっと、いや、かなり不安だったので、ぼくも乗りこんだ。
 救急車は発進した。保険証とか、かかりつけの病院とかいわれても、ぼくらは何も答えられない。ただ洋館の電話番号だけは、ぼくは調べてあった。
「ケンジ。」
 おねえちゃんは真剣でまじめな顔だ。
「一度、救急車に乗ってみたかったの。」
 表情ひとつ変えず、おねえちゃんはいった。こういう人だから信用できないのだ。
 横になっている少尉の容態が悪化していた。なにやらうわごとをいっている。
「音楽が聞こえる……、ベートーヴェン第七番第二楽章………。」
(不滅のアレグレットだ。)
 この老人のなかで、今、あの曲がながれているのだ。どこまでもどこまでも歩いていく、くりかえされるあの曲が。
「亡霊どもがやってくる……インドで殺したやつらだ……」
「少尉、しっかりして! 亡霊なんかいないよ。」
 心配そうな顔で、おねえちゃんが、少尉の腕をつかんだ。
「進め……みな殺しにしろ! 進め!」
「少尉!」
 おねえちゃんは、どうしていいかわからず、泣きそうになった。
「…………ヒィーッヒッヒッヒッヒ…………」
 老人はうなされている。うなされながら苦しみ、うなされながら笑っている。そのとき、ぼくの口からマントラが流れた。
「オーン……、ガテー・ガテー・パーラガテー、バーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハー……」
 あとで調べたら、これは般若心経の一節だったらしい。おねえちゃんの胸のペンダント“カウストゥバ”が緑色に光った。
 おねえちゃんは悲しい目をしてカウストゥバを首からはずし、少尉の手をとって、そっとふれさせた。
 少尉の顔から苦痛が消えていった。おねえちゃんは少尉の肩にやさしくふれた。そのまま少尉はねむりに落ちるように、やすらかな顔になった。






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