一条ユカ





 家に着いたぼくは、おねえちゃんの部屋にいた。
 ぽっかりと時間があいた。今は夏休みだ。
 ふたりとも何もいわなかった。ぼくもぼうぜんとしていたが、おねえちゃんもぼうぜんとしている。ぬぎ散らかしたスカートやシャツにうもれて、ベッドに横になっていた。
 ナチュラルメイクの横顔が、天井を見てはため息をついた。ショートカットの黒髪を、ときどきかき上げては、ぶらんとベッドの横に手をおろす。
 開けはなした窓から、そろそろ熱くなってきた空気が流れてくる。おねえちゃんのつるりとしたほおや肩に、汗がうかんだ。
 おねえちゃんの表情が、だんだんはっきりしてきた。何かを考えているような顔だ。めったにないが、そんな時だけは、りりしく賢そうに見える。
 部屋が暑くなってきたので、ぼくはキッチンに移動した。お母さんがパートに出かけるしたくをしている。
 テレビをつけると、新しいアメリカ大使が着任したという、つまらないニュースをやっていた。
 おくれて、おねえちゃんもキッチンに入ってきた。
「お母さん、お母さん!」
「なあにチャコ。」
「池尻にある、古い大きな洋館のこと、知ってる?」
「洋館?」
「レンガづくりで、でっかいのよ。お化け屋敷みたいなの。」
「お化け屋敷ねえ……。」
 お母さんは少し考えていたが、ふっと顔がゆるんだ。
「知ってるわけないわ。私、このへんで育ってないもの。」
「知らないのかあ。」
 おねえちゃんは肩をおとした。
「でも、チャコ。お化け屋敷で思いだしたんだけど、パパに聞いたことがあるわ。子どものころ、そういうウワサを聞いて、わざわざ遠くへ見に行ったことがあるって。」
「それで?」
「その場所が、三軒茶屋のむこうっていってたのよね。もしかして、そのことなんじゃないの。」
「それだよ!」
 ビンゴだ。おねえちゃんの顔が明るくなった。
「なんでも、しのびこんだ子どもが何人も消えているとか。」
「ええっ!」
「よくあるウワサでしょ。でも、それしか知らないわ。パパも中に入ったわけじゃないようよ。なんなら、おじいさんにでも聞いてみたら?」
「うっ。」
 おねえちゃんは、ぐっとつまった。おじいさんは苦手なのだ。毒をまきちらすおじいさんは、特におねえちゃんにきびしい。
 おねえちゃんは腰に手をあてて上を向き、口をへの字にむすんだ。美しくない顔だが、真剣に悩んでいる。
 お母さんは、仕事に出ていってしまった。
 決心したように、おねえちゃんはリビングにむかった。さっきから高校野球の音が聞こえてくる。おじいさんが居間で観戦しているのだ。
 おねえちゃんは、おそるおそる居間に足をふみいれた。
 なかをのぞくと、甲子園の歓声のなかで、おねえちゃんが、何かおじいさんに聞いている。
 おじいさんはうるさそうに手を振っているが、おねえちゃんは、身ぶり手ぶりをまじえて、話を続ける。
 やがて、何かを聞き出したおねえちゃんは、首をかしげながらもどってきた。
 台所で冷蔵庫をあけたおねえちゃんは、コップにコーラをついで、ごくごくと飲んだ。それから廊下に出て、電話の受話器をとりあげ、誰かと話をした。
「チャコだよ。出られない? …………、……三十分後ね。場所は…………。」
 電話が終わるやいなや、おねえちゃんはぼくの腕をひっつかんで、外へ飛びだした。
「ど、どこへ行くの?」
「池尻。」
 駅の階段をおりて改札をぬける。地下鉄にゆられながら、おねえちゃんは、さっきのことをぼくに話した。
「おじいさんに聞いたら、何十年も前に、あの館のそばを通りかかったことがあるっていってた。」
「何十年? いつごろのことだろう。」
「そのころは、お化け屋敷なんかじゃなくって、きれいな洋館だったらしいよ。畑や林が広がって、このへんは田舎だったんだって。」
「そうか。大昔なんだ。」
「で、あの洋館には子どもがいたんだって。」
「え?」
「ピンとこないでしょ。あんなところに子どもがいたなんて。」
「それって……少尉どのの子どもなのかな?」
「わかんない。男の子と女の子を見たような気がするって。」
「大昔の記憶かあ。」
「珍しい家だったから、覚えているんだって。」
「ふうん。」
 電車は池尻につき、ぼくらは階段を上がった。
 池尻の駅名は池尻大橋だ。おねえちゃんは、246沿いに大橋のほうへあるいていく。やがて、大きな道路との合流点に出た。上には首都高。目の前には歩道橋がある。
 暑い。ぼくはおねえちゃんの後ろから歩道橋を登っていった。タンクトップの涼しそうなかっこうをしている、おねえちゃんがうらめしい。
 おねえちゃんが時計を見ている。ここは洋館から近い。
「誰が来るの?」
「一条ユカ。」
 ケータイに電話して、ユカちゃんを呼び出したのか。
 しばらくして、ユカちゃんが、時計を見ながら歩道橋の上に登ってきた。
 彼女はぼくらを見つけると、口もとをひきしめて、まっすぐ見た。
「こんにちは。チャコさん。ケンジくん。」
 長い髪の美少女は、けさ会ったばかりなのに、ていねいにあいさつした。
「少尉は何をたくらんでるの?」
 だしぬけにおねえちゃんは聞いた。ごうごうと車が流れていく音が、周囲のビルの中でくぐもってひびく。
「うふふ。なんだと思います?」
 少女は首をかたむけた。黒髪がふわりとゆれた。
「あの家には大昔から、子どもがいて、何人も消えているの。いや、そういうウワサだよ。少尉が何をしようとしてるのか、話してちょうだい。」
 おねえちゃんは、一条ユカに真剣に切りこんだ。ユカちゃんの顔から笑みが消えた。
 彼女はてすりに手をかけ、下の道路を見た。はるかかなたから、切れ目もなく車が流れてくる。
「何もかもめちゃめちゃにしてみたいと思ったこと、ありません?」
 ゆううつそうに、少女はつぶやく。
「は? わりとしょっちゅう思ってるけど。」
「この夏、それが起こりそうなの。」
 ユカちゃんは、車の流れてくるほうを見つめた。
「使うんだね。少尉はあれを。」
 おねえちゃんは、ユカちゃんをじっと見た。ユカちゃんは否定しなかった。
「何を撃つのさ。アメリカの爆撃機なんて、飛んできやしないでしょ。」
「飛行機はこなくても、馬車はくるの。シンデレラの馬車は、走りだしてはいけないのよ。」
 一条ユカは意味不明のことをいった。
「そして私たちは立てこもるの。戦って戦って、玉砕するんだわ。」
「ちょっと、ユカちゃん! だいじょうぶ?」
 じろりと一条ユカは、おねえちゃんをにらんだ。
「何もかも、めちゃくちゃにしたいって、さっきいったでしょ。チャコさんとは意味がちがう。」
「そりゃ、ちがうでしょうよ。」
 おねえちゃんは、ぶっきらぼうにいった。
 ふたりの間でピシリと緊張が走り、おねえちゃんはユカちゃんにいった。
「あなたは、いいトコのおじょうさんで、友だちにも恵まれていて、成績だって、うちのケンジよりいいみたい。それもガリ勉してるわけじゃなし、もともと頭がいいんだ。」
 確かに、一条ユカは頭がいい。
「それにユカちゃんはきれいだよ。男の子にもモテモテでしょ。」
 ぼくは心の中ではげしく同意した。ノーメイクでおねえちゃんよりずっとかわいい。
「しかも、女の子の外泊を許すなんて、やさしくって、理解ある両親だと思うよ。ゼータクだよ。あなたはいったい何が不満なの?」
 かなたから車が流れてくる。その上には青空が広がり、照りつける太陽の光がまぶしいぐらいだ。
「そう。わたしはめぐまれているわ。退屈なほどめぐまれている。」
 かたい顔をして、一条ユカは語りだした。
「父も母も先生も、私が何をしてもよろこぶわ。両親は私が何を望んでいるか、いつも先回りしてかなえてくれる。それがたまらなくイヤなの。」
「イヤ?」
「わからないでしょうけど、とにかくイヤなの。自分で歩いているようで、本当は歩道のほうが動いているみたいな、そうじゃなかったら、走ってる新幹線の中を歩いているような、すごく意味のないことをしているみたいな、そんな感じがするの。」
「ふうん?」
 おねえちゃんは首をかしげた。理解できないらしい。たしかにむずかしい話だと思う。
 気づいてしまうと不幸になることが世の中にはある。ぼくはそれを知っている。一条ユカはそれに気づいてしまったのだ。
 ぼくらは、自分が子どもだってことを意識したことなんかない。おねえちゃんもあんまりないだろう。一条ユカは、それに気づいてしまって、ぼくらがもともと持っているような、無力感といったらいいのだろうか、そういうものを感じているのだ。
 一条ユカの表情がゆるんだ。
「ねえ、このまま日ざしの中で歩道橋の上にいると、そのままゆっくりと舞い上がっていく気がしません?」
 やわらかい目をして、ゆったりと車の流れを見つめている。
「わたし、高いところで、しょっちゅうそんな気分になるの。こんな歩道橋や、学校のベランダで、いつもこのまま飛べたらどんなにいいだろうと思ってる。」
 一条ユカがぼくを見ている。ぼくも彼女を見た。
 ぼくは感じていた。熱気の中で、気分がすーっと体をはなれ、どこまでもどこまでも上昇していくような、そんな感覚だ。
 ぼくたちは、車の洪水の上で、ゆっくりと上昇していく。暑く青い空へと昇っていくが、決して空を見上げることはない。見るのは足もとの車の流れ。そしてビルのモザイクでできた地平線だ。
 ぼくはそう思っていたし、一条ユカもそう感じていたにちがいない。
 彼女は洋館の中で何が起こっているか、はっきりしたことは何もいわないまま帰って行った。






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