戦火は拡大する





 食事の後は“勉強の時間”だそうだ。
 少尉はやる気まんまんで、はやくも大東亜の地図がテーブルに置いてある。
 老人が何かとりにいってる間に、倉持君が小さくぼくに話しかけた。
「ケンジ。おととい、あのじーさんがこの地図でいわなかったことがある。」
 中国全土に、日の丸やら爆弾マークやらがはりつけてある地図を、ぼくは見た。
「ここだ。」
 倉持君は、大陸のずっと北のほうを指さした。
「ロシアとの国境で戦争があったんだ。ノモンハンという場所だ。そこで日本軍は大敗北をした。」
「大敗北?」
「ああ。何千人も死んだそうだ。けど、このことは太平洋戦争が終わるまで、固く秘密にされた。国民の士気が落ちるし、陸軍の権威が失墜するからだろうな。」
「ふうん。」
 ぼくは地図をじっと見つめた。中国東北部に赤えんぴつで斜線が引いてある。日本がたてた満州国だ。倉持君が指さしたのはその北のほうだ。
 やがて少尉どのがやってきて、“勉強”がはじまった。
「前回は昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃までだったな。おまえたちには、ひきょうな支那を支える米英と開戦になったと教えたはずだ。大東亜の平和を守るための戦いがはじまったのだ。」
「少尉どの。質問があります。」
 倉持君が手をあげた。ノモンハンのことを聞くのだろうか。やめたほうがいいとぼくは思う。だが倉持君はちがうことを聞いた。
「時間がさかのぼりますが、そもそもなんで中国――支那と戦争になったんですか? 満州国から一歩も出ずに守りに徹していれば、泥沼の戦いに引きずりこまれることもなく、日本は力を温存できていたと思うんだけど……。」
 さすがにマニアックな疑問だ。少尉どのはひげをいじり、何ごとか考えこんでいる。
「盧溝橋で最初に銃弾を撃ったのは、支那人のほうだ。」
 老人は目を閉じたが、倉持君は納得しない。
「それはささいなことだと思う。」
「ふむ。実は支那には数万人の日本人がおってな。あちこちで支那人が日本人を殺したり傷つけたりする事件が起こっておった。彼らを守るために軍隊を出す必要があったのだ。」
 老人は一気に話したが、倉持君は食いさがった。
「日本人を守るためなら、何も大がかりに攻撃しなくても守りにてっするだけでよかったのじゃないかなあ。じっと一か所にとどまってりゃいいと思う。あるいは日本人を船に乗せて避難させるとか。」
 老人は目を開けた。
「ふうむ。おまえらは、思ったよりかしこいな。では、決定的なことを教えよう。」
 地図の上の満州国を少尉は指さした。
「八紘一宇、世界を打ち平らげ、平和を築くことが、わが国の生きる道であるのもまた確かだ。だが、問題は経済なのだ。」
「経済、お金?」
 おねえちゃんの目が輝いた。
「わが国と満州国は、実は経済的に苦境にあえいでおった。それこそ、存亡の危機といっていいぐらいだった。そこで皇軍が考えたのはこれだ。」
 少尉どのは、地図上の満州国の南がわに、大きくぐるりと線を引いた。
「ここを支那軍との中立地帯として、ばくだいなお金を投資したのだ。だが、うまくいかなんだ。」
「なぜ?」
 みんないっせいに聞いた。
「支那の政府が日本人に物を売ることも買うことも禁じたからだ。なによりも、日本国の発行するお金が、支那側で流通せんのだ。支那の政府はひきょうにも、大国米英の後ろだてで、独自の通貨を発行してしまった。米英はケタはずれの経済力を持っておるからの。」
「経済かあ……」
 倉持君がため息をついた。彼は春まではIT長者の息子だった。
「米英がついてることが信用になる。支那人は支那政府の発行した通貨でしか物を売らなくなった。日本がわの通貨を使わんのだ。それで皇軍は敵をたたいて貿易を認めさせようとしたのだ。」
「貿易したい相手に戦争をふっかけたの?」
「まあ、そうだ。」
 老人がうなずき、トシキが目を白黒した。
「だがそれは、日本にとっては生きるか死ぬかという国難だったのだ。他に方法はなかった。支那の政府はそれを知っているから、わが国の弱みにつけこんで、ずるずると戦争を引きのばしたのだ。こうなったら、支那の後ろだての米英をたたくより道はない!」
「それでパールハーバーかあ。」
 みんな大きくうなずいた。
 そのあとぼくらは真珠湾攻撃をおさらいして、バンザイ三唱をやらされた。なにしろ、戦艦五隻撃沈の大戦果だ。
「真珠湾攻撃と同じ、昭和十六年十二月八日、皇軍はマレー半島北部に上陸開始。」
 老人は威勢よく語り、ぼくはマレーシアの北部に日の丸をはった。
「同年十二月十日、マレー沖にて、戦艦プリンス・オブ・ウェールズおよびレパルス撃沈。英国東洋艦隊壊滅だぞ。」
「バンザーイ!」
 ぼくらはバンザイ三唱した。
「同じく十二月十日、グアム占領。」
「バンザーイ!」
「十二月二十五日、香港占領イギリス軍降伏。」
「バンザーイ!」
「昭和十七年一月二日、マニラ占領。」
「バンザーイ!」
「一月十一日、クアラルンプール占領。」
「バンザーイ!」
「昭和十七年二月十五日、シンガポールは落ちたり!」
「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」
 地図が日の丸シールだらけになってしまった。まだ続くのだろうか。
「三月五日、ジャカルタ占領、七日オランダ軍降伏。」
 続くらしい。バンザイ三唱。倉持君がインドネシアに日の丸をはった。
「三月八日、ラングーンは落ちたり!」
 バンザイ三唱し、ビルマというか、ミャンマーに日の丸がはられた。
「四月五日、スリランカ攻撃。空母一隻、重巡二隻撃沈。」
「バンザーイ!」
 とうとう、インドの近くまで爆弾シールがはられた。
「昭和十七年四月十八日、米軍爆撃機、東京空襲。」
「バンザーイ!」
 おねえちゃんがバンザイしたので、ぼくは頭をひっぱたいた。東京に爆弾シールがはられ、みんなそれをじっと見つめた。
「五月四日、日本軍ビルマ制圧完了。」
「五月六日、コレヒドール島陥落。フィリピン制圧。」
 東南アジア全土が日の丸だらけになった。まさに大東亜だ。当時の日本人は熱狂しただろうなあ。
 ところがそこで老人は話をやめた。倉持君が意味深な表情をしている。
 みんなの注目をうけて老人が話した。
「さて、このように、八紘一宇のために、わが国は大東亜の平和を確立したのである。これを大東亜共栄圏という。」
 八紘一宇、天皇を中心として世界を征服する。日本は本当にそれをやったんだ。
「それを記念して、諸君らにいいものをあげよう。」
「なにかくれるの?」
 おねえちゃんが反応した。おねえちゃんにとって、物をくれる人はいい人なのだ。
「これだ。」
 少尉がとりだしたのは、軍人の写っている、二枚のブロマイド写真だった。
「こちらが、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将。こっちが、マレーの虎とよばれた山下奉文陸軍大将。」
 ふたりの軍人は、お坊さんみたいな顔と、プロレスラーみたいな顔をしている。
「この写真を、今なら特別価格、四百八十円でわけてあげよう。」
 老人はきげんよくしゃべり、ぼくらは「うえー」とか、「ぐえー」とか、変な声を出した。おねえちゃんは、「誰がいるか!」という敵意に満ちた表情をしている。
「ちょっと時代がずれるんだけど、東郷平八郎の写真はないの?」
 さすがに倉持君の反応は、ぼくらとはちがう。東郷平八郎といえば日露戦争、日本海海戦の英雄だ。
 老人は、にたあっと笑った。
「実はある。おぬしはなかなか見どころがあるな。これが東郷平八郎元帥海軍大将のお写真だ。」
 老けたサムライのような軍人が、きびしい顔で写っている。
「それをください。」
「うむ。東郷元帥もおよろこびであろう。」
 お金と写真がやりとりされ、倉持君は満足したようだ。
 おねえちゃんが、ぼくにそっと耳うちした。
「このあいだ、じーさんがいってた、“都合のいい子ども”ってこういうことなんじゃない?」
「だけど、“使命を果たす”ともいってたじゃないか。」
「ブロマイドの販売が使命なんじゃあ。」
「なんかみみっちい使命だなあ。」






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