ユダヤ人論考

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大部分の人がイスラエル・パレスチナ問題を口にすることをも考えることをも忌み嫌っているように見える。 イスラエル・パレスチナ問題は触ると火傷(やけど)する問題であるかのように思われているようだ。 其の為、イスラエル・パレスチナ問題を議論するとき、当たり障りのない事勿れ論と極端な感情論とに二極化される傾向がある。 イスラエル・パレスチナ問題の根底にはユダヤ教があり、自己中心的なシオニズムがある。 イスラエル・パレスチナ問題を理解するにはユダヤ人というものを細かく調べる必要がある。

ユダヤ人の宗教的・政治的な活動が世界中に大きな影響を与えているのは事実だと思うが、私は「ユダヤ人の世界支配」という言葉には少なからず違和感を持っている。 と言うのは、ユダヤ人というものを調べれば調べるほど、ユダヤ人というものが予想以上に分裂していることに気付かされるからだ。 ユダヤ人というものを一枚岩のような集団として扱っていては、 イスラエル・パレスチナ問題の真相に迫れないと思う。 また、イスラエル・パレスチナ問題は奇々怪々な多重構造になっているので、イスラエル・パレスチナ問題を理解するには、此の多重構造を一つ一つ丁寧にほぐしていく必要がある。

此のユダヤ人論考は、西暦1996年の夏、イスラエル共和国にリクード党政権(党首はネタニヤフ)が成立したのを切っ掛けに、私がネットニュースに投稿し続けた論述を編集し直したものである。 此の論考がイスラエル・パレスチナ問題の理解に少しでもお役に立てば、幸いである。
元 埼玉県立春日部女子高等学校教諭  滝田 譲
目次
第1章  ユダヤ人と言われている人々の2つの大きなグループ
第2章  世界史のタブーである白人系ユダヤ人のルーツ
第3章  ハザール王国の歴史
第4章  出ラインラント仮説の検証
第5章  ロシアのハザール系ユダヤ人
第6章  ウクライナのハザール系ユダヤ人
第7章  ポーランド王国のハザール系ユダヤ人
第8章  ガリチアのハザール系ユダヤ人とルーマニアのハザール系ユダヤ人
第9章  セム系ユダヤ人の歴史
第10章  ユダヤ教徒の「選民思想」と「終末思想」(メシア待望観念)
第11章  ヘレニズム時代以降のセム系ユダヤ人
第12章  キリスト教が確立する前から嫌われていたユダヤ人
第13章  栄華を極めた世界最大最強のロスチャイルド財閥
第14章  近代資本主義経済を作り上げた西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人
第15章  西ヨーロッパでのユダヤ人解放、シオニズムの台頭
第16章  ロスチャイルド一族の資金援助の下でのハザール系ユダヤ人のパレスチナへの大量流入
第17章  ロシア帝国から押し寄せてきたハザール系ユダヤ難民を嫌った西欧ユダヤ人
第18章  ドイツ経済に食い込んだユダヤ人、及び、ナチス政権による各種反ユダヤ法令
第19章  ユダヤ難民に冷淡だった欧米諸国
第20章  ナチス政権とシオニストとの協力関係
第21章  第二次世界大戦下の東ヨーロッパ諸国で起きたユダヤ人迫害
第22章  パレスチナへの東欧ハザール系ユダヤ人の違法大量流入を阻止しようとしたイギリス政府
第23章  ドイツ国内に居残ったユダヤ人の大量殺害を願ったハザール系ユダヤ人シオニスト
第24章  ユダヤ国家「イスラエル共和国」の成立宣言
第25章  ヒトラーはイスラエル建国の最大の功労者である。
第26章  中東戦争
第27章  イスラエル国内のセム系ユダヤ人の現実
第28章  いろいろな人のシオニズム批判
第29章  ノーマン・フィンケルシュタインのシオニズム批判
第30章  シオニズムの自己中心性、イスラエル・パレスチナ問題の難しさ
第31章  イスラエル共和国を支える欧米キリスト教勢力

第1章  ユダヤ人と言われている人々の2つの大きなグループ
ユダヤ民族という言葉がある。 此の言葉に関して、イスラエル共和国の現実に失望してイスラエル共和国を去ったユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツは著書『私のなかのユダヤ人』(三一書房)で次のように述べている。「イスラエルに滞在していたとき、ターバンを巻いたインド人が畑を耕作しているのを見た。 どこから見てもインド人で、インドの言葉、インドの服装、インドの文化を持っていた。 しかし、「彼らはユダヤ人だ」と聞いたとき、私が抱いていた「ユダヤ民族」の概念は吹っ飛んでしまった。 同じように黒人のユダヤ人がいた。 アルジェリア人のユダヤ人がいた。 イエメン人のユダヤ人がいた。 フランス人のユダヤ人がいた。 ポーランド人のユダヤ人がいた。 イギリス人のユダヤ人がいた。 まだ会ってはいないが中国人のユダヤ人もいるそうである。 どの人々も、人種や民族というより、単なる宗教的同一性としか言いようのない存在だった。  〈中略〉  私はイスラエルで一つの風刺漫画を見た。 それは、イスラエルは純粋なユダヤ人の国だと聞かされていた白人のユダヤ人がイスラエルに着いたら、黒人もアラブ人もいたので、がっかりしたというものだ。 此の黒人もアラブ人もユダヤ人だったのだ。 白人の彼は、自分の同胞として有色人種がいたので、こんなはずではないと思ったのである」。 お分かり頂けたと思うが、今やユダヤ民族なんていうものは存在しない。 ここでは民族の定義を「血筋・言語・文化・生活様式・歴史などを共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団」としておく。

ユダヤ教のラビ(ユダヤ教の指導者)であるマーヴィン・トケイヤーは著書『ユダヤ人の発想』(徳間書店)の中で次のように述べている。「日本では案外知られていないことであるが、ユダヤ人は民族ではない。 ユダヤ教に改宗した者がユダヤ人になるのである。 そして、ユダヤ教徒になる為には、ユダヤ教の戒律を守ることを宣言すればよい。 今日から豚を食べないとか、貝を食べないとか、安息日には必ず休むといった簡単な一連のルールを確認すればよいのだ」。 マーヴィン・トケイヤーが言うように、日本ではあまり知られていないが、ユダヤ人とは「ユダヤ教徒」を意味している。 だから、ユダヤ教を信仰していれば、それだけでユダヤ人として認められるという。 実際に、ユダヤ人は実に様々な人種で構成されていて、イスラエル国内には黒人(エチオピア系)のユダヤ人も居る。 コロンビア大学の名誉教授ハーバード・パッシンは『文芸春秋』(1987年4月号)の中で次のように述べた。「そもそもユダヤ人とは何か。 ユダヤ教を信奉してこそ、初めてユダヤ人だと認められる。 私はユダヤ人の両親から生まれたが、自分をユダヤ人だとは思っていない。 私はユダヤ教を信じない。 安息日にも休まない。 だから、私はアメリカ人であるが、ユダヤ人ではない。  〈中略〉  ユダヤ人である為には、何よりもユダヤ教徒でなければならないのだ」。

マーヴィン・トケイヤーやハーバード・パッシンが述べているように、厳密には 「ユダヤ人」=「ユダヤ教徒」 とすべきであろう。 しかしながら、此のように定義すると、論述しずらい場面が多々ある。 そこで、此の論考では「ユダヤ教徒の血筋を引いているが、ユダヤ教徒でない人」をも「ユダヤ人」の中に含める。 すなわち、「ユダヤ教徒」と「ユダヤ教徒の血筋を引いているが、ユダヤ教徒でない人」 とをまとめて「ユダヤ人」として扱う。

さて、ユダヤ人と言われている人々には2つの大きなグループがある。 其の1つは「セム系ユダヤ人」であり、もう1つは「白人系ユダヤ人」である。 大辞泉(小学館)によれば、セム族とは「西アジア・アラビア半島・北アフリカなどに分布し、セム語系の言語を用いる諸民族の総称。 アラビア人・エチオピア人・ユダヤ人などのほか、古代のアッシリア人・フェニキア人などが含まれる」とある。 セムとはユダヤ教聖典(キリスト教徒の言う『旧約聖書』)の創世記第6章に登場するノアの長男である。 ユダヤ人の始祖と言われているアブラハムはセムの子孫である。 創世記第11章によれば、セムの子アルパクシャドの子シェラの子エベルの子ペレグの子レウの子セルグの子ナホルの子テラの子アブラハムである。 そして、アブラハムの子イサクの子ヤコブの子孫は「セム系ユダヤ人」と呼ばれている。 一方、白人系ユダヤ人は「アシュケナジム(アシュケナジー系ユダヤ人)」と呼ばれている。 アシュケナジムとは元々はドイツ東中部に住んでいたイディッシュ語(崩れドイツ語)を話すユダヤ人を意味したが、のちに東ヨーロッパ(ヨーロッパ圏ロシアを含むものとして、此の語を使う)のユダヤ人もこれに含められ、白人系ユダヤ人を意味するようになった。 現在、白人系ユダヤ人は “ユダヤ人と呼ばれている人たち” の90%強を占めている。 セム系ユダヤ人は「セファルディム(スペイン系ユダヤ人)」と呼ばれることが多い。「セファルディム」の語源は「スペイン」の語源と同じである。 セム系ユダヤ人がなぜ「セファルディム(スペイン系ユダヤ人)」と呼ばれるかについてはこれから述べる。

紀元1世紀と2世紀にローマ帝国のユダヤ属州で、ローマ帝国の支配に反対するユダヤ教徒の反乱(第一次ユダヤ戦争、第二次ユダヤ戦争)があり、此の戦いで大敗を喫したユダヤ教徒はローマ帝国によって徹底的に弾圧された。 此の弾圧により離散したユダヤ教徒は地中海沿岸・西アジア・インドに移住した。 其の中でもイベリア半島南部(コルドバ、グラナダ、セビリア)に移住した者が多かった。 イベリア半島に移住したユダヤ教徒および其の子孫は強固な共同体を組織し、商業活動を営み、8世紀以降イベリア半島を支配したイスラム文化の中でも、強固な共同体を維持し、商業活動に励み、繁栄し裕福となり、独自性と高い文化を維持した。 これはなぜかと言うと、イスラム教徒はユダヤ教徒に人頭税を課す代わりに自治権と信教の自由を与えたからである。 コルドバは1492年までセム系ユダヤ教徒が世界で一番多くいた都市だった。

12世紀、イベリア半島のキリスト教徒が十字軍遠征に触発されて、イベリア半島をイスラム教徒から奪回しようとする運動を開始した。 所謂「レコンキスタ」(再征服)の開始である。 そして、キリスト教徒の勢力が増大するに連れて、イスラム教徒への圧迫が強まっただけでなく、ユダヤ教徒への圧迫も強まった。 13世紀には多くのイスラム教徒や多くのユダヤ教徒がキリスト教への改宗を迫られ、其の結果として、キリスト教に改宗したユダヤ教徒「コンベルソ」が大勢現れた。 特に、カスティラ王国やアラゴン王国の支配階級に入り込んでいた有力ユダヤ教徒たちは次々にキリスト教に改宗してコンベルソとなった。 コンベルソの多くはキリスト教徒を装い、秘密裏にユダヤ教の規範と習慣を守る「隠れユダヤ教徒」であった。 しかし、中には、本当にキリスト教に改宗し政権中枢に入り込み、ユダヤ教徒ではないという自らの立場を明らかにする為に、ユダヤ教徒迫害に積極的に参加した者もいた。 此の為、コンベルソは同胞から「マラノ(豚)」と呼ばれ、蔑視された。 14世紀半ばになると、ペスト(黒死病)の大流行が切っ掛けとなり、キリスト教徒の不満が裕福なユダヤ教徒に集中し、14世紀後半にはイベリア半島の各地でキリスト教徒によるユダヤ教徒殺戮が起きた。 西暦1480年にはアラゴン王国で此の国独自の異端審問が始められた。 “隠れユダヤ教徒” だと告発されたコンベルソは異端審問所に連行され、拷問にかけられ、自白を強要され、有罪とされ、其の内の多くの者(実数は不明)が火刑に処せられたと言われる。 西暦1483年にトマス・デ・トルケマーダが大審問官(宗教裁判長)になってからの12年間でコンベルソ1万3000人が処刑されたと言われる。

西暦1492年1月6日、スペイン王国のキリスト教徒から成る軍隊がイスラム教徒の最後の根拠地グラナダを攻略し、「レコンキスタ」(再征服)を完成させた。 そして、西暦1492年8月2日、スペイン王国の女王イサベル1世と王フェルナンド2世は、スペイン王国に居住していたユダヤ教徒30万人に対する国外追放令を出した。 国外追放令を受けたユダヤ教徒の大半はポルトガルに逃げ込んだ。 しかし、西暦1497年、ポルトガルでもユダヤ教徒追放令が出された。 こうしてイベリア半島から追放されたユダヤ教徒の大多数は北アフリカ・イタリア・バルカン地方・西アジア・インドに移住し、少数はアムステルダム・フランクフルト・ハンブルク・ロンドンなど、経済の主要都市へ移住した。 こうした事情で、これらのユダヤ教徒や其の子孫は「セファルディム(スペイン系ユダヤ人)」と呼ばれてきた。 そして、現在では、北アフリカ・西アジア・インドに居住するセム系ユダヤ人を一括して「セファルディム(スペイン系ユダヤ人)」と呼ぶことが多い。 しかし、厳密に言えば、此の呼び方は正しくない。 なぜなら、バビロンに捕囚されていたイスラエル人2部族(ユダ族、ベニヤミン族・・・此の2部族の子孫は紀元前5世紀頃から “ユダヤ人” と呼ばれるようになった)がペルシャ帝国によって解放されたとき、其のイスラエル人のうちの少なからぬ者はペルシャ帝国内に居残り、残りのイスラエル人はイスラエルの故地(ユダヤ地方)に戻ったが、紀元前4世紀後半には、ユダヤ地方の支配権を巡って、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアとの間で起きた戦争の影響で、ユダヤ地方に住むイスラエル人が続々とユダヤ地方を去ってアレキサンドリアに移住し、紀元1世紀から2世紀にかけてはローマ帝国によって弾圧され離散したユダヤ人の何割かは北アフリカ・西アジア・インドに移住し、紀元2世紀までにユダヤ地方を去ったイスラエル人の子孫は、西暦1492年8月2日にスペイン王国に居住していたユダヤ教徒に対する国外追放令が出された後も、北アフリカ・西アジア・インドに住み続けてきたのであり、其の結果、現在、北アフリカ・西アジア・インドに居住するセム系ユダヤ人は必ずしもスペイン系ではないからである。

近東(Near East)・中東(Middle East)・極東(Far East)という言葉は元々ヨーロッパから見て東にある地域に付けられた名称であるので、これらの言葉を使いたくないのだが、今までの慣らいで「中東」という言葉を時々使うことにする。「西アジア」は「中東」と大体同じ領域を指す。

第2章  世界史のタブーである白人系ユダヤ人のルーツ
ハイネ、マルクス、フロイト、アインシュタイン、チャップリン、キッシンジャーといった数多くの有名ユダヤ人たちは白人である。 一方、ユダヤ教聖典(キリスト教徒の言う『旧約聖書』)に登場するユダヤ人の中に白人は1人もいない。 ユダヤ教聖典に登場するユダヤ人は人種的に「セム系」と呼ばれ、黒髪・黒目で肌の浅黒い人々である。 モーゼ、ダビデ、ソロモン、そしてイエス・キリストもみな非白人だったと記述されている。 此のようにユダヤ教聖典に登場するユダヤ人は白人ではない。 それなのに、なぜ「白人のユダヤ人」が数多くいるのか。

白人系ユダヤ人である思想家アーサー・ケストラーは「白人系ユダヤ人の謎」に挑戦した。 アーサー・ケストラーは若い頃からシオニズムに参加し、ロンドン・タイムズのパレスチナ特派員を経て、西暦1957年にイギリス王立文学会特別会員に選ばれた。 アーサー・ケストラーは白人系ユダヤ人のルーツを丹念に調べ、西暦1977年に最後の著書として『第13部族』を著した。 此の本が出版された当時、世界的に有名な新聞などが此の本を絶賛してやまなかった。 此の本は、科学や思想が中心のケストラーの著作としては異色のもので、其の内容は世界史の常識を根底から揺さぶる程のものであり、あまりの衝撃ゆえ、翻訳出版を控えた国も出た。 西暦1983年3月にケストラーが夫人とともに謎の自殺を遂げた時、其の当時の新聞の死亡記事に記載された彼の著作リストの中で、此の『第13部族』は省かれていた。

今日、白人系ユダヤ人のルーツは多くの研究者によって研究されており、書簡や記録に基づいた綿密な学術的研究によって、以下に記すような歴史的事実が明らかとなっている。

7世紀頃、黒海北岸からカスピ海にかけての平原地帯に人口が100万人程度の「ハザール(カザール)王国」という巨大王国があった。


其の国民(ハザール人)は白人で、商人・職人・武人として優れていたが、ハザール王国は国家宗教を持っていなかった。 ハザール王国にとって不運なことに、ムハンマド(マホメット)の死(西暦632年)の後、イスラム教勢力は急速に強大化し、近隣諸国を片っ端から征服し、コーカサス地方にも侵入した。 キリスト教を国家宗教とする東ローマ帝国と新興のイスラム教勢力は、ハザール王国に隣接する形で政治的にも宗教的にも対立した。 ハザール王国は東ローマ帝国とイスラム教勢力とから宗教的な干渉を受けるようになった。 そして、ハザール王国がどちらの宗教に改宗しても、ハザール王国が戦火に巻き込まれるのは必至となった。 一般的に、ある国が他国との関係で危機的状況に陥ったときには、其の国は強い方の勢力と同盟を結ぶが、ハザール王国の王オバデアは9世紀初頭に国民をまとめてユダヤ教に改宗させ、ハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外のユダヤ教国家」となった。 彼らはユダヤ教に改宗しただけでなく、「自分たちは血統的にもアブラハムの子孫である」とし、ユダヤ人の仮面をつけた。 (注:アブラハムの子孫は必ずしもユダヤ人ではない)。 彼らがそこまでユダヤ化しようとした理由は、キリスト教もイスラム教もユダヤ教を母体にした宗教だから、ユダヤ教に改宗してしまえば、両国からの宗教的干渉を回避できると思った為であったと言う。 其の後、ハザール王国は10世紀後半にキエフ大公国の攻撃を受けて衰退し、次いで11世紀前半に東ローマ帝国とキエフ大公国との連合軍の攻撃を受けて衰退し、13世紀前半にはモンゴル軍の過酷な攻撃を受け、13世紀半ば(西暦1243年)にキプチャク・ハン国によって征服されて消滅した。 こうした状況の中で、ハザール人の大多数は西へ又は北西へ移動し、ウクライナ西部、ベラルーシ、ポーランド、リトアニア、スロバキア、ルーマニア、ハンガリー、などに住み着いた。 これらのハザール人の子孫が「アシュケナジム」と呼ばれるようになった白人系ユダヤ人である。 以上のように、8世紀以前の世界には、ごくわずかな混血者を除いて、白人系ユダヤ人はいなかったが、9世紀に大量の白人系ユダヤ人がハザール王国に出現し、13世紀前半にモンゴル軍の過酷な攻撃を受けた白人系ユダヤ人はウクライナ西部、ベラルーシ、ポーランド、リトアニア、スロバキア、ルーマニア、ハンガリー、などに移住して住み着いた。

ユダヤ教への改宗を国家的規模で推し進めたハザール王オバデアの時代から200年たったヨセフ王時代の書記は「我々の父祖の系図から、トガルマには10人の息子があったことを知った。 其の息子の名前はウィグル、デュルス、アヴァル、フン、バシリー、タルニアク、ハザール、ザゴラ、ブルガル、サビールである。 我々は7番目の息子ハザールの子孫である」という記録を残し、「ハザール人は、ノアの長男セム(褐色人種)の子孫ではなく、三男ヤペテ(白色人種)の直系子孫である」と主張した。 創世記第10章に「ヤペテの子はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トゥバル、メシェク、ティラスである。 ゴメルの子はアシュケナツ、リファト、トガルマである」とある。

ハザール系ユダヤ人問題と言えば、アーサー・ケストラーが有名である。 しかし、彼は最初の発見者ではない。 アーサー・ケストラーよりも前に、ハザール系ユダヤ人問題をとりあげた人々がいた。 其の人たちを紹介しよう。
● アルフレッド・リリアンソールはイスラエル国の成立以来、一貫して反シオニズムの立場に立つジャーナリストである。 彼の父方の祖父は白人系ユダヤ人で、祖母はセム系ユダヤ人であった。 彼はアーサー・ケストラーの著作『第13部族』より2、3年も早く『イスラエルについて』という本を書き、其の中で白人系ユダヤ人のルーツについて次のように述べた。「東ヨーロッパ及び西ヨーロッパのユダヤ人たちの正統な先祖は、8世紀に改宗したハザール人たちである。 此のことはシオニストたちのイスラエルへの執着を支える一番肝心な柱を損ねる恐れがある為、全力を挙げて暗い秘密として隠され続けて来た」。
● 古典的SF小説『タイムマシン』を書いたイギリス人社会主義者H・G・ウェルズ(西暦1866年〜1946年)は『歴史の輪郭』(西暦1920年)の中で次のように述べた。「ハザール人は今日ユダヤ人として偽装している。 ユダヤ人の大部分はユダヤ地方(パレスチナ)にいなかったし、また決してユダヤ地方から来たのではない」。
● ハーバード大学のローランド・B・ジャクソン教授は西暦1923年に次のように述べた。「ユダヤ人を区別するのに最も重要な要素は、ハザール人の8世紀におけるユダヤ教への改宗であった。 これらのハザール人にあって、私たちは東ヨーロッパの殆(ほとん)どのユダヤ人の起源を十中八九、ここに見出すのである」。
● イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は西暦1944年に『ハザリア』という著書を出版し、次のような見解を発表した。「これらの事実から、ハザールのユダヤ人と他のユダヤ・コミュニティの間にあった問題、および、ハザール系ユダヤ人がどの程度まで東ヨーロッパのユダヤ人居住地の核となっていたのか、という疑問について、新たに研究していく必要がある。 此のユダヤ人居住地の子孫(其の地にとどまった者、あるいは、アメリカや其の他に移住した者、イスラエルに行った者)が、現在の世界で “ユダヤ人” と言われる人々の大部分を占めているのだ」。
● 自然科学の教科書の翻訳者で、出版会社から頼まれて本の校正もしていたユダヤ人学者N・M・ポロックは西暦1966年8月にイスラエル政府に抗議し、次のように述べた。「イスラエル国内の60%強、西側諸国に住むユダヤ人の90%強は何世紀か前にロシアの草原地帯を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的に本当のユダヤ人ではない」。 イスラエル政府の高官はハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後には其の重要な証言をもみ消そうとした。 ポロックは自分の主張を人々に伝える為に、其の生涯の全てを費やした、と言われている。

此のように、ハザール系ユダヤ人問題はアーサー・ケストラー以前からあったのであり、アーサー・ケストラーは最初の発見者ではない。 しかし、ハザール系ユダヤ人問題を多くの人に知らしめたという点において、彼は大きく貢献したと言えよう。

宗教・民族に関して数多くの著書を出している明治大学の越智道雄教授は、ハザール人とアシュケナジムについて次のように述べている。「アシュケナジムは、西暦70年のエルサレムの『ソロモン第二神殿』崩壊後、ライン川流域に移住したユダヤ人の子孫である、と言い伝えられてきたが、近年では、彼らは、7世紀に黒海沿岸に『ハザール王国』を築き9世紀初めにユダヤ教に改宗したトルコ系人種ハザール人の子孫とされてきている。 ハザール王国は10世紀後半にキエフ大公国の攻撃を受けて衰退し、13世紀半ばにキプチャク・ハン国によって征服されて消滅した。 こうして歴史の彼方へ消えていったハザール人こそ、キリスト教とイスラム教に挟撃された改宗ユダヤ教徒だった。 2つの大宗教に呑み込まれずに生き延び、後世ポグロムやホロコーストに遭遇したのがハザール人の子孫だったとは、ふしぎな因縁である。  〈中略〉  現在、セファルディムが数十万、アシュケナジムが一千万強と言われている」。

西暦1992年8月20日付の朝日新聞夕刊は、アシュケナジムの由来まで踏み込まなかったものの、次のような驚くべきニュースを報じた。「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の遊牧民帝国があった。 9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗し、ユダヤ人以外のユダヤ帝国という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されて来た。  〈中略〉  この7月、報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で一週間の発掘調査をし、カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した」。

此の発掘調査に参加した広河隆一氏は次のように語った。「ロシアはロシア・キエフ公国に自身の起源を求め、ロシア・キエフ公国がハザール帝国という文明国の影響を受けたことを認めたがらない。  〈中略〉  このハザール帝国は、世界史で果たした大きな役割にもかかわらず、ほとんど知られてこなかった。 この国はビザンチンと同盟して、ペルシャやイスラム軍の北進を妨げたのである。 ハザールがなかったら、ヨーロッパはイスラム化され、ロシアもアメリカもイスラム国家になっていた可能性が高いという学者も多い。  〈中略〉  ハザール帝国の “ユダヤ人” はどこに消えたか。 ダゲスタン共和国(北カフカース地方とカスピ海の間にある、ロシア連邦を構成する共和国)には今も多くのユダヤ人が住んでいる。 彼らはコーカサス山脈の山間部に住むユダヤ人だったり、黒海のほとりにいたカライ派ユダヤ人の末裔だったりする。 このカライ派ユダヤ人たちは明らかにハザール人を祖先に持つ人々だと言われている。 そして、彼らはハザール崩壊後、リトアニアの傭兵になったり、ポーランドに向かったりした。  〈中略〉  私はチェルノブイリの村でもユダヤ人の居住区の跡を見たし、ウクライナ南部では熱狂的なユダヤ教徒の祭りに出合った。 『屋根の上のヴァイオリン弾き』はこの辺りのユダヤ人居住区『シュテートル』を舞台にしたものだ。 其の居住形態はヨーロッパ南部の『ゲットー』とは全く異なる。 そして、この『シュテートル』がハザールの居住区の形態だと指摘する人は多い。  〈中略〉  ハザール崩壊後しばらくして、東欧のユダヤ人口が爆発的に増えたのはなぜかという謎がある。 正統派の学者は否定するが、ハザール人が流入したと考えなければ、この謎は解けないと考える人が意外と多いのだ。  〈中略〉  現代ユダヤ人の主流をなすアシュケナジムと呼ばれるユダヤ人は、東欧系のユダヤ人が中心である。 約束の地に戻ると言って、パレスチナにユダヤ国家イスラエルを建国した人々はポーランドやロシアのユダヤ人たちだ。  〈中略〉  ハザールの遺跡には、現在に至る歴史の闇を照らす鍵が隠されていることだけは確かである」。

ヴォルガ川はかつて “イティル川” と呼ばれ、カスピ海は今でもアラビア語やペルシャ語で “ハザールの海” と呼ばれている。 今回の発掘調査で発見された遺跡群はシオニストたちに「おまえたちの故郷はパレスチナではなく、黒海北岸からカスピ海にかけての平原地帯である」と訴えているようだ。

長い間、謎とされてきた「ハザール王国」。 学術的な分野での研究は着実に進んでおり、様々な実態が明らかにされ続けている。 今後、ますます「ハザール王国」を研究する学者や研究機関は増え、「ハザール王国」の実態は更に解明されていくだろう。

血統的に本当のユダヤ人(正統ユダヤ人)とはユダヤ教聖典(旧約聖書)に登場するヤコブ(セムの子孫)の子孫を意味する。 短く言い換えれば、血統的に本当のユダヤ人(正統ユダヤ人)とはセム系ユダヤ人を意味する。 ヤペテはノアの三男であるが、ヤペテの子孫はユダヤ教徒であるにしても、血統的に本当のユダヤ人(正統ユダヤ人)ではない。 白人系ユダヤ人は血統的に本当のユダヤ人(正統ユダヤ人)ではない。 白人系ユダヤ人はセム系ユダヤ人とは別系統のヤペテ系人種である。 白人系ユダヤ人の故郷はパレスチナではない。 白人系ユダヤ人の故郷は黒海北岸からカスピ海にかけての平原地帯である。

第3章  ハザール王国の歴史
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ハザール(カザール)王国は7世紀にハザール人によって黒海北岸からカスピ海にかけて築かれた巨大国家である。 この国は9世紀初めに国民の大部分がユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない “ユダヤ人以外のユダヤ教国家” となった。 この謎に満ちたハザール王国の歴史を誕生から滅亡まで、大雑把に追っていきたい。

■ ハザール王国の誕生
ハザール王国の揺籃の地はカスピ海沿岸の草原である。 この草原には多種多様な民族が居住していた。 旅行家・地誌家や東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の著述家は、これらの民族が絡む様々な事件についての記録を後世に残した。 ただし、ハザール人がいつ頃登場したのかについての具体的な記録はない。 西暦448年、東ローマ帝国からフン族の王アッチラへ送られた使節団の報告の中に、戦士民族としてのハザール人が登場している。 この時期のハザール人はフン族の支配下で活動していたようである。 アッチラの死後、フン帝国が崩壊すると、東ヨーロッパに権力の空白地が生じた。 すると、そこに幾つもの遊牧民が次々と押し寄せた。 6世紀初頭、ハザール人は南コーカサス(現グルジアと現アゼルバイジャン)を占領した。 6世紀においてハザール人はコーカサス山脈の北にいる種族の中で最も有力な種族となった。 その後、ハザール人は台頭してきた突厥の支配下に組み込まれた。 西暦627年、東ローマ帝国の皇帝ヘラクレイオスはササン朝ペルシャ帝国との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結した。 ハザール軍は4万人の兵力でササン朝ペルシャ帝国の首都クテシフォンに迫った。 この時がビザンチン史料にハザール人の初登場するときである。 7世紀中頃、ハザール人は突厥の支配から脱して独立し、ハザール王国(カザール王国)を建てた。 ハザール人は勢力を急速に拡大していき、アゾフ海沿岸のブルガール人を服従させ、黒海北部沿岸地方・クリミア半島を掌中に収めた。

■ イスラム教勢力との戦いと東ローマ帝国との同盟
ハザール王国が国力を充実させていた頃(7世紀後半)、新たな敵が南方から台頭してきた。 新興のイスラム教勢力である。 イスラム軍はその眼差しを北方に向け、コーカサス地方でハザール軍と戦闘を交えた。 特に西暦721年から737年までは、イスラム教勢力とハザール王国との間で大きな戦争が続いた。 イスラム軍は繰り返しコーカサス地方に侵入し、都市を破壊し、集落を焼き払い、耕地・農園を蹂躙し、冬営地から家畜群を略奪し、住民を捕らえ、奴隷として連れ去った。 しかし、ハザール軍はイスラム軍に執拗に抵抗し、イスラム軍の北コーカサスへの侵入を阻止した。 イスラム史料では、この戦争で双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。 この戦争以降、ハザール王国とイスラム教勢力との戦争に関する記録はない。 この戦争の後、ハザール王国とイスラム教勢力との関係は落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。

イスラム軍は西暦711年にジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入し、西ゴート王国を滅ぼし、更にピレネー山脈を越えてフランク王国に入ったが、西暦732年、トゥール・ポワティエ間の戦いで敗北し、ピレネー山脈の南に退いた。 イスラム軍は東方では中央アジアまで進出したが、西暦751年、タラス河畔の戦いで唐に敗れ、120年間におよんだイスラム教徒の征服戦争は終了した。

ハザール王国は7世紀前半にはササン朝ペルシャ帝国と戦い、7世紀後半からはイスラム教勢力と激しい戦いを繰り返したが、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とは同盟関係にあった。 ハザール王国と東ローマ帝国の同盟関係は次の出来事に象徴されている。 東ローマ帝国の皇帝レオン4世(在位775年〜780年)はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。 彼は、前皇帝コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれた混血であった。 この結婚は、東ローマ帝国とハザール王国の友好を願って、西暦732年に行なわれた。 イスラム軍のコーカサス地方への侵入以降、ハザール王国の首都はカスピ海西岸のサマンダルに移され、更に、ヴォルガ川がカスピ海に注ぐ河口付近の都市イティル(現在のアストラハンから南南西に40km?)に移った。 ハザール王国は8世紀末まで平和を享受した。

■ ハザール王国のユダヤ教への改宗、キエフ大公国の台頭
8世紀に入ると、新たな強敵が北方から台頭してきた。 北方民族ヴァイキングの一派ルス人(後のロシア人)である。 彼らは8世紀半ばには現在のヨーロッパ圏ロシアの北部に「ルーシ・カガン国」という都市国家群(中心都市はノヴゴロド)を形成した。 9世紀に入ると、ルス人はヴォルガ川を使って南下し、カスピ海にまで進出した。 また、この時期のハザール王国内では、国の将来を左右する大きな変化が生じていた。 8世紀末から9世紀初頭にかけて、ハザール王オバデアの国政改革(799〜809年)により国民の大部分がユダヤ教に改宗し、ハザール王国は世界史上、類を見ない “ユダヤ人以外のユダヤ教国家” となった。 彼らはユダヤ教に改宗しただけでなく、「自分たちは血統的にもアブラハムの子孫である」とし、ユダヤの仮面をつけた。 しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は次第に悪い結果を生み出していった。 もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。 ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとか統一されていた国内の微妙なバランスを崩すことになった。 ハザール人の貴族の間では、ユダヤ教を受容する国王派と、ユダヤ教を受容しない地方貴族派との対立が目立つようになった。 こうした不安定情勢の中で、西暦834年、ハザール王は、ルス人の侵入に対する砦の建設援助を東ローマ帝国に求め、「サルケル砦」が建設された。 このサルケル砦のおかげで、ドン川の下流域やヴォルガ・ドン水路に沿ったルス人の艦隊の動きを封じることができた。 西暦835年頃、ハザール王国内で地方貴族派により反乱の火の手が上がったが、国王派が勝利した。 反乱者の多くは殺され、一部は国外に逃れた。 この反乱は、反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。 この反乱貴族は家族とともにアゾフ海東岸近くのロストフに亡命した。 ロストフはルス人の商人団が築いた根拠地である。 ここでルス人の商人団長の娘とハザール反乱貴族の息子との婚姻が行なわれた。

西暦862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた。 ルス人リューリクが率いるルーシ・カガン国の軍勢が、それまでハザール王国の支配下にあった主要都市キエフを無血占領したのである。 その後、キエフはルス人の町として発展し、現在のヨーロッパ圏ロシアの北部からドニエプル川上流域・中流域とドン川上流域にまたがる広大な「キエフ大公国」が成立した。 10世紀半ばまでの間、ルス人の攻撃は主として東ローマ帝国に向けられていた。 ルス人とハザール人との間には摩擦や衝突はあったものの、この両者は交易を基礎とした関係を結んでいた。 ハザール人はルス人の交易ルートを押さえ、東ローマ帝国やイスラム帝国を目指してハザール王国を通り抜けていく交易物資に10%の税金を課していた。

■ ハザール王国の衰退
東ローマ帝国とキエフ大公国とは互いに紆余曲折はありながらも、次第に親交を深め合うようになった。 それに連れて、ハザール王国の地位は低下していった。 東ローマ帝国とキエフ大公国との交易物資に10%の税金を課すハザール人の存在は、東ローマ帝国の官僚にとってもキエフ大公国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となった。 9世紀末、ルス人の艦隊がカスピ海沿岸を侵略し始めた。 そして、10世紀に入って西暦913年、800隻からなるルス人の大艦隊がカスピ海沿岸にやってきて、事態は武力衝突へ進んだ。 この侵略によって、ルス人はカスピ海に足場を築いた。 西暦965年、キエフ大公国のスビャトスラフ大公はハザール王国に戦争を仕掛け、ハザール王国のサルケル砦を落とし、ハザール王国の都市を次々に攻略し、首都イティルを攻撃した。 こうして、ハザール王国はキエフ大公国の攻撃を受けて衰退した。

12世紀に作成されたキエフ大公国の『原初年代記』によれば、西暦986年にハザール王国のユダヤ教徒がキエフ大公国のウラジミール公(在位:980年〜1015年)にユダヤ教への改宗を進言したとある。 しかし、ウラジミール公は西暦988年に先進的な文明国であった東ローマ帝国からキリスト教を取り入れ、自国にキリスト教文化を広めた。 また、同じ時期にウラジミール公は東ローマ帝国の王女アンナと結婚した。 これによって、ハザール王国と東ローマ帝国との同盟は解消し、キエフ大公国と東ローマ帝国との「対ハザール同盟」が成立した。

その当時、この地域で帝国としての地位を認められていたのは、東ローマ帝国・イスラム帝国(アッバース朝)・ハザール王国の3つであった。 東ローマ帝国の王女アンナはキエフ大公国のウラジミール公に嫁いだが、王女アンナはその前にドイツのオットー2世に求婚された際、これをすげなく拒否した。 理由は格が違うというものであった。 その王女アンナがウラジミール公に嫁いだということは、東ローマ帝国とキエフ大公国の格が違わなかったことを示している。 それはキエフ大公国がハザール王国の後継であると思われていたからであった。 ウラジミール公が、東ローマ帝国の文献で、時々、ハン(汗)とかカガン(可汗)というハザール特有の呼び名で呼ばれているのは、これを反映している。

西暦1016年、「対ハザール同盟」を結んでいた東ローマ帝国とキエフ大公国との連合軍がハザール王国に侵入した。 ハザール王国東部の諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われ、ハザール王国西部(クリミア半島含む)では、被害は比較的少なかったが、それでも都市は荒れて、交易路は乱れた。 ハザール王国はそれ以降13世紀半ばまで、領土はかなり縮小したものの、なんとか存続し、ユダヤ教の信仰を保持した。

■ キエフ大公国の分裂・消滅。キプチャク・ハン国の成立。ハザール王国の消滅
キエフ大公国は西のカルパチア山脈から東のヴォルガ川にかけて、南の黒海から北の白海にかけて勢力を誇るようになった。 しかし、キエフ大公国は11世紀後半から内乱に悩まされ、更に遊牧民族クマン人(ポロヴェツ人)の執拗な攻撃を受けるようになり、其の為、キエフ大公国の人々は徐々に北の森林地帯(ノヴゴロド、モスクワ方面)へ移って行った。 こうして、12世紀前半にキエフ大公国は分裂し、ロシアはノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国など、幾つかの独立国が割拠する場となり、キエフ大公国は消滅した。

モンゴル帝国を興したチンギス・ハン率いるモンゴル軍は西暦1219年から1225年にかけて中央アジア、イラン、コーカサス、南ロシア(かつてハザール王国があった地域)への遠征を行ない、此れらの地域を武力で制圧して支配下に置いた。 そして、西暦1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫バトゥが東ヨーロッパ遠征に出発した。 バトゥ率いるモンゴル軍はヴォルガ川中流域からロシアに侵入し、ロシアの白人防衛軍を圧倒的に打ち負かしてロシアの大部分を占領し、更に、ポーランド王国やハンガリー王国にも侵入し、ポーランド王国やハンガリー王国の白人防衛軍を圧倒的に打ち負かした。 そして、バトゥ率いるモンゴル軍は此れらの地域(ロシア、ポーランド王国、ハンガリー王国)の白人の食糧や財宝を略奪する為に此れらの地域の白人を無差別に殺しまくり、特にポーランド王国、ハンガリー王国の2国を完膚無きまでに荒らし回った。 第2代モンゴル帝国皇帝オゴタイ・ハン(チンギス・ハンの三男)が1241年12月に死去し、其れに伴ってモンゴル遠征軍全軍に対する帰還命令が1242年3月にバトゥに伝えられると、バトゥは程なくしてポーランド統治とハンガリー統治とを諦め、バトゥ率いるモンゴル軍はヴォルガ川まで後退した。 西暦1243年、バトゥはヴォルガ川下流河岸の都市サライ(現在のアストラハンから北北西に120km)を首都として「キプチャク・ハン国(西暦1243年〜1502年)」を建てた。 こうして、キプチャク・ハン国はロシアの大部分を統治することになり、ここにロシア人の言う「タタールの頸木(くびき)」が始まった。 キプチャク・ハン国が西暦1243年に建てられた時点でハザール王国の首都イティルはキプチャク・ハン国によって征服され、ハザール王国は消滅した。

ハザール王国が消滅した頃、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残した。 西暦1245年、ローマ教皇イノセント4世はキプチャク・ハン国の首領バトゥに使節団を送った。 新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった。 使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にキプチャク・ハン国の首都サライに到着した。 この使節団の長だった修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。 その歴史的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある。 そのリストの中でコーカサス山脈の北に住む人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで「ユダヤ教を信じるハザール人」の名がある。 今のところ、この記録が民族としてのハザール人についての最後の公式記録とされている。

ハンガリーの歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8〜9世紀のマジャール社会』でハザール人に数章をあてている。 それは8世紀〜9世紀において、マジャール人(ハンガリー人)はハザール人に支配されていたからである。 しかし、ユダヤ教への改宗には一節をあてているのみで、しかも、困惑をあらわにし、次のように述べている。
我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗教の問題には読者の注意を喚起しなければならない。 支配階級の公式宗教となったのはユダヤ教であった。 いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。 しかし、我々は次のような所見を述べるにとどめたい。 このユダヤ教への公式の改宗は、東ローマ帝国によるキリスト教伝道活動や東からのイスラム教の影響およびこれら二大勢力の政治的圧力をはねつけて行なわれた。 しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく、むしろ、ほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。 これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである。

■ ハザール王国に対する欧米歴史学者の評価
カール大帝が西ローマ帝国皇帝として戴冠した頃(西暦800年)、コーカサス山脈とヴォルガ川との間はハザール王国によって支配されていた。 その勢力の絶頂期は7世紀から10世紀にかけてであった。 この王国は近代ヨーロッパの運命をも左右する重要な役目を果たした。 欧米の歴史学者はキリスト教側からの視点で、このハザール王国が果たした役割を高く評価している。 アラブの歴史学者だったら、イスラム教側からの視点で、また違った評価を下すであろう。

ハザール史の指導的権威であるコロンビア大学のダンロップ教授は次のように述べている。
ハザール王国はアラブ軍の侵攻を遮るような位置にあった。 モハメッドの死(西暦632年)の数年後、アラブ軍は2つの帝国を残骸と化して嵐のように通り抜け、すべてを奪い去り、コーカサス山脈の大障壁に達した。 この障壁を越せば、ヨーロッパヘの道が開けている。 しかし、コーカサスの地で組織的なハザール兵力がアラブ軍を迎え撃ち、アラブ軍の長征がこの方向へ伸びるのを防いだのである。 100年も続いたアラブ人とハザール人の戦いはほとんど知られていないが、このような歴史的重要性を持っている。 カール・マルテルに率いられたフランク人はツールの平野でアラブ人の侵攻の潮流を変えた(西暦732年のトゥール・ポワティエ間の戦い)。 同じ頃、ヨーロッパに対する東からの脅威もそれに劣らず大きかったが、勝ち誇るアラブ軍はハザール軍に押し止められた。 コーカサスの北方にいたハザール人の存在がなければ、東方におけるヨーロッパ文化の砦であるビザンチン帝国はアラブ人に包囲され、キリスト教国とイスラム教国の歴史は今日我々が知っているものとは大きく違っていただろう。 それにはほとんど疑いの余地はない。

ソ連の考古学者で歴史学者のアルタモノフも次のように述べ、ダンロップ教授と同じ見解を示した。
9世紀に至るまで黒海の北、隣接する草原地帯とドニエプル川の森林地帯でハザール王国に対抗できる集団はなかった。 150年間にわたってハザール王国は東ヨーロッパ南半分の並ぶ者なき王者であり、アジアからヨーロッパへ通じるウラル・カスピ海の出入口を守る強力な砦となっていた。 その期間、彼らは東からの遊牧民の猛襲を押し戻していたのである。 ハザール王国は東ヨーロッパ最初の封建国家で、ビザンチン帝国やイスラム帝国にも匹敵する。 ビザンチン帝国が耐えられたのは、コーカサスへのアラブの潮流に対抗したハザール王国があったからである。

ソ連アカデミー考古学研究所スラブ・ロシア考古学部門部長のプリェートニェヴァ博士も次のように述べ、同じ見解を示した。
ハザール王国は東ヨーロッパ諸国の歴史に大きな役割を演じた。 アラブ人の侵略に対する盾の役割である。 盾といっても単なる盾ではない。 他国の民なら名を聞いただけでも震え上がる猛将が率いるアラブ軍の攻撃を何度も撃退した盾である。 ハザール王国の役割は、ビザンチン帝国にとっても掛け替えのないものであった。 ハザール王国との戦争を遂行するため、アラブ軍はその大勢力を、ビザンチン帝国との国境から常に遠ざけざるを得なかった。 ハザール対アラブの戦争が行なわれる間は、ビザンチン帝国はアラブ勢力に対し、ある程度であるとしても、軍事上の優位を保持することができた。 イスラム帝国の北辺を侵すようにハザール王国をけしかけたのはビザンチン帝国であり、それも一度にとどまらなかったことは疑問の余地がない。

オックスフォード大学のロシア史の教授ドミートリ・オボレンスキーも次のように述べている。
北に向かったアラブ人の侵略に対してコーカサスの前線を守りきったことが、ハザール人の世界史への大きな貢献である。

■ 『ハザール 謎の帝国』 訳者の前書き
「ハザール王国」の歴史については、S・A・プリェートニェヴァ著『ハザール 謎の帝国』(新潮社)が詳しい。 参考までに、この本の「訳者まえがき」を抜粋しておきたい。 かなり重要なことが書かれている。 因みに、訳者の城田俊氏はモスクワ大学大学院終了のロシア語教授である。
──訳者の前書き──
ハザールの首都発見のニュースが日本中を駆け巡ったのは訳者が本書を訳しかけていた1992年8月のことである。「カスピ海の小島に防壁と古墳」(毎日新聞)、「ユダヤ帝国ハザール幻の首都? ロシアの学者・日本の写真家ら発見」(朝日新聞)、「東欧ユダヤ人のルーツ解明に光」(読売新聞)、これらが大新聞の紙面を飾った見出しであるが、謎の国ハザールについての日本最初の大々的新聞報道を胸躍らせて読んだ人はあまり多くはなかったのではなかろうか。 それほどハザールは日本ではなじみがない。 ハザール人は6世紀ヨーロッパの東部に突如出現した騎馬民族である。 出自は定かではないが、民族集団として注目を受けるようになって以来、アルタイ系騎馬民族の諸相を色濃く持つ。 トルコ系言語を話し、謎めいた突厥文字を使用する。 彼らは近隣の民族を圧倒し、7世紀中頃、王国を築き、カスピ海沿岸草原、クリミア半島に覇を唱えるが、キリスト教のビザンチン帝国とイスラム教のアラブ帝国の狭間に立ってユダヤ教を受容して国教とするという史上稀有に近い行動をとった。 王国の底辺を支えた民の人種は雑多と想像されるが、国家建設の中核となったのは、170年余にわたって万里の長城の内外で中国と激烈な死闘を演じ、遂に唐の粘り強くかつ好智にたけた軍事・外交の前に敗れ去り、新天地を求めて西へ走った突厥の王家、阿史那(あしな)氏の一枝であったこともまた興味を引くところである。 まさに東西交流の要所にあって、両者を強く結びつける役をはたした民族であり、国家であった。 マホメットの死後まもなくアラブ勢力は急速に強大化し、近辺諸国を片っ端から征服し始めた。 北に向かった大軍勢はコーカサスヘと突入するが、それに立ちはだかったのは雪を頂く峨峨たる山脈だけではない。 要所要所を固めていたハザールの組織的軍隊であった。 ハザール防衛軍は伝統的騎馬戦闘術(例えば馬車による円陣)までも繰り出して、果敢な抵抗を行ない、アラブ侵入軍を幾度も南へと撃退した。 もし、アラブ軍がコーカサス山脈を通り抜ければ、東ヨーロッパは勿論、中央ヨーロッパヘの道は広々と開かれていた筈である。 ロシアもポーランドもハンガリーも、はては、チェコもイスラム化したかも知れない。 ハザールはアラブとの戦役を1世紀あまりに渡り闘い抜き、イスラム教勢力の東方からのヨーロッパ侵入を食い止め、現在あるかたちでのキリスト教世界を守ったのである。 それは、カール・マルテル指揮下のフランク王国騎兵軍がピレネー山脈を越えて進撃してきたアラブ軍をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退したのに比肩される歴史的大功績である、と言うキリスト教世界の学者もいる。 しかし、一方は歴史の教科書に大書され、ヨーロッパ人には常識となるに対し、ハザールの「功績」は忘れられ、無視されてきたのは、そのルーツが我々と同じアジア人であったためであろうか。 それとも国教がユダヤ教であったためであろうか。 ユダヤ人はローマ帝国により国家を奪われ、国無しの民として世界に離散流浪し、迫害に晒されるが、中世に至って、ハザールというユダヤ教国が東方の遥かかなたの草原のどこかにあるという噂を耳にし、驚喜し、鼓舞され、ハザール国探索活動を展開した。 最も熱心かつ精力的であったのは、10世紀中葉、スペインのコルドヴァ王国の外交・通商・財政の大臣の地位にあったユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトであった。 彼は、恐らく世界各地に張り巡らされていたであろうユダヤ商人の情報・連絡網を頼りに、遂にハザール国王に手紙を届け、返書を受け取ることに成功した。 2人の往復書簡は千余年の時の破壊力に耐え、現在に伝えられ、学者によって解読された。 また、前世紀末にはカイロのユダヤ教会堂の文書秘蔵室から大量の古文書が出てきたが、その中にハスダイの探索活動やハザールのユダヤ教徒の救済活動に関する文書が発見され、ハザール国の内情がより細密に描けるようになった。 これだけでも伝奇に満ちた一篇の物語となるが、ハザール史そのものは現在に生きる我々に興味尽きない問題と謎を投げかける。 中東和平を契機に世界各地でユダヤ人問題への関心が高まっている。 政治や国際関係に関心がない人でも、学芸分野や政界・経済界でのユダヤ人天才・実力者の活躍には目を見張らざるを得ない。 このように世界で耳目を集めるユダヤ人の大部分は、モーセなど『旧約聖書』に登場するユダヤ人とは全く関係なく、10世紀末、ルシ(ロシア)に滅ぼされた後、東欧に離散したハザール人の末裔であるという説が広まっている。 もし、これが本当なら、血で血を洗う戦争を繰り返し、今も流血の惨事を日常的に引き起こす原因となったイスラエル建国とは一体何だったのか、ということになりかねない。 そのような説が正しいかどうか、曲がりなりにも判断するためには、ハザール史のある程度正しい知識が我々に必要となろう。 ハザールが東アジアの島国に住む我々日本人にとって何故面白いかは、日本の建国に関し騎馬民族説が声高に唱えられるということだけではない。 ハザールでは二重王権が実践されていたということが1つの理由となるのではなかろうか。  〈後略〉                1996年1月   城田 俊

第4章  出ラインラント仮説の検証
原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb100.html
此の章ではアーサー・ケストラーの 『第13支族』 に基づいて論述する。
現在、世界中のユダヤ人の90%強は白人系ユダヤ人である。 白人系ユダヤ人はアシュケナジムと呼ばれ、北アフリカ・西アジア・インドに居住するセム系ユダヤ人と区別されている。 白人系ユダヤ人(アシュケナジム)については、20世紀前半までは、「第一次ユダヤ戦争(西暦66年〜73年)で敗北したユダヤ属州のセム系ユダヤ人の一部はドイツのラインラント(ライン川中流域)に移り住んだ。 そして、時が経ち、第1回十字軍遠征(西暦1096年〜1099年)の際、ラインラントに住んでいたセム系ユダヤ人の多くは十字軍に追われて東ヨーロッパへ移住した。 此の人たちの子孫がアシュケナジムである」という説が広く信じられてきた。 此の説は「出ラインラント仮説」と呼ばれている。 出ラインラント仮説は、ラインラントにおけるユダヤ人共同体の規模が小さかったこと、ラインラントのユダヤ人がラインラントの谷間から出て行くほどの積極性を有していたかという疑問、大した財産を持たずに広大な地域を通り抜けることの困難さ、そして、其の当時の『年代記』などに其の移動を示唆する記述が全く無いことなど、様々な問題を抱えている。 出ラインラント仮説に対して、「白人系ユダヤ人(アシュケナジム)は、7世紀に黒海北岸からカスピ海にかげてハザール王国を築き9世紀初頭に国を挙げてユダヤ教に改宗したハザール人の子孫である」という説は「ハザール起源説」と呼ばれている。 此の章では出ラインラント仮説を検証してみよう。
■ 其の1
記録に残っている限りでは、ドイツにおける最初のユダヤ人共同体は西暦906年のものである。 此の年、カロニムスという人物に率いられて、イタリアのルッカからマインツ(ライン川中流河岸の町)へ移住したユダヤ人の一団があった。 同じ頃、シュパイエル(ライン川中流河岸の町)やヴォルムス(ライン川中流河岸の町)にもユダヤ人が住んでいたという記録が見出される。 もう少し時代が下ると、メス(フランスの北東部の町)、ストラスブール(フランス北東部のライン川上流河岸の町)、ケルン(ライン川中流河岸の町)などにもユダヤ人共同体があったらしい。 此の頃のユダヤ教会の記録を見ると、ドイツでは3つの都市(マインツ、シュパイエル、ヴォルムス)だけが挙げられているにすぎない。 これらのことから、11世紀のラインラントでは、此の3都市以外のユダヤ人共同体は、まだ取るに足らない程度のものであったと見なしてよいだろう。

十字軍の遠征はローマ教皇ウルバヌス2世(西暦1042年〜1099年)の「聖地エルサレムを異教徒から奪回せよ」という掛け声で始められた。 イスラム教徒だけでなく、ユダヤ教徒も討伐されるべき異教徒として扱われた。 第1回十字軍遠征(西暦1096年〜1099年)が開始されると、真っ先に血祭りの対象になったのはユダヤ教徒であった。 ローマ教会が異教徒征伐を正当化したことにより、ユダヤ教徒に対する迫害が露骨になったのである。 第1回十字軍が誕生したばかりの西暦1096年に、早くもドイツ・ラインラントでユダヤ教徒殺戮が起きた。 此の殺戮を行なったのは十字軍のドイツ人兵士だった。 彼らの装備と資金はエルサレムへ向かうには全く不充分であった。 そこで、彼らはエルサレムへ向かう前に、ライン川沿いにあるユダヤ教徒共同体を次々と襲い、略奪と殺戮を重ね、資金と物資を調達した。 此の時のユダヤ教徒死者数は、ヴォルムスで約800人、マインツで900人〜1300人と、ユダヤ側文献では一致している。 もちろん、死よりは改宗を選んだ人々もいただろうし、文献には生き残った人の数は記されていない。 しかし、十字軍兵士による虐殺があったときのヴォルムスやマインツのユダヤ教徒の数は殺されたユダヤ教徒の数よりさほど多かったとは考えられず、ヴォルムスやマインツで生き残ったユダヤ教徒の数はそれぞれ300人程度であったと推測されている。

以上のように、ラインラントのユダヤ人口は第1回十字軍遠征以前でさえ少人数であったと考えられ、十字軍が通過した後では、大幅に減少した。 しかも、其の当時、ラインラント以外のドイツにはユダヤ人共同体は無かった。 かつて、ユダヤ人歴史学者の間では、西暦1096年の第1回十字軍遠征がドイツ・ユダヤ人の大集団をポーランドへ押し出したと考えられていたようである。 此のような考えが通用していた頃は、ハザールの歴史については殆ど何も知られていなかった為、東ヨーロッパにどこからともなく出現した大量のユダヤ人の出どころが他には考えられず、辻褄の合いそうな仮説を立てたのであろう。 此の学派に属するユダヤ人歴史学者シモン・デュブノブは「東へ向かった第1回十字軍はユダヤ人集団を更に東へ追いやった」と書いたすぐ後で、「ユダヤ史にとって非常に重要な意味を持つ此の移動の状況に関して詳しい記録は一切残されていない」と付け加えざるを得なかった。 最近の彼の文献では、ラインラントからドイツ東部へ向かってのユダヤ人の移住、および、遥か東のポーランドへのユダヤ人の移住に関しては全く触れられていない。

十字軍遠征の時代(西暦1096年〜1272年)、ラインラントのユダヤ人共同体が追い込まれた悲惨な状況の記録は豊富に残されている。 例えば、自ら死を選んだ者あり、抵抗して殺された者あり、中には幸運に生き残った者もいた。 此の生き残り組は、緊急時には一応法律上はユダヤ人を保護する立場にあった司教や軍事長官の城塞に匿われた。 此の種の保護は常に有効であったとは言えないが、十字軍が嵐のように通り過ぎた後、生き残った者たちは略奪された我が家やシナゴーグ(ユダヤ教会堂)へ戻って行って、そこで新たな出発をしたのであった。 其の当時の『年代記』には、トレブやメス、其の他の地域で、此のパターンの繰り返しが見られる。 これらの史料の一つである『追想録』を書いたエフライム・バー・ヤコブも13歳の頃、ケルンからヴォルケンブルク城へ逃れた避難民の一人であった。 第2回十字軍(西暦1147年〜1149年)の時代には、マインツのユダヤ人はシュパイエルに逃れ、やがて故郷へ戻って新しいシナゴーグを再建したという。 其の当時の『年代記』には、ユダヤ人がドイツ東部へ向かって流れ出していったという記述はない。 其の当時のドイツ東部はまだユダヤ人がいない地域であり、それから200年間に渡ってもユダヤ人がいない地域であり続けた。

14世紀初頭、フランス王フィリップ4世は自身の領地内のユダヤ人全員を追放した。 フィリップ4世に追い出されたユダヤ人はフィリップ4世の領地外にあるプロバンス、ブルゴーニュ、アキテーヌ、其の他のフランス内の封建領土へ逃れて行った。 ユダヤ史研究家ミエセスは「フランスのユダヤ人が正に崩壊の危機に瀕していた此の時代にも、ドイツのユダヤ人口がフランスからの流入によって其の数を増したという記録は残されていない」と述べている。 また、フィリップ4世に追い出されたユダヤ人がドイツを通り抜けポーランドへ移動していったという記録は、此の時代には元より、他の時代にも見当たらない。

14世紀のヨーロッパにおける黒死病(ペスト)の大流行はユダヤ人にとっても悲劇であった。 クリミア半島からヨーロッパにやってきた此の疫病は、西暦1348年〜1350年の3年間だけで、ヨーロッパ全人口の3分の1から3分の2を消し去ったと推定されている。 黒死病は、十字軍に次いで、白人系ユダヤ人の起源を解明する “第2の鍵” だと長らく考えられていたのであるが、黒死病に関しても出ラインラント仮説を裏付ける証拠は皆無である。 黒死病の大流行時にも、生き残ったユダヤ人の生きる道はドイツを去ることではなく、ひたすら団結して、砦のような場所か、敵意の少ない地域に匿ってもらうというものだった。 黒死病の大流行時代にユダヤ人が移住した唯一の例として、ユダヤ史研究家ミエセスが言及しているのは、シュパイエルのユダヤ人がハイデルベルクに逃れたというものであるが、これは、ほんの10マイル(16km)程度の移動である。 黒死病の大流行は14世紀末まで続いた。 黒死病の大流行が収まったあとのフランスとドイツでは、ユダヤ人共同体は事実上壊滅したと言って良く、ほんの2、3の小集落が細々と生活していただけであった。 黒死病の大流行が収まってから100年間、スペインを除く西ヨーロッパ全域はユダヤ人が殆どいない地域であった。

16世紀〜17世紀になって、アムステルダム・フランクフルト・ハンブルク・ロンドンなど、経済の主要都市に共同体を開いたユダヤ人はセファルディム(スペイン系ユダヤ人)と呼ばれるユダヤ人である。 彼らは、西暦1492年にスペインから追放され、西暦1497年にポルトガルから追放されたセム系ユダヤ人や其の子孫である。

『ユダイカ百科事典』という面白い本がある。 これはユダヤ人の学者たちが編纂したもので、今日ではユダヤの文化・宗教・歴史・人名・地名・政治に関する最も権威ある百科事典とされているものである。 此の百科事典には「イスラエル版」と「外国版」とがあって、イスラエル版はイスラエル国内でしか読むことが出来ない。 そして、興味深いことに、イスラエル版には次のような記述がある。「東方から中央ヨーロッパに向かった移住集団が “ハザール” と呼ばれていた事実から、東欧ユダヤ人の起源がハザール王国にあった可能性を無視することはできない」。
■ 其の2
東ヨーロッパに居住する白人系ユダヤ人が使用してきた言語は「イディッシュ語」と呼ばれる。 イディッシュ語は長期に渡る複雑な過程を経て出来た言語であり、書き言葉として使われるのは19世紀になってからであり、それ以前には話し言葉としてのみ使用されてきた。 しかも、イディッシュ語には文法がなく、好きなように外国語を加えることができ、決まった発音も綴りも無かった。 イディッシュ語の単語の8割強はドイツ語と共通しており、残りの単語はヘブライ語・アラム語・俗ラテン語・ポーランド語などからの借用である。 イディッシュ語の単語はヘブライ文字を使って書かれる。 イディッシュ語はユダヤ教の礼拝に用いられ、ナチス政権によるユダヤ人迫害以前には日常の話し言葉としても広く用いられていたが、今日ではソ連やアメリカの少数の伝統主義者の間で残っているだけである。 イディッシュ語は20世紀に入ってからも、ヨーロッパの言語学者の間では「単なる奇妙な訛り言葉であり、学問の対象にはならない」と考えられていた。 現在では、イディッシュ語は絶滅しかかっている言語である為、アメリカやイスラエルでは学問の対象として注目を集めるようになった。

従来からの定説では、イディッシュ語は9世紀から12世紀の間にラインラントでドイツ語を元に興ったとされる。 ユダヤ史研究家ミエセスはイディッシュ語の語彙・音声・統語法を中世の主なドイツ語方言の幾つかと比較研究して、次のように結論した。「フランスと国境を接する地域(ラインラント)のドイツ語の言語要素はイディッシュ語には全く見られない。 J・A・バラスがまとめたモーゼル・フランコニア語起源の語彙リストのただの一語もイディッシュ語に入っていない。 西部ドイツのフランクフルト周辺のドイツ語もイディッシュ語に入っていない。 つまり、イディッシュ語の起源に関する限り、西部ドイツ語方言は除外されてよい。 イディッシュ語に最も大きな影響を与えたのは東中部ドイツ語方言である」。 此のように、ミエセスは「東ヨーロッパに居住する白人系ユダヤ人が使用してきたイディッシュ語の中に西部ドイツ語方言を起源とする語がないこと」を明らかにし、従来からの定説「イディッシュ語は9世紀から12世紀の間にラインラントでドイツ語を元に興った」を覆した。 其の結果として、出ラインラント仮説(第1回十字軍遠征の際、ラインラントに住んでいたセム系ユダヤ人の多くは十字軍に追われて東ヨーロッパへ移住した)は偽と判定された。 なぜならば、出ラインラント仮説が真であれば、東ヨーロッパに居住する白人系ユダヤ人が使用してきたイディッシュ語の中に西部ドイツ語方言を起源とする語があるはずだから。

イディッシュ語の形成過程については次のように推測される。 中世の東ヨーロッパではドイツ文化がもてはやされていた。 例えば、ポーランドに住んでいた人々はドイツ文化を喜んで受け入れ、ドイツ式のやり方を真似た。 ポーランドの貴族階級さえもドイツ式を好むようになり、ドイツから来たものは何でも美しく素晴らしいと思った。 其の当時、ポーランドに住んでいた白人系ユダヤ教徒も社会的成功の為にはドイツ語を学ばざるを得なかったであろう。 また、先住のポーランド人と商取引をする立場の白人系ユダヤ教徒は商業用ポーランド語を学ばざるを得なかったであろう。 手工業者や材木商人の白人系ユダヤ教徒はドイツ人顧客には崩れドイツ語で話し、荘園内の農奴には崩れポーランド語で話し、そして、家庭ではヘブライ語にドイツ語やポーランド語を適当に交ぜて話したものと思われる。 此のような過程で、東ヨーロッパに居住する白人系ユダヤ人が使用してきたイディッシュ語の中に東中部ドイツ語方言の語がたくさん取り込まれていき、ポーランド語なども取り込まれて、イディッシュ語が形成されていったと推測される。

ポーランドの白人系ユダヤ教徒の中で、ドイツ語の誘惑に精神的でも物質面でも抵抗をしたのはカライ派のみである。 彼らはラビの学問も物質欲も拒否した。 したがって、彼らはイディッシュ語には殆どなじまなかった。 西暦1897年の第1回全ロシア国勢調査によると、ロシア帝国(ポーランド含む)内には1万2894人のカライ派ユダヤ教徒がいた。 彼らのうち9666人がトルコ語(ハザール方言)を母語としており、2632人がロシア語を母語としており、そして、イディッシュ語を母語としている者はたった383人であった。 一般論として、移住民というものは2、3世代のうちには元の言語を捨て、新しい土地の言語を採用するものである。 例えば、現代アメリカの場合でも、東ヨーロッパからの移民の孫の世代はポーランド語やウクライナ語を話さない。 そればかりか、祖父母のしゃべるチンプンカンプンな言葉をこっけいとさえ思うだろう。 此の事から考えても、これまで多くの歴史学者たちが「ハザール起源説」を否定する根拠として、「ポーランドのユダヤ教徒がハザール語とは異なるイディッシュ語を使っていること」を挙げているのは見当違いであり、認識不足である。

以上のように、出ラインラント仮説を否定する資料はあるが、出ラインラント仮説を裏付ける資料は無いと言って良い。 私は「西ヨーロッパから東ヨーロッパへのユダヤ人の移動は無かった」と言っているのではない。 当然、ポーランドなどの東ヨーロッパには、西側から流れ込んだユダヤ人もいただろう。 しかし、それは今まで考えられてきたような規模ではなく、ごく少数だったと考えられる。

因みに、聖書に登場するイスラエル12部族の子孫たちは言語的適応性を示す見本だと言える程に、多くの言語になじんできた。 彼らが話していた言語は初めヘブライ語であるが、バビロン補囚時代になるとカルデア語、イエスの時代にはアラム語、アレキサンドリアではギリシャ語、スペインではアラビア語とラディノ語である。 ユダヤ人は、東ヨーロッパに居住する白人系ユダヤ人も、セム系ユダヤ人も、宗教上の独自性を守り続けたが、言語の方は都合の良いものをどんどん使ってきたのである。

ここからは、「白人系ユダヤ人」を「ハザール系ユダヤ人」と呼ぶことにする。

第5章  ロシアのハザール系ユダヤ人
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ハザール王国が13世紀半ば(西暦1243年)に滅亡して以降、非常に多くのハザール系ユダヤ人がヨーロッパ圏ロシアの西部に住み着いた。 ヨーロッパ圏ロシアにおける反ユダヤ主義は15世紀に始まった。 此の当時、モスクワ宮廷内にはユダヤ教信仰が広まり、高位聖職者や貴族やモスクワ大公国の王イヴァン3世(在位 西暦1462年〜1505年)の義理の娘もユダヤ教を信仰した。 これに対して、西暦1487年、ノヴゴロド大司教がハザール系ユダヤ人追放令を出し、西暦1504年にはイヴァン3世がハザール系ユダヤ人を火刑に処する命令を出した。 モスクワ大公国の王イヴァン4世(在位 西暦1533年〜1547年)もまたハザール系ユダヤ人に対する敵意を示し、ハザール系ユダヤ人を “毒薬商人” と見なし、西暦1545年にはモスクワにおいて、ハザール系ユダヤ人の商品を焼き、彼らのモスクワでの商業活動を禁じた。 ハザール系ユダヤ人追放令はそれ以後、幾度も出された。 西暦1610年にはロシア帝国の王ヴァシーリー4世(在位 西暦1606年〜1610年)がハザール系ユダヤ人追放令を出した。 西暦1727年にはロシア帝国の第3代皇帝ピョートル2世(在位 西暦1727年〜1730年)がハザール系ユダヤ人追放令を出した。 西暦1744年にはロシア帝国の第6代皇帝:女帝エリザベータ(在位 西暦1741年〜1762年)が3万5000人のハザール系ユダヤ人にリヴォニア(現エストニア南部から現ラトビア東北部にかけての地域)から9年以内に退去するように命じた。 此の退去命令に対しては、ハザール系ユダヤ人の商業活動による利益を考慮した元老院からの反対があったが、女帝エリザベータは「私はキリストの敵から利益を得たくない」として、これを拒否した。 此のように、啓蒙君主であるピョートル1世を除いて、ロシア皇帝の多くは18世紀後半のポーランド分割に至るまでハザール系ユダヤ人追放政策を取った。

ロシア帝国の第8代皇帝:女帝エカチェリーナ2世(在位 西暦1762年〜1796年)は、それまでの皇帝によるハザール系ユダヤ人政策を引き継ぎ、西暦1762年、ハザール系ユダヤ人の入国を禁止した。 しかし、其の政策は「ポーランド分割」によって無意味になった。 なぜなら、西暦1772年の第一次ポーランド分割によって20万人のハザール系ユダヤ人がロシア帝国の支配下に入ったからである。 そこで彼女は西暦1772年8月16日にハザール系ユダヤ人に対し移住禁止令を出した。 其の後、西暦1793年の第二次ポーランド分割と西暦1795年の第三次ポーランド分割によって70万人のハザール系ユダヤ人がロシア帝国の支配下に入り、短期間で合わせて90万人ものハザール系ユダヤ人がロシア帝国の支配下に入った。 其の結果として、ロシア帝国はハザール系ユダヤ人が最も多い国となった。

啓蒙主義者たちはハザール系ユダヤ人に対して宗教的な偏見を抱いていなかった。 彼らはハザール系ユダヤ人を他の全ての人々と同じ権利と義務とを備えた良き国民につくり上げようとした。 しかし、時間が経つにつれて、かなり大きな反動が現われてきた。 此のままハザール系ユダヤ人を自由にさせておいてはならないと考えたエカチェリーナ2世は、西暦1791年、ベラルーシをハザール系ユダヤ人の定住区域(身分登録地)とした。 それから2年後の西暦1793年、彼女はウクライナ(キエフを中心として東西1000kmに及ぶ地域)をハザール系ユダヤ人の定住区域(身分登録地)とした。 更に、それから2年後の西暦1795年、彼女はリトアニアをハザール系ユダヤ人の定住区域(身分登録地)とした。 其の結果として、ハザール系ユダヤ人はこれらの定住区域以外には定住できなくなった。 こうして、エカチェリーナ2世は「ハザール系ユダヤ人定住区域」の基礎を作った。 西暦1814年から1815年にかけて開かれたウィーン会議で、ワルシャワを首都とするワルシャワ公国の大部分がポーランド立憲王国としてロシア帝国の支配下に入った。 ポーランド立憲王国は西暦1831年にロシア帝国に併合されてロシア帝国領となり、間もなくハザール系ユダヤ人の定住区域とされた。 此の「ハザール系ユダヤ人定住区域」は100万平方キロメートル(日本の領土の2.7倍)の広さがあり、ロシア帝国における巨大な「ゲットー」(ユダヤ人集団隔離居住区域) のようなものであった。 此の「ハザール系ユダヤ人定住区域」には西暦1897年まで500万人強のハザール系ユダヤ人が住んでいた。 ハザール系ユダヤ人は少数の例外を除いて、第一次世界大戦中の西暦1915年に至るまで、此の区域を離れることを許されなかった。 エカチェリーナ2世が作った「ハザール系ユダヤ人定住区域」は本質的には、ロシア帝国内でのユダヤ商人の商業活動を恐れたロシア商人の要求によるものであった。
次の図で黒く塗られた部分がロシア帝国のハザール系ユダヤ人定住区域である。

ロシア帝国の第10代皇帝アレクサンドル1世(在位 西暦1801年〜1825年)は「ユダヤ人改善委員会」を設置して、漸進的にハザール系ユダヤ人を矯正して改宗させようとしたが、これはハザール系ユダヤ人の反対に遭い失敗に終わった。 そこで、次のロシア皇帝ニコライ1世(在位 西暦1825年〜1855年)は「兵営学校制度」などを施行し、ハザール系ユダヤ人強制同化政策を取った。 しかし、此の制度によって改宗したハザール系ユダヤ人はごく少数であった。 また、改宗を拒んだハザール系ユダヤ人の中には自殺した者も少なくなかった。 西暦1841年、ニコライ1世はハザール系ユダヤ人の改宗を目的とする公立学校とラビ神学校を設立し、西暦1844年にはハザール系ユダヤ人自治組織を廃止する法令を出し、西暦1851年にはユダヤ人分類計画を提案した。 しかし、これらの強制同化の試みは、あるものは廃止され、あるものはハザール系ユダヤ人の反対に遭って実施されず、全体的には失敗に終わった。 ニコライ1世の次のロシア皇帝アレクサンドル2世は、初めのうちは、自由主義的な政策を実施し、ハザール系ユダヤ人に対しても比較的寛容であったが、西暦1861年のポーランド反乱のあと、急変し、ハザール系ユダヤ人に対する政策を厳しくし、西暦1870年には都市条例を出し、ハザール系ユダヤ人が市役所職員の3分の1以上を占めることやハザール系ユダヤ人が市長職に就くことを禁止し、西暦1873年にはハザール系ユダヤ人の公立学校とユダヤ神学校を閉鎖した。 一方、ロシア帝国内においては、スラブ主義者とウクライナ民族主義者が台頭し、反ユダヤ宣伝が繰り広げられた。 其の最たるものがヤコブ・ブラフマンによって西暦1869年に出版された『カハルの書』である。 此の序文は、ハザール系ユダヤ人が国家の中に国家を形成し、其の目的は一般市民を服従させ搾取することであるという反ユダヤ宣伝になっている。 此の書は主として政府高官に好評を得た。 また、西暦1880年には新聞『ノーヴォエ・ヴレーミヤ(新時代)』が自由主義から保守主義に転じ、「ユダヤ人がやってくる」という警告文を掲載し、ハザール系ユダヤ人のロシア文化への進出の危険性を述べた。

第6章  ウクライナのハザール系ユダヤ人
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9世紀以降、ハザール王国領であったウクライナ東部(ドニエプル川の東側)では、ウクライナ人とハザール系ユダヤ人とが何世紀にも渡って一緒に暮らしてきたが、仲良く暮らして来た訳ではない。 ハザール王国滅亡(13世紀半ば)以降、ウクライナ西部(ドニエプル川の西側)には多くのハザール系ユダヤ人が住むようになった。 そうした状況の中で、ウクライナ人とハザール系ユダヤ人の間には常に社会的緊張が生じていた。 ウクライナ人が抱く反ユダヤ感情は、他のヨーロッパ諸国に負けないほど激しかった。 ウクライナを支配した民族は、ロシア人であれ、ポーランド人であれ、ドイツ人であれ、全て此の緊張関係を利用した。 ウクライナ人が支配者に反抗してウクライナ人の国家を要求すると、支配者はいつもウクライナ人を巧みに操って、彼らにハザール系ユダヤ人を攻撃させた。

西暦1648年、ボグダン・フメリニツキーを首領に頂くコサックは、ウクライナをポーランド王国の支配から解放するという大義名分で、「フメリニツキーの乱」を起こした。 彼らはポーランド王国の行く先々でハザール系ユダヤ人を虐殺し、金品を略奪した。 これにより、50万人のハザール系ユダヤ人が殺された。 此の虐殺と略奪によって、ユダヤ人共同体は壊滅的打撃を受けた。 フメリニツキーの乱はウクライナ対ポーランド王国の大規模な戦争に発展し、ポーランド王国の衰退を引き起こした。 ボグダン・フメリニツキーはロシア史においては、コサックと農民の反乱指導者として、ウクライナ東部をポーランド王国から解放し、ロシア帝国の支配に至らせたとして高く評価されている。 しかし、其の反乱において、多くのハザール系ユダヤ人を虐殺し、多くのユダヤ人共同体を破壊した為、ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。 更に、西暦1734年から1736年にかけてもウクライナにおいて「ハイダマク」という名称の集団がハザール系ユダヤ人虐殺を行なった。 此の虐殺では、フメリニツキーがやった以上にハザール系ユダヤ人虐殺が行なわれ、しかも、ロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行なった。

ウクライナのハザール系ユダヤ人は17世紀と18世紀にウクライナで起きたハザール系ユダヤ人虐殺にもめげずに仕事に励み、立ち直り、活発な商業活動を展開した。 西暦1817年、ウクライナの工場の30%はハザール系ユダヤ人が所有していたものである。 とりわけ製酒工場の90%、製材工場の56%、タバコ工場の48%、製糖工場の32%がハザール系ユダヤ人により経営されていた。 これらは中小企業にすぎないが、此のような産業から何人かのユダヤ資本家が登場してきた。 例えば、製糖業では「砂糖の王」と称されたA・ブロッキーが、鉄道建設業ではC・ポリャコフが西暦1850年から1870年にかけて第一人者であった。 また、黒海北部沿岸で西暦1883年に開始されたドニエプル運河搬業、西暦1876年に開始されたヴォルガ河蒸気船業などはいずれもユダヤ資本家によるものであった。 また、ハザール系ユダヤ人は小作雇い主としても活動し、目立つ存在であった。 ウクライナの小作農民とコサックはこんなハザール系ユダヤ人を搾取者と見なして、敵意を募らせた。 なお、注意しないといけないのは、ウクライナに住んでいたハザール系ユダヤ人の多くは都市下層民であったという点である。 ウクライナは北西ロシアに比較すると、経済的には恵まれてはいたが、ウクライナのハザール系ユダヤ人の多くは貧しかった。 当時のハザール系ユダヤ人の状況に関する調査報告には、ハザール系ユダヤ人の多くは貧困状態にあり、食事は通常、パンと野菜のみであったと記されている。 キエフのある地主の報告には、ハザール系ユダヤ人の大多数はウクライナ農民より貧しかったとさえ述べられている。

西暦1881年3月、農奴解放で知られたロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されると、此の犯行グループの中にユダヤ女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、「皇帝殺しのハザール系ユダヤ人に制裁を加えるべきだ」という煽動が民衆の間でなされた。 其の為、狂暴な反ユダヤの嵐が吹きまくり、ロシア帝国領ウクライナでポグロムと言われる、ハザール系ユダヤ人に対する集団的・計画的な虐殺が西暦1906年まで爆発的に、且つ、大規模に、且つ、ロシア帝国のハザール系ユダヤ人定住区域の全域に広がりながら、断続的に起きた。 警察や軍隊までがこれらの迫害を見物し助長した。 更に、キリスト教会はこれらの迫害に対して沈黙を保つどころか、支持さえした。 此の一連のポグロムにより、十数万人のハザール系ユダヤ人が殺されたと言われている。 ナチスによるユダヤ人迫害が発生するまで、ロシア帝国はユダヤ人が最も大量に殺された国であった。 此のポグロムの加害者はウクライナ人の農民と町人であり、それも下層民が多く、被害者はハザール系ユダヤ人の商人であった。 此の一連のポグロムの影響で西暦1880年代から1914年までに、300万人近くのハザール系ユダヤ人がロシア帝国を離れて他国へ移住した。 其のうちの280万人はアメリカ合衆国に移住し、5万人は開拓民としてパレスチナに移住・入植した。
   西暦1881〜1884年のポグロムの発生状況    西暦1903年〜1906年のポグロムの発生状況
   

有名なミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は、東欧ユダヤ文学者であるシャローム・アライヘムの『テヴィエの7人の娘たち』を原作としているが、これはロシア帝国の末期にウクライナで生活していたハザール系ユダヤ人がポグロムに遭遇する物語である。 此の作品にはハザール系ユダヤ人を迫害するウクライナ人の暴動ぶりが描かれている。 此のように、ウクライナで生活していたハザール系ユダヤ人たちは、其の地のウクライナ人によって、とんでもない迫害を受けた。

第7章  ポーランド王国のハザール系ユダヤ人
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興味深いことに、ポーランド建国にまつわる言い伝えの中に、ユダヤ教徒が重要な役割を担っている話がある。 此の言い伝えによると、スラブ系部族同盟がポーランド王として選んだ人物はアブラハム・プロコウニクという名のユダヤ教徒であった。 彼はへりくだって王位を固辞し、先住民族の中からピャストという農民をポーランド王に推した。 こうして、ピャストはポーランド王になり、ピャスト王朝は西暦962年頃から1370年までポーランド王国を支配した。 ピャスト王朝下のポーランド人と其の隣人のリトアニア人は急速に其の領土を拡張した。 彼らはキプチャク・ハン国(西暦1243年〜1502年)の支配下に入った地域からハザール系ユダヤ人・アルメニア人・ロシア人などの外国人を積極的に呼び入れ、開拓民とした。 其の当時のポーランド王国は農業国で、其の国土は貴族の所有する荘園に分割され、其の土地は農奴によって耕されていた。 ポーランド王国に呼び入れられたハザール系ユダヤ人は初めのうちは大都市に住んでいたが、やがてポーランド王国全域の町や村に住みつき、そこにユダヤ人共同体集落「シュテットル」を作って生活した。 彼らは貴族の土地を管理したり、衣服や贅沢品や材木や毛皮を商ったり、靴作り・帽子作り・服作りなどの手工業を営んだりして、生計を立てていた。 彼らはポーランド政府から自由を与えられ優遇され、広く各種の職業に従事するようになり、其の生活はうまくいっていた。 王侯・貴族に重用されてポーランド王国の政治を支えたハザール系ユダヤ人もいた。 其の当時のポーランド王国の商業はドイツほど発展していなかった。 そこで、ポーランド王国の王侯・貴族は、商業を大きく発展させてくれるハザール系ユダヤ商人を「代用市民階級」として扱い、西暦1334年から彼らハザール系ユダヤ商人に特権を与え、独自の自治組織を作らせた。 ボレスワフ5世とカジミェシュ3世(カシミール大王)はハザール系ユダヤ商人を優遇した。 ハザール系ユダヤ商人は王侯・貴族の期待に応え、手工業の知識や豊かな商売体験を生かしてポーランド王国の経済発展に尽力した。 ポーランド王国のハザール系ユダヤ人の数は16世紀の初め頃には5万人くらいであった。

リトアニア大公国は13世紀後半から急速に領土を東と南へ拡張し、14世紀末に、其の領土はロシアのスモレンスクやクルスクを含み、更に、ウクライナの北部・中部を含み、一時期は、黒海北岸の一部に達するほどになった。 其の後、リトアニア大公国の領土の北東部はモスクワ大公国に大きく奪い取られた。 西暦1569年、ポーランド王国がリトアニア大公国を併合した。 其の結果として、ポーランド王国は、北はラトビアから南はウクライナ北部・中部までを含む大王国を形成した。 ウクライナ南部(黒海の北側沿岸地帯)はオスマン帝国の支配下にあった。 ポーランド王国民はポーランド人・ウクライナ人・ロシア人・リトアニア人・ハザール系ユダヤ人など様々な人々から成り立っていた。

ロシア帝国では15世紀後半から18世紀半ばにかけてハザール系ユダヤ人追放令が幾度も出された。 其の為、ロシア帝国のハザール系ユダヤ人がポーランド王国に大量に流れ込んだ。 其の結果として、ポーランド王国のハザール系ユダヤ人口は17世紀の半ばには35万人(ポーランド全人口の10%)になり、18世紀半ばには75万人になった。 のちの時代に西欧ユダヤ人が、東方から移住してくる東欧ユダヤ人に対して当惑し、拒絶反応を示したのと同じように、ポーランド王国内の社会的・経済的地位の高いユダヤ人の多くは、ロシア帝国から移住してくるハザール系ユダヤ人を不信の目で見ただけでなく、反感と侮蔑の目でも見ていた。 ロシア帝国から移住してくるハザール系ユダヤ人はイディッシュ語の別の方言を話し、ユダヤ人社会の外ではポーランド語ではなくロシア語を使い、周囲の世界から離れて自分たちの世界に閉じこもり、服装の点でも振舞いの点でも、非常に貧しく汚い格好をしていた。 其の為、ポーランド王国の貴族・キリスト教僧侶・平民の間に、ロシア帝国から移住してくるハザール系ユダヤ人への反感が高まり、反ユダヤ的気運が高まっていった。 ポーランド王国の支配階級はユダヤ教徒と非ユダヤ教徒との共生の失敗の責任を、ロシア帝国から移住してくるハザール系ユダヤ人にいつでも即座に負わせる用意が出来ていた。 ロシア帝国から移住してくるハザール系ユダヤ人はロシア人の身代わりとして、ロシア人嫌悪のはけ口にされたのである。

先に述べたように、ユダヤ史研究家ミエセスは「イディッシュ語の起源に関する限り、西部ドイツ語方言は除外されてよい。 イディッシュ語に最も大きな影響を与えたのは東中部ドイツ語方言である」と結論した。 此のことを考えれば、ドイツ東中部にもかなり多くのハザール系ユダヤ人が入り込んでいたと考えられる。
■「シュテットル」について
「シュテットル」はユダヤ人独自の共同体集落である。「シュテットル」はイディッシュ語で「小さな都市」を意味し、東ヨーロッパにしか見られないもので、農業を営む非ユダヤ人を相手に商工業を営んだユダヤ人の共同体集落である。 テルアビブ大学の中世ユダヤ史の教授A・N・ポリアックは次のように書いている。「シュテットルの緊密なネットワークがあったので、ユダヤ人の作った素晴らしい荷馬車で、工業製品を全国に隈無く行き渡らせることが出来るようになった。 特にポーランド東部では、此の種の運送業は事実上、ユダヤ人の独占業種となっていた。 19世紀になって鉄道が敷かれるまで、此の独占は続いた」。

「シュテットル」と同じような集落が、かつてのハザール王国にもあった。 そこでは定期的に市が開かれ、羊、其の他の家畜、都市で作られた工業製品、田舎の家内工業の手工芸品などの売買や物々交換が行なわれていた。 ハザール人は他の半遊牧民同様、テント・日用品・家財などを馬や牛に引かせた荷馬車に乗せて移動する生活をしていた。 時には、数百人も収容できるサーカステントほどの大きさの王族用テントを移動することさえあった。 ポーランドの歴史学者アダム・ヴェツラニは次のように言っている。「ポーランドの学者たちの見解では、ポーランドにおける初期のユダヤ人集落はハザールおよびロシアからの移住民によって作られ、南ヨーロッパ・西ヨーロッパのユダヤ人からの影響より先だったという点で一致している。  〈中略〉  また、ポーランドにおける最初期のユダヤ人の大部分はハザール起源であり、ロシアは其の後になるという点でも一致している」。

シュテットルは19世紀後半から20世紀初頭にかけてロシア帝国のハザール系ユダヤ人定住区域で発生したポグロムにより次第に崩壊していった。 更に、西暦1939年以降、ポーランドに侵入したドイツ軍の破壊活動とユダヤ人大量殺害により、シュテットルはついに姿を消した。 現在、「シュテットル」はハザール系ユダヤ人にとって、思い出多き郷愁に駆られる言葉となっている。

第8章  ガリチアのハザール系ユダヤ人とルーマニアのハザール系ユダヤ人
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次の図で黄色く塗られた部分が「ガリチア」と言われる地域である。
ハザール王国が13世紀半ばに滅亡して以降、ガリチアにも非常に多くのハザール系ユダヤ人が住み着いた。 特にドロゴビッチ(ガリチアの中心都市リヴォフの南西80kmにある町)は、ユダヤ教の一大中心地となった。 しかし、ガリチアのハザール系ユダヤ人は貧しかった。 オーストリア皇帝ヨーゼフ2世は西暦1773年6月にガリチアの視察旅行を行なった。 ヨーゼフ2世はおびただしい数の貧困ユダヤ人に衝撃を受け、当地の役人に向かって、「これらの者たちはいったい何を食べて生きているのか」と質問したというエピソードが残っている。 ガリチアでは貧困の為、身売りするユダヤ人女性が後を絶たなかった。 精神分析学者フロイトの患者アンナ(本名ベルタ・パッペンハイム)はユダヤ女性解放運動の草分けとして知られている。 彼女の最も知られた著作はガリチアの売春と女性売買に関する実態報告書である。 調査の為にガリチアを訪れた彼女はユダヤ人の窮乏に驚き、其の改善なくして女性売買の根絶は有り得ないと説いた。

第一次ポーランド分割(西暦1772年)により、それまでポーランド王国領であったガリチアはオーストリア帝国領となった。 ガリチアを支配することになったオーストリア帝国の政策はユダヤ人に好意的という訳ではなかった。 ガリチアでも、其の他の国々と同じように、ユダヤ人の兵役義務と職業の自由に関して争いが起きた。 ガリチアが西暦1772年にオーストリア帝国に併合されてオーストリア帝国領となってから、ユダヤ人の結婚はオーストリア帝国の総督の認可が必要になり、男子の跡取りのみが結婚を許された。 これはボヘミアやモラヴィアと同様であった。 西暦1776年には、ユダヤ人に対しては酒場の経営と貴族の領地の賃借が禁じられた。 西暦1789年、ヨーゼフ2世は「特別寛容令」を出したが、これは、ユダヤ人の自治の範囲を狭め、経済上の禁止事項を一層強化し、居住制限を行なうものであり、名字を持つことを義務付け、厳しい結婚政策を追認するものであった。 此の時期、ロシア帝国とオーストリア帝国との交易は拡大を続け、ユダヤ人はここから利益を得るようになった。 特に国境の町ブロディは商品の重要な積み替え地となり、ガリチアの代表的な “ユダヤ人の町” となった。

オーストリア帝国の全領域のユダヤ人口は西暦1785年には40万人弱であったが、それから18年後の西暦1803年には約100万人になった。 西暦1650年頃のフランクフルトのユダヤ人口は2千人で、同じ頃のウィーンのユダヤ人口は3千人で、西暦1770年のベルリンのユダヤ人口は4千人弱であった。 此のことからも、東ヨーロッパのユダヤ人口が西ヨーロッパのユダヤ人口よりも圧倒的に多かったことが分かる。 第一次世界大戦が西暦1914年に始まると、ガリチアのハザール系ユダヤ人は戦乱やウクライナ人によるユダヤ人迫害(虐殺など)を恐れ、大量の難民となって、パレスチナではなく、オーストリアやチェコに押し寄せ、中でもオーストリアの首都ウィーンに大量に押し寄せた。 彼らはウィーンではドイツ人に歓迎されず、既にウィーンに住み着いてドイツ社会に同化していたユダヤ人にも歓迎されず、辛酸をなめることとなった。 西暦1918年11月、第一次世界大戦が休戦状態になり、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、ポーランドやチェコは民族自決の旗の下に独立できたが、ガリチアは独立できなかった。 ウクライナ軍とポーランド軍とはガリチアの支配権を巡って互いに戦ったが、第一次世界大戦後の西暦1920年、ウクライナ軍はポーランド軍に敗北し、ガリチアの西部はポーランド領となった。 ガリチアの東部に関しては、ポーランドとソビエト政権とが領有を争ったが、西暦1921年3月、ポーランドとソビエト政権との「リガ条約」によって、ガリチアの東部はポーランド領とされた。 そして、第一次世界大戦中にオーストリアやチェコなどに避難していたハザール系ユダヤ人の多くが戦争の傷跡も生々しいガリチアに追い返された。 第二次世界大戦後、ガリチアの東部はソ連領(ウクライナ共和国領)となった。

ルーマニアでは19世紀にユダヤ人口が相当に増えた。 これは、オーストリア帝国領ガリチアやロシア帝国領ウクライナに居住するハザール系ユダヤ人が各種制約(結婚制約、居住制約など)から逃れようとしてルーマニアにたくさん流れ込んだ為である。 ハザール系ユダヤ難民は都市部に住むことを好んだ。 19世紀末、首都ブカレストでは、ハザール系ユダヤ人は人口の15%を占め、ガリチアに近いヤシでは人口の40%を占めていた。 20世紀初頭、ルーマニアには30万人のハザール系ユダヤ人が住んでいた。 これはルーマニア人口の4%であった。 ルーマニアのハザール系ユダヤ人はドイツ語を使用するのを好んだ。 西暦1890年、ルーマニアのハザール系ユダヤ人の45%がドイツ語を使用していると申告したが、其の10年後、ルーマニアのハザール系ユダヤ人の74%がドイツ語を使用していると申告した。 此のデータから、ドイツ人と仲良くしようとするハザール系ユダヤ人の努力がいかに大きかったかがよく分かる。 此のデータには、ドイツ文化へのハザール系ユダヤ人の根強い憧れが反映している。 こうした傾向は他の東ヨーロッパ諸国のハザール系ユダヤ人にも見られるものであった。 チェコ生まれのユダヤ人小説家フランツ・カフカは次のように書いた。「ユダヤ属性から離れることはドイツ語で書き始めた者の多くが望んでいたものである。 彼らはそれを望んでいたが、後ろに残した脚のほうは、父親ゆずりのユダヤ属性をくっつけたままであり、前へ踏み出した足のほうは、足を下ろす新しい地面を見い出せずにいた」。 第一次世界大戦中、ルーマニアのユダヤ人の多くはオーストリア・ハンガリー帝国のスパイと見なされて迫害を受けた。 第一次世界大戦後、ルーマニアはロシア帝国からはモルドバを、オーストリア・ハンガリー帝国からはブコビナとトランシルヴァニアを獲得した。 これにより、ルーマニアのユダヤ人口は西暦1920年までに80万人になり、西暦1930年までに100万人になり、ソ連やポーランドのユダヤ人口に次ぐ大きな数になった。

第9章  セム系ユダヤ人の歴史
ユダヤ教聖典の創世記第4章にアダムとエバとの三男としてセトという人物が登場する。 創世記第5章にセトの遠い子孫としてノアという人物の名と、ノアの長男としてセムという人物の名が出て来る。 創世記第11章にセムの遠い子孫としてアブラムという人物の名が出て来る。 アブラムはのちに「アブラハム」と改名する。 創世記第25章にアブラハムの孫としてヤコブという人物が登場する。 ヤコブの別名が「イスラエル」であったことから、ヤコブの子孫は自分たちを「イスラエル人」と呼び、イスラエル人はエジプト人などの他民族からは「ヘブライ人」と呼ばれるようになったようである。 イスラエル人は当初「イスラエル12部族」で構成されていた。 其の内のユダ族とベニヤミン族の子孫がのちに「ユダヤ人」と呼ばれるようになった。 其の意味ではユダ族とベニヤミン族の子孫だけを「セム系ユダヤ人」と呼ぶべきだろうが、イスラエル人(イスラエル12部族)と其の子孫、即ち、ヤコブの子孫を「セム系ユダヤ人」と呼ぶのが普通である。 此の章では、少し長くなるが、ユダヤ教聖典に書かれている古代イスラエルの歴史、即ち、セム系ユダヤ人の歴史を紹介したいと思う。 但し、ユダヤ教聖典(旧約聖書)に書かれている事は必ずしも史実ではない。

ユーフラテス川下流域とチグリス川下流域に多くの都市国家を造ったシュメール都市国家文明(紀元前3500年頃〜紀元前2000年頃)が終わりを告げようとしていた紀元前2000年頃、ノアの長男セムの子孫のテラの一家がユーフラテス川下流域の町ウルに住んでいた。 ある日、テラの一家はウルを去り、ユーフラテス川上流域の町ハランに移住した。 テラの一家は此の地で遊牧民として暮らした。 テラの息子アブラムが75歳になったとき、神ヤハウェはアブラムに次のように言った。「私が示す地に行け。 おまえの子孫を繁栄させてやろう」。 アブラムは其のお告げに従い、家族を連れてハランからカナン(地中海とヨルダン川・死海とに挟まれた地域、現在のパレスチナ)へ移動した。 神ヤハウェは再びアブラムに次のように言った。「おまえの子孫にカナンの地を与えよう」。 しかし、カナンの地は豊かではなかった。 カナンの村や町は互いに争っていた。 ソドムとゴモラという町が神ヤハウェにより滅ぼされる事件も発生した。 カナンに飢饉が起きたとき、アブラムの一家は一時的にエジプトに避難したことがあったが、それ以外のときは、アブラムの一家はカナンに住み続けた。 アブラムの妻サラには子が産まれなかった。 サラは自分の奴隷女ハガル(エジプト人)をアブラムに妻として与えた。 アブラム86歳のとき、ハガルはアブラムの長男イスマエルを産んだ。 アブラムが99歳になったとき、神ヤハウェはアブラムに言った。「今後、おまえはアブラハムと名のれ。 私はおまえ及びおまえの子孫との間に永遠の契約を定める。 私はおまえの神となり、おまえの子孫の神となる。 私はおまえの子孫を大いに増やす。 私はカナンの地を永遠の所有地としておまえの子孫に与える」。 アブラハムが100歳になり、サラが90歳になったとき、神ヤハウェの計らいにより、サラはアブラハムの次男イサクを産んだ。 それから2、3年後のある日、アブラハムはサラの要求と神ヤハウェの助言に従い、ハガルと其の子イスマエルに数日分のパンと水だけを与え、此の2人を荒野に追放した。 イスマエルは神ヤハウェの助けにより立派に成長した。 イスマエルは12人の男子を儲けた。 其の子らはアラブ人の族長となった。 それで、のちに、イスマエルは「アラブ民族の父」と言われるようになった。 イサクが13歳位になった頃、神ヤハウェはアブラハムの忠誠心を試そうと思い、アブラハムに言った。「おまえの子イサクをモリヤの地(注:のちにエルサレム神殿が建てられた所)に連れて行き、山の上でイサクを生贄(いけにえ)として捧げよ」。 アブラハムは其の命令に従い、イサクをモリヤの地に連れて行き、山の上に祭壇を造り、其の上に薪を載せた。 イサクは自分が生贄になることを悟ったが、抵抗しなかった。 アブラハムはイサクを縛って薪の上に置いた。 アブラハムが剣を手に取り、イサクを殺そうとしたとき、神ヤハウェがアブラハムに言った。「アブラハム。 其の子を殺すな。 おまえは神を恐れ敬い、一人息子さえ私の為には惜しまないということが今こそ判った。 私はおまえを祝福し、おまえの子孫を星の数ほどに増やしてやろう」。 其の後、イサクは成人となり、40歳のとき、アブラハムの弟ナホルの孫娘ベレッカを妻とし、エザウ(兄)とヤコブ(弟)という双子の息子をもうけた。 イサクはエザウを愛していた。 妻ベレッカはヤコブを愛していた。 ヤコブは母ベレッカの計略で父イサクの全財産を受け継ぐことになった。 其の事が原因となり、エザウとヤコブは対立し、エザウはヤコブを殺そうとまで思った。 そこで、ヤコブは父母のもとを去り、ハランにいる母方の伯父ラバンの家に身を寄せた。 ヤコブは20年間ラバンに仕え、ラバンの財産をとても大きくし、自らも大きな財産(多数の家畜・らくだ・ろば)を手に入れた。 ヤコブがラバンの下で働き始めてから20年後、神ヤハウェはヤコブに言った。「おまえは此の地を去って、故郷に帰れ」。 そこで、ヤコブはラバンの隙(すき)をつき、4人の妻と多くの子供たちをラクダに乗せ、全財産(多数の家畜など)を連れて故郷(カナン)に向かった。 其の途中、ヤコブが1人でいるとき、ヤコブのところにひとりの人物が現れ、夜明けまでヤコブと相撲をとり続けた。 其の人物は神ヤハウェの使いであった。 其の人物はヤコブに勝てないと思い、ヤコブに言った。「夜が明けてしまうから、もう去らせてくれ」。 ヤコブは言った。「私を祝福して下さるまで、あなたを離しません」。 すると、其の人物は「おまえはイスラエル(神と闘っても強い)と称されるだろう。 おまえは神と相撲をとって勝ったからだ」と言って、ヤコブを祝福した。 其の後、ヤコブは多数の家畜(200頭の雌ヤギ、20頭の雄ヤギ、200頭の雌羊、20頭の雄羊、30頭のラクダ、40頭の若い雌牛、10頭の雄牛、20頭の雌驢馬、10頭の子驢馬)をエザウへの贈り物とし、エザウと和解した。 ヤコブの息子たちは、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ザブロン、ヨセフ、ベニヤミンの12人である。 ヤコブに最も可愛がられていた11男ヨセフは兄たちの嫉妬を買い、アラブ人に売られてエジプトに連れて行かれた。 そして数年後(紀元前1700年頃か)、カナンを襲った大飢饉から逃れる為に、ヤコブの一家が全財産(家財と家畜)を携えてエジプトに赴いたところ、そこで彼らを迎えたのは、王に次ぐ地位のエジプト首相になっていた11男ヨセフだった。 ヨセフは兄たちを許した。 其の後、ヤコブの一家はエジプトで長く暮らすことになる。 ヤコブの死後、それぞれの息子は一族の長となり、ルベン族、シメオン族、レビ族……というイスラエル12部族が誕生した。 しかし、事情は少し複雑である。 レビ族は祭司の一族であり、継承する土地を持たないので、12部族には入らない。 また、ヨセフ族というのは無く、ヨセフの2人の息子エフライムとマナセを祖とするエフライム族とマナセ族が加わることで12部族となった。 時が経ち、これら12部族はエジプトの地で子孫を増やし大きな勢力となった。 エジプト王は交代し、新しいエジプト王は最早ヤコブを知らなかった。 新しいエジプト王はヤコブ一家の子孫(イスラエル人)の勢力を恐れ、彼らを奴隷の境遇に突き落とした。 其の後、イスラエル人の奴隷状態は長く(300年間位か)続いた。 そうした中で、イスラエル人の中から「モーゼ」という名の男が出現した。 紀元前1240年頃、モーゼはエジプト在住の全てのイスラエル人(総勢200万人程度)を率いてエジプトを脱出した。 其の後、彼らイスラエル人はシナイ半島の荒れ野で40年間にも及ぶ集団放浪生活を送った。 此の間に神ヤハウェはイスラエル人に「十戒の石板」を授けた。 此の石板は神ヤハウェとイスラエル人との契約の証しである。 こうして初期ユダヤ教が成立した。 紀元前1200年頃、大預言者モーゼの後を引き継いだヨシュアはイスラエル12部族を率いてヨルダン川を東から西へ渡り、 “約束の地カナン” (現在のパレスチナ)へ侵攻した。 イスラエル12部族は、「カナンは神が我々に与えることを約束した地である」という大義名文のもと、カナンの先住民(カナン人を初めとして、ヘト人、ヒビ人、アムル人、エブス人など)と戦闘を交え、カナンの先住民を殺害し追い払い、カナンに定住した。 カナンの先住民とイスラエル人との戦争は其の後も凡そ180年間続き、其の過程でイスラエル人は益々優勢になり、紀元前1020年頃、イスラエル人の預言者サムエルはサウルという英雄をイスラエル12部族連合の初代の王にし、ここにイスラエル王国が樹立された。 しかし、其の後、反イスラエル勢力が急速に強まり、サウルは武勲を急ぐ余り、思慮を欠いた強引な振る舞いをするようになり、民衆からの支持を失った。 それでも、サウルは反イスラエルのペリシテ人に無謀な戦いを挑み、終に戦死した。 サウルに代わって、ユダ族出身で羊飼いの青年ダビデが頭角を現し、ペリシテ人を撃破し、周辺諸国を完全に制圧し、紀元前993年、イスラエル王国の第2代の王となった。 イスラエル王国は、ダビデの息子ソロモンの時代に繁栄の頂点を極めた。 イスラエル王国史上最大の栄華を誇ったソロモン王は首都エルサレムのモリヤの丘に壮麗で巨大な神殿を建設した。 これが所謂「ソロモン神殿(エルサレム神殿)」である。 イスラエル王国は隆盛を誇ったが、イスラエル人は重税と強制労働とに大きな不満を抱いていた。 其の不満がソロモン王の死後に噴出し、それが内乱へと発展し、イスラエル王国北部の10部族(ルベン族・シメオン族・ダン族・ナフタリ族・ガド族・アシェル族・イッサカル族・ザブロン族・エフライム族・マナセ族)とイスラエル王国南部の2部族(ユダ族・ベニヤミン族)とが互いに対立するようになった。 こうした状況の中で、イスラエル王国北部の10部族は一方的に独立を宣言した。 そして、紀元前928年、イスラエル王国は北の「イスラエル王国」と南の「ユダ王国」とに分裂した。
紀元前830年代のイスラエル王国(水色)とユダ王国(黄色)

イスラエル王国の分裂は政治的な面だけにとどまらず、宗教的な面においても生じた。 南ユダ王国の人々は以前と同じようにソロモン神殿で神ヤハウェを信仰していた。 それに対して、北イスラエル王国の人々は黄金の子牛像を作り、これを礼拝し、偶像崇拝に陥った。 北イスラエル王国の偶像崇拝は日ごとに激しくなり、北イスラエル王国の人々は異教の神々をも礼拝し始めた。 そして、彼らの宗教は本来の初期ユダヤ教とは全く異質なものになった。「これがまずかった」とユダヤ教聖典(旧約聖書)で指摘されている。 神ヤハウェは北イスラエル王国にエリヤ、エリシャ、ホセアといった預言者を送り、北イスラエル王国の人々の宗教的回復を図ったが、此の預言者たちの必死の呼びかけは空しく響いただけであった。 紀元前722年、メソポタミアで勢力を急速に拡大してきたアッシリア帝国がカナンに侵入し、北イスラエル王国に襲いかかった。 北イスラエル王国は必死に防戦したが、あっけなく滅亡した。 しかも、北イスラエル王国のイスラエル10部族はアッシリア帝国内へ連行されてしまった。 アッシリア王サルゴンの『年代記』には「サマリア(北イスラエル王国の首都)の支配階級2万7290人をアッシリアに連行した」とある。 北イスラエル王国があった地域には異民族が連れて来られ、定住した。 此の人たちはサマリア人と呼ばれるようになった。 そして、南ユダ王国はアッシリア帝国の属国となった。 北イスラエル王国の滅亡を目の当たりにした南ユダ王国のイスラエル2部族は「偶像崇拝はいけないことだ」と改めて自戒した。 しかし、しばらくすると、彼らも同じ過ちに陥り、南ユダ王国はひどく乱れていった。 紀元前609年、アッシリア帝国は新バビロニア王国によって滅ぼされた。 北イスラエル王国の滅亡から125年後、アッシリア帝国の滅亡から12年後の紀元前597年、エルサレムが新バビロニア王国の軍隊によって包囲され、南ユダ王国は新バビロニア王国に降伏した。 南ユダ王国の支配階級の者3000人強が捕虜としてバビロンに連行された。 次いで、紀元前586年、エルサレムが新バビロニア王国の激しい攻撃によって破壊され、ソロモン神殿も徹底的に破壊され、南ユダ王国は滅亡した。 南ユダ王国のイスラエル2部族の大部分は捕虜としてバビロンに連行され、捕囚された。 イスラエル人は此の時代から王国の再興を願ってメシア(救世主)の出現を熱心に待ち望むようになったと考えられる。 紀元前539年、新バビロニア王国はペルシャ帝国によって滅ぼされ、カナンはペルシャ帝国の支配下に入った。 それと同時に、バビロンに捕囚されていたイスラエル2部族(ユダ族とベニヤミン族)はペルシャ帝国の寛大な政策によって解放された。 彼らは喜び勇んで故郷へ帰った。 尤も、解放されたイスラエル2部族のうちの少なからぬ者はペルシャ帝国内に居残った。 ユダ族とベニヤミン族はペルシャ帝国の支配下において、ユダヤ教信仰を認められ、基本的な自治権を有し、彼らの生活は比較的平穏であった。 彼らは自らを「神に選ばれて神と契約を結んだ唯一の民族」として、民族的結束を固め、紀元前515年、ソロモン神殿を再建し、徹底した契約厳守の「新ユダヤ教」を作った。 此の時期から彼らは「ユダヤ人」と呼ばれるようになり、南ユダ王国があった地域(カナン南部、死海西岸地域)と北イスラエル王国があった地域は、まとめて「ユダヤ地方」または「ユダヤ」と呼ばれるようになった。 また、ユダヤ教聖典の中で最も重要な書と言われるモーゼ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はバビロン捕囚期から紀元前300年頃までに書かれたと考えられている。 モーゼ五書以外の歴史書や申命記の中核となる文書、いくつかの預言書は紀元前7世紀から紀元前6世紀前半にかけて書かれ、一連の書物がユダヤ教聖典として纏(まと)め上げられたのは紀元前300年頃と考えられている。

バビロンに捕囚されていたイスラエル2部族がカナン南部に帰還した時、アッシリア帝国は既に滅亡しており、アッシリア帝国内へ連行されたイスラエル10部族もカナン北部に帰ってきて当然であった。 しかし、彼らは帰って来なかった。 しかも、アッシリア帝国内にも彼らの姿は無かった。 彼らイスラエル10部族は、いつの間にか行方不明になった。 紀元1世紀の著述家フラビウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』の中で「イスラエル10部族は膨大な数になっていて、ユーフラテス川の彼方に広がっている」と記述した。 また、聖書外典の「第二エズラ書」は次のように伝えている、「これらは、ヨシア王の時代に捕らえられ、其の領土から連れ出された部族である。 アッシリア王シャルマネセルがこれを捕虜として連れて行き、河の向こうへ移した。 こうして彼らは異国へ連れて行かれた。 しかし、彼らは異国人の群れから離れ、かつて人が住んだことのない遥か彼方へ行こうと相談した。 それは自分の国では守っていなかった律法をそこで守る為であった。 こうして彼らはユーフラテス川の狭い道を通って行った」。

現代の通説では、イスラエル10部族は捕囚中に死滅したとか、現地の人間に同化したということになっているが、確たる証拠がある訳ではない。 彼らの行方は今なお不明である。 其の為、イスラエル10部族の行方は世界史上の大きな謎とされている。

第10章  ユダヤ教徒の「選民思想」と「終末思想」(メシア待望観念)
ユダヤ教徒の歴史を見て、改めて気付くのは、やはりユダヤ教徒の持つ独特で強烈な「選民思想」である。 ユダヤ教聖典(キリスト教徒の言う『旧約聖書』)の創世記第17章によれば、神ヤハウェは数多くの人間の中からアブラムを選び、「私はおまえ及びおまえの子孫との間に永遠の契約を定める。 今後、おまえはアブラハムと名のれ。 私はおまえの神となり、おまえの子孫の神となる。 私はおまえの子孫を大いに増やす。 私はカナンの地を永遠の所有地としておまえの子孫に与える。 おまえたちの男は全て割礼を受けねばならぬ。 おまえたちの代々の男の子は生まれて8日目に割礼を受けねばならぬ。 金で買った男も割礼を受けねばならぬ。 割礼を受けぬ男はおまえの民から追放せねばならぬ」と告げた。 世界にはおびただしい数の民族があるが、それらの中から、神が選びだして、其の増殖・繁栄を保障した民は古代イスラエル人以外にはないと、彼らユダヤ教徒は信じている。 此の類を見ない「選民思想」ゆえに、キリスト教徒やイスラム教徒はユダヤ教を独善的だと非難してきた。

更に、ユダヤ教神秘主義思想「カバラ」が、ユダヤ教が非難されるもうひとつの原因となった。 というのは、ユダヤ教徒はカバラの秘術を使って様々な呪文や護符を操り、魔術を行なっているとか、自ら動く泥人形(ゴーレム)を作っているなどと信じられ、「ユダヤ教徒は魔術師・妖術師である」といった考え方がキリスト教徒に広く深く根づいていき、ユダヤ教徒に対する恐怖心が醸成されていったからである。 ユダヤ教徒に対する恐怖心は「ユダヤ教徒による世界征服計画」という観念や、ユダヤ教徒を自国から追放するという思想や、ユダヤ教徒への残酷な迫害に繋がっていった。

ユダヤ教徒に対する恐怖心はユダヤ教徒の「終末思想」にも起因している。 此の「終末思想」という観念は日本人には誠に理解し難いものである。 キリスト教徒も「終末思想」を持っているが、ユダヤ教徒の「終末思想」とキリスト教徒の「終末思想」とは互いに大きく異なるようである。 ユダヤ教徒の考える「終末」とは「長く続いてきた悪の時代が終わる時」である。 ユダヤ教徒の「終末思想」において、「終末」の到来は、神ヤハウェが地上界へ派遣したメシア(救世主)によってなされる。「悪」とは「ユダヤ教徒を迫害してきた諸勢力」である。 ユダヤ教徒にとって、「終末」の到来はユダヤ教徒の努力によってなされるのではなく、神ヤハウェの地上界への直接介入によってなされることになっている。 言い換えると、ユダヤ教徒は「神ヤハウェが悪(ユダヤ教徒を迫害してきた諸勢力)を滅ぼしてくれる」と信じている。 ユダヤ教徒の「終末思想」とは、ユダヤ教徒にとっての「地上の悪」が絶頂に達するとき、神ヤハウェがメシアを地上界へ派遣し、メシアが軍勢を率いて、悪の勢力に対して地上と霊界で大戦闘を繰り広げ、メシア軍は悪の勢力を滅ぼし、其の結果として、「終末」が到来し(長く続いてきた悪の時代が終わり)、其の後、行方不明のイスラエル10部族が約束の地カナンに戻り、メシアを王とする「新イスラエル王国」が実現し、そして、天界に保存されていたエルサレムの霊的本体が地上に降りて新イスラエル王国の首都となり、復活した「ソロモン第三神殿」を中心に、神ヤハウェとメシアによる神権政治が始まり、それと同時に、ユダヤ教徒が永遠に繁栄する時代が始まり、地球上の全地がユダヤ教徒にとっての楽園となる、というものである。 従って、ユダヤ教徒の「終末思想」は「メシア待望観念」と言い換えても良いものである。 そして、ユダヤ教徒の「終末思想」は広義の選民思想と見なすことが出来よう。

第11章  ヘレニズム時代以降のセム系ユダヤ人
原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_ha/a3fha200.html
ユダヤ地方は、紀元前333年、ペルシャ軍が「イッソスの戦い」でマケドニア軍(アレキサンダー大王、紀元前356年〜紀元前323年)に敗れるまでペルシャ帝国の支配下にあった。 アレキサンダー率いるマケドニア軍はイッソスの戦いのあと、南下して、シリアを支配下におき、紀元前332年、エルサレムに至った。 同地のユダヤ人たちはアレキサンダーを「大王」と称して歓迎し、恭順の礼を尽くした。 アレキサンダー大王の部下プトレマイオスがエジプトを支配し、アレキサンダー大王の部下セレウコスがシリアを支配することになった。 ユダヤ地方はエジプトとシリアの中間にあったので、アレキサンダー大王の死後、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアとはユダヤ地方の支配権を巡って対立し、ユダヤ地方では此の両国による戦いが幾度も繰り返された。 こうした状況の中で、多くのユダヤ人が続々とユダヤ地方を去ってアレキサンドリアに移住した。 其の為、紀元前320年頃、アレキサンドリアは「ユダヤ人居留地」に指定された。 もちろん、ユダヤ地方に居残り続けたユダヤ人も沢山いた。

アレキサンドリア(プトレマイオス朝エジプトの首都)とアンティオキア(セレウコス朝シリアの首都)は、いずれもヘレニズム文化の中心都市であった。 プトレマイオス朝もセレウコス朝も進んでユダヤ人に市民権を与えた。 特に、アレキサンダー大王が造ったアレキサンドリアにおいては、ユダヤ人は経済面でアレキサンダー大王に重用され、更に、プトレマイオス朝にも重用されたので、ユダヤ人は商工業の分野で大きな力を持つようになった。 そして、紀元前30年にプトレマイオス朝が滅び、プトレマイオス朝エジプトがローマ帝国に併合されると、天賦の商才に恵まれたユダヤ人は全エジプトの経済を握り、現代の「中央銀行総裁」や「輸出入銀行総裁」のような高い地位に就いた。 最盛期のアレキサンドリアでは、平民の半数近くがユダヤ人だったと言われている。 アレキサンドリアに移住したユダヤ人たちはギリシャ語を身につけ、ギリシャ風の名を持ち、ギリシャ文学に親しみ、ギリシャ哲学を学んだ。 アレキサンドリアに移住したユダヤ人の二世・三世はヘブライ語の使用に困難を覚えたという。 其の為、此の時代(紀元前250年頃)にユダヤ教聖典のギリシャ語への翻訳が行なわれた。 これはアレキサンドリアの図書館で70人の学者によって70日間で翻訳されたという伝説から「七十人訳聖書」と呼ばれている。

セレウコス朝シリアはプトレマイオス朝エジプトとの数次に渡る戦いの末、紀元前198年、ユダヤ地方の支配権を得た。 其のときのセレウコス朝シリア王アンティオコス3世はユダヤ人に寛容であったが、紀元前167年、セレウコス朝シリア王アンティオコス4世エピファネス(アンティオコス3世の息子)はユダヤ地方の全面的なギリシャ化(ヘレニズム化)を宣言した。 ユダヤ人はヘレニズム化に抵抗した。 アンティオコス4世エピファネスはヘレニズム化に抵抗するユダヤ人の文化を抹消する為にユダヤ教禁止令を発令し、ユダヤ教の弾圧に踏み切った。 アンティオコス4世エピファネスはエルサレム神殿(ソロモン神殿)にゼウス神の像を置き、ユダヤ地方の至る所にゼウス神の祭壇を建て、ユダヤ人にゼウス神を礼拝するよう強制した。 安息日や割礼などの戒律を守るユダヤ人は死刑に処せられ、ユダヤ教聖典は焼かれた。 アンティオコス4世エピファネスは抵抗するユダヤ人を徹底的に弾圧した。 其の結果として、8万人のユダヤ人が殺害され、4万人のユダヤ人が捕囚となり、更に、4万人の女・子供が奴隷として売り払われた。 これらの宗教的弾圧はそれまでのイスラエルの歴史において最大のものであった。 こうした状況の中で、紀元前166年、ユダヤ教弾圧に抵抗するユダヤ人は、モディンという村のハスモン家のユダ・マカバイ(マカビ)の指揮の下、セレウコス朝シリアに反乱を起こした(マカバイ戦争、マカビの蜂起)。 紀元前165年、マカバイ(マカビ)率いるユダヤ反乱軍はセレウコス朝シリア軍を撃破し、エルサレム神殿からゼウス神の像を撤去することが出来た。 其の後、此の戦いは一進一退を繰り返したが、紀元前142年、ユダヤ人社会は独立を達成し、「ハスモン朝」を樹立した。 ハスモン朝はかつてのダビデ朝を思わせるほどの勢いをみせたが、ハイモン家内部の権力抗争やユダヤ教各派間の争いによって衰弱し、ローマ帝国の介入を招いた。 紀元前63年、エルサレムはポンペイウス将軍率いるローマ軍に占領され、ハスモン朝は形骸化され、ユダヤ地方はローマ帝国の支配下に入った。 此の当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、バランスのとれた巧みな統治政策を採っていた。 ユダヤ人はローマ帝国の支配下でも信教の自由を許され、兵役を免除されていた。 しかし、ユダヤ人はそれだけでは満足せず、ユダヤ教に基づく宗教国家の樹立を願っていた。 其の当時の地中海世界は多神教文化圏であった。 其の中で、一神教を信仰し「選民思想」と「終末思想」(メシア待望観念)を持つユダヤ文化は特別に異質であった。 こうした状況の中で、ローマ帝国との関係をうまく打ち立て、権力の座にのし上がったのがヘロデという男である。 ヘロデはユダヤ人ではなく、エドム人だったが、ハスモン王家の女性と結婚することによって、ハスモン王家と姻戚関係を結んだ。 更に、彼はローマ帝国首脳の好意を得ることに成功し、紀元前37年、アントニウスとオクタヴィアヌスの推挙によって、ローマの元老院から「ユダヤの王」に任命され、エルサレムに派遣された。 ヘロデは王位に就くとすぐ、最後のハスモン王を処刑し、紀元前34年頃に自分の妻の弟を暗殺し、紀元前29年に自分の妻を殺し、紀元前28年に自分の妻の母を殺し、紀元前7年に妻との間に生まれた二人の息子を殺した。 こうして、ヘロデ王はハスモン王家の血を引く身内を全て殺した。 また、彼は自分に対して敵対的であったユダヤ教の祭司たちを迷わず殺した。 此のように、ヘロデ王は自分の権力の座を維持する為に、自分の地位を脅かすと思われる者を次々と殺していった。 ヘロデ王の最晩年期にイエスが生まれたと言われている。 マタイ福音書によれば、ヘロデ王は「ユダヤの救世主誕生」の噂を耳にすると、ベツレヘム地方にいた2歳以下の男の赤ちゃんを悉く殺したと言われている。 ヘロデ王は都市計画において大きな業績を残した。 ヘロデ王はエルサレム神殿を大改築・大増築し、人工港湾都市カイサリアや歴史に名を残すマサダ要塞などを造った。 しかし、 “他文化を受け入れず、自らを選民と見なす誇り高いユダヤ人” はヘロデ王をローマ帝国の手先と見なし、ヘロデ王に従おうとはしなかった。 ヘロデ王は紀元前4年に死亡し、西暦6年、ユダヤ地方はローマ帝国の直轄領(ユダヤ属州)となり、ローマ帝国から派遣された総督によって治められることになった。 こうした状況の中で、ユダヤ人はローマ帝国の統治政策に日増しに反感を強めていった。 ヘロデ王は死後、ヘロデ大王と呼ばれるようになった。 此の頃、イエスと名乗るユダヤ青年が登場し、新しい神の法を説き始めた。

ローマ帝国におけるユダヤ人について少し述べよう。 テキサス大学のハリー・J・レオンは著書『古代ローマのユダヤ人』の中で、ローマ帝国におけるユダヤ人について次のように述べている。
ローマ市内のユダヤ人は既にローマ政治における侮りがたい要素となった。 政治的野心のあるユリウス・カエサル(紀元前100年〜紀元前44年)はユダヤ人の力を認識した。 『人民党』のユダヤ人はカエサルを支持した。 カエサルはユダヤ人から受けた支援に対する見返りとして、目に余るほどユダヤ人びいきを示した。 そして、運よくヨセフス(西暦37年〜100年頃、『ユダヤ戦記』の著者)によって記録された “ユダヤ人の利益の為のカエサル法令” は「ユダヤのマグナ・カルタ」と呼ばれてきた。 カエサルはユダヤ人に兵役を免除し、黄金をエルサレム神殿に向けて船で積み出すことを許可した。 更に、カエサルはユダヤのサンヘドリン(ユダヤ最高議会)の権威を承認した。 しかし、ローマの元老員の中には、これを面白くないと感じる者がいた。  〈中略〉  カエサル暗殺後、ユダヤ人集団が幾晩もカエサルの火葬用の薪の積み重なった場所に来て嘆き悲しんだ。  〈中略〉  結局、ローマ帝国を受け継いだアウグストゥス帝はユダヤ人の特権を回復させた。

西暦59年頃、ローマの貴族で前アジア総督であったルシウス・バレリウス・フラックスはユダヤ人がやっている黄金積み出しを禁止する命令を徹底させようとしたが、ローマのユダヤ人の圧力で解任される破目になり、其の上、でっち上げの横領罪に問われてしまった。 そこで、ローマの偉大な執政官キケロは陪審員の前で次のように演説し、フラックスを弁護した(西暦59年10月)。
さて我々は、黄金、それもユダヤ人の黄金にまつわる名誉棄損問題に取り組むわけであります。  〈中略〉  ユダヤ人がどんなに大きな集団であるか、また、ユダヤ人の活動が政治にどの様に影響を与えているかということは、ご承知の通りです。 私は声をひそめて、陪審員の方々に聞こえるだけの大きさでお話ししよう。 というのも、私をはじめ、あらゆる善良なローマ人を妨害すべく、ユダヤ人を扇動する者が大勢いるからであります。 其の者たちを少しでも手助けすることは、私の意図せざるところであります。 毎年、黄金が定期的にユダヤ人の名において、イタリアおよび全ての我が属州からエルサレムに輸出されてきた為、フラックスは黄金の輸出を禁じる布告を出したのであります。 陪審員諸君、誰が此の行動を心から誉めないでいられましょうか。 黄金の輸出は、以前にも再三再四にわたって、そして、私の執政官在任中には最も厳しく元老院から禁じられていたのであります。 それに加えて、フラックスが此のユダヤの迷妄行為に反対したことは、彼が強い個性を持っている証拠であります。 また政治集会において、ユダヤ人のやじ馬連中の強引さをたびたび封じ込めて国を守ったことは、彼の強い責任感の証拠であります。

裁判の結果、フラックスの横領罪の嫌疑は晴れた。 しかし、黄金積み出し禁止令は解除されてしまった。

先に述べたように、多神教文化圏であった紀元前の地中海世界において、一神教を信仰し「選民思想」と「終末思想」(メシア待望観念)を持つユダヤ文化は特別に異質であった。 バビロン補囚時代以降、ユダヤ教徒はメシアの出現が目前に迫っていると考え、熱心にメシアを待望してきた。 紀元前63年、ユダヤ地方がローマ帝国の支配下に入ると、ユダヤ教徒(ユダヤ人)はローマ帝国の統治政策に日増しに反感を強めた。 西暦6年にユダヤ地方がローマ帝国から派遣された総督によって治められるようになってからは、益々メシア待望観念が高まった。 多くのユダヤ教徒が「一刻も早くメシアを引き寄せ、悪魔の手先であるローマ帝国を撃退し、ユダヤ解放を成し遂げなければならない」と思って、熱狂的な「終末思想」を掲げる「ゼロテ党(熱心党)」の下に結集した。 西暦66年、ユダヤ属州の総督フロルスがエルサレムのインフラ整備の為の資金としてエルサレム神殿の黄金の宝物を持ち出した。 これが切っ掛けとなり、ゼロテ党を中心とするユダヤ教徒抵抗勢力がローマ帝国の守備隊を襲い、ローマ軍に対して本格的な戦い(第一次ユダヤ戦争、西暦66年〜73年)を開始した。 ユダヤ属州のユダヤ教徒は武装蜂起し、ローマ帝国からの独立を試みた。 しかし、ユダヤ軍は当時のローマ帝国に立ち向かうには非力であり、ローマ軍の力は圧倒的であった。 西暦68年、ローマ皇帝ネロが派遣したローマ軍7万人(これを率いるは将軍ウェスパシアヌス)はユダヤ属州の都市を次々と攻め落とし、エルサレムを孤立させることに成功した。 しかし、同時期に皇帝ネロが自殺し、ローマ帝国首脳の間に大混乱が発生した為、将軍ウェスパシアヌスはエルサレム攻略を目前にして、ローマへ引き返した。 西暦70年3月、将軍ウェスパシアヌスの息子ティトゥス率いるローマ軍7万人は終にエルサレム攻囲戦(第一次ユダヤ戦争の決戦)を開始した。 エルサレム神殿は基礎部分(神殿の丘)だけを残し徹底的に破壊され炎上した。 其の基礎部分の西側の壁が「嘆きの壁」である。 エルサレム市街は3つの大きな塔と西側の城壁だけを残し、ローマ軍により徹底的に破壊され、西暦70年9月7日に完全制圧された。 エルサレムから逃れたユダヤ反乱軍の一部(千人弱)はマサダ要塞に逃げ込み、籠城した。 此のマサダ要塞はヘロデ大王が造ったものであり、周囲を絶壁に囲まれた岩山である。 西暦73年、8千人のローマ軍が難攻不落のマサダ要塞を総攻撃した。 籠城していたユダヤ教徒は2人の老婆と5人の子供を残し、全員自害した。 第一次ユダヤ戦争を記録したヨセフスは其の著「ユダヤ戦記」の中で、エルサレム攻囲戦での死者数は110万人(其の殆ど全てはユダヤ教徒である)、捕虜・奴隷にされたユダヤ教徒の数は9万7千人と記している。 ローマ軍の司令官ティトゥスはエルサレム神殿の黄金の宝物を戦利品とし、ローマに凱旋した。 また、司令官ティトゥスはユダヤ教徒7万人を奴隷としてローマに連行したと言われている。 此の戦争以降、エルサレムにはローマ軍が常駐することになり、ユダヤ属州の多くのユダヤ教徒が此の地を去り、外国に移住した。 こうした状況の中でも、ユダヤ教徒のメシア待望観念は衰えなかった。 時が経ち、西暦130年、ローマ皇帝ハドリアヌスはエルサレムをローマ風の都市に造り替え始め、エルサレムという名称を「アエリア・カピトリーナ」に変え、エルサレム神殿の跡地にローマの神ジュピターを祭る神殿を建設し、更に西暦132年には割礼を禁止した。 其の為、同年、ローマ帝国の支配に反対するユダヤ教徒が、「星の子」を意味するバル・コクバという人物を先頭に押し立てて、ユダヤ属州で再びローマ帝国に戦いを挑んだ(バル・コクバの乱、第二次ユダヤ戦争、西暦132年〜135年)。 此の戦いに参加したユダヤ教徒はバル・コクバをメシアと信じた。 バル・コクバがメシアであると信じられた最大の理由は、ユダヤ教のラビ(ユダヤ教指導者)の中でも最も偉大なラビのひとりに数えられているアキバ・ベン・ヨセフがバル・コクバをメシアと認めたからであった。 メシアであると信じられたバル・コクバのもとには、日毎にユダヤ民衆が結集し、其の数は50万人強に膨れ上がった。 西暦132年、バル・コクバは此の大勢力を率いて反乱軍を立ち上げ、当初は日の出の勢いで戦勝していった。 しかし、戦闘の長期化とともに、物量・人材で劣るユダヤ反乱軍は各地で苦戦を強いられ、1つ、また1つと拠点を撃破されていった。 そして、開戦から3年後の西暦135年、ローマ皇帝ハドリアヌスの命を受けたセヴェルス将軍との戦闘により、バル・コクバはあえなく戦死し、アキバ・ベン・ヨセフも捕らえられて処刑され、ユダヤ反乱軍は完全に制圧された。 此の反乱で戦死したユダヤ教徒の数は58万人と言われる。 ローマ皇帝ハドリアヌスはユダヤ教徒のエルサレムへの立ち入りを禁じ、神殿の丘の表土までをも削り取って捨て去り、エルサレム南門にユダヤ教徒が忌み嫌う豚の彫刻をほどこして、ユダヤ教徒の信仰を愚弄し、ユダヤ教禁止令を出し、ユダヤ教の信仰とユダヤ暦の使用を禁じ、ユダヤ教指導者を殺し、ユダヤ教の書物を神殿の丘の穴に廃棄して、其の穴を埋め、「ユダヤ」という地域名を「パレスチナ」に変え、ユダヤ文化の根絶を図った。 ユダヤ教禁止令を破る者は死刑にされた。 ユダヤ教徒は、バル・コクバの乱で敗北してから二百年近くに渡って、エルサレムへの立ち入りを禁じられた上に、エルサレムを遠望することも禁じられた。 禁を破ってエルサレムに立ち入る者は死刑を覚悟しなければならなかった。 こうした状況の中で、パレスチナのユダヤ教徒の大多数はパレスチナを去り、地中海沿岸・西アジア・インドに移住した。 遠い外国に旅立つ為には、それ相応のお金(金銀、財宝)が必要になるので、パレスチナを去ったユダヤ教徒の殆ど全ては上層階級(金持ち階級)または中層階級の人々だったと思われる。 遠い外国に旅立てる程のお金を持っていないような下層階級のユダヤ教徒はパレスチナに居残ったと思われる。 こうして、第二次ユダヤ戦争は幕を閉じた。 ユダヤ教徒が神殿跡地への立ち入りを許されるようになったのは4世紀になってからである。 但し、それが許されるのは、エルサレムがローマ軍によって破壊された記念日のただ1日であり、ユダヤ教徒は屈辱に泣き続けた。 ユダヤ教徒の神殿跡地への立ち入りが許可されて以来、「嘆きの壁」はユダヤ教徒の燃えるようなメシア待望の思いと民族的怨念を吸い込み続けてきた。 ユダヤ教徒は移住した地で共同体を作り、異教徒との親和的交流を断ち、周囲の社会に同化することなく、ひたすらメシアの出現を待った。 第一次・第二次ユダヤ戦争での敗北によるセム系ユダヤ教徒の大規模国外移住は「ディアスポラ(離散)」と呼ばれている。

セム系ユダヤ教徒の離散状況 (紀元100年〜300年)

第二次ユダヤ戦争の結果として、ユダヤ社会は壊滅状態となった。 ユダヤ教宗派のサドカイ派(貴族)やエッセネ派(禁欲主義者)は滅亡し、パリサイ派(民衆)は少数だが生き残った。 そうした状況の中で、生き残ったパリサイ派の律法学者は「自分たちがユダヤ教を守らなければならない」と考え、サンヘドリン(ユダヤ最高議会)をガリラヤ湖岸の町ティベリアに移し、神がモーゼに与えたとされる口伝律法(口伝で語り継ぐべき律法)を成文化し始め、5世紀までに膨大な量の生活規範集『タルムード』を編集した。 ユダヤ戦争で少数化した彼らは民族的な死活問題に直面していた。 其の為、現実的な利益を求める生活指針がタルムードに付加された。 それと同時に、非ユダヤ教徒のことを「ゴイム(家畜)」と表現し罵るなどの独善的選民思想がタルムードに付加され、其のことが他民族に反ユダヤ感情を植え付けた。 ユダヤ教徒が離散してからのユダヤ教の形態はかつての神殿祭祀の形から、シナゴーグでラビの指導の下でタルムードを中心に据えて学習する形に切り替わった。 そして、タルムードを中心に据えた新しいユダヤ教を信仰するようになったユダヤ教徒にかつてのような預言者や神の声はなかった。 尤も、此のことは、其の当時の世界がより理知的な時代を迎えた為でもあろう。 現在では「パリサイ派」という名称は使われず、此の派のユダヤ教徒は「ユダヤ教正統派」と呼ばれている。

「自分たちは神ヤハウェによって選ばれた」と思っているユダヤ教徒にとって「自分たちユダヤ教徒はなぜ苦しまなければならないのか。 バビロン補囚時代以来、政治的大不幸の中に置かれている自分たちユダヤ教徒を其の大不幸から解放してくれるメシア(救世主)を、神ヤハウェはなぜ早く地上界へ派遣してくれないのか」ということが大問題となった。 ユダヤ教徒は各地の共同体に籠もりながら、これらの謎を解明しようとした。 こうして、ユダヤ教の内面化が促進され、神ヤハウェの真意を探ろうとするユダヤ教神秘主義思想「カバラ」が生まれていくことになる。

第二次ユダヤ戦争の結果として、それまでパレスチナに住んでいたユダヤ教徒の大多数がパレスチナを去り、それと入れ替わりに、多くのアラブ人がパレスチナに入ってきた。 時が経ち、7世紀にムハンマド(マホメット)を開祖とする「イスラム教」が誕生すると、パレスチナはイスラム教の支配下に入った。 イスラム教によって民族的に目覚めたアラブ人は征服・布教・移住により、其の勢力を急速に拡大していき、北アフリカ・西アジア・イベリア半島を勢力範囲とし、キリスト教圏と対峙した。 アラブ人は、一部の例外はあるが、基本的にはユダヤ教徒を迫害・弾圧しなかった。 なぜならば、アラブ人とユダヤ教徒はアブラハムの子孫であり、親戚関係にあるからである。 創世記第25章に「イサクとイスマエルは父アブラハムをマクペラの洞穴に葬った。 イスマエルは12人の男子をもうけた。 其の子らはアラブ人の族長となった。 イスマエルは137歳で死んだ」とある。 アラブ人はユダヤ教徒を被保護民族と位置づけ、人頭税を課す代わりに、其の宗教と生活を保護した。 そこで、ユダヤ教徒はサンヘドリン(ユダヤ最高議会)をティベリアからバグダードに移した。 此のように、イスラム帝国内のユダヤ教徒の大多数は、身分差別をされながらも、共同体を保ったまま、安定した生活を送ることができた。 しかも、中世イスラム教社会では、ユダヤ教学の最高学者マイモニデスを一大頂点とした学術活動がなされ、ユダヤ教徒の思想文化面に輝かしい発展が見られた。 10世紀にイスラム帝国が分裂すると、それまでユダヤ教徒に対して穏健であったイスラム政権はユダヤ首長を追放した。 これによりサンヘドリンはバグダードからベネチアに移され、これに伴い、多くのセム系ユダヤ教徒がベネチアに移住し、セム系ユダヤ教徒共同体の中心部はベネチアに移った。 ベネチアのセム系ユダヤ教徒はあたかも治外法権を認められているかのように、自由に貿易に携わることができた。 ベネチアはユダヤ商人の活躍により、地中海貿易における最大の港町へと発展していき、ベネチアの貿易力は地中海世界で最大となった。 しかし、15世紀後半に大航海時代が到来すると、貿易の舞台は地中海から大西洋や太平洋に移り、ベネチアの貿易力は低下していき、ベネチアは衰退していった。 それに伴って、セム系ユダヤ教徒共同体の中心部は、古くから商工業が発達していたネーデルランド(オランダ)に移った。 此の地方は宗教的に寛容な土地柄であった。 其の当時のネーデルランドには、西暦1490年代にイベリア半島から追放されたセム系ユダヤ教徒の一部が住み着いていた。 これよりずっと早く、第一次・第二次ユダヤ戦争での敗北により離散したセム系ユダヤ教徒の一部もネーデルランドに住み着いていた。 彼らネーデルランドのセム系ユダヤ教徒は商業で力を発揮し、世界初の株式会社と言われる「オランダ東インド会社」の設立(1602年)・運営にも深く関わっていたとされる。 また、ネーデルランドのセム系ユダヤ教徒はインド産のダイヤモンド原石をネーデルランドに持って来て加工し販売する商いで繁栄した。 ダイヤモンドの加工・取引で繁栄した都市として、ブルージュ(現ベルギー北部の都市)、アントワープ、アムステルダムを挙げることができる。 ダイヤモンド原石の加工技術(研磨用の円盤) は、ブルージュ出身のユダヤ人ローデウェイク・ファン・ベルケンが西暦1476年に発明したと言われる。 西暦1598年、西ヨーロッパで最初のシナゴーグがアムステルダムに建設された。 此のシナゴーグは建設者ヤコブ・ティラドに因んで「ヤコブの家」と名付けられた。 其の当時のアムステルダムのユダヤ人口は、アムステルダムの全人口15万人の1%強に過ぎなかったが、アムステルダムのセム系ユダヤ教徒は経済的・文化的な繁栄を築いた。 17世紀前半はオランダの最盛期であった。 そして、オランダが17世紀後半の3回に渡るイギリスとの戦争に敗れて衰退し、イギリスが益々繁栄していくのに伴い、セム系ユダヤ教徒共同体の中心部はイギリスのロンドンに移った。

第12章  キリスト教が確立する前から嫌われていたユダヤ人
ヨーロッパでキリスト教社会が成立すると、ユダヤ人を嫌悪する差別感情がキリスト教社会に定着したが、ユダヤ人はキリスト教徒側の宗教的偏見だけで迫害・差別される民族ではない。 なぜならば、キリスト教が確立する前からユダヤ人迫害が起きていたからである。 先に述べたように、紀元前2世紀のセレウコス朝シリアではヘレニズム化に抵抗するユダヤ人の文化を抹消する為にユダヤ教禁止令が発令された。 エルサレム神殿(ソロモン神殿)にはゼウス神の像が置かれ、ユダヤ地方の至る所にゼウス神の祭壇が建てられ、ユダヤ人はゼウス神を礼拝するよう強制された。 安息日や割礼などの戒律を守るユダヤ人は死刑に処せられ、ユダヤ教聖典は焼かれた。 抵抗するユダヤ人は徹底的に弾圧され、8万人のユダヤ人が殺害され、4万人のユダヤ人が捕囚となり、更に、4万人の女・子供が奴隷として売り払われた。
第一次ユダヤ戦争(西暦66年〜73年)では、エルサレム神殿は基礎部分(神殿の丘)だけを残し徹底的に破壊され炎上し、エルサレム市街は3つの大きな塔と西側の城壁だけを残し、ローマ軍により徹底的に破壊され、110万人弱のユダヤ人が殺され、9万7千人のユダヤ人が捕虜・奴隷にされた。 ユダヤ人7万人が奴隷としてローマに連行されたと言われている。
西暦130年、ローマ皇帝ハドリアヌスはエルサレムをローマ風の都市に造り替え始め、エルサレムという名称を「アエリア・カピトリーナ」に変え、エルサレム神殿の跡地にローマの神ジュピターを祭る神殿を建設し始め、更に、西暦132年には割礼を禁止した。 此の政策に反発したユダヤ勢力は再びローマ帝国に戦いを挑み、第二次ユダヤ戦争(西暦132年〜135年)が始まった。 しかし、此のユダヤ勢力はローマ軍によって完全に鎮圧され、58万人のユダヤ人が殺されたと言われている。 ローマ皇帝ハドリアヌスはユダヤ人のエルサレムへの立ち入りを禁じ、神殿の丘の表土までをも削り取って捨て去り、エルサレム南門にユダヤ人が忌み嫌う豚の彫刻をほどこしてユダヤ人の信仰を愚弄し、ユダヤ教禁止令を出し、ユダヤ教の信仰とユダヤ暦の使用とを禁じ、ユダヤ教指導者を殺し、ユダヤ教の書物を神殿の丘の穴に廃棄して穴を埋め、「ユダヤ」という地域名を「パレスチナ」に変え、ユダヤ文化の根絶を図った。 ユダヤ教禁止令を破る者は死刑にされた。 ユダヤ人は、此の反乱で敗北して以来、二百年近くに渡ってエルサレムへの立ち入りを禁じられた上に、エルサレムを遠望することも禁じられた。

キリスト教が確立する前のローマ帝国において、ユダヤ人は特異な人々であった。 古代の歴史家たちは此の特異なユダヤ人に注目し、彼らについて意見を述べている。 例えば、ギリシャの歴史家であり地理学者であったストラボン(紀元前63年頃〜紀元後23年頃)は次のような記述を残している。
「キレネ(現リビア東北部にあった地中海に臨む古代都市)には4つの階級がある。 1番目は市民、2番目は農民、3番目は外国人居住者、4番目はユダヤ人である。 ユダヤ人は既にあらゆる都市に入り込んでいる。 そして、およそ人の住める世界でユダヤ人を受け入れていない場所、其の力を感じさせない所を見つけることは容易ではない」。
ローマの歴史家ディオドロス(紀元前1世紀生まれ)は次のような記述を残している。
「あらゆる民族の中でただユダヤ人のみは、他のどのような民族ともうまくやっていくことをことごとく拒絶し、他の全ての人間を敵と見なしている」。
ローマの偉大な歴史家タキトゥス(紀元後55年頃〜120年頃)は次のような記述を残している。
「ユダヤ人の習慣は卑しく忌まわしく、ユダヤ人が其の習慣に固執するのは、彼らが腐敗堕落しているからである。 ユダヤ人はユダヤ人同士では極端に忠実であり、いつでも同情を示す用意ができているが、異民族に対しては憎悪と敵意しか持っていない。 彼らは民族として激しやすい」。

ローマ帝国でキリスト教が勢力を拡大するに連れて、ユダヤ人を嫌悪する差別感情がローマ帝国の人々の間に広まった。 其の理由として、キリスト教会が「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人である」と主張してきたことが挙げられる。 例えば、 “キリスト教会史の父” と言われるエウセビオス(西暦263年頃〜339年)は「イエスを殺した者たち」というレッテルをユダヤ人に貼り、悪しきイメージ作りに狂奔した。 また、アウグスティヌス(西暦354年〜430年)もユダヤ人を「悪霊に憑依された破壊者」と断定し、「ユダヤ人は神により離散の刑を科せられている」と言った。 此のようにして、キリスト教会では反ユダヤ主義の正当性が神学的に承認されるようになった。 カトリシズムに反発してプロテスタンティズムを起こした16世紀の人マルティン・ルターもユダヤ人迫害においては筋金入りであった。 ルターは中年期まではユダヤ人に寛容であったが、晩年になると、ユダヤ人がイエス・キリストに帰依しないことに業を煮やし、猛烈な反ユダヤ主義者に変質した。 其の反動ぶりは凄まじく、例えば、ユダヤ人の旅行と金融業の禁止、ラビによる教育の禁止、タルムードの没収、ユダヤ人の追放、ユダヤ人の強制収容、ユダヤ人の強制労働、などを主張した。 そこにヒトラーの先駆的な影を見る者は多い。 極言すれば、イエス・キリストを殺した上にイエス・キリストに帰依しないユダヤ人はキリスト教徒にとって信仰上の敵であるから、「人間の皮をかぶった悪魔的存在」と見なされ、そうした悪魔の類いであれば、煮て食おうが焼いて食おうが構わないといった風潮がはびこったのである。 一般キリスト教徒の間では「ユダヤ人は、悪魔がキリスト教徒抹殺の為に送り込んできた “悪魔の手先” である」と思われてきた。

ヨーロッパのキリスト教社会では、ユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着していただけでなく、ユダヤ人の職業も制限されていた。 西暦1078年、ローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対して「公職追放令」を発令した。 其の為、ユダヤ人が全ての職業組合から締め出された。 其の当時のキリスト教会は、他人にお金を貸して利子を取ることを罪悪と見なし、キリスト教徒には金貸し業を禁止していた。 一方、ユダヤ教は『タルムード』の中で異国人から利子を取ることを許していたこともあって、ユダヤ人は古くから自由に金貸し業を営んできた。 其の為、公職追放令が発令された後、益々多くのユダヤ人が金貸し業に手を染めていった。「お金に汚い高利貸し」というイメージがユダヤ人に定着したのは此の頃だと言われている。

第1回十字軍遠征(西暦1096年〜1099年)の際にドイツ・ラインラントで行なわれたユダヤ教徒殺戮については先に述べた。 此のユダヤ教徒殺戮が通りすがりのものではなく、意図的に行なわれたものであることは、次のことからわかる。 十字軍のドイツ人兵士は聖地エルサレムに向かってライン川に沿って南東の方向、すなわちライン川の上流へ向かって進むべきところを、ライン川の下流へ向かって進み、ユダヤ教徒の共同体を襲撃した。 其の最初の犠牲となったのがライン川中流河岸の町シュパイエル(西暦1096年5月3日)である。 次いでドイツ人兵士は更にライン川の下流へ向い、ヴォルムス(同年5月18日と25日)、マインツ(同年5月28日)、ケルン(同年7月8日)、ノイス(ジュッセルドルフに隣接した町、同年7月14日)の順で、略奪と殺戮を行なった。 其の際、彼らは、即刻キリスト教に改宗しないユダヤ教徒を女でも子供でも虐殺した。 第1回十字軍は、エルサレムを占領した時(西暦1098年)、同地に残っていたユダヤ教徒を悉くシナゴーグ(ユダヤ教会堂)に閉じ込め、それに火をかけて、彼らを焼き殺した。 第2回・第3回十字軍遠征の際にも、社会不安・天災・凶作などによるキリスト教徒の不満・怒り・激高でユダヤ教徒殺戮が起き、キリスト教徒の狂信・偏見・誤解などでユダヤ教徒は繰返し迫害される破目となった。 十字軍遠征時代には、次のような噂が飛び交った。「ユダヤ教徒はキリスト教徒の子供をさらって人食い儀式の生け贄にするらしい。 ユダヤ教徒はキリスト教の秘蹟を真似して神聖を汚している」と。 其の手口は、かつてローマ人が嫌われ者のキリスト教徒に対して使った手口と同じだった。 そして、其の手口は、後年、キリスト教徒が魔女に対して、また、プロテスタントがカトリックに対して使った手口でもあった。 ユダヤ教徒を殺戮し、彼らのシナゴーグや共同体を破壊することはキリスト教徒の正義の証しであると見なされ、日常茶飯事となった。 また、ユダヤ教徒迫害には別のメリットがあった。 ユダヤ教徒は金融業の大部分を営んでいた為、ユダヤ教徒を迫害することは、借金を帳消しにする便利な方法でもあった。 負債のある王たちは宗教問題を口実に、貸主のユダヤ教徒の財産を没収し、彼らを領地から追放した。 此のように、キリスト教徒によるユダヤ教徒迫害は、十字軍遠征が切っ掛けとなり、十字軍遠征と連動する形で著しく強化された。 もし、十字軍遠征が起きなかったら、ユダヤ教徒迫害はこれほどまでひどくならずに済んだかも知れない。 因みに、ヨーロッパ全域でペストが大流行した時期(西暦1350年前後)にも大規模なユダヤ教徒迫害が行なわれた。 此のとき、ペストが流行していない地域のユダヤ教徒も迫害された。

第一次・第二次ユダヤ戦争での敗北により離散したセム系ユダヤ人のうち、かなり多くのセム系ユダヤ人がスペインに移住し、彼らの子孫は、8世紀以降イベリア半島を支配したイスラム文化の中で繁栄していたが、イスラム教徒の支配下にあったスペインが西暦1492年にキリスト教徒に再支配されると、同年、スペインにいたセム系ユダヤ人は全て国外追放された。 此の事件以前にも、セム系ユダヤ人はイギリス・フランス・オーストリアから追放されたことがあったが、スペインのセム系ユダヤ人国外追放は徹底的なものであった。

ユダヤ人を追放しなかったキリスト教国でも、イエス・キリストを殺害した民族という偏見からユダヤ人は抑圧された。「ゲットー」(ユダヤ人集団隔離居住区域) は其の典型である。 最初のゲットーは、セム系ユダヤ商人が活躍していたベネチアに西暦1554年に作られ(異説もある)、ローマ教皇パウルス4世がセム系ユダヤ人にゲットー内への居住を強制した。 其の後、ゲットーは急速にヨーロッパ各地へ広まり、約300年間存続した。 ヨーロッパのユダヤ人の全てがゲットーに収容されたという訳ではないだろう。 ヨーロッパのユダヤ人の中にもゲットーに収容されなかったユダヤ人が沢山いたと思われる。 ヨーロッパのユダヤ人の中でゲットーに収容された者の割合(収容率)は明らかになっていないようである。 ゲットーは高い塀で囲まれ、ゲットーの内と外との行き来はただ1つの門を通して行なわれた。 そして、其の門が閉められるときには、門の扉はゲットーの外から施錠され、其の鍵はキリスト教徒の門番が保管した。 ゲットー内にはシナゴーグや学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と高い宗教文化が保たれた。 ゲットー内のユダヤ人は貧しい生活をしていた訳ではなかった。 ゲットー内のユダヤ人の中には、大きな特権を享受していた裕福なユダヤ人が沢山いた。 彼らゲットー内の裕福なユダヤ人は西ヨーロッパ諸侯の高級官僚や宮廷御用商人になったユダヤ人で、彼らの中には天性の商才によって莫大な富を成した者もいた。 現在、世界最大最強の財閥として君臨しているロスチャイルド家の先祖もフランクフルトのゲットー内に住み、宮廷御用商人となって巨万の富を築いた。
小さい黒丸の地点がゲットーの作られたところである。

第13章  栄華を極めた世界最大最強のロスチャイルド財閥
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近代における反ユダヤ主義の特徴は、ユダヤ人がイエス・キリストを殺した民族だからというよりも、ユダヤ人がゲットーから解放されたのち、彼らが急激にビジネス界に進出して大成功を収めていったことに対して他民族が嫌悪感・嫉妬・ただならぬ不安を抱いたという点にある。 彼らは世界経済不況の中でも稼ぎ続けた。 その為、世界経済不況や暴力革命は全てユダヤ人の陰謀だとする書物も出回ったほどである。 我々は、冷静な目を持ってユダヤ商人の歴史を眺められる時代に生きている。 彼らがどのような世界を築いてきたかを知る前提として、ロスチャイルド家の歴史を知ることは為になる。

19世紀以来、資本主義の世界的発展とともに、国際金融業者(国際金融資本家)という新勢力が台頭してきた。 国際金融業者は国家というものに捕らわれず、国家の利益よりも自分たちの利益を優先し、世界中で暗躍してきた。 従って、国際金融業者の暗躍は国家の枠組み(各種制度や国民意識)を崩壊させる作用を持っている。 国際金融業者の筆頭はロスチャイルド家である。 日本人の中にはロスチャイルド家の存在すら知らない人が多くいるが、ロスチャイルド家は現実に存在しているファミリーであり、現在、世界最大最強の財閥である。 欧米の上層階級の人間は、ロスチャイルド家のグローバルな利権支配が一般大衆に知られることを妙に嫌っている。 その為、一般大衆の間でロスチャイルド家を問題にすることはタブーとされる風潮がある。 ユダヤ人を総合的に取り扱うに際して、ロスチャイルド家はどうしても避けられない存在なので、大雑把に触れておく。 想像を絶する彼らの世界的ネットワークを詳細に知りたい方は、『地球のゆくえ』『赤い楯』(ともに集英社)の中に「血のコネクション&資本のコネクション」が系図と共に克明に描かれているので、それをご覧になると良い。 日本人は彼らと対等に付き合うためにも、ロスチャイルド家のことを知っておいて損はないと思う。

ロスチャイルド家の歴史はマイアー・アムシェル・ロートシルト(ドイツ語読み、Mayer Amschel Rothschild、のちのロスチャイルド1世、英語読みではメイヤー・アムシェル・ロスチャイルド、西暦1744年〜1812年)の活動から始まる。 彼(マイアー)は西暦1744年にフランクフルトのゲットーでユダヤ商人の長男として生まれた。 当時、フランクフルトのゲットーに住むユダヤ人に公的な家名は許されていなかったが、彼(マイアー)の家族は赤い盾(roth Schild)の表札の付いた家で暮らしていたので、マイアー一家はゲットーの中では「Rothschild」と呼ばれていた。 そこで、マイアーは「Rothschild」を家名として使うことになった。 マイアーの父は金貸し業を営み、信仰心の厚いユダヤ教徒で、マイアーにはラビ(ユダヤ教の指導者)になることを期待していた。 その為、マイアーは幼くしてフュルト(フランクフルトから東南東170kmにある町)のラビ養成学校に入学し勉強した。 しかし、マイアーの父が1755年に死去し、母も翌年の1756年に死去したので、マイアーはラビ養成学校を退学した。 マイアーは13歳の頃、親戚の紹介でハノーバー王国のユダヤ人銀行家オッペンハイム家に丁稚奉公に入り、ここで宮廷御用商人の業務を学んだ。 マイアーは20歳でフランクフルトに戻り、フランクフルトのゲットー内で古銭の販売業を始めた。 当時の諸侯・貴族・金持ちには古銭の収集家が多かった。 マイアーは諸侯・貴族・金持ちにカタログを送り、郵便で注文を受けて配送するという通信販売を行なった。 マイアーがオッペンハイム家で働いていたときに知遇を得ていたエメリッヒ・フォン・エストルフという将軍を顧客にすることが出来た。 その当時、この将軍はフランクフルトの領主ヘッセン侯爵家のヴィルヘルム皇太子(のちのヴィルヘルム9世)に仕えていた。 マイアーはこの将軍の紹介でヘッセン侯爵家の高官たちを次々と顧客にし、21歳の時にヴィルヘルム皇太子からも注文を受けるようになった。 そして、西暦1769年、マイアーは26歳でヘッセン侯爵家の宮廷御用商人に登録された。 西暦1770年、マイアーはフランクフルトのゲットーの住民で宮廷御用商人サロモン・シュナッパーの娘と結婚した。 そして、マイアーは彼女との間に息子5人と娘5人とをもうけた。 ヴィルヘルム皇太子は領内の青年男子を徴兵して練兵場で鍛え上げ、イギリスの君主に傭兵として貸し出し、そこから莫大な利益を上げていた。 一方、マイアーは小規模ながら両替商をも営んでいた。 そして、マイアーはヘッセン侯爵家の財務官カール・ビュデルスからも気に入られていたので、マイアーはロンドンから振り出されたヴィルヘルム皇太子の為替手形を現金化する仕事に携わらせてもらえるようになった。 西暦1785年にヘッセン侯爵が亡くなると、その子ヴィルヘルム皇太子は莫大な財産を相続し、ヴィルヘルム9世となった。 この財産は当時のヨーロッパで最大の私有財産と言われている。 同年、ヴィルヘルム9世はカッセル(フランクフルトから北北東140kmにある町)の城に移った。 その為、マイアーとヴィルヘルム9世との関係が途絶えそうになった。 その当時、ヴィルヘルム9世にとってマイアーは数多くいる宮廷御用商人の1人でしかなかった為、マイアーが宮廷に顔を出す機会が減った事だけで、マイアーとヴィルヘルム9世との関係は疎遠になった。 しかし、やがてマイアーの息子たちが父の仕事を手伝うようになった。 次男サロモンはほぼ毎日のようにカッセルの城に詰めるようになった。 長男アムシェルはヴィルヘルム9世の抵当権に関する仕事に携わらせてもらえるようになった。 こうして、精力的なマイアーの息子たちの活動が高く評価され、マイアーの息子たちはヴィルヘルム9世からも気に入られ、西暦1789年、ロートシルト銀行は大銀行と名前を並べる形でヘッセン侯爵家の正式な金融機関の1つに指定され、ヘッセン侯爵家の貸出業務に関与できるようになった。 また、三男ネイサンは、大陸でフランス革命の影響で綿の価格が暴騰していたことを受け、西暦1798年、綿を大量に買いつける為にイギリスのマンチェスターへ渡って行った。

マイアーの息子たちの努力によってロートシルト家の業績は1790年代から急速に伸び、1796年にはマイアーはフランクフルトのゲットーの中で一番の資産家となった。 先に述べたように、マイアーには5人の息子がいた。 マイアーは長男を除く4人の息子のそれぞれを西ヨーロッパ列強の首都に派遣して次々と支店を開業させた。 そして、その4人の息子のそれぞれはロートシルト家の支家となった。 三男ネイサン・マイアー・ロートシルト(のちのロスチャイルド2世、西暦1777年〜1836年)は西暦1804年にロンドンに派遣され、そこで「ロンドン・ロスチャイルド商会」を開いた。 次男サロモン・マイアー・ロートシルト(西暦1774年〜1855年)はウィーンに派遣され、五男ヤコブ・マイアー・ロートシルト(のちのロスチャイルド3世、西暦1792年〜1868年)はパリに派遣され、四男カール・マイアー・ロートシルト(西暦1788年〜1855年)はナポリに派遣され、それぞれ支店を開業し、長男アムシェル・マイアー・ロートシルト(西暦1773年〜1855年)はフランクフルト本店に残った。 このようにして、ロートシルト家の取引範囲が広がっていき、ドイツの都市だけでなく、ロンドン、ウィーン、パリ、ナポリ、アムステルダムなど、外国の都市でも活動するようになり、西ヨーロッパの主要都市を結ぶ貿易ルート(通信と馬車輸送のネットワーク)を作った。 そして、この頃からロートシルト家の業務は信用供与と貸付業務が主となり、ロートシルト家は宮廷御用商人から国際銀行家へ転身したと言える。 マイアーはヘッセン侯爵家の宮廷御用商人として長年やって来られただけあって、穏和な性格の人で、人の心を掴むことが得意だったと言われている。 また、マイアーの商売は正直であり、取引相手も必ず儲けることが出来た。 これがロートシルト家の高い信用の源であった。

西暦1801年、マイアー(ロスチャイルド1世)は57歳でヘッセン侯爵家の莫大な財産の管理を任された。 西暦1806年10月、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がヘッセン選帝侯国にも侵攻してきた。ヘッセン選帝侯となっていたヴィルヘルム9世は領土を放棄しなければならなくなった。 その時、ヘッセン侯爵家の財務官カール・ビュデルスは「ヘッセン侯爵家の財産の保管を大銀行に任せると、フランス当局に見つかる恐れが大きい」と考え、その財産の保管をロートシルト銀行に任せることを決断し、ロートシルト銀行にヘッセン侯爵家の莫大な財産を投資信託という形で保管させた。 その時より1年前の西暦1805年10月、フランス海軍はトラファルガーの海戦でイギリス海軍に敗れ、ナポレオン・ボナパルトのイギリス侵入計画は失敗した。 その為、トラファルガーの海戦以降、イギリスのロンドンがフランス軍によって侵攻される恐れは小さかった。 そこで、ロスチャイルド1世はヘッセン侯爵家の莫大な財産をロンドン支店の三男ネイサンに送って管理させた。 このヘッセン侯爵家の莫大な財産こそがロスチャイルド家の巨万の富の源となっていく。 西暦1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出した所為で、大陸諸国ではイギリスやイギリスの植民地からの輸入に頼っていた綿製品、毛糸、煙草、コーヒー、砂糖、染料などが不足して、これらの商品の価格が高騰した。 一方、イギリスでは、これらの商品が大してさばけない為、これらの商品の価格が暴落した。 そこで、ロンドン支店の三男ネイサンはヴィルヘルム9世から預かっている莫大な財産を元手にして、イギリス内のこれらの商品を大量に安く仕入れ、これを大陸へ密輸した。 そして、大陸にいたロスチャイルド1世と4人の息子は、彼らが大陸内に予め作っておいた貿易ルートを使って、三男ネイサンから送られてきた商品を大陸各地で売りさばいた。 こうした商売でロートシルト家は巨万の富を得た上、商品不足で困っていた大陸諸国民からも大いに感謝された。 以上のようにして、ロスチャイルド1世はヘッセン侯爵家の財務に深く関わり、宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)となった。 ロスチャイルド1世は1812年9月に亡くなった。

ロスチャイルド1世の5人の息子はそれぞれの国の政府と癒着して貴族の称号を得て、政治的にも活躍し、今日のロスチャイルド財閥の基礎を作った。 ウィーン支店の次男サロモン・マイアー・ロートシルトとパリ支店の五男ヤコブ・マイアー・ロートシルトは協力して、ヨーロッパ全体をカバーする通信と馬車輸送のネットワークを作り上げた。 そして、そこから誰よりも早く得られる情報を利用して、ロンドン支店の三男ネイサン・マイアー・ロートシルトが金や通貨の投機をして大儲けするという、兄弟ならではの連携プレーをし、今日のグローバル金融ビジネスの原型を作り上げた。 また、西暦1810年にロンドン証券取引所の支配者フランシス・ベアリングが亡くなると、ロンドン支店の三男ネイサン・マイアー・ロートシルトがロンドン証券取引所の新しい支配者となり、世界一の金融王となった。 西暦1813年にイギリス東インド会社のインド貿易独占権が廃止されると、ロンドン支店の三男ネイサン・マイアー・ロートシルトがインド貿易の利権を支配するようになった。 三男ネイサン・マイアー・ロートシルト(ロスチャイルド2世)は1836年7月に亡くなった。 彼の死後、パリ支店の五男ヤコブ・マイアー・ロートシルトがロスチャイルド3世となった。 パリ支店のロスチャイルド3世は1868年11月に亡くなった。

知っている人も多いと思うが、ロンドン支店の三男ネイサン・マイアー・ロートシルトには有名なエピソードがある。 ナポレオン・ボナパルトがワーテルローの戦い(西暦1815年)で敗北したとき、 三男ネイサン・マイアー・ロートシルトは自慢の通信網を駆使し、「ナポレオン勝利」という偽情報をイギリスに垂れ流し、大暴落した株を買いまくった。 その日の午後、ロンドン証券取引所が閉まった時、彼はロンドン証券取引所に上場されていた株の62%を所有していたという。 そして、のちに「ナポレオン敗北」という真情報が公になり、株価が急騰したとき、彼は300万ドルの自己資産を2500倍の75億ドルに増やした。 この日、イギリスの名門金融業者の多くが破産したと言われている。

ロンドン支店のロスチャイルド2世はあくまでも金融業で発展を遂げた。 それに対して、パリ支店のロスチャイルド3世は金融業だけでなく、新しい交通手段として登場した鉄道の将来性に着目して鉄道事業に進出し、「ヨーロッパの鉄道王」となった。 また、ロスチャイルド3世は南アフリカのダイヤモンド鉱山や金鉱山に投資し、更にロシアのバクー油田の利権を握って「ロイヤル・ダッチ・シェル」をメジャーに育て上げ、情報産業・交通産業・エネルギー産業・貴金属産業で自己の権力を拡大していった。

西暦1862年、ロスチャイルド一族はナポレオン3世と金融提携をし、西暦1870年にはバチカンに融資を開始し、ロスチャイルド一族がカトリック教会を金融支配するという事態になった。 西暦1875年にはイギリス政府がロスチャイルド一族の融資によってスエズ運河会社の最大株主となり、ロスチャイルド一族はイギリス政府との癒着を更に深めていった。

以上のように、ロスチャイルド一族の華々しい活動の一端を見るだけで、19世紀末にはロスチャイルド一族が世界最大の財閥にのし上がっていたことが分かる。 とりわけ、その時期の非鉄金属資源の分野への進出ぶりは目覚ましいものがあった。 ロスチャイルド一族は西暦1880年に世界三大ニッケル資本の1つである「ル・ニッケル(現イメルタ)」を創設し、西暦1881年には亜鉛・鉛・石炭の発掘会社「ペナローヤ」を創設し、スペイン、フランス、イタリア、ギリシャ、ユーゴスラビア、北アフリカ、南アフリカにまで事業を拡大し、西暦1888年にはダイヤモンドの採掘・加工・卸売を行なう「デビアス社」を創設し、更に南アフリカ最大の資源開発複合企業「アングロ・アメリカン」(オッペンハイマー財閥)と提携した。 因みに、つい最近まで南アフリカを騒がしていたアパルトヘイトの真犯人はロスチャイルド一族の代理人たちであった。

20世紀になると、欧米列強の政府は、非鉄金属や石油などの地下資源を押さえた者が世界を制するという考えに基づいた国家戦略を立て、これを実行した。 そして、その戦略にロスチャイルド一族のビジネス戦略が連動していた。 20世紀末の今日、ロスチャイルド財閥は単なる財閥ではない。 現在、ロンドン分家とパリ分家を双頭とするロスチャイルド財閥は主要メディア(情報網、金融網)を支配し、かつ、あり余る力を使って、世界中の金・ダイヤモンド・ウラン等の地下資源を確保しようとしている巨大な企業連合体である。

ロスチャイルド家は白人系ユダヤ人(ハザール系ユダヤ人)ではなく、セム系ユダヤ人であるとの噂があり、イエス時代のパリサイ派ユダヤ人までの血統図を家宝として自慢しているという噂もある。 パリサイ派ユダヤ人といえば、イエス登場の時に、イエス派ユダヤ人と真っ向から対立した集団である。 パリサイ派ユダヤ商人は当時のエルサレム神殿をマーケット広場として利用し、のさばっていた。 その為、エルサレム神殿に入城したイエスに激しく罵られたことでも知られている。 因みに、ロスチャイルド一族には婚姻によりユダヤ人以外の人物も多数含まれるが、貧しいユダヤ人はこの一族の中には絶対に入れない。

ロスチャイルド一族の活動を否定的な見方だけで受け取ってしまうのは良くないので、彼らの言い分を載せるとしたら、次のような言い分が適切であろう。「我々は純粋にビジネスを追求しているのであり、国際ルールを侵してはいない。 先見性に優れ大胆かつ緻密なビジネス戦略の積み重ねが今日のような確固たる地位を築いたのである。 我々のことを悪く言う人がいるが、我々は現代文明のあらゆる分野に多大な恩恵をもたらし、人類全体に計り知れない貢献をし続けていることを忘れないでくれたまえ」。 関係者によると、ロスチャイルド一族の人々は自分たちが現代文明をリードしてきたという強い自負を持っているとのことである。 確かにその通りだと思う。 彼らは文化的事業において非常に国際的で活動的であり、映画産業界・ファッション産業界だけでなく、各種の国際研究所やノーベル財団等の学術界においても、輝かしい業績を挙げている。

そうだとしても、彼らのビジネスが各国の政府機関、各国の王室、各国の報道機関、各国の諜報機関などと密接に結び付いているとあっては、話は違ってくる。 彼らが軍需企業と癒着しているとあっては、なおさらである。 世界中にのさばっている兵器商人の多くはロスチャイルド一族と何らかの関係を持っている。「戦争のあるところにロスチャイルド一族の姿あり」と言われている。 彼らは戦争をビジネスとして淡々と扱う。 そこに尋常ではないものを感じる。 どこまでがビジネスとして許されるかが問題である。

ロスチャイルド家は金融力によって宮廷ユダヤ人となり、本来ならユダヤ人が絶対にもらえない「男爵位」を得た。 そして今や、ロスチャイルド一族は世界中のユダヤ商人のほとんど全てを配下とし、世界中のユダヤ商人勢力の中核となっている。 現在、世界中のユダヤ商人のほとんど全てはロスチャイルド一族のネットワークの中に取り込まれていると言って良い。 ロスチャイルド一族を筆頭とする彼らユダヤ商人にとって、国境は無いに等しい。 ロスチャイルド一族は正に世界を股に掛ける商売をしているのである。

西暦1940年当時のロスチャイルド一族は約5000億ドル(全世界の富の50%、アメリカの全資産の2倍)を支配していたと推定されている。 彼らの富は創業以来230年にわたって確実に増殖してきた。 彼らの勢力範囲は、まずヨーロッパで広がり、次いでアメリカで広がり、次いで、アジア、アフリカ、オーストラリアで広がった。 そして、彼らの勢力は戦争・暴力革命・経済恐慌など、あらゆる動乱の度毎に膨張してきた。 ロスチャイルド一族を無視しては、19世紀以降の戦争や平和を語ることが出来ず、総じて19世紀や20世紀や21世紀を語ることが出来ない。 ロスチャイルド家は近代・現代ビジネス史上、最も成功したファミリーであることは誰も否定しようがないと思う。

第14章  近代資本主義経済を作り上げた西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人
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ヨーロッパではキリスト教社会が成立して以来、ユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着し、ユダヤ人の職業は制限されてきた。 1078年、ローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を発令した。 その為、ユダヤ人が全ての職業組合から締め出された。 当時のキリスト教は、他人にお金を貸して利子を取ることを罪悪と見なし、キリスト教徒には金貸し業を禁止していた。 一方、ユダヤ教は『タルムード』の中で異国人から利子を取ることを許していたこともあって、ユダヤ人は古くから自由に金貸し業を営んできた。 その為公職追放令が発令された後、益々多くのユダヤ人が金貸し業に手を染めていった。 そして、同時期の十字軍遠征活動(1095年〜1272年)においては、ローマ教会が異教徒征伐を正当化したことにより、イスラム教徒だけでなく、多くのユダヤ教徒が殺害された。 15世紀後半にはイベリア半島のアラゴン王国で、キリスト教に改宗しながらユダヤ教の習慣を守る多くの改宗ユダヤ人が「異端審問」にかけられ、拷問を受け、自白を引き出され、有罪とされ、処刑された。 1554年にはゲットー(ユダヤ人集団隔離居住区域)が世界で初めてヴェネチアに設置され、ローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制した。 その後、ゲットーは急速に西ヨーロッパ各地へ広まり、約300年間存続した。 西ヨーロッパのユダヤ人の全てがゲットーに収容されたという訳ではないだろう。 西ヨーロッパのユダヤ人の中にもゲットーに収容されなかったユダヤ人が沢山いたと思われる。 ゲットー内のユダヤ人は貧しい生活をしていた訳ではなかった。 ゲットー内のユダヤ人の中には、大きな特権を享受していた裕福なユダヤ人が沢山いた。 また、ゲットーに収容されなかったユダヤ人の中にも、大きな特権を享受していた裕福なユダヤ人が沢山いたと思われる。 彼ら裕福なユダヤ人は西ヨーロッパ諸侯の高級官僚や宮廷御用商人になっていたので、「宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)」と呼ばれた。 彼らは天性の商才によって、莫大な富を成した。 この宮廷ユダヤ人の活躍について少し見ていきたい。

大航海時代(15世紀後半〜17世紀前半)における商業の世界的拡大は重商主義(自国の産業を保護育成し、輸出を奨励し、輸入を制限し、貿易差額によって資本を蓄積して国富を増大させようとする立場)を生み出した。 重商主義は、16世紀以降成立した絶対主義国家の君主にとって自国の富国強兵を図る為の最良の思想となった。 こうした経済発展のもとで、ユダヤ商人は次第にギルド(商工業組合)の厳重な統制から解放され、彼らの経済活動は大いに有利な方向へ変化していった。 封建制が遅くまで残り、小さな封建領主がひしめいていたドイツでは、国際商品取引網と金融力とを持っていたユダヤ商人は特に必要とされた。 17、8世紀のバロック時代から19世紀に至るまで、ドイツ諸侯でユダヤ商人を側近として持っていなかった者は殆ど居なかった。 その当時、ドイツほど宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)の経済力に依存した国は他になかった。 例えば、ドイツの分裂と衰退を決定的なものにした三十年戦争(1618〜1648年)の際、フォン・ヴァレンシュタイン将軍はカトリック側に立って、神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世のために傭兵隊を組織したが、その財源はハプスブルク家の宮廷ユダヤ人ヤコブ・ハセヴィにより提供されたものであった。 また、バイエルン王国の筆頭宮廷ユダヤ人アーロン・エリアス・ゼーリヒマンは、1802年にバイエルン王国の税収入を担保に取り、300万フランケンをバイエルン王国に融資し、その6年後には同国の関税収入を担保として、400万フランケンを貸し付けた。

プロイセンの首相ビスマルクと皇帝ヴィルヘルム1世の経済顧問であった宮廷ユダヤ人銀行家ゲルソン・フォン・ブライヒレーダーは、普仏戦争(1870〜1871年)に勝ったドイツがフランスから取るべき賠償金の額を決定した人物であった。 ビスマルクはこの宮廷ユダヤ人に彼個人の財産管理の全てを託していた。 ビスマルクは、この宮廷ユダヤ人に相談することなくプロイセン王国の財政や戦費を動かすことはなかったという。

アウグスブルク(南ドイツの主要都市)の大商業資本家ヤコブ・フッガーによるローマ教皇や諸侯に対する高利貸し付けは有名である。 16世紀、フッガー家により始められた王侯・貴族に対する貸し付けは宮廷ユダヤ人を生み出し、20世紀初頭までドイツの王侯・貴族とユダヤ人資本家との間には深い結びつきがあった。

ヘッセン侯国の宮廷御用商人として出発したロスチャイルド家が金融業百年(1804〜1904年)を記念した出版記録には、ヨーロッパ諸国の王侯・貴族の多くがロスチャイルド家の融資を受けていることが記されている。 ロスチャイルド1世(メイヤー・アムシェル・ロスチャイルド、1744〜1812年)の妻グトレが、戦争の勃発を恐れた知り合いの夫人に対し、「心配には及びませんよ。 私の息子達がお金を出さない限り、戦争は起こりませんからね」と答えたという。 宮廷ユダヤ人研究の権威ハインリッヒ・シュネーは、三十年戦争(1618〜1648年)から解放戦争(1813年〜1814年)に至るまで、ユダヤ人の資金無しで行なわれた戦争は殆ど無かったと指摘している。 ロスチャイルド1世は長男を除く4人の息子のそれぞれを西ヨーロッパ列強の首都(ロンドン、パリ、ウィーン、ナポリ)に派遣して次々と支店を開業させた。 そして、その4人の息子のそれぞれはロスチャイルド家の支家となった。 このように、19世紀に入ると、宮廷ユダヤ人は立派な「宮廷銀行家」として、西ヨーロッパ諸王国の財政を左右するほどの力を持つまでになった。 そして、絢欄豪華な絶対主義王朝下で宮廷ユダヤ人は金・銀・宝石等の供給者として大儲けをしていた。 彼らは君主の委託のもとで自らの所有する金・銀・銅で硬貨を作って供給した。 多くの宮廷ユダヤ人の富はしばしばこの貨幣鋳造業の請負に由来するものであった。

以上のように、西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人は大きな資金を西ヨーロッパ諸侯に提供し、君主の財産を管理し、国際商取引の代行者として、極めて重要な役割を果たした。 彼らは君主から多くの特権を与えられ、ゲットーでの居住から解放され、多くの義務を免除された。 金融力によって最強の宮廷ユダヤ人となったロスチャイルドは、本来ならユダヤ人が絶対にもらえない「男爵位」を得た。

ユダヤ人の歴史に詳しいある研究家は次のように述べている。
王侯貴族の財産を管理する『宮廷ユダヤ人』となることこそ、当時の彼らが到達し得る最高の栄誉だった。 そもそも、金融システムは西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人によって作られたのである。 中世のヨーロッパでは、キリスト教徒は利子を取ることを禁じられていたため、野蛮な職業とされていた金貸しなどの金融業はユダヤ人にあてがわれていた。 商品売買業か金融業しか認められていなかったユダヤ人は、その二つのどちらかに就くことを強いられていた。 17世紀に神聖ローマ帝国が弱体化すると、西ヨーロッパ諸侯は皇帝権力からの脱却を目指して独自に領地を支配するようになっていったが、、西ヨーロッパ諸侯にとっては、深刻な官僚不足と、貨幣の原料となる銀の不足が問題となってきた。 そこで、金融取引のノウハウを持って幅広く商取引を行なっていた西ヨーロッパのユダヤ人は西ヨーロッパ諸侯の高級官僚や宮廷御用商人になり、国家権力の中枢に入り込み、君主の委託のもとで自らの所有する金・銀・銅で硬貨を作って供給し、金融を通して西ヨーロッパ諸国家に対する大きな影響力を持つようになっていった。 幾多の弾圧や追放により世界中に離散させられた歴史は世界の各地に『信頼できる同業者ネットワーク』を生み出した。 彼ら宮廷ユダヤ人はこのネットワークを使って、貿易などの商取引に深く関わり、為替取引を発達させた。 当時の船は海賊に襲われることが多く、船が沈んだら、投資家たちはただ損をするだけであった。 そんな中で、西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人は「貿易商人たちから保険料を集め、万が一の時の損失を肩代わりする」という保険業を誕生させた。 また、西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人は事業のリスクを多人数で負うという株式会社の原理をも生み出した。 西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人は、財産が没収されるというリスクを負って生きていた為、無記名の銀行券を発行させて流通させた。 これは後に欧州各国が中央銀行において紙幣を発行する際に応用されたシステムである。 このように、西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人こそ金融システムを構築した人々である。

ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトは次のように述べている。
もし、ユダヤ人たちが北半球諸国に分散移住していなかったならば、近代資本主義経済は生まれなかっただろう。

第15章  西ヨーロッパでのユダヤ人解放、シオニズムの台頭
18世紀後半のフランスではモンテスキュー、ヴォルテール、ルソーなどにより啓蒙思想が平民の間に広く浸透していた。 また、18世紀後半のフランスでは平民の中に裕福な商工業者が増えてきていたが、彼らブルジョワジーは自分らがフランスの身分制度の中で自分の経済的実力に相応しい扱いを受けていないことに大きな不満を抱いていた。 こうした状況の中で、西暦1789年に「自由・平等」を掲げるフランス革命が起きた。 フランス革命を起こした平民の中には、商業で実力を身に着けて裕福になったユダヤ人が沢山いた。 フランス革命が起きてから2年後の西暦1791年、フランスの国民議会はユダヤ人に平等の権利を認めた。 つまり、法的にユダヤ人差別の撤廃が決定された。 ナポレオン・ボナパルトはフランス人権宣言(西暦1789年)に基づいてフランス国内のゲットーからユダヤ人を解放した。 其の影響が西ヨーロッパ各国に及び、西ヨーロッパ各国ではユダヤ人解放政策が行なわれ始めた。 もともと優秀な頭脳に恵まれていたユダヤ人はゲットーでの隔離生活から解き放たれると、水を得た魚のように活躍し、爆発的に各界に進出して成功し、非常に目立つ存在になった。 しかし、ユダヤ人がゲットーから解放されたとは言え、それは法的なレベルであり、ユダヤ人差別が解消された訳ではなかった。 西ヨーロッパではナポレオン・ボナパルトのユダヤ人解放政策によりユダヤ人が爆発的に各界に進出して成功した為、ユダヤ人を自分たちの国から排斥しようとする反ユダヤ勢力が以前より一層強まった。 ドイツのヴュルツブルクでは西暦1819年にユダヤ人迫害(虐殺など)が発生し、瞬く間に反ユダヤ運動がドイツ語圏の全域に大規模に広まった。 此の動きは西暦1870年頃までにユダヤ人を諸悪の根源とみなす過激な反ユダヤ主義にまで発展した。 フランスでは西暦1894年にユダヤ人士官アルフレッド・ドレフュスが国家機密文書をドイツに売ったというスパイ容疑で逮捕されるという「ドレフュス事件」が起き、真偽を巡ってフランスの世論は二分した。 此の事件は結局、冤罪であることが判明したが、ドレフュスがユダヤ人であった為、犯人にでっち上げられたのである。 此のように、西ヨーロッパではユダヤ人がゲットーから解放され、其の一部がキリスト教社会に同化していくようになっても、ユダヤ人の全てがキリスト教社会に同化した訳ではないので、ユダヤ人に対する弾圧や差別は依然として解消されず、更に、ナポレオン・ボナパルトのユダヤ人解放政策によりユダヤ人が爆発的に各界に進出して成功した為、ユダヤ人を自分たちの国から排斥しようとする反ユダヤ勢力が益々強まった。

一方、東ヨーロッパでは、西暦1881年3月、農奴解放で知られたロシア皇帝アレクサンドル2世がユダヤ人女性を含む暗殺グループにより殺害されると、ロシア帝国領ウクライナで狂暴な反ユダヤの嵐が吹きまくり、爆発的で大規模なポグロムがロシア帝国のハザール系ユダヤ人定住区域の全域に広がりながら、西暦1906年まで断続的に起きた。 此の一連のポグロムにより、十数万人のハザール系ユダヤ人が殺されたと言われている。 此のポグロムが切っ掛けとなり、西暦1880年代に東ヨーロッパのハザール系ユダヤ人の間で「シオニズム(Zionism)」が生まれた。 シオニズムとは、大雑把に言えば、「19世紀後半のユダヤ人迫害の高まりの中で生じたユダヤ国家建設運動やユダヤ文化興隆運動」である。「シオニズム」という名称はエルサレムの古い呼び名「シオン」という言葉に因んで名付けられたものである。 シオニズムの信奉者やシオニズムを支持する者を「シオニスト」と言う。

東ヨーロッパのハザール系ユダヤ人の大多数あるいは殆ど全ては正統派ユダヤ教徒(周囲の社会に同化することを拒否し、本来のユダヤ教徒であろうとするユダヤ教徒)であった。 ロシア帝国領ウクライナでの相次ぐポグロムの発生が切っ掛けとなり、東ヨーロッパのハザール系ユダヤ人の一部は、其の当時オスマン帝国の支配下にあったパレスチナにユダヤ国家を樹立することがユダヤ人迫害の唯一の解決策だと考えるようになった。 まず、黒海北岸の都市オデッサのハザール系ユダヤ人医師レオン・ピンスケルがオデッサのポグロム(西暦1871年)に遭遇したショックをもとに『自力解放』という本をドイツ語で西暦1881年に出版し、ハザール系ユダヤ人は自分たちの国を作って隷属状態から解放されるべきだと主張した。 そして、彼は「ヒバト・ツィオン」(パレスチナにハザール系ユダヤ人の入植を推し進めるインテリや学生たちの組織)に参加して指導的役割を演じた。 西暦1882年にはロシアのハザール系ユダヤ人学生から成るシオニズム団体「ビールー」が「ビールー運動」(パレスチナに移住してパレスチナの地を開拓しようとする運動)を始めた。「ビールー」とは「ヤコブの家よ、来れ、行かん」(イザヤ書2章5節)のヘブライ語の頭文字の組み合わせである。 ビールー運動は急速にロシアのハザール系ユダヤ青年の間に広まった。 西暦1884年には第1回ビールー運動全国大会がロシア帝国の秘密警察を避けて、ドイツ領内の町カトヴィツェで開かれた。 そして、西暦1884年以降の十数年間にロシアのハザール系ユダヤ青年1万人がパレスチナに移住し、約40ヶ所の地点に入植した。 これがシオニストの第一波移民である。 西暦1880年代から1914年までにロシア帝国からパレスチナに移住・入植したハザール系ユダヤ人の数は5万人である。 此の種類のシオニズムは「労働シオニズム」と呼ばれ、ハザール系ユダヤ人入植者が開拓民として自ら肉体労働を行ない、共産主義的共同体を建設しようとするものである。

ロシア帝国領ウクライナでは「文化的シオニズム」も生まれた。文化的シオニズムの創始者はキエフ州生まれのアハド・ハアムである。 文化的シオニズムとは「離散生活を長年送ってきたユダヤ人がパレスチナで再び合体しようとしても、もはや国民として融合することは不可能である。 ユダヤ国家建設に代わるものとして、離散ユダヤ人の為にパレスチナに精神的中心機関を設置し、ユダヤ文化を興隆させよう」という主張である。

東ヨーロッパでの相次ぐポグロムの発生に危機感を募らせていた東欧ハザール系ユダヤ人の間では、ユダヤ民族主義も台頭してきた。 ウィーン出身のナータン・ビルンバウムは東欧ハザール系ユダヤ人の文化と出会って感銘を受け、東欧ハザール系ユダヤ人としての自覚を見出すように東欧ハザール系ユダヤ人に呼びかけ、西暦1885年から新聞『自己解放』を発行し、西暦1890年には「シオニズム」や「シオニスト」という言葉を創り出し、西暦1908年にはイディッシュ語の世界会議をチェルノヴィッツ(ウクライナ西部の都市)で開催した。 彼はユダヤ人を民族として捉え、「ユダヤ人は文化的・政治的自主性を持つべきであり、母国語としてイディッシュ語を採用すべきである」と主張し続けた。 彼の影響で、東欧の作家・演劇家・歴史家・社会学者・ジャーナリスト・肉体労働者・小売商人など、幅広い層の人々が、「自分はユダヤ民族の一員であり、自分たちユダヤ人は “1つの民族” である」と意識するようになった。 こうした事情は西ヨーロッパでは見られないもので、ユダヤ民族意識の高揚は東ヨーロッパでのみ見られた。

ガリチア(此の当時はオーストリア・ハンガリー帝国領)の中心都市リヴォフ出身のフレート・ノシックはユダヤ民族主義の重要な理論家として活躍した。 彼は西暦1886年に「東欧ユダヤ人と非ユダヤ人との間の紛争をなくすことができるのは、離散に終止符を打ち、多くのユダヤ人がユダヤ教の “約束の地” であるパレスチナにユダヤ国家を樹立する場合に限られる」と主張した。 これより前の西暦1883年、リヴォフではユダヤ国家建設派の組織が設立されていた。 リヴォフのユダヤ国家建設派は、貧しく危険にさらされているユダヤ人を開拓民としてパレスチナに送り込むこと、及び、ガリチアのユダヤ人の保護を主張した。 こうして、東ヨーロッパでは「ユダヤ民族主義の拠り所として、ユダヤ国家建設の地は “約束の地” であるパレスチナ以外にはあり得ず、東ヨーロッパのユダヤ人は合法であれ、違法であれ、パレスチナへ入植し、ユダヤ国家建設を目指すべきだ」と主張する「実践的シオニズム」が台頭してきた。

東ヨーロッパのシオニズムより少し遅れて西暦1890年代に西ヨーロッパで生まれたシオニズムとして「政治的シオニズム」がある。 政治的シオニズムとは、ユダヤ国家建設の必要性を説くが、関係諸国に配慮して、ユダヤ国家建設の地はパレスチナでなくても良いという主張である。「多くのアラブ人が住むパレスチナにユダヤ国家を作ったら、大きな問題が起きる」ということは誰にでも予測できることであった。 政治的シオニズムを主張した人々は西ヨーロッパ在住のシオニストであり、其の中心人物は “ユダヤ建国の父” と言われるテオドール・ヘルツルである。 ヘルツルはハンガリーのブダペスト生まれで、オーストリアのウィーンで暮らしていた同化ユダヤ人(キリスト教社会へ同化したユダヤ人)であった。 彼は新聞記者としてフランスのドレフュス事件を取材し、自らの民族感情を呼び覚まされた。 ヘルツルは、ユダヤ人の悲劇の根源は国家を持たないところにあると考え、ユダヤ国家建設こそ急務であると考えた。 彼は『ユダヤ人国家』を著し、西暦1897年、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開催し、「世界シオニスト機構」を設立し、自ら議長となり、シオニズムの国際的認知の為に、外交活動を精力的に行なった。

幾つかの運動形態があるシオニズムの中で、シオニストは互いに反目した。 また、シオニズムに反対するユダヤ教徒はとても多かった。 東ヨーロッパのユダヤ人の大部分を占めるハザール系ユダヤ教正統派(伝統的ユダヤ教徒)はシオニズムに敵対的であった。 彼らの基本的立場は「世俗的政治手段によってユダヤ人の救済を企てることは神意に反している。 流浪は神がユダヤ人に課した罰である。 ユダヤ人の義務はメシアの出現を忍耐強く待つことである」というものであった。 ユダヤ教改革派は「ユダヤ人集団は民族ではなく宗教集団であるから、ユダヤ国家を建設する必要はない」として、シオニズムに反対した。 ユダヤ人社会主義団体「ブント」はシオニズムを “反動ブルジョア的” と決めつけて非難した。 文化的シオニズムを提唱していたアハド・ハアムは政治的シオニズムに反対した。「シオニスト会議」の中では、実践的シオニズム(東ヨーロッパ在住のハザール系ユダヤ人シオニスト)と政治的シオニズム(西ヨーロッパ在住のシオニスト)との意見の食い違いにより、常に緊張する場面が繰り返された。 中でもユダヤ国家建設の候補地選びにおいて、大きく意見が衝突した。 先に述べたように、西ヨーロッパ在住のシオニストは、ヘルツルを初めとして、ユダヤ国家建設の地はパレスチナでなくても良いと主張していた。 実際にヘルツルは第6回シオニスト会議(西暦1903年)において、パレスチナに代わるユダヤ人入植地として「ケニヤ高地」を勧めるイギリスの提案を受け入れていた。 しかし、東ヨーロッパ在住のハザール系ユダヤ人シオニストは「ユダヤ民族主義の拠り所として、ユダヤ国家建設の地は “約束の地” であるパレスチナ以外にはあり得ず、東ヨーロッパのユダヤ人は合法であれ、違法であれ、パレスチナへ入植し、ユダヤ国家建設を目指すべきだ」と主張し、ヘルツルの考えに猛反対した。 そして、更に、東アフリカの「ウガンダ」が候補地として浮上し始めると、東ヨーロッパ在住のハザール系ユダヤ人シオニストは「ウガンダ案」に猛反発し、世界シオニスト機構を脱退するとまで言い出した。 ユダヤ教徒でなかったヘルツルにとって、入植地がどこになろうと問題ではなかった。 しかし、民族主義に燃えていた東欧ハザール系ユダヤ人シオニストにとって、入植運動は聖書の “選ばれた民” の膨張運動であって、其の意味でアフリカなどはとんでもなかった。 其の為、「ウガンダ案」に激怒した東欧ハザール系ユダヤ人シオニストが、ヘルツルの補佐人マクス・ノルダウを殺害しようとする一幕さえあった。 西暦1904年7月、ヘルツルは失意の中で44歳で死んだ。 そして、ヘルツルの死の早すぎたことが「ユダヤ民族主義の拠り所として、ユダヤ国家建設の地は “約束の地” であるパレスチナ以外にはあり得ない」と主張する東欧ハザール系ユダヤ人シオニストにとっては好都合となり、「ウガンダ案」をめぐる反目の中で、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストは西暦1903年から1905年までの間に終に自分たちの主張を貫くことに成功し、文化的シオニズムや政治的シオニズムは衰退し、実践的シオニズムがシオニズムの主流となった。 第一次世界大戦が始まった頃には、文化的シオニズムや政治的シオニズムは消滅したと思われる。

西暦1881年にロシア帝国領ウクライナで爆発的で大規模なポグロムが発生してから西暦1914年までにロシア帝国のハザール系ユダヤ人5万人が労働シオニズムを支えにして、開拓民としてパレスチナに移住・入植した。 彼らハザール系ユダヤ人はユダヤ国家建設の主導権を握った。 ロシア帝国のハザール系ユダヤ人のパレスチナへの移住・入植はシオニズムの世界的指導者ハイム・ワイツマンの指揮下で行なわれた。 パレスチナにおける東欧ハザール系ユダヤ人入植地の数は西暦1900年には22であったが、西暦1918年には47になった。 西暦1909年には「キブツ」と呼ばれる共産主義的集団農場が作られ始め、同年、東欧ハザール系ユダヤ人の町テルアビブができた。 パレスチナで東欧ハザール系ユダヤ人が増えるに連れて、パレスチナに住んでいるアラブ人は反ユダヤ感情を持つようになった。 パレスチナに移住・入植してきた東欧ハザール系ユダヤ人は白人であった為、パレスチナのアラブ人とは初めから折り合いが悪かったのである。 しかし、シオニズム反対熱がアラブ人の間に高まる程ではなかった。

第16章  ロスチャイルド一族の資金援助の下でのハザール系ユダヤ人のパレスチナへの大量流入
イギリス政府は第一次世界大戦中の西暦1915年にアラブ側と秘密裏に「フサイン・マクマホン協定」を取り交わし、アラブ側とアラブ国家建設の約束をした。 翌年の西暦1916年、イギリス・フランス・ロシアの政府は石油利権の確保を目指し、オスマン帝国領の分割を取り決めたサイクス・ピコ協定を秘密裏に結んだ。 翌年の西暦1917年11月2日、イギリス政府は「連合国に協力すれば、パレスチナにおけるユダヤ人のナショナル・ホームの建設を支援する」というバルフォア宣言を出した。 此のバルフォア宣言は、イギリス政府のバルフォア外務大臣がロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ウォルター・ロスチャイルド宛ての書簡の形で出したもので、パレスチナで圧倒的多数を占めるアラブ人の意向を無視したものだった。 バルフォア宣言の叩き台を作ったのはシオニズムの世界的指導者ハイム・ワイツマンとロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ウォルター・ロスチャイルドである。 彼らは1917年7月18日の時点で宣言の草案をバルフォア外務大臣に手渡していた。 此の段階で東欧ハザール系ユダヤ人入植地に提供された資金は170万ポンドに達していたが、其のうちの160万ポンドはライオネル・ウォルター・ロスチャイルドのポケットマネーであった。 実践的シオニズムを信奉する東欧ハザール系ユダヤ人シオニストはバルフォア宣言を信じ、連合国(イギリス、フランス、ロシア)に協力し、参戦した。 西暦1918年11月、第一次世界大戦が休戦状態になると、ロスチャイルド一族のユダヤ国家建設への働きかけは急に大きくなった。 ロスチャイルドを含む数人の有力なユダヤ人は、第一次世界大戦終結の際の敗戦国ドイツに課す条約の文言を任せられた。 ヴェルサイユ条約により、ロスチャイルド家はドイツが所有していたパレスチナの鉄道権を得た。 また、ロンドン・ロスチャイルド家はオスマン帝国に貸し付けを行なっており、其の額は1億ポンドに迫るものだった。 第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、ロンドン・ロスチャイルド家はオスマン帝国政府の債務不履行を理由に、パレスチナに対する権利を要求した。 一方、イギリス政府は敗戦国のオスマン帝国に代わって西暦1918年にパレスチナの占領統治を始め、西暦1920年にパレスチナの植民統治を始めた。 ロスチャイルド一族の資金援助の下で、東ヨーロッパのハザール系ユダヤ人がパレスチナに移住・入植するようになったのである。 イギリス政府は西暦1923年9月に国際連盟からパレスチナの委任統治権を与えられ、パレスチナの委任統治を始めた。 実践的シオニズムを信奉する東欧ハザール系ユダヤ人シオニストは「いよいよユダヤ国家建設が本格的に着手される」と思って、胸を躍らせた。 パレスチナへの移住・入植には多くの資金が必要とされたが、それを心配する必要はなかった。 なぜならば、パレスチナに移住・入植した東欧ハザール系ユダヤ人には「匿名の寄贈者」というサインの付いた小切手が送られていたからである。 のちに「匿名の寄贈者」の正体はパリ・ロスチャイルド家のエドモンド・ロスチャイルドであることが公にされた。 こうして、ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド及びエドモンド・ロスチャイルドからの膨大な資金援助のお蔭で、東欧ハザール系ユダヤ人が続々とパレスチナに入植し、住宅・学校・農地を購入することが出来た。 また、ロスチャイルド一族の資金援助の下で、毎年、東欧ハザール系ユダヤ人入植者が栽培した農作物の全てが世界市場価格より高い値段で買い取られた。 こうして、パレスチナに移住・入植した東欧ハザール系ユダヤ人の累計数は年々大きく増え続けた。 其の結果として、パレスチナに住んでいるアラブ人の間にシオニズム反対熱と反ユダヤ感情とが急激に高まり、アラブ人とパレスチナに移住・入植した東欧ハザール系ユダヤ人との対立が激しくなり、西暦1920年代初頭からパレスチナ紛争が起きるようになった。 東欧ハザール系ユダヤ人の増加を嫌ったアラブ人による主な暴動を挙げると、西暦1920年の暴動(ユダヤ人216人死傷)、西暦1921年・1925年・1926年の暴動、西暦1929年の暴動(ユダヤ人133人死亡、339人負傷、アラブ人439人死傷)がある。 特に西暦1936年から1939年までの期間にはエルサレムで大暴動が続発した。 西暦1920年から1931年までにパレスチナに移住・入植した東欧ハザール系ユダヤ人の数は12万人前後と言われている。

パリ・ロスチャイルド家のエドモンド・ロスチャイルド
エドモンド・ロスチャイルドは19世紀末からパレスチナへ入植するユダヤ人たちに「匿名の寄贈者」というサインの付いた小切手を送り続け、彼らを金銭的に援助していた。

因みに、映画『アラビアのロレンス』で知られているトーマス・エドワード・ロレンスは第一次世界大戦中にイギリス陸軍の情報将校としてオスマン帝国に対するアラブ人の反乱を支援し、映画の中のロレンスはアラブ国家建設を夢見ていた。

第17章  ロシア帝国から押し寄せてきたハザール系ユダヤ難民を嫌った西欧ユダヤ人
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先に述べたように、西暦1881年3月、農奴解放で知られたロシア皇帝アレクサンドル2世がユダヤ人女性を含む暗殺グループにより殺害されると、ロシア帝国領ウクライナでは狂暴な反ユダヤの嵐が吹きまくり、爆発的で大規模なポグロムが西暦1906年まで断続的に起きた。 此の一連のポグロムにより、十数万人のハザール系ユダヤ人が殺されたと言われている。 ナチスによるユダヤ人迫害が発生するまで、ロシア帝国はユダヤ人が最も大量に殺された国であった。

第一次世界大戦の初期、ハザール系ユダヤ人定住区域の大部分はロシア帝国の作戦行動地域でもあった。 ポーランド国民民主党やロシア軍参謀本部の反ユダヤ主義グループは「ハザール系ユダヤ人がドイツおよびオーストリア・ハンガリー帝国に味方してスパイ活動を行なっている」との非難を煽り立てた。 其の結果、ハザール系ユダヤ人定住区域内のあちこちでユダヤ人迫害(虐殺など)が発生した。 ロシア軍はハザール系ユダヤ人定住区域のうち、戦争が展開していない地域のハザール系ユダヤ人をも追放するようになった。 そうした情勢が如何ともしがたくなったとき、ロシア政府は西暦1915年8月に「ハザール系ユダヤ人定住区域」を廃止し、ハザール系ユダヤ人に対してロシア帝国のどこに居住しても構わないという許可を与えた。 これはハザール系ユダヤ人の不都合を考えてのことではなく、ハザール系ユダヤ人が敵と通じることを恐れた為であった。 一部のハザール系ユダヤ人は兵士として戦争の最前線へ追いやられた。 のちに故郷へ帰還することの出来た者は、自分の住まいが既に非ユダヤ人によって占拠されているという状態にしばしば直面した。 こうした状況の中で、ロシア帝国内のハザール系ユダヤ人が難民として西欧に押し寄せ、中でもドイツには洪水のように押し寄せた。 これがドイツ国民の反ユダヤ感情を刺激し、ドイツでナチスが台頭する原因の一つになった。

18世紀末から19世紀初めにかけて、啓蒙主義がヨーロッパ知識人階級の支配的思想となった。 啓蒙主義に強い影響を受けたドイツのユダヤ人は、伝統的なユダヤ的感性を最小限にとどめて、キリスト教徒と同じ教養を身に着けることこそが、ユダヤ人を差別と貧困から解放する道であると考えた。 こうして、ユダヤ人がキリスト教ヨーロッパ社会の中に積極的に同化していくことを目指す運動「ユダヤ啓蒙主義運動」が誕生した。 此のユダヤ啓蒙主義運動の先駆者となったのがドイツのユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーン(作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父)である。 彼は、ゲットー生活からの脱却、キリスト教ヨーロッパ社会への同化、他宗教に対しての寛容を説いた。 彼自身はユダヤ教の戒律に忠実なユダヤ教徒としてとどまったが、ユダヤ人をドイツ文化に同化させようとした。

西欧ユダヤ人の大多数または殆ど全ては第一次・第二次ユダヤ戦争での敗北で西欧各地に移住したセム系ユダヤ教徒の子孫である、と思われる。 ユダヤ啓蒙主義運動の影響もあり、西欧ユダヤ人はキリスト教ヨーロッパ社会にかなり同化し、どちらかというと経済的に豊かで、企業家・学者・弁護士・医者など教養ある近代ヨーロッパ文化の輝きを身につけた文化人が多かった。 それに比べて、第一次世界大戦に伴ってロシア帝国から西欧(特にドイツ)に流入したハザール系ユダヤ難民は貧しく文化程度の低い人々で、キリスト教社会に同化しようとせず、イディッシュ語という独特の言葉を話す人々だった。 そして、彼らの多くは無国籍であった。 キリスト教社会に溶け込んで活動していた西欧ユダヤ人の間では、ロシア帝国から押し寄せてきたハザール系ユダヤ難民は全面的に歓迎されなかった。 西欧ユダヤ人は、ロシア帝国から押し寄せてきたハザール系ユダヤ難民がドイツ国内で粗野な行動を起こして自分たちの安寧を脅かしていると、危機感を持った。 例えば、ドイツ・ユダヤ人社会の公式な機関紙である『ナショナル・ジューイッシュ・ポスト』は西暦1923年6月号の記事で、ガリチアからやってきたハザール系ユダヤ難民に対する憤りを次のように表明した。
これらの人々がポグロムの国の埃を靴から払い、より寛大な西欧へ逃れようとすることは、彼ら自身の観点からすればまったく正しいことである。 イナゴが群れをなして我々の畑を襲うことも、イナゴ自身の観点からすれば正しいことである。 だが、人が、自らのパンと安寧を与えてくれる自分の所有地を守ろうとすることも正しいことである。 そして、彼らが群れをなしてやって来るということを誰が否定できようか。 彼らは地代を無視する。 彼らは役人たちを無視する。 とりわけ彼らは所有者の意志を無視するのである。 彼らはただ1つの目的をもっており、それを促進する為にあらゆる機会を利用する。 彼らは家屋を強奪の対象とするだけでは飽き足らない。  〈中略〉  いかに多くのユダヤ人が東欧からドイツにやってきたかということは、一般には隠された事実である。 公にされない為、ほとんどの人(非ユダヤ教徒)は知るよしもない。 ただ我々だけは公的な統計がすべてデタラメであることを知っている。 『ユダヤ人労働者救済委員会』も嘘をついている。 彼らユダヤ人はガリチアから流出して、ウィーンを征服し終え、今やベルリンを征服しつつある。 彼らユダヤ人がベルリンの支配者になったあとには、パリを征服するだろう。

ナチス政権が強制収容所へのユダヤ人強制移送の為に作った「ユダヤ人評議会」が移送リストに最初に乗せた人々は、ロシア帝国から押し寄せてきたハザール系ユダヤ難民だった。 西欧ユダヤ人の中にはこうした一種の排外主義があった。 従って、第一次世界大戦に伴って難民としてロシア帝国からドイツに流入して定住したハザール系ユダヤ人はナチス政権の反ユダヤ政策による最大の犠牲者となった。 しかも、彼らは故郷ともいうべき東欧で殺害された。 アウシュヴィッツ強制収容所を初めとして、ナチス政権が作った強制収容所はドイツ国内にではなく、全てポーランドにあった。

第18章  ドイツ経済に食い込んだユダヤ人、及び、ナチス政権による各種反ユダヤ法令
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『反ユダヤ主義の歴史』という本を著わしたレオン・ポリアコフという人の研究によれば、西暦1900年頃のドイツ経済界で活躍したユダヤ人の数は当時のドイツ人口の1%足らずであったが、彼らは平均してドイツ人の7倍の富を貯えていた。 つまり、西暦1900年頃、ドイツ人口の1%のユダヤ人が全ドイツの資産の6%〜7%を所有していた。 現在、国際金融都市として著しい発展を見せているフランクフルトには、西暦1880年に既に210の銀行があったが、其の85%はユダヤ人の経営下にあった。 また、アカデミックな分野でもユダヤ人は目立つ存在であった。 西暦1913年当時のフランクフルトの場合、弁護士218名のうちの63%がユダヤ人であり、医師405名のうちの36%がユダヤ人であった。 ヒトラーが政権を握る直前のドイツにおいて同化主義ユダヤ人は経済や学術の分野で巨大な勢力を誇っていた。 首都ベルリンにおける産業の育成や交通の開発におけるユダヤ人の活躍は目覚ましかった。 プロイセンやバイエルンなど、ドイツ各地における鉄道の敷設、また、ソ連やルーマニアにおける鉄道の敷設もドイツ・ユダヤ人の資本と人材なくしては考えられなかった。 ハンブルクにおける海運業、大都市での百貨店経営、陶器、銅、メッキ、化学工業の分野など、更に、ベルリンにおける衣料、電気、機械、武器の製造、製油業など、あげればきりがない。 デパートについては、ヒトラーが政権を握る西暦1933年まで、ドイツのデパートの80%がユダヤ人の所有であった。 こうしたユダヤ人の活躍は、当時の投資家・出資者としてのユダヤ人銀行家を抜きにしては考えられない。 ヒトラーが訴えた所謂「国際ユダヤ主義にたいする断固たる戦い」の裏には、ドイツ経済に食い込んだユダヤ人資本家の絶大な力に対する恐れがあったのだろう。

ドイツでは反ユダヤ主義を高々と掲げる「ナチス」(国家社会主義ドイツ労働者党)が世界経済恐慌の影響で西暦1930年より急速に台頭してきた。 そして、西暦1933年1月30日、ナチスがドイツの政権を合法的に獲得した。 ナチスはドイツの政権を獲得すると、西暦1933年3月23日に「全権委任法」を成立させ、ヒトラーに全権を与え、各種の反ユダヤ法令を制定し、ユダヤ人迫害を合法化した。 ナチス政権が西暦1933年1月30日に成立してから西暦1945年5月7日に連合国に降伏するまでの12年間にナチス・ドイツで施行された反ユダヤ法令やナチス・ドイツで起きた重要な出来事などを年代順に紹介する。
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西暦1933年
1月30日   ナチス政権が合法的に成立した。 此の時点の前から路上でのユダヤ人襲撃や不当な逮捕、口頭や書面による多数の反ユダヤ的宣伝が行なわれていた。
3月23日   共産党議員の登院が禁止された。「全権委任法」が成立し、ヒトラーが独裁権を得た。 7月までにナチス以外の全政党が解散させられた。 また、此の頃、ドイツ国内に強制収容所が作られ、 3月、4月の2ヶ月間で2万5千人が収容された。
4月1日   国家社会主義ドイツ労働者党(略号:NSDAP。 蔑称はナチ党またはナチス)の宣伝大臣ゲッベルスが、ユダヤ人の商店、ユダヤ人の開業医、ユダヤ人の弁護士などへの全国的規模のボイコットを指示した。 こうした処置により、ユダヤ人の経営するデパートや商店などの売上げは28%も減少したという報告がある。
4月7日   公務員再建法が施行された。 これにより、ドイツ国内の非アーリア系公務員や、ナチス政権にとって好ましくない公務員が強制退職させられた。 また、此の時期、ユダヤ人科学者の追放が始まり、全科学者の4人に1人が、物理学者では3人に1人が大学や研究所から追放された。
4月22日   ユダヤ教の儀式で欠かすことのできない動物の屠殺が全国的に禁止された。 ユダヤ人の開業医に診察を受けた者に対しては国民健康保険が適用されなくなった。 これはユダヤ人の開業医にとって事実上の廃業を意味した。
5月10日   ユダヤ人小説家の書いた文学作品を収録した書物や共産主義を解説した書物の焼却(焚書)が全国的規模で実施された。 指揮をとったのは宣伝大臣ゲッベルスであった。 此の焚書によってベルリンでは2万冊が燃やされた。
7月14日   政党禁止法が施行され、ナチス以外の政党の存続が禁止された。 ドイツ共和国の成立(西暦1918年11月)後にドイツ国籍を得たユダヤ人の市民権と国籍が無効となった。 此の処置は第一次世界大戦に伴ってロシア帝国から入って来たハザール系ユダヤ人に向けられたものであった。 此の処置により、ロシア帝国から入って来たハザール系ユダヤ人の多くは早期にドイツを去っていった。
9月22日   文化省設置法が成立した。 これにより、ユダヤ人はドイツでの文化活動から締め出されるようになった。
10月4日   著作家法が成立した。 此の法律は文化省設置法と共に、ユダヤ人をドイツでの文化活動から締め出した。
西暦1934年
1月14日   ユダヤ人医学生の国家試験の受験が禁止された。 これにより、ユダヤ人は医者になれなくなった。
12月8日   ユダヤ人薬学生の国家試験の受験が禁止された。 これにより、ユダヤ人は薬剤師になれなくなった。
西暦1935年
7月25日   ユダヤ人の軍役資格が剥奪された。
9月15日  「ニュルンベルク法」が成立した。 これにより、ユダヤ人とドイツ人との結婚・性交渉が禁止された。 また、ニュルンベルク法により、祖父母4人のうちにユダヤ教徒が1人だけ含まれている者は「4分の1ユダヤ人」とされ、祖父母4人のうちにユダヤ教徒が2人だけ含まれている者は「半ユダヤ人」とされ、祖父母4人のうちにユダヤ教徒が3人以上含まれている者は「純血ユダヤ人」とされた。 因みに、ジプシー(ロマ)に関しては、曾祖父母8人にジプシー(ロマ)が1人でも含まれていれば、「混血ジプシー」とされた。
11月14日  ユダヤ人の選挙権が剥奪された。
11月21日  公証人・医者・大学教授・教員になっていたユダヤ人はこれらの職業を続けることを禁止された。
西暦1937年
4月15日   ユダヤ人に対して数々の職業が禁止された。
西暦1938年
3月12日   ドイツ陸軍がオーストリアに進入した。 オーストリア国民はヒトラーを歓迎し、ドイツ軍を歓呼の声をもって迎えた。
3月13日   ドイツがオーストリアを併合した。
3月28日   ユダヤ教の宗教団体が公法団体としての地位を取り消された。
4月26日   ユダヤ人は財産の登録を義務付けられた。 これはユダヤ人財産の没収の下準備であった。
6月15日   反社会分子として約1500人のユダヤ人が強制収容所に収容された。
7月23日   ユダヤ人は特別の身分証明書を交付されるようになった。
7月25日   ユダヤ人医師はユダヤ人の患者のみを診察可とされた。
8月17日   ユダヤ人は「サラ」か「イスラエル」の名を付けるように強制されるようになった。
9月27日   ユダヤ人弁護士の営業が禁止された。
10月5日   ユダヤ人のパスポートには赤字で大きく「J」と表記されるようになった。
10月26日  ポーランド系ユダヤ人1万7000人がドイツ国外へ退去させられた。
11月9日  「水晶の夜」事件が発生した。 ドイツ国内の数百のシナゴーグが焼き打ちされ、7500のユダヤ人商店が破壊され 、96人のユダヤ人が殺され、2万6000人のユダヤ人が逮捕されて強制収容所へ送られた。
11月12日  ユダヤ人に対して工場労働者・サラリーマンなどの職業が禁止された。
11月25日  ユダヤ人子女の公立学校への通学が禁止された。
西暦1939年
2月17日   ユダヤ人に対して所有する一切の貴金属を供出させる法令が出された。
3月15日   早朝、ドイツ陸軍がチェコに進入し、夕刻までにチェコ全域を占領した。 即日、ナチス・ドイツはチェコを併合し、スロバキアを保護国にした。
4月30日   借家住まいのユダヤ人に対する法的保護が無くなった。
9月1日   ドイツ陸空軍がポーランドに侵攻した。 ユダヤ人に対する夜間外出禁止令が出された。
9月3日   イギリス政府とフランス政府とが共にドイツ政府に宣戦し、第二次世界大戦が始まった。
9月23日   ユダヤ人に対してラジオの所有が禁止された。
西暦1940年
2月6日   ユダヤ人への衣料配給券の給付が無くなった。
5月20日   ドイツ占領地のポーランド南部にあるオシフィエンチム(ドイツ語名でアウシュヴィッツ)に作られたアウシュヴィッツ第一強制収容所が運営を開始した。 最初の囚人はポーランド人の政治犯だった。
7月4日   ユダヤ人の食糧購入が1日1時間に制限されるようになった。
9月27日   日本、ドイツ、イタリアの間で日独伊三国軍事同盟が成立した。
西暦1941年
6月22日   ナチス政権が独ソ不可侵条約を破棄し、ドイツ陸空軍がソ連への侵攻を開始した(バルバロッサ作戦の実行)。
9月1日   満6歳以上のユダヤ人は胸に「黄色い星」を着けることを義務付けられた。
9月12日   ユダヤ人の公的交通機関の利用は勤務先への行き来のみに制限された。
10月3日   ユダヤ人に対する労働法上の保護が無くなった。
10月8日   アウシュヴィッツ第二強制収容所が運営を開始した。
10月18日  ユダヤ人のワルシャワ・ゲットーおよび強制収容所への大量強制移送が開始された。
10月23日  ユダヤ人のドイツ国外への移住が禁止された。
11月25日  強制移送されるユダヤ人の財産が没収されるようになった。
11月21日  ユダヤ人の公衆電話の使用が禁止された。
12月7日  「夜と霧」と呼ばれる法律が成立した。 此の法律は、「此の人間はドイツに害を及ぼす」と当局が判断したら、国籍の如何を問わず誰でも逮捕・連行できるというものである。 此の法律により多くの政治犯が真夜中に逮捕され、即、刑務所に移送されたのち、強制収容所に送られた。
西暦1942年
1月10日   ユダヤ人に対して所有する毛皮・ウール衣料を供出させる法令が出された。
2月7日   ユダヤ人の新聞・雑誌の購入が禁止された。
4月24日   ユダヤ人の公的交通機関の利用が一切禁止された。
5月〜6月  ドイツ軍による西ヨーロッパ占領地でユダヤ人は「黄色い星」の着用を義務付けられた。
6月19日   ユダヤ人に対して所有する電気製品・光学機器・自転車を供出させる法令が出された。
7月30日   ユダヤ人に対して所有する金属製ユダヤ教祭器を供出させる法令が出された。
10月19日  ユダヤ人への肉類・乳製品配給券の給付が無くなった。
西暦1943年
7月1日   ユダヤ人に対する一切の法的保護が無くなった。
西暦1944年
10月21日  ドイツ人を配偶者としているユダヤ人の強制移送が始まった。
西暦1945年
5月2日   ベルリンがソ連軍によって占領された。
5月7日   ナチス・ドイツが連合国に無条件降伏した。

ナチスが西暦1933年1月にドイツの政権を合法的に獲得して以降、ナチス政権が制定した各種反ユダヤ法令により、大量のユダヤ難民が発生した。 此のユダヤ難民の殆ど全てはハザール系ユダヤ人だと思われる。 其の当時のヨーロッパ諸国はこれらのユダヤ難民の受け入れを出来る限り拒んだ。 裏返して言えば、其の当時のヨーロッパ諸国の白人キリスト教徒はユダヤ人を自分の国から追い出したいと思っていたのである。

歴史家ダヴィッド・ウェイマンは著書『招かれざる民 アメリカとヨーロッパ・ユダヤ人の虐殺』の中で次のように述べた。「ドイツとオーストリアにいた凡そ70万人のユダヤ人のうち、30万人が第二次世界大戦開始前に外国へ移住・逃亡した。 其の30万人の内訳は、10万人をアメリカが受け入れ、10万人弱をパレスチナが受け入れ、5万人をイギリスが受け入れ、5万人弱を其の他の諸国が受け入れた。 残る40万人ほどのユダヤ人の多くが間も無くナチス政権による絶滅計画の犠牲となることになる。 そして、第二次世界大戦が始まると、ナチス・ドイツの支配下に入ったポーランドへ向けて、ナチス・ドイツ支配下の各地からユダヤ人の強制移送が始まった。 西暦1941年10月には、ナチス第三帝国支配下の地域からのユダヤ人の国外移住は禁止され、国外への逃亡の道は閉ざされた」。

第19章  ユダヤ難民に冷淡だった欧米諸国
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■ ユダヤ難民問題を論じた「エビアン会議(1938年)」
ナチス政権が1933年1月30日に成立して以降、ナチス政権によるユダヤ人迫害はいよいよ露骨になり、多くのユダヤ難民が発生し、それを多くの人々が知り、欧米諸国の政府が国内の世論を無視できなくなっていた。 1938年7月6日(第二次世界大戦開始の約1年2ヶ月前)、32ヶ国の代表者がフランスのエビアン(レマン湖南岸の保養地)に集まり、ユダヤ難民問題を論じる為の「エビアン会議」を開いた。 ナチス政権がユダヤ人迫害を始めてから既に5年が経っていた。 此の時点で既にアメリカ政府は8万人前後のユダヤ難民を受け入れ、イギリス政府は4万人前後のユダヤ難民を受け入れていたと思われる。 各国の代表者は、人道主義的立場から、虐げられているユダヤ人を救済する為には全員一致してナチス政権の反ユダヤ政策を阻止すべしとか、ユダヤ難民を受け入れようとか、熱弁をふるった。 しかし、それらは空理空論ばかりで、実行可能な具体策は1つもなかった。 各国代表は、どこかの国が問題を解決してくれるだろうと期待し、終には異口同音に、「我々はユダヤ難民に手を差し伸べるのにやぶさかではないが、我が国の現状がそれを許さないのは誠に遺憾である」という趣旨の発言をした。 ドイツの隣国であるスイスも、ユダヤ人の違法越境が増えたので困ると言って、ナチス政権に抗議した。 イギリスのチェンバレン首相(在任 1937年〜1940年)が「大量のユダヤ人を受け入れることによって、国内の反ユダヤ主義が強まるのを恐れる」と言い訳した。

エビアン会議が不発に終わってから4ヶ月後の1938年11月9日、ドイツでは「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人迫害事件が起き、ドイツ民衆によるユダヤ人迫害が始まった。 此の事件は、ユダヤ人青年が在フランス・ドイツ大使館の書記官であるフォン・ラートを射殺した事が切っ掛けとなって起きた。 此の事件によって、ドイツ全土の400のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)のほとんど全てが焼き打ちされ、7500のユダヤ人商店が破壊された。 其の際に砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから「水晶の夜」と言われているが、実際には殺害されたユダヤ人の血や遺体、壊された建造物の瓦礫などで現場は悲惨なものだったという。 此の事件で96人のユダヤ人が殺され、2万6000人のユダヤ人が逮捕されて強制収容所に連行された。 此の事件を機に、ナチス政権はユダヤ人の国外追放を一層強めた。

ルント・シラー著『ユダヤ人を救った外交官 ラウル・ワレンバーグ』(明石書店)の訳者である田村光彰氏(北陸大学法学部教員)は、エビアン会議の実態について次のように語っている。
1938年7月6日、フランスの保養地エビアンで10日間にわたる国際難民会議が開催された。 此の会議では、わずかな例外を除いて、いかなる国もユダヤ難民を引き受けようとはしなかった。 そればかりか、其の時点まで法律上受け入れの可能性のあった国々は、移民法を改正し、締め出しを図り、少しではあるが開いていた国境を閉じた。 ユダヤ難民の入国を拒否する理由は、第1に福祉政策上の恐れであった。 ユダヤ人は多くの法律や条例で職業から締め出され、ユダヤ人自営業は閉鎖され、人間として生存する最低限の市民権をも奪われていた。 更に、ドイツやオーストリアから国外移住する場合には、ほぼ全財産が没収された。 貧困と絶望がユダヤ人を直撃した。 諸外国は、入国してくるユダヤ難民が福祉の受給者になることを避けようとした。 第2に、世界恐慌の影響と、それによる自国内の失業者の存在である。   〈中略〉  32ヶ国の代表と39の救援組織が参加した此の国際難民会議は、見るべき成果がほとんどなかった。 ユダヤ難民を救うという本来の主旨は、難民の救済とは不釣り合いな開催場所である保養地の湯煙のなかに雲散霧消してしまった。 以降、ユダヤ難民に手を差し伸べようとする組織的で国際的な努力は、第二次世界大戦の勃発と共に、ほんの少数の例を除いて、消滅していった。

■ ユダヤ難民に対するフランス政府の対応
ナチス・ドイツがフランスに侵入して来る2年前(1938年5月頃)、フランスのダラディエ首相はユダヤ移民を対象とした人種差別法令を発していた。 また、フランスの「ユダヤ人問題委員会」のベルポワは「戦争を望んでいるのはユダヤ人である。 戦争が彼らの経済を助長し、世界征服へと繋がるものであるからだ」と述べ、更に、「ヒトラーは問題解決法をよくわきまえた人物である」と言い、ナチス政権の政策を称賛した。 1938年11月の「水晶の夜」事件以後、ドイツを脱出するユダヤ人が続出すると、フランスは其の波(影響)が自国を揺さぶらないように手を打ち始めた。 イギリスのチェンバレン首相がパリに出向いて、「もっとユダヤ人を受け入れるべし」と、フランス政府に勧告すると、「これまでユダヤ人を入れ過ぎた。 もう一人たりとも入国させられない」と、フランス側は返答した。 其の言葉通りにフランスはドイツからのユダヤ難民を送り返した。

1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵入すると、同年9月3日、フランス政府はイギリス政府と共にドイツ政府に宣戦し、ここに第二次世界大戦が始まった。 フランスはドイツと戦う自信が十分にあったが、宣戦布告から僅か9ヶ月後の1940年6月にドイツに降伏し、ヴィシー政権(1940年〜1944年)が成立した。 フランスではそれから3ヶ月も経たないうちに「ユダヤ人を差別する法規」が作られ、実施された。 其の第1段階として、ユダヤ人は公職から追放され、学校・病院といった公的機関からも締め出され、翌年からは自由業も禁止され、ユダヤ人の大部分は失業を余儀なくされた。 ユダヤ人学生は、1941年6月に作られた法規によって大学進学の道を封じられ、ユダヤ人の子供たちは公園で遊ぶことを禁じられた。

フランスには、1870年に成立した「クレミュー法令」というのがあって、それによってユダヤ人に対する中傷も禁じられていたが、ヴィシー政権は「クレミュー法令」の無効を宣言した。 此の法令は、ある種の人間の集団に対してジャーナリズムが人種的・宗教的反感を煽り立てることを禁じたものであったが、ヴィシー政権が其の無効を宣言したことで、反ユダヤ主義運動が合法化された。 ヴィシー政権はナチス・ドイツに屈服した後で成立した為、あたかもナチス政権の圧力によってユダヤ人迫害に手を染めたかのように一般には信じられてきたが、実際には「クレミュー法令」の無効宣言はヴィシー政権が自発的に発したのであった。 ヴィシー政権のラヴァル首相は、ドイツの反ユダヤ主義を利用して、フランスの再建を図った。 彼は「永遠に同化しようとしないユダヤ民族は、フランスの中に別の国家を築いて我々を滅ぼそうとしているのだ」などと言い、1941年の春にはユダヤ人の財産没収を宣言した。 ユダヤ人の財産没収のことを「アーリアニザション(アーリアン族所有化)」と称し、得意になったラヴァル首相はナチス親衛隊の将校との会合において「反ユダヤ主義の行動という点では、我々フランスのほうが諸君ナチス・ドイツよりも先輩である」と言ったと言われている。

■ ユダヤ難民に対するアメリカ政府の対応
1930年代のアメリカでは、ユダヤ人が政府の職に多く就きすぎていると考える者が24%、ヨーロッパでユダヤ人が迫害を受けているのは彼ら自身の責任であると思う者が35%で、ドイツから多数のユダヤ人がアメリカに亡命してきたら受け入れるべきかという問いに対しては、回答者の77%が否定的だった。

1939年6月、アメリカ政府は「スミス法」を制定し、外国人受け入れ取締りを強化し、1941年11月、「ラッセル法」を制定してビザの発給を制限した。 それにより、ヨーロッパにおけるアメリカ政府の出先機関はビザの発給を停止したのも同然であった。 アメリカを代表する歴史家の一人、ボストン大学のヒレル・レビン教授(ユダヤ学研究所所長)は次のように語っている。「いくら日本政府に何らかの損得勘定があったにせよ、日本側の対応は当時のアメリカ政府の非協力的な対応に比べれば、天と地ほどの差がある。 もし、アメリカ政府がもっと積極的にユダヤ人救済に手を差し伸べていたら、何百万という命が助かっていたはずだからだ。 だがアメリカは、杉原がユダヤ人に対するビザの大量発給に注いだのと同じくらいの努力を、ビザを発給しない方向に使ったのだ。 当時から多くのユダヤ系移民がいたアメリカではユダヤ人勢力が社会に相当な影響力を持っていたはずである。 にもかかわらず、なぜアメリカはユダヤ人を救済しようとしなかったのか。 此の問題はかなりのミステリーと言わざるを得ない」。

第二次世界大戦中、アメリカ政府はユダヤ人に対するビザの発給を非常に制限し、入国拒否に近い政策を執っていた。 明治学院大学法学部教授の丸山直起氏は著書『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局)の中で次のように述べている。
アメリカのルーズベルト大統領はユダヤ難民の境遇に同情し、亡命者あるいは難民としてアメリカに入国した多くの優秀なユダヤ人の能力を高く評価し、彼らを通じてドイツ国内の悲惨な状況を把握していた。 しかし、移民法を改正してユダヤ難民の為に門戸を全面的に開放することまでは考えなかった。 1939年5月、ユダヤ難民を乗せドイツからキューバに到着しアメリカを目前にしたものの、ヨーロッパに送り返された『セント・ルイス号』難民の悲劇ほど、ユダヤ難民に対するアメリカの冷淡さを象徴する事件はなかった。 また、1942年以降、ユダヤ人大量殺害の悲報がホワイトハウスに届けられたにもかかわらず、ルーズベルト大統領は積極的な行動に出ようとはしなかった。 1943年10月6日、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺害を糾弾する正統派ユダヤ教徒による集会と行進がワシントンD.C.で挙行された際、ユダヤ教のラビ代表とルーズベルト大統領との会見の調整が試みられたが、ルーズベルト大統領は、こうした会談は国務長官が行なうべきであると判断し、ホワイトハウスを訪れたラビ代表に対して、其の到着前に外出し会見を回避する道を選んだのであった。   〈中略〉  正統派ユダヤ教団体は、ヨーロッパのユダヤ人を脱出させる為に、パスポートやビザなどを偽造したが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちはこうした不正な方法に反対し、自国の移民政策に反してまで気の毒なユダヤ難民に支援の手を差し伸べる気はなかった。 とりわけ、ポーランドで救援を待ち望む聖なるユダヤ教学者を救うことこそ、何ものにも優先すべきとする正統派ユダヤ教団体と、アメリカ国内世論の動向に神経質なスティーブン・ワイズら米国ユダヤ人社会の指導者の対立は深刻であった。 例えば、1940年8月初めにアメリカの主要ユダヤ人団体が参加した会議で、正統派のラビたちは、リトアニアから3500人のラビ・学生たちを入国させる為の特別ビザを発給するよう国務省に圧力をかけて欲しいと要請したが、スティーブン・ワイズらは、これほど多数のユダヤ人を定住させることは容易ではないとして、アメリカ政府に圧力をかけることに反対した。 アメリカのシオニスト運動指導者たちは、ホロコーストの間もパレスチナにユダヤ人国家を建設する計画に精力を傾けており、ヨーロッパのユダヤ人の救済は二の次であった。

アーロン&ロフタス著『汚れた三位一体〈バチカン・ナチス・ソ連情報部〉』には次のように書かれている。
1943年4月、イギリスとアメリカの高官レベル会議(バミューダ会議)で、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策に対しては、何もすべきでないことが正式に決まり、大量救出の為のあらゆる計画が放棄された。 イギリス外務省とアメリカ国務省は、ナチス・ドイツがユダヤ人迫害を中止した場合、強制収容所で生き残ったユダヤ人数十万人が西側に流れ込むことを心配した。 1943年の終わり頃、イギリス外務省は「ドイツヘの対応があまりに強化されれば、此の事態が起こりかねない」との懸念をアメリカ国務省に明示した。 1943年春に開かれたバミューダ会議の秘密報告書は、ユダヤ人の入国を望む国が1つもなかったことを明らかにしている。 ユダヤ人をアメリカやイギリスやカナダに大量疎開させるより、ヒトラーに任せておく方が得策だと、彼らは考えた。

第20章  ナチス政権とシオニストとの協力関係
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西暦1880年代にシオニズムが生まれてから西暦1930年代まで、シオニズムに関心を示したユダヤ人は比較的少数であり、ユダヤ人の大半はユダヤ国家建設を現実離れした妄想と見なしていた。 これは数字にも表れている。 西暦1880年から1925年の間に、アメリカへ移住した東欧ハザール系ユダヤ人が400万人であるのに対し、パレスチナへ移住した東欧ハザール系ユダヤ人は15万人である。 当時、西欧に永く住んできたユダヤ人の大半はユダヤ国家建設よりも自分たちが住むキリスト教社会に同化することのほうが大事だと思っていた。 つまり、西欧に永く住んできたユダヤ人の大半は同化主義ユダヤ人であった。 彼らは西欧各国でそれなりの経済的地位を持ち、裕福であった。 特にヒトラーが政権を握る直前のドイツにおいて、同化主義ユダヤ人は経済や学術の分野で巨大な勢力を誇っていた。 一方、ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人は、自分たちの計画を絶対に成功させようと躍起になって、イデオロギー(政治社会思想)の点で同化主義ユダヤ人と対立していた。 ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人にとって、西欧に永く住んできたユダヤ人の大多数が同化主義者であるということがイデオロギー上の最大の障壁であった。

ドイツの著名な歴史研究家であるユダヤ人セバスチャン・ハフナーは1978年に『ヒトラー注釈』という本を出版した。 彼は此の本の中で、1930年代のドイツ・ユダヤ人社会の様子について、次のように述べている。「ユダヤ人社会はまさしくヒトラーの時代に3000年の歴史でかつて無かったほど様々に分裂した。 即ち、『伝統的な宗教性』と『近代的な世俗主義』とに、『同化主義』と『シオニズム』とに、『民族主義』と『国際主義』とに、分裂した。 そして、世界中のあらゆる大きな党派的対立と分裂が、ユダヤ人の市民としての解放以降、それまでは統合されていたユダヤ人社会を分裂させる原因となったことは言うまでもない。 ユダヤ人社会は、此の一世紀もしくは半世紀の間、同化と改宗と婚姻により、かなりの程度にまでユダヤ人としての性格を意識的に放棄し、西欧各国に完全に溶け込もうとしているところだった。 そして、ほかならぬ、ここドイツにおいてほど、それが確信をもって情熱をもって行なわれていたところは、ほかのどこにも無かった」。

金沢大学教授で中東現代史専攻の前田慶穂氏は『ユダヤ人とは何か/ユダヤ人1』という本の中で「ナチスが政権を獲得した直後(1933年)、「世界シオニスト機構」の議長代理だったユダヤ人ヨアヒム・プリンツは次のように書いていた。 『強力なナチス勢力がわれわれを支援してくれ、われわれを改善してくれた。 同化論は敗れた』と」と述べている 。 ナチスがユダヤ人団体を支援してくれたとは意外だが、これにはそれなりの理由がある。 ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人にとって、同化主義のユダヤ人はイデオロギー上の最大の敵であった。 だから、ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人は「敵の敵は味方」という考えで、ユダヤ人全体の排斥を政策とするナチスを味方と考えたのである。 ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人とナチスとは互いをうまく利用したと言える。 両者は互いに手を組んだのである。 此のような事は、ハザール系ユダヤ人シオニストにとって触れられたくない事である。

ナチスとハザール系ユダヤ人シオニストが互いに手を組んでいたという事実は、ハザール系ユダヤ人シオニストにとって触れられたくない事である。 例えば、次のような事はあまり公にされていない。
ナチス政権が成立した当時、ドイツ・シオニスト連盟は、若い世代のユダヤ人がパレスチナへ出国できるようにナチス政権に支援してもらいたいと思っていた。 ドイツ・シオニスト連盟の幹部クルト・トゥーフラーは、ナチス親衛隊保安諜報部のユダヤ人問題担当課長フォン・ミルデンシュタインに接触し、ナチスの機関紙に親シオニズム的な論文を載せるように説得した。 クルト・トゥーフラーとフォン・ミルデンシュタインはナチス政権の成立から2ヶ月後(1933年3月)にそれぞれの夫人を同伴してパレスチナへ向かった。 フォン・ミルデンシュタインは6ヶ月間パレスチナに滞在した。 フォン・ミルデンシュタインがパレスチナ滞在を終えてドイツに帰ったとき、彼は熱烈なシオニズム・シンパになっていた。 彼はヘブライ語を学び始め、ヘブライ語のレコードを収集し始めた。 彼は約束を守る男であった。 彼はパレスチナの入植地で見聞したことの全てを好意的に論述し、ゲッベルスを説得してナチスの機関紙『アングリフ』に堂々12回に渡る報告シリーズを掲載した。 シオニズム・シンパになったフォン・ミルデンシュタインはアドルフ・アイヒマンの上司であった。 フォン・ミルデンシュタインはアドルフ・アイヒマンにテオドール・ヘルツルの著書『ユダヤ人国家』を与えた。 そして、此の本はアドルフ・アイヒマンの愛読書になった。

今や、アドルフ・アイヒマンは世界中からユダヤ人大量殺害の頭目のように見なされている。 彼は1935年、ナチス親衛隊保安諜報部のユダヤ人問題担当官に就任したばかりの頃、上司フォン・ミルデンシュタインの勧めでテオドール・ヘルツルの著書『ユダヤ人国家』を読み、シオニズムに共鳴した。 また、アドルフ・ベームの著書『シオニズム運動』もアイヒマンの愛読書となった。 彼はウィーンでのユダヤ人指導者との会見の席で、アドルフ・ベームの著書の丸1ページ分を暗唱して見せたほどであった。 そして、アイヒマンはヘブライ語を勉強するようになった。

ヒトラーはユダヤ人問題の解決の為に、アメリカやイギリスと極秘のうちに話し合いを進めていた。 其の時、連絡係を務めたのがアイヒマンだった。 彼は役目上、ユダヤ人団体のトップたちと何度も話し合っていた。 1937年2月、アイヒマンはシオニスト団体「ハガナ」の司令官ベングリオンとベルリンで会談した。 此の時、2人は合意に達し、アイヒマンは書面で「ドイツのユダヤ人を代表する団体は、ドイツを去るユダヤ人がパレスチナだけに移住するように圧力をかけるものとする」と取り決めた。 また同年、アイヒマンはパレスチナに招待された。 彼は帰国報告で「ユダヤ人シオニストはドイツのユダヤ政策を非常に喜んでいる。 其の理由は、それがパレスチナのユダヤ人口を数倍に増大させたからである」と述べた。 ナチス政権とシオニストとの協力関係はアイヒマンの努力によって緊密になったのである。 戦後、アイヒマンはアルゼンチンで逃亡生活を送っていた。 彼はイスラエルの対外諜報機関「モサド」の工作員によって西暦1960年5月11日に逮捕・拉致され、イスラエルへ空輸された。 アイヒマンの裁判は西暦1961年4月11日にエルサレム地裁で始まった。 アイヒマンは裁判中、次のように反論した。「自分はナチスという巨大な組織の中の一員にすぎず、すべて上司の命令を忠実に守っただけである。 我々ナチスが欧州からあなたたちユダヤ人を追い出さなかったら、あなたたちの国イスラエルはここには作られなかった」。

ナチス政権が反ユダヤ政策を推し進めていた頃、ナチス政権に対抗する為にドイツ製品の不買運動を計画していたユダヤ人グループや反ファシズム団体があった。 しかし、シオニストの多くがドイツ製品の不買運動に反対した為、其の不買運動は成功しなかった。 其の不買運動に反対した勢力の中で最も重要な役割を果たしたのは「世界シオニスト機構」であった。 1933年8月、世界シオニスト機構とナチス政権とは互いに手を組んで「ハーヴァラ協定」(シオニスト・ナチス通商協定)を締結した。 此の協定はドイツ在住ユダヤ人のパレスチナへの移住と彼らの資産のパレスチナへの移送に関する協定である。 此の協定によって、ナチス政権はドイツ製品の不買運動を潰すことが出来た。 ドイツ在住ユダヤ人がハーヴァラ協定を使ってパレスチナへ移住するに際しては、高額のお金が必要であった為、富裕層のユダヤ人だけがパレスチナへ移住でき、非富裕層のユダヤ人はパレスチナへ移住できずにドイツ国内に居残った。 ハーヴァラ協定は1939年9月の第二次世界大戦勃発まで維持された。 ナチス政権によるユダヤ人迫害が強まる中でも、ドイツ在住ユダヤ人の大部分はドイツを離れて縁もゆかりもないパレスチナの荒れ地へ行きたいとは思っていなかったが、ハーヴァラ協定により1億4000万マルクのユダヤ人資産がドイツからパレスチナに移送され、裕福なドイツ在住ユダヤ人5万2000人がハーヴァラ協定を使ってパレスチナへ移住し、パレスチナの土地を買い漁った。 パレスチナを委任統治していたイギリス政府は裕福なユダヤ人のパレスチナへの移住に好意的であった。

東京大学名誉教授で中東現代史専攻の板垣雄三教授は次のように述べている。
ユダヤ人シオニストにより設立された『パレスチナ船舶会社』はドイツ客船を購入して『テルアヴィブ号』と名付け、船長にはナチ党員をつけ、船尾にはヘブライ文字の船名をつけ、マストにはナチスの逆鉤十字を掲げて、1935年にブレーマーハーフェンとハイファとの間に就航させ、ユダヤ移民の輸送にあたらせた。  〈中略〉  1919年、パレスチナのユダヤ人口は住民の9%だったが、1939年には、パレスチナのユダヤ人口は住民の30%を占め、パレスチナ・ユダヤ人社会の自立経済が成立するに至った。 1933年(ナチス政権の成立)を転換点として、ドイツ・東欧からの富裕層ユダヤ人移住者が激増したからである。 ナチズムなしにはイスラエル国の誕生はありえなかったと言えるであろう。

此のように、ドイツ在住の富裕層ユダヤ人をパレスチナへ移住させるという点で、ハザール系ユダヤ人シオニストはナチス政権をうまく利用したと言える。

ハーヴァラ協定によって世界シオニスト機構のドイツ支部はユダヤ人団体としては唯一機関紙の発行を許され、ナチス政権との交渉権を持ち、急速に成長した。 ハーヴァラ協定の締結(1933年8月)以降、ナチス政権と世界シオニスト機構との協力関係は他の領域でも発展し続けた。 世界シオニスト機構はドイツ製品を積極的に購入しただけでなく、ドイツ製品を販売し、ヒトラーとドイツ産業界の為に新しい顧客を作り出してやった。 世界シオニスト機構は1936年にはイギリスでドイツ製品を売り始めた。 1937年には逆鉤十字の旗の下、20万個のパレスチナ産オレンジがドイツに運ばれ、更に150万個のパレスチナ産オレンジがベルギーやオランダに送られた。 エジプト、レバノン、シリア、イラクにおいてはドイツの為に新しい顧客を作り出した。 ベルギー・オランダ向けのオレンジ輸出は、最後にはナチスの船を使用するまでになった。

ユダヤ人の擁護者として著名なユダヤ人ハンナ・アレントは著書『エルサレムのアイヒマン』の中で、ナチス当局者とシオニズムの指導者たちの間に協力関係があったことに触れ、同胞(ドイツ国内に居残ったユダヤ人)の強制移送に協力したユダヤ人自治団体「ユダヤ人評議会」があったこと、同胞をナチス政権に売ることで生き長らえたユダヤ人がいたことを指摘した。 彼女によれば、シオニズムの指導者は、シオニズムに反対するユダヤ人やシオニズムに無関心なユダヤ人を追放しようとするナチス政権に協力し、「誇りをもって黄色いバッジをつけよう」というスローガンの採用をナチス政権に迫ったという。 (此の本の出版後、彼女はシオニストから袋叩きに遭った)。

ナチスの幹部ラインハルト・ハイドリヒは、ナチス親衛隊保安部・部長時代の1935年、ナチス親衛隊の機関紙『黒服将校団』に寄せた「見えざる敵」と題する論文で次のように述べた。「シオニストは率直に民族主義の信念を表明し、パレスチナへの移住によるユダヤ国家建設計画を推進している。 我々の正しい願望と優れた公式命令には、彼らと共通するものがある」。

ナチス・ドイツにおけるシオニスト組織の特権的地位については、ババリアのゲシュタポが西暦1935年1月28日に警察に対して出した次のような回状がある。「シオニスト組織のメンバーはパレスチナへの移住活動を行なっているので、彼らに対しドイツ国内の同化主義ユダヤ人に対するのと同様な厳密さで対処してはならない」。 (『1930年代のナチ法の下におけるシオニストと非シオニスト』)

ナチスの理論的指導者として活躍したアルフレート・ローゼンベルクは、西暦1937年に発表した論文『転換期におけるユダヤ人の足跡』の中で次のように述べた。「シオニズムを積極的に支援すべきである。 相当数のドイツ在住ユダヤ人を毎年パレスチナに向けて送り出すべきだ」。 そして、此の言葉通り、ナチスの「ユダヤ人強制移送計画」の最初の移送先は、ユダヤ人の入植が相当進んでいたパレスチナに定められた。 しかし、パレスチナの委任統治権を握っていたイギリスとの間で費用などの問題で話がつかなかった為、フランス領だったマダガスカル島が移送先の候補に挙がったり、占領下のロシアに移送しようという話になったりしたが、其の間にも、さまざまなルートを使ってユダヤ難民のパレスチナへの強制移送は行なわれていた。 シュテーグリッヒの著書『アウシュヴィッツ 判事の証拠調べ』には次のような事が紹介されている。「1944年という遅い時期に至ってさえ、ドイツ海軍の援護の下に数隻の船がルーマニアから黒海をぬけて、ユダヤ人移住者を運んでいた」。

1944年、ナチス・ドイツの敗色が濃厚になる中で、ナチス親衛隊長官ハインリッヒ・ヒムラーなどのナチス指導者は、ハンガリーに残るユダヤ人を殺すよりも、西側との交渉のためのカードとして彼らを温存したほうが得策かも知れないと考えていた。 ハンガリーの首都ブダペストでは、アドルフ・アイヒマンとハンガリー・シオニスト団体のリーダーであるルドルフ・カストナーの2人がハインリッヒ・ヒムラーと連絡をとりつつ、様々な可能性を模索し、秘密の合意に達した。 それは、ルドルフ・カストナーが選び出したユダヤ人1685人を列車で秘密裏にスイスへ脱出させるというものだった。 ルドルフ・カストナー自身も加わって作成された乗客リストには、彼の家族・友人・シオニズム長老指導者の名前が並んでいた。 此の計画を実行するに際して、ルドルフ・カストナーはナチス親衛隊中佐クルト・ベッヒャーを相棒にした。 1944年6月30日、ルドルフ・カストナーによって選ばれたユダヤ人たちは、特別列車に乗ってハンガリーを脱出しスイスに無事に到着した。 ハンガリーに残された数十万人のユダヤ人は強制収容所に送られた。

第21章  第二次世界大戦下の東ヨーロッパ諸国で起きたユダヤ人迫害
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ナチス政権によるユダヤ人迫害は東ヨーロッパ諸国(ウクライナ、スロバキア、ルーマニア、リトアニア、ハンガリー、ポーランド、など)で幅広く支持されていた。 第二次世界大戦が始まると、東ヨーロッパ諸国ではユダヤ人迫害(虐殺など)が公然と行なわれた。 第二次世界大戦中のユダヤ人迫害は東ヨーロッパ諸国に共通する現象であった。 北はリトアニアから南はクリミヤまで、ナチス・ドイツ軍占領下の東ヨーロッパ諸国では、ユダヤ人迫害の為にナチス政権ヘの様々な協力が見られた。 それと共に、ソビエト政権の統治下でくすぶっていた極右民族主義者がナチスの方法を其のまま使ってユダヤ人迫害に当った。 ナチス・ドイツ軍占領下の東ヨーロッパ諸国では一般庶民と警察はユダヤ人殺害の為なら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかったと言われている。 其の辺りのことを見ておこう。

まず、ウクライナである。 ウクライナ人は長い間、独立を望んでいたが、第一次世界大戦が終わっても、ウクライナは独立できず、西暦1920年から「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」として、ソビエト政権の支配下に置かれた。 西暦1930年代になると、ウクライナの民族主義者にとって、ナチス政権が希望の星となった。 彼らは、ナチス政権がウクライナの待ちに待った独立の実現を助けてくれるものと思った。 ナチス・ドイツがソ連に侵攻を開始した日(西暦1941年6月22日)から3日後には、リヴォフで「ウクライナ民族政府」の樹立が宣言された。 此のウクライナ民族政府がまずやったことは、ヒトラーへの忠誠を誓う書簡をヒトラーに送ることだった。 ところが、ナチス・ドイツ軍は解放者としてウクライナへやって来たのではなかった。 ナチス・ドイツ軍は抑圧者としてウクライナへやって来たのである。 其の為、「ウクライナ民族政府」はたった3日間でナチス・ドイツ軍によって解散させられた。 ウクライナ民族主義運動は禁止され、ナチス政権に忠誠を誓ったばかりのウクライナ人指導者は投獄の憂き目にあった。 しかし、それでも、ウクライナ人とナチス政権との関係が良好だったので、ウクライナ人は突如、「準支配階級」とでも言うべき存在になった。 それまでポーランド人やロシア人の陰で暮らしてきたウクライナ人は権力を持つようになり、ナチス政権のユダヤ人狩りに率先して協力した。 ナチス政権はこうしたウクライナ人の反応に驚き、其の様子を次のように記録した。「此の地方の原住民達はユダヤ人問題の解決に少なからぬ関心を寄せている。 それゆえ、ユダヤ人の逮捕をただ見ていることには飽き足らず、自分たちから進んで『我々にユダヤ人始末の権限を与えよ』と、申し出ているのである」。 リヴォフでは、ウクライナ人がナチス・ドイツの将兵たちと共にハザール系ユダヤ人の家を一軒ずつ襲い、ハザール系ユダヤ人を見付け次第、殺害したと言う。 此のように、ユダヤ人殺害が速かに行なわれた為、此の地方ではハザール系ユダヤ人の収容所を作る必要がなかったとまで言われている。 一方では、お目こぼしにあずかっていたユダヤ協会の指導者がナチス・ドイツ軍の指揮官に向かって「ウクライナ人を取り締まってほしい」と陳情したという話が残っている。 ナチス政権は「補助警察官」をウクライナ人の中から募ったが、ウクライナ人の大多数は生まれながら反ユダヤ主義に取り憑かれていたので、ユダヤ人殺害作戦の立案・実行は殆どウクライナ人補助警察官の手で行なわれ、ナチス側はほんの2、3人、指揮するナチス親衛隊員か保安警察官がいるだけで済んだ。

次はスロバキアである。 スロバキアにおいては、カトリック政党の政権が西暦1939年4月以降、ユダヤ人排除の路線を敷き、ユダヤ人をあらゆる公的機関から追放した。 更に、西暦1940年にティゾ政権が生まれてからは、ティゾがカトリックの司祭であったので、一層ユダヤ人迫害に拍車がかけられ、遂にユダヤ人は生計すら立たなくなるほどであった。 時のローマ教皇はティゾ司祭のことを「わが愛する息子」と呼んだそうで、スロバキアはバチカンの覚えがめでたかったという。 時のローマ教皇は駐バチカンのスロバキア大使シドールに対して、わざわざスロバキア語をもって全面支持を示したとも伝えられている。 スロバキア政府は、ナチス親衛隊を真似た「フリンカ警備隊」とか「スロバキア親衛隊」というグループを組織し、ユダヤ人の逮捕や輸送の任を自ら買って出た。 彼らは国内隈無くユダヤ人を探索し、約7万5千人のユダヤ人を狩り出した。 これはスロバキアに住む全ユダヤ人の85%に相当し、これらの人々は例外なくアウシュヴィッツ収容所に送られた。

次はルーマニアである。 ルーマニアにおいても反ユダヤ主義が公認され、一般民衆のユダヤ人迫害がエスカレートしていった。 西暦1940年10月に、ユダヤ人の財産を没収する法律が成立し、11月には更に別の法律が可決され、ユダヤ人の工場や農場も合法的に奪取出来るようになった。 やがて、ナチス・ドイツと同盟を結んだルーマニア軍は西暦1941年6月にソ連に侵入し、ブコヴィナ地方やモルダウ河に沿ったベッサラビア平原などを占領したが、其の時の軍司令官が其の地方のユダヤ人虐殺を公認したので、たちまち大勢のユダヤ人が殺された。 ルーマニア兵たちのユダヤ人虐殺に示す情念や方法には、ドイツ軍の兵士さえ背筋が寒くなったという。 例えば、西暦1940年から1941年にかけて首都ブカレストでは、ルーマニア兵たちが、捕えたユダヤ人を屠殺場に曳いていき、牛や豚と全く同じ方法で彼らを屠殺し、死体を鉤(かぎ)に引っ掛けて、ユダヤ人を罵る言葉を書き連ねたものと共に陳列したという。 駐ルーマニアのアメリカ大使フランクリン・モット・ガンサーはアメリカ政府に次のように打電している。「肉を吊るす鉤に60体のユダヤ人の死体が掛けてあった。 全て皮膚を剥がされていた。 生きながら皮膚を剥がされた為、大量の血が流れていた。 目撃者によると、犠牲者の中には、まだ5歳にもならない少女もいた。 其の少女は全身血まみれで、殺された子牛のように足から吊り下げられていた」。 また、ルーマニア軍は占領したソ連領内にユダヤ人強制収容所を作り、そこに無制限にユダヤ人を送り込んで、片っ端から殺していった。 それがまた、ドイツ人から見ても我慢ならない方法が採られたので、ナチス親衛隊幹部から「少しは合法的にやれ」と叱責されたということが伝えられている。

次はリトアニアである。 リトアニアではドイツ軍が入って来る前に、極右民族主義者が独自にユダヤ人虐殺を始めていた。 リトアニアでも一般庶民と警察はユダヤ人殺害の為なら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかったと言われている。 リトアニアで殺されたユダヤ人の数は20万人で、生きながらえたユダヤ人はわずか2万人だけであった。
   ユダヤ人を撲殺するリトアニア人たち
こうした状況の中で、西暦1940年の夏、リトアニアの日本領事館員・杉原千畝は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(日本通過ビザ)を発給し、6千人の命を救った。 彼に助けられたユダヤ人の多くは日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。 リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、ダッハウ収容所に収容されたが、アメリカの日系人部隊によって救出された。 彼は此の時の体験を著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。 彼は当時のリトアニアの状況について、此の本の中で次のように書いている。「リトアニアの臨時の首都カウナスは長年にわたり、ユダヤ人がよそからの干渉をほとんど受けることなく暮らすことのできる、ヨーロッパで数少ない場所のひとつで、ユダヤ人は強固なコミュニティを築き上げていた。 私が11歳のとき、第二次世界大戦が始まり、一転して恐怖に満ちた日々となった。 カウナスは、ナチの手を逃れ、避難場所を提供してくれる国を必死に探し求める人々であふれかえる、ふきだまり地点と化した。 彼らの多くがあちらの政府こちらの当局から断られ、追い返された。  〈中略〉  ユダヤ人にとってスラボトケ(リトアニアの一地区)は殺戮の地とされていた。 ナチス・ドイツの対ソ連不意打ち攻撃(西暦1941年6月22日)が始まってからわずか3日後の6月25日、リトアニア人によるユダヤ人虐殺の最初の惨劇がここで繰り広げられたのである。 夜更け、斧や銃やナイフで武装したリトアニア人たちの大きな集団がユダヤ人の集中的居住地区に三々五々集まってきた。 朝の光は無残な光景を照らし出した。 男も女も子供も、四肢をばらばらにされており、家の中は壁も床も血だらけだった。 酒に酔ったリトアニア人は犠牲者の首でサッカーをしたとも伝えられている。 此の夜、700人をこえる人々が命を落とした。 スラボトケの惨劇は、其の後、第7要塞で行なわれた数千人の虐殺の序曲にほかならない。 リトアニア人によるユダヤ人攻撃が多少とも鎮まるのは、ドイツ人による民政・軍政が整備されてからのことである。 西暦1941年8月7日、臨時の首都カウナスにいたリトアニア人は1千人を超すユダヤ人男性を射殺した。 此のリトアニア人の攻撃は、ゲットー年代記の中で『木曜日の迫害行動』として知られるようになる。 私は同じ日、カウナスを離れてスラボトケのゲットーに向かっていたが、市内はわりあい静かに思えた。 おそらく、街路をドイツ軍の巡察隊がパトロールしていたせいであろう。 私たちを隣人たちから守る為にナチが出てくるなんて変なことになったものだと思わずにはいられなかった。  〈中略〉  リトアニア人は時々私たちに罵声を浴びせてきた。 『ユダヤのろくでなし、終わりは近いぞ!』『キリスト殺しめ、地獄へ落ちろ!』 橋のところまで来ると、ドイツ兵とリトアニア人の混成チームが警備にあたっているのが見えた。 何を言い交わしているのかはよく分からないが、私たちを見る目の違いは分かる。 ドイツ兵のほうは軽蔑か無関心、これに対し、リトアニア人は不機嫌で、目に憎しみがこもっている」。

次はハンガリーである。 ハンガリー人によるユダヤ人迫害も激しいものであった。 ハンガリー政府は西暦1944年にナチス政権と手を結んだ後、すぐにナチス・ドイツのニュルンベルク法(人種差別法)を取り入れ、ユダヤ人に対してニュルンベルク法より厳しい法規を作った。 ハンガリー政府は外来のユダヤ人に対しては全く容赦しなかった。 アメリカ政府発行(西暦1944年10月19日)の『戦略情報局レポート』には次のように記載されている。「ハンガリー一般民衆のユダヤ人輸送に対する反応は尋常一様のものではないという以外に言いようがない。 ハンガリーのインテリや中産階級はナチスの反ユダヤ宣伝に完全に染まっているようだ。 此の国のジャーナリズムの伝えるところでは、住民の大多数がユダヤ人の追跡・検挙に進んで協力を申し出、其の熱意には政府も顔負けしたほどだという。 また、確かな筋の報告によれば、ハンガリーの憲兵達のユダヤ人摘発と迫害のやり方はナチスのゲシュタポの比ではないという。 更に、ナジヴァラドに於いては2千人のキリスト教徒がユダヤ人の残していった財産を横領し、其の件で訊問を受けているという。 ユダヤ人迫害政策に対する抗議といったものは、どこにも見当たらない」。 西暦1944年11月8日、ハンガリーの親ナチス「矢十字党」政権は、4万人のユダヤ人にブダペストからオーストリア国境までの厳寒の道を水も食料も与えずに歩かせるという「死の行進」を断行した。 此の行進でユダヤ人は雪と厳しい寒さの中を180kmも歩かされ、途中で何千人という子供や女性が疲れ果てて死んだり、銃で撃たれたり殴られたりして、死んでいった。

次はポーランドである。 ポーランドにおいては、ユダヤ人がアウシュヴィッツ強制収容所をはじめとする多くの強制収容所で悲惨な目にあっていることを知らない者はいなかったという。 しかし、ポーランド人の大多数はユダヤ人に対して極めて冷淡だった。 ポーランドはナチス・ドイツ軍が撤退した後もユダヤ人にとって平安の地ではなかった。 ポーランドでは8万6千人のユダヤ人が生き残り、13万6千人のユダヤ人が西暦1946年7月までにソ連からポーランドに引き揚げてきた。 これらのユダヤ人に対してポーランド各地でポーランド人によるユダヤ人殺戮が発生した。 其の犠牲者は合計2千人と見積もられている。 なかでも有名なのは西暦1946年7月の「キェルツェ事件」である。 ポーランド人の群衆が根も葉もない噂に興奮して次々とユダヤ人40人を虐殺し、それを当局が傍観した。 多くのユダヤ人は恐怖に駆られて出国した。 其の数は西暦1945年7月からの1年半で13万人にのぼった。

第22章  パレスチナへの東欧ハザール系ユダヤ人の違法大量流入を阻止しようとしたイギリス政府
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西暦1880年代から1939年までにパレスチナに移住・入植した東欧ハザール系ユダヤ人、及び、ナチス政権によってパレスチナに強制移送されたハザール系ユダヤ人の総数は45万人前後と見られている。 此のように、大量のハザール系ユダヤ人がパレスチナに流れ込んだ為、パレスチナに住んでいるアラブ人の反ユダヤ感情は一層激しいものとなり、西暦1936年から1939年までの期間に、エルサレムで、ハザール系ユダヤ人の大量増加を嫌ったアラブ人による大暴動が続発した。 そこで、イギリス政府は「パレスチナへのユダヤ人移住を西暦1940年からの5年間で7万5千人に制限し、それ以後の移民受け入れについてはアラブ人の同意を必要とする」という内容を含むマクドナルド白書を西暦1939年5月17日に発表し、ハザール系ユダヤ人のパレスチナ移住を厳しく制限する方針を示した。 これに危機感を持った東欧ハザール系ユダヤ人シオニストは非合法活動に入り、パレスチナへの東欧ハザール系ユダヤ人の違法移住に一所懸命になった。 地中海の西はジブラルタルから東はスエズ運河まで、地中海の制海権を掌握していたイギリス政府は、東欧ハザール系ユダヤ人が東ヨーロッパからパレスチナへ密航するのを阻止する為に、イギリス海軍を地中海や黒海に派遣し、パレスチナへの東欧ハザール系ユダヤ人の密航を厳しく監視・制限するようになった。 イギリス政府とフランス政府とが共にドイツ政府に宣戦した西暦1939年9月3日、パレスチナのテルアビブの海岸では「タイガーヒル号事件」が発生した。 ポーランド、チェコ、ルーマニア、ブルガリアなどの国々で発生した東欧ハザール系ユダヤ難民1400人を乗せてテルアビブの海岸まで来たタイガーヒル号がイギリス海軍の巡視艇によって銃撃され、多数の東欧ハザール系ユダヤ難民が殺された。 此の銃撃は記録に残っている限りでは、第二次世界大戦が始まって以降、イギリス軍の最初の発砲であった。 此の惨劇はあたかもパレスチナへの東欧ハザール系ユダヤ人の違法大量流入を食い止めるべく、やっきになったイギリス政府の前途多難を暗示したようなものであった。 先に述べたように、第二次世界大戦が始まると、東ヨーロッパ諸国で大規模なユダヤ人迫害(虐殺など)が起きた。 そして、これを恐れた東欧ハザール系ユダヤ人が難民として違法にパレスチナに雪崩れ込んだ。 イギリス政府はパレスチナへの東欧ハザール系ユダヤ人の違法大量流入を阻止しようとした。 其の為、ボートピープルとして海上をさ迷った東欧ハザール系ユダヤ人の悲惨な話は一体どれほどあったか見当もつかないほどだと言われている。 数ある悲惨な話の中でも「ストルマ号事件」は、ユダヤ人がイギリス政府に対して大きな恨みと憤りを抱いた事件であった。 此の事件は、西暦1941年12月、東欧ハザール系ユダヤ人769人を乗せてルーマニアの港を出たストルマ号がパレスチナの港へ入ることを禁止され、2ヶ月間にも渡る迷走の末、ルーマニアに戻る途中、西暦1942年2月に黒海でソ連の潜水艦により撃沈され、乗員を含めて800人強が死亡したという事件である。 ユダヤ人たちにとって「ストルマ号事件」は、イギリス人の本性を如実に示す例として、いつまでも忘れることのできない事件だと言われている。

西暦1939年12月、イギリス政府はブルガリア政府に対して、東欧ハザール系ユダヤ難民を乗せたブルガリア船に対しては、これを厳重に取り締まり、もし見付けた場合は直ちに元の所に帰らせることを要求した。 西暦1940年1月、イギリス政府はルーマニア政府にも圧力をかけ、ルーマニアの船が東欧ハザール系ユダヤ人を乗せてドナウ河を黒海に向けて下らないように要求した。 西暦1940年2月、イギリス政府はユーゴスラビア政府にも圧力をかけ、ユーゴスラビアの国旗を掲げた船に乗る東欧ハザール系ユダヤ人に対しては、行先国のビザを所有しているか否か、パレスチナ行きの許可証を持っているか否か、パスポートにユダヤ人であることを示すJの印が押されているか否か、を完全に調べるように要求した。

イギリス政府のコントロールはやがて大西洋にまで及んだ。 イギリス政府は中米のパナマ政府に対して、東欧ハザール系ユダヤ難民の違法輸送に従事している多くのパナマ船がユダヤ難民違法輸送から手を引くように要求した。 また、イギリス政府はアフリカのリベリア政府に対して、リベリア入国の偽造ビザの取締りを強化するように警告した。 それだけでなく、イギリス政府は東欧ハザール系ユダヤ難民が通過すると思われる国々に対しても、通過ビザの発給停止を要求し、東欧ハザール系ユダヤ難民を乗せた船舶を取り押さえ、入港・出港を不可能にするような処置を講じることを要求した。 しかし、国際法で定められた公海上の航行の自由という原則があり、イギリス政府は、これを如何に合法的に制限するか、東欧ハザール系ユダヤ難民の流出・流入をどうすれば阻止できるか、などについて大いに研究を重ねたようである。 イギリス政府の監視下に置かれた国は東ヨーロッパと西アジアの12ヶ国と中南米諸国であったが、イギリス政府が特に始終接触したのは東欧ハザール系ユダヤ難民の流出口に当たる国々、すなわち、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、ギリシャ、トルコなどであった。

西暦1932年から1945年までにパレスチナに移住したユダヤ人の数は、ドイツから来た人々と東ヨーロッパから来た人々とを合わせて30万人前後と言われている。 更に、ヨーロッパでの戦争が終わってから、イスラエル共和国の成立が宣言された西暦1948年5月14日までに6万人弱のハザール系ユダヤ人がパレスチナに移住・入植したと言われている。 此のように、第二次世界大戦中および大戦後に大量発生したハザール系ユダヤ難民の大部分がパレスチナに移住・入植した為、パレスチナに住んでいるアラブ人の反ユダヤ感情は極めて激しくなり、パレスチナに住んでいるアラブ人とハザール系ユダヤ人との対立はイギリス政府の治安維持能力を超えるものとなった。

第23章  ドイツ国内に居残ったユダヤ人の大量殺害を願ったハザール系ユダヤ人シオニスト
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ユダヤ人のベン・ヘクトが西暦1961年に書いた『裏切り』は、第二次世界大戦中にハザール系ユダヤ人シオニストが同胞の殺害にどれほど協力したかをあからさまに暴いたものである。 彼は、ハザール系ユダヤ人シオニストがヨーロッパの同胞(ドイツ国内に居残ったユダヤ人)を裏切ってイスラエル共和国を作ったと告発している。 彼の告発によれば、シオニズムの指導者は、同胞の虐殺が行なわれる時期・方法・場所を前もって知っていたが、同胞たちに警告することを拒んだ。 なぜなら、彼らの関心事はユダヤ人を1人でも多く救うことではなく、パレスチナにユダヤ国家を建設することだったからだという。

ラビであるモシェ・ションフェルドが西暦1977年に書いた『ホロコーストの犠牲者たち』もシオニズムの指導者の残忍な素顔を告発するものである。 同書によれば、シオニズムの指導者イツァク・グリーンバウムは、東欧のハザール系ユダヤ人(其の大多数は正統派ユダヤ教徒である)を救う為のお金を要求されたとき、繰り返し「だめだ」と返事したという。 そして、彼は次のような言葉を口にしたという。「我々はシオニズム、すなわち、こうしたユダヤ国家建設を二次的な問題に押しやる風潮に抵抗すべきである。 パレスチナの1頭の牝牛はポーランドの全てのユダヤ人よりも価値がある」。 此の発言は、たとえポーランドなどの東欧においてどれほど多くのユダヤ人が殺されようとも、ユダヤ国家建設の方が大切であると主張しているのである。 また、グリーンバウムは次のような見解を表明していた。「シオニストの事業は、ヨーロッパにいる余計者(ユダヤ人のこと)を救うことではなくて、ユダヤ民族の為にイスラエルの土地を救うことにある。 (『ベングリオンとシェルトック』)

ユダヤ人デイビッド・ウェインは西暦1985年に書いた『ユダヤ人の放棄』という本の中で、「ユダヤ人シオニストはヨーロッパの正統派ユダヤ教徒を救う代わりに、ユダヤ国家建設に集中する決断を下した。 ナチスによって殺されたユダヤ人の大半は正統派ユダヤ教徒であった。 ナチスによって殺されたユダヤ人はユダヤ国家建設の犠牲にされたのだ」と告発している。 彼によれば、ハザール系ユダヤ人シオニストはパレスチナ保有の願望を世界中に認めさせる機運を醸成する為に、ナチスをしてユダヤ人を殺害せしめたという。

ユダヤ人ラビ・ウェイスマンデルのことにも触れておきたい。 彼はドイツに住んでいたラビであり、シオニストではない。 彼は、ナチス・ドイツ占領下にいた200万人のユダヤ人を何とか救おうとして、シオニスト機関に金を要求したのであった。 シオニズムの指導者の返事は「彼らが流す血によってこそ、私たちはパレスチナを得ることが出来る」というものであった。 200万人のユダヤ人が殺されればこそ、ユダヤ人は世界から同情を得て、パレスチナにユダヤ国家を作ることが出来るという意味である。 ラビ・ウェイスマンデルは尚も同胞を救う為の金を要求した。 其のとき、シオニズムの指導者は次のように言ったという。「これは、チェコスロバキアから出てくる20人のあなたの親しい友と、あなた自身の命を救う為の金だ。 そして、其の他の残れる者たち、老若男女、乳児などの血によって、パレスチナは私たちのものになるのだ」。

かつて、ナイム・ギラディというジャーナリストがイスラエル共和国で活躍していた。 彼は典型的なセム系ユダヤ人である。 彼は『ベングリオンの犯罪』という本を書いた。 此の本では、ハザール系ユダヤ人シオニストとナチスのつながりが証拠をもって述べられている。 彼によれば、ナチスによって犠牲になったユダヤ人は決してシオニストではなく、哀れな一般庶民のユダヤ人だったという。 彼は次のように語る。「いつでも歴史において犠牲になるのは特権階級ではない、金持ちでもない、指導者でもない、一般庶民なのである。 ナチス・ドイツの犠牲となったのは、其のような哀れむべきユダヤ人だった。 シオニズムの指導者は、其の犠牲となったユダヤ人の上に立って自分たちの主義主張を今に至るまで展開している。 言葉を換えれば、一般のユダヤ人の犠牲を利用しているといっても過言ではないだろう」。

反シオニズムのユダヤ人マーク・レインは次のように語っている。「ヒトラーはユダヤ人絶滅命令を一回として出してはいない。 彼が部下に命じたのは追放することのみであった。 其のユダヤ人追放が大量に達したとき、ヒトラーはシオニズムの指導者ハイム・ワイツマン(後の初代イスラエル大統領)に取り引きを申し出た。 多数のユダヤ人をシオニストに渡す代わりにドイツへの経済援助を求めたのである。 これは歴史的事実である。 しかし、ワイツマンはそれを断った。 多数のユダヤ人が迫害され殺害されることがイスラエル建国のバネとなり、また戦争後のユダヤ人が世界にアピールしていくときのバネになると、彼ははっきり答えた」。 マーク・レインによれば、此のようなことは多くのユダヤ人の知っていることであるという。

  ハイム・ワイツマン
ハイム・ワイツマンは「世界シオニスト機構」の総裁を務め、其の後、長年に渡ってシオニズムの世界的指導者であった。 彼は初代イスラエル大統領になった。

  ダヴィド・ベングリオン
ダヴィド・ベングリオンはシオニスト組織の最高幹部であった。 ベングリオンはシオニズムで「建国強硬路線」をとり、彼の指導のもとに、イスラエル共和国が作られた。 彼は初代イスラエル首相になった。

ダヴィド・ベングリオンは西暦1938年12月7日、シオニストの労働党指導者たちを前にして、次のように率直に発言した。「もしも、ドイツにいる子供(ユダヤ同胞)をイギリスに連れて行けば全部救うことができ、パレスチナに連れて行けば半分しか救えないと分かっているとしよう。 此の場合、どちらかを選べと言われたら、私は後者を選ぶ。 なぜなら、我々は、其の子供たちの命だけでなく、それ以上にイスラエル民族の歴史をも考慮に入れなければならないからだ」。 (『シオニストの政策とヨーロッパのユダヤ人の運命』)

ベングリオンは次のようにも発言した。「救出を希望する者を、それぞれの特性を見分けることもせずに一律に助けるべきなのか。 我々は、シオニズムに国家主義の特色を与え、イスラエルの領土確保またはユダヤ国家主義に役立つ者の優先的な救出を試みるべきではないのか。 此のような形の設問が残酷に見えることは分かっている。 だが、我々は不幸なことに、明確な基準を確立しなければならない。 ユダヤ国家建設とユダヤ民族の再生に貢献し得る1万人のユダヤ人、または、我々にとって負担となる100万人のユダヤ人のどちらかを救うことができるとした場合、我々は前者の1万人に限って救うべきだ。 勘定外として残される100万人がいかに非難し訴えようとも、我々は、そうしなければならない」。 (『ユダヤ機関の「救出委員会」覚書き』、1943年度)

ベングリオンのこれらの発言から分かるように、多くの同胞(ドイツ国内に居残ったユダヤ人)を生贄(神に供える生き物)にすることでパレスチナにユダヤ国家を作るというのがハザール系ユダヤ人シオニストの基本的な構想である。

パレスチナでのユダヤ国家建設を目指すハザール系ユダヤ人シオニストにとってはパレスチナの土地が同胞(ドイツ国内に居残ったユダヤ人)の命より重要であった。 そればかりか、パレスチナでのユダヤ国家建設を目指すハザール系ユダヤ人シオニストは、ナチス政権によるの同胞(ドイツ国内に居残ったユダヤ人)の迫害・殺害を望んだのである。 ユダヤ人を排斥・追放したいと思っていたナチス政権。 同胞ユダヤ人を迫害・殺害してほしいと思っていたハザール系ユダヤ人シオニスト。 此の点においても、ナチス政権とハザール系ユダヤ人シオニストとは互いに手を組んでいたのである。

ナチス政権により殺害されたユダヤ人の大部分はハザール系正統派ユダヤ教徒だった。 ナチス政権がユダヤ人を追放しようとし、どの国もユダヤ人を引き取ろうとしなかった時、あろうことか、ハザール系ユダヤ人シオニストはドイツ国内およびドイツ占領地域内のハザール系正統派ユダヤ教徒の安全な移動を妨げるように各国政府に働きかけていた。 ハザール系正統派ユダヤ教徒はシオニズムに反対し、且つ、貧しかったので、ハザール系ユダヤ人シオニストにとってハザール系正統派ユダヤ教徒は厄介な存在だった。 ハザール系ユダヤ人シオニストはハザール系正統派ユダヤ教徒を助けるどころか、邪険にしたのである。 ハザール系ユダヤ人シオニストはドイツ国内およびドイツ占領地域内のハザール系正統派ユダヤ教徒を其の地域内に留め置き、彼らをナチス政権に殺害してもらいたかったのである。 ナチス政権はドイツ国内およびドイツ占領地域内に居残り続けるハザール系正統派ユダヤ教徒の処置に困り、ドイツ占領下のポーランドに11ヶ所、ウクライナに1ヶ所、ベラルーシに1ヶ所の強制収容所を作り、彼らハザール系正統派ユダヤ教徒をそこへ強制移送し、ユダヤ人大量殺害が始まった。

裕福なユダヤ人はハーヴァラ協定を使ってパレスチナへ移住し、裕福でないユダヤ人(ハザール系正統派ユダヤ教徒と裕福でない同化ユダヤ人)はドイツ国内に居残った。 そして、ドイツ国内に居残った裕福でないユダヤ人はハザール系ユダヤ人シオニストによって見捨てられ、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺害の対象になった。 ハザール系ユダヤ人シオニストはパレスチナでのユダヤ国家建設を全てに優先させた。 ハザール系ユダヤ人シオニストは「ユダヤ人が大量に殺されれば殺されるほど、世界中の多くの人々がユダヤ人に同情し、パレスチナでのユダヤ国家建設は正当だと見なされる」と考えたのだろう。 そして、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺害が世界中に知られたとき、世界中の多くの人々がユダヤ人に同情し、パレスチナでのユダヤ国家建設は正当だと見なされた。 ハザール系ユダヤ人シオニストは、自分たちの目的達成の為には、同胞が大量に殺害される事さえをも望んだのである。 それがハザール系ユダヤ人シオニストの本性だった。

ナチス・ドイツが敗北した後に、ユダヤ国家建設の地として再びマダガスカル島を候補にあげたイギリスの植民地担当大臣モイン卿はハザール系ユダヤ人シオニストによって暗殺された。 ハザール系ユダヤ人シオニストの目的は、あくまでパレスチナでの国家建設であった。

第二次世界大戦後、暫くの間、英語圏ではナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺害を表す言葉として「ジェノサイド(genocide、組織的大量殺害)」など使われてきたが、1978年にアメリカで放映されたテレビドラマ『ホロコースト』によって、「ホロコースト」という言葉がナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺害を表す言葉として世界中に普及した。 そして、此の言葉は博物館の名にも使われている。「ホロコースト」の語源は古代イスラエル人が行なった「燔祭(家畜を祭壇の上で焼き、神に供えるユダヤ教の儀式)」である。 此の儀式では古代イスラエル人の繁栄を祈願して牛や羊などの家畜が祭壇の上で焼かれ、神に供えられた。 現在、多くの人がナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺害を「ザ・ホロコースト(The Holocaust)」と呼んでいるが、これは、ナチス・ドイツとハザール系ユダヤ人シオニストとの協同作業と見なせるユダヤ人大量殺害の本質を表している。 正に、裕福でないユダヤ人が大量に生贄にされることで、イスラエル国が成立することになる。

第24章  ユダヤ国家「イスラエル共和国」の成立宣言
第二次世界大戦が終わると、ナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺害が世界中に報道・宣伝され、世界中の多くの人々がユダヤ人に同情するようになった。 多くの人がファシズムを恐れ、ユダヤ人に涙した。 ユダヤ人に対する国際世論が180°転換して良好になり、パレスチナでのユダヤ国家建設は正当だと見なされ、ハザール系ユダヤ人シオニストの国際的発言力が非常に高まった。 しかし、イギリス政府はパレスチナでのユダヤ国家建設に前向きでなかった。 それに業を煮やした東欧ハザール系ユダヤ人シオニストはイギリス政府に対して武力闘争を開始した。 イギリス政府はパレスチナにイギリス陸軍を派遣し、治安維持活動に努めたが、成果は上がらなかった。 そこで、パレスチナのイギリス陸軍は西暦1946年6月に東欧ハザール系ユダヤ人シオニストの一斉拘禁を行ない、3000人強を逮捕した。 これに対し、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストで構成されるテロ組織「イルグン」が反撃し、同年7月22日にイギリス軍司令部のあるキング・ダビデ・ホテルを爆破した。 これにより28人前後のイギリス軍司令部要員が死亡した。 此の為、イギリス政府はパレスチナ統治に困難を覚え、西暦1947年2月にパレスチナ統治問題を国連に委ねたいと発表した。

西暦1947年、国連で「パレスチナ分割案」(パレスチナにおける土地の所有率が6%でパレスチナ人口の3分の1を占めていたユダヤ人にパレスチナの土地の56%を与えるという内容)が審議されていた。 アメリカのトルーマン大統領は、此の「パレスチナ分割案」に関して、アメリカが石油利権を持つサウジアラビアとの関係を重視し、パレスチナでのユダヤ国家建設に反対する意向を表明していた。 これに対し、アメリカのユダヤ人社会は強く反発し、「1948年の大統領選挙では、トルーマンはユダヤ票を失うだろう」と警告した。 大都市にたくさん住んでいるユダヤ人の票は、大統領選挙で不利が伝えられていたトルーマン大統領にとって勝敗を左右する重要な要素であった。 此のままでは共和党候補に敗北するという危機感を抱いたトルーマン大統領は前言を翻し、パレスチナ分割案の支持に回った。 そして、トルーマン大統領は国連で「パレスチナ分割案」を強力に押した。 此の「パレスチナ分割案」にはソ連・フランス・ブラジルなどが賛成し、アラブ諸国が激しく反対し、イギリスは棄権した。 西暦1947年11月29日、国連総会で「パレスチナ分割案」が賛成33、反対13、棄権10で可決された(国連決議181号、通称「パレスチナ分割決議」)。 そして、トルーマン大統領は翌年(西暦1948年)の大統領選挙ではユダヤ票の75%を獲得し、きわどい差で勝利した。

西アジアを専門分野とするイギリス人の国際評論家デイヴィッド・ギルモアは、豊富な当局側資料を駆使して書いた著書『パレスチナ人の歴史 奪われし民の告発』の中で、パレスチナ分割案の可決の経過を次のように描きだした。「パレスチナの運命を決定したのは、国連全体ではなく、国連の1メンバーに過ぎないアメリカだった。 パレスチナ分割とユダヤ国家建設に賛成するアメリカ政府は、国連総会でパレスチナ分割案を可決させようと躍起になった。 可決に必要な3分の1の票を獲得できるかどうか怪しくなると、アメリカ政府は奥の手を使い、パレスチナ分割反対にまわっていたハイチ、リベリア、フィリピン、中国、エチオピア、ギリシャに猛烈な政治的・経済的な圧力をかけた。 ギリシャを除いて、これらの国は方針変更に応じた。 フィリピン代表にいたっては、熱烈なパレスチナ分割反対の演説をした直後に、本国政府からパレスチナ分割案への賛成投票の訓令を受けるという茶番劇を演じさせられてしまった」。

国連総会で「パレスチナ分割案」が可決された日(西暦1947年11月29日)以降、パレスチナではユダヤ国家建設を巡って、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストとアラブ人との衝突が一層激しくなり、極度の紛争状態になった。 パレスチナ分割決議に反発したアラブ人は襲撃・焼き討ちなどを行ない、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストも同様に反撃した。 パレスチナのイギリス陸軍にはもはや治安維持能力が無く、紛争状態は放置されたままであった。 此の状態を収拾できなくなったイギリス陸軍は西暦1948年5月14日までに撤退することを決定した。 パレスチナのイギリス陸軍がパレスチナ撤退を完了する西暦1948年5月14日、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストの最高指導者であるダヴィド・ベングリオンがテルアビブにおいてイスラエル共和国の成立を宣言した。

第25章  ヒトラーはイスラエル建国の最大の功労者である。
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エドガー・ケイシー(1877年〜1945年)というアメリカ人がいた。 彼は催眠透視という特殊能力を持つ人物で、彼の行なった膨大なリーディング(催眠状態における情報の引き出し)の記録は、現在でもバージニア州にあるエドガー・ケイシー財団に保管され、一般公開されている。 彼は政府高官に招かれて、ホワイトハウスでリーディングをしたこともある。

第二次世界大戦の真の目的を知りたいと思った或るユダヤ人がエドガー・ケイシーにリーディングを依頼した。 此のユダヤ人の依頼によるリーディングが行なわれたのは1939年9月25日で、第二次世界大戦が始まってから22日後であった。「今回の戦争の本当の目的は何ですか」という質問に対して、エドガー・ケイシーは次のように答えた。「ダニエル書の最後の2章を読みなさい。 また、申命記第31章を読みなさい。 そこに答えを見い出すだろう」。 エドガー・ケイシーが依頼人のユダヤ人に読むように勧めた旧約聖書の申命記第31章では、ユダヤ人がヨルダン川を越えてカナン(現在のパレスチナ)に入る直前にモーセが説教する様子が述べられている。 エドガー・ケイシーは他のリーディングでも「ヒトラーがドイツの権力の座に就いたのは、ユダヤ人が彼らの祖国パレスチナに帰れるようにする為である」と繰り返し述べた。 (注: ハザール系ユダヤ人の祖国はパレスチナではなく、ハザール王国である)。 結果的に、ヒトラーのユダヤ人迫害はユダヤ国家建設を最大限に推し進めることになった。 ヒトラーはイスラエル建国の最大の功労者である。 ヒトラーという人物がいたからこそ、ハザール系ユダヤ人シオニストは故地でもないパレスチナにイスラエル国を作ることが出来たのである。 ハザール系ユダヤ人シオニストはヒトラー及びナチスに大いに感謝すべきである。 ヒトラーはイスラエル建国の為に此の世に生まれてきたのかも知れない。

先に紹介したドイツの著名な歴史研究家であるユダヤ人セバスチャン・ハフナーは著書『ヒトラー注釈』の中で、次のように述べている。
ヒトラーが最大の罪を犯した諸民族に対して決して最大の損害を与えた訳でないことは興味深い事実だが、奇妙なことにあまり顧みられていない。  〈中略〉  2000年になんなんとする歳月を経て、ヒトラーの登場後、ユダヤ人は再び国家を、誇り高く栄誉に輝く国家を持っている。 ヒトラーがいなかったら、イスラエル国の成立はなかっただろう。  〈中略〉  客観的にみて、ヒトラーにより最大の損害を受けたのはドイツである。 ドイツ人はヒトラーに多大な人命を捧げた。 それは700万人強で、ユダヤ人やポーランド人より多く、ドイツ人より多くの血を流したのはロシア人だけである。 他の戦争参加国の損失は此の4つの国の損失とは全く比べものにならない。 ソ連とポーランドが恐るべき血の犠牲ののちに前より強力になり、イスラエル国がユダヤ人の犠牲によって生まれた一方、ドイツ共和国は地図の上から消えてしまった。

第26章  中東戦争
■ 第一次中東戦争
ダヴィド・ベングリオンがイスラエル共和国の成立を宣言した西暦1948年5月14日、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国はイスラエル側に宣戦した。 アラブ連合軍は翌15日にパレスチナに侵攻し、第一次中東戦争が始まった。 アラブ側兵力は15万人、イスラエル側兵力は3万人であった。 アラブ側の勝利が予想されたが、アラブ側は内部分裂によって実力を発揮できず、イスラエル側はM4シャーマン戦車(アメリカ製)、メッサーシュミット戦闘機(ドイツ製)など、欧米列強から提供された豊富な武器を使い、アラブ連合軍を圧倒した。 そして、西暦1949年7月、イスラエル側とアラブ側との間で停戦協定が結ばれ、此の戦争はイスラエル側勝利の形で終わった。 此の戦争によって、イスラエルの領土は、国連によるパレスチナ分割決議で決められた領域より40%も大きいものとなった。 第一次中東戦争はイスラエル側では「独立戦争」と呼ばれている。 イスラエル側は此の戦争に勝利したことで独立国としての地位を固めた。 第一次中東戦争の結果、135万人のパレスチナ難民が発生した。 そして毎年、アメリカ政府は外国援助金の3分の1をイスラエル共和国に無償供与し続けた。

もともとパレスチナに住んでいたユダヤ人は少数だった。 19世紀半ばのパレスチナのユダヤ人口は2万人前後だったと言われている。 西暦1922年の時点では、パレスチナのアラブ人口は66万8000人で、彼らアラブ人がパレスチナの土地の98%を所有していた一方で、パレスチナのユダヤ人口は8万4000人で、彼らユダヤ人はパレスチナの土地の2%を所有していた。 ところが、第一次中東戦争の停戦協定が結ばれた西暦1949年7月の時点では、イスラエル共和国のユダヤ人口は76万人になり、彼らユダヤ人がパレスチナの土地の75%を所有し、135万人のアラブ人がパレスチナから追い出された。

   パレスチナ分割決議           第一次中東戦争後

東欧ハザール系ユダヤ人シオニストのユダヤ国家建設に関する主義・主張は実践的シオニズムである。 彼ら東欧ハザール系ユダヤ人シオニストが中心的に動いて、強引にイスラエル共和国を作った。 其の時の彼らの主張が非常にまずかった。 彼らはかつてのハザール王国の民の子孫であるのに、自分たちが血統的にユダヤ教聖典に拠って立つ敬虔なユダヤ教徒であると主張した。 彼らはセム系ユダヤ人でないのに、自分たちは血統的に本当のユダヤ人(正統ユダヤ人)であると主張した。 彼らは正統ユダヤ人を装い、パレスチナに祖国を作る権利があると強く主張した。 彼らは、自分たちが旧約聖書の民であると主張し、「パレスチナの土地はユダヤ人のものである。 其のことは旧約聖書にしっかり書かれているのだから、誰も文句を言うな」と主張したのである。 東欧ハザール系ユダヤ人シオニストは自分たちの行動を正当化する為にユダヤ教を利用しているのであり、ユダヤ教を信仰している訳ではない。 此のように、実践的シオニズムは “まやかし” の上に立つシオニズムである。 実践的シオニズムとユダヤ教とは互いに本質的に別物である。

実践的シオニズムはイスラエル共和国の成立で役目を終えたが、実践的シオニズムはイスラエル共和国の成立後には「パレスチナでのユダヤ国家維持の主張、領土拡張の主張、アラブ人に対する強硬路線の主張」というシオニズムに変化して生き残った。 イスラエル共和国成立後のシオニスト強硬派は「ナイル川からユーフラテス川までの領域は神に約束された自分たちの土地だ」と主張している。 此の主張は「大イスラエル主義」と呼ばれている。 今後も、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストがパレスチナでシオニズムを続ける限り、彼らを「偽(にせ)ユダヤ人」として批判する人は増えていくだろう。 なお、注意して欲しいのだが、「東欧ハザール系ユダヤ人の全てがシオニストだ」と言っているのではない。 東欧ハザール系ユダヤ人の中には、ハザール系ユダヤ教正統派など、自らのルーツがハザール人であることを自覚して、シオニズムを批判している人が沢山いる。 東欧ハザール系ユダヤ人シオニストは東欧ハザール系ユダヤ人の中で少数派であると思われる。

実践的シオニズムは「民なき土地に、土地なき民を」をスローガンとしたが、パレスチナを「民なき土地」にする為には、そこに暮らしている人々を追放するか殺すことが必要であった。 イスラエル国の成立から半世紀以上たった今も450万人ものパレスチナ人が自分の土地を追われたまま、ヨルダンを初めとして、レバノン、エジプト、シリアなどで難民生活を強いられている。 ヨルダン川西岸地区とガザ地区では、それぞれ170万人と100万人のパレスチナ人がイスラエル軍の厳重な監視下で極限的な生活を強いられている。

■ 第二次中東戦争
西暦1956年7月、エジプト政府がスエズ運河の国有化を宣言した。 同年10月29日、イスラエル軍はそれを阻止する為にエジプト(シナイ半島)に侵攻し、第二次中東戦争 (スエズ戦争)が始まった。 エジプト軍はイスラエル空挺部隊・戦車部隊の攻撃により総崩れとなり、シナイ半島の大半はイスラエル軍により占領された。 イスラエル軍が進撃中の11月5日、イギリス・フランスも軍事介入し、イギリス軍・フランス軍がスエズ運河地帯に上陸した。 此の戦争に対しては国際的な非難が沸き起きた。 イギリス・フランスは国連の停戦決議を受け入れ、11月中に戦闘を中止した。 アメリカのアイゼンハワー大統領はイスラエルに対して経済援助の停止という圧力をかけて、西暦1957年3月にイスラエルをシナイ半島から撤退させた。

■ 第三次中東戦争
西暦1967年6月、エジプトのナセル大統領はシナイ半島の兵力を増強し、国連監視軍の撤退を要請し、イスラエルの艦船に対してティラン海峡の封鎖を宣言した。 ゴラン高原ではユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった。 同年6月5日、イスラエル軍はエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に奇襲攻撃を行ない、第三次中東戦争 (6日戦争)が始まった。 アメリカがイスラエルを支援し、ソ連がアラブ諸国を支援した。 此の戦争でイスラエルは圧倒的な軍事力を見せつけた。 緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。 制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダン川西岸地区・ガザ地区・エジプト領のシナイ半島・シリア領のゴラン高原を占領した。 其の結果、イスラエルは此の戦争前と比較して領土を4倍強に拡大した。 スエズ運河東岸はイスラエルによって占領された為、スエズ運河は通航不能となった。 此の戦争は6日で勝敗が決した為、「6日戦争」とも呼ばれる。 此の戦争後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、散発的な砲爆撃の続く状態が西暦1970年まで続いた。 第三次中東戦争の結果、236万人のユダヤ人がパレスチナ全土を支配するようになり、アラブ人難民は約300万人にまで膨らんだ。


■ 第四次中東戦争
西暦1973年10月6日、エジプトは前の戦争で失ったガザ地区・シナイ半島を奪回する為に、そして、シリアは前の戦争で失ったゴラン高原を奪回する為に、共にイスラエルに先制攻撃を行ない、第四次中東戦争が始まった。 エジプト・シリア連合軍は、第三次中東戦争では制空権を失った為に早期敗北を招いたという反省から、ソ連製の地対空ミサイルを揃え、徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。 此の作戦は成功した。 エジプト・シリア連合軍はイスラエル空軍の反撃を退け、イスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。 エジプト軍はスエズ運河を渡り、其の東岸を奪回することに成功した。 同年10月11日より、イスラエル軍の本格的反撃が始まった。 イスラエル軍はゴラン高原においてシリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領し、シナイ半島においては、スエズ運河を渡り、其の西岸の一部を奪取した。 ここに至り、国際社会による調停が実り、同年10月23日に停戦となった。 アラブ諸国は此の戦争を有利に進める為に、イスラエルを支援する西側諸国に対して石油戦略を発動し、世界中にオイルショックを引き起こした。

■ 第四次中東戦争後のパレスチナ
西暦1979年3月、エジプトとイスラエルとが締結したエジプト・イスラエル平和条約により、シナイ半島はエジプトに復帰した。 ガザ地区は、西暦1993年9月13日に調印された「パレスチナ暫定自治協定」(イスラエル政府とパレスチナ解放機構の間で締結された協定)によって、パレスチナ自治政府の統治下に置かれた。 しかし、ガザ地区には西暦2005年8月までイスラエル人入植者が居続け、イスラエル陸軍部隊が駐留した。 ガザ地区からはロケット弾がイスラエル領域にしばしば撃ち込まれた。 それに対し、イスラエル軍はガザ地区のパレスチナ人をしばしば空襲した。 西暦2006年7月、戦車隊を含むイスラエル軍がガザ地区へ侵攻した。 其の後もイスラエル軍によるガザ地区への攻撃は断続的に続いた。 西暦2008年12月、イスラエル軍はガザ地区へ大規模な空襲を伴う地上侵攻を行ない、其の為、多数の死傷者が出た。 現在、ガザ地区は事実上イスラエルによって封鎖されている。 ガザ地区の住民は原則としてガザ地区の外に出ることが出来ない。 ヨルダン川西岸地区は西暦1967年の第三次中東戦争以降、今に至るもイスラエルによって占領されたままになっている。 ソ連が崩壊し始めた西暦1989年以降、イスラエル政府はソ連と其の後のロシアから80万人のハザール系ユダヤ人を呼び寄せ、占領しているヨルダン川西岸地区に彼らを入植者として送り込み、ヨルダン川西岸地区を実効支配してきた。 ゴラン高原も第三次中東戦争以降、今に至るもイスラエルによって占領されたままになっている。 シリアとイスラエルは現在もゴラン高原の領有権を主張しているが、第四次中東戦争の停戦(西暦1973年10月23日)後の西暦1974年以来、同地区で武力行使は行なわれていない。

第27章  イスラエル国内のセム系ユダヤ人の現実
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■ セム系ユダヤ人とハザール系ユダヤ人との格差
イスラエル共和国内に居住するセム系ユダヤ人の大部分はイスラエル国の成立後にイスラエル政府によってアラブ諸国から呼び集められた人々である。 西暦1950年までセム系ユダヤ人のイスラエル共和国への流入(移住)は殆ど無かった。 しかし、西暦1951年から事情が変わった。 西暦1951年から1956年にかけてアラブ諸国のセム系ユダヤ人がイスラエル共和国に続々と入ってきた。 彼らはイスラエル建国のニュースを聞き、イスラエル国の成立をあたかも預言の成就であるかのごとく思い、希望を持ってイスラエル共和国に帰ってきた。 こうして、イスラエル国の成立以来、イスラエル共和国の人口に占めるセム系ユダヤ人の割合は年々増加し、現在、イスラエル共和国内のセム系ユダヤ人はイスラエル共和国の人口の6割を占めている。 イスラエル共和国内のセム系ユダヤ人は数の上では多数派である。

イスラエル建国の主体は東欧ハザール系ユダヤ人である。 イスラエル共和国の指導者階級は、イスラエル国の成立前に東ヨーロッパからやって来たハザール系ユダヤ人と其の子孫である。 一方、アラブ諸国からイスラエル共和国へ流れ込んだセム系ユダヤ人はイスラエル社会の底辺を成している。 イスラエル国の成立直後には両者共に貧しかったので、問題は無かったが、イスラエル共和国が経済成長を遂げるに連れて、両者間の格差は広がり、社会的差別が表面化して問題となった。

現在、イスラエル共和国のテルアビブの北半分は高級住宅街であり、一流専門店が軒を連ね、街並みはヨーロッパ風であり、住民の大部分はハザール系ユダヤ人である。 一方、テルアビブの南半分はセム系ユダヤ人の密集地であり、アラビア語が飛び交い、羊の焼肉の煙が漂い、一部はスラム化している。 此の南北格差に南の住民が怒りをぶちまけるのは当然と言える。 東ヨーロッパからやって来たハザール系ユダヤ人は「パレスチナにユダヤ国家を復興させる」という理念に燃えていた。 キブツ(共産主義的なユダヤ人入植村)も此の人達によって作られた。 一方、セム系ユダヤ人は此の種のイデオロギーには共鳴せず、すでに築かれた都市周辺部の吹きだまりに引き寄せられていった。 彼らは戦時には最前線に送られ、平時には国境近くに集められ、占領地の開拓の為に使われてきた。 政治家や学者や医者などにはハザール系ユダヤ人がとても多い。 肉体労働者にはセム系ユダヤ人がとても多い。 イスラエル共和国内のセム系ユダヤ人の大部分は経済的に貧しく、下積み状態に置かれている。 ユダヤ教自体もハザール系とセム系とに分かれており、同じ町に住んでいても異なったシナゴーグへ足を向けることになっている。

ある日、エルサレムの至る所に一夜のうちに多くのポスターが貼られたのだが、そこには「アシュケナジー系ユダヤ人はハザールだ」と書かれていた。 翌日の朝、イスラエル政府は警察を使って全てのポスターをはがした。 しかし、此のポスターがイスラエル共和国中に与えた衝撃は計り知れないものだったと言われている。 此のように、イスラエル共和国内ではパレスチナ人差別だけでなく、ハザール系ユダヤ人(白人)がセム系ユダヤ人(非白人)を差別するという現実がある。 セム系ユダヤ人の不満はかなり大きい。

東京大学教授の鶴木眞氏は著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で次のように述べている。
現在、イスラエル社会には異なる民族的特徴を持つ2つのユダヤ人集団が存在する。 1つはヨーロッパ系ユダヤ人集団であり、もう1つは北アフリカ・中東系ユダヤ人集団である。 ふつう前者は『アシュケナジー系』と呼ばれ、後者は『スペイン系』と呼ばれている。 此の2つのユダヤ人集団の区別はユダヤ人の流浪の歴史と深い関係がある。  〈中略〉  厳密にいえば、北アフリカ・中東系ユダヤ人を一括してスペイン系と呼ぶのは正しくない。 なぜなら、ユダヤ人がパレスチナを離れた歴史は一度だけでなく、大きなものを拾っても、紀元前7世紀のアッシリアによる北イスラエル王国の滅亡、紀元前6世紀の新バビロニアによる南ユダ王国の崩壊、紀元1、2世紀のローマ帝国によるパレスチナからのユダヤ人追放などがあり、15世紀以前に既にインドを含めた中央アジア・中東・北アフリカ・イエメンには流浪の民としてのユダヤ人社会が存在していた。 したがって、北アフリカ・中東系ユダヤ人のすべてがイベリア半島系のユダヤ人すなわちスペイン系であるとは限らない。 しかし、今日一般にはスペイン系と北アフリカ・中東系とが同義語として使われている。 其の理由は、北アフリカ・中東系ユダヤ人の祈祷形態がスペインで発展した教義に強く影響されている為、また、現在のイスラエル社会でアシュケナジー系以外のユダヤ人を一括して呼ぶ名称が必要である為である。 1948年には、83万7000人ほどのスペイン系ユダヤ人がアラブ諸国に住んでいたと推計されるが、1973年にはわずか5万人以下となっている。 アラブ諸国に住んでいたスペイン系ユダヤ人のうち、80%強が独立後のイスラエルに流入した。 此の為、パレスチナのユダヤ人社会の横顔はイスラエル独立の前と後で大きく違った。  〈中略〉  都市にしろ、モシャブ(家族経営農場の村単位の協同組合)にしろ、キブツにしろ、スペイン系ユダヤ人がアラブ諸国からイスラエルへ移住したとき、立地条件がよく安全度の高い地域はすでにアシュケナジー系の人々に握られていた。 スペイン系ユダヤ人の大部分は社会的にも地理的にも末梢なところに置かれたのである。 此のように、イスラエルのユダヤ人社会は2つの異なるユダヤ人集団から形成されているといえよう。 アシュケナジー系の人がどんなにスペイン系のシナゴーグの近くに住んでいても、そこにお祈りに行くことは決してないし、また、其の逆も然りである。 聖書の読み方や賛美歌のメロディーなども全くちがう。 宗教のことは気にとめないと言っているユダヤ人も、贖罪の日や過越の祭などの重要な祭日には、にわかに宗教的になる者が多い。 私(鶴木)は、ふだんは宗教離れしているアシュケナジー系の夫とスペイン系の妻の家庭で、過越の祭のときに米を食べてよいかどうかをめぐり、たいへんな論争をしているのを見て驚いた。 夫はダメだといい、妻は食べてよいと反論し、互いの主張を頑として譲らなかった。 アシュケナジー系とスペイン系の2つのユダヤ人集団の間には流浪の歴史を通じて結婚などの人的交流はほとんどなかったのである。

イスラエルと聖書の問題に詳しいある研究家は次のように述べている。
1961年頃のセム系ユダヤ人とハザール系ユダヤ人との結婚率はたったの12%程度で、セム系ユダヤ人とハザール系ユダヤ人が融合することは少なかった。 一般的にセム系ユダヤ人の夫とハザール系ユダヤ人の妻という夫婦がいた場合、もし、其の娘にボーイフレンドが出来たとすれば、セム系ユダヤ人の父はそれをふしだらなことだと感じるが、ハザール系ユダヤ人の母はそれを当然のことのように感じると言われる。 彼らは同じユダヤ人であると言いながら、西と東という全く異なる文化圏で生活してきた全く異なる人々である。 セム系ユダヤ人とハザール系ユダヤ人は、社会的な階級という意味で対照的な存在であると同時に、宗教的にも2つの異なる勢力を形成している。 もちろん双方ともユダヤ教に変わりはないが、彼らの通うシナゴーグも2つに分かれている。 チーフ・ラビたちも別々に存在している。 ハザール系ユダヤ人には、ユダヤ教の戒律などを厳しく守ることを重視しない改革派のユダヤ教徒が多い。 彼らの中にはトーラーと呼ばれるモーゼの律法を信じない者さえ多い。 一方、セム系ユダヤ人には、オーソドックス(正統派)と呼ばれ、厳格で律法主義的な慣習の中に生きているユダヤ教徒が多い」。

イスラエル共和国の歴代指導者たちはアラブ世界に激しい偏見を持つだけでなく、アラブ色に染まったセム系ユダヤ人を下等人種と見なす傾向にある。
イスラエル共和国の初代首相ダヴィド・ベングリオンは次のように発言した。「モロッコから来たユダヤ人は何の教育も受けていない。 彼らの習慣はアラブ的である。 私が好きではないモロッコ文化がここにある。 私たちはイスラエルがアラブ的になることを欲しない。 私たちは個人と社会を破壊してしまう『レバント(東地中海沿岸地方)精神』と戦い、離散のなかで作り上げて来た本当のユダヤ的な価値を維持しなければならない」。
イスラエル共和国の第4代首相ゴルダ・メイアは次のように述べ、セム系ユダヤ人に対する人種差別的な傲慢さを明らかにした。「私たちはモロッコ、リビア、エジプト、其の他のアラブ諸国からのユダヤ移民を抱えている。 私たちはこれらのユダヤ移民たちを適切な文化レベルにまで引き上げてやらなければならない」。
イスラエル共和国の外相を務めたアバ・エバンはセム系ユダヤ人とアラブ世界に対する偏見を次のようにはっきりと言い表した。「私たちが自分たちの文化的状況を見るにつけ、心の痛むことが一つある。 それはアラブ諸国からやってきたユダヤ移民たちがやがて優位に立ってイスラエル政府に圧力をかけることになり、イスラエル文化をアラブ諸国の文化レベルにまで落としてしまわないかということである」。

かつて、ナイム・ギラディというジャーナリストがイスラエル国で活躍していた。 彼は典型的なセム系ユダヤ人で、イスラエル国の成立と同時にアラブ世界からイスラエル共和国に移住した。 彼はユダヤ人と自称する東ヨーロッパ出身の白人ユダヤ教徒を見て大変とまどったと言う。 イスラエル共和国内ではセム系ユダヤ人は二級市民に落とされている。 彼は其の二級市民の代表として、イスラエル共和国内で多くの政治活動を行なった。 何度も刑務所に入れられたこともあったと言う。 しかし、彼は一貫して本当のユダヤ人とは何かを主張し続けた。 彼は本当のユダヤ人に対する住宅・社会生活・就職などの改善を訴え続けた。 彼は西暦1992年秋、セム系ユダヤ人を代表する一人として日本各地を講演して回り、次のように語った。「イスラエルでは本当のユダヤ人がどれほど惨めな生活を強いられていることか。 アシュケナジムを名乗るハザール系ユダヤ人たちが、セム系ユダヤ人すなわちアブラハムの子孫たちを二級市民に叩き落としているのである。 かつて、私はパレスチナ人たちに向かって次のように演説した。 『あなたがたは自分たちをイスラエルにおける二級市民と言っているが、実はあなたがたは二級ではなく三級市民なのである。 なぜならば、ハザール系ユダヤ人とあなたがたパレスチナ人の間に、私たちセム系ユダヤ人がいるからだ。 そして、私たちもあなたがたと同じように虐げられているのである』」。

■ 対アラブ強硬政党のリクード党を支持するセム系ユダヤ人
現在、イスラエル社会で差別されていると感じているセム系ユダヤ人はアラブ人に関しては右派強硬派である。 彼らセム系ユダヤ人は長いことアラブ諸国で暮らして来ただけに、ユダヤ人としての自らの立場を強く守ろうとする傾向が強い。 同時に、セム系ユダヤ人はハザール系ユダヤ人からの抑圧を口にしながら、「自分たちこそ本当のユダヤ人である」という選民意識を持っている。 セム系ユダヤ人はイスラエル国内では二級市民として扱われ、アラブ人に対する楯とされてきた為、しばしば、パレスチナ・ゲリラの攻撃を受けてきた。 彼らは、やられたらやり返せで、タカ派的になり、アラブ人に対して対決姿勢を強めてきた。 彼らセム系ユダヤ人は、昔はアラブ人と共存してきたが、イスラエル国の成立後、アラブ人との長い闘争を通して、アラブ人に対する強硬路線を主張し、領土拡張主義を支持し、パレスチナ全域をイスラエル領だと主張するようになり、右派政党のリクード党との結びつきを強めるようになった。 此のように、現在のイスラエル共和国には強硬なセム系ユダヤ人シオニストが沢山いるのである。 セム系ユダヤ人シオニストは「パレスチナは神ヤハウェがアブラハムの子孫にだけ与えたものである。 従って、パレスチナの土地はセム系ユダヤ人のものである。 其のことは旧約聖書にしっかり書かれているのだから、誰も文句を言うな」と思っているのだろう。 セム系ユダヤ人シオニストは正統ユダヤ人なのだから、そう思っても止むを得ないところがある。

大雑把に言って、イスラエルの二大政党のうち、労働党はハザール系ユダヤ人を支持母体とする左派政党であり、リクード党はセム系ユダヤ人を支持母体とする右派政党である。 西アジア情勢に詳しいある研究家は、セム系ユダヤ人とリクード党の関係について次のように述べている。
ハザール系ユダヤ人が造ったイスラエルにセム系ユダヤ人がアラブ諸国から移住してきた。 なぜ彼らはイスラエルに移住してきたのだろうか。 ハザール系ユダヤ人は、イスラエルとアラブ諸国が激しく衝突することを見通して、アラブ諸国からセム系ユダヤ人を呼び集めたのである。 非ユダヤ教徒のアラブ人とセム系ユダヤ人とは同じ血を分け合っている。 いわば兄弟関係にある。 もし、イスラエルの国境地域にセム系ユダヤ人を配置すれば、アラブ諸国はイスラエルヘの攻撃をためらうだろうと考えたのである。 そして、アラブ諸国から呼び集められたセム系ユダヤ人は国境近くの危険地域に配置された。  〈中略〉  ハザール系ユダヤ人はイスラエル国の成立以来、此のように本当のユダヤ人を二級市民に落とし続けてきた。 しかし、そこに異変が起きた。 リクード党政権(党首はベギン)の誕生である。 西暦1977年5月のことだった。 世界は本当に驚いた。 それまでベギンと言えばテロリストで、タカ派の壮士とされてきた人物である。 ベギンは万年野党であり続けるだろうと観測されていたのである。 しかし、彼はイスラエル首相になった。 此のベギンという人物が登場していなければ、セム系ユダヤ人が政治的主導権を握ることはあり得なかっただろう。 ベギンはハザール系ユダヤ人である。 しかし、彼はユダヤ教に熱心であり、徹底して強固な信仰心を持っていた。 イスラエル国内のセム系ユダヤ人はベギンに未来を託して、ベギンを首相に押し上げていった。 もちろん、ベギンを支持する者の中にはハザール系ユダヤ人もいたが、ベギンの支持者の多くはセム系ユダヤ人だった。

西暦1981年の選挙結果を分析したA・アリアン教授は、概ねハザール系ユダヤ人が左派政党を支持し、セム系ユダヤ人が右派政党を支持しているということを明らかにした。 彼は次のように述べている。「セム系ユダヤ人の約60%が右派政党のリクード党に投票し、30%が左派政党の労働党マパム連合に投票したのに対し、ハザール系ユダヤ人の約60%が労働党マパム連合に投票し、30%がリクード党に投票した。 また、労働党マパム連合の総得票の約70%はハザール系ユダヤ人の票であったのに対し、リクード党の総得票の65%はセム系ユダヤ人の票であった」。

東京大学教授の鶴木眞氏は著書『真実のイスラエル』(同友館)の中で次のように述べている。
セム系ユダヤ人の持つハザール系ユダヤ人中心社会に対する不満を吸収していったのが右派政党であるリクード党であった。 しかも、セム系ユダヤ人は長きにわたってイスラム教の支配の下での生活を強いられていた為、アラブ社会に対する怒りも強かった。 其のような彼らにとって、リクード党のアラブ諸国に対する強硬姿勢には共感を持たせるものがあった。 また同時に、セム系ユダヤ人がイスラエルにおいて新たな脅威にさらされていたことも確かである。 其の脅威とは、第三次中東戦争で占領したヨルダン川西岸地区・ガザ地区と共にイスラエル労働市場へ入ってきたパレスチナ人労働力である。 占領地と共に大量に流入したパレスチナ人はイスラエルで最下層の労働者層を形成した。 人手不足に悩むイスラエルにとって労働者を流入させることは不可避であったにせよ、其のことは下層労働者層に多数を占めるセム系ユダヤ人にとっては脅威であり、其の後のイスラエル国内経済の崩壊とそれにともなう失業率の増大によって、其の脅威は現実のものとして認識された。 此の為、セム系ユダヤ人はリクード党の主張する排外的な民族主義的政策に共感したのであった。  〈中略〉  今日、イスラエル社会の中で、最も強硬な意見を持ち、右派政党の支持基盤となっているのはセム系ユダヤ人なのである。 イスラエルに移住してマジョリティの一員となったとはいえ、生活習慣や外見がアラブ人と大差のないセム系ユダヤ人は、ユダヤ人であることをアシュケナジー系の人々に示す必要からも、ことさら自らのユダヤ性を強調する傾向がある。 此のユダヤ性の強調を最も単純明解に示すのがアラブ人に対する強硬姿勢なのである。

■ ラビン首相暗殺事件
西暦1993年8月20日、イスラエル政府はPLO(パレスチナ解放機構)をパレスチナ人の代表として認め、PLOはイスラエル共和国が国家として平和と安全の内に存在する権利を認め、イスラエル政府とPLOとの間で「オスロ合意」が成立した。 西暦1993年9月13日、「オスロ合意」に基づき、ワシントンD.C.のホワイトハウスにおいて、 イスラエル共和国のラビン首相とPLOのアラファト議長とが「パレスチナ暫定自治協定」に調印し、長年互いに対立してきたラビン首相とアラファト議長とが初めて握手をした。 世界中の人々が此の調印を「歴史的な和解」として歓迎した。 しかし、ユダヤ人側にもパレスチナ人側にも此の調印(和解)を歓迎しない勢力がいた。「妥協はするな。 アラブ人に死を! アメリカの援助はいらない。 ラビンは裏切り者だ」。 連日のようにエルサレムで「パレスチナ暫定自治協定」に反対するデモが起きた。 デモ参加者の大多数は占領地に住むハザール系ユダヤ人入植者で、「キパ」という小さな帽子を頭に着けていた。 デモ参加者の大多数は若者で、銃を持つ人もデモに参加していた。 アラファトと握手したラビンが手を洗っているポスターもあった。 アラファトと握手した為、手が血まみれになったというのだ。「アラファトはテロリストだから、彼の手は血だらけだ」というのである。 デモ隊は松明(たいまつ)をかざし、パレスチナの旗を燃やし、デモを規制する警官には「イスラエルは警察国家」と叫んだ。 首相官邸のそばで大勢の者が逮捕された。 しかし、逮捕された者はすぐ釈放された。 それから2年後の西暦1995年11月4日、ラビン首相が暗殺された。 此の日、ラビン首相はテルアビブで胸部・腹部・背中に3発の銃弾を浴び、意識不明の状態で近くの病院に収容されたが、其の日のうちに死亡した。 其の犯人はセム系ユダヤ青年(25歳の大学生)であった。 其の名をイガル・アミールといった。 彼は逮捕されたとき、警察官に向かって「私は神の命令によって単独で行動した。 後悔はしていない」と言った。 犯人のイガル・アミールは、イエメンから移住した父母を持つセム系ユダヤ人である。 また、彼はユダヤ教右派の中で最も過激なグループの1つ「エヤル」(ユダヤ民族戦闘機関)のメンバーだった。 此のセム系ユダヤ青年からすれば、神が与えてくれた土地を中東和平の為に返還するラビン首相は「神への裏切り者」と映ったのであろう。 此のセム系ユダヤ青年だけが特別にそう感じていたのではない。 軍参謀総長として戦争を勝利に導いてきたラビンが、今度は首相としてパレスチナ人との対立を終わらす為に、占領地(ヨルダン川西岸地区とガザ地区)をパレスチナ自治政府に返還しようとした時、右派のユダヤ人はラビン首相の行為を「ユダヤ人の土地を敵に引き渡す背教的行為」と捉えた。 一方、ラビン首相は、西アジアにおいてイスラエル共和国が生き残る為には、アラブ諸国やパレスチナ人たちとの和平が必要であると考えていた。 『ニューズウィーク』誌(西暦1995年11月22日号)は、此の事件について、次のようにレポートした。「イスラエル首相を暗殺したイガル・アミール(25)は、テルアビブ郊外のきちんとした家庭に育ち、ユダヤ教正統派の学校で教育を受けた。 ここまでは亡き首相の孫娘と同じだ。 ただし、学究肌の若者だったアミールは、宗教的にも政治的にもユダヤ教の戒律を絶対視していた。 アミールを含むラビン首相暗殺事件の容疑者たちは、自分たちこそ本物のユダヤ教徒だと信じていた。 彼らの主張は、イスラエル内外のユダヤ教正統派を中心に、かなりの支持を得ている。 ニューヨークでは先週、アミールの支援者がダビデの星をかたどったボタンを1個5ドルで売り、『真のユダヤの英雄』の弁護費用を集めていた。 イスラエル国内では、様々な形で首相暗殺の責任を問う声が上がった。 ハト派はタカ派の強硬姿勢を槍玉にあげた。 極右勢力は、占領地からの撤退を決めユダヤ人入植者を裏切ったラビンの自業自得だと主張した」。

イギリスBBC放送で「ラビン首相暗殺後のイスラエル」が放映された。 其の中で、未亡人となったラビン夫人は、暗殺事件の起きる数日前からの出来事を次のように述べた。「事件の前の最後の金曜日でした。 私が家へ帰ると、群衆が笑いながら、こう叫んだのです。 『今のうちに笑っていろ。 其のうち裏切り者として裁判にかけてやる。 ムッソリーニと愛人のように、おまえたち夫婦を処刑してやる』と。 次の日の夜、同じ場所で追悼集会が開かれることになりました。 主人は雷に打たれて死んだのではありません。 人間に殺されたのです。 しかも、此の土地で育った人間に殺されたのです。 此の土地には、来る日も来る日も言葉の毒がまき散らされています。 主人のことを裏切り者、殺人者と叫ぶことを繰り返しているうちに、事件の下地が出来上がってしまいました。 彼を殺すことが神の命令だと思い込む人間が出るべくして出たのでした。 絶対に許せません。 許せないと思う理由は、先ほども言った通りです。 彼らは暴力・敵意・憎悪を助長する空気を作ったのです。 それが町の通りから原理主義者の社会にまで広く充満していきました。 そして、ある日、誰かが火を付けたときに空気が反応して、爆発が起きたのです」。

一方、同じテレビ番組のインタビューで、犯人のイガル・アミールの妹は次のように答えていた。「兄は頭のいい人でした。 それは今も変わりません。 兄は時間をかけて十分に考えた末にあの事を起こしたのです。 カッとなってやってしまったとか、そういうことではなく、やらなくてはいけないと確信したからやったのだと思います。 ユダヤ人入植者たちは孤立していて、そこに住み続けることは危険なのです。 しかし、彼らは其の入植地を捨てようとはしません。 命をかけて守っているのです。 兄のイガルは、彼らの行動に共鳴し支援しようとする人間がいるということを示したかったのだと思います。 兄のイガルだけが本当に国を愛するということの意味が分かっていたのだと考えています。 祖国の為なら何でもする、そういう勇気を持っていたのは、結局イガルだけだったのです。 自分が何をしようとしているのか、私の兄は分かっていました」。

暗殺事件から1ヶ月後、イスラエル警察は暗殺事件に関係する数人のラビ(ユダヤ教指導者)を逮捕した。 1人のラビの下に数百人ないし数千人の同調者がいると言われる。 此のように、イスラエル指導部がアラブ諸国やパレスチナ人との和平路線に変更したくても、極右のセム系ユダヤ人勢力が猛烈に抵抗する状況になっている。 現在、イスラエルの極右勢力は、普通の国家を望む穏健派勢力と衝突を繰り返している。 イスラエル国民は占領地を巡って分裂状態にある。 ハザール系ユダヤ人の間ではイスラエル社会への幻滅が急速に広がっている。 此の事はイスラエル国民の分裂状態と無縁ではない。 最近ではイスラエルに愛想をつかし、欧米に移住していく者が急増している。 イスラエルへの移住者は年々減少し、更にアメリカからの移民ユダヤ人は滞在1年で其の4割が再びアメリカに戻ると言われている。 一方、セム系ユダヤ人は言う、「帰れる場所と金を持つ者はよい。 我々はここでしか生きられない」と。

第28章  いろいろな人のシオニズム批判
超正統派ユダヤ教徒は「現在のイスラエル共和国はユダヤ教の本質を逸脱した世俗集団に過ぎない」として、イスラエル共和国を承認しない。 なぜならば、イスラエル共和国は “メシア待望観念” を無視して建国され、しかも政教分離という近代国家の原則を採用しているからだという。 超正統派ユダヤ教徒からすれば、此のようなイスラエル共和国が国家と名乗ること自体、神に対する許しがたい冒涜であるという。 超正統派ユダヤ教徒によれば、メシア(救世主)が出現して初めて真の栄光に満ちたユダヤ国家が誕生するという。 超正統派ユダヤ教徒はメシアの出現を待望してやまず、祈りと戒律を厳守する求道的な生活を送り続けている。

超正統派ユダヤ教徒の政党「ナトレイ・カルタ」は西暦1985年4月4日に次のような声明を発表した。
シオニストの大冒険は不名誉な終わりを迎えようとしている。 最初はシナイ半島だった。 今度はレバノンである。 独立した真のユダヤ教徒にとって、これはまったく驚くことではない。 我々は両親からも教師からも、シオニズムはユダヤ教の敵だと教えられてきた。 シオニストの政治的策動は、一時的には成功するかも知れないが、長い目で見れば、其の命運は尽きているのである。  〈中略〉  シオニズムはユダヤ教とは全く反対のものである。 ユダヤ教は数千年にわたり、シオニズムなしに存続してきた。 シオニズムの指導者は、今でこそホロコーストを大げさに哀しむが、当時の彼らは、『強壮な若いパイオニアだけいればいい。 全ヨーロッパのユダヤ教徒よりパレスチナの1頭の牝牛のほうが大切だ』と言っていたのである。 我々は、シオニストという偽ユダヤ教徒が其の正体を知られるようになること、ユダヤ教徒が真のユダヤ教を心から信じて実践し、過去の栄光を思い、未来を誠実に信じることを望み、祈っている。

ナトレイ・カルタは現在のイスラエル共和国を承認しようとしない。 彼らはイスラエル共和国が成立する際にも断固として反対した。 真のユダヤ国家はメシアと共にしか現れないからだと言う。

超正統派ユダヤ教徒の指導者で、反シオニズムの立場に立つハザール系ユダヤ人モシェ・ヒルシュは西暦1992年に次のような声明を発表した。
敵であるシオニストと私たちの戦いは、妥協の余地のない神学戦争なのである。 ユダヤ人がパレスチナから追放されたのは神の意志によるのであって、ユダヤ人が神から与えられた律法を守らなかった為である。 あらゆる苦難をへて、メシアが出現するまで離散状態は続く。 メシア出現によってのみ、それが終わる。 だから、シオニストが世界中のユダヤ人にパレスチナへ帰ってくるように要求していることは、神を無視することであり、ユダヤ人をいよいよ危険に陥れる “不敬の罪” である。 もし、シオニストが神を無視し続ければ、事は重大である。 パレスチナは地上で最も危険な場所となるだろう。

長老派教会(プロテスタントの一派)の 「旧約聖書学」教授オーバイド・セラーは次のように結論づけている。
パレスチナにある現代のユダヤ国家は聖書預言に基づくものだというシオニストの主張を支持するものは旧約聖書にも新約聖書にも無いということに私の研究者仲間の全員が同意している。 更に、聖書預言というものは、ユダヤ人やシオニストだけではなく全人類に適用されるべきものである。 “勝利” という言葉は聖書の本当の意味としては宗教的・霊的なものであり、敵を征服するとか崩壊させるとかいう意味のものではない。 『新約聖書』を信じるのであれば、もともとそこに住んでいた人々から政治的または軍事的に奪い取ってつくった現代のイスラエルと、キリスト教徒の信仰の “イスラエル” とを混同してはならない。

イギリスの有名な世界的歴史学者アーノルド・トインビー博士は次のように言っている。
確かに聖書の観点から言えば、パレスチナはユダヤ人の土地である。 だから、これをユダヤ人に返すことは自然であるように見える。 しかし、2500年間もアラブの人々が住んできたのだから、彼らからそれを取り上げたのは不自然である。 アラブの人々が2500年間も住んできた土地をアメリカが強引にユダヤ人に戻したことについては納得しかねるものがある。 アメリカがそれだけの情熱を持っているのであれば、アメリカ国内の土地をユダヤ人にやったらよかったではないか。 そうすれば、此のような国際紛争の種は蒔かれないで済んだであろう。
さすがに、トインビー博士は歴史学者らしく「長い歴史の目でみると、アメリカのやったことは間違いであった」と言っている。 アメリカは日本の面積の25倍という広大な土地を持っているのだから、其の一部をユダヤ人にやって、そこに君たちの国を作りたまえと言えば、ユダヤ人は今よりもっと幸せだった。 アラブ人と戦争をしないで済んだし、アメリカ国内にはユダヤ人の友達が沢山いるのだから、さぞ立派なユダヤ国家が出来たであろうというわけだ。 念の為に書いておくが、トインビー博士はユダヤ人ではない。 因みに、イギリスのユダヤ人作家イスラエル・ザングウィルは、テキサス州とオクラホマ州の一部の土地を購入して「ユダヤ州」を作ろうという提案をしていた。

イスラエル・パレスチナ問題に詳しい一橋大学名誉教授の浜林正夫氏も、次のような鋭い意見を述べている。
国連のパレスチナ分割案はあまりにも不公平であった。 そもそも『パレスチナの地をユダヤ人に』という、シオニストの主張を一方的に受け入れたバルフォア宣言の内容を軽はずみに盛り込んだ此の国連決議こそパレスチナ問題を深刻化させる最大の原因であった。 2000年以上前の神話と史実をないまぜにした旧約聖書の記述が、ユダヤ人のパレスチナ居住権を保証する合法的根拠になるはずがない。 もし今、アメリカ先住民(インディアン)がアメリカ人に、昔住んでいたのだから此の土地を返せと言ったら、アメリカ人は土地を返すだろうか。 此の国連決議は、此の頃、アジアやアフリカや中南米諸国を植民地にすることを何とも思わなかった白人たちの間に行き渡っていた横柄な有色人種蔑視の思想に原因があったとしか考えられない。  〈中略〉  イギリスはバルフォア宣言以前に、ウガンダ(東アフリカ)の無人地帯をシオニストに提案して断わられたと言われているが、日本人がブラジルに平和的に移民したように、国連はこうした交渉やシオニストに対する説得をもっと粘り強く行なうべきであったと思う。

インド独立の父マハトマ・ガンジーは、イスラエル・パレスチナ問題の本質を見抜いていた。 ガンジーは1938年11月26日(パレスチナでユダヤ人の大量増加を嫌ったアラブ人による大暴動が続発していた頃)、インドの『ハリジャン』紙に「パレスチナは『アラブ人の土地』であり、ユダヤ人は無抵抗主義でアラブの理解を勝ち取るべき」という趣旨の論文を発表していた。 此のガンジーの鋭い意見を簡単に紹介しておく。
イギリスがイギリス人に属するように、また、フランスがフランス人に属するように、パレスチナはアラブ人に属するのです。 アラブ人にユダヤ人を押し付けることは間違いであり、非人道的行為です。 今日パレスチナで起きていることは、いかなる倫理規定によっても、正当化されることはできません。 委任統治は、先の戦争での制裁以外のなにものでもないのです。 誇り高いアラブの人口を減らし、そこにユダヤ人を入植させることにより、パレスチナを部分的に、あるいは完全にユダヤの国に作り変えるということはまさに、人道上の犯罪でしょう。  〈中略〉  ユダヤ人のやり方が間違っていることは疑う余地がありません。 聖書の概念でのパレスチナは地勢的なものではありません。 それは彼らの心の中にあるのです。 しかし、もし、彼らがパレスチナの地は自分の所有地だと、あてにしているのであれば、イギリスの軍事力のバックアップでパレスチナに入るのは間違いです。 宗教的行為はいかなる場合でも、武力のもとに実行することはできないのです。 彼らはアラブ人の好意によってのみパレスチナに住みつくことができるのです。 ユダヤ人はアラブ人の心を変えようと努めるべきです。 ユダヤ人の心を支配している同じ神がアラブ人の心をも支配しているのですから。 ユダヤ人はほんの少しの武力も行使せずに非暴力不服従運動をアラブ人の前で展開すべきです。 たとえ、それによってアラブ人に撃たれるか、死海の中に投げこまれたとしても。 そうすれば、彼らの宗教的な祈願は世界中の人々に受け入れられるでしょう。 英国が武力行使しないようにするだけで、アラブ人を説得する方法は山ほど出て来ます。 今のままの状態であれば、ユダヤ人は、なにも悪いことをしていない民族を略奪したイギリス人に同調していることになるのです。 私はアラブ人の行き過ぎた行為を弁護しているわけではありません。 アラブ人も、こうしたユダヤ人の不当な侵略行為に対し、非暴力主義の抵抗を選択すれば良かったと思っています。 しかし、誰もが納得の行く善悪の基準に照らしてみれば、アラブ人の抵抗運動の方に勝ち目があると言えるでしょう。 『自分達は選ばれた民族である』と主張しているユダヤ人に、それが正しい主張であるかどうかを、非暴力主義で検証させてはどうでしょうか。 どんな国でも其の国を愛すことによって、それが自分達の祖国になるのです。 でも、それは決して侵略行為では実現しません。 パレスチナもそうです。

ユダヤ人科学者アルバート・アインシュタインも1938年に次のような発言をしている。
私の意見では、ユダヤ国家を作るよりも、平和な共同生活についてアラブ人の同意を得る方が道理にかなっている。 私がユダヤ教の本質的な特性として理解する良識は、控え目にみても、国境や武器や世俗的政権の計画を持つ国家という概念とは相容れない。 私は、国家の発展の論理によって、仲間内の狭い国家主義によって、ユダヤ教が内的に受ける被害を恐れる。 我々はマカベア家(紀元前2世紀のハスモン朝のこと)時代のユダヤ教徒とは同じではない。 再び政治的な概念としての国民に復帰することは、我々の預言者の創意の賜物である共同体の精神的環境から離れるのと同じことである。 (『わが時代のユダヤ教の堕落』より)
アインシュタイン博士は権力や権威的なものは嫌いで、第2代イスラエル大統領への就任を辞退している。 彼に拡張主義の考えはなく、パレスチナ人と共存できると信じていた。

ユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツも著書『私のなかのユダヤ人』(三一書房)の中で次のように述べている。
イスラエルの状況を知るにつれ、私は猜疑心の固まりになり、何故ユダヤ人がという思いが絶望感と共に広がったが、たった一つ確信をもって言えることがあるように感じた。 それは『選ばれた民』とか『ユダヤ人の純血性』を信じる時代は終わったのだということだった。 そして、其のうち、これらの言葉こそファシズムの常套語だったと知るようになった。 ユダヤ人は人種的民族的存在であると考えた人々が歴史上2種類いた。 1つはヒトラーを頂点とする反ユダヤ主義者、もう1つはシオニストである。  〈中略〉  ナチスは、同化を求めた人にさえ、其の人々の死と引き換えにユダヤ民族意識を与えた。 そして、イスラエルは私たちにユダヤ民族意識を与えようとしている。 今度はパレスチナ人の犠牲の上に、である。  〈中略〉  ヒトラーが権力を握る前、ドイツのユダヤ人社会に最大の影響力を持っていたのは「ユダヤ教徒ドイツ市民の中央協会」だった。 これはドイツに同化することによって問題解決をはかろうという党である。  〈中略〉  一切の妥協を拒絶するファシズムの姿が明確になるにつれ、同化主義派の力は決定的に弱まり、シオニズムの力が増していった。 ユダヤ難民の引き受けを渋り、ユダヤ人問題を自国内で解決せずにアラブの国に押し付けたヨーロッパ諸国。 石油産出地帯に打ち込んだ楔としてイスラエル国を位置付けようとした欧米列強。 解放の具体的プロセスを提出することに失敗し、ホロコーストを経たあとのユダヤ人の状況の変化を把握しきれなかったソ連。 これら全てがシオニズムを強めた。 ユダヤ人をドイツの外へ出すという点ではシオニストとナチスの目的は一致していたので、シオニストはナチスと交渉し、自分たちをユダヤ側の正統な代表と認知するようにと働きかけていた。

1961年にアメリカからイスラエルに移住したジャック・バーンスタインというユダヤ人は、イスラエルで生活を始めた時から、何か否定できない大きな違和感・失望感を抱いたという。 彼がイスラエルで見出だした真実は、イスラエルが「迫害されたユダヤ人の為の避難地」ではなく、狂信的なシオニズムの警察国家であり、威圧的な人種差別主義者により統治されている国家だということであるという。 落胆と失望で悩んだ彼は6年半の滞在の後、アメリカに戻り(1967年12月)、『人種差別主義的マルクス主義的イスラエルにおける、一アメリカ・ユダヤ人の生活』(1984年)、『中東に突き刺さったトゲ、さらばイスラエル』(1985年)という告発書を出版した。 彼は「アメリカの福祉と平和の為に、アメリカはイスラエルの無神論的マルクス主義的指導者たちを支持することを中止しなければならない。 さもなければ、更に破滅的な結果がアメリカに襲いかかるだろう」と主張する。 現在、彼は、シオニストたちがアメリカの奴隷化を企てているという考えから、「親アメリカ・ユダヤ協会」というアメリカを愛する人達による組織を創設し、反シオニズム運動を展開している。

現在、パレスチナ人への支援活動をしているアメリカのユダヤ人女性バーバラ・ルーバンも、かつては熱烈なシオニストであったという。 イスラエルが周囲のアラブ諸国の大軍をほんの6日で打ち破った第三次中東戦争(1967年)は彼女を狂喜させたという。 また、1982年、イスラエル軍がレバノンに侵攻し、爆撃や虐殺で多数のアラブ人が殺戮された事件も、当時のルーバンにとってユダヤ人としての良心を痛める出来事ではなかったという。 彼女は「アウシュヴィッツに代表されるユダヤ人迫害はユダヤ人には二度と起きてはならない。 其の為には、ユダヤ国家イスラエルは強大であり続けなければならない。 レバノン侵攻も其の為には必要だった」というシオニズム特有の論理に染まっていた。 それは、自分の成長の過程において最も重要な影響を与えた両親から教えられたことだったから、それが間違っているかも知れないと疑うことなど、当時の彼女には考えも及ばなかったという。 そんなルーバンの転機となったのは1984年、大統領候補として立ったジェシー・ジャクソンとの出会いだったという。 ジェシー・ジャクソンとの出会いが彼女のイスラエル観とパレスチナ人観を180度変えた。 ジェシー・ジャクソンの選挙運動に参加するまで、彼女は一度もパレスチナ人と出会ったことがなかった。 彼女の描く「パレスチナ人」とは、「ユダヤ人の赤ん坊を殺戮するテロリスト、それを代表するアラファト」のイメージであった。 だが、選挙運動を通して知り合ったパレスチナ人はそんな「残忍な怪物」ではなく、ユダヤ人と同じように教養があり、人間性豊かな人々であった。 ルーバンは1987年にイスラエル占領地の視察団の一員としてイスラエルを訪問する機会を得た。 彼女は自分の目でパレスチナ難民の現実をまざまざと見た。「信じられなかった。 ただ、信じられない出来事だった」と、ルーバンは語る。 彼女がパレスチナ人の家に招かれて食事をしている時、突然、イスラエル軍のヘリコプターが上空を旋回して、催涙弾を投下したという。 そして、村人が逃げまどう間、実弾を地上に向けて乱射し、催涙ガスの充満で人々は家の中にいることも出来ず、かと言って、銃撃される恐れで外に出ることも出来ず、おろおろするばかりであったという。 彼女は目の前で12歳の少年が意識を失う程にイスラエル兵に殴られるのを目撃したという。 其の現場の写真を撮った瞬間、今度は兵士たちが彼女たち視察団の所へ走り寄ってきてカメラを強奪し、フィルムを抜き取ってしまった。 此の時、彼女は蛮行を働く兵士たちをまじまじと見て、「これが、かつて誇りに思ったイスラエル兵の素顔なのか」と、胸が潰れる思いがしたという。 また、占領地のあちこちで、片目を奪われた赤ん坊や片腕をなくした少年を抱く母親、息子を投獄された母親、子供や夫を撃ち殺された母親などに接するに従い、1人の母親である彼女の中に抑えがたい怒りがこみ上げてきたという。 帰国後、ルーバンは1人の人間としての良心に突き動かされて、活動を開始した。 傷ついたパレスチナ人の子供たちの医療活動を支援する為に、彼女は個人や団体組織に寄金を呼びかけ、「中東の子供たちの為の同盟」を設立した。 此の理事には下院議員や大学教授、さらに作家や映画俳優が名を連ねた。 此の「中東の子供たちの為の同盟」の共同推進者となったハワード・レビンもユダヤ人である。 彼はサンフランシスコ市のある新聞社の記者であった。「中東の子供たちの為の同盟」設立の記者会見に取材にきたハワード・レビンはルーバンの主張と行動に共鳴し、「私はユダヤ人だが、イスラエルのやり方、シオニズムの考え方にうんざりしていた。 私もユダヤ人の1人として、何かをやらなければと思っていたところだったんです」と、ルーバンに協力を申し入れ、記者の職を投げ出し、此の運動に飛び込んだ。 イスラエル政府の政策に反対する態度を明らかにしたルーバンに、ユダヤ組織が噛み付いてきた。 ユダヤ人の圧力団体「AIPAC」がサンフランシスコ市で大統領候補者や其の選挙運動員らを招いてパーティーを開いた。 ルーバンは此のパーティーに参加した。 AIPACはワシントンで最強の圧力団体であり、イスラエルに有利な動きを促進し、不利な動きを潰す為に、議会や政府に強力に働きかけており、実質的にはイスラエルの「第2外務省」の役を演じている。 此のパーティーで演壇に立った候補者たちは、自分がいかにイスラエルを支持してきたかを訴えた。 それはユダヤ人から選挙資金と票を引き出す為である。 一方、アメリカが抱える大きな社会問題である “ホームレス” の問題について語る者はほとんどいなかった。 ジェシー・ジャクソンの選挙運動員として此のパーティーに参加したルーバンは、其の席で、社会の底辺で生きる民衆の救援の為に活動するジェシー・ジャクソンについて語り、また、パレスチナ人を抑圧するイスラエルの政策を非難した。 演壇から降りた彼女は親イスラエルのユダヤ人たちに囲まれた。「ユダヤ人なのになぜイスラエルの政策に反対するのだ。 お前は “自己嫌悪するユダヤ人” だ」と、彼らはルーバンを口汚く罵った。 ルーバンは次のように語る。「シオニストはイスラエルに対する不満や非難を、ユダヤ人の間だけにとどめておきたいんです。 もし公にしたら、反ユダヤ主義が堰を切ったように吹き出し、それが全世界に蔓延し、イスラエルが破滅してしまうと考えているんです。 しかし、ユダヤ人が自ら非難の声を上げなければ、むしろイスラエルはさらに孤立し、本当の反ユダヤ主義が世界中に広がってしまう。 これこそがもっと危険なことなんです。 ユダヤ人の沈黙がそれを許してしまう。 私が最も嫌悪するのは、ユダヤ組織が『我々ユダヤ人はイスラエルを守らなくてはならない』という名目で、イスラエル非難の声を封じてしまうことなのです」。

第29章  ノーマン・フィンケルシュタインのシオニズム批判
原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd100.html
2000年6月に出版された『ホロコースト産業』という本は国際的な反響を呼び起こし、ブラジル・ベルギー・オランダ・オーストラリア・ドイツ・スイスなど、多くの国でベストセラーリストに入った。 フランスの『ル・モンド』紙は2ページを費やして、それを批評した。 此の本はドイツでは発売後2週間で13万部も売れた。 しかし、此の本はアメリカでは主要メディアから完全に黙殺され続け、売り上げ部数はわずか1万2000部にとどまった。 此の本の著者であるノーマン・フィンケルシュタインはニューヨーク市立大学で教鞭をとる反シオニズムのユダヤ人社会学者である。 フィンケルシュタインの両親はヨーロッパからの移民で、ワルシャワ・ゲットーと強制収容所の生き残りであり、彼によれば、両親以外の親族は、父方も母方も全てナチスによって殺されたという。 此の『ホロコースト産業』という本で、著者フィンケルシュタインは、アメリカのユダヤ人・シオニストが私利私欲の為に「ホロコースト」をイデオロギー的・金銭的に利用していると痛烈に告発している。 ここに言う「ホロコースト」とは第二次世界大戦中にナチス・ドイツがユダヤ人に対して組織的に行なったとされる大量殺害「ザ・ホロコースト」のことである。 フィンケルシュタインによれば、「ホロコースト産業」に従事するシオニストたちは「ホロコースト」を脅迫の道具に使い、被害者の数を水増しするなどして多額の補償金を得ている上、それが一般のユダヤ人被害者の手に十分に渡らず、団体幹部たちの高額な給与やイスラエルの入植政策などに使われているという。 フィンケルシュタインは次のように言う。「親たちの苦しみ(ホロコースト体験)が後ろ暗い目的の為に利用されるのを許すわけにはいかない。 ホロコースト産業の今のキャンペーンは『困窮するホロコースト犠牲者』の名の下にヨーロッパ諸国から金をむしり取ることを目的にしており、彼らの道徳レベルはモンテカルロのカジノの水準にまで低下してしまっている」。 フィンケルシュタインは「ホロコースト産業」に従事するシオニストたちを騙し屋・宣伝屋・たかり屋・ゆすり屋と呼び、「ホロコーストのあくどい便乗者どもは公的に告発・断罪されるべきだ」とまで言っている。 此の本には様々なシオニスト組織の名前が登場している。 例えば、「世界ユダヤ人会議(WJC)」、「ユダヤ名誉毀損防止連盟(ADL)」、「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」、「世界ユダヤ人損害賠償組織(WJRO)」など。 また、此の本ではノーベル平和賞受賞者のユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルや、ハーバード大学の 「ホロコースト」講師であるユダヤ人ダニエル・ゴールドハーゲンも俎上に載せられている。
此の本の各章の見出しを次に挙げる。 此の見出しを見るだけで、此の本に書かれている事柄が大雑把に分かるだろう。
◆ イデオロギー兵器としてのザ・ホロコースト
◆ 戦後のある時期までホロコーストは注意を払われなかった
◆ 第三次中東戦争(1967年)が全てを変えた
◆ アメリカで “突然流行” し組織化されていったホロコーストの話題
◆ イスラエルが資産になった途端にシオニストに生まれ変わったユダヤ人
◆ ユダヤ人の選民意識を強化したザ・ホロコースト
◆ アラブにナチズムの汚名を着せようとするシオニスト
◆ でっち上げられたホロコースト否定論というお化け
◆ 年々水増しされる「生存するホロコースト生還者」の数
◆ スイスの次はドイツに対するゆすりが始まった
◆ 和解金のうちわずかしかホロコースト生還者・相続者には支払われない
◆ 生還者たちが死んでいくなかで更に多くの金がホロコースト産業の金庫に流れ込む
◆ 民主党の大統領選挙資金の約半分は「ユダヤ・マネー」
◆ 歴史的事実を発見する為ではなく、金が目当て
◆ スイスの銀行による和解案受け入れは正義ではなくゆすりの勝利だ
◆ なぜホロコースト産業はフランスの銀行には比較的好意的なのか
◆ ドイツは50年代以降、ホロコースト生還者に600億ドル以上支払ってきた
◆ 貪欲なホロコースト産業の要求はとどまるところを知らない
◆ 彼らの主張──ナチスの大虐殺を忘れるな、ただし他の大虐殺は全て忘れよ
◆ これまでアメリカは「過去の責任」について自身と直面したことがない
◆ アメリカ政府は過去115年間にわたり1372億ドルもだまし取ってきた

フィンケルシュタインは次のように述べている。「戦後のある時期までホロコーストは注意を払われなかった。 第二次世界大戦の終結から1960年代の終わりまで、此のテーマを取り上げた書籍や映画はほんのわずかだったし、此の問題を扱う講座のある大学はアメリカの中で一つだけだった。 アメリカにはホロコーストを記念するものは一つもなかったし、そればかりか、主だったユダヤ人組織はそういった記念物に反対していた」。 では、いつ頃から「ホロコースト」の話題が突然流行し、現在のような「ホロコースト産業」が組織化されていったのか。 此の件について、イギリスの『タイムズ』紙のブライアン・アップルヤードは此の本の書評の中で次のように解説している。「フィンケルシュタインによれば、ホロコースト産業が発生したのは1967年6月の第三次中東戦争の直後だったという。 此の戦争が終わるまでアメリカ社会では『ホロコースト』も『イスラエル』もほとんど話題には上がっていなかった。 ホロコースト産業はアメリカの戦略上の都合から生み出されたのである。 即ち、『ホロコースト』はアメリカとイスラエルとの軍事同盟化を正当化する上で好都合の道徳感情を誘発する刺激として利用できた。 アメリカの価値観を守る “盾” としてイスラエルを利用できた。 それに、此の時期にはベトナム戦争でアメリカは敗北に向かい始めていた。 だから、アメリカ自身が出ていくよりも、アメリカの価値観を主張する上でイスラエルを利用するほうが効果的だったのである。 在米ユダヤ人エリートはイスラエルの大義を溺愛し、『ホロコーストの悲劇』という現代的イメージを捏造したのである。 フィンケルシュタインは、在米ユダヤ人エリートたちが如何に権力を持っているかを強調する。 彼によれば、ユダヤ人の収入は非ユダヤ人のほぼ2倍であるし、アメリカで最も富裕な40人のうち16人はユダヤ人だ。 自然科学分野と経済学分野のノーベル賞受賞者の40%、主要な大学の教授の20%、ニューヨークとワシントンの法律事務所の経営者の40%はユダヤ人である」。
参考   1967年6月の第三次中東戦争でイスラエル軍は圧倒的な強さを見せつけた。 イスラエル軍はエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に奇襲攻撃を行なった。 此の奇襲攻撃により、アラブ諸国は410機の軍用航空機・空港・レーダーサイトなどを失い、アラブ諸国の航空戦力は壊滅した。 エジプト・シリア・ヨルダンの三国はイスラエル軍の戦死者730人の20倍を越える1万5000人の人的被害を出し、戦車や装甲車などの大量の兵器が奪取された。 此の戦争によってイスラエルはヨルダン川西岸地区・ガザ地区・シナイ半島・ゴラン高原を占領した。

フィンケルシュタインは次のように述べている。「ホロコースト産業がホロコースト被害者の数字を膨らませたがる理由は明白だ。 生存するホロコースト被害者が多ければ多いほど、ドイツとの和解金が大きくなるのである。 スイスとドイツに対するゆすりは序曲にすぎなかった。 最大の山場は東ヨーロッパに対するゆすりだった。 ソビエト・ブロックの崩壊により、かつてヨーロッパ・ユダヤ人の中心地域だったところに魅惑的な展望が開けてきた。 『困窮するホロコースト被害者』という殊勝気なマントに身を包み、ホロコースト産業は貧しい国々からさらに数十億ドルをむしり取ろうとしている。 やりたい放題に目的を追求することで、ホロコースト産業はヨーロッパで最も反ユダヤ主義を高める存在となっている。 『請求ユダヤ人会議』が発行する『ホロコースト生還者の為の補償と損害賠償の手引き』には、数十におよぶ関連組織の名前が並んでいる。 巨大な金持ち官僚機構が生まれているのだ。 ヨーロッパのほぼ全ての国で、保険会社・銀行・美術館・民間企業・大小の農家がホロコースト産業の監視下にある。 しかし、当の困窮するホロコースト被害者は、自分たちの為に活動しているはずのホロコースト産業について、土地の接収を実行しているだけだと不平をもらしている。 『請求ユダヤ人会議』に対して訴訟を起こした者も多い。 終わってみれば、ホロコースト産業こそが『人類史上最大の強奪産業』だったということになるだろう」。

ホロコースト産業に従事するシオニストたちは「ザ・ホロコーストは人類史上に類を見ない大事件だから、他の出来事と比較してはならない」という立場を貫いている。 これに対してフィンケルシュタインは次のように鋭く批判している。「すべての歴史的事件には、他の事件とは違う固有の特徴があり、共通する点もある。 概して、ザ・ホロコーストについては、此の事件を他の出来事と全く違う範疇に位置づけようとして、固有の特徴ばかりが取り上げられている」。 そして、フィンケルシュタインはノーベル平和賞受賞者のユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルの名前を出して次のように批判している。「ピーター・ノヴィックは、ザ・ホロコーストは合理的には理解不能であるが故に唯一別格であり、唯一別格であるが故に合理的には理解不能であるというシオニストの主張を『ザ・ホロコーストの神聖化』と揶揄したが、此の神秘化を誰よりも盛んに行なっているのがエリ・ヴィーゼルだ。 エリ・ヴィーゼルにとってザ・ホロコーストは事実上の神秘宗教であるというピーター・ノヴィックの見解は正しい。  〈中略〉  エリ・ヴィーゼルは、通常2万5000ドルの講演料をもらい、運転手付きのリムジンで送り迎えを受けながら、『神秘は沈黙の中にある』と語っている。 ザ・ホロコーストを合理的に理解することは、エリ・ヴィーゼルにとっては『ユダヤ人の歴史に対する全面的裏切り』である。 なぜなら、ザ・ホロコーストの合理的理解によってザ・ホロコーストの唯一別格性と神秘性とが否定されるからだ。 更に、ザ・ホロコーストをそれ以外の苦しみと比較することも、エリ・ヴィーゼルにとっては『ユダヤ人の歴史に対する全面的裏切り』である」。

フィンケルシュタインはエリ・ヴィーゼルを次のように批判する。「『アウシュヴィッツとヒロシマは20世紀の2つのホロコーストだ』と躊躇なく発言したイスラエルの元首相シモン・ペレスに対して、エリ・ヴィーゼルは『言ってはならないことを言った』と非難している。 エリ・ヴィーゼルお気に入りの決め文句は『ザ・ホロコーストの普遍性は其の唯一別格性にある』だ。 しかし、比較も理解もできない唯一別格のザ・ホロコーストが、どうして普遍性を持つと言えるのだろうか。 ザ・ホロコーストの唯一別格性という主張の根底にはザ・ホロコーストは唯一別格の悪であるという考えがある。 それ以外の苦しみは、どれほど恐ろしいものであっても決して比較にならないという考えがある。  〈中略〉  ザ・ホロコーストの唯一別格性という主張の根底にはユダヤ人の唯一別格性という考えがある。 言い換えれば、ザ・ホロコーストが唯一別格なのはユダヤ人が唯一別格だからだというわけだ。 そこで、米国ユダヤ神学校のイスマール・ショルシュ総長はザ・ホロコーストの唯一別格性という主張を『唾棄すべき世俗版選民意識』だと断言している。 一方、エリ・ヴィーゼルは、ザ・ホロコーストの唯一別格性と同じく、ユダヤ人の唯一別格性についても熱烈で、『我々は全てにおいて他民族と違う。 ユダヤ人は存在論的に例外的だ』と言っている」。

フィンケルシュタインは次のように述べている。「ノヴィックは、『ザ・ホロコーストはアメリカの記憶である』と主張することは道徳的逃避であるとも述べている。 それは、アメリカ人が過去・現在・未来と直面する際に、本当に自分たちのものである責任を回避することにつながるからである。 ノヴィックの此の指摘は重要だ。 自分を見つめるより他人の犯罪を非難する方がずっと容易だ。 しかし、それはまた、意志さえあれば、ナチスの経験から自分たちについて多くを学べるということでもある。 イギリス系白人が北アメリカ大陸を支配することは神の意志だとした19世紀アメリカ人の考え方は、ほとんど全ての点でヒトラーの生活圏政策に先鞭を着けるものだった。 事実、ヒトラーの東方征服はアメリカの西部征服をモデルとしていた。 また、今世紀の前半には、アメリカの大半の州が断種法を制定し、何万人ものアメリカ人を本人の意に反して断種したが、ナチスは自国で断種法を制定する際に、明確にアメリカの先例を引き合いに出している。 更に、悪名高い1935年のニュルンベルク法は、ユダヤ人から参政権を奪い、ユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止したが、同様にアメリカ南部の黒人も法的権利を奪われ、戦前のドイツをはるかに上回る大衆暴力の標的にされて、しかも、それが黙認されていた」。

フィンケルシュタインは次のように述べている。「アメリカ合衆国は、原住民から丸ごとだまし取った土地に築かれたものだし、アメリカ産業は綿産業での数世紀におよぶアフリカ系アメリカ人の無賃労働を燃料に発展したものだ」。 そして、彼は「なぜアメリカの首都に政府運営のホロコースト博物館があるのか」と問いかけて、次のように述べている。「年に一度のホロコースト記念日は全米規模のイベントだ。 50州それぞれの主催するホロコースト記念式典の多くが州議会の議事堂で行なわれる。 ホロコースト組織協会(AHO)には、合衆国で100以上のホロコースト機関が名を連ね、アメリカを見渡せば、7つの大きなホロコースト博物館が点在している。 そして、此の記念事業の中心となるのが、ワシントンにある『合衆国ホロコースト記念博物館』である。 第一の疑問は、なぜ此の国では首都にまで、連邦政府が資金を出して運営するホロコースト博物館があるのかということだ。 連邦議会議事堂からリンカーン記念堂まで、ワシントン最大の通りである『ザ・モール』がまっすぐに伸びている。 そこに此の博物館があって、しかもアメリカ史上の犯罪を記念する博物館が一つもないというのは大きな矛盾だ。 想像してほしい。 もし、ドイツが、アメリカの奴隷制やアメリカ原住民の殲滅を記念する国立博物館をベルリンに作ったら、偽善だとして轟々たる非難がアメリカ中に沸き起こるはずだ。  〈中略〉  同博物館の展示内容をめぐっては様々な政治問題が顔を出している。 ヨーロッパの反ユダヤ主義については、キリスト教徒の選挙民を刺激しないように、キリスト教的な背景を抑えてある。 アメリカが戦前に実施していた差別的な移民割り当てについても扱いを軽くし、ナチス政権が作った強制収容所の解放におけるアメリカの役割を誇張しておきながら、戦争終結時にアメリカがナチス戦犯を大規模に雇用したことについては黙っている。 ホロコースト博物館の全体を支配するメッセージは、我々は此のような邪悪な罪を犯すどころか想像さえできないというものだ。 此のホロコースト博物館は、ユダヤ人の生還者が命からがらパレスチナに足を踏み入れる場面で終わる。 それによって、イスラエル国を建てることが『ナチズムヘの正しい回答』であるというシオニズムの理念を伝えようとしているのである」。

第二次世界大戦中、ナチス政権によって強制収容所に収容されたのはユダヤ人だけではない。 ナチス政権はジプシー(ロマ)をも迫害した。 1943年春以降、ナチス政権の支配圏となった12ヶ国のジプシーが「ジプシー収容所」へ続々と連行され収容された。 フィンケルシュタインは此のジプシー問題にも触れながら、次のように述べている。「ホロコースト博物館という策略の核心は、誰の為に記念するのかというところにある。 ザ・ホロコーストの犠牲者はユダヤ人だけなのか、ナチスの迫害によって殺された者はすべて犠牲者として数えるのか。 ワシントンのホロコースト博物館が計画段階にあったときは、ヤド・ヴァシェム(イスラエル国立のホロコースト記念館)のイェフダ・バウアーとエリ・ヴィーゼルが、ユダヤ人だけを記念せよとする立場の急先鋒だった。 そして、此の主張に従って、ワシントンのホロコースト博物館は作られた。 『ホロコースト時代について誰もが認める専門家』として判断を任されたエリ・ヴィーゼルは、ユダヤ人が最初の犠牲者であると強調した上で、『そして、いつものように、ユダヤ人だけでは済まなかった』と言った。 しかし、政治的に最初に犠牲となったのはユダヤ人ではなく共産主義者だったし、大量殺人の最初の犠牲者はユダヤ人ではなく障害者だったし、ジプシーの大量殺害もあった。 ナチスは50万人ものジプシーを組織的に殺害した。 これは比率で言えば、ユダヤ人殺害にほぼ匹敵する犠牲者数である。 イェフダ・バウアーなどのホロコースト・ライターは、ジプシー殺害はユダヤ人への残虐な攻撃とは違うと書いているが、ヘンリー・フリードランダーやラウル・ヒルバーグといった優れたホロコースト歴史家は、同じだったと主張している。 ホロコースト博物館側がジプシーの大量殺害を取り上げなかったことについては、さまざまな思惑が見え隠れする。 第一は、彼らはジプシーの死とユダヤ人の死を並べて考えたくなかったということだ。 例えば、合衆国ホロコースト記念協議会の専務理事であるラビ・シーモア・シーゲルは、ジプシー代表を呼ぶなど『馬鹿げたこと』だと嘲笑し、『もし、ジプシー民族というものが存在するならば、何らかの認識または認知があるはずだ』と、ジプシーの存在自体に疑問を呈した。  〈中略〉  第二は、ジプシーの大量殺害を承認すれば、ザ・ホロコーストの販売権を独占できなくなり、それに伴ってユダヤ人の『道徳的資本』も失われるからだ。 第三は、もし、ナチスがユダヤ人と同じようにジプシーを迫害したということになれば、一千年にわたるキリスト教徒のユダヤ人憎悪が最高潮に達したのがザ・ホロコーストであるという主張が強さを失ってしまうからである。 ワシントンのホロコースト博物館の常設展示では、ナチズムによる非ユダヤ人犠牲者については形ばかりの認識しかなされていない。  〈中略〉  イスラエルが1996年にレバノンへ凄まじい攻撃を仕掛け、カーナで100人以上の市民を虐殺したとき、『ハアレツ』紙のコラムニストであるアリ・シャヴイットは言った、『イスラエルは何をしても大丈夫だ。 われわれにはADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)とヤド・ヴァシェムとホロコースト博物館がついている』と」。

第30章  シオニズムの自己中心性、イスラエル・パレスチナ問題の難しさ
■ 東欧ハザール系ユダヤ人シオニストの主張の “まやかし”
東欧ハザール系ユダヤ人シオニストや、イスラエル共和国に居住する東欧ハザール系ユダヤ人の多くや、イスラエル軍が占領した土地に入植した東欧ハザール系ユダヤ人は、自分たちがユダヤ教聖典の民であることを強調し、「パレスチナの土地はユダヤ人のものである。 其のことはユダヤ教聖典にしっかり書かれているのだから、誰も文句を言うな」と主張する。 しかし、ユダヤ教聖典によれば、ハザール系ユダヤ人はノアの長男セムの遠い子孫のアブラハムの孫ヤコブの子孫(セム系ユダヤ人、正統ユダヤ人)ではなく、ノアの三男ヤペテの子孫である。 それをもって、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストや、イスラエル共和国に居住する東欧ハザール系ユダヤ人の多くや、イスラエル軍が占領した土地に入植した東欧ハザール系ユダヤ人は、自分たちがユダヤ教聖典の民であると主張しているのであろうか。 彼らがユダヤ教聖典の民であるとしても、彼らは血統的に本当のユダヤ人(正統ユダヤ人)ではない。 彼らはセム系ユダヤ人とは別系統のヤペテ系人種である。 彼らは正統ユダヤ人に成り済ましている。

■ セム系ユダヤ人シオニストの主張の “馬鹿さ加減”
セム系ユダヤ人シオニストは「パレスチナは神ヤハウェがアブラハムの子孫にだけ与えたものである。 従って、パレスチナの土地はセム系ユダヤ人のものである。 其のことはユダヤ教聖典にしっかり書かれているのだから、誰も文句を言うな」と思っているのだろう。 セム系ユダヤ人としては、そう思うのが普通である。 しかし、此の思いが主張となった場合、其の主張は、此の地球上にユダヤ教徒とキリスト教徒とイスラム教徒(此の3教徒はユダヤ教聖典を自分たちの聖典と見なしている)以外の人間が存在しない場合にだけ通用する。 此の地球上にはユダヤ教聖典を自分たちの聖典と見なしておらず、其の意味でユダヤ教聖典に何の権威も認めていない人間が36億人もいる。 これらユダヤ教聖典を自分たちの聖典と見なしていない人間から見れば、「パレスチナは神ヤハウェがアブラハムの子孫にだけ与えたものである。 従って、パレスチナの土地はセム系ユダヤ人のものである。 其のことはユダヤ教聖典にしっかり書かれているのだから、誰も文句を言うな」という主張は馬鹿げている。

■ イスラエル・パレスチナ問題の難しさ
イスラエル・パレスチナ問題と言うと、短絡的に「ユダヤ人 VS アラブ人」という民族的対立が持ち出されがちである。 ユダヤ人とアラブ人とは大昔から宿命的な敵対関係にあったと説く人がいるが、それは正しくない。 ユダヤ教聖典によれば、アラブ人はアブラハムの長男イスマエルの子孫である。 そういうこともあって、アラブ人とセム系ユダヤ人とは共に「アブラハムの血族(セム系民族)」として昔から仲が良かった。

イギリス政府は第一次世界大戦中の西暦1917年にバルフォア宣言を出し、ユダヤ人の民族的ホームをパレスチナに作ることを許した。 パレスチナを支配していたオスマン帝国が第一次世界大戦で敗北したことで、イギリス政府はオスマン帝国に代わって西暦1918年にパレスチナの占領統治を始め、西暦1920年にパレスチナの植民統治を始めた。 ロスチャイルド一族の資金援助の下で、東ヨーロッパのハザール系ユダヤ人がパレスチナに移住・入植するようになったのである。 東ヨーロッパからパレスチナに移住・入植したハザール系ユダヤ人の累計数は年々大きく増え続けた。 そして、アラブ人とパレスチナに移住・入植した東欧ハザール系ユダヤ人との対立が激しくなった。「外国からのユダヤ人が来るまでは、お互い行ったり来たりしながら仲良く暮らしていたものです」という言葉は、かつてパレスチナに住んでいたアラブ人がよく口にした言葉である。 “外国からのユダヤ人” というのは、東ヨーロッパからやって来たハザール系ユダヤ人を指す。 東欧ハザール系ユダヤ人シオニストとロスチャイルド一族の資金援助の下で強引に推し進められた入植政策によって、パレスチナに住み続けてきたアラブ人の土地が奪われていった。 其の為、パレスチナに住み続けてきたアラブ人の抵抗運動は死にもの狂いのテロリズムにならざるを得なかった。 もし、東欧ハザール系ユダヤ人がパレスチナに勝手に入り込んでユダヤ国家を造るということがなかったら、アラブ人と土着のセム系ユダヤ人は何事もなく平和に暮らしていただろう。

現在も、イスラエル政府は積極的な入植政策を行なっており、ソ連が崩壊し始めた西暦1989年以降、ソ連と其の後のロシアから80万人のハザール系ユダヤ人を入植者として呼び寄せ、占領しているヨルダン川西岸地区に入植者の為の鉄筋コンクリート造りの頑丈な住宅を建設し続けており、イスラエル・パレスチナ問題を一層解決困難な状況に導いている。

シオニズムの真相に触れようとすると、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストは “反ユダヤ主義” という常套句を口にして非難する。 彼らは正統ユダヤ人ではないのに、正統ユダヤ人だと自称し、アブラハム一族を汚し続けている。 『新約聖書』の「ヨハネ黙示録 第2章」には次のような一文がある。「ユダヤ人ではないのに、ユダヤ人だと自称し、サタンの会堂に集まる者……」。 これは東欧ハザール系ユダヤ人シオニストのことを指摘しているのであろうか。

世界中のユダヤ人の数は1350万人で、其のうちの約4割580万人がアメリカに居住している。 此の数はイスラエル共和国のユダヤ人口460万人を大きく上回っている。 アメリカのユダヤ人たちは、西暦1948年から1952年までのイスラエル建国にとって最も大切な時期に僅か4000人しかイスラエルに移住しなかったという。 アメリカには東欧ハザール系ユダヤ人シオニストが沢山いる。 シオニスト団体の中で最も強力に組織されているのが「アメリカ・イスラエル広報委員会(AIPAC)」という親イスラエルの圧力団体である。 AIPAC(エイパック)は「アメリカ・シオニスト評議会」を母体として西暦1953年に創設されたもので、政府や議会の多くの要人たちと常に連携し、アメリカの外交政策をイスラエルの利益と合致させるように努めている。 AIPACはワシントン最強の圧力団体として有名であり、上院議員・下院議員の言動に少しでも反イスラエル的なところがあれば、容赦なく「反ユダヤ主義者」と決めつけ、其の人物の政治生命さえ危うくしてしまう。「反ユダヤ主義者」と呼ばれることは、ヒトラーと同類と見なされることであるから、アメリカでは致命的である。 AIPACはユダヤ人・非ユダヤ人からカンパを募り、イスラエルに送金したり、アメリカの政治家に献金したりすることも行なっている。 アメリカにおいてイスラエルを援助する為の献金には一切税金をかけてはならない、と法律で定められている。 一方、パレスチナ難民に献金しようものなら、たちまち税金がかけられてしまう。 また、アメリカ政府はアメリカ国民の税金を使ってイスラエル共和国に毎年30億ドル強の無償援助を続けている。 西暦1996年のアメリカ大統領予備選挙において、ブキャナン候補は「今、アメリカは自分の国のことで手一杯である。 アメリカ国民の税金はアメリカ人の幸せに使われるべきであり、イスラエルへの無償援助は削減すべきだ」と主張した。 すると、たちまち世界中の親イスラエル団体は「ブキャナンは反ユダヤ主義者だ」「ブキャナンは過激な人種差別主義者だ」「ブキャナンはヒトラーの再来だ」と非難合唱した。

イスラエル・パレスチナ問題は、イスラエルにいる東欧ハザール系ユダヤ人シオニストだけでなく、アメリカにいる東欧ハザール系ユダヤ人シオニストが自分たちの “真のルーツ” を認めたところで、真の解決には到達できない、と見るべきであろう。

因みに、欧米では「反ユダヤ主義」のことを「anti-Judaism」とは表記せず、「anti-Semitism」(反セム主義)と表記する。 一説には、「anti-Semitism」は誤った印象を作り出す為に故意に広められた表現だと言われているが、真相は不明である。

第31章  イスラエル共和国を支える欧米キリスト教勢力
これまで私はシオニズムに焦点を当てて、イスラエル共和国の不条理を説明してきた。 私は “まやかし” の上に立つシオニズムを問題として取り上げ、これを批判してきたが、それがイスラエル・パレスチナ問題の全てだと思っている訳ではない。 西アジア(中東)における欧米キリスト教勢力の動きを考慮に入れなければ、イスラエル共和国が強引にパレスチナに建てられた意味も、西アジア情勢の全体像も見えにくくなってしまう。 なぜ、イスラエル共和国はアラブ人の土地に建てられたのか。 此の疑問を解明するには、イスラエル共和国がイギリス・フランスの支配階級の西アジア支配戦略の一環として誕生したということを理解する必要があるだろう。

昔からパレスチナに執着して来た人々はユダヤ人とアラブ人だけではない。 キリスト教勢力も昔からパレスチナに執着して来た。 キリスト教勢力はパレスチナからイスラム教勢力を駆逐する為に7回にも及ぶ十字軍遠征を行なったという黒い経歴を持っている。 20世紀初頭までパレスチナを400年間支配し続けたオスマン帝国を解体した勢力は、非鉄金属や石油などの地下資源を押さえた者が世界を制するということを知ったイギリスやフランスの支配階級(キリスト教勢力)と、彼らの背後に控えるユダヤ系国際金融勢力であった。 イギリスやフランスの支配階級、中でもイギリスの支配階級が西アジアにおける石油利権を確保する為にアラブ人の意向を無視した身勝手な西アジア支配戦略を実行したことがイスラエル・パレスチナ問題の根源である。 ロスチャイルド一族のシオニズム支援と西アジアにおける石油利権確保とは表裏一体であった。 イギリスの支配階級は西アジア支配戦略を実行する為に、ちょうど其の頃に盛んになってきた実践的シオニズムを支援しながら実践的シオニズムを利用したのである。

イギリス政府やフランス政府、中でもイギリス政府は西アジアにおける石油利権を確保する為に、自分の意のままになるアラブ人で構成される傀儡国家をパレスチナに作りたかったのだろう。 そこで、イギリス政府は西暦1915年にアラブ側と秘密裏に「フサイン・マクマホン協定」を取り交わし、アラブ側とアラブ国家建設の約束をした。 そして、イギリス政府はトーマス・エドワード・ロレンス陸軍大尉をアラブ人で構成される傀儡国家を作る為の工作員としてパレスチナに送り込んだ。 ところが、イギリス政府はロンドン・ロスチャイルド家からの圧力または要請に屈したのであろう、西暦1917年にロンドン・ロスチャイルド家宛にバルフォア宣言を出した。 此の時点で、イギリス政府はアラブ人で構成される傀儡国家作りを諦め、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストの実践的シオニズム( “まやかし” の上に立つシオニズム)を利用して、主としてユダヤ人で構成される傀儡国家をパレスチナに作ろうと考えたのだろう。 第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、イギリスは敗戦国のオスマン帝国に代わって西暦1918年にパレスチナの占領統治を始め、西暦1920年にパレスチナの植民統治を始めた。 ロスチャイルド一族はバルフォア宣言を拠り所にして、東ヨーロッパのハザール系ユダヤ人をパレスチナにたくさん移住・入植させた。 そして、それと同時に、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストの実践的シオニズムが増々盛んになって来た。 東ヨーロッパからパレスチナに移住・入植したハザール系ユダヤ人の累計数は年々大きく増え続けた。 其の結果として、パレスチナに住んでいるアラブ人の間にシオニズム反対熱と反ユダヤ感情とが急激に高まり、アラブ人とパレスチナに移住・入植した東欧ハザール系ユダヤ人との対立が激しくなり、イギリス政府の意に反して、西暦1920年代初頭からパレスチナ紛争が起きるようになった。 ナチス政権が制定した各種反ユダヤ法令により、大量のユダヤ難民が発生し、イギリス政府の意に反して、其のユダヤ難民がパレスチナに大量に流れ込んだ。 其の為、エルサレムでハザール系ユダヤ人の大量増加を嫌ったアラブ人による大暴動が続発した。 更に、第二次世界大戦が始まると、東ヨーロッパ諸国で大規模なユダヤ人迫害(虐殺など)が起き、これを恐れた東欧ハザール系ユダヤ人が難民として違法にパレスチナに大量に流れ込んだ。 これもイギリス政府の意に反することだった。 更に、ヨーロッパでの戦争が終わってからも、イスラエル共和国の成立が宣言された西暦1948年5月までに6万人弱のハザール系ユダヤ人がパレスチナに流れ込んだ。 これもイギリス政府の意に反することだった。 以上のように、ナチス政権の誕生(西暦1933年)からヨーロッパでの戦争が終わるまでにナチス・ドイツで大量発生したユダヤ難民の大多数がパレスチナに流れ込み、更に、ヨーロッパでの戦争が終わったあとでも大量のユダヤ難民がパレスチナに流れ込んだ為、パレスチナに住んでいるアラブ人の反ユダヤ感情は極めて激しくなり、パレスチナに住んでいるアラブ人とユダヤ人との対立はイギリス政府の治安維持能力を遥かに超えるものとなった。 其の為、イギリス政府は「パレスチナにおける傀儡国家作りは不可能」と判断し、東欧ハザール系ユダヤ人シオニストが望むユダヤ国家建設にも前向きでなかった。 それに業を煮やした東欧ハザール系ユダヤ人シオニストはイギリス政府に対して武力闘争を開始した。 イギリス政府はパレスチナにイギリス陸軍を派遣し、治安維持活動に努めたが、パレスチナ統治に困難を覚え、西暦1947年2月にパレスチナ統治を断念した。

西暦1948年からはアメリカ政府がイスラエル共和国を支えるようになった。 イスラエル共和国は第一次中東戦争(西暦1948年5月15日〜1949年7月)で135万人のパレスチナ難民を生み、アメリカ政府の全面的な支援を受けて西アジア最強の軍事国家となり、周囲のアラブ諸国との戦争を繰り返し、違法に領土を拡張した。「モサド」というイスラエル諜報機関と、最新兵器で武装したイスラエル精鋭部隊は、常時、イスラム教勢力の動向とソ連の南下政策に睨みを利かせてきた。 イスラエル共和国は成立当初から、アメリカ政府が西アジアで軍事的・経済的戦略を展開する為の「巨大な軍事基地」としての役割を持たされてきた。 此のことは、イスラエル共和国の歴代政権がハザール系ユダヤ人によって独占されてきたことからも分かる。 しかし、欧米キリスト教勢力にとって、イスラエル共和国の「巨大な軍事基地」としての役割は西暦1980年代後半から低くなった。 此のことが世界中に明らかになったのは西暦1991年の湾岸戦争の時である。 此の戦争で欧米キリスト教勢力はイスラエル軍の力を借りずにアメリカ政府主導の多国籍軍によって西アジアをコントロールした。 イスラエル共和国はイラク軍のスカッドミサイルを市街地に打ち込まれたが、イスラエル軍はアメリカ政府から出撃を制止され、イスラエル国民は屈辱に耐え忍んだ。

湾岸戦争後、カトリック教会の総本山ローマ教皇庁(バチカン)は大きな動きを見せた。 西暦1993年12月、ローマ教皇庁は独自の外交権を駆使して、イスラエル共和国との国交を樹立した。 新聞では「2000年がかりの和解」という見出しが踊っていた。 両国の国交締結は、イスラエル共和国が違法占領している「聖地エルサレム」の帰属問題を世界的な宗教問題としたと言える。 ローマ教皇庁は西暦1965年の「第二回バチカン公会議」において、「イエス処刑に責任があるのは直接関与したユダヤ人だけだ」との公式声明を出し、ユダヤ人に歩み寄りの姿勢を示した。 更に、ローマ教皇庁はアラブ諸国との活発な外交を開始し、パレスチナ和平に積極的に取り組んでいく姿勢を示した。 今後、イスラエル・パレスチナ問題におけるローマ教皇庁の発言力は急速に高まっていくと思われる。 因みに、ローマ教皇庁は、聖地エルサレムは国連によって管理されるべきだと主張している。