優生思想の歴史

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優生学はどのような歴史をたどってきたのか。 ドイツの心理学者ヘラ・ラルフスが優生学について書いた記事『遺伝子の世紀』(学研)がある。 この記事は世界全体の優生学の歴史について書かれていて、興味深い内容である。 長くなるが、重要な部分をまとめておく。

■ 古代ギリシア・ローマ時代から存在し続けた優生思想
優生学は20世紀を通じて非常に議論の多いテーマであり続けてきた。 優生学は科学的外観を装って現れてきたが、優生学には常に科学と社会的利害と様々な思想・信条とが深く入り交じっている。

百科事典を見ている限り、この世界の事物は単純そうに思える。 例えば、権威ある『オックスフォード科学事典』は次のように記述している。「優生学とは、遺伝的原理を適用することによって人間集団の質を改善する研究である」。 この記述を初めて目にしたときには、この定義は特別な価値判断を含んではいないように思えた。 だが、よく見ると、そこには悪魔の足先がのぞいている。「人間集団の質」という言葉が問題である。「人間集団の質」をどのように定義すればよいのか。 誰がそれを定義するのか。

優生思想は歴史的に次の2つのカテゴリーに分けられてきた。 @ 消極的優生思想(子孫を残すに相応しくないと見なされた者が子孫を残さないようにする)、A 積極的優生思想(子孫を残すに相応しいと見なされた者が多くの子孫を残すようにする)。 消極的優生思想は人類の歴史において決して目新しいものではない。 ローマ人は著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊をローマ広場の近くにある切り立ったタルペイアから投げ落とした。 スパルタ人にも同様の慣習があった。 多くの原始的な社会でも同じようなことが行なわれていた。 ローマ人やギリシア人だけでなく、中世ヨーロッパのキリスト教社会では社会的に望まれない子どもが大規模に遺棄された。 通常、このような子どもたちは、両親に彼らを食べさせていくだけの余裕がない、あるいは、私生児であるがゆえに社会に彼らの居場所がない、などの理由で捨てられた。 その多くは、誰かに拾ってもらえるのではないかと願う親たちによって公共の場に置き去りにされた。 だが、それとわかる異常のある子を拾おうとする者はいなかったであろう。 今日でも、ロシアやインド・中国・その他多くの国々では先天的障害を持つ子どもの遺棄が続けられている。 他方、積極的優生思想にもまた長い歴史がある。 古代ギリシアの哲学者プラトンは、理想の社会として哲学者の王たちが支配する独裁的エリート社会を構想した。 プラトンは、理想社会の支配者は “望ましい男女” が交合するように密かに手配すべきであると考え、次のように示唆した。「支配者は、戦争で並はずれて勇敢に振る舞う男がセックスにおいても余分の機会が得られ、それによって彼らが可能な限り多くの子を残せるようにすべきである」。 だが、このプラトンの提案が実行に移されたことを示す歴史的証拠はない。

■ 近代優生学の創始者フランシス・ゴルトンと「社会進化論」
古来、優生思想では、優れた能力を持つと見なされた人々の出産が奨励されるべきだと主張されてきた。 この主張は、チャールズ・ダーウィンの従弟で、人類学者・遺伝学者であるイギリス人フランシス・ゴルトン(1822年〜1911年)を突き動かした。 彼の研究課題は、どうやって人類の遺伝的蓄積を改良し、“良い生まれ” の子どもを生み出すかにあった。 “eugenics”(優生学)という言葉はフランシス・ゴルトンがギリシア語で “良い” を意味する “eu” と “生まれる” を意味する “genics” を組み合わせて作ったものである。 彼は人間の成長における遺伝的要因と環境的要因の関与を分析する問題に魅了された。 1864年の初め、彼はイギリスの上流家庭に関する一連の研究を行ない、そこから、人間の知性・指導力・芸術的才能などは高度に遺伝すると確信した。 フランシス・ゴルトンは著書『遺伝的才能』(1869年)の中で次のように報告している。「傑出した判事の息子たちは傑出した判事になることが驚くほど多く、また、両親の一方が優れた音楽家である家庭は音楽的才能をもつ子どもを著しく数多く輩出する」。 フランシス・ゴルトンのこの見方は、高度に階級化されたイギリス社会に即したものとして、広く受け入れられた。「イギリス上流階級は、子どもの数が余りにも少ないので、ヴィクトリア時代のイギリスの遺伝子プールに対して貢献をしていくことが出来ない」と彼は考えた。 そして、彼は才能ある人々同士の結婚による出産を強く奨励し、他方、貧窮する人々、慢性的病気を抱える人々、精神的に不安定な人々の出産を抑制しようとした。 この時代、フランシス・ゴルトンのような考え方は社会の主流をなしていた。 フランシス・ゴルトンが下層階級を支援する社会福祉政策を攻撃したのも不思議ではない。「公共的性格の社会福祉機関は今このときにも、人間の本性を劣化させることに向けて働いている」と、フランシス・ゴルトンは書いた。 19世紀の科学者・社会学者の多くは同様の信念をもっており、その旗頭はイギリスの社会学者ハーバート・スペンサーであった。 ハーバート・スペンサーは「貧困層の大部分は生まれつき価値のない人々であり、彼らやその子どもたちの生存に役立つようなことは何ら行なうべきではない」と信じていた。 この見方は後に「社会進化論」として知られるようになった。

■ 優生学を強く支持した20世紀初頭のアメリカ
フランシス・ゴルトン以後の数十年間、優生学は欧米の上流階級を著しく重視する形で根づき、次第に人種主義的色彩を帯びるようになった。 とりわけアメリカでは、この風潮に対する強い支持が見られた。 20世紀初頭のアメリカ大統領でノーベル平和賞を受賞したセオドア・ルーズベルトは、自らが優生学の支持者であることを公表していた。 彼は「アングロサクソン系の男女が十分な数の子供を残すことができなければ、それは “人種的自殺” につながる」と警告した。

1905年から1910年にかけて、優生学はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目によく取り上げられたテーマであった。 その支持者には、保守派も革新派もいた。 アメリカ政府は1920年代前半に南ヨーロッパ・東ヨーロッパ・アジア・アフリカからの移民を厳しく制限する「移民法」を制定した。 この政策は1968年に至るまで基本的に変わらなかった。「移民法」が制定されて以降、南ヨーロッパ・東ヨーロッパ・アジア・アフリカの国々の人々がアメリカへ移住することは、北ヨーロッパや西ヨーロッパの国々の人々に比べて極めて困難となった。 この政策は優生思想そのものであった。

1920年代から30年代初頭にかけてのアメリカの優生学は消極的優生思想(子孫を残すに相応しくないと見なされた者が子孫を残さないようにする)を直接的に実行する制度を生み出すことになった。 アメリカは連邦レベルでは「断種法」を制定したことはないものの、約30の州が精神疾患や精神遅滞の人々を対象にする断種法を制定した。 1907年から1960年までの間に少なくとも6万人が断種法の適用を受けて不妊にさせられた。 この政策の全盛期にあたる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5千人に達した。 ダニエル・ケブルズのよく読まれた本『優生学の名のもとに』は、ヴァージニア州の不妊政策当局が山岳地帯に住む “不適合の” 家族を捜索したときの様子を次のように描いている。「そのころ生活保護を受けていた者は全員が “そうされる” のではないかとおびえていた。 彼らは山々の間に隠れ住んでいた為、保安官とその部下たちは彼らを追って山を登らねばならなかった」。

■ ヨーロッパ各国で成立した「断種法」とナチス・ドイツの「T4作戦」
いくつかの国がアメリカに倣って断種法を制定した。 カナダのアルバータ州は1928年から1960年まで断種政策を実施し、それによって数千人が不妊化された。 ヨーロッパで最初に断種法を制定したのはデンマークであり(1929年)、次いでドイツが1933年に、ノルウェーが1934年に、スウェーデンとフィンランドが1935年に、エストニアが1936年に、アイスランドが1937年に断種法を制定した。 同様の法案は第一次世界大戦前にイギリス、オランダ、ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドでも審議されたものの、制定されなかった。

1920年代のドイツでは断種法の制定などの優生政策はまだ強い反発を招くものだった。 実際、1925年のドイツ国会では、遺伝的理由で目が見えない人、遺伝的理由で耳が聞こえない人、てんかん患者、精神薄弱者に対する強制断種を規定した法案が審議されたが、まったく賛意を得られなかった。 それが劇的に変化したのは1933年1月にナチスが政権を握ってからである。 1933年7月、ドイツで断種法が制定された。 この法律により強制断種された人の総数は20万人〜35万人と言われている。

この時代(1933年〜1938年)には、ナチス・ドイツの優生政策は “遺伝に由来すると見られる疾患を有する者” に対する断種に止まっていた。 しかし、ナチス・ドイツの優生政策は次第にエスカレートして、ついには精神薄弱者・精神病患者・身体障害者を大量殺害するまでになった。 1939年、ドイツ政府はドイツの病院に入院していた精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を実行に移した。 この作戦実行では7万人の障害者が一酸化炭素ガスで殺された。

第二次世界大戦後、各国の優生政策は以前より小規模になったが、カナダとスウェーデンでは1970年代まで精神障害者に対する強制断種を含む大規模な優生政策が実施され続けた。 日本では不良な子孫の出生の抑制を目的とする「優生保護法」が1948年に制定された。 この法律では、遺伝性疾患を有する者だけでなく、遺伝性以外の精神病患者・精神薄弱者・ハンセン氏病患者に対する断種が定められ、遺伝性疾患を有する者が、たとえ遠縁の血縁者にであれ、存在する場合には、不妊化を承認するとされた。 だが、この政策は対象者の同意を前提にしており、その点で戦前の法律とは明確に一線を画していた。

■ 1962年、或る討論会で高名な生物学者たちが優生学を支持した
1962年、世界中の遺伝学者がロンドンに招かれ、討論会に参加した。 参加者リストには、著名な科学者の名前がずらりと並んでいた。 DNA二重螺旋の共同発見者であるフランシス・クリック、ダーウィンの進化論を弁護したトーマス・ハクスリーの孫でユネスコの前事務局長ジュリアン・ハクスリー、アメリカの2人のノーベル賞生物学者ヘルマン・ミューラーとジョシュア・レーダーバーグ、それに世界的に高名なイギリスの生物学者J・B・S・ホールデーンなどである。 これらの科学者はこの討論会で遺伝学研究の将来について論じ合った。 この討論会は公開されなかった為、参加者は何ものにも捕われず、あらゆる観点から議論できると感じた。 だが、それによって彼らは、かなり危うい領域にまで足を踏み込んだ。 例えば、フランシス・クリックは、全ての人々が等しく子どもを持つ権利を持つかどうかという問題を提起した。 イギリスの生化学者ノーマン・ビリーは次のように答えた。「もし、人々の健康や医療施設や失業保険など公共の福利に対して責任を負わねばならない社会で、誰もが子供を持つ権利を持つのかと問われるなら、私の答はノーである」。 他方、X線を照射された生物の遺伝子に突然変異が生じることを発見してノーベル賞を受賞したヘルマン・ミューラーは別の観点を持ち込んだ。「恐らく、人口の20%近くが遺伝的欠陥を受け継いでいる。 もし、この推定が正しければ、人類の遺伝的劣化を阻止する為に、その20%の人々は子孫を残すことを許されるべきではない」。 ヘルマン・ミューラーは率直な発言で知られる社会主義者であり、1930年代の数年間、ソ連で研究をしていた。 彼の生涯に渡る関心事は人間社会の改善と遺伝学にあり、彼は自分がその目標に対して重要な責務を果たしたと信じていた。 彼の同僚であるジョシュア・レーダーバーグは細菌遺伝学の研究でノーベル賞を得た人物である。 彼もまた同様の考えを示した。「人間の出産状況は暗い。 もし、我々が遺伝的改良という創造的可能性を無視するなら、我々は罪深くも、知識の宝庫を無駄にすることになるのではなかろうか」と彼は問いかけ、「最近の分子生物学の発展は、人類がこの遺伝的改良という目的に到達する為の優れた優生学的手段を提供してくれる」と述べた。 これらの人たちはいずれも傑出した科学者であり、その分野を極めた専門家であり、高い名声を勝ち得ている。 だが、多くの人々は、彼らのこのような発言に対して複雑な感情を抱くのではないだろうか。 と言うのは、フランシス・クリックを初めとする、これらの生物学者たちは優生学について肯定的に論じているからである。

■ 人間は「生まれ」か「育ち」か
「人間の優劣や性質を決めるのは生まれか、育ちか」。 英語ではしばしば “Nature or nurture?” と言われる。 1946年、アメリカの優れた遺伝学者セオドシウス・ドブジャンスキーとコロンビア大学のL・C・ダンが一般向けの書物『遺伝と人種と社会』を著した。 この本はベストセラーになった。 彼らはその中で次のように主張した。「我々は、自分の両親およびその他の祖先が残した一束(ひとたば)の可能性の現実性への転化として、この世界に生まれ出た。 我々の後天的性質は我々を取り巻く環境によって生じる。 だが、後天的性質として何が生じるかは、それを受け取る先天的性質によって決まるのである」。 そして、この筆者たちは、先天的なものと後天的なものは分かちがたいと結論している。 従って、問題はどちらがより重要かではなく、むしろ、その2つがどう組み合わさって人間の性質を決めるかである。 そこで、ドブジャンスキーは次のように問いかける。「人間の遺伝型の違いと、生まれ(遺伝)、育ち(環境)は、人々の間に見られる違いをどの程度決定づけているのか」。 この問いかけは、科学がこの問題(生まれか、育ちか)に対して投げかけ得る最大限の疑問であろう。 と言うのは、この問題(生まれか、育ちか)に対して、この問いかけを越えた問いかけをするなら、そこには政治的な動機が入り込んでいると見るべきだからである。 政治的に左寄りの人々の社会運動は常に社会的平等や社会保障に焦点を当てる所為で、生得的・遺伝的なものを軽視する傾向がある。 他方、政治的に右寄りの人々は「遺伝は環境より重要だ」と考える傾向がある。 1960年代、多分アメリカの公民権運動の結果として人種差別に対する社会的関心が高まり、遺伝主義の支持者は鳴りをひそめた。 そして、この時期、多くの優生政策が撤廃された。 1967年、アメリカの最高裁判所は「異人種間婚姻禁止法」を廃止し、また、アメリカ議会は1968年、「移民法」における人種主義的様相を基本的に取り除いた。 しかし、“生まれ・育ち論争” は終結したわけではなく、恐らく今後も終わりはしないだろう。 とりわけ、アメリカでは遺伝主義者側が議論を一歩進め、“生まれ・育ち論争” に「知能」の問題を持ち込んだ。 それは、知能には人種に基づく違いがあるのかということだ。 この論争は1969年、カリフォルニア大学バークレー校の教育学教授アーサー・ジェンセンによって始められた。 彼は黒人の知能指数(IQ)が白人のそれよりも低いことを示す研究結果を発表した。 それによれば、黒人の知能テストの成績の平均値は白人のそれより15点も低かった。 そこで、ジェンセンは、知能の遺伝性は高いと考え、知能テストの成績における人種間の違いについて「遺伝的因子が部分的役割を果たしているかもしれない」と結論した。 1970年代の初め、スタンフォード大学の物理学者ウィリアム・ショックレーは、アーサー・ジェンセンの研究に基づき、黒人の知能の劣等性を主張する運動を展開した。「黒人の出生率が高い所為でアメリカ人の平均知能が引き下げられている」と考えていたウィリアム・ショックレーは、財政優遇措置に基づく断種によって、そのような事態を防げると考えた。 ウィリアム・ショックレーの運動もジェンセンの研究と同じように、一部の人々の支持を得たものの、反対の声の方が強かった。 批判の多くは「知能テストの成績における黒人と白人の違いは何よりもまず生活環境に起因するだろう」と指摘していた。 平均的な黒人は社会の貧困層に属しており、白人に比べて、知的技能を学び磨いていく上で劣悪な環境に生きている。 これでは黒人の子どもが知能テストで悪い成績をとるのは当然だというのである。 この論争はその後20年以上も経った1995年に再燃した。 リチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが『ベル曲線』という本を出版したのである。 彼らはこの本の中で、貧困で大家族の家庭では知能の低い者が平均を上回って多く、知能指数が最高レベルの人々は子どもの数が最も少ないと指摘した。 ハーンスタインとマレイは更に別々の環境で育てられた一卵性双生児について行なった知能の遺伝的研究を引用した。 これらの研究は、人間の知能の40%〜80%は遺伝的要素によるものだと結論している。 これらの研究や世界各地で行なわれた知能に関する研究を基にして、彼らは、知能指数の高い男女がより多くの子どもをもつよう奨励し、更に、知能指数の低い男女の子どもの数がより少なくなるような何らかの政治的措置を講じない限り、アメリカ人の平均知能指数は10年ごとに約1%ずつ低下していくだろうと警告した。 ハーンスタインとマレイの議論は20年前のジェンセンやショックリーの主張と基本的には同じである。 ただし、彼らは医学的な不妊を提言したのではなく、貧困層の女性の出産に対する様々な補助を打ち切るべきだと、言い換えれば、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を廃止すべきだと主張した。

■「集団の優生学」から「個人の優生学」へ
フランシス・ゴルトンから約150年が経過した今、優生学は、科学的にも現実の政策としても概ね失敗に終わったように見える。 多くの場合、優生学は政治的な目的に利用されてきた。 しばしば繰り返される粗末な遺伝的議論は、その背後にある政治的意図を覆い隠せなかった。 前出のダニエル・ケブルズは「優生学を問題多いものにしているのは、そこに個人やその家族の権利と、作り上げられた抽象概念『人種』 『集団』 『遺伝子プール』などが含まれている為だ」と言う。「優良白色人種の遺伝的繁栄」を目論む積極的優生思想は今ではせいぜいユートピアとして残っているだけである。「優良白色人種の遺伝的繁栄」は全ての白人の遺伝情報の操作を必要とする為、たとえ可能だとしても、厳格な監視を前提とする警察国家でしか実現できそうにない。 また、それは何世代にも渡る長期戦略があってこそ、うまくいくのであり、比較的短期間で政権交代がくり返される今の世界で実行可能とは思えない。 だが、優生学が個人的に自らの意志によって行なわれるなら、とりわけ遺伝病と闘う上ではうまくいくかもしれない。 例えば、サルジニア島やキプロス島の人々は、長い間サラセミアと呼ばれる遺伝性の貧血症候群に苦しんできた。 これは赤血球中のヘモグロビンを十分に生み出せない血液の病気である。 これらの地域では、結婚相手が病気の因子を持つかどうかを調べる為に「婚前診断」が行なわれる。 また、出生前診断により胎児が保因者であることがわかった場合には「選択的中絶」も行なわれている。 結婚相手が保因者であることが分かると、約5分の1のカップルは結婚をやめる。 これらの事例は将来の優生学の方向性を示すものであるかもしれない。 健康な子を産みたいと望む親の “個人的選択” に基づく優生学的措置は認められると思われる。 それには新しい生殖遺伝子技術、例えば、精子の幹細胞の移植、あるいは精子や卵子の遺伝テストが役立つことになるだろう。 この種の個人的優生学についても様々な議論が行なわれている。 アメリカの高名な生命倫理学者アーサー・カプランの次の言葉は大いに参考になるのではなかろうか。「我々は自分たちの子どもを環境要因によって(親の期待する人間になるように)形作ろうとしている。 ピアノを習わせたり、ほかにも、あらゆる勉強や稽古ごとをさせたりしている。 私は、それが誰かを傷つけるのでない限り、そこに遺伝学を利用しても誤りではないと考える」。

参考までに優生学の歴史の年表を載せておく。
● 紀元前4世紀、古代ギリシアの哲学者プラトンが「理想社会の支配者は、望ましい男女が交合するようにひそかに手配すべし」と示唆した。
● ローマ時代の人々は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊を崖から投げ落とした。
● 中世ヨーロッパのキリスト教社会では “望まれない子” を公共の場に遺棄した。 正常な子どもは拾われることもあったが、障害をもつ子どもは見捨てられた。
● 1883年、イギリスの人類学者フランシス・ゴルトンが「優生学(eugenics)」という言葉を作り出した。
● 1895年、ドイツの優生学者アルフレート・プレッツが『民族衛生学の基本指針』を出版した。 この本はドイツ優生学の出発点となった。
● 1905年、ドイツに世界最初の優生学会「民族衛生学協会」が誕生した。 同様の優生学会はイギリスやアメリカにも相次いで誕生した。
● 1907年、アメリカ、インディアナ州で最初の「断種法」が制定され、その後、約30の州で同様の法律が制定された。
● 1912年、ロンドンで「第1回国際優生学会議」が開かれた。
● 1913年、アメリカの28の州が異人種間の婚姻を禁止した。
● 1921年、1924年、アメリカで「移民法」が制定され、西欧・北欧以外の人々のアメリカヘの移住が著しく制限された。
● 1929年、デンマークで「断種法」が制定された。 その後1937年までにノルウェー・スウェーデンなどヨーロッパの数ヶ国で同様の法律が制定された。
● 1933年、ナチス・ドイツで「断種法」(人種衛生法)が制定された。
● 1935年、ナチス・ドイツのSS長官ヒムラーが「レーベンスボルン政策」を開始した。
● 1939年、ナチス・ドイツが精神障害者や身体障害者を殺害する「T4作戦」を開始した。 これにより1941年までに7万人強が殺された。
● 1948年、日本で「優生保護法」が成立した。
● 1963年、ロンドンで世界中の生物学者が優生学について議論し、高名な科学者たちが優生学を支持する発言を行なった。
● 1969年、アメリカのアーサー・ジェンセンが黒人の知能指数は白人より低いが、それは遺伝的な要因によるかもしれないと発表した。
● 1979年、アメリカで最初の「精子銀行」が設立された。 当初、この銀行への精子提供者はノーベル賞受賞者のみで、また、提供を受けられる女性は IQ140以上に制限された(後に男女とも資格がゆるめられた)。
● 1995年、アメリカのリチャード・ハーンスタインとチャールズ・マレイが大著『ベル曲線』を出版し、知能の低い人間が比較的多い貧困層に対する社会保障制度を打ち切るべきだと提言した。
● 1990年代後半、遺伝子科学の爆発的発展により、人間の受精卵の遺伝子を子宮着床前にチェックし、問題のある受精卵を廃棄することが医療分野で始まった。