魔女狩りと異端審問の歴史

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第1章  ヨーロッパは18世紀中頃まで “世界の片田舎” であった
1085年、イベリア半島のイスラムの都市トレドを占領した白人キリスト教徒は、この地の図書館を通して貪欲にイスラムの学問を吸収し始めた。 古代ギリシャのアリストテレスを初めとする哲学・自然科学の遺産もアラビア語からラテン語に翻訳された。 このようなイスラム文明からの学習を背景に花開いたのが14世紀前半から17世紀前半にかけての「ルネサンス」である。 1490年代はヨーロッパの白人にとって画期的な時期であった。 と言うのは、この時期、イタリア・ルネサンスが最高潮に達し、クリストファー・コロンブスがカリブ海の島々を発見し、南北アメリカ大陸への航路が開かれたからである。 15世紀後半から17世紀前半までは「大航海時代」と言われている。 これは正しい。 そして、「15世紀後半からヨーロッパの時代が始まった」と言われることがあるが、これは言い過ぎであって、その意味で正しくない。 大航海時代以降、ヨーロッパの白人が徐々に世界的規模で覇権を握ってきたのは事実であるが、15世紀後半からヨーロッパの時代が突然始まったわけではない。

ヨーロッパは18世紀中頃まで世界史の主要舞台ではなく、“世界の片田舎” であった。 或る種のロマンをもって語られがちなヨーロッパの中世は、実は戦争と飢餓と疫病(14世紀中頃のペストの大流行)に苦しめられ、モンゴル軍の東ヨーロッパ遠征(1236年〜1242年)による侵略や、オスマン帝国(1299年〜1922年)という非白人勢力の侵入にヨーロッパ人がおびえ続けていた時代であった。 17世紀には、イスラム勢力が最高潮に達しており、オスマン帝国がバルカン半島・アナトリア半島・パレスチナ・北アフリカで繁栄し、そのすぐ東ではシーア派のサファヴィー朝(1501年〜1736年)が今日のイラン・アフガニスタンで繁栄し、ムガール帝国(1526年〜1858年)が今日のインド・パキスタン・バングラデッシュで繁栄していた。 17世紀には、この3つのイスラム大国がユーラシア大陸の中央部で栄えていたのである。 一方、17世紀のヨーロッパは、16世紀前半から断続的に発生した宗教戦争で人口が大幅に減少し、多くの都市が没落し、ミラノやロンドンではペストが大流行し、商工業が大打撃を受け、農村が荒廃し、農業生産が大幅に減少した。 17世紀はヨーロッパ人にとっては惨めな時代であった。 17世紀には「われらをペストと飢餓と戦争から救いたまえ」という祈りの言葉が全ヨーロッパで聞かれた。

17世紀後半からイスラム勢力が傾き始めるが、イスラム勢力は急速には衰退しなかった。 そして、次の18世紀には清国が世界一の帝国となった。 18世紀中頃にヨーロッパ第一の文化人と見なされていたヴォルテールは「地上に起きたことによって教訓を得ようとすれば、まず、西洋のあらゆるものがそれに負っており、かつ、すべての芸術の揺籃である東洋に目を向けなければならない」と記述した。 ヴォルテールは中国文明崇拝者であり、当時のヨーロッパ最高の文化人であった。 彼が著述したものは、すぐヨーロッパ各国で翻訳され、それを各国の知識人が競って読んだ。 このことからも、18世紀中頃はまだまだヨーロッパの本格的な時代ではないことがうかがい知れる。 18世紀はフランス人にとって “支那熱” の世紀であり、フランス人は18世紀末まで中国文明にコンプレックス(複合感情)を抱いていた。 十字軍の遠征(1096年〜1272年)によって、香り高いイスラム文化を垣間見、次の大航海時代に入り、広大な世界が存在することを知った当時のヨーロッパ人の心の中には、イスラム世界・東洋世界に対する計り知れぬコンプレックス(複合感情)と知的向上心が形成されていった。

ルネサンスの時代(14世紀前半から17世紀前半まで)は宗教戦争の時代(16世紀前半から1648年のウェストファリア会議まで)と大きく重なっている。 宗教戦争の時代には新教vs旧教の血で血を洗う戦争が断続的に発生し、「魔女狩り」が最高潮に達した。

以上のことから考えれば、ヨーロッパの理性的な時代が始まったのは18世紀前半(フランス啓蒙思想の発展期、イギリス産業革命の黎明期)であり、ヨーロッパの本格的な時代が始まったのは18世紀後半(フランス啓蒙思想の最盛期、イギリス産業革命の発展期)である、と言うべきである。 このような時代背景を頭に入れておけば、ヨーロッパにおいて、ルネサンスの幕開けとほぼ同時に「魔女狩り」が激しくなり始めたという事実を理解するのに、困難はないだろう。

第2章  16世紀・17世紀のヨーロッパにおいて最高潮に達した「魔女狩り」の嵐
今からたった数百年前、華やかなルネサンス文化が花開き、ヨーロッパの白人の理性が勝利を収めたかに見えた16世紀・17世紀のヨーロッパにおいて、有ろう事か、「魔女狩り」の嵐が最高潮に達した。 この時代の白人は「魔女」の実在を信じ、魔女だという嫌疑をかけられた男女が次々と火あぶりの刑に処せられて殺されていたのである。 それは正に狂気であった。「魔女狩り」の嵐の中で命を落とした男女は30万人とも300万人とも言われているが、実数は不明である。 1602年に発行された『魔女論』(アンリ・ボゲ著)には以下のように記され、その頃の様子を垣間見せてくれる。
近くの国を見渡しただけでも、全ての国があの忌まわしい魔女の悲惨な害毒に感染しているのがわかります。 ドイツでは魔女を焼く火刑柱を立てるのに忙殺されている有り様です。 ロレーヌを旅する者は、魔女を縛り付ける刑架を幾千も目にするでしょう。 魔女の処刑が日常の事となっている地域は沢山あります。 どんな地方にも幾千幾万もの魔女が庭虫のように地上に蔓延しつつあるのです。 私は全ての魔女をひとまとめにして、ただ一つの火で一度に全部を焼き殺せたらと思うのです。

悪魔と結託し、あらゆる害をなすという魔女への恐怖は伝染病の如く広がり、魔女には考えられる限りの残酷な行為がなされた。 上に記したように、魔女を焼く火の煙が立ち上らない日はなく、また、魔女が発見されない日もなかった。 だが、魔女として殺されていった人々の大部分は名もなく貧しい女たちであった。 地位も名誉もある人々が彼女たちに魔女の汚名を着せ、憎悪をむき出しにして、処刑した。 念の為に書いておくが、魔女として殺された人の中には男性も含まれていた。 元来、ウィッチ(魔女)という言葉には男女の区別はない。

16世紀・17世紀のヨーロッパを席巻した恐るべき「魔女狩り」の嵐。 聖職者・役人・政治家たちの理性を吹き飛ばし、何十万人もの無実の人々を焼き殺した集団狂気はどこから来たのか。 これについては、16世紀前半に始まった宗教改革運動に伴って断続的に発生した長期間の激烈な宗教戦争において、新教側・旧教側の双方とも敵側の人間を魔女と決めつけることで敵勢力を押さえつけ、自勢力を拡張する為に、魔女狩りを強行したのである、と言われている。 新教・旧教双方のキリスト教会にとって、魔女狩りは神の力を示す場であった。 また、長期間の激烈な宗教戦争で民衆の不安と緊張は頂点に達していた。 魔女の火あぶりの刑は民衆の不安と緊張のはけ口となる格好な見世物であった。

第3章  キリスト教知識階級によって作り出された “魔女” のイメージ
魔女はその力によって嵐を呼ぶことができ、男を性的不能にし、畑の作物を枯らし、牛の乳を出なくすることもでき、悪魔に赤ん坊を生け贄として捧げ、その肉を食らうと、考えられていた。 つまり、この世のあらゆる不幸が魔女の所為だとされ、人々は本気で魔女を狩り出そうとした。 だが、魔女狩りを扇動したのは無学な民衆ではなかった。 有ろう事か、一流の知識人がこぞって魔女の実在を信じ、そして、この世の魔女を最後の1人まで焼き尽くそうと激情をたぎらしていたのである。 魔術や妖術の信仰は古今東西に見られる。 しかし、ヨーロッパの知識人たちが信じた魔女のイメージは余りにも特殊なものであった。 例えば、「魔女狩り」のマニュアルとして絶対的な権威をもっていた『魔女に与える鉄槌』(1487年にドイツで出版された)という文書には、次のような定義が見られる。「魔女とは、悪魔と契約を結び、その代償として悪魔の力を与えられ、超自然的なこと、例えば、嵐を呼びよせる、雨を降らせる、畑の作物を枯らす、呪いをかける、などができる者」。 その定義のなかには女だけではなく、男も含まれていた。 元来、ウィッチ(魔女)という言葉には男女の区別はない(尤も、魔女として殺されたのは圧倒的に女性が多かった)。 この定義はキリスト教を前提にして成り立つものである。 なぜなら、悪魔とはキリスト教の枠内における存在であり、従って、悪魔と結託した魔女もキリスト教の枠内における存在であるからである。

当時、次々に出版された魔女論を見ると、魔女の行動や特徴の詳細が、これでもかといわんばかりに描写されているが、その殆どがキリスト教の儀式の変種のようなものである。 言い換えると、“魔女” のイメージは当時のキリスト教知識階級によって創作されたのである。 尤も、魔法を使う女、あるいは、そう信じられた女たちは古代ギリシャにも古代エジプトにも古代ローマにも存在した。 古代ローマでは魔法を使って人に害をなすことは禁じられていたが、魔法を使う女が魔法を使うという理由だけで問答無用に処刑されることはなかった。 この当時の裁判では、魔女犯罪は窃盗や殺人といった刑事事件として扱われており、組織的・狂信的に魔女が恐れられ迫害されるようなことは無かった。

第4章  ヨーロッパの中世は魔女に関して比較的平穏な時代だった
13世紀後半までは魔女に関して比較的平穏な時代が続いていた。 フランク王国の国王カール大帝(在位 768年〜814年)は「魔女をむやみに焼き殺すことは殺人罪に相当する」と布告した。 同じ頃、リヨンの大司教アゴバールが魔女の嫌疑を受けた人々をリンチより救ったという記録が残っている。 また、1080年、教皇グレゴリウス7世はデンマークのハーラル王に送った書簡の中で「暴風雨や災厄を魔女の所為だとするのは全く悪い慣習である」と書いた。 イングランドでは飛行する魔女が目撃されて逮捕されたが、その後、無罪放免になった。 その理由は「だれにも迷惑をかけていないから。 空を飛ぶこと自体は法律では禁じられていない」というものであった。 それが、14世紀に入るや、「魔女は即死刑」と、有無を言わせぬ判決が下るようになった。 (1321年にダンテが「神曲」を書き終えた。 これはルネサンスの幕開けである)。 魔女に対する厳しい批判は16世紀の神学者ジョージ・ギフォードの次の言葉に集約されている。「魔女は死刑にすべきである。 殺人を犯したからではなく、悪魔と結託したがゆえに」。 一体、なぜ、このような変化が訪れたのか。 それを知って頂く為には、異端審問制度の成立という、「魔女狩り」の前史を語らねばならない。

第5章  異端審問制度の成立  最大・最悪の異端と見なされるようになった “魔女”
9世紀、ローマ教会は西ヨーロッパ全域で権威を確立し、同時に各国の国王から土地を寄進されて大土地所有者となり、世俗権力との結びつきを強め、様々な腐敗を生んだ。 僧職が売買され、霊の救済も売買され、聖職者が妻や愛人を持ち、懺悔室が連れ込み宿のようになり、尼僧院が売春宿のようになった。 こうした状況の中で、教会や聖職者に金銭を吸い取られた豪商や、自由主義的思想を持つ貴族や敬虔なキリスト教徒の間にローマ教会への憤懣が鬱積していった。 そして、11世紀、ヨーロッパにおいて最高の文化水準を誇る南フランスで、ローマ教会に反対するキリスト教派が生まれた。 この教派はキリスト教グノーシス主義を信奉するキリスト教徒の集団で、「キリスト教カタリ派」(簡単に「カタリ派」、別名「アルビジョア派」) と呼ばれ、ローマ教会から見ると最強にして最悪の異端派であった。 1208年、ローマ教皇インノケンティウス3世(在位 1198年〜1216年)はキリスト教カタリ派討伐の命を下した。 キリスト教カタリ派討伐の命を受けたのは第4回十字軍に参加した騎士であった。 この討伐軍は「アルビジョワ十字軍」と呼ばれた。 アルビジョワ十字軍は約40年間に渡ってカタリ派討伐を続けた。 この討伐で南フランスの100万人もの一般市民が老若男女の区別なくアルビジョワ十字軍によって殺され、キリスト教カタリ派だけでなく南フランスの人々の大半も犠牲となった。

時代を少しさかのぼるが、1184年、ローマ教皇ルキウス3世(在位 1181年〜1185年)は教皇勅書『アド・アボレンダム(甚だしきものの為に)』を発し、公式な異端審問の方法を示した。 その方法とは、各地域の司教が定期的に自らの教区を巡回して異端者がいないかを確かめるというものだった。 しかし、カトリック教会には一般的な司法権や処罰権がなかったこともあって、この方法は余り実効が上がらなかった。 ローマ教皇グレゴリウス9世(在位 1227年〜1241年)は異端者を恒久的に弾圧し続ける組織の必要性を痛感し、1234年に異端審問制度を作った。 これは、ローマ教皇から直接任命された異端審問官が各地を巡回して異端者を摘発し、裁判にかけ、ときには軍事力をもって弾圧するという強硬な制度である。 ローマ教皇から直接任命された異端審問官は絶大な権力を誇っていた。 彼らは学問の盛んな修道会として知られたドミニコ会の会員の中から任命されることが多かった。 北ヨーロッパはローマ・カトリック教会の支配下にあったが、異端審問制度は北ヨーロッパでは定着しなかった。

13世紀のヨーロッパでは、形骸化し堕落したローマ教会に対して異議を唱える宗教集団がキリスト教カタリ派の他にも乱立していた。 神秘主義的・反社会的な宗教集団も活発に活動していた。 こうした動きにローマ教会は黙ってはいなかった。 ローマ教皇は修道会を結成し、ローマ教会内部の改革・粛清を急ぐ一方で、異端派の弾圧に全力を注ぎ始めた。 ローマ教会から見た場合、ローマ教会に異議を唱えるキリスト教諸派は全て異端派である。 更に、14世紀前半の1318年、歴代ローマ教皇の中で最も狂気じみていたローマ教皇ヨハネス22世は「いつでも、どこでも裁判を行ない判決する権利を全ての異端審問官に与える」と明言した。 (1321年にダンテの「神曲」完成)。 更に、彼は全ての魔女を異端者として処分し財産を没収するように命じた。 異端審問官たちは、その貪欲さと変質的な性的興奮とをもって、異端者・魔女・ユダヤ人や、珍しい病気に冒された人々を不当に捕らえ、拷問を加え、焼き殺し、全財産を没収して私腹を肥やしていった。 そして、いつしか異端者のイメージと魔女のイメージとが重なり合い、魔女であることは最大・最悪の異端であると見なされるようになった。 こうして、異端審問の対象は、ローマ教会に異議を唱える宗教者から、本人には全く身に覚えのない “魔女” 被疑者に移っていった。 或る異端審問官は「正統か異端か疑わしい者がいたとき、どうしたらいいのか」という問いに、「みんな殺せ。 なぜなら、その判別はあの世で神がなしたもうからだ」と答えた。 異端審問官は異端弾圧の為であれば、拷問を含めて殆ど全てのことを行なった。 それは虐殺と言うだけでは済まない程の残酷な行為であった。

ダンテが『神曲』の執筆を始めたのは1307年頃で、『神曲』を完成させたのは1321年であり、この頃よりルネサンスが始まったとされる。 ローマ教皇ヨハネス22世が「いつでも、どこでも裁判を行ない判決する権利を全ての異端審問官に与える」と明言したのは1318年である。 従って、ルネサンスが始まった時期と魔女狩りが激しくなり始めた時期とは同じである。

第6章  1487年に出版された『魔女に与える鉄槌』
15世紀末近くになると、『魔女に与える鉄槌』の出版(1487年)によって、魔女狩りの勢いは一気に強められた。 この本はドミニコ会員の異端審問官ハインリヒ・クラマー(クラーメル)が時のローマ教皇インノケンティウス8世(在位 1484年〜1492年)の認可を得て1487年にドイツで出版した魔女狩りの手引きである。 この本は、出版されると、またたく間にベストセラーになり、ドイツで16版を重ね、フランスで11版を重ねた。 最後の版が出版されたのは1669年である。 この本は「人間が綴った本の中で、これほどの苦痛を生み出したものは他にない」と言われる程の弊害をヨーロッパ全土に与えた。 この本は魔女の特徴・発見法・拷問の仕方に至るまでが子細に書かれたもので、ドイツ語版はペーパーバックで千ページ近い分量があり、「魔女を生かしておいてはならない」という聖書の一節を拠り所にして、徹底的に魔女攻撃を行なった3部構成の書物である。 第1部は、魔女が実在し、しかも、それが恐るべき異端であることの神学的論証である。 第2部は、魔女がどのように人々に危害を加えるかという内容である。 第3部は魔女裁判の方法の記述である。 第3部には「被告人の全ての衣服をはぎとり、魔術の道具を隠していないかを徹底的に調べよ。 自白を強要せよ。 被告人が自白しそうでなければ、縄で縛って拷問にかける準備をせよ」というようなことまでが書かれている。 『魔女に与える鉄槌』が登場したことによって「魔女は最大・最悪の異端であり、かつ、悪魔的な異端である為、魔女を撲滅しなければならない」という神学的根拠が成立した。

このころ処刑されたヨーロッパ中の魔女が皆似たような自白を行なっているのは、魔女裁判の殆ど全てが『魔女に与える鉄槌』を拠り所にして行なわれたことによる。 そして、魔女たちの自白が似ているという事実が益々魔女に対する妄想を増していき、魔女狩りが17世紀後半まで行なわれたことの原因の一つとなった。 ヨーロッパの白人は戦慄したに違いない。 どの魔女も魔女の夜の宴会や空中飛行を認めているからには、やはり、魔女は実在しているのだと。 当時、普及しつつあった活版印刷術によって『魔女に与える鉄槌』は多くの人に読まれ、その事が魔女への恐怖と人々の妄想を一層増していった。 因みに、グーテンベルクが活版印刷術を発明したのは1450年前後と言われる。

因みに、イベリア半島でのキリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動)の中で、アラゴン王国でも他のヨーロッパ諸国と同様にローマ教皇から直接任命された異端審問官が巡回する異端審問が行なわれていたが、それは大掛かりなものではなかった。 アラゴン王国の国王フェルナンド2世(在位 1479年〜1516年、カスティラ王としてはフェルナンド5世)は、キリスト教に改宗しながらユダヤ教・イスラム教の習慣を守る改宗ユダヤ教徒・改宗イスラム教徒を快く思わず、彼らを粛清・抹殺しようとした。 フェルナンド2世は、ユダヤ教・イスラム教の習慣を守る多くの改宗ユダヤ教徒・改宗イスラム教徒に対して、ローマ教皇の介入を排除した独自の異端審問を行ない、彼らを拷問にかけ、自白を引き出し、有罪とし、処刑した。 そして、多くの者(実数は不明)が火あぶりの刑に処せられたと言われる。 スペインで異端審問が完全に廃止されたのは1834年である。

第7章  魔女裁判では単なる噂や密告や自白が証拠とされた
ローマ教会の異端審問の延長として始まった魔女裁判では、どのような残忍な拷問も、どのような非道な手続きも承認されていた。 信じ難いことだが、当時は、「誰それは魔女だ」という噂が立てば、その噂が有力な証拠として採用された。 また、異端審問官は熱心に密告を推奨した。 魔女である可能性を有する人間の存在を黙認していることは、それだけで間接的な異端とされた。 幼児・子供の密告や証言も証拠として採用された。 こうして世間の噂・密告などによって逮捕された被疑者たちは自白を迫られた。 魔術を使った物的証拠をあげることは殆ど出来ない為、自白こそが魔女であることの最大の証拠として採用された。 例えば、16世紀半ばのスペインで、エルヴィラという女性が拷問にかけられたときの会話が記録として残っている。 それによれば、エルヴィラは両腕を縛られ、締め付けられていた。 悲鳴が響く中で尋問が続く。「裁判官様、何を言ったらいいのか教えてください。 私がどんなことをしたのか、私は全く身に覚えがありません。 分からないのです」。 裁判官が言う、「カトリックに背くことをしたであろう。 おまえがしたことを詳しく言え」。「何を申し上げてよいのか。 ああ、許してください。 ・・・・・そうです。 いたしました。 なんでもいたしました。 ですから、縄を緩めてください。 でないと、腕が折れてしまいます。 お願いです」。 こうしたことが日常的に行なわれていた。 そして、魔女と決められた者は例外なく処刑された。 『魔女に与える鉄槌』には、たとえ魔女が罪を認めて悔悟しても、処刑すべしと書かれている。 しかも、魔女と決められた者の多くは生きながらの火あぶりという、これ以上ないほどの残酷な刑を受けた。 また、魔女狩り最盛期には、魔女の発見を商売にする「魔女発見業者」も登場した。 悪名高いイギリスのマシュー・ホプキンズは、イギリスを中心に魔女を大量に告発し、魔女の告発1件毎に4ポンドから26ポンドの金を得ていた。 労働者の平均日当がわずか6ペンスの時代にである。 このように恐怖と金銭的利益が相まって、魔女狩りの嵐は益々激しくなっていった。

第8章  セイラムの魔女裁判
魔女狩りはローマ教会の専売特許ではない。 この章で述べる「セイラムの魔女裁判」事件は、プロテスタントが無実な人々を迫害した事件である。 また、この事件で中心的な役割を果たした人物は、アメリカ・マサチューセッツ州知事であったコットン・メイザーという男だが、彼はアメリカから選ばれた最初のロンドン王立学会会員でもあった。 このような、近代的思考を持つ科学者として国際的に認められた人物がアメリカ版の魔女狩りの牽引車であった。

17世紀の末、魔女狩りの嵐はようやく静まり始めた。 この頃、人々の間に少しずつであったが、理性がよみがえり、人々は魔女に対する妄想から脱却しかけていた。 アメリカにおける魔女狩りの歴史の中で、その最後の炎が燃え上がったのは1692年のことであった。 この年の或る日、マサチューセッツ州セイラム村で、9歳と11歳の2人の少女が神経症的な症状を示した。 その切っ掛けは実にたわいのない占い遊びだったという。 彼らの家で使われていた黒人奴隷の女性が寝物語に聞かせたブードゥー教の占いや魔法の世界に魅了されていた少女たちはコックリさんに似た占いを試したのである。 感受性の強い子供が占いゲームに深入りした場合、精神が不安定になることは珍しくない。 少女たちの目は虚ろになり、奇妙な振る舞いをするようになった。 娘の父サミュエル・パリスは驚き、子供たちの異変は魔女の呪いの所為だと信じた。 やがて、わずか9歳の少女の証言に基づいて魔女狩りが始められ、ヨーロッパと同じように残酷な尋問が展開された。 マサチューセッツ州知事であったコットン・メイザーの強力な後押しを受けて、魔女狩りは次々に展開された。 共犯者を語らせるというヨーロッパ式のやり方も導入された為、3人の被告から始まった魔女裁判は、わずか半年ほどの間に200名の容疑者を数える程になった。 そして、そのうち30名が死刑を宣告された。 19名が絞首刑を受け、1名が圧死、2名が獄死した。 逃げた者が1名で、妊娠のため死刑延期になって助かったのが2名いた。 そして、死刑を宣告されたものの、後に自白して助かったのが5名いた。 だが、セイラムの魔女裁判がヨーロッパの魔女裁判と大きく異なっていたのは、世論の側が横暴で理不尽な魔女裁判を大いに批判するようになったことである。 マサチューセッツ州知事コットン・メイザーの父親は次のように言った、「ひとりの無実の者を殺すくらいなら、10人の魔女を取り逃がすほうがましだ」と。 ようやく、正気を取り戻した裁判官たちは自分たちの誤りを認めて、全ての判決を破棄した。「われわれが不当に傷つけた人々に許しを乞い、二度とこのようなことを起こさないことを全世界に明言する」。 これがアメリカでの最後の魔女裁判であった。

しかし、セイラムの魔女裁判のあと、世界からすぐさま魔女狩りが消えたわけではなかった。 近代合理主義の台頭もあり、魔女狩りの狂気は徐々に萎縮していったが、スペイン、スイス、イタリア、ポーランドなどでは18世紀の末まで魔女狩りが行なわれていた。 イングランドでは1717年まで魔女裁判が行なわれ、スコットランドでは1722年まで、フランスでは1745年まで、ドイツでは1775年まで、スペインでは1781年まで、スイスでは1782年まで、イタリアでは1791年まで、ポーランドでは1793年まで、魔女裁判が行なわれていた。 そして、欧米各国で魔女裁判が行なわれなくなったとき、キリスト教会の権威が失墜する時代がやってきた。