ローマ教会による異教徒・異端派への弾圧の歴史

原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_ha/a6fha100.html
第1章  十字軍遠征の政治的真相
宗教を巡っての戦いは多数ある。 そして、そのほとんどがヨーロッパとその周辺で起き、しかも、キリスト教を巡ってのものであった。 その戦いを2つに大別すれば、1つはローマ教会が異教徒を弾圧・排除しようとして起こした戦いであり、もう1つはローマ教会に対するキリスト教徒の反乱とそれに対する応戦である。 仏教・ヒンズー教・イスラム教の生成・発展の過程にも、異教徒を弾圧・排除するための戦いがあったであろうが、ローマ教会の独善性の激しさと排他性の激しさは言語に絶するものであった。

ローマ教会による異教徒弾圧として最も有名なものは合計8回に渡って行なわれた十字軍の遠征(西暦1096年〜1272年)だろう。 十字軍の遠征は約180年間に渡って続き、それによる犠牲者は何百万人とは言わないまでも相当な数に上った。 第1回十字軍が組織されたのは西暦1096年である。「聖地エルサレム奪回」を掲げた彼らの蛮行は凄まじかった。 エルサレムを攻略するに際し、イスラム兵士はもちろんのこと、イスラム教徒の老若男女を無差別に殺害した。 しかも、その殺害はイエス・キリストの名のもとになされた。

西フランク王国(のちのフランス)の年代記者であるラウールは第1回十字軍遠征の様子を次のように記した。「マアッラ(アンティオキアの南東にある町、現在のマアッラト・アンヌマーン)で、我らの同志たちは大人の異教徒を鍋に入れて煮て食い、子どもたちを串焼きにして貪り食った」。 このような惨事の記憶はイスラム教徒の間に口伝えによって広められ、ヨーロッパに対する消し難いマイナスイメージを定着させた。 当時、まだ幼かったアラブ人の年代記者ウサーマ・イブン・ムンキズは次のように記した。「私は、フランク王国に通じている者全てを獣とみなす。 ヨーロッパの人間たちは勇気と戦う熱意には優れているが、それ以外には何もない。 獣が力と攻撃性で優れているのと同様である」。 一方、第1回十字軍遠征に従軍した西フランク王国の或る聖職者は次のように記した。「聖地エルサレムの大通りや広場には、アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げられていた。 まさに血の海だ。 しかし、当然の報いだ。 長い間、冒涜をほしいままにしていたアラブ人たちが汚したこの聖地を彼らの血で染めることを許したもう “神の裁き” は正しく、賞賛すべきである」。

十字軍の遠征は、西ヨーロッパ中世のキリスト教勢力が聖地エルサレムをイスラム教勢力から奪回しようとした正義の戦いであるとされている。 しかし、これはキリスト教の世界観に基づく独善である。

パレスチナは、神聖ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とイスラム帝国との三大文化圏がひしめく接点であった。 その中で7世紀以降、窮地に立たされたのが東ローマ帝国であった。 東からは新興のイスラム教勢力によって脅かされ、11世紀になると、西ヨーロッパが農業生産力を基盤に力を蓄えて膨張してきたからである。 しかも、西暦1054年以降は、「正統と異端」を巡って東ローマ帝国内にギリシャ正教会が成立し、東ヨーロッパと西ヨーロッパとの不和は深まっていった。 このような状況の中で、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世は東ローマ帝国の復権を図ろうと一計を案じた。 皇帝アレクシオス1世はパレスチナにおけるセルジュク朝イスラム教徒勢力によるキリスト教徒大迫害を捏造してローマ教皇ウルバヌス2世に報告し、教会の再合同(西ヨーロッパとの和解)を交換条件にして、異教徒制圧の為の援軍を要請した。 東方の情勢に疎かったローマ教皇ウルバヌス2世は援軍要請を真に受けて、「東方のキリスト教徒に対する救援と聖地エルサレムの解放は全キリスト教徒の至上の義務である」と呼びかけ、西暦1096年に十字軍を組織した。 ローマ教皇ウルバヌス2世が動いた背景には、教会の再合同という魅力があった。 ローマ教皇ウルバヌス2世には、この機会に東方のギリシャ正教会に対する優位を確立し、自らの勢力を拡大しようという野望があった。 従って、十字軍は東西ヨーロッパ指導者の政治的野心による合作であった。 キリスト教徒による「正義の戦い」という大義名分は「政治的野心」を隠蔽する為のものであった。 第1回十字軍遠征当時(11世紀末)のパレスチナにおいては、東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世がローマ教皇ウルバヌス2世に報告したような、イスラム教徒によるキリスト教徒迫害という事実はなかった。 イスラム教の寛容政策が行き渡っていた為である。 イスラム教徒側にとって第1回十字軍の攻撃は正に不意討ちであった。 尤も、十字軍側の勝利はこの第1回遠征のみであり、その後、西暦1291年まで続く7回に及ぶ戦いはイスラム教徒側の勝利に終わった。

第2章  異教徒に寛大だったイスラム教
イスラム教はジハード(聖戦)によって勢力圏を拡大したと言われる。 そして、そのとき引き合いに出されるのが「左手にコーラン、右手に剣」「コーランか剣か」という言葉である。 これは、「イスラム教に改宗するか、さもなければ、皆殺し」という、イスラム教徒の容赦ない征服者的態度を意味するとされるが、実は、これはキリスト教徒によるイスラム教徒排除のための宣伝文句であり、真実ではない。 確かに、7世紀の前半からイスラム世界は拡大し、イスラム教は東はインドネシアから西はイベリア半島、西アフリカに至る広大な地域を支配下に置いた。 しかも、その繁栄は17世紀まで約千年間も続いた。 その過程では幾多の戦争が繰り返され、多民族へ圧迫が加えられた。 また、権力争いや内部対立もあった。 イスラム世界と一言で言っても、それを構成する民族は単一ではなく、中世に主流を占めたのは好戦的といわれる騎馬民族であった。 そして、多民族が共存し得たところにイスラム世界の特徴がある。

イスラム教徒はジハードを次のように定義している。「イスラム教徒は平和主義をモットーとするが、それは無条件な平和主義ではなく、また無抵抗主義でもない。 邪悪・不正に対しては抵抗することを要請し義務づけている平和主義である。 人間性の尊厳、人権の擁護、社会秩序の維持の為に暴力を用いることの正当性について、コーランは次のように述べている。 『神は戦いを仕向けられた者たちに戦闘を許したまう。 それは彼らが害悪を被ったからである。 まことに神は彼らを力強く助けたまう』」(イスラミック・センター・ジャパン協会発行『ジハード』より)。

イスラム世界の拡大はコーランの教えに基づいたものであった。 キリスト教徒によって占領された地域の異教徒は、まずイスラム教に改宗することを勧められた。 しかし、それは「コーランか剣か」という強制的なものではなかった。 イスラム教への改宗を拒否しても、直ちに殺害されることはなく、人頭税と地租を納めれば、命はもちろん、信仰や財産も保証された。 ユダヤ教徒やキリスト教徒やゾロアスター教徒は「聖典の民」と呼ばれ、特に寛大な扱いを受けた。 だからこそ、イスラム世界は千年の安定を築き、その中から宗教を超越した文化が生まれ育ったのである。 とかく、イスラム世界の拡大と繁栄の原動力は「ジハード」という宗教戦争であったと強調されるが、実情は政治的動機による領土拡張である。 結果的に、イスラム教は領土拡張に伴う異民族や他宗教との軋轢を和らげ、多様な人々が共存できるように機能した。

第3章  ローマ教会にとっての異端
2世紀以降、キリスト教の教義が確立されていく過程で、キリスト教は幾つかの教派に分かれていった。 異なる教義を奉ずる者の間の対立が大きくなり、街中で暴力を伴う騒乱を起こす程になった。 特に、アタナシウス派とアリウス派との対立は激しかった。 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はこのような状況を打開する為に、西暦325年、ニカイアに各教派の司教を集め、第1回公会議を開き、イエス・キリストの神性をめぐる問題を論じ、アタナシウスの主張する三位一体説(神とイエス・キリストと聖霊とは実体としては同一であるという説)を正統教義とし、三位一体説を肯定するキリスト教派(アタナシウス派など)を正統派とし、三位一体説を否定するキリスト教派(アリウス派など)を異端派とした。 しかし、異端派とされたアリウス派の勢いは衰えず、ローマ帝国の各地で三位一体説を否定する様々なキリスト教派が活動していた。 西暦392年、ローマ皇帝テオドシウス1世は三位一体説を肯定する立場のキリスト教をローマ帝国の国家宗教とし、その他のキリスト教や異教を禁止した。 それ以降、三位一体説を肯定するキリスト教派(主としてローマ教会)は正統キリスト教会として大きな権力をもって異端派を弾圧することが出来るようになった。 ローマ教会にとって異端派はイエス・キリストの教えに歪みを生みだしローマ教会の立場を危うくする侵入者的な存在であった。

ローマ教会にとっての異端は数多くあるが、その中でも「キリスト教グノーシス主義」はローマ教会から見ると最強にして最悪の異端であった。 キリスト教グノーシス主義は、2世紀頃にギリシャ・ローマ・東洋の哲学・宗教が融合して生まれたものであり、物質vsイデア、肉体vs霊魂の二元論をとり、4世紀まで地中海世界で広く支持されていた。「キリスト教グノーシス主義」という言葉における「グノーシス」とは「自己の本質と至高なる神についての直観的認識」という意味である。 その思想・信条を簡単に説明すると、それは「率直に真摯に、かつ、希望的観測を排して、この世を直視すれば、この世の生は悲惨であり、この世は悪に満ちている。 そして、この世は物質で構成されている。 従って、物質は悪に通じるものである。 そして、物質で造られた肉体も悪に通じるものである。 物質に対するイデア、肉体に対する霊魂こそは真に価値ある存在である。 ユダヤ教の神ヤハウェは至高なる神ではなく、劣悪な神である。 どこかに至高なる神が存在するはずである。 至高なる神の下には階層を成して諸々の神霊が存在する。 イエス・キリストは、劣悪な神ヤハウェの束縛からユダヤ教徒を解放し、人間に自己の本質と至高なる神についての認識を促すために派遣された神霊である。 人間は自己の本質と至高なる神を直観的に認識できるように努めなければならない。 この世という物質世界に捉えられている人間の霊魂は自己の本質と至高なる神を直観的に認識することにより天国という高次の世界に行くことが出来るのである。 自己の本質と至高なる神を直観的に認識する為には、世俗的な快楽を避け、生殖に通じる行為を一切せずに、禁欲生活を送ることが必要である」というものである。 キリスト教グノーシス派はこの思想・信条に基づき、世俗的な快楽を避け、生殖を避けた。 キリスト教グノーシス派の中には、高い知性を持つ者や中流階級の知識人が多数いた。

キリスト教グノーシス派は二元論世界観を主張した為、「神」一元論を強力に推進するローマ教会から徹底的に弾圧された。 しかし、キリスト教グノーシス主義は浮かんでは消える異端群の底流となって存続した。 そして、その底流から10世紀にブルガリアでキリスト教グノーシス主義の「キリスト教ボゴミル派」が発生した。 11世紀には南フランスのアルビやトゥールーズでキリスト教グノーシス主義の「キリスト教カタリ派」(簡単に「カタリ派」、別名「アルビジョア派」) が発生した。 これらの現象の背景には度重なる十字軍遠征による人身の荒廃と疲弊、堕落した聖職者たちへの反発があった。 キリスト教カタリ派の思想の根本は「この世は悪に満ちている」というものである。 キリスト教カタリ派はローマ教会から見ると最強にして最悪の異端派であった。

キリスト教カタリ派(アルビジョア派)は発生以来、南フランスの諸侯に保護され、日増しに勢力を拡大していった。 もともと南フランスは地域の独自性を主張し、北フランス(パリ地方)と張り合ってきた土地柄であり、政治も文化も北フランスとは異なり、差別意識のない地域であった。 南フランスではギリシャ人とフェニキア人とユダヤ教徒とイスラム教徒が仲良く暮らしていた。 ユダヤ教徒は迫害されるどころか、領主から経営顧問を任されたり、キリスト教に改宗して司教になったりした者までいた。 階級の違いもほとんど無かった。 農奴のような屈辱的階級も無かった。 町は自由そのもの。 法律はローマ法。 教養あふれる民衆。 活発な文化と商業。 ヨーロッパで最も栄えた地域。 それが南フランスであった。

カタリ派の信徒の中には女の司祭もいて、女司祭は最も重要な儀式「救慰礼」(信徒が死の直前に受ける儀式)さえも取り仕切ることが出来た。 カタリ派の信徒は非常に敬虔であった。 “カタリ” とは「清浄な者」を意味するギリシャ語である。 彼らは家畜の肉を食べず、魚・海産物・野菜・果物を食べたが、少食であるうえ度々断食を行ない、不戦主義を守り、拷問に耐え忍び、そして、死んだ。 性の戒律は厳しく、完徳者と呼ばれる救いの定まった人々は、性行為はもちろんのこと、異性の肌に触れることすら禁じられ、年3回に及ぶ長期の断食を行なった。 そして、完徳者のみが肉体を去ったのち、天上の霊と再結合し、救済されると考えられた。 それ以外の人々は死後、別の身体や動物の身体をまとって生まれかわり、この転生は完徳者になるまで繰り返されると考えられた。 そして、遠い未来に全ての人は完徳者となり救われると信じられていた。

完徳者が送る完全な禁欲生活は、当時の教会の聖職者の堕落した生活とは対照的であった。 カタリ派の醜聞が流れても、彼らの人気は衰えなかったし、寛容と独立の風潮が消えることもなかった。 ヴィラルボの町では、教会法で厳罰に処されるのを承知で、破門された異端者を司祭に選んだほどであった。 カタリ派の人々はカトリック教徒からも愛されていた。 ローマ教会の軍勢が攻め込んできたときも、隣人を売るような真似は出来ないと言って死を選んだカトリック教徒が大勢いた。

キリスト教カタリ派の人気が広がると、ローマ教会は彼らにお決まりの罪を着せた。「カタリ派は十字架と秘蹟を冒涜している。 人食いの儀式をしている。 キリストの存在を否定している。 乱交の儀式をしている」といった具合だ。 しかし、12世紀のフランス出身の神学者で、ローマ教会の聖人である聖ベルナールは、カタリ派びいきというわけではないが、彼らについて次のように述べた。「彼らを問い詰めても、キリスト教徒以上の答えは返ってこない。 彼らの会話に非難されるべき点はない。 口にしたことは実行する。 道徳面はどうかと言えば、彼らは誰かを騙すわけでもなく、誰かを虐げるわけでもなく、誰かに暴力を振るうわけでもない。 断食の所為で青白い顔をし、まじめに働き、つつましく暮らしているのだ」。 『異端カタリ派』(フェルナン・ニール著、白水社、1979年)の中に、当時のカタリ派の信徒について、次のような記述がある。「彼らには誰もが最高の敬意を表わした。 帰依者は善信者に行き遭うと、その前で膝を三度かがめ、『祝福を』と言い、善信者のほうでは、『祝福を』と言われる度に、『神様がお前を祝福なさるように』と答えた」。

第4章  アルビジョア十字軍によるキリスト教カタリ派大虐殺
西暦1179年、ローマ教会はキリスト教カタリ派(アルビジョア派)とその支持者を糾弾するための公会議を招集し、ローマ教皇アレクサンデル3世(在位 1159年〜1181年)は次のように宣言した。「ローマ教会の敵に立ち向かう十字軍の兵士になれば、2年間どんな罪を犯しても、その罪は許され、死に行く者には永遠の救済が約束される」と。 しかし、人気のあるカタリ派が相手では十分な兵力が集まらなかった。 ローマ教皇インノケンティウス3世(在位 1198年〜1216年)は南フランスに次々と高位の聖職者を送りこみ、キリスト教カタリ派(アルビジョア派)を保護してきた南フランスの諸侯を説得する任に当たらせた。 シトー会の修道院長ピエール・ド・カステルノーは巧みにアメとムチを使い分けて、数々の成果を上げた。 だが、西暦1208年、彼は殺害された。 この殺害の報を受けたローマ教皇インノケンティウス3世は2日間、一言もしゃべらなかったという。 西暦1208年、ローマ教皇インノケンティウス3世はカタリ派(アルビジョア派)討伐の命を下した。 カタリ派(アルビジョア派)討伐の命を受けたのは第4回十字軍(西暦1202年〜1204年)に参加した騎士であった。 ローマ教皇インノケンティウス3世は民衆に次のように呼びかけた。「十字軍の兵士となった者には、免罪と永遠の救済を約束するだけでなく、異端者とその支持者の土地と財産を与える」。 こうして、悪名高き「アルビジョア十字軍」が編成され、カタリ派(アルビジョア派)討伐が始まった。 西暦1209年、多数のカタリ派信徒を擁していると見られていたベジェの町をアルビジョア十字軍が急襲した。 アルビジョア十字軍がベジェの町に攻め入ったとき、どうやってカトリック教徒とカタリ派信徒とを見分ければいいのかという質問に、アルビジョア十字軍指揮官のアルノーは次のように答えた。「全部殺してしまえ。 見分けるのは神だから」。 この言葉でアルビジョア十字軍はカトリックのマドレーヌ教会の境内に逃げ込んだ市民7000人を殺し、殺戮に次ぐ殺戮を続けた。 子供とて容赦しなかった。 或る歴史家は「女の死体でさえ辱めの対象となった。 女は最悪の屈辱を受けたのである」と書いた。 無差別の殺戮と略奪、そして、放たれた火によって町は大火事となり、2日間燃え続けた。 犠牲者の数は3万人とも10万人とも言われる。 意気上がるアルビジョア十字軍はカルカソンヌヘ進撃し、再び殺戮を行なった。 アルビジョワ十字軍は約40年間に渡ってカタリ派討伐を続けた。

こうして、生まれ変わりを信じて完徳者となって天国へ行くことだけを目的として清純に質素に生きたキリスト教カタリ派は壊滅寸前となった。 そして、その最後の抵抗の砦となったのはピレネー山脈の麓のモンセギュールの山城であった。 モンセギュールは異教との縁が非常に深い土地柄で、近くにはケルト時代に遡るドルイド教の神殿があり、霊のパワースポットとして知られていた。 ワーグナーのオペラ『パルジファル』に登場する「聖杯の城モンセルバート」は、このモンセギュールの山城がモデルになっている。 西暦1243年5月から1244年の3月にかけて、アルビジョア十字軍はモンセギュールの山城を包囲して最後の攻撃を加えた。 周囲が絶壁となって切れ落ちているモンセギュール峰(1206m)の狭い山頂部にある城の攻略は困難を極めたが、昼夜の区別なく投石器によって投げ込まれる石は、カタリ派信徒の頭を砕き、身体を潰した。 この山城では200人のカタリ派信徒が殺害された。 運良く脱出に成功したカタリ派信徒は執拗に追跡され、捕らえられたカタリ派信徒は異端審問所に送られ厳しい尋問を受け、生きたまま火あぶりの刑に処された。 カルカソンヌには今も当時の拷問器具が展示されているという。

以上のように、アルビジョア十字軍が約40年間にも渡って討伐を続けた結果、南フランスの100万人もの一般市民が老若男女の区別なくアルビジョワ十字軍によって殺され、キリスト教カタリ派だけでなく南フランスの人々の大半も犠牲となった。 アルビジョア十字軍によって徹底的に破壊された南フランスは、わずかな人口と瓦礫の山と崩壊した経済を背負い、北フランスに併合されてしまった。 因みに、このキリスト教カタリ派大虐殺は今日では当該国であるフランスにおいてあまり語られない。 その理由は、この大虐殺の後にローマ教会の権威が確立し、フランス内に在ったイギリス領の大半がフランス領となり、フランスの領土が大幅に拡大したことだと言われる。

第5章  テンプル騎士団の栄光と壮絶な結末
ローマ教会が嫌ったものは異教徒や異端派だけでない。 力をもつ者は誰でもローマ教会の餌食となった。 十字軍活動を背景に成長した中世の軍事修道会「テンプル騎士団(神殿騎士団)」への弾圧はその好例である。 テンプル騎士団は、聖地エルサレムに参詣に行く巡礼者を護衛する目的で第1回十字軍によるエルサレム奪回の後、ユーグ・ド・パイアンほか8名のフランス騎士によって創設された。 この騎士団は創設当初、その本部がエルサレム神殿跡に置かれていたので、テンプル騎士団(神殿騎士団)と呼ばれるようになった。 ユダヤ教神秘主義やイスラム教神秘主義をヨーロッパに持ち帰ったのは彼らだと言われている。 テンプル騎士団はどんどん入団者を増やし、西ヨーロッパとエルサレムとを繋ぐ巡礼地域において一大勢力に発展した。 テンプル騎士団は地中海の制海権を独占し、独自の船舶を保有し、西アジアへ兵員を輸送するだけでなく、巡礼者を有料で輸送し、その帰途には香料・シルクなど西アジアの産物を積んで、ヨーロッパ諸国でそれらを売り回り、莫大な富を得た。 また、金融では手形割引のほか、ユダヤ人高利貸の金利(年20%)の半分の10%で貸し付けた為、キリスト教徒の信用を得ていたと言われる。

西暦1162年1月、ローマ教皇アレクサンドル3世は多額の寄進と引き換えに、テンプル騎士団に特権を与えた。 テンプル騎士団はローマ教皇庁に納めるべき税の十分の一を免除され、領民から同額を年貢として徴収する権利を認められた。 そのうえ、テンプル騎士団は独自に神父と墓地とを所有する特権を与えられた。 このようにテンプル騎士団は巡礼者の護衛に力を注ぐだけでなく、西アジアとの貿易に熱心であり、莫大な財産を築き、各国に支部を置くようになった。 特にフランスでは、各地に修道院と城を兼ねた1万の拠点を持ち、広大な領地を擁し、騎士たちは事業を行なって、国王にさえ金を貸した。 言わば、フランス国内に別の国があるようなものであった。 テンプル騎士団はフランスの財務だけでなく、バチカンの財務をも担当するようになった。 こうして、テンプル騎士団は13世紀初頭にはヨーロッパ最大の国際金融銀行兼貿易商社に成長した。

ローマ教会と国王たちは、次第に強まるテンプル騎士団の政治力に脅威を感じ、彼らのキリスト教徒らしからぬ属性に疑問を抱き、巨万の富に嫉妬を覚えた。 フランス王フィリップ4世は、テンプル騎士団からの度重なる借金で首が回らなくなり、破産の危機に瀕していた。 彼はフランス人の傀儡ローマ教皇クレメンス5世に強く働きかけて、テンプル騎士団を滅ぼそうと考えた。 こうして、恐ろしい迫害が始まった。 西暦1307年10月7日午前3時、フランス王フィリップ4世の手勢は、テンプル騎士団のパリ本部「タンプル塔」に滞在する騎士団長の寝込みを急襲し、城内の騎士団員五千人全員を逮捕した。 この逮捕は、テンプル騎士団は世俗の権力の埒外に置かれるという、140年前のローマ教皇アレクサンドル3世の約束を踏みにじったものであったが、傀儡ローマ教皇クレメンス5世はフランス王フィリップ4世に何の抗議もせず、黙認した。 それどころか、傀儡ローマ教皇クレメンス5世はフランス王フィリップ4世と行動を共にして、翌月には西ヨーロッパ諸国の王に、その国内のテンプル騎士団員を全て逮捕せよとの命令を発した。 逮捕されたテンプル騎士団員の裁きはすべて、フランス王フィリップ4世の宰相として絶大な権力を持っていたドミニコ会の異端審問官ギヨーム・ド・ノガレに委ねられた。 この異端審問官は残忍な宗教裁判を主宰し、拷問によって望むがままの自白を引き出した。 そして、信じられないような噂が町を駆け巡った。 テンプル騎士団員は入団の儀式で神やキリストや聖母を罵り、十字架に唾を叶いて足で踏みつけ、小便をひっかけるらしいという噂である。 このやり方はローマ教会がユダヤ人に使った手口と同じである。 この宗教裁判は5年間続いた。 その間、54人の騎士(貴族出身)が身体に何本も楔を打ち込まれ、自白を強制させられたあげく、火あぶりの刑に処されて殺された。 やがてフランス王フィリップ4世の圧力に負けた傀儡ローマ教皇クレメンス5世の教書により、1万5400人の騎士(貴族出身)を擁していたテンプル騎士団は全面的に解散を命じられた。 フランス王フィリップ4世はこのどさくさを利用して、テンプル騎士団の会計帳簿類を押収・焼却し、莫大な借金を踏み倒した。 テンプル騎士団の莫大な財産は丸ごとフランス王フィリップ4世によって没収された。 こうして、テンプル騎士団は公式には西暦1311年のヴィエンヌ公会議において解散させられた。 西暦1314年3月、最後まで残されていたテンプル騎士団長ジャック・ド・モレーなどの大幹部に対し火あぶりの刑が宣告された。 この宣告があった日、王宮の庭園に面するセーヌ川の中にある小さな島(シテ島)に火刑台が2基立てられた。 火刑台のたきぎに火がつけられてからも、ジャック・ド・モレーは呆然と見守っている大群衆を前に声をからして無罪を叫び続けた。 そして、「俺と一緒にローマ教皇もフランス王も地獄に連れていってやる」と呪った。 この呪いの言葉を聞いて、傀儡ローマ教皇クレメンス5世は青ざめて卒倒し、翌月の4月に急死した。 フランス王フィリップ4世もその年の11月に死んだ。 世間ではジャック・ド・モレーの呪いによるものだ、と囁かれた。 このジャック・ド・モレーの呪いには後日談がある。 ジャック・ド・モレーが生きたまま火あぶりの刑に処されてから480年後の西暦1793年1月、フランス王ルイ16世の首にギロチンの刃が落下した。 その瞬間、「ジャック・ド・モレーは復讐を果たした」という叫びが群集の中からおきたという。 また、ジャック・ド・モレーが処刑される前夜、彼は腹心の騎士ラルメニウスを後継の騎士団長に指名し、「今後は地下に潜って、秘密結社としてフランス王国打倒の非合法破壊活動に専念せよ」と命じたとも言われている。 このことから、テンプル騎士団の残党が、後に誕生する「フリーメーソン」と連携して、積極的にフランス革命を推進させたとの憶測が生み出された。 フリーメーソンのルーツをテンプル騎士団に結びつけて考える研究者は少なくない。

西暦1808年、皇帝ナポレオン治下のパリで、「テンプル騎士団最後の団長ジャック・ド・モレーの火刑500年祭」(実際は494年目)が行なわれた。 また、西暦1824年にも、王政復古政府のもとで同じ趣旨の式典が行なわれ、テンプル騎士団の名誉回復が宣言された。 その後、ジャック・ド・モレーの名を冠した「モレー騎士団」が結成されて、今日に及んでいる。

第6章  「千年王国思想」に突き動かされた「民衆十字軍」の狂気
「千年王国思想」はキリスト教の特徴である。 新約聖書の『ヨハネ黙示録』で描かれた救済を成るべく早く実現しようとする運動を「千年王国運動」と呼ぶ。 その救済は千年王国の開始と新エルサレムの降臨という2段階で訪れ、「千年王国」で復活が許されるのは殉教者である、とヨハネは黙示録の中で語っている。 そこで、熱烈な「千年王国」信奉者は、信仰に命を捧げ、「千年王国」で復活させてもらい、イエスと共に「千年王国」を統治したいと切望するようになった。 十字軍遠征時代になると、「千年王国」信奉者は騎士による正規十字軍とは別に、「民衆十字軍」を組織した。 この民衆十字軍は大抵 “自称メシア(偽メシア)” を中心に組織され、メンバーの大多数は貧民で、その内容は今日のカルト(狂信的で反社会的な宗教集団)と大差なかった。 11世紀末に活動したアミアン(フランス北部の町)のペテロは、「キリストが十字軍を組織するよう命じた手紙を所持している」と唱えて、「民衆十字軍」を組織し、メンバーを率いて聖地エルサレムヘ向かった。 これと同じような「民衆十字軍」が各地で誕生し、通過していく先々で略奪し、イスラム教徒やユダヤ教徒を殺しまくり、女性を強姦した。 ときにはイスラム教徒やユダヤ教徒の死体を食うこともあった。 12世紀のブルターニュ(フランス北西部)では、エオンという “自称メシア” が「民衆十字軍」を組織した。 エオンは「世界の支配権は神と自分にある」と言い、「自分こそ生ける者と死せる者を裁き、この世を業火で焼き清める為に来た者だ」と唱えた。 彼らの生計は暴力と略奪で立てられ、たびたび教会などを襲った。 同じく12世紀にアントワープ(ベルギー北部の町)に現れたタンケルムという “自称メシア” も自らをキリストと称し、唯一の救済者であると力説した。 信者はタンケルムを盲信し、彼の入浴後の水をキリストの血である葡萄酒に等しいものと思って飲んだ。 13世紀半ばには、ヤコブと称する修道士が「聖母マリアから手紙を手渡された」と唱えた。 その手紙には、聖地エルサレム解放の為には堕落した騎士ではなく羊飼いを呼び集めなければならないと記されていたという。 そして、彼がピカルディー地方(フランス北部)で十字軍勧誘の演説を始めると、数日のうちに数千人の民衆が参集した。 彼らの大多数は元々羊飼いや豚飼いであり、飼育していた羊や豚を放り出して、聖母マリアの神秘的な来訪を図柄にした旗の下に集ったのである。 この集団は「羊飼いの十字軍」と呼ばれた。 また、この集団に泥棒や売春婦といった無頼の徒が加わっていたことが知られている。 彼らは羊飼いの服装をし、この集団は隊別に編成されて武装した為、次第に軍隊の様相を呈していった。 そして、この集団は聖職者を攻撃しながら各地で略奪を繰り返した。 この集団「羊飼いの十字軍」はキリスト教会との対立を先鋭化させつつ、アミアン、ルーアン(フランス北部の町)、パリなどを経てブルージュ(ベルギー北西部の町)に至ったが、この集団は無法者と断じられ、 この集団の長ヤコブは市民たちによって惨殺された。 この集団のメンバーの多くも逮捕されて絞首台の露と消えた。

このように、各地で様々な「民衆十字軍」が活動していた。「千年王国」信奉者である彼らにとって、最大の敵はイスラム教徒であり、最も敵視されたのはユダヤ教徒であった。「ユダヤ教徒は悪魔の子である」「シナゴーグは黒魔術の巣窟である」と固く信じられるようになったのは、この時代である。