化学兵器について

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第1章  核兵器より優れている点が多い化学兵器
化学兵器(毒ガスなどの有毒化学剤を使用した兵器)の実態は一般には殆ど知られていない。 その為、一般人は核兵器の方に注意を奪われやすい傾向がある。 化学兵器の脅威は核兵器の脅威とは別種のものである為、この2種類の兵器の脅威はどちらが大きいかを単純に論じることは出来ないが、化学兵器は核兵器より気軽に気安く使える為、その意味では、化学兵器の脅威は核兵器の脅威を遥かに凌ぐ。 使用効果・生産コスト・生産設備・取り扱いの簡単さなどの点から見て、化学兵器は核兵器より優れている点が多い。 例えば、使用効果については、核兵器は生物だけでなく建造物なども破壊し尽くしてしまうが、化学兵器は生物のみを殺傷する。 化学兵器は奇襲戦や撹乱戦や謀略戦に適しており、更に、パニック惹起といった特殊用途にも適している。 更に、化学兵器に対しては完全な防御法がない。 核兵器に有効な核シェルターも化学兵器の前では無用の長物である。 更に、化学兵器は安価に大量に簡単に生産できるという生産面でのメリットを持っている。

第2章  第一次世界大戦(1914年〜1918年)は世界初の毒ガス戦であった
兵器として人類史上初めて使用された毒ガスは、紀元前5世紀、ペロポネソス戦争でスパルタ軍が使用した亜硫酸ガスであるといわれている。 中世ヨーロッパでは可燃性物質を燃やして煙や有毒ガスで敵をいぶし出す戦術がたびたび採られた。 近代以降では、1915年4月22日、第一次世界大戦のイープル戦線でドイツ軍が塩素ガスを使用した。 この塩素ガスは雲状となって連合軍兵士を襲い、一挙に約1万5000人の連合軍兵士に多大な損害を与えた。 一般には、これが第一次世界大戦での最初の毒ガス戦とされているが、厳密には、第一次世界大戦で最初に使われた毒ガスは「ブロモ酢酸エステル」で、フランス軍がこの毒ガスを西部戦線で1914年8月からドイツ軍に対して使用した。 この毒ガスは現在の分類では催涙ガスに分類されているが、毒性は塩素ガスより強い。 イギリスはイープル戦線での毒ガス体験の約5ヶ月後に、同じく塩素ガスを使ってドイツに報復した。 1915年の12月にはドイツが再びイープル戦線で「ホスゲン」を初めて使用した。 イギリスはこれに対抗して、「塩素」と「ホスゲン」の混合物で応酬した。 ホスゲンは農薬やポリウレタンなどの原料として使われる化学物質で、毒性が強く、人がこれに触れると、目や気管、皮膚などに炎症が起き、人がこれを吸い込むと、肺水腫が引き起こされ、死ぬ場合もある。 一方、フランスは「青酸ガス(シアン化水素)」の実験を進め、イギリスも最強の致死性ガスの開発を目指して、既知の化学物質15万種類の実験を急いだ。 ドイツはこれに対抗して、1917年に毒ガス弾を開発した。 その毒ガス弾には、のちに「マスタードガス」(別名「イペリット」)として知られるようになった茶色の液体「硫化ジクロロエチル」が詰められていた。 マスタードガスは皮膚をただれさせる効果を持つ。 また、マスタードガスは遅効性を持つ為、人がこのガスに曝されても、曝されたことに直ぐには気付かない。 マスタードガスはゴムを透過する性質がある為、普通の防護服ではマスタードガスを防ぐことが出来ない。 マスタードガスは空気よりもかなり重く、持続性が高い為、低所に停滞し、塹壕など低いところに潜む兵士に極めて有効である。 この毒ガスの持続性と効果はすさまじく、この毒ガスによるイギリス側の死傷者は18万5000人に達した。 この数字は、第一次世界大戦での毒ガスによる死傷者総数の70%に相当するほどである。 イギリスとフランスはドイツに対抗して、独自にマスタードガスを開発した。

アメリカでも大規模な毒ガス研究が急ピッチで進められ、マスタードガスと同じような効果をより速やかに発揮できる毒ガス「ルイサイト」が開発された。 ルイサイトはゴムを透過する性質がある為、普通の防護服ではルイサイトを防ぐことが出来ない。 ルイサイトは皮膚をただれさせる効果を持ち、即効性があり、人がこれを吸い込むと、胸が焼け付くように痛み、咳・嘔吐などが生じ、肺水腫が引き起こされ死ぬ場合もある。

第3章  ドイツの毒ガス戦を指揮した天才科学者フリッツ・ハーバー博士
第一次世界大戦中、ドイツ軍司令部は「陸軍省化学局」を新設し、その局長にフリッツ・ハーバー博士を任命した。 フリッツ・ハーバー博士は化学史上屈指の大発見・大発明を成し遂げたことで知られる天才科学者であり、アンモニア合成法の「ハーバー・ボッシュ法」で知られ、第一次世界大戦中は毒ガス開発に携わり、前線監督官として毒ガス戦を指揮し、1918年にノーベル化学賞を受賞した。 因みに、彼の妻は夫が毒ガス戦に関わることに抗議して自殺した。

化学兵器に詳しい常石敬一教授はフリッツ・ハーバー博士について次のように述べている。 「毒ガス戦の父と言われるのがフリッツ・ハーバーだ。 彼は毒ガスの大規模使用のアイデアを出し、それを実行した。 ハーバーは、相手陣地があたかも雲で覆われたかのような外観を呈する状況を作り出すべきだと主張した。 彼が選んだ毒ガスは、ドイツが他国に先駆けて大量生産に成功した塩素だった」。 医療ジャーナリストの宮田親平氏はフリッツ・ハーバー博士について次のように述べている。「第一次世界大戦で毒ガスに使用された化合物の種類は40以上に達したと言われ、生産された総量は15万トン。 そのうち、ドイツが6万8000トンである。  〈中略〉  フリッツ・ハーバーが先頭に立たなければ、これほどまでに毒ガス戦が拡大・深刻化しなかったはずである。 彼は人類の化学史上、屈指の業績となる空中窒素固定によるアンモニア合成法の成功で声価を得た、ドイツ化学界最大のスターだった。 しかも、彼の研究がボッシュに引きつがれて工業化に成功したことによって、その勢威は学界だけでなく化学工業界にも及んでいた。 だからこそ、『戦争をこれによって早く終結させることができれば、無数の人命を救うことになる』の一言で、ヴィルシュテッター、フィッシャー、ヴィーラント、フランクらのノーベル賞学者たちが渋々ながらでも知恵を貸し、またBASF、バイエルなどの化学工業会社を糾合させることができたのである。 その結果、彼の『盲目的な愛国心』は、『無数の人命を救う』のとは反対に、やたら無益に戦争を引き延ばすことに一役買ってしまったのだ」。

第一次世界大戦での毒ガス使用の体験は、巻き込まれた国々の国民を恐怖に陥れた。 第一次世界大戦中に民間人をも含めて100万人もの人たちが毒ガスを浴び、そのうち、10万人が死亡という悲惨な結果となった。 にもかかわらず、第一次世界大戦後、化学兵器の研究は急ピッチで進行した。 第一次世界大戦での死傷者数から判断して、化学兵器はかなりの軍事的価値を持つことが実証されたからである。

第4章  第2世代の毒ガス「タブン」「サリン」「ソマン」
■「タブン」の誕生(1936年)
1925年から1945年までに、多くの国で化学兵器の開発が飛躍的に進んだ。 なぜなら、開発された化学兵器を実戦使用するチャンスが数多く生まれたからである。 例えば、イタリアは1935年〜1936年にかけてエチオピアを併合しようとして戦争を仕掛け、「ホスゲン」と「催涙ガス」と「マスタードガス」を散布し、多大な効果を上げた。 1938年には、日本軍が中国の山東省の前線で「ルイサイト」と「マスタードガス」を使用したと言われている。 これらの実戦使用が積み重なった結果、化学兵器の開発は大きく進み、同時に新しい種類の毒ガスが開発された。

新しい種類の毒ガスの開発は新型の殺虫剤の研究から始まった。 新型の殺虫剤を研究していたドイツ企業 I・G・ファルベンの化学者シュラーダー博士の研究グループが人にも極めて有害な作用をもつ化合物を1936年に開発した。 その化合物は無色または褐色の液体で、揮発性が高く、「タブン」と名づけられた。 そのガスはそれまでの毒ガスとは異なり、呼吸器からだけでなく、皮膚からも吸収されて体内に入る。 従って、全身を覆う防護服を着用しなければ、この毒ガスから身を守ることはできない。 この毒ガスの作用は、アセチルコリンエステラーゼという酵素の働きを阻害して、直ちに神経を麻痺させ、死に至らしめるという極めて特異なものである。 この毒ガスを人に用いると、たちまちの内に筋肉が痙攣し、呼吸できなくなり、窒息死する。 このような作用を持つ「タブン」は塩素に比べて100倍〜1000倍も有毒であり、「マスタードガス」「ホスゲン」「ルイサイト」「青酸ガス」に比べて10倍〜100倍も有毒で、致死量は数千分の1グラムである。 この種の毒ガスは「神経ガス」と呼ばれている。

ナチス・ドイツの軍部はシレジアのブレスラウ付近に「タブン製造工場」を建設するため、1億マルクもつぎ込んだ。 ここでの「タブン」の月間生産能力は3000トンであった。 この液体化合物は広い地下工場内で爆弾や砲弾に詰められた。

■「サリン」の誕生(1938年)
ナチスは「タブン」を開発したシュラーダー博士をベルリンに招き、いっそう協力して毒ガスを開発するように命じた。 1938年、 I・G・ファルベンは「タブン」の2倍の毒性を持つ化合物「サリン」の合成に成功した。「サリン」は無色無臭の液体で、揮発性が高い。 そのガスも「タブン」と同様に神経ガスであり、皮膚からも速やかに吸収され、アセチルコリンエステラーゼという酵素の働きを阻害して、直ちに神経を麻痺させ、死に至らしめる。 この毒ガス弾を都市に投下すれば、数分間で「死の町」とすることができる。「サリン」の名はシュラーダー博士を初め、開発に当たった4人の研究者の名前の一部を組み合わせて命名されたものである。

■「ソマン」の誕生(1944年)
更に、ナチス・ドイツは1944年に「タブン」や「サリン」より更に強力な「ソマン」と呼ばれる毒ガスを完成させた。「ソマン」は1944年にドイツの化学者リヒャルト・クーンによって開発された。「ソマン」は無色無臭の液体で、揮発性が高い。 そのガスも「タブン」や「サリン」と同様に神経ガスであり、皮膚からも速やかに吸収され、アセチルコリンエステラーゼという酵素の働きを阻害して、直ちに神経を麻痺させ、死に至らしめる。 この「ソマン」の存在は極秘中の極秘だった為、第二次世界大戦後も暫く発見されなかった。「ソマン」が或る鉱山中に貯蔵されているのをソ連軍が発見し、その存在が確認されたと言われている。 ナチス・ドイツは、月産1万トンの毒ガスを生産できる能力を持つ工場を20ヶ所も所有し、終戦時における毒ガス推定備蓄量は7万〜25万トンであった。

第5章  ヒトラーは化学兵器を使用しなかった
ナチス・ドイツで開発された第2世代の毒ガスはナチス・ドイツ軍部によって秘密にされた為、連合国はその存在すら知らなかった。 もちろん、毒ガスの生産はイギリスやアメリカでも盛んに行なわれていた。 両国とも1945年までに、主として「ホスゲン」と「マスタードガス」合わせて500万トンを備蓄していた。 アメリカでは1942年から1945年までの間に多くの化学兵器工場が建てられ、多くの化学兵器が生産された。 しかし、これらの化学兵器は第二次世界大戦中には殆ど使用されなかった。

ナチス・ドイツは敗戦時までに7000トン強のサリンを備蓄していた。 これはパリのような大きさの都市を30回も全滅させるのに充分な量だった。 ナチス・ドイツの敗戦が濃くなった頃、ヒトラーの側近だったヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣は化学兵器の使用を主張した。 ドイツ国防軍最高司令部総長カイテル陸軍元帥も戦局を打開する為に化学兵器の使用に前向きだった。 しかし、ヒトラーは彼らの進言を全く聞き入れず、化学兵器を戦争で使用することも、ユダヤ人の殺害に使用することもなかった。 尤も、ザクセンハウゼンの収容所などでは、囚人の腕にマスタードガスを塗って、その効力が実験されてはいた。 しかし、それが化学兵器による大量虐殺へ発展することはなかった。 結局、「タブン」「サリン」「ソマン」は実戦使用されないまま終戦を迎えた。

なぜ、ヒトラーは化学兵器を使用しなかったのか。 その理由は、ヒトラーが化学兵器による報復を恐れていたからだ、と言われている。 ヒトラーは第一次世界大戦の時のように毒ガスを使用すると、たちどころに同じような毒ガスで報復を受け、惨憺たる結果を招いてしまうことを恐れていたという。 尤も、当時、連合国側は「サリン」のような殺傷能力の高い神経ガスの開発には成功しておらず、そのことをドイツ軍部は知らなかった。 また、ヒトラーは若い頃、第一次世界大戦でイギリス軍のマスタードガス攻撃を受けて一時的に視力を失い、野戦病院に搬送されたことがある。 化学兵器は、ヒトラーが最も嫌った兵器であると言われている。

アウシュヴィッツ収容所でユダヤ人の殺害に使われていたとされる「チクロンB」は「サリン」とは違って、殺人用に開発された毒ガスではない。「チクロンB」は当時のドイツ社会で一般に販売され、殺虫作業などに広く使用されていた。「DDT」を持たなかったドイツ軍は「チクロンB」をシラミ駆除の殺虫剤として使用していた。 アウシュヴィッツ収容所でも「チクロンB」はシラミ駆除の殺虫剤として使われていたのであり、殺人用に使われていたのではない。

「チクロンB」を開発したのは、第3章で紹介したフリッツ・ハーバー博士である。 彼はアンモニア合成法の発明で第一次世界大戦中の祖国ドイツに最も寄与したばかりでなく、毒ガス戦の陣頭に立ち、祖国ドイツに忠誠を尽くした。 彼の研究は第一次世界大戦後の荒廃の中で少資源国ドイツを支え続けた。 しかし、彼はユダヤ人の血を引いていたので、1933年にヒトラー政権が誕生すると、ドイツから追放され、翌1934年にスイスで死んだ。 その死に際して、ドイツ科学界はヒトラー政権の制止を振り切って盛大な告別式を行なったという。 因みに、ハーバー博士は死の十年前(1924年)に日本を訪問した。 その目的の第1は、星製薬社長の星一氏が戦後のドイツ学界の経済的苦境を救うために、多額の資金を提供したことに対する返礼にあった。 その目的の第2は、半世紀前に函館で横死した叔父(ドイツの初代函館領事)の記念碑の除幕式に参列する為であった。 ハーバー博士は約2ヶ月の日本滞在中、日本の伝統文化に深い関心を示し、帰国後は「日独文化交流協会」をベルリンに設立するなど、日独間の交流の為に力を尽くした。

因みに、第一次世界大戦で10万人のユダヤ人が「ドイツ兵」として戦い、そのうち4万人が志願兵だった。 ドイツでは第一次世界大戦で200万人が命を失った。 ドイツ国内で1933年に始まったユダヤ人科学者追放の嵐により、ドイツの全科学者の4人に1人が大学や研究所から追放され、物理学者では3人に1人が大学や研究所から追放された。

第6章  戦後も続いた毒ガス開発
結局、実戦使用されないまま終戦を迎えた「タブン」「サリン」「ソマン」の三兄弟。 これらのナチス・ドイツ製「神経ガス」は戦後の調査で連合国の科学者を大いに驚かせた。 そして、それらの毒ガス保管物・製造工場・技術者の大部分はソ連軍の手中に落ちた。 一方、アメリカ軍とイギリス軍もドイツ人の神経ガス開発スタッフを捕虜として捕え、自国に連れて帰った。 彼らドイツ人科学者たちはアメリカとイギリスの神経ガスの研究・開発において重要な役割を果たした。 そして、第二次世界大戦後の東西冷戦構造の中で化学兵器の開発競争が拡大・激化した。 こうして、ナチス・ドイツが開発した「タブン」「サリン」「ソマン」はアメリカ・イギリス・ソ連に広がり、「Gガス」と呼ばれるようになった。

「ソマン」より更に強力な「VX」と呼ばれる化学剤が1952年にイギリスにおいて開発された。「VX」は第3世代の神経ガスであり、「ソマン」に比べて毒性は一桁強い。「VX」は琥珀色で無臭で粘性のある液体で、高濃度のものは蜂蜜のように粘度が高い。 液体の「VX」は揮発性が極めて低い為、これを毒ガスとして使う場合には、霧状にして散布する。 霧状に散布された「VX」の微小滴は「タブン」「サリン」「ソマン」と同様に呼吸器からだけでなく、皮膚からも吸収され、アセチルコリンエステラーゼという酵素の働きを阻害し、神経を麻痺させる。 液体の「VX」は揮発性が極めて低く、しかも、被毒時点から被毒症状が出るまでに5分程度かかり、被毒時点から15分〜30分後に死に至らしめるという特性を持つ。 この特性を使って、人混みの中で特定の人物の皮膚に液体の「VX」を少量塗り付けることで、不信感を持たれることなく、その人物だけを殺害することができる。「タブン」「サリン」「ソマン」は化学的安定性が低く、揮発性が高いのに対し、「VX」は化学的安定性が高く、揮発性が極めて低い為、散布された微小滴の「VX」は数週間に渡って毒性を維持する。 しかも、「VX」は疎水性(親油性)を持つ為、水で洗浄しただけでは取り除くことができない。 木材・石・皮・布などに付着した「VX」は数週間に渡って毒性を維持したまま残留するので、「VX」が散布された一帯の木材・石・皮・布などに直に触れることは極めて危険である。 アメリカでは1961年に「VX」の生産が開始され、1969年に生産が中止されるまでに数万トンの「VX」が生産されたと言われている。

スウェーデン国立平和研究所の1988年度資料によると、第二次世界大戦後に毒ガス、枯れ葉剤、生物兵器が使用された件数は20件強に上っている。 その最初は1951年5月、米軍のB29が北朝鮮西部の南浦市を「毒ガス弾」で攻撃したもので、1000人が被害を受け、そのうちの500人が窒息死したという。 ベトナム戦争(1955年〜1975年)での米軍の枯れ葉剤の使用はよく知られている。 1970年代から1980年代にかけても、数多くの化学兵器使用例が挙げられている。 例えば、1978年5月にはアンゴラで南アフリカ空軍が使用し、1980年にはエチオピア軍がエリトリアとの戦闘で使用し、同じく1980年にはイラン・イラク戦争でイラク軍が使用し、1981年にはエルサルバドルでサルバドル軍と州兵が使用し、1982年にはレバノンでイスラエル軍が使用したと言われている。 このデータを見ただけでも、使えない核兵器よりも、使える化学兵器のほうがずっと実戦的で恐ろしいということが判るだろう。

なお、化学兵器の使用報道に関しては、敵対国の政府関係者が化学兵器の使用を誇大に、あるいは、虚構として宣伝する場合があるので、我々は、この種の報道には政治的意図が込められていることが多いということを念頭に置かねばならない。

化学兵器はわずかな資金と少数の人間で作ることが出来る為、生物兵器と合わせて「貧者の核兵器」とも呼ばれており、核兵器を持たない国やテロリストが関心を持っていると言われている。 日本では「オウム真理教団」が1994年6月に「松本サリン事件」を起こし、翌年3月に「地下鉄サリン事件」を起こし、世界を震撼させたのはまだ記憶に新しい。

現在、化学兵器は、1997年に発効した「化学兵器禁止条約」によって使用のみならず、製造・保有も禁じられている。 しかし、北朝鮮など条約未署名国もある。 化学兵器は、ある程度の知識と資金があれば容易に作ることの出来る兵器なので、この地球上から完全に無くすことは出来ないと思われる。