ソ連の「ユダヤ自治州」

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現在、ハザール系ユダヤ人の使用言語であるイディッシュ語を公用語として認めている地域がある。 しかも、その地域は日本からかなり近いと言えば、人は驚くであろう。 その地域はロシアの「ユダヤ自治州」である。 このユダヤ自治州は、イスラエル共和国が成立する前から存在していた。 1920年代のソ連では、各地に自治共和国や自治州など、民族の自治行政単位が次々と創設された。 ソ連国内には沢山の民族が共存していたが、そこでのユダヤ人と他民族との違いは、ユダヤ人だけが土地を持っていないということであった。 ソ連政府はユダヤ人に土地を与えるプランを練り、1928年3月に「ビロビジャン計画」を立てた。「ビロビジャン」はロシアとシナとの国境を流れるアムール川(黒竜江)支流域の町で、ビロビジャンとその周辺をユダヤ人の自治州とし、将来、ソビエト連邦を構成する共和国とするとされた。 この計画の背後には「満洲からの脅威」に備える国防的配慮もあったと言われている。 ソ連政府は外国の政治的同情と経済援助を受けられることを期待し、「ユダヤ人の歴史上初めて、自分の故郷の建設、自らの民族国家の成就への燃えるような要望が満たされた」とぶちあげた。 こうして、ビロビジャン計画が大々的に宣伝されると、入植希望のユダヤ人がビロビジャンに殺到した。 ビロビジャン計画に熱狂したユダヤ人がポーランドやアルゼンチンやアメリカからもやってきた。 ビロビジャン計画立案から6年後の1934年5月、ユダヤ自治州が出来た。 だが、寒い気候の上に、沢山の雨が降り、沢山の虫がいて、更に、木を切り倒して、その木で家を建てなければならないということで、ユダヤ自治州から撤退するユダヤ人がたくさん出た。 1939年の国勢調査によれば、このユダヤ自治州の人口10万9000人のうち、基幹民族たるユダヤ人は1万7695人(16%)にすぎず、しかも、彼らユダヤ人の大多数は都市部に集中していた。 1928年から1937年までの10年間で、凡そ4万3000人のユダヤ人がビロビジャンとその周辺に移住したが、その過半数は短期間でこの地を去った。

ビロビジャンではユダヤ文化が繁栄したが、自由な発展を許されたわけではなく、1936年〜1938年の「大粛清」期やスターリン晩年期にしばしば民族的偏向の咎めを受け、弾圧された。 ビロビジャン計画は都市生活者であるユダヤ人を農民に変えようとするものでもあった為、ロシアに住むユダヤ人の大多数はこの計画を受けいれず、結局、予定されたユダヤ人口に達しないまま、この計画は頓挫した。 フルシチョフは後に、この計画が御破算になった理由として、「ユダヤ人は農耕に適さず、集団生活を厭う個人主義者ばかりだからだ」と言った。 現在も、このユダヤ自治州は、ロシア連邦極東地方に残る唯一の自治州として存在する。 面積は3万6000平方キロメートルで、1995年現在の州人口は21万2000人である。 そのうち、ユダヤ人は7000人弱しかいないという。 1994年に、NHKの衛星放送でビロビジャンの様子が4回にわたって報告された。 それによると、経済状態は相当に悪いらしく、ユダヤ人が次々とこの地を去っているという。