ナチスの科学技術を没収したアメリカとソ連

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第1章  連合軍はドイツ全土から科学的・技術的な戦利品を奪い取った
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの科学技術力は圧倒的だった。 当時、軍需大臣に昇進していたアルベルト・シュペーアは次のように書いている。「1944年の段階では、ジェット戦闘機『Me262』だけが奇跡の兵器であるのではなかった。 遠隔操作で飛ぶ爆弾、ジェット機より速いロケット弾、熱線により敵機に命中するロケット弾、ジグザグコースで逃げていく船の音を探知し追跡する魚雷を我々は持っていた。 地対空ロケットの開発も終わっていた。 リピッシュ博士は無尾翼の原理によって設計された戦闘機を開発した。 それは当時の飛行機製造の標準を遥かに超えたものであった」。

アメリカ政府もイギリス政府も、通信とレーダーを除く殆ど全ての戦争関連技術において、ドイツの技術が連合国の技術を上回っているという認識を持っていた。 戦争関連技術におけるドイツ側の優越は、V2ロケットがイギリスに落とされるようになると、いよいよ明らかになった。 イギリス人をどん底に叩き込んだV2ロケットは、約1トンの爆弾を搭載し、マッハ4の速さで飛び、自動制御装置で誘導されるミサイルであり、当時、これに対する防御手段は無かった。 このV2ロケットは、ペーネミュンデ陸軍兵器実験場(ドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島にあるロケット開発基地)に勤務するフォン・ブラウンを初めとする開発スタッフが作ったものである。 このV2ロケットの本来の名称は「A4」であったが、ナチの幹部は「A4」を勝手に「V2」と命名した。「V」は「Vergeltungswaffe(報復兵器)」の頭文字である。 V2ロケットは敗戦までに約6000発が生産され、その内の約3170発が実戦で発射された。 戦時中、フォン・ブラウンらの開発スタッフが最終的に到達したのが「A9/A10」の構想であった。 この構想は、A4にほんの少し改造を施し、これをA9とし、A9をさらに巨大な液体燃料ロケット(A10)に載せて2段式とし、射程は何と5000kmという当時としては法外な長射程のロケットを開発しようというものであった。 この「A9/A10」(重さ100トン)は、その発想において世界初のICBM(大陸間弾道ミサイル)と言うことができる。 また、ロケットの複数段化という発想も世界で初めてである。 このロケットは、試作中にドイツが降伏したので、使われなかったが、もし、実現していたらドイツからアメリカ本土を直接攻撃することが可能であった。 これとは別に、「A11」という更に強力なエンジンでA9をより遠距離に飛ばすという3段ロケット「A9/A10/A11」構想もあったという。

これらのロケット開発と並行して「ゼンガー計画」というものがあった。 この計画はロケット推進による「宇宙爆撃機」の開発計画であり、オーストリア生まれのロケット工学者オイゲン・ゼンガー博士が考案したものである。 この計画をもう少し具体的に説明すると、ロケット式加速装置として全長3kmのモノレールを用いて、宇宙爆撃機をマッハ1.5まで加速して大気圏外に打ち出し、大気と宇宙爆撃機との摩擦を利用して宇宙爆撃機をスキップさせながら飛行距離を伸ばし、アメリカ本土に爆弾を投下したあと、宇宙爆撃機をドイツ本国に帰還させるというものであった。 この計画は構想のままで終わったが、第二次世界大戦後、この資料を入手した米ソ両国はこの計画に大変な興味を持ったと言われている。 因みに、1988年にドイツ宇宙開発機関は「宇宙往還機」の研究を開始したが、ゼンガー博士の研究に因み、機体は「ゼンガー2」と呼ばれた。

第二次世界大戦が長引くに連れて、そして、連合国側の最終的な勝利が確実視されるようになるに連れて、アメリカが次に立ち向かう相手はソ連であるという見方が一般化しつつあった。 そして、やがては西側諸国に対して使われると予測される戦利品を出来るだけソ連側に渡さないようにする必要があると考えられた。 1945年3月頃、アメリカ陸軍省の複数の部局でドイツの科学者に関する詳細なリストが作成された。 このリストには、ドイツのロケット計画の中心人物や、造船技術や冶金工学の進歩に貢献した人々が含まれていた。 アメリカのロケット計画は緊急にドイツ人の協力を必要としていた。 アメリカ陸軍省の情報部G2は、V2ロケットの設計図が日本に流れているという情報をつかんでいた。 1943年以来、アメリカ陸軍省の軍需局でロケット部長を務めていたガーベイス・トリケル大佐は、ドイツの専門家を自分の計画に参加させる日に備えて準備を進めていた。 ナチス・ドイツが降伏した1945年5月、トリケル大佐は「50人のロケット関連のドイツ人科学者とドイツ人技術者をドイツからアメリカに送り込んで、世間から隔離された施設に住まわせる」という内容の詳細な計画案をアメリカ陸軍省次官のロバート・パターソンに提示した。 この計画案は5月28日に承認された。 当時、イギリスでもアメリカとほぼ同じ目的の為にドイツ人を連れてくる計画が立てられていた。 アメリカがドイツのロケット分野の科学者に大きな関心を示していたのに対し、イギリスは高度な技術で知られていたナチスの潜水艦(Uボート)製造の関係者に大きな関心を示していた。

第二次世界大戦末期、連合軍によってナチスのノルトハウゼン地下工場(V2ロケットの生産施設)が占領されると、アメリカとソ連によるドイツ人科学者・技術者争奪戦が始まった。 アメリカが獲得したノルトハウゼンの遺産はソ連が獲得したノルトハウゼンの遺産より多かった。 ノルトハウゼンの遺産とは、途中まで組み立てられた多数のV2ロケットと約1200人のドイツ人ロケット専門家と技術資料である。 技術資料だけを見ても、その価値は少なくとも4億ドルから5億ドルに上った。 もちろん、アメリカは没収した技術資料(特許権やマイクロフィルム)に1ドルも支払う必要はなかった。 戦後、ドイツ人の多くがこの事を史上最大の泥棒行為と呼んだという。

アメリカ軍がドイツ全土で没収した科学的・技術的な戦利品は貨車300台分に相当すると言われている。 それらのほんの一部だけを挙げても次のようになる。 シェーネベックにあるメッサーシュミットの工場からは技術者や当時世界で最も高性能だったMe262のジェット・タービン50基。 シーメンス社とカール・ツァイス社からは科学部門のスタッフの殆ど全員。 テレフンケン社からは化学・電気関係の技術者や設備。 ヴァイダにある物性技術研究所からは科学者や原子力研究関係資料の全て。 ウンゼンベルクのBMWの地下工場からは技術者や新型エンジンの設計図。

イタリアの作家ピーター・コロージモは次のように述べている。
戦争が終わったとき、連合軍の人々は34万件ものドイツの特許を手に入れ、20万件の国際特許を没収したと言われている。 その書類の価値を現在の価値に直せば、数十億ドルになると言われるが、多くは何千億ドルを稼ぎ出すことが出来るものであり、実際には値段など付けられないものであった。 アメリカの首都ワシントンの特許局の役人は、ワシントンにある記録保管室には『何トンもの書類』が詰められているといっている。 少なくともドイツの100万の計画(特許やそれに類したもの)がアメリカで実現されていると信ずるのも一理あることである。 戦勝国全部について言えば、その数字は250万件ほどになるだろう。 ドイツの企業 I・G・ファルベン社、フーハスト社といった会社だけでアメリカに5万強の特許を提供したのである。

一方、ソ連は、ナチスがソ連内部で行なった大規模な破壊行為の埋め合わせとして、ドイツの全ての富は自分たちが所有できると考えていた。 ソ連軍は占領地域内の産業科学施設を手あたり次第に確保した。 印刷機、化学実験室、事務所の備品、歯科医院の器具、病院、製鉄工場、鉄道の軌道、機械道具類など、少しでも価値のあるものが見つかると、それらは全て分解され、箱詰めされ、ソ連内に輸送された。 また、ソ連軍の占領地域にいた何千人というドイツ人科学者やドイツ人技術者は「生ける戦利品」として家族と共にソ連軍に拉致された。 (アメリカ軍は家族に手出しはしなかった)。 BMWの開発中のBMW003ジェットエンジンと、ユンカース社の実用化されていたユモ004Aジェットエンジンは、ソ連が没収した最良の戦利品であった。 戦後、ソ連ではスターリンの命令でミコヤン、スホーイ、ラボーチキン、ヤコブレフの4つの主要航空機工場がこれらのジェットエンジンを航空機に搭載する実験に取り組んだ。 ミコヤンはBMW003エンジンを搭載した「MiG9」を製造した。 イリューシン設計局もBMW003エンジン搭載の新型機「IL16」爆撃機を開発した。 のちにBMW003エンジンはコピー生産され、「RD20エンジン」と呼ばれた。 ユンカース社のユモ004Aエンジンもコピー生産され、「RD10エンジン」と呼ばれた。 ヤコブレフは「RD10エンジン」搭載の「YaK15」戦闘機を製造した。 スホーイは「RD10エンジン」2基搭載の「Su9」戦闘機を製造した。

ソ連のロケット開発は、もしドイツ人技術者の協力が無かったら、5年〜10年遅れていたであろうと言われている。 ソ連は1947年10月30日にカザフスタンの実験場で、「A4」ロケットの発射実験に初めて成功した。 これが1957年10月4日、世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げた大陸間弾道ミサイル「R-7」の開発につながった。 アメリカのヴァンデンバーグ将軍は、ソ連軍が没収した戦利品の評価に関して、次のように明言した。「ドイツ人はロケット技術に関し我々より10年先行していた。 そして、この先行期間を、我々の自由意志によって、みすみすロシア人にも許してしまったのである」。

第2章  戦後、ソ連に拉致されたドイツ人科学者・技術者
第二次世界大戦中、ロケット制御の要であるジャイロスコープの開発に携わり、戦後、ソ連軍に拉致されたドイツ人科学者クルト・マグヌス博士は、ソ連軍による大規模な拉致と抑留の体験をまとめた著書『ロケット開発収容所 ドイツ人科学者のソ連抑留記録』を1993年に出版した。 マグヌス博士がソ連軍に拉致されたのは、ナチス・ドイツが連合国に無条件降伏してから1年5ヶ月後の1946年10月22日で、この日だけでロケット研究者をはじめ、ドイツの自然科学者・技師・職工・その家族の計2万人が一網打尽にされ、ソ連軍の管理下にあったブライヒェローデ、ベルリン、ドレスデン、ライプチヒ、ケムニッツ、イエナ、デッサウなどからソ連に移送されたという。 ソ連軍に拉致されたドイツ人科学者・技術者たちは列車に積み込まれ、モスクワ近郊の町やモスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルグ)のほぼ中間に位置するゼーリガー湖の中の「ゴロドムリャ島」などで10年近くロケット開発に協力させられたという。 マグヌス博士は次のように述べている。
ゴロドムリャ島は文字通り『垣で囲まれていること』を意味する。 事実、湖岸線に沿って高い柵が設けられ、監視人が見張っており、番犬のいる場所もある。 島は強制収容所そのもので、科学者・技師にとっては労働キャンプ、家族にとっては収容キャンプであった。 もともと、この島は、伝染病にかかった家畜が隔離され、口蹄疫研究所があった場所だ。 病気の動物に代わって、我々を収容するとはよくぞ考えたものだ。 これ以上適切な場所はないではないか。 我々のグループは様々な未来プロジェクトについて研究させられた。 この間、ロシア人専門家が厳しく監視し、仕事を急がせ、頻繁に質問した。 特にソ連のロケット開発と宇宙飛行の総責任者であるセルゲイ・コロリョフは我々専門家と個別に議論する為に、多くの時間を費やした。 若くて優秀で、やる気満々のロシア人がしつこいぐらいにドイツ人科学者から知識を吸収しようとしていた。

マグヌス博士によれば、スターリンはナチスの「宇宙爆撃機」(ゼンガー計画)に格別の関心を示していたという。 また、ソ連のロケット開発におけるドイツ人科学者・技術者の協力については、ソ連国内では1992年まで一切秘密にされていたという。 マグヌス博士は次のように述べている。
オイゲン・ゼンガー博士が考案した“宇宙爆撃機(周回軌道爆撃機)”と称する飛行物体をソ連はしばらくの間、真剣に研究した。 ゼンガー博士は終戦までドイツ空軍の研究・開発部門で働いていたこともあり、ロシア人は我々がこの計画を実現可能と考えているかどうかを知りたがった。 かくして、外部から遮断された部屋で厳しい監視の下、研究させられ、機密報告書を作成させられた。  〈中略〉  ソ連滞在中、この『ゼンガー計画』の研究がどこかで続けられていたのか、全く情報はなかった。 帰国後の50年代の半ば頃、ソ連より移住したグリゴリー・トカーエフという将校の話として、「1947年11月、クレムリンで開かれたロケット技術の開発に関する秘密会議で、スターリンは『ゼンガー計画』に格別の関心を示し、『この飛行機に原子爆弾を積めば、世界の支配者になれる』と叫んだ」という記事が出た。 この元ソ連将校の話はさらに続く。「湯水のごとく金を使って、甘言、暴力など、如何なる手段を使ってでもゼンガー博士を探し出し、ソ連に連れてこようとしたが、ゼンガー博士はフランスの研究所に就職していた為、この謀略は失敗した」。 第一支所での経験からみて、大いにありうる話だと思えた。 ソ連は、ドイツ人科学者の協力が無くとも、同様のロケットを開発したと思われるが、多分、別のやり方で、かつ、もっと時間がかかったものと思われる。 ドイツ人科学者・技術者の協力についてはソ連国内では1992年まで一切秘密にされていた。

1992年3月、ロシアの有力紙『イズベスチヤ』に、ソ連のロケット専門家チェルトクの回想に基づいた記事が掲載された。 この記事のタイトルは「ソ連のロケットの勝利の初期の段階でドイツ人の存在があった」であり、ソ連がソ連軍占領地域にドイツ人科学者・技術者などを駆り集める為の特別司令部を設置し、ドイツ人科学者・技術者をソ連に連行した事実がこの記事で初めて明らかにされた。 また、ロケット開発の開始から10年のうちに、A4ロケット(V2ロケット)の改良型である「R-1」から、世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)である「R-7」の開発にまで至った経緯も明らかにされた。 (1957年10月のスプートニクは「R-7」によって打ち上げられた)。 そして、ロケット専門家チェルトクは結論として、「ドイツは世界のロケット技術の進歩に巨大な影響を及ぼした」と断言した。

A4ロケットの改良型である「R-1」をベースに「スカッドA(R-11)」が開発され、これは「スカッドB」に発展した。 冷戦中のソ連は、当時の友好国への軍事援助として多数の「スカッドB」を輸出した。 スカッドBは西アジア(中東)諸国で多数の実戦を経験しており、湾岸戦争ではイラクが使用したことで知られている。 因みに「ノドン」は北朝鮮がスカッドBをベースに改良して作ったミサイルである。 スカッドBは基本的にA4ロケット(V2ロケット)の改良型であり、今日では最早旧式であるが、現在でも旧東側諸国・西アジア諸国で多数のスカッドBが実戦配備されている。 スカッドBを基にパキスタンの「ガウリ」、イランの「シャハブ」、シリアやリビアの独自改良型など多くのミサイルが生み出されてきた。 スカッドBを配備した国は以下の通りである。
◆ ソ連邦構成国・・・ロシア、アゼルバイジャン、アルメニア、ウクライナ、カザフスタン、グルジア、トルクメニスタン、ベラルーシ
◆ 東欧諸国・・・スロバキア、セルビア、チェコ、ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア
◆ 西アジア諸国・・・アフガニスタン、アラブ首長国連邦、イエメン、イラク、イラン、シリア、パキスタン
◆ 東アジア諸国・・・北朝鮮、ベトナム
◆ アフリカ諸国・・・アルジェリア、エジプト、コンゴ民主共和国、リビア

第3章  「オーバーキャスト作戦」と「ペーパークリップ作戦」
■「オーバーキャスト作戦」
1945年7月6日、アメリカの国防省統合参謀本部は「我々が利用したいと思う優れた業績を上げた稀有な人材を活用する為の機密計画」(暗号名は「オーバーキャスト作戦」)を承認した。 そして、国防省統合参謀本部はドイツ人科学者とドイツ人技術者との総計350人を直ちに入国させるよう指令した。 これらの “稀有な人材” には、潜水艦設計・化学戦・ロケット研究の専門家が含まれていた。 ただし、彼らのアメリカ入国には厳しい条件が付いていた。 契約の延長は一度だけ、半年間に限って認めるとされていた。 また、対象となるドイツ人は単身で赴任し、契約期間の終了時にドイツに帰国すると定められていた。 オーバーキャスト作戦のもとでアメリカの情報機関員は、利用価値があるだろうと思われるドイツ人専門家を採用する際、彼らが過去にナチスやナチス親衛隊に加わっていたことを次第に無視するようになった。 1946年初頭までに、正確な数は分からないものの、かなりの数のドイツ人科学者とドイツ人技術者がアメリカに連れてこられた。 少な目に見ても150人はいたと思われる。 彼らが到着して間もなく、彼らの専門知識が極めて利用価値の高いものであることが明白になった。 このことは、とリわけドイツ人科学者・技術者が数ヶ月間で主導権を握るようになったロケット開発の分野で顕著だった。 ロケット関連以外で連れてこられたドイツ人には化学工業や冶金工業の専門家、航空医学や航空機設計の専門家、戦車設計の専門家が含まれ、更に、人数は特定できないが、化学や数学や物理学の基礎研究に携わる者もいた。 オーバーキャスト作戦の推進派は、オーバーキャスト作戦に明記されている「短期間の雇用」という考えはアメリカの長期的な国益にそぐわない、と確信するようになった。

■「ペーパークリップ作戦」
1946年、国防省の統合情報管理局はオーバーキャスト作戦を修正・拡大した。 統合情報管理局はドイツ人科学者・技術者を1000人要求した。 更に重要なことは、統合情報管理局がドイツ人科学者・技術者を自らの計画に引き寄せる為に、彼らにアメリカ市民権を与える権限までをも要求したことである。 ドイツ人科学者・技術者の多くは元ナチス党員か元ナチス親衛隊員であった為、彼らの入国・定住は当時の移民法に抵触した。 そこで、統合情報管理局はトルーマン大統領から直接に権限を委任されることを望んだ。 1946年9月6日、トルーマン大統領は「名前だけのナチス党員で積極的な支持者でなかったドイツ人に限りアメリカ市民権を与える」として、新しいドイツ人科学者・技術者利用計画を承認した。 暗号名は「ペーパークリップ作戦」に改められた。 この名前は、アメリカの捜査官が入国許可の出ている人々のファイルの束の表紙の上にペーパークリップを置いて目印にしていたことに由来する。

オーバーキャスト作戦では導入されるドイツ人科学者・技術者の上限を350人と定めていたが、ペーパークリップ作戦が始まると、1947年初頭までに350人を上回る数のドイツ人科学者・技術者がアメリカに入国するようになった。 ペーパークリップ作戦には受け入れ人数の上限が設けられていなかった。 けれども、ペーパークリップ作戦を実行していく上で、大きな懸念材料があった。 既にアメリカに入国していたドイツ人科学者・技術者も含めて、永住権承認の前に国務省と司法省との専門家による「身元調査」をしなければならなかった。 それまで、最も基本的な経歴審査でも確実に入国を却下されたはずだと思われる多くのドイツ人科学者・技術者がアメリカに来ていた。 この事実を統合情報管理局はちゃんとつかんでいたが、黙認してきた。 ナチス戦争犯罪を追及するジャーナリストのクリストファー・シンプソンは次のように指摘している。
統合情報管理局のファイルの多くには、既にアメリカに入国していた数人のドイツ人が『熱烈なナチズム信奉者』であることが示されていた。 また、入国候補者が熱心なナチス支持者であったばかりか、その一部は強制労働を利用した作戦やユダヤ人の囚人を用いて行なわれていた人体実験に加わっていたということが示されていた。 実際、数名の名前はニュルンベルクでの裁判用に作られた戦争犯罪人リストにも掲載されていたほどだった。 統合情報管理局の推した人間の少なくとも半分が元ナチス党員か元ナチス親衛隊員であった。

第4章  ナチス科学者・技術者の戦時記録を洗浄する為の「再審査」
アメリカ国務省はナチズム信奉の科学者・技術者の入国に非妥協的だった。 1947年夏までに、国務省と国防省の統合情報管理局はペーパークリップ作戦の入国候補者の身元調査に関して激しいやり取りを行なった。 このままでは埒があかないとみた統合情報管理局は単純な解決策を思いついた。 国務省が提出書類に承認を与えないと主張するなら、統合情報管理局が「再審査」を実施し、改めて申請書を提出しようというのである。 そこで、統合情報管理局は既に存在するファイルを洗い直し、入国候補者との長期契約が却下される根拠となりそうな情報の削除を行なった。 さらに、新たに作成される申請書には入国候補者の入国却下につながりそうな否定的な情報を記載しないようにしたのである。 このような統合情報管理局による「再審査」で戦時記録を洗浄された人物の中には、「アメリカ宇宙計画の父」となり、人類を月に到達させることに関して最大の功労者であったヴェルナー・フォン・ブラウン博士も含まれていた。

フォン・ブラウン博士は1912年にドイツ東部の裕福な貴族(ユンカー)の家に生まれ、1930年にベルリン工科大学に入学し、19歳の時に全長2mのロケットを高度1600mまで打ち上げて世界記録を作り、1938年にナチ党員になり、大戦中はナチス・ドイツの為にV2ロケットの製作を指揮した。 彼はナチス親衛隊少佐であった。 彼は第二次世界大戦中の同僚の中でも一番多くの勲章を授けられ、ナチス親衛隊長官ヒムラーの命によりナチス親衛隊に加わった。 彼はV2ロケット生産の為に、ドイツ中部ノルトハウゼン近郊の「ドーラ収容所」の収容者に奴隷労働を強いた中心人物であり、V2ロケット生産に駆り出された6万人のうち、飢えや病気や処刑などにより2万人を死亡させたと言われる。 また、彼は敗戦の日までナチス・ドイツの為に熱心に働き続け、高性能爆弾を搭載したV2ロケットがロンドンに命中する確率を高めた。 因みに、この「ドーラ収容所」はユダヤ人専用の収容所ではなく、この収容所の強制労働で死んだ者の多くはフランスやソ連の戦争捕虜や政治犯だった。

統合情報管理局による戦時記録の洗浄で「フォン・ブラウンはナチス親衛隊の将校で、安全保障上脅威となりうる人物である」という部分が削除されて、「フォン・ブラウンは好ましい人物で、名目上のナチ党員にすぎなかった」と修正された。 尤も、戦後、フォン・ブラウンは「ナチズムには当時から反対だった」と主張している。 ナチス・ドイツのロケット計画に荷担した本当の理由は、自分の研究が将来、宇宙飛行に役立つのではないかと考えたからだと言っている。 このことに関して、ナチスの戦争犯罪を追及するジャーナリストのクリストファー・シンプソンは次のように指摘している。「フランス人レジスタンス活動家だったイヴェス・ベオンによれば、V2ロケット製造に使う奴隷の調達の為にナチス親衛隊が使われたが、この命令を下したのはフォン・ブラウンとワルター・ドルンベルガー将軍だったという。 尤も、この2人は、無理やり命令に従わされていたのだと弁明しているが、当時、フォン・ブラウンが他のナチス親衛隊高官とともに奴隷労働者集めの会議に出席していたことは証拠づけられている」。

このような例は、ほかにも数多くあった。 特に目立ったのは、V2ロケット組立工場の生産責任者だったアーサー・ルドルフとドイツの航空医学の発展に多大な貢献をしたヒューベルタス・シュトルグホルト、そして、ドイツのロケット計画全体に大きな役割を果たしたワルター・ドルンベルガー将軍の3人である。 この3人はぞっとするような経歴の持ち主だったが、統合情報管理局によるごまかし(戦時記録の洗浄)によって、アメリカ国務省に入国を許可してもらえるような人物に変えられ、アメリカで働くことが出来た。 以下、この3人の男について紹介する。

アーサー・ルドルフはフォン・ブラウンと同じぐらいアメリカのロケット計画にとって貴重な人物となった。 1951年から1960年にかけてレッドストーン軍需工場の初代開発部長を務め、その後はパーシング型ミサイルの開発部長、アメリカ宇宙飛行士を月に送ったサターンV型ロケット計画の主任技術者などを歴任した。 彼はアポロ計画の成功後にNASAを退職し、最高の栄誉である殊勲章を与えられた。 やがて、彼はカリフォルニアで高給取りのコンサルタントになった。 しかし、彼は1984年に密かに西ドイツに移住した。 その理由はV2ロケット地下生産工場で「ドーラ収容所」の奴隷労働者2万人を死亡させたとされる件で彼が果たした役割をアメリカ司法省の特別調査局が発見し、市民権剥奪の手続き開始を通告したことによる。 これはペーパークリップ作戦がらみで始められた市民権剥奪手続きとしては唯一のものであるとされている。

ヒューベルタス・シュトルグホルトは、ペーパークリップ作戦の入国者のなかで最も成功した者に数えられている。 彼はアメリカ空軍の医療研究部門の責任者と航空宇宙局の特別コンサルタントを務めた。 過去20年の「宇宙医学」の発展の多くは彼の研究成果であったといわれている。 彼の場合もアメリカ司法省の特別調査局が1980年代初頭から調査を行ない、彼がダッハウでの囚人を用いた残酷な人体実験に関与していた証拠をつかんでいた。 しかし、なぜかそれ以上の追及はなかった。 ダッハウ収容所でソ連軍捕虜に対して行なわれた人体実験の1つとして、極めて高い高度での意識の持続と限界の調査があった。 この実験では囚人が低圧室に閉じ込められ、高度20kmに匹敵する気圧に曝され、やがて、囚人は意識を失って死んだ。 ヒューベルタス・シュトルグホルトが関与した人体実験のデータは戦後の医学の発展の為に利用された。

ワルター・ドルンベルガー将軍はアメリカ陸軍省の軍需局のロケット計画の一員として働き、1951年にはニューヨーク州バッファローのベル航空会社の職員とCIAの特別コンサルタントを兼務するようになった。 やがて、彼は複数の航空機メーカーで取締役を務めた。 彼は1959年にはアメリカロケット協会の「宇宙航空科学賞」を受けるなど、数多くの栄誉に恵まれた。1980年6月、彼は安らかに死んだ。 因みに、彼の弟子であるフォン・ブラウンは渡米した当初、恩師であるドルンベルガー将軍が釈放されない限り、アメリカのロケット計画には携わらないという立場を貫き通していた為、6000人の捕虜を吊し首にして殺害したという戦争犯罪を問われていたドルンベルガー将軍はジョン・マックロイ(後述)によって無罪放免となった。 ナチス戦争犯罪を追及するジャーナリストのクリストファー・シンプソンはドルンベルガー将軍について次のように述べている。
ナチスはノルトハウゼン地下工場の建設の為に、近くのドーラ強制収容所の囚人を使った。 作業開始からわずか15ヶ月にも満たない期間に、囚人たちはナチス親衛隊の命令で、廃坑になった岩塩坑の中に長さ1マイルもの洞窟を掘らされた。 工場施設を収容する為である。 飢えと重労働の為、2、3ヶ月も経たないうちに、奴隷労働に駆り出された囚人たちは次々に死んでいった。 工場が完成した後、ロケット生産に携わった労働者に対する扱いも似たようなものだった。 ロケット計画では少なくとも2万人の囚人がノルトハウゼンとドーラで死んでいる。 飢えや病気、それに処刑された為だ。 これら犠牲者に対する責任を一体誰が引き受けるのだろうか。  〈中略〉  ドルンベルガー将軍が戦後に著わした自伝は評論家によって西側でかなりの称賛を受けた。 自伝にはロケットの試験や官僚組織内部の闘争、そして、技術上の業績に関する逸話が数多く語られている。 しかし、命を犠牲にしてロケットを組み立てた囚人たちには感謝の言葉は一言も述べられていない。 まるでロケットが途中の工程なしに図面から一気に空中に飛び出したかのように。 まるでロケットがひとりでに組み上がってしまったかのように。

第5章  大量のナチス戦争犯罪人を無罪としたアメリカ人ジョン・マックロイ
ドルンベルガー将軍を無罪としたアメリカ人ジョン・マックロイという男はかなりいかがわしい経歴の持ち主である。 ジョン・マックロイは第二次世界大戦末期にポツダム宣言を起草し、戦後、ナチスを一掃するはずの時期に大量のナチス戦争犯罪人を無罪とした。 ジョン・マックロイは1953年にロックフェラー財団の理事になり、その後、ロックフェラー系のチェースマンハッタン銀行の頭取になり、「セブン・シスターズ」の法律顧問になり、外交問題評議会(CFR)議長になり、ケネディ大統領暗殺時には、アメリカ政府の隠蔽工作に協力し、アレン・ダレスと組んで「ウォーレン委員会」にも参加した。 興味深いことに、大戦中、陸軍次官補だったジョン・マックロイは、1945年6月18日に開かれた対日戦略会議において、日本への原爆使用は事前警告した上で使用すべきだと主張し、無警告による原爆投下に反対していた。 また、ジョン・マックロイは、ダレス兄弟と同じく、アメリカ企業とナチスとのパイプ役を務めていた。 このつながりは、第一次世界大戦後、彼がドイツの大企業「I・G・ファルベン社」に法律家として雇われたときにまで遡る。 1936年のベルリンオリンピックのとき、ジョン・マックロイはヒトラーと一緒に特別席に座り、1941年、イギリスに渡る前にルドルフ・ヘスとも接点をもっていた。 ヒトラーの再軍備を財政面で支えたドイツ国立銀行総裁シャハト(ナチス財務相)は戦後すぐにジョン・マックロイによって8年の禁固刑を免除された。

ナチス戦争犯罪を追及するジャーナリストのクリストファー・シンプソンはジョン・マックロイについて次のように述べている。
アメリカは西ヨーロッパをソ連の侵攻から防衛する要として、西ドイツの軍事力と鉄鋼業を手に入れたかった。 西ドイツ政府がアメリカとの同盟に協力する代償として求めたものは、有罪判決を受けてミュンヘン近郊のランツベルク刑務所に服役中のナチス戦争犯罪人を釈放することであった。  〈中略〉  ドイツにおけるアメリカ高等弁務官ジョン・マックロイはランツベルク刑務所のナチス戦争犯罪人の釈放に向けて直ちに行動を起こした。 ジョン・マックロイは、囚人の減刑について勧告させる再審査委員会を設置し、そこで半年をかけて、囚人の恩赦を求める様々な請願や要請を検討させた。 しかし、ジョン・マックロイの再審査委員会は、ニュルンベルク裁判のアメリカ人検察官とは全く接触せず、裁判で明るみに出たナチスの犯罪行為を裏づける証拠書類を再検討することはしなかった。 ジョン・マックロイは1951年1月、ソウルが陥落したほんの数日後に、彼の再審査委員会の勧告を発表した。 彼はまず、ランツベルク刑務所のナチス戦争犯罪人の非道さを認め、厳しい処置が必要であるとした。 しかし、続いて彼は、場合によっては『減刑すべき法律上の根拠』があると主張した。 ジョン・マックロイは、ナチス戦争犯罪人のうち行動部隊の司令官オットー・オーレンドルフと、強制収容所を統括していたナチス親衛隊経済管理本部長官オズヴァルト・ポールを含めた5人には死刑の裁定を下した。 次に彼は、それ以外のナチス戦争犯罪人79人の禁固刑を大幅に減刑する裁定を下し、その大半はこの裁定から数ヶ月のうちに釈放された。 ジョン・マックロイによって恩赦を受けたのは次のような人間である。 有罪判決を受けた強制収容所の医師全員、ナチスの『特別法廷』などの抑圧機構を管理した首席裁判官全員、行動部隊と強制収容所管理に関する裁判(ポール裁判)で有罪判決を受けた15人中14人(うち7人は即時釈放)、行動部隊の大量殺害を扱った裁判(行動部隊裁判)の被告20人中16人、そして、クルップによる奴隷労働を扱った裁判(クルップ裁判)で有罪判決を受けた者全員(全員即時釈放)。 ランツベルク刑務所のナチス戦争犯罪人にマックロイが恩赦を与えたことは、続く5年間に、数百人ものナチス戦争犯罪人が釈放される事態を招いた。

第6章  戦後のアメリカに多大な貢献をしたナチス科学者・技術者
1946年から1955年までにペーパークリップ作戦によりドイツ人科学者とドイツ人技術者とを合計して750人強がアメリカに入国したとされている。 ペーパークリップ作戦について膨大な研究をしたクラレンス・ラズビー教授によれば、これらドイツ人科学者・技術者の50%〜80%が元ナチ党員か元ナチス親衛隊員であったという。 ドイツ人科学者・技術者は、ラジオ・リバティー、ボイス・オブ・アメリカ、アメリカ陸軍省歴史部などドイツの安全保障に役立つ組織の役職や、アメリカ国防省やトップ産業の役職を埋めるのにも使われた。 アメリカのロケット計画の推進を担う研究所や支局でドイツ人科学者・技術者が主任ないし副主任の地位に抜擢された。

フォン・ブラウンは「ナチ党員」という暗い過去を背負っていたが、戦後、彼がアメリカという新天地で「科学の進歩」に多大な貢献をしたことは否定できない事実である。 1975年、フォン・ブラウンはアメリカ科学界最高峰の栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」を受賞した。 フォン・ブラウンは1955年にアメリカ国籍を取得し、NASAが1960年に新設した「マーシャル宇宙飛行センター」の初代所長となり、「アポロ計画」に携わり、サターンロケットを開発し、1970年にワシントンD.C.に移り、NASA本部の企画課長を務め、1977年に死去した。 享年65歳。

ナチス科学者・技術者は、メリーランド州のエッジランド兵器庫やメリーランド州フォードホラバードの陸軍諜報基地で、アメリカ人下士官を対象に実施された陸軍・CIA合同の心理化学実験にも関わっていた。 そして、これがCIAの有名な「MKウルトラ心理操作実験」の始まりとなった。 (この実験を許可したのはアレン・ダレスである)。 幾つかのケースでは、7000人を超すアメリカ兵が同意無しで実験にかけられた。 タブンやサリンといった神経ガス、それにLSDを含む精神化学薬品類が何も知らぬ志願兵にテストされ、これによって死亡した者や不具になった者までいる。