ユダヤ教徒の「終末思想」と ユダヤ教神秘主義思想「カバラ」
第1章 ユダヤ教徒の「終末思想(メシア待望観念)」
この「終末思想」という観念は日本人には実に理解し難いものである。 キリスト教徒も「終末思想」を持っているが、ユダヤ教徒の「終末思想」とキリスト教徒の「終末思想」とは互いに大きく異なるようである。 ユダヤ教徒の「終末思想」とは次のようなものである。
ユダヤ教徒の考える「終末」とは「長く続いてきた悪の時代が終わる時」である。 ユダヤに伝わる伝承では、メシア(救世主)が出現する地は、ツファット(ガリラヤ湖の北に位置する町)、ベツレヘム(エルサレムの近くにある町)、ティベリア(ガリラヤ湖西岸の町)のいずれかだ、とされている。 その地で登場した人物は預言者によって祝福を受けて初めて全てのユダヤ教徒にメシアとして認められる。 そして、ユダヤ教徒にとっての「地上の悪」が絶頂に達するとき、神ヤハウェがメシアを地上界へ派遣する。 そして、イスラム教徒により封鎖された「黄金の門」(エルサレム神殿跡の東側の壁にある)が開き、メシアが軍勢を率いて、その門からエルサレム神殿跡に入場する。 メシア軍とサタン(悪)の勢力(ユダヤ教徒を迫害してきた諸勢力)は地上と霊界で大戦闘を繰り広げる。 メシア軍はサタン(悪)の勢力を滅ぼし、神ヤハウェは最終的な勝利を収める。 こうして、「終末」が到来し(長く続いてきた悪の時代が終わり)、その後、行方不明のイスラエル10部族が約束の地カナンに戻り、メシアを王とする「新イスラエル王国」が実現する。 そして、天界に保存されていたエルサレムの霊的本体は地上に降りて新イスラエル王国の首都となり、復活した「ソロモン第三神殿」を中心に、神ヤハウェとメシアによる神権政治が始まり、それと同時に、ユダヤ教徒が永遠に繁栄する時代が始まる。 この時点で神ヤハウェの世界創造活動は完了し、世界は完成したことになり、この時点以降、地球上の全地がユダヤ教徒にとっての楽園となる。 これがユダヤ教徒の「終末思想」である。 熱狂的なユダヤ教徒の一部は、ソロモン第三神殿の模型を造りあげて、メシア出現の日を待ち望んでいる。
第2章 ユダヤ教神秘主義思想「カバラ」の誕生
「カバラ」とは、神ヤハウェの真意を探ろうとするユダヤ教神秘主義思想である。
多神教文化圏であった紀元前の地中海世界において、一神教を信仰し「選民思想」と「終末思想(メシア待望観念)」を持つユダヤ文化は特別に異質であった。 バビロン補囚時代以来、ユダヤ教徒は自分たちを政治的大不幸から解放してくれるメシア(救世主)の出現を熱心に願ってきた。 紀元前63年、ユダヤ地方がローマ帝国の支配下に入ると、ユダヤ教徒はローマ帝国の統治政策に日増しに反感を強めた。 西暦6年にユダヤ地方がローマ帝国から派遣された総督によって治められるようになってからは、益々メシア待望観念が高まった。 多くのユダヤ教徒が「一刻も早くメシアを引き寄せ、悪魔の手先であるローマ帝国を撃退し、ユダヤ解放を成し遂げなければならない」と思って、熱狂的な「終末思想」を掲げる「ゼロテ党(熱心党)」の下に結集した。 西暦66年、ユダヤ属州の総督フロルスがエルサレムのインフラ整備の為の資金としてエルサレム神殿の黄金の宝物を持ち出した。 これが切っ掛けとなり、ゼロテ党を中心とするユダヤ教徒抵抗勢力がローマ帝国の守備隊を襲い、ローマ軍に対して本格的な戦い(第一次ユダヤ戦争、西暦66年〜73年)を開始した。 ユダヤ属州のユダヤ教徒は武装蜂起し、ローマ帝国からの独立を試みた。 しかし、ユダヤ軍は当時のローマ帝国に立ち向かうには非力であり、ローマ軍の力は圧倒的であった。 西暦68年、ローマ皇帝ネロが派遣したローマ軍7万人(これを率いるは将軍ウェスパシアヌス)はユダヤ属州の都市を次々と攻め落とし、エルサレムを孤立させることに成功した。 しかし、同時期に皇帝ネロが自殺し、ローマ帝国首脳の間に大混乱が発生した為、将軍ウェスパシアヌスはエルサレム攻略を目前にして、ローマへ引き返した。 西暦70年3月、将軍ウェスパシアヌスの息子ティトゥス率いるローマ軍7万人は終にエルサレム攻囲戦(第一次ユダヤ戦争の決戦)を開始した。 エルサレム神殿は基礎部分(神殿の丘)だけを残し徹底的に破壊され炎上した。 その基礎部分の西側の壁が「嘆きの壁」である。 エルサレム市街は3つの大きな塔と西側の城壁だけを残し、ローマ軍により徹底的に破壊され、西暦70年9月7日に完全制圧された。 エルサレムから逃れたユダヤ反乱軍の一部(千人弱)はマサダ要塞に逃げ込み、籠城した。 このマサダ要塞はヘロデ大王が造ったものであり、周囲を絶壁に囲まれた岩山である。 西暦73年、8千人のローマ軍が難攻不落のマサダ要塞を総攻撃した。 籠城していたユダヤ教徒は2人の老婆と5人の子供を残し、全員自害した。 第一次ユダヤ戦争を記録したヨセフスはその著「ユダヤ戦記」の中で、エルサレム攻囲戦での死者数は110万人(その殆ど全てはユダヤ教徒である)、捕虜・奴隷にされたユダヤ教徒の数は9万7千人と記している。 ローマ軍の司令官ティトゥスはエルサレム神殿の黄金の宝物を戦利品とし、ローマに凱旋した。 また、司令官ティトゥスはユダヤ教徒7万人を奴隷としてローマに連行したと言われている。 この戦争以降、エルサレムにはローマ軍が常駐することになり、ユダヤ属州の多くのユダヤ教徒がこの地を去り、外国に移住した。 こうした状況の中でも、ユダヤ教徒のメシア待望観念は衰えなかった。 時が経ち、西暦130年、ローマ皇帝ハドリアヌスはエルサレムをローマ風の都市に造り替え始め、エルサレムという名称を「アエリア・カピトリーナ」に変え、エルサレム神殿の跡地にローマの神ジュピターを祭る神殿を建設し、更に西暦132年には割礼を禁止した。 その為、同年、ローマ帝国の支配に反対するユダヤ教徒が、「星の子」を意味するバル・コクバという人物を先頭に押し立てて、ユダヤ属州で再びローマ帝国に戦いを挑んだ(バル・コクバの乱、第二次ユダヤ戦争、西暦132年〜135年)。 この戦いに参加したユダヤ教徒はバル・コクバをメシアと信じた。 バル・コクバがメシアであると信じられた最大の理由は、ユダヤ教のラビ(ユダヤ教指導者)の中でも最も偉大なラビのひとりに数えられているアキバ・ベン・ヨセフがバル・コクバをメシアと認めたからであった。 メシアであると信じられたバル・コクバのもとには、日毎にユダヤ民衆が結集し、その数は50万人強に膨れ上がった。 西暦132年、バル・コクバはこの大勢力を率いて反乱軍を立ち上げ、当初は日の出の勢いで戦勝していった。 しかし、戦闘の長期化とともに、物量・人材で劣るユダヤ反乱軍は各地で苦戦を強いられ、1つ、また1つと拠点を撃破されていった。 そして、開戦から3年後の西暦135年、ローマ皇帝ハドリアヌスの命を受けたセヴェルス将軍との戦闘により、バル・コクバはあえなく戦死し、アキバ・ベン・ヨセフも捕らえられて処刑され、ユダヤ反乱軍は完全に制圧された。 この反乱で戦死したユダヤ教徒の数は58万人と言われる。 ローマ皇帝ハドリアヌスはユダヤ教徒のエルサレムへの立ち入りを禁じ、神殿の丘の表土までをも削り取って捨て去り、エルサレム南門にユダヤ教徒が忌み嫌う豚の彫刻をほどこして、ユダヤ教徒の信仰を愚弄し、ユダヤ教禁止令を出し、ユダヤ教の信仰とユダヤ暦の使用を禁じ、ユダヤ教指導者を殺し、ユダヤ教の書物を神殿の丘の穴に廃棄して、その穴を埋め、「ユダヤ」という地域名を「パレスチナ」に変え、ユダヤ文化の根絶を図った。 ユダヤ教禁止令を破る者は死刑にされた。 ユダヤ教徒は、バル・コクバの乱で敗北してから二百年近くに渡って、エルサレムへの立ち入りを禁じられた上に、エルサレムを遠望することも禁じられた。 禁を破ってエルサレムに立ち入る者は死刑を覚悟しなければならなかった。 こうした状況の中で、パレスチナのユダヤ教徒の大多数はパレスチナを去り、地中海沿岸・西アジア・インドに移住した。 こうして、第二次ユダヤ戦争は幕を閉じた。 ユダヤ教徒が神殿跡地への立ち入りを許されるようになったのは4世紀になってからである。 但し、それが許されるのは、エルサレムがローマ軍によって破壊された記念日のただ1日であり、ユダヤ教徒は屈辱に泣き続けた。 ユダヤ教徒の神殿跡地への立ち入りが許可されて以来、「嘆きの壁」はユダヤ教徒の燃えるようなメシア待望の思いと民族的怨念を吸い込み続けてきた。 ユダヤ教徒は移住した地で共同体を作り、異教徒との親和的交流を断ち、周囲の社会に同化することなく、ひたすらメシアの出現を待った。 第一次・第二次ユダヤ戦争での敗北によるセム系ユダヤ教徒の大規模国外移住は「ディアスポラ(離散)」と呼ばれている。
ユダヤ教徒は3世紀以降、バル・コクバが指導したような大規模な反乱を起こせなかった。 西暦313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は民心掌握のためにキリスト教を公認した。 西暦392年、ローマ皇帝テオドシウス1世は正統キリスト教(三位一体説を主張する立場)をローマ帝国の国家宗教とし、その他のキリスト教や異教を禁止した。 この当時のユダヤ教徒から見れば、キリスト教徒はユダヤ教聖典を盗んだ無法者であった。「自分たちは神ヤハウェによって選ばれた」と思っているユダヤ教徒にとって「世の中の動きは一体、何を意味しているのか。 自分たちユダヤ教徒はなぜ苦しまなければならないのか。 バビロン補囚時代以来、政治的大不幸の中に置かれている自分たちユダヤ教徒をその大不幸から解放してくれるメシア(救世主)を、神ヤハウェはなぜ早く地上界へ派遣してくれないのか」ということが大問題となった。 ユダヤ教徒は各地の共同体に籠もりながら、これらの謎を解明しようとした。 こうして、ユダヤ教の内面化が促進され、神ヤハウェの真意を探ろうとするユダヤ教神秘主義思想「カバラ」が生まれた。
第3章 「カバラ」の発展と終末意識の高まり
ユダヤ教神秘主義思想がキリスト教世界に知られるようになったのは12世紀になってからのことである。 12世紀になるまで、ユダヤ教神秘主義思想はキリスト教世界には完全に隠されていた。 12世紀になって、北スペインやフランス南東部のプロヴァンス地方にユダヤ教神秘主義思想を語る者が現れると、それ以後、ユダヤ教神秘主義思想は「カバラ」という名でキリスト教世界に急速に広まっていった。 また、12世紀から13世紀にかけて、カバラの奥義書が数多く執筆・編集された。 この時期に登場したカバラの奥義書が展開したのは主に『トーラー(モーゼ五書)』のカバラ的解釈と『トーラー』の背後に見え隠れする『原トーラー』の追求だった。 カバリスト(ユダヤ教神秘主義思想家)たちは「創世記」や「出エジプト記」などの記述を特別な数字に変換し、神秘的な操作による文字の並べ換えなどによって、表面的な意味の背後に隠された叡智を探りだすことに没頭した。 また、カバリストは、神的創造世界を表したセフィロト図のオカルト的解釈を通して、人類文明の過去・現在・未来の諸相を探求し、来たるべきメシア出現の年代計算に情熱を傾けていった。
現在、カバラには三大教典があるが、そのうちで最も古いものは『イェツィラの書』(別名『形成の書』、紀元3世紀〜5世紀に成立)で、残りの『バヒルの書』(別名『光明の書』)と『ゾハルの書』(別名『光輝の書』)は12世紀〜13世紀に成立した。 『ゾハルの書』の著者である、スペインのユダヤ教指導者シメオンによって、カバラはユダヤ教神秘主義思想としてまとめあげられた。 彼が13年間の洞窟生活の間に、神からの啓示を受けて書いたとされる『ゾハルの書』は、タルムード成立以後のラビ文献の中でひとつの規範的テキストとなり、数世紀に渡ってユダヤ教聖典とタルムードに比肩する地位を維持することになった。 『ゾハルの書』の出現によって、ユダヤ教は、言わば、第3の聖典を持つことになった。 (第1の聖典はユダヤ教聖典で、第2の聖典は口伝律法を成文化したタルムードである)。 以後、ユダヤ教神秘主義思想は、『ゾハルの書』に集約されたカバラ思想を中核として展開していった。
こうしてユダヤ教が霊的・内面的な方向に極度に向かって行った間にも、ユダヤ教徒に対する過酷な迫害は続いていた。 他宗教を承認しないユダヤ教の閉鎖性や、強固な選民思想は非難の対象になったし、キリスト教徒がカバラに対して持つ盲目的な恐れは、ユダヤ教徒を魔術師と見る強い偏見を育てていった。 キリストを売ったユダヤ教徒、金に汚いユダヤ教徒、悪と交渉しているユダヤ教徒といった偏見により、キリスト教世界では、ユダヤ教徒はしばしば虐殺や略奪の対象となり、また、異端審問の名のもとに行なわれる拷問の餌食となった。
そうした中で、カバリストは終末思想(メシア待望観念)を盛り上げていった。 ユダヤ教によれば、天国に秘め置かれているメシアが地上に人間として現れ、全ユダヤ教徒を救済するのは、「地上の悪」が絶頂に達するときである。 カバリストは、黙示文学に描かれたような暗黒世界がいよいよ全地を覆いだしてきたと主張し、虐げられたユダヤ民衆の終末意識を煽った。 同じことはキリスト教世界でも起きていた。 例えば、キリスト教徒の画家たちは好んで黙示録的情景や最後の審判を描いた。 占星術師の中には、ドイツのヨハン・シュトフラーのように「1524年にノアの大洪水の再来がある」と唱える者もいたし、実際、彼の言葉を信じて箱船を造った有力者もいた。 16世紀の前半にはドイツで宗教改革運動が盛んになり、それに伴って起きた戦争・内乱・暴動・一揆などが人々の恐怖心と終末意識を一層煽った。 そして、宗教的権威のおどろおどろしいご託宣が人々のこうした恐怖心と終末意識を増幅し続けた。 例えば、マルティン・ルターは、「あと数年でこの時代は『終末』を迎え、聖書は完全に実現されるだろう」と唱えた。 また、彼の弟子のひとりは、ルターの思想をより過激に展開して、地上から悪の勢力を一掃するための「メシア革命軍」を組織した。
第4章 ルリア神学
16世紀には、ドイツ、スイス、イギリス、北フランスで盛んになった宗教改革運動や、それに伴って起きた戦争・内乱・暴動・一揆などにより、ユダヤ教の世界でも「終末思想(メシア待望観念)」が優勢となり、ユダヤ教神秘主義思想の巨人が現れた。 その巨人とは、1534年にエルサレムで生まれ、7年間、徹底した隠者生活を送りながら、魂を天界に自在に飛ばす瞑想を続けてカバラの奥義に達したとされるユダヤ人ルリア(イツハク・ルリア・アシュケナジ、西暦1534年〜1572年)である。 ルリアの神秘主義思想を「ルリア神学」とも言う。 ルリアの神秘主義思想の中で、後世に最も大きな影響を与えた点は「世界は未完成である」としたことである。 彼は次のように主張した。「神ヤハウェの世界創造開始の時点から、神ヤハウェの世界創造活動はサタン(悪)によって妨害されてきた為、神ヤハウェの世界創造活動は未だ完了しておらず、従って、世界は未完成である。 神ヤハウェは数ある民族の中からイスラエルの民(古代ユダヤ人)を選び、彼らに律法(掟)を与え、それを守らせ、この未完成な世界を完成するという使命を与えた。 しかし、サタン(悪)が神ヤハウェの世界創造活動を妨害しようとして、ユダヤ人を徹底して迫害し、世界が未完成のままに留まるよう、陰に陽に働いている。 今や「地上の悪」は絶頂に達しようとしており、メシア出現の機は熟した」。 ルリア神学は彼の死後半世紀ほど経った西暦1625年頃からユダヤ教神秘主義思想を代表するものになり、ユダヤ社会の支配的思想となった。
因みに、ユダヤ教神秘主義思想の巨人ルリアでさえ、神ヤハウェを「全知全能の神」とは見なしていないことが判る。 神ヤハウェの世界創造活動を妨害しようとして、ユダヤ人を徹底して迫害し、世界が未完成のままに留まるよう、陰に陽に働いているサタン(悪)を制圧できない神ヤハウェであっても、神ヤハウェはユダヤ教徒にとっては「至高なる神」なのかも知れない。
第5章 サバタイ・ツヴィ運動
西暦1665年、ルリア神学の多大な影響の下に、世界各地のユダヤ教徒を巻き込んだユダヤ教最大のメシア運動が起きた。 それは「サバタイ・ツヴィ運動」である。 西暦1626年、トルコのスミルナにサバタイ・ツヴィというユダヤ人が生まれた。 奇しくも彼が生まれた日付はエルサレム神殿が破壊された日であり、メシアが生まれると信じられていた日であった。 その当時、ルリア神学はユダヤ社会の支配的思想となっていた。 サバタイ・ツヴィはルリア神学を熱心に勉強し、禁欲的な修行に明け暮れていた。 彼は、周囲の人々を魅了するようなカリスマ的なオーラをその堂々たる体躯から放っていたという。 西暦1648年、サバタイ・ツヴィ22歳の年に、ポーランドの支配下にあったウクライナで「フメリニツキーの乱」と、それに伴うポグロム(ユダヤ教徒に対する集団的虐殺・略奪)が起きた。 フメリニツキーの乱は、もともとポーランド領主に対するウクライナ・コサックの反乱だったが、ひとたび暴動が始まると、ウクライナ・コサックの矛先はユダヤ教徒へ向かった。 その有り様を、ある歴史家は次のように描いた。「あらゆる物を奪い去る凶暴で大規模な虐殺が起きた。 各地で虐殺が行なわれ、ポーランド人たちは多くの場台、自分は助かりたいという愚かな考えで、隣人のユダヤ教徒を裏切った」。 この事件で虐殺されたユダヤ教徒の数は50万人を超えたという。 この悲報はサバタイ・ツヴィの耳にも届いた。 彼は「この事件こそ、メシア出現の生みの苦しみである」と宣言し、「地上の悪」が絶頂に達したという信念を一層強めた。 更に、彼は個人的な神秘体験を通して、「自分はメシアだ」という考えを持つようになっていった。 のちにサバタイ・ツヴィが、メシアとして各地のユダヤ社会から絶大な支持を得るようになった背景には、ひとりの若き預言者の存在がある。 カバラ学者ナタン(西暦1644年〜1680年)である。 ナタンはルリア神学を学び、早熟の天才として才能を発揮すると同時に神秘的な資質を備えていた。 彼はある日の神秘体験によって、パレスチナのガザにメシアが現れるという神の啓示を受けたと確信した。 彼はその啓示に従って西暦1665年にガザでサバタイ・ツヴィと出会った。 サバタイ・ツヴィに出会ったナタンは「サバタイ・ツヴィこそメシアだ」と直感し、「サバタイ・ツヴィこそメシアだ」と宣言した。 そして同時に、ナタンは「自分はメシアの出現を告げる “先駆けの預言者エリヤ” の再来だ」と確信した。 ナタンとサバタイ・ツヴィ、いずれかが欠けてもユダヤ史上空前のメシア運動は起き得なかった。 この意味で、この出会いは正に運命的な出会いだった。
ユダヤ教の伝承では、預言者はパレスチナ以外の地には現れないとされていた。 それゆえ、パレスチナ以外の地に現れた預言者は全て「偽預言者」と見なされてきた。 ところが、ナタンは正にパレスチナのガザで預言者となった。 これは多数の預言者が活躍した紀元前の時代以来、かつてない衝撃的な事件だった。 しかも、ナタンは、その資質から言っても、学識から言っても、また、預言者に欠かせない神秘体験のレベルの深さから言っても、真の預言者と見なされて良いだけの資格を備えていると信じられた。 そこで人々は、ナタンを預言者エリヤの再来として受け入れた。 ということは、彼が「この人こそメシアだ」と言ったサバタイ・ツヴィこそが本物のメシアだということになる。 サバタイ・ツヴィはナタンに導かれて、エルサレムで「自分こそメシアである」と宣言し、2人の兄弟をユダヤとイスラエルの王に任命し、自分は「王の中の王」を名乗った。 メシアが現れたというニュースは手紙によってすぐさまヨーロッパ、アジア、アフリカのユダヤ人共同体に伝えられた。 ユダヤ人は熱狂をもってサバタイ・ツヴィを迎え入れ、ユダヤ人共同体のシナゴーグでは、「我らの主、王、師にして、イスラエルの神の油注ぎたまいし聖にして義なるサバタイ・ツヴィ」への祈りが捧げられた。 世界各地のユダヤ社会から救世主サバタイ・ツヴィのいるトルコに使節団が送られた。 西暦1665年のメシア出現宣言から1年と経たないうちに、ユダヤ教はサバタイ・ツヴィを中心とした強固な統一を達成した。 サバタイ・ツヴィは古い律法を廃し、全世界を26区画に分け、そこに26人の高弟を配置するなど、「ユダヤの王」として振舞い、エルサレムからトルコのスミルナ、そして、コンスタンティノープルへ巡幸して歩いた。 サバタイ・ツヴィをメシアと信奉する信徒(サバタイ派ユダヤ教徒)は貧富や教養の区別なく、あらゆる階層に及んだ。 その数はトルコ国内だけで何十万人にも達した。 これはトルコ政府にとって大変に危険な状態であった。 そこでトルコ政府は、政情を揺るがす危険人物としてサバタイ・ツヴィを逮捕し、投獄した。 しかし、サバタイ・ツヴィは牢獄内でも有り余る貢ぎ物に囲まれながら、「ユダヤの王」として振舞い、益々ユダヤ教徒を熱狂させた。 ユダヤ教徒がサバタイ・ツヴィに会う為に使節団を組んでトルコに殺到した。 サバタイ・ツヴィは彼らの前で「ユダヤ教徒の救済は西暦1666年のうちに起きる」と宣言した。 その為、多数のユダヤ教徒がパレスチナに戻る準備をした。 けれども、サバタイ・ツヴィ運動はすぐに予想外の方向に進んだ。 ユダヤ教徒の余りの熱狂ぶりを見過ごすことが出来なくなったトルコ政府はサバタイ・ツヴィをスルタン(サルタン)の前に連行し、「ユダヤ教を捨てるか、死を選ぶか」と強く迫った。 サバタイ・ツヴィはあっさりとユダヤ教を捨て、イスラム教に改宗し、それまでかぶっていたユダヤ式の帽子を捨て、イスラム教信者であることを示す白いターバンをかぶって退席したのである。 サバタイ・ツヴィがイスラム教に改宗したことは、普通に考えれば、神ヤハウェとユダヤ民族への最大の裏切り行為であり、堕地獄に値する。 ところが、まことに奇妙なことに、サバタイ・ツヴィの改宗はそのようには受け取られなかった。 むしろ、この改宗によって、サバタイ・ツヴィはより神秘的なメシアヘと昇格したと考えられた。 なぜ、そのように考えられたのか。 その理由は、サバタイ・ツヴィの最大ブレーンであるナタンの巧みな合理化にあった。 ナタンは、サバタイ・ツヴィの揺れ動く精神状態をカバラ的に解釈し、サバタイ・ツヴィの改宗は実は悪の息の根を止める為の戦略なのだ、と合理化した。 ナタンは「この世を覆い尽くしている悪の勢力は余りに強大であり、外部から攻撃をしかけても容易には崩れない。 そこで、サバタイ・ツヴィは敢えて悪の勢力の内部に深く侵入した。 そうして、時が至るまでは、あたかも悪の勢力の一部になりきった者のように振舞いつつ、着々とユダヤ教徒の救済の準備を進めているのだ」と説いて、サバタイ派ユダヤ教徒を納得させた。 このように、ナタンは「ルリア神学」を改良する形で、独自の「ナタン神学」を形成した。 ナタンによれば、「地上の悪」に対するサバタイ・ツヴィの戦闘は、かつてのバル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)のような、単純な地上界での戦闘を意味しているのではなく、サバタイ・ツヴィの戦闘領域は霊界にまで広がり、サバタイ・ツヴィの戦闘は地上と霊界の両方で展開され、互いに同調しあって進められる「霊的な戦闘」へ変質したというわけである。
サバタイ・ツヴィがイスラム教に改宗したあとも、サバタイ・ツヴィを信奉する者は跡を絶たなかった。 また、サバタイ・ツヴィは密かにシナゴーグに姿を現し、一部の信者を集めて深遠なカバラを伝えた。 その為、業を煮やしたトルコ政府はサバタイ・ツヴィをアルバニアに追放した。 サバタイ・ツヴィは西暦1676年9月にその地で亡くなった。 けれども、サバタイ・ツヴィ運動がそれで消滅したわけではなかった。 世界を覆うサタン(悪)の勢力がいかに強大なものかは、常に迫害の対象にされてきたユダヤ教徒には骨身に染みて分かっていた。 それゆえ、サタン(悪)を打ち倒す為には、自ら進んで悪の勢力の内部に入り、悪の勢力の内部から、ちょうど木を腐らせるような形で倒すしかないのだというナタンの教えは説得力を有した。 その結果として、「サバタイ・ツヴィ運動」は表向きの改宗者を数多く作り出した。 或る者はイスラム教に改宗し、或る者はカトリック教に改宗した。
第6章 サバタイ・ツヴィ運動から「ハシディズム」へ
サバタイ・ツヴィ運動が始まってから、ユダヤ教徒のメシア待望観念は一層内面的なものとなり、何人もの自称メシアを生み出しながら、「ハシディズム」へとつながっていった。 ハシディズムはガリチア地方(現ポーランド南部から現ウクライナ西部にかけての地域)の超正統派ハザール系ユダヤ教徒の間に広まった大衆版ユダヤ教神秘主義思想とでも言うべきものである。 ハシディズムの「ハシド」とは「敬虔な者」という意味である。 ハシディズムの創始者は、ガリチア地方生まれのユダヤ教思想家バアル・シェム・トーブ(西暦1700年〜1760年)である。 ハシディズムは、大説教者と呼ばれたドーヴ・ベールなど数々の傑出したラビを生み出しながら、今日まで続いている。
ハシディズムの核になっている用語は「ツァディーク(義人)」である。 ツァディークはユダヤ人共同体ごとに現れる小さなメシアであり、彼らを神秘的リーダーとして敬虔な生活を実践し、神の国の実現を追求しようとしている。 ツァディークは、伝統的なユダヤ教のラビに対して「レベ」という尊称を持ち、指導権は世襲され、各地に「レベの家」が成立した。 しかし、ハシディズムも発展過程で小さな相違点が原因となって幾つもの宗派を生んでいった。 ハシディズムの中心地はガリチア地方であったが、この地方のハシディズムの拠点はナチズムの脅威にさらされて、全て崩壊した。 そして、アメリカやイスラエルにハシディズムの新たな拠点が生まれた。 これらのハシディズムの宗派は「ルバヴィッチ・ハシディーム」「ベルツ・ハシディーム」「サトゥマル・ハシディーム」などなど、町の名前で呼ばれる。 このうちアメリカにある「ルバヴィッチ・ハシディーム」はハバド派ハシディズムとも呼ばれ、西暦1990年代初頭、同派から “メシア” が出現して、多大な反響を巻き起こした。 その名をレベ・シュネルソン(メナヘム・メンデル・シュネルソン)という。 彼は西暦1951年に同派の第7代レベに就任した際、メシアは第8代レベが登場する前に現れると預言した。 シュネルソンが西暦1992年に脳溢血で倒れると、その預言の解釈をめぐってハバド派内部で論争が起こり、二派に分裂した。 すなわち、シュネルソンを正真正銘のメシアとして信奉し宣伝するグループと、シュネルソンはメシアではなく、メシア出現の時期を示しただけであると主張するグループに分かれた。 シュネルソンはアメリカ・ユダヤ社会では「神聖」の象徴であった。 彼は、自分がメシアと見られていることを一切否定しなかった。 並外れた知力と体力に恵まれていた彼はカリスマ的存在であった。 ユダヤ教徒はもとより、非ユダヤ教徒も彼にアドバイスや祝福を求めたほどで、ボブ・ディラン(アメリカのミュージシャン)などの著名人も彼のもとへ巡礼した。 シュネルソンは西暦1994年に死んだ。
第7章 ヤコブ・フランクの倒錯的なメシア運動
サバタイ・ツヴィ運動に影響されて、倒錯的なメシア運動を起こした者がいた。 西暦1726年にポーランドで生まれたヤコブ・フランクという過激なユダヤ教指導者である。 彼はサバタイ・ツヴィに倣って、キリスト教に偽装改宗した。 そして、彼はルリア神学を自分なりに解釈し直して、世界中の悪を増大させることによって破局を引き起こし、「終末」の到来を早めようというメシア運動「フランキズム」を展開した。 ヤコブ・フランクの教義は著しく倒錯的であり、虚無的であった。 彼にとっては、秩序の基である宗教を破壊し、人心を荒廃させ、拝金主義・性的堕落・争いを絶やさないことが「終末」の到来を早める為の善い行ないであった。 ヤコブ・フランク派は西暦1756年にユダヤ教正統派から除名された。 その後、ヤコブ・フランク派の一部は、ユダヤ教の世俗化を目指す「ユダヤ教改革派」に姿を変えたといわれている。
因みに、ロスチャイルド1世(メイヤー・アムシェル・ロスチャイルド、西暦1744年〜1812年)はヤコブ・フランク派のユダヤ教に深く関与していたとの説もある。「ユダヤ教改革派」の代表者として抜擢されたのはアブラハム・ガイガー(西暦1810年〜1874年)という人物である。 彼は西暦1868年11月にフランクフルトで行なわれたロスチャイルド1世の五男の葬儀で、ユダヤ教ラビとして説教していたという。 このアブラハム・ガイガーの活躍によって、ドイツのユダヤ人の間では、西暦1850年までに「ユダヤ教改革派」が圧倒的な勢力を得るに至った。