日下公人著『人間はなぜ戦争をするのか』より
『新・文化産業論』や『失敗の教訓』など数多くのベストセラーを世に出している日下公人氏(東京財団会長)は、ヒトラーについて、著書『人間はなぜ戦争をするのか』(三笠書房)の中で、次のように述べている。
歴史的な常識として、「ヒトラーは悪者である。 一方的に戦争を始めて世界中に迷惑をかけた」と思っている人が多い。 それは一面では正しい見方である。 しかし、ヒトラーが戦争を始める前に、そこまでドイツを追いつめたほうにも責任がある。 それは、ヴェルサイユ条約でドイツの軍備を制限し、領土を狭め、たくさんのドイツ人居住地域をポーランドその他の国に与えたこと、多額の賠償金を支払わせたことなどだ。
ヒトラーは政権を握ると、軍隊を再建し、賠償金の不払いを宣言し、それから失地回復を隣国に要求した。 そこで、英・仏はどうすべきだったか。 “べき論” はひとまず置いておいて、まずは事実の経過を見てみよう。 発火原因になったのは、1939年当時、ポーランド領だった「ダンチッヒ回廊」をめぐる領土交渉である。 ダンチッヒ回廊はもともとドイツ領だった。 第一次世界大戦でドイツが敗北したため、ヴェルサイユ条約によって、ダンチッヒは国際連盟の保護下で自前の政府を持つ自由都市となったが、ポーランド政府は港湾・鉄道の使用権を持っていた。 また、ダンチッヒ回廊はポーランド税関の管轄区域でもあった。 ダンチッヒ回廊に住む住民の95%はドイツ人だった。 ただし、ポーランドにとってはここが海への出口である。 ドイツ人住民の数は100万人で、彼らはポーランド経済に依存して生活していた。 第一次世界大戦が終わって20年近く経ち、ドイツは「交渉」を始めた。 要求はダンチッヒ回廊の返還で、交渉は侵略ではない。 ドイツは双方の利益になる着地点を探そうと提案した。 ただし、100万人のドイツ人は祖国復帰を願っていると付け加えるのを忘れなかった。 つまり、解放戦争だというのである。 ところが、イギリスとフランスはポーランドと同盟を結んで、ドイツとの領土交渉に反対した。「ポーランドに戦争を仕掛けるなら、我々が共に戦う」というもので、ポーランドは、これでドイツはひるむだろうと判断した。 しかし、それはポーランド外交の失敗で、ドイツはひるまなかった。 1939年の9月1日午前5時20分、ついにドイツ空軍の爆弾がポーランドの田舎町ブックに投下された。 午前10時、ヒトラーは国会を招集して、世界に向けて次のような演説をした。 もしも、ドイツが勝っていたら、世界の歴史教科書はこの演説のとおりを掲載したであろうから、全文を紹介しておこう。
ヒトラーの演説の全文
ドイツは久しく「ヴェルサイユ条約」がつくり出した忍ぶべからざる問題に悩みつつあった。 100万人の同胞が本国から切り離された。 よって平和的提案を出したけれども、いつも却下されてしまった。 ポーランドはダンチッヒを汚し、回廊を汚し、いたるところにドイツ系少数民族を虐(しいた)げた。 過去4ヶ月にわたってドイツは忍耐を重ね、ワルソウ政府に警告を発してきたが、この警告は無視された。 最後の瞬間にイギリスから調停の申し出があって、ドイツはこれを受諾したけれども、ポーランドは全権委員を派遣することを拒んだ。 昨夜一晩に国境14ヶ所に衝突事件が起こったのである。 西欧諸国がその権益を傷つけられたというなら、私はこれを遺憾とするが、フランスとイギリスとに対しては友好の情を保証した。 そして、ロシアはドイツと了解に到達した。 ドイツはまずダンチッヒ問題を解決し、次に回廊、そして最後にポーランドとの一般関係を調整する決心である。 昨夜はじめてポーランド軍はドイツ領に侵入したから、ドイツ軍は今朝5時45分にいたって砲火を返した。 これよりわれらは爆弾に対しては爆弾をもって報いる。 私もまた一兵卒として前線に赴くであろう。 勝利か死か、これは私の金言である。 私は今日以後、ドイツ国第一の兵士たること以外になにも望まない。 もし、私にして倒れたら、ヘルマン・ゲーリングが私に代わるであろう。 同志ゲーリングになにごとか起これば、ルドルフ・ヘスがこれに代わるであろう。 万一ヘスにして事故に逢わば、参議会がその指導者を選択するであろう。 私はいまだかつて降伏という言葉を知らない。 ドイツの意思とドイツの鋼鉄が最後の勝利を博するのである。
ドイツはイギリスとフランスのポーランド支援声明は口先だけだと考えたのである。 だから、第二次欧州大戦が始まったのには「3つの理由」があったと言える。 1番目は、ポーランドが譲歩しなかったこと。 2番目は、ドイツが旧領回復に武力を行使して、ポーランドに攻め込んだこと。 3番目は、イギリスとフランスがポーランドを支援して、9月3日にドイツに宣戦布告をしたことである。 その意味では大戦争になったのはイギリス・フランスのせいでもある。
では、イギリスやフランスにとって、ポーランドヘの支援は必要不可欠なものであったのだろうか。 支援は必要ないという意見がたくさんあった。 当のイギリス国民の中にもあった。「自分の息子は、戦う必要のない戦争で死んでしまった。 ポーランドのことなど放っておけばよかった。 チェンバレンやチャーチルという男は単なる戦争好きではないか」という声が今でもイギリス中にたくさんある。 イギリス国民はなぜこんなことを言うのかというと、一つにはドイツの負けが決まっても、戦争前の「ポーランド政府」が復活しなかったからである。
ポーランド政府はドイツ軍の侵攻を受けてルーマニアに逃れ、そこからパリ在住の元上院議長ラシュウィッチを大統領の後継者に指名した。 そこで誕生したパリの新設亡命政府はイギリスとフランスから正統政府として承認され、ついでロンドンに移って陸海空の三軍を再編し、英仏軍と共に戦った。 バトル・オブ・ブリテンと呼ばれる英防空作戦で、ゲーリングのロンドン空襲を迎撃したスピットファイアーのパイロットにポーランド人がいたことは映画にもなっている通りで、立派に同盟国としての実を挙げたのだった。 しかし、戦争が終わっても、亡命政権が返り咲くことはなかった。 戦争が終わると、ポーランドはスターリンの主導によって共産主義国となってしまった。
ポーランドの共産化は1945年2月の「ヤルタ会談」で決められた。 ヤルタ会談とは、チャーチル・ルーズベルト・スターリンがソ連のクリミア半島にあるヤルタという保養地で行なった会談である。 戦争が終わった後の世界をどうするかということが話し合われた。 その時、スターリンはポーランドを共産主義国にすると主張した。 ロンドンにいる亡命政府ではなく、1944年12月にソ連の占領下ですでに誕生していたポーランド共和国臨時政府を認めろと、米・英に主張した。 ポーランド共和国臨時政府とは、もちろん共産系の新政府である。 チャーチルは1週間頑張ったが、折れた。 その時の条件は、ロンドン亡命政府の要人がポーランドに帰国したうえで総選挙を行なって決定するというものだが、その日付を決めなかったので、ソ連は反共産系分子を大粛清した後に総選挙を行ない、ポーランドは共産主義国になった。
イギリスが戦争を始めたのは、そもそもポーランドを助けるためである。 イギリスは、ドイツ軍に故郷を追い出されたポーランド政府を返り咲かせるために戦争をした。 ポーランド政府と海外にいたポーランド人はポーランドを元の国にするために戦った。 ところが、戦争が終わると、ポーランドには新しい別の政府が誕生した。 つまり、イギリスは戦争目的を達していない。 国民から見れば、あの戦争で息子が死んだのに、得をしたのはスターリンだけだということになる。
スターリンの共産主義に押されて引っ込むくらいなら、ヒトラーがダンチッヒ回廊を取り返すと宣言した時に引いていてもよかった。 自由や正義、それからポーランドの民主主義を守ると言うのなら、イギリスは引き続きスターリンと戦うべきである。 チャーチルの理想主義的な大演説は、その程度のものだったのかと、国民は失望した。 日本では、この話はあまり知られていない。 日本の教科書には「ヒトラーがすべて悪かった」と書いてあるが、それでは話が簡単すぎる。
戦争目的を達しなかった国は敗戦国で、そういう戦争を始めた政治家は国民に対して開戦責任と敗戦責任を負う。 その大原則から考えると、ヒトラーはもちろんだが、イギリスのチェンバレン首相やチャーチル首相も同罪である。 ポーランドのモチスキー大統領も同じで、ヒトラーに抵抗したのは勇壮だが、結局は国を失ったうえに、国民を長く不幸にした。 モチスキー大統領がイギリスやフランスを当てにしたことは政治的大失敗だったと思うが、それを書くイギリス人やフランス人はいない。 しかし、それを分かっている人は多いと見えて、第二次世界大戦に大勝利した直後の総選挙で意外にもチャーチルは落選した。 戦争は大義名分だけで戦われるものではないのである。
ドイツの対英開戦も必然であったとは言えない。 ドイツの対英開戦にはいくつかの要因があるが、人の知らない話を書いてみよう。 1939年当時、ヒトラーはイギリスを十二分に尊敬していたから、イギリスと戦争する気はあまりなかった。 その時、「イギリス恐れるに足らず」と、最も激しく対決を主張したのは外務大臣リッベントロップである。 彼はその前はイギリス大使で、それほど反英的な人物ではなかった。 ヒトラーに抜擢されて大使になった時は、イギリスと対等に交渉ができると大喜びし、バッキンガム宮殿で丁重にもてなされたと、喜んでいた。 ところが、リッベントロップが自分の子どもをイギリスのハイ・ソサエティの学校へ入れようとしたら、入れてくれなかった。 ドイツ大使の息子だから特別扱いしろと言ったあたりが成り上がり者のおかしいところだが、とにかく入学は駄目だと言われて、カンカンに怒ったらしい。 そのせいか、ドイツに帰国後は、対英開戦を主張する急先鋒になった。 子どものことが原因というと意外な感じがするが、実は案外大きな要因かもしれない。
「歴史の法則」の前には個人の意見など問題ではないという考えが染み込んでいる人には雑学的な面白エピソードにすぎない話だが、私は少しこだわってみたい。 もちろん、リッベントロップの主張が通ったのは、周辺にそういう情勢があったからだが、しかし、情勢の研究と当事者の意識の研究は車の両輪のごとく等しく重要なものだと思う。 歴史の結果は一つしかないが、そこへ行くにはいくつも分岐点がある。 分岐点の研究は将来に役立つ。 それを法則や原則で片付けるのは「思考の節約」であって、せっかくの前頭葉が泣くというものである。
侵略戦争をしたのは日本だけではない。 歴史を見ると強い国はみんなした。 問題は強いか弱いかだけだ。 強国で侵略しなかった国など一つもない。 あるところでそう話したら、大来佐武郎外務大臣(当時)が「君の言う通りだが、日本がいちばん最近やったから一番罪が重い」と言った。 これは、まったくの誤解(間違い)である。 たとえば、日本が戦争に負けてベトナムから撤兵した後、フランスはまた軍隊を送って植民地支配を続けようとした。 すでに独立を宣言していたホーチミンが抵抗したが、軍隊を送って弾圧して昔に戻そうとした。 結局、ディエンビエン・フーで負けて引き揚げたが、フランスの侵略のほうが新しい。
日本が敗けた8月15日の翌々日、1945年8月17日に、インドネシアは独立宣言をした。 そこヘオランダ軍が戻ってきて、独立は許さないと軍隊を送り込んで、4年間にわたる激しい弾圧をした。 結局は弾圧に失敗して引き揚げたが、これは侵略戦争である。 以前、オランダの女王が日本に対して「侵略を謝れ」と言ったことがあった。 すると、日本の外務大臣は素直に謝罪した。 しかし、これは大きな誤解である。 日本がインドネシアから引き揚げた後、オランダが戻ってきて独立宣言ずみのスカルノ大統領と戦っている。 オランダのほうが新しい侵略者である。
アメリカも日本が負けた後、フィリピンへ入っている。 フィリピンはすでに日本によって独立させられているから、「われわれは独立国家である」と主張した。 それをアメリカは日本からもらった独立は認めないと言って、再び植民地にし、翌年アメリカの手で独立を与えた。 アメリカのほうが日本より新しい侵略者である。 それを忘れては困る。
ビルマとイギリスの関係も同じで、こういうことは、「日本は侵略戦争をした」と言われた時には、ぜひ思い出さなければいけない。 そういうことを全部含めて考えるべきだ。
戦後、日本は国際社会の中で、なにかにつけて「大東亜戦争で悪事をした」と非難され続けてきたが、日本の外務省は、こうした事実をきちんと採りあげ、正当な反論をしなくてはならない。「侵略戦争」とは何かという勉強も日本人には欠けている。 これでは過去の侵略を謝罪するといっても、何を謝罪しているのか、本人も分かっていないことになる。
この話は将来への大きな教訓を秘めている。 それは、侵略戦争を解放戦争にみせかけるテクニックについて、日本人は日頃からよく知っておかねばならないということである。 北海道でも沖縄でも佐渡島でも対馬でも小笠原でも、どこでも起こりうることだが、侵略を狙う国は、そこに自国に呼応する勢力や団体や住民をあらかじめ作ろうとする。 独立宣言をするのは簡単である。 昔は短波で放送したが、今はインターネットででもできる。 それから先は応援にやってくる自称「解放軍」と、日本の自衛隊の実力くらべになる。
以上、日下公人著『人間はなぜ戦争をするのか』(三笠書房)より