日本と古代イスラエルとの共通点

原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb010.html

神道は非常に謎に包まれた宗教である。 果たして、どれだけの日本人が神輿や正月行事や鳥居などのルーツを知っているだろうか。 以下、日本と古代イスラエルとの共通点を列挙しよう。

伊勢神宮の内宮から外宮に至る道路(御幸通り)の両側に並ぶ石灯籠(合計約700基)には、不思議なことに「カゴメ紋(六芒星)」が刻み込まれている。 カゴメ紋は「ダビデ王の紋章(ダビデの星)」とも言われ、ユダヤ人のシンボルになっていて、現在のイスラエル国の国旗にも、はっきりと描かれている。 石灯籠は大小様々である。 人間の背丈ぐらいの小型のものから巨大なものまである。 そして、どの石灯籠にも、「菊の紋章」と「カゴメ紋(六芒星)」が刻み込まれている。

ユダヤ人の宗教的な行事で日本と最もよく似ているのは「過ぎ越しの祭」である。 過ぎ越しの祭はユダヤ教の新年の祭で、ユダヤの祭の中で最古かつ最大のものである。 過ぎ越しの祭の日は、日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。 更に、過ぎ越しの祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、普段はふっくらとしたパンを食べるのであるが、この日に限って「種なしパン」を食べる。 この「種なしパン」は日本でいう餅に当たる。 しかも、ユダヤ人は丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供える。 これは日本の「鏡もち」にそっくりである。 また、過ぎ越しの祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期間と全く同じである。

神社につきものの鳥居は日本人にもうまく説明できない物である。 しかし、ユダヤ人が見れば即座に理解できる。 なぜならば、鳥居は古代イスラエル人の民家の玄関口とそっくりの構造をしており、赤い色をしていることには宗教的根拠がある為である。 ユダヤ人の過ぎ越しの祭は、かの有名なモーゼによる「エジプト脱出事件」(紀元前1290年頃)に起源を持っているが、同じく日本の年越しも鳥居もこの大事件に起源を持っていると言える。 モーゼは、頑なな心を持つエジプト王をして古代イスラエル人奴隷集団の脱出を認めさせる為に一連の魔術競争をした。 その魔術競争終盤のエジプト脱出の前日に “殺戮の天使” がエジプト全土に襲いかかって来るに際し、古代イスラエル人が “殺戮の天使” の害に合わないように、モーゼは古代イスラエル人をして彼らの民家の玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、“殺戮の天使” が通り過ぎるまで家の中で静かに待つように古代イスラエル人に指示した。 これが過ぎ越しの祭の起源であり、鳥居の起源である。 因みに、「トリイ」はヘブライ語(古代イスラエルの言語)のアラム方言で「門」という意味である。

古代イスラエルの神殿と日本の神社の構造は驚くほど似ている。 もともと、古代イスラエルの神殿は「幕屋」と呼ばれる移動式だった。 この幕屋はその名の通り、周囲を幕や板で囲んだものであり、その中で神に捧げる祭祀が行なわれた。 その祭祀は極秘であった。 囲むという事は日本の神社でも見られる。 そして、日本の神社の祭祀も極秘である。 また、幕屋の中の構造は基本的には聖所・至聖所・拝殿に分かれていて、祭壇には明かりをともす常夜灯があり、脇には手を洗う水盤があった。 また、古代ソロモン神殿の前には、お賽銭を入れる箱も置かれていた。

日本の神社の前に置いてある狛犬(こまいぬ)は犬というよりもライオンである。 古代ソロモン神殿の前にもライオンの像が置いてあった。 ライオンはダビデ王統を担うユダ族のシンボルであった。

現在でもユダヤ人は祈りの時に『旧約聖書』の言葉を収めた「ヒラクティリー」と呼ばれる小さな小箱を額に付ける。 これは山伏が頭につける兜巾(ときん)と酷似している。 また、山伏が吹く「ほら貝」の音は、ユダヤ人の祭りに使われる「ショーファー」という羊の角で作った吹奏器の音とそっくりである。

古代イスラエルのレビ族(祭祀担当)は皆白い服を着ていた。 それは非常にゆったりとした和服のような服で、そで口には「リンネ」と呼ばれる房が付いていた。 もちろん「ヒラクティリー」も使用していた。 彼らの姿は神道の神官や修験道の山伏のような姿であった。

映画『レイダース/失われたアーク』(インディ・ジョーンズシリーズの記念すべき第1作)にも登場した古代イスラエルの秘宝「契約の聖櫃(アーク)」は行方不明である為、「失われたアーク伝説」として広く知られている。 聖櫃(アーク)とはモーゼが神から授かった「十戒の石板」を保管する為の箱であり、全体に黄金が貼られており、『旧約聖書』の「出エジプト記」には、そのアークの作り方が克明に記されている。 その記載を見る限り、日本の神輿(みこし)にそっくりである。 アークの上部には2つの天使(ケルビム)の像が羽を広げて向かい合っているが、日本の神輿も黄金で覆われていて、神輿の上には鳳凰と言われる鳥が据えられて、大きく羽を広げている。 また、アークの下部には2本の棒が貫通しており、古代イスラエル人が集団で移動するときには、レビ族が聖櫃を肩に担ぎ、鐘や太鼓を鳴らして騒ぎ立てた。 しかも、担ぐ為の2本の棒は絶対に聖櫃から抜いてはならなかった。 同様に、神輿の棒も抜かれることはない。 祭りが終わった後も棒を差し込んだまま保管される。 このように、日本の神輿と聖櫃との類似性は偶然では済まされないものがある。

北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国は「聖櫃」と「ソロモンの財宝」を最も欲しがったのだが、彼らはそれらを見つけることが出来なかった。「聖櫃」と「ソロモンの財宝」は北イスラエル王国滅亡と同時に行方不明になってしまった。 その為、西欧の学者たちは「行方不明の10部族」と「聖櫃」の行方を追って、世界各地で手掛かりとなるものを捜し求め続けている。 なお、四国徳島県の修験道の聖地にして霊山である「剣山」には、ソロモンの秘宝が隠されているという根強い噂があり、一時、発掘隊が組織されたことがあった。 また、この剣山では毎年7月17日に「神輿祭り」が行なわれるが、京都では同じ7月17日に「祇園祭り」が行なわれる。

伊勢神宮には三種の神器のひとつである「八咫(やた)の鏡」があると言われているが、誰も本物を見たことがなく、その写しである皇室の神鏡にはヘブライ語が書かれているという。 三村三郎著 『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』には、皇室の神鏡に書かれているヘブライ語を解読する為に、ヘブライ語学者の左近博士が宮中に呼ばれた、と書いてある。 そして、鏡の文字は「私は “在る” である」と読めたという。 これは『旧約聖書』でモーゼが神にその名を問うたときの神の答えの言葉と同じである。 この話は一時、新聞に紹介されたことがあるらしく、日本在住のユダヤ人ラビ・M・トケイヤー氏が、個人的によく知っている三笠宮殿下に「この記事をご存じか、また、この鏡を見たことはおありか」と尋ねたという。 ところが、古代オリエントの歴史に造詣が深く、ヘブライ語にも熟達しているという三笠宮殿下でさえ「新聞記事のことは知っているが、鏡を見たことはない」とお答えになったという。 三笠宮殿下でさえこの鏡を見ることが出来ず、更に驚いたことには、三笠宮殿下の兄である天皇陛下でさえこれを見ることは許されないという。

伊勢神宮暦は他の神社と違って、古代イスラエル暦と一致している。

ユダヤ人は現在でも13歳の男子に成人を迎える儀式「バル・ミツバ」を行なうが、日本人も昔、13歳の男子に成人を迎える儀式「元服式」を行なっていた。 また、生後30日目に赤ん坊を神社に初詣でさせる習慣は日本とユダヤにしか見られない。

日本もユダヤも水や塩で身を清める「みそぎ」の習慣がある。 ユダヤ人は食事の前、トイレのあと、教会堂の入り口で手を洗うなどの習慣がある。 日本人も神社に詣でる前には入り口で手を洗う。 また、ユダヤ人は日本人と同じように、まず体を洗ってから風呂に入る。 ユダヤ人以外の白人はバスタブの中で体を洗う。

現在の日本で行なわれている相撲とは様相が異なるが、『旧約聖書』にはイスラエル12部族の父ヤコブが天使と相撲をとる光景が描かれている。 ヤコブは天使との相撲で勝ったことで「イスラエル(神と闘う者)」という名前を授けられた。 面白いことに、現在、イスラエルには相撲の愛好者が多く存在し、イスラエル国内に「相撲協会」が2つもある。

古代ユダヤ人は金髪や黒人ではなく、黒髪・黒目の浅黒い肌をした人種で、背が低く、体格は日本人とそっくりであった。 更に、日本人とオリジナル・ユダヤ人の男性Y染色体の大きさが同じであることが、パリ大学の教授によって発見された。 これは他には見られない現象だという。

『大和民族はユダヤ人だった』の著者であるユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグは、 カタカナとヘブライ語の文字との驚くほどの類似性を指摘している。 また、日本語の中にヘブライ語の単語が混在していることも指摘している。 彼は次のように述べている。「私は14年の歳月をかけて世界各地の言語を調べあげた。 世界には中南米のマヤ人を初め、いくつも “行方不明のイスラエル10部族” の候補となる民族がいるのだが、日本語のようにヘブライ語起源の言葉を多数持つところはなかった。 一般に日本語はどの言語にも関連がない為、“孤立言語” とされているが、ヘブライ語と類似した単語が優に3000語を超えて存在している」。

エルサレム神殿の門には、天皇家の「16弁の菊花紋」とよく似た紋章がしっかり刻み込まれている。 この紋章はイスラエル民族の紋章であった。 現在のユダヤ教のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)には必ずといっていいほど菊の紋章がデザインされている。 現在、世界中を見渡して、菊花紋をシンボルにしている一族はユダヤ人と天皇家以外にはほとんどない。

ユダヤの「シオン(ZION)祭り」は、日本の三大祭りの1つである京都の「祇園(ぎおん)祭り」と同じ7月17日に行なわれる。 “ぎおん”は“ジオン”の転訛だと指摘する研究家がいる。 また、ユダヤの「シオン祭り」はノア一家が大洪水を無事乗り越えたことを祝う祭りで、7月17日は『旧約聖書』で「ノアの大洪水」が終わった日とされているのであるが、祇園祭りを最大に特徴づけている数多くの「山車(だし)」は “ノアの箱舟” を象徴しているのではないかと推測する研究家もいる。 祇園祭りに登場する数多くの山車の中には、古代イスラエルで用いられた織様と同じ文様を付けたものが存在している。 京都市下京区四条鳥丸西入の山鉾「函谷鉾」の前掛けは『旧約聖書』の創世記の一場面を描いた16世紀末の綴れ織りである。 また、中京区室町通六角下ルの山鉾「鯉山」の見送りは古代イスラエルのダビデ王を描いた図である。 更に、祇園祭りでは「モーゼ山」という言葉が用いられており、この事は祇園祭りと古代イスラエルとの間にただならぬもののあることを感じさせる。

日本史上、最大最強の渡来人でありながら、今なお多くの謎に包まれている「秦(はた)氏」は昔から多くの研究家によって「古代イスラエル系渡来人」ではないかと指摘されている。 秦氏は第15代応神天皇(在位 西暦270年〜西暦310年)の時代に大陸から渡来した。 そして、この時、10万人もの秦一族が日本に帰化し、彼らの一部は大和の葛城に住み、彼らの多くは山城に住んだのだが、第21代雄略天皇(在位 西暦457年〜西暦479年)の時代に、秦一族は京都の太秦(うずまさ)に移住・定住するようになった。 秦氏は非常に有力で、平安京は事実上、秦氏によって作られた。 秦氏は仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも大きく貢献した。 太秦は秦一族の居住地として栄えた。 この地には「木嶋神社(蚕の社)」がある。 そして、そこには神秘的な鳥居として知られる「三本柱の鳥居」がある。 それを上から見ると正三角形を形作っている。 その形は、ユダヤの神秘思想「カバラ」に起源があるとも言われている。

平安京に遷都した桓武天皇は古代イスラエルの燔祭(はんさい)と同様の儀式を行なっていた。 また、平安京のマークはカゴメ紋(六芒星)だと言われ、現在の京都の市章はその平安京のマークを図案化したものだと指摘されている。 因みに、平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム」、すなわち、「エル・サレム」である。 名称の酷似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京とよく似ていることが指摘されている。

八坂神社の祇園信仰にも古代イスラエルの信仰に非常に似た点がある。 また、八坂神社や伊勢神宮の周辺などに「蘇民将来」という伝承にまつわる護符があるが、ここにもダビデ王の紋章が出てくる。 因みに、ユダヤのメズサ(護符)と日本のお守りはよく似ている。

現在、日本の総氏神を祀っているのは伊勢神宮であるが、伊勢神宮の前身(元伊勢)は丹後国一宮の「籠(この)神社」であり、本来の伊勢神宮とも言える「籠神社」の宮司を代々務めてきたのが海部一族である。 現在、第82代宮司を務める海部光彦氏は、最近になって、それまで極秘であった “裏家紋” を公開した。「籠神社」の奥の院である「真名井神社」の石碑に刻み込まれた裏家紋は、なんと驚くべきことに、六芒星(ダビデ王の紋章)であった。

以上、日本と古代イスラエルとの共通点を列挙した。 日本と古代イスラエルとの関係を解き明かすには、多方面に渡る緻密な学術調査が不可欠である。 今後、この方面の研究がどんどん進められていくことを期待する。

因みに、紀元前722年、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、北イスラエル王国のイスラエル10部族はアッシリア帝国内へ連行され、その後、行方不明になった。 聖書外典の「第二エズラ書」は次のように伝えている、「これらは、ヨシア王の時代に捕らえられ、其の領土から連れ出された部族である。 アッシリア王シャルマネセルがこれを捕虜として連れて行き、河の向こうへ移した。 こうして彼らは異国へ連れて行かれた。 しかし、彼らは異国人の群れから離れ、かつて人が住んだことのない遥か彼方へ行こうと相談した。 それは自分の国では守っていなかった律法をそこで守る為であった。 こうして彼らはユーフラテス川の狭い道を通って行った」。 そして、初代天皇である神武天皇が即位したのが紀元前660年であり、神武天皇の生誕年は紀元前711年である、と言われている。