日露戦争の前に、もっと多くのユダヤ情報があったら、
谷沢永一&渡部昇一著『封印の近現代史』(ビジネス社)の中には、次のような興味深い記述がある。 以下の文章は此の本のP219〜P220から抜粋したものである。
日露戦争においては、もう少し情報収集がうまく機能すればよかったという意見がある。 このまま戦争を続行したら日本は駄目になるということを上の人たちが分かって、それを早く抑えたことは、もちろん正しかった。 しかし、もう一歩先に進んで、もう少し高度な情報収集活動ができていたならば、ロシアのほうもまた戦争を継続できるような状態ではなかったということを知ることができたのである。 ロシアは当時、実はドイツやフランスのユダヤ人から金を借りていて、「もうこれ以上は駄目だ。 講和してもらわなければ、融資を打ち切る」と言われていたのである。 だからこそ、ロシアは講和条約の場に出てきたのである。 しかし、日本側はそんな事情を知らないから、譲歩したところも少なくなかった。 そうして、危機一髪のところで日本と有利な条件で講和をしたロシア代表のウィッテが、いちばん最初に電報を打ったのはベルリンのメンデルスゾーンであった。 あの有名な作曲家一族のユダヤ人である。 そこには、「講和が成立した。 融資継続を頼む」とあり、それから二番目に皇帝に電報を打ったのである。
旅順の要塞にしても、そうである。 ロシアが旅順に要塞を作っているらしいということは、わかっていた。 それがどのくらいの規模であるかを探るために、日本は支那人クーリー(労働者)に化けたスパイを送り込むのだが、片っ端から捕まって死刑にされてしまった。 ところが、イギリスはそれ(旅順要塞の規模)を正確に知っていた。 旅順では大量のベトン(コンクリート)を必要としたが、当時は、まだシベリア鉄道は完成していなかったため、(シベリア鉄道では)運べない。 船で運ぶよりしょうがないのだが、その船は大体イギリスの船であり、それに積む品物を売っているのはユダヤ人である。 そこで何をどれくらい売ったかが分かれば、要塞の規模がどれくらいのものなのか、おおその見当はつくのだ。 その情報が、日本にはなかったのである。 ユダヤ人がそういう位置にいたということを、当時洞察した人が幹部に一人でもいたら、もっとおもしろかったであろう。
高橋是清が金融のほうではうまくユダヤ人と友情を温めたが、その他の情報収集までにはいたらなかった。 これがユダヤの財閥の誰か一人でも日本国籍を取るくらいになっていたら、話は違っていただろう。 日清戦争あたりでその一族に助けてもらって、そのユダヤ人に男爵ぐらいの称号を与えておく。 そうすれば、きっともっともっと重要な情報がたくさん入ってきたことだろう。 その手を、イギリスは使ってきた。
以上、谷沢永一&渡部昇一著『封印の近現代史』(ビジネス社)より