日本がなかったら、20世紀に地球規模のアパルトヘイトが完成していた
谷沢永一&渡部昇一著『封印の近現代史』(ビジネス社)の中には、次のような記述がある。 以下の文章は此の本のP186〜P192、P197〜P198から抜粋したものである。
■ 日露戦争後も、ヴィルヘルム2世の黄禍論は生きていた ── 谷沢
「明治維新が成立することによって、欧米流の世界史的なメカニズムが壊れた。 極東アジアの日本が、植民地にならずに独自の道を歩むことによって、欧米中心の世界史は辻棲が合わなくなった」という見方があるが、ことはそれほど単純ではない。 いかに衝撃であったにせよ、日露戦争は、ヨーロッパから見れば、むこうの端でなんかやっているというぐらいであった。 ヴィルヘルム2世の黄禍論というものは、まだ生きていた。
■ 日露戦争での日本の勝利に欧米は危機感をもった ── 渡部
バルチック艦隊を消し、世界最強の陸軍を破って奉天を陥落させた。 西洋人からみれば、たしかに地球の隅の極東で何かやっているくらいのことであった。 ただ、これまでに、あれほどの大艦隊が、あっというまに消えてしまうということはなかったので、日露戦争はやっぱり世界的な衝撃であったはずである。 1905年5月、対馬海峡沖での日本海海戦で、東郷平八郎率いる連合艦隊はバルチック艦隊と戦って圧倒的な勝利を収め、ロシアのバルチック艦隊があっというまに消えてしまったのである。 また、1905年3月に奉天(今の瀋陽)付近で戦われた奉天会戦は、日露戦争中最大の陸上戦闘であったとともに、その当時までの、人類の最大の会戦でもあった。 ナポレオンだって、あんなに大きな陸戦はしていないのである。 ロシア軍はすでに南満洲の諸戦闘で日本軍から手痛い打撃を受けており、冬季間に本国から増援をえて32万人の戦闘部隊となっていた。 その32万人の部隊でもって雪融けとともに反撃に出ようとしていたのである。 これに対して、大山巌元帥率いる日本軍は、旅順要塞攻略後の第三軍と全満洲軍との25万をもって、ロシア軍の機先を制して、3月1日に攻撃を開始した。 そうして、わずか10日で奉天を陥落させたのである。 そのため、奉天陥落の3月10日が陸軍記念日となった。 そうしたことで、世界史の主役が白人から日本人に移ったということはないにしても、欧米人としては、かなりの危機感をもったのではないか。 だから、アメリカなど、日露戦争をきっかけに、日本に対する態度が、がらりと変わるわけである。
日清戦争、日露戦争を含めて、19世紀末から20世紀の初めにかけて、日本という国がなかったならば、一体どういうことになったか。 当時の状況からいって、満洲はすべてロシア領になった。 それに、120%の確率で、朝鮮半島もロシア領になっただろう。 さらに、90%の確率で、黄河以北の支那もロシア領になったであろうし、揚子江流域以北も80%ぐらいの確率で、ロシア領になったであろう。 そして、揚子江沿岸はイギリス領であり、南のよい港もイギリス領になっていたはずである。 広東あたりはフランス領、山東半島にドイツが入るかもしれない。 といったようなことで、世界中で有色人種の本当の独立国は、トルコとシャムを除けば、なくなっていた。 この二国も白人には手も足も出ない状況である。 全部、完璧なる白人支配、アパルトヘイトが完成したはずである。
日本が世界史の中に登場したことにより、世界的なアパルトヘイトが崩れ去った。 日本がなかったら、支那なども欧米列強に分断されたはずだから、白人に立ち向かう有色人種の萌芽さえ潰(つい)え去ってしまったに違いない。 そのことにより、20世紀は完全な白人支配の世紀となっただろう。 日本なかりせば、世界中はアパルトヘイト、白人が主人で、黄色人種は召し使い、それより色の濃い人種は奴隷同様という時代が、もう100年や200年は続いたはずである。 それが、日本が出てきたため、そうはいかなくなった。 だから、白人は腹の底では、今も「日本人の奴らめ」と思っているのである。
オランダはインドネシアを失ったのが、まだ悔しくて悔しくて、今だって天皇が行ったら生玉子を投げるくらい恨んでいる。 イギリスだって、インドを失い、マレーシアを失い、ボルネオを失い、ビルマを失ったことが悔しくてたまらないのである。 アメリカの白人でも、黒人やヒスパニックを差別できなくなったことを恨んでいる者が決して少なくないと思われる。 白人にそのように思わせるくらいのことを、日本は有色人種の代表としてやったのである。 そう考え、主張してもよい十分な根拠があるということである。
■ 日本はそれを言い続ける権利がある、義務もある ── 谷沢
日本のお陰で植民地、あるいは、それ以下のような状況に陥ることを免れた国々は、みな沽券にかけて、それを公的には認めないだろう。 国が寄っての意見の一致はありえない。「歴史認識の一致」などということを、よくアホな大臣・政治家が言うが、彼らの頭は一人前でない。 そんなことは金輪際ありえないことである。 世界の国々は、それぞれの立場と面子から、それぞれに勝手なことを言うだろうが、日本は日本で、渡部さんがいま言われたようなことを言い続ける権利がある、義務もある。
■「日本がなかったら」と話しかけたら、みんなシーンとなった ── 渡部
そのことを、われわれは日本の子供たちに教え続けなければならない。 それに、「日本がなかったら」というこの仮定は意外に効果があるのだ。 というのも、2000年の春に、ある県の高等学校の講演会があった。 私は、原則として高等学校の講演会は引き受けないことにしている。 一般的に高校の生徒というのは講演の話を聞きたがらないからである。 私が、まだ朝日新聞から叩かれる前に、朝日新聞の関係で、関東地方の高校を回って講演をしたのだが、そのとき体育系の先生が竹刀を持って、回って歩いて、生徒に話を聞かせるということをやっていた。 それを見て、私は高校ではもう話をしたくないと思ったのである。 成人式でも、やはりひどい目にあったことがあり、高等学校の講演と成人式の講演は二度とやらないと決めていたのである。 ところが、秘書がどういう相手かを確かめないで、講演を引き受けてしまった。 それで、とにかく行ってみると、高校だったのである。 それも、私立高校と公立高校の両方が集まって、千何百人もの聴衆になっていた。 それを見て、正直言って、「参ったなあこれは」と思った。 さて、困ったぞ、どうすればいいだろうかと思って、おそるおそる、「もし20世紀の初めに、日本がなかったら、また日本国民がいなかったら、世界はどうなったか。 みなさんは、それを考えたことがありますか」と話しかけたところ、突拍子もない仮定だから、みんなシーンとなった。 それから、今みたいな話をしたら、最後までピシーッと静かに聴いてくれた。 そのあとで質問を受けたら、その質問がみんなとても的確であった。 この仮定は効くのだが、たしかに他の国は、なかなか認めないだろう。 だが、100年くらい経ったら、世界中の歴史家が認めるだろうということを信じたい。 これまでにも既に、日本人以外でそのことを認めた学者が少なくとも一人いる。 それは、ピーター・ドラッカーである。 ドラッカーは10年前ぐらいに『ニュー・リアリティーズ』(邦題は『新しい現実』 1989年)という本を書いた。 その本の中で「20世紀を振り返ってみると、政治的に成功したのは日本だろう」と言っている。
ピーター・ドラッカー : 彼は世界で初めて企業の経営理論を体系化した。 現在、ビジネス界に最も大きな影響力を与えている思想家として知られ、「企業経営の神様」と呼ばれる。 ウィーン生まれのユダヤ人で、1937年にアメリカに亡命した。 生誕 1909年、死没 2005年。
「政治的に成功したのは日本だろう」という内容は、いま言ったようなことに近かった。 さすがに「白人によるアパルトヘイト」などということは言っていないが、「20世紀も終わりに近づいて、無数の独立国ができたが、それは全部日本の真似であった」と、はっきり書いていた。 20世紀も終わりに近づいて誕生した独立国の共通点は、全部自分たちで政治をやりたいということ、そして、外国の優れた技術、制度、法律をいれようということであり、それは日本の明治維新の真似である。 だから、20世紀に本当に政治的に成功したのは日本であるというのだ。 ドラッカーは20世紀末に早くも正解を書いていたということである。 なぜ、ドラッカーがそのようなことを言ってくれるのかと考え、調べてみたら、わかったことはドラッカーはアメリカ生まれではなかったのである。 ドイツ語圏のオーストリアの生まれである。 だから、おそらく、第一次大戦後あたりには、アメリカにおける反ドイツ思想の嵐のおかげで、嫌な思いをしたこともあったのではないだろうか。 そうしたことが糧となって、世界の実像がわりあいに正確に見えていたのではないかというのが、私の想像である。
■ 日本軍の雄姿がアジアの白人コンプレックスを吹き飛ばした ── 渡部
ここでもう一度、アパルトヘイト論に戻りたい。 日清戦争・日露戦争に日本が大きな勝利を収めて以降、白人の植民地はひとつも増えていない。 白人が全地球をアパルトヘイトしていこうとした時代が終わった。 日清戦争終結から数年後、訪日中のタフト米国陸軍長官が桂太郎首相との間で「フィリピンには口を出してくれるな。 そのかわり、われわれは朝鮮には口を出しません」という趣旨の覚え書を交している。 だから、あの時点で、事実上、白人の植民地時代は終わったといえる。 ただ、しいていえば、戦後にも支那の毛沢東政権がチベットを制圧するということはあった。 そのチベットは今もって制圧中であり占領中であるわけだが、白人の植民地は増えていない。 その点、白人は分かりが早いといえる。 彼らにしても、戦後にもう一度かつての植民地に戻りたかっただろうが、それはできなかった。 戦後、インドネシアでもオランダが再植民地化をもくろんだが、スラバヤの戦をはじめとして各地で激しい抵抗にあい、諦めざるをえなかった。 そのインドネシアの対オランダ戦には、戦後もインドネシアに残った旧日本軍が、文字通りボランティア(義勇兵)としてずいぶん協力した。 そうして、インドネシアは1949年12月に、ハーグ協定により名実ともに独立を獲得したのだ。
以上、谷沢永一&渡部昇一著『封印の近現代史』(ビジネス社)より
追加情報
東アジア史の専門家であるジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学教授)は、著書『人種偏見』(TBSブリタニカ)の中で、第二次世界大戦中の、日米双方の人種観を公平な目で分析している。 この本によれば、アメリカから見ると、対ドイツ戦より対日本戦の方が遥かに「人種戦争」という面が濃厚であった。 そして、アメリカ側の対日本人観の典型は「猿」であり、2番目以降は野蛮人、劣等人間、人間以下、害虫、と続いた。 それは自然に次々とわいてくるものであったという。 そして、アメリカのマスメディアは日本軍の残虐行為について盛んに報道したという。 一方、アメリカのヨーロッパでの敵はドイツ人ではなくヒトラー一派であったという。 ダワー教授は、相手を人間以下と見なす発想は日本人に対して初めてではなく、歴史上繰り返してきた非白人に対する蔑視、具体的にはインディアンと黒人に投げつけてきた表現が噴出したものに過ぎないと述べている。