イギリスのユダヤ人

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第1章  中世イギリスの反ユダヤ政策
西暦1066年、北フランス・ノルマンディーのノルマンディー公ウィリアムがイギリスに侵攻し、ウィリアム1世としてイングランド王となり、ノルマン王朝(1066年〜1154年)を建てた。 そして、フランスの有力ユダヤ人がウィリアム1世に招請されてイギリスに渡った。 此のユダヤ人がイギリスに初めてやって来たユダヤ人だと言われる。 イギリスに住み着いたユダヤ人は商品売買業と金貸し業に従事した。 イギリスで金貸し業に従事したユダヤ人がお金を貸した相手は主に貴族と国王であった。 こうしたユダヤ人の繁栄とその繁栄達成の手段はイギリス人の妬みと反感を買った。 西暦1114年、「ユダヤ人がイギリス人少年を “儀式殺人” の対象にした」という事件がでっち上げられ、其のでっち上げ事件を真に受けた反ユダヤ暴徒がユダヤ人居住区を襲った。 1189年には、プランタジネット王朝(1154年〜1399年)のイングランド王リチャード1世の戴冠式にあたり、突如として反ユダヤ暴動が起き、ユダヤ人の大半の家が焼かれ、多くのユダヤ人が殺され、ユダヤ人の財産はイングランド王のものとされた。 1217年、イギリスのユダヤ人は全員胸に黄色いバッジを付けることを義務づけられた。 そして、1255年、再び「ユダヤ人がイギリス人少年を “儀式殺人” の対象にした」という事件がでっち上げられ、其のでっち上げ事件を真に受けた反ユダヤ暴徒の激高を収める為に、イギリス政府はユダヤ人100人を処刑した。 西暦1269年、イギリス政府はユダヤ人の土地所有を禁じ、更に、ユダヤ人の遺産相続を禁じ、死んだユダヤ人の財産は王室が没収することになった。 そして、西暦1290年、イングランド王エドワード1世はイギリス国内からユダヤ人の全員を追放した。 此の時、1万6000人のユダヤ人がイギリスを去り、フランスなどへ逃れた。 こうして、イギリスにはユダヤ人が全く居なくなり、イギリスにおけるユダヤ人不在期間は、其れから約360年間の長きに及んだ。

ユダヤ人不在期間中のイギリス人にとってユダヤ人は想像上のものでしかなかった。 其の想像上でユダヤ人を描いた戯曲が『ヴェニスの商人』である。 イギリスが誇る天才劇作家シェイクスピアは16世紀末に数多くの優れた戯曲を書いたが、彼の作品『ヴェニスの商人』に登場する金貸しシャイロックの描き方は、当時のイギリス人の「ユダヤ人に対する排斥差別意識」を表したものとして知られている。『ヴェニスの商人』は1597年頃に書かれたと言われる。 この作品は「喜劇」のカテゴリーに入っているが、驚くほどユダヤ人を差別している表現が多く、反ユダヤ感情を煽る内容になっている。 しかし、当時のイギリスの芝居では此のようなユダヤ人の扱いは普通だった。

第2章  イギリスのユダヤ人社会の発展
宗教改革以降、カルヴィニズムの信奉者であった清教徒(ピューリタン)は贅沢や浪費をせずに勤労と蓄財に励み続けた結果として、彼ら清教徒は裕福となり、政治的に強い影響力を持つ中産階級(農民と貴族との間の階層)を形成した。 しかし、イングランド王は此の新しい状況に理解が無く、旧態依然とした政策を行ない、清教徒を圧迫した。 1642年に清教徒と国王支持者との間で内乱が起きた。 清教徒の軍人オリバー・クロムウェル率いる鉄騎軍は国王軍を打ち破り、国王を捕えて裁判に掛け、国王を死刑に処した。 そして、清教徒側は1649年にイングランド共和国を樹立した(清教徒革命、ピューリタン革命)。 クロムウェル政権は1651年に「航海条令」を発布し、オランダ商船のイギリスの港への出入りを禁止した。 此のことで1652年から1654年にかけて第一次イギリス・オランダ戦争が起き、此の戦争でオランダはイギリスに敗れた。 1655年、アムステルダム在住のユダヤ教ラビ:マナセ・ベン・イスラエルがイギリスのクロムウェル政権に対してユダヤ人のイギリス復帰の嘆願書を提出した。 此のラビはクロムウェル政権からの招待を受けて、1655年にイギリスへ渡った。 イギリスは第一次イギリス・オランダ戦争でオランダに勝ったとは言え、イギリス経済は行き詰まっていた。 クロムエル政権は行き詰まっていたイギリス経済を再建する為にはユダヤ人を再びイギリスに導入する必要があると考え、1656年、ユダヤ人をイギリスに呼び戻すことを決定した。 こうして、1656年以降、ユダヤ人がイギリスに再移住するようになった。 此のユダヤ人再移住はユダヤ人が1290年にイギリスから追放されて以来の画期的な出来事であった。

因みに、天才画家レンブラントはマナセ・ベン・イスラエルと深い交流があった。 レンブラントはアムステルダムのユダヤ人地区に何年間も住んでおり、しばしば作品に聖書の中のユダヤ人を描いた。

クロムウェル政権は重商主義政策を採り、イギリス経済は発展したが、クロムウェル政権は独裁に終始した為、国民の間に不満が高まり、1660年、王政が復活した。 そして、イギリス王(チャールズ2世、ジェームズ2世)は専制主義をとり、清教徒を抑圧した。 チャールズ2世在位中(1660年〜1685年)の1664年から1667年にかけて第二次イギリス・オランダ戦争が起き、1672年から1674年にかけて第三次イギリス・オランダ戦争が起き、此の2度の戦争でもオランダはイギリスに敗れ、オランダはイギリスの属国になった。 1688年、アムステルダムのユダヤ人金融業者たちは、イギリス王ジェームズ2世に敵対する勢力(議会派)を財政的に支援し、同年、ジェームズ2世に敵対する勢力(議会派)はオランダ総督オレンジ公ウィリアムと其の夫人メアリ(ジェームズ2世の娘)の2人にイギリスへ来るように要請した。 同年、オランダ総督オレンジ公ウィリアムと其の夫人メアリの2人がアムステルダムのユダヤ人金融業者の中心的人物ソロモン・メディナと共にイギリスへ渡った。 ジェームズ2世はもはや抵抗することが出来ないと知ってフランスに亡命し、1688年、無血革命(名誉革命)が成った。 オレンジ公ウィリアムと其の夫人メアリの2人は、議会が定めた「権利の宣言」を承認し、オレンジ公ウィリアムがウィリアム3世としてイギリス王となり、「権利の宣言」を「権利の章典」として発布し、ここにイギリスの議会制度が確立した。 また、アムステルダムのユダヤ人金融業者の中心的人物ソロモン・メディナがイギリスへ渡ったことで、此れ以降、セム系ユダヤ人共同体の中心部はオランダからイギリスのロンドンに移って行くことになる。

1698年、ウィリアム3世の治下でユダヤ教の礼拝が議会によって公認された。 しかし、ユダヤ人には不動産所有権が認められず、ユダヤ人は借地についても拘束を受け、商業上の差別待遇も受けた。 例えば、ロンドン市内における小売業は禁止された。 ただし、ロンドン市外や地方においては、営業証の取得という条件付きで零細な営業は認められた。 ユダヤ人は船の所有および共有権も認められず、航海条令によって植民地貿易からも排除されていた。 ユダヤ人が貿易商を営むことは許されたが、其の場合にも外国人税が必要で、例えば、特別な港湾手数料、物品への特別関税などの負担はイギリス商人の2倍に達したという。

18世紀に入ると、イギリスに居住するユダヤ人の数は激増した。 東欧からのハザール系ユダヤ人が加わり、其れに加えて、オランダからセム系ユダヤ人の流入もあった。 18世紀に流入したハザール系ユダヤ人は難民であり、言語・習慣・宗教儀式から食物・衣服に至るまで先住地のユダヤ教色を濃厚に携えていた。 彼らはイギリスに定住する為の見通しや準備もなく、慈善にすがっていた。 彼らの一部は保身の為にキリスト教に改宗したが、家庭では堅くユダヤ教の習慣を守り、マラノ・ユダヤ人と呼ばれた。 1753年5月、「ユダヤ人帰化法案」が思いがけないほど容易にイギリス議会を通過し、イギリス王ジョージ2世の裁可を得て正式に成立した。 此の法律は、グレート・ブリテンまたはアイルランドに3年間居住したユダヤ人は忠誠を誓うことによって、個別的に議会に帰化の請願を行なうことが出来るというものであった。 1804年、ロスチャイルド1世(メイヤー・アムシェル・ロスチャイルド、1744年〜1812年)の三男ネイサン・マイアー・ロートシルト(のちのロスチャイルド2世、1777年〜1836年)がロンドンに派遣され、そこで「ロンドン・ロスチャイルド商会」を開いた。 1833年、ユダヤ人の法廷弁護士と州長官が初めて生まれた。 1856年にはイギリスにユダヤ大学が創立され、1858年にはユダヤ人が一般のイギリス人と完全に平等扱いされるようになった。 そして、此の年、ロスチャイルド2世の長男ライオネル・ネイサン・ロスチャイルドがユダヤ人として初めて下院議員となった。 1874年、ユダヤ人べンジャミン・ディズレーリがイギリスの首相に就任した。 ディズレーリ首相はイギリスの植民地政策を確立した。 此のディズレーリ内閣の時代に、イギリス王がインド王をも兼ねることになった。 ディズレーリはユダヤ人であったが、子供の時にユダヤ教から英国教に改宗した。 ディズレーリが選挙戦に出馬した時、彼の出自は潮笑の的となった。 彼が有権者を前に演説を行なった時には、「シャイロック」「古着」といった罵声が発せられた。 議会で論戦の相手が自分に対して「ユダヤ人」と言った時、ディズレーリは「そうだ。 私はユダヤ人だ。 議員殿の先祖が名も知れぬ島の野蛮な土人だった頃、私の先祖はソロモン王の神殿の司祭だったのだ」と切り返したというエピソードが残されている。 其の当時、イギリス政府はロスチャイルド家の財力を功利的に使うことでロスチャイルド家から恩恵を受けていた。 例えば、1875年、イギリス政府はスエズ運河買収の資金をロスチャイルド家から提供してもらった。 1885年、ライオネル・ネイサン・ロスチャイルドの長男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドがイギリスの男爵に叙せられて貴族院議員となった。 そして、1917年、イギリスのバルフォア外相が「バルフォア宣言」を出した。 此のバルフォア宣言はイスラエル国の成立に大きく寄与した。 現在、イギリスのユダヤ人口は40万人であり、其の3分の2がロンドンに住んでいる。 そして、ユダヤ人はイギリスの下院で常に40名強の勢力を維持している。 以上のように、クロムエル政権がユダヤ人をイギリスに呼び戻すことを決定した1656年以降、ユダヤ人はイギリスで200年間をかけて堅実に地歩を固めてきた。 そして、イギリス政府は有能で商売上手なユダヤ人をイギリス経済発展の為に有効に使ってきた。

追加情報1: トニー・ブレア首相(在任 1997年5月〜2007年6月)
1997年のイギリス総選挙で、トニー・ブレアが「労働党」を地滑り的勝利に導き、新首相になった。 日本で幅広い読者を持つ国際政治経済情報誌『フォーサイト』(新潮社)は、このブレア勝利の背景について、興味深い記事を載せていた。 参考までに紹介しておく。
■ ブレア英新政権誕生の陰に「ユダヤ人コミュニティー」の存在
イギリスの総選挙で労働党が18年ぶりに政権を奪回したが、その背景にイギリス国内のユダヤ人コミュニティー組織が資金面などで強力にバックアップしたことが指摘されている。 アメリカのユダヤ人ロビー同様、イギリスでもユダヤ人組織が影響力を増しているものとして注目されている。 ユダヤ系イギリス人勢力は40万人規模で、マスコミのほか、科学技術、芸術界などで隠然たる影響力を誇る。 保守党政権もこうしたユダヤ人勢力に配慮して、2月にワイツマン大統領を招くなどイスラエルとは良好な関係を保っていた。 しかし、イスラエルが中東和平政策で孤立の度合を強めるにしたがって、ユダヤ人コミュニティーはこの問題で比較的中立の立場をとっているメージャー政権に対して不満を持つようになっていた。 そのため、今回の総選挙であからさまにブレア側を推したという。 労働党の資金集めをしたのがロンドンのユダヤ系企業であり、その結果、ユダヤ人勢力から多額の献金が集まった。 パレスチナ自治政府のアラファト議長はブレア新政権に対し、和平プロセスの危機を救うよう期待を表明しているが、イギリスがイスラエル寄りの政策を強める可能性もささやかれている。

追加情報2: 『ユダヤ人とイギリス帝国』 度会好一著(岩波書店)の内容について
イスラエル・パレスチナ問題は今なお世界の火種であり続けている。 本書は1917年の「バルフォア宣言」から1947年の「パレスチナ分割決議」まで、イスラエル国成立の政治的・人間的な葛藤のドラマを描き出している。 帝国主義者・シオニスト・福音主義者・原理主義者など、彼らの心のあり方は「反ユダヤ主義vsシオニズム」「植民地主義vs宗教的心情」など、背反し合う糸によって編み上げられた複雑な織物であった。 本書は政治社会思想の引き起こす摩擦を描き、イスラエル・パレスチナ問題の歴史過程を立体的に浮かび上がらせている。 そして、宗教的心情と権力政治との間で揺れるユダヤ人問題が解決に向かう為には、いま何が優先されねばならないかを語っている。
■ 目次
◎ プロローグ  ピューリタンの千年王国論とユダヤ人像の転換
◎ 第1章  ユダヤ人はパレスチナに復帰する──復帰論の系譜
◎ 第2章  19世紀パレスチナのユダヤ人とイギリス帝国
◎ 第3章  シオニストとイギリス帝国の共犯──シオニズムとイギリス帝国(1)
◎ 第4章  バルフォア宣言とその前夜──シオニズムとイギリス帝国(2)
◎ 第5章  ジャボティンスキー、ユダヤ人部隊、イギリスの友情──シオニズムとイギリス帝国(3)
◎ エピローグ  征服されたパレスチナ──ユダヤ人多数派国家の出現