ロスチャイルドの代理人ウィンストン・チャーチル

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ヒトラーが1936年に立てた計画では、1938年にオーストリア・チェコスロバキア・ポーランドを併合し、その後にソ連を占領し、作戦は1943年に終了することになっていたという。 しかも、その間、イギリスとフランスは無干渉でいるだろうと、ヒトラーは考えていたらしい。 そして、ヒトラーが考えていた「ユダヤ人問題の最終的解決」とは「ユダヤ人の絶滅」ではなく、「ユダヤ人を東方地域へ移住させること」だったという。 しかし、1940年5月にイギリスの宥和派であるチェンバレン首相が解任され、ウィンストン・チャーチルが首相として登場すると、ヒトラーの計画は大きく狂ってしまったという。 ウィンストン・チャーチル(1874年11月30日〜1965年1月24日)とロスチャイルド家の関係については、広瀬隆氏の著書『赤い楯』(集英社)に詳しく書かれている。 以下に、該当する部分を載せておく。

1938年、ウィーン・ロスチャイルド家の当主ルイス・ロスチャイルドがゲシュタポによって逮捕された。 同年、ドイツを離れてアメリカを訪れていたユダヤ系ドイツ人マックス・ヴァールブルクがとうとう帰国不能となって、ユダヤ系大手銀行ヴァールブルク銀行が閉鎖された。 1939年8月、ユダヤ系財閥メンデルスゾーン商会が消滅した。 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。 1939年9月3日、ロスチャイルド家の存続しているイギリスとフランスとがドイツに対して宣戦し、第二次世界大戦が始まった。 ドイツ軍とソ連軍によってポーランドの分割占領が行なわれた。 次いで、1939年11月30日、ソ連軍がフィンランドへ侵攻した。 1940年4月、ドイツ軍がデンマークとノルウェーへ侵攻し、この2国を占領した。 ところが、この戦争の経過はどうもおかしい。 開戦したはずのドイツとイギリス・フランスがほとんど戦争らしい戦争をしないまま8ヶ月も経った。 ドイツとフランスの国境付近では、両軍の兵士がなごやかに語り合う風景まで報告され、「開戦の初期の段階では、予期されたものと全く異なる様相を呈した」と、多くの書物に書かれている。 では、どこから両軍が激戦に転じたかと言えば、イギリスの首相がチェンバレンからチャーチルに替わった1940年5月であった。 ここからが真の第二次世界大戦になる。 “奇妙な疑似戦争” とでも言うべき状態を作り出したチェンバレン首相は、ナチスに追い詰められたユダヤ人の立場から見れば、宣戦しながら戦わない意気地なしであったという。 これが今日まで歴史書に記されている内容で、大多数の資料が一致して指摘していることである。 これは新たな光を当てるべき重大な事実である。 と言うのは、イギリスとフランスとの首脳がヒトラーを手助けしたのかも知れないからである。 チェンバレンの行動は、危地に追い詰められたユダヤ人の目から見ても、純粋に軍事的な立場から見ても、矛盾に満ちていた。 戦争を望まなかった多くの民衆の目から見ても、宣戦布告と休戦状態とが両立してよいはずはなかった。 この奇々怪々なチェンバレンの言動が「ドイツとの宥和政策」として記録されているものである。  〈中略〉  第二次世界大戦の初期の特徴は、ヒトラーが自らあれほど非難していた共産主義国ソ連と手を組んだことにあった。 “卑しいユダヤ人” と “呪うべき共産主義者” をこの世から消すはずの独裁者ヒトラーが、1939年8月23日(開戦9日前)にドイツ・ソ連不可侵条約を結び、さらに、翌年2月11日にはドイツ・ソ連通商協定によってソ連から石油・貴金属・穀物の供給を受けたのである。 ソ連はヒトラーを助けたのである。

1940年5月10日、ドイツ軍がオランダ・ベルギー・ルクセンブルクへ侵攻し、この3国を占領した。 そして、ドイツ軍は破竹の勢いでイギリス海峡に到達した。 更に、1940年6月10日、ムッソリーニ政権のイタリアがイギリス・フランスに宣戦し、フランスを挟撃する形を取ると、フランス政府要人はパリから逃げ出した。 そして、1940年6月14日、ドイツ軍がパリへ無血入城した。 そのとき、ドイツにとって屈辱的なヴェルサイユ条約を締結した場所であるヴェルサイユ宮殿にクレマンソー(パリ講和会議でフランスの全権大使として会議を主導し、ドイツに天文学的数字の賠償金を要求した)の姿はなく、ヒトラーの有頂天な姿があった。 同年6月22日、フランスはドイツに降伏した。 そして、フランスの北半分をドイツが占領し、フランスの南半分をドイツ庇護下のヴィシー政権が統治することになった。  〈中略〉  チャーチル首相(在任 1940年5月〜1945年7月)は好戦家であり、自分の周りに重厚な人材を揃えていたので、たじろぐどころか、身を乗り出してヒトラーとの対決を呼びかけた。 ヒトラーが休戦を申し入れたとき、チャーチル首相はそれを蹴った。 チャーチル首相は、イギリスの敗北を避ける為の首相ではなく、ナチス・ドイツを倒す為の首相として選ばれていたからである。 チャーチル首相に与えられた任務はイギリスを戦勝に導くことであった。

チャーチル首相は戦争が面白くてたまらなかった。 チャーチル首相は今や独裁者ヒトラーを倒して、英雄になろうと思っていた。 しかし、チャーチル首相は単純な戦争屋ではなかった。 チャーチルは1905年に植民地省の政務次官(在任 1905年12月〜1908年4月)になり、そのあと、通商大臣(在任 1908年4月〜1910年2月)になり、ロスチャイルド一族の貿易の為に走り回り、そのあと、内務大臣(在任 1910年2月〜1911年10月)になり、情報機関の長を務め、そのあと、海軍大臣(在任 1911年10月〜1915年5月)になり、石炭を使っていた軍艦が石油を使うようにイギリス海軍を大改革し、イギリスの海軍力を激増させ、そのあと、軍需大臣(在任 1917年7月〜1919年1月)になり、戦車という動く兵器を自ら考案し、戦車の生産に没頭し、この戦車機動部隊への燃料補給の為に、中東の石油会社の株をイングランド銀行の資金で買い、そのあと、戦争大臣(在任 1919年1月〜1921年2月)・航空大臣(在任 1919年1月〜1921年2月)になり、イギリス空軍を生み出し、そのあと、植民地大臣(在任 1921年2月〜1922年10月)になり、いずれの地位にあっても、比類なき軍備増強の実績を残してきた。 チャーチルは細菌爆弾の研究さえ命じたことが明らかにされている。 チャーチルは1924年11月に大蔵大臣(在任期間 1924年11月〜1929年6月)になり、その翌年に金本位制を復活した。 その結果として、ロンドン・シティーのロスチャイルドやゴールドシュミットなどの五大投資銀行がボロ儲けをした。 チャーチルは1929年6月以降10年間に渡って閣僚職に就くことが出来なかった。 チャーチルは第二次世界大戦の開始と同時に再び海軍大臣(在任 1939年9月3日〜1940年5月10日)になったが、チェンバレン首相の対ドイツ宥和政策の前になす術がなく、チェンバレン首相を痛烈に批判していた。 ところが、1940年5月10日、チャーチルは悲願であった首相の地位を手にし、その上、国防担当大臣を兼務することになったのであるから、戦争屋にはこたえられなかった。 チャーチルはイギリスの軍需産業に火を付け、ヒトラーとナチズムを生み出し、特にナチズムに対するドイツ国民の共感を誘発し、第二次世界大戦の要因を自らの手で生み出した人物であると言えよう。 そして、チャーチルは自分で蒔いた種から生えた草を自分で刈り取ることになった。

ウィンストン・チャーチルの従兄チャールズ・チャーチルが、19世紀においてアメリカ一の富豪で鉄道王であったヴァンダービルトの娘と結婚していた為、ウィンストン・チャーチルは一文無しのような顔をしながら、一族には金がうなっていた。 ウィンストン・チャーチルの従姉リリアン・チャーチルは、ロスチャイルド財閥の一員で、投資銀行「モルガン・グレンフェル」を創業したグレンフェル一族の者と結婚し、ロスチャイルド家とモルガン家という世界二大富豪を後ろ盾にしていた。 ウィンストン・チャーチルはマールバラ公爵家に属する最高位の貴族の出で、1953年にガーター勲章を授けられて、サーの称号で呼ばれるようになり、チャーチル夫人は、“レディー”と呼ばれるようになった。

ウィンストン・チャーチルは若くして、ロスチャイルド一族に惚れ込んでいた。 彼は南アフリカ戦争(1899年〜1902年)の戦闘に参加する直前、21歳のときにロスチャイルド邸のパーティーに招かれた。「ロスチャイルド卿は素晴しい感覚の持主で、まことに博識です。 このように賢い人に会って話を聞くことができるというのは実に貴重な体験です」と書いた手紙を母に出していた。 チャーチルのロスチャイルド一族への惚れ込み様は尋常ではなく、彼は終生、ロスチャイルドの代理人として働いた。 戦後、チャーチルは南アフリカの「アングロ・アメリカン」や「リオ・チント」の資金をまとめて、カナダのチャーチル河にあるチャーチル滝のダム建設という巨大発電プロジェクトを成功させ、アンソニー・グスタフ・デ・ロスチャイルドとエドモンド・ロスチャイルドを感激させた。 このプロジェクトは、ロスチャイルドが原子力帝国を築く為の出発点となった。 ロスチャイルドの誠実な代理人で好戦家、これがチャーチルの特質であった。 チャーチルがロスチャイルド財閥のメンバーとして首相の座につくと、イギリス国内の反ユダヤ勢力は一掃され、上流社会の動揺は鎮静した。 ロスチャイルド財閥は崩壊していなかったのである。

以上、広瀬隆氏の著書『赤い楯』(集英社)より