シナ東部の開封にあったユダヤ人社会

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ユダヤ商人は紀元前数百年の昔からメソポタミア・中央アジア・チベット・インドなどに多数居住しており、シナにも漢の時代に入り込んでいた。 6世紀の山西省では数ヶ所にユダヤ教会堂があった。 唐の時代にはユダヤ教は危険であるとされ、9世紀の中頃、広東省で4万人のユダヤ人が殺されたと言われている。 一方、元王朝はユダヤ人を厚遇した。 フビライの宮廷にはベネチアの商人マルコ・ポーロが長年逗留していた。 13世紀に北京にやってきたマルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で「シナ東部の開封(かいほう)には大いに栄えているユダヤ人社会が存在していると聞いた」と記している。 開封(河南省)はシナで最も歴史の古い都市の一つであり、850年前の北宋時代には首都になり、当時は人口100万人の国際都市だった。

明治学院大学法学部教授の丸山直起氏は著書『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局)の中で、この「開封のユダヤ人」について詳しく説明している。 以下、ポイントを絞って簡単に抜粋しておく。
1871年7月、ロンドンに本部を置く「イギリス・ユダヤ人協会」は、ユダヤ人の社会的・道徳的教育の促進を図ることと、各地で迫害を受けるユダヤ人を保護・救済することを目的に創設され、その支部がイギリス国内および大英帝国の海外属領に設立された。「イギリス・ユダヤ人協会・上海支部」は1898年11月に設立された。 この支部の初仕事は「開封のユダヤ人社会」を救済することであった。 開封にユダヤ人社会が存在していたことは、多くの文献によって明らかである。 ユダヤ教徒は動物を屠(はふ)る際に血抜きしやすくするために筋を切ることから、ユダヤ教は中国で「刀筋教」とも「挑筋教」とも呼ばれていた。
中国のユダヤ人社会の存在が初めて外部の世界に明らかになったのは、17世紀初め北京に滞在していたイタリア生まれのイエズス会士マテオ・リッチがローマに報告してからである。 マテオ・リッチの報告を受けた西洋のキリスト教徒もユダヤ教徒も興奮を隠さなかったが、先に行動したのはキリスト教会で、さっそく開封のユダヤ人をキリスト教に改宗させるため、開封との接触を求めて活動を開始した。 19世紀に入ると、「対ユダヤ人キリスト教普及ロンドン協会」「対中国人キリスト教知識普及協会」などのキリスト教団体が調査を行なった。「対ユダヤ人キリスト教普及ロンドン協会」から依頼された香港教区の主教ジョージ・スミスが行なった調査報告には、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)は荒れるにまかされ、ユダヤ人社会の運命は風前の灯火であることなどが記されていた。 また、その調査報告は、いったいユダヤ人たちは開封にいつ頃どのようにして渡来したのであろうか、との疑問を解くヒントをもたらした。 開封のユダヤ人の先祖はシルクロードを通って中国に渡来した可能性が高く、開封が10世紀〜12世紀に北宋の首都として栄えたことを考えると、開封ユダヤ人社会はこの時期に成立したとするのが妥当と見られている。 当時の開封ユダヤ人口は350人〜500人くらいで、18世紀に入っても1000人を超えることはなかったと推定されている。 やがて海上運搬ルートが開かれ、「陸のシルクロード」が廃れると、開封は孤立し、衰退した。
キリスト教会の迅速な行動に比べて、ユダヤ世界の対応は大幅に遅れた。 開封のユダヤ人に手を差しのべるだけの情熱もエネルギーもユダヤ世界には無かった。 キリスト教会が開封ユダヤ人の改宗を試みたのに対し、ユダヤ世界は19世紀に開封のユダヤ人との接触を何度か試みたが、そのほとんどは失敗に終わった。 たとえば、イギリスのユダヤ人は、1815年にヘブライ語の手紙を開封のユダヤ人宛てに送ったが、何の音沙汰もなかった。 キリスト教会の熱心な伝道に刺激されたイギリス・ユダヤ人社会の主任ラビ・ナタン・アドラーは1853年頃、上海の「サッスーン銀行」(ユダヤ系の銀行)に対して開封ユダヤ人社会に関する情報の入手を要請したが、彼らの反応は鈍く、アドラーは失望を味わった。
1899年1月28日、「対中国人キリスト教知識普及協会」のティモシー・リチャードは、上海のユダヤ商人に宛てた書簡のなかで、開封のイエズス会が開封ユダヤ人社会の所有していたトーラー(モーセ五書)の巻物を入手し、上海のイエズス会に送り届けたことを伝えた。 上海のユダヤ人たちは色めき立ち、直ちにイエズス会に急行し巻物を検分した。 上海ユダヤ人社会の受けた衝撃の大きさは想像に難くない。 数百年にわたって継承されてきた聖なるトーラーが、あろうことか異教徒の手に渡ったのである。
1900年5月14日、上海のユダヤ人たちは、ようやく「中国ユダヤ人救済協会」を設立し、滅亡しつつある中国ユダヤ人を救済する体制を本格的に確立した。「中国ユダヤ人救済協会」は開封からユダヤ人を連れてきてユダヤ教へ回帰させようと試みるが、そのための資金が不足し、かつ募金活動も不活発で、しだいに上海のユダヤ人の熱意は衰えていった。
第二次世界大戦戦後、開封のユダヤ人社会は、高齢者の死亡によりユダヤ世界から切り離されたうえ、黄河の洪水や貧困により存続が危うくなり、さらには周囲の儒教社会やイスラム社会へ同化し、消滅していった。

以上、丸山直起著『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局)より

1985年2月11日号の米誌『タイム』に「シナのユダヤ人にとっての新しい希望」というレポートが載った。 それは次のような内容だった。
シナの河南省・開封で『ユダヤ博物館』の建設を決心したのはチャオ氏であるが、彼は全く聖書に親しんでおらず、メノラー(ユダヤ教の七枝の燭台)も見たことがないという。 しかし、確かに彼の父や祖父たちが、ユダヤの祭りについて、あるいは塩やイーストを入れないケーキを焼くことなどについて、話し合っていたのを覚えているという。 『父や祖父は、過ぎ越しを祝いたかった。 だからシナ人が新年のお祝をする時、彼らは小羊の血を家の入口に塗りました』とチャオ氏は回想している。 シナユダヤ人共同体の歴史における重要な出来事を記念して、シナゴーグの聖なる場所に置かれていた2枚の石板は今、開封の博物館倉庫に横たわっている。 チャオ氏は、彼の建てたいと思っている博物館に、この石碑を建てるつもりであり、最終的には同じ建物の中に、新しいシナゴーグをも作りたいと願っているようだ。