シナを阿片漬けにした貿易商社

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第1章  「阿片戦争」と「サッスーン財閥」
阿片戦争(1840年〜1842年)は調べれば調べるほど、汚い戦争だったことが分かる。 1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)には次のように書かれている。「アヘン戦争は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。 この “西からの衝撃” によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである」。

阿片戦争は、イギリスの「サッスーン財閥(サッスーン家)」を抜きにして語ることはできない。「サッスーン財閥」という名を初めて聞く人は多いと思う。 以下で詳しく紹介していく。

サッスーン家は18世紀にバグダードに台頭したセム系ユダヤ人の富豪で、オスマン帝国の治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。 デビッド・サッスーン(1792年〜1864年)はサッスーン家の子としてバグダードに生まれ、そこで活動していたが、シルクロードの交易によって益々その富を蓄え、ボンベイ(現ムンバイ)へ移住した。 彼は1832年にボンベイで「サッスーン商会」を創業し、インド産の阿片を密売し始めた。 サッスーン商会はイギリスの東インド会社からインド産の阿片の専売権を取得し、阿片をシナで売り、シナの銀を運び出し、とてつもない利益を上げた。 デビッド・サッスーンは「阿片王」と呼ばれる程になった。 彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、彼の手の中で同時に動かされていた。

阿片は、ケシの実(鶏卵大〜こぶし大)に傷をつけ、その傷からにじみ出る乳液を採取して作られる麻薬である。 阿片は約10%のモルヒネを含み、精製の必要がなく、顕著な薬効がある為、昔から麻酔薬として使われてきた。 シナでは清の時代に阿片を薬としてではなく、タバコのようにキセルを使って吸うことが流行した。 阿片は、吸い続けると中毒になり、やがて廃人になってしまうという恐ろしい薬である。

阿片を大量に送り込まれた清国では、阿片が大流行して社会問題となった。 やがて、清国が阿片輸入禁止令を出したことで、清国とイギリスとの間で阿片戦争が始まった。 阿片戦争で敗れた清国は南京条約(1842年)に従って上海など5港を開港し、香港をイギリスに割譲し、さらに賠償金2億1000万両をイギリスに支払った。 阿片戦争での清国の敗北がイギリスをはじめフランス・ロシアのシナ侵略の足がかりとなった。 その意味でサッスーン商会はヨーロッパの列強にとって第一級の功績を立てた会社だと言える。

清国が阿片戦争で敗北すると、ヨーロッパの列強は競ってアジアに進出した。 清国はイギリス以外の列強とも不平等な条約を結ぶ破目になった。 肝心の阿片については条約では一切触れられることなく、依然として阿片の清国への流入は続いた。

阿片戦争(1840年〜1842年)の結果として、上海はイギリスの対シナ貿易港となり、19世紀後半には上海にユダヤ人共同体が結成された。 そして、上海は1920年代から1930年代にかけてシナ最大の都市に成長し、繁栄を極め、「魔都」とか「東洋のパリ」とか呼ばれるようになった。 この当時の上海におけるユダヤ人口は、西アジア出身のセム系ユダヤ人700人、欧米出身のハザール系ユダヤ人4000人ほどであった。 上海では阿片戦争以降、イギリス国籍・アメリカ国籍・フランス国籍を持つセム系ユダヤ人がここを本拠地として活躍し、彼らがあらゆる点で支配的権力を持っていた。「上海証券取引所」の所長と99人の会員の3分の1強がセム系ユダヤ人であった。

上海のユダヤ人富豪はサッスーンを中心として幾つかあった。
◆ サー・エレー・カドーリ(1867〜1944年)
香港と上海の土地建物、ガス、水道、電気、電車など公共事業を経営。 ローラ夫人が亡くなると、長崎出身の日本人女性(松田おけいさん)が後妻としてカドーリ家に入った(1896年)。
◆ サイラス・ハードン(1851〜1931年)
イラクのバグダッド出身のイギリス国籍ユダヤ人。 当時の上海の南京路の大通りの大部分は彼一人の所有であった。
◆ ルビー・アブラハム
ビクター・サッスーン(デビッド・サッスーンのひ孫)の伯父の長男。 イギリス国籍のスペイン系ユダヤ人。 父親は上海ユダヤ教徒の治安判事を務め、イギリス総領事館法廷でユダヤ式判決を勝ち取った人物で、「アーロン(長老)」の敬称を受け尊敬されていた。
◆ エリス・ハイム
ルビー・アブラハムの夫人の兄。 イギリス国籍のセム系ユダヤ人。「上海証券取引所」屈指の仲買人として活躍。 サッスーン財閥と深い関係を結んでいた。

第2章  上海に築かれたユダヤ人社会
阿片戦争以降、ユダヤ財閥は競ってシナへ上陸していった。 サッスーン財閥はロンドンに本部を置き、「イングランド銀行」と「香港上海銀行」とを親銀行とし、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ベルギーなどにあるユダヤ系の商事会社や銀行を仲間とし、鉄道・運輸・鉱山・牧畜・建設・土地為替売買・金融保証を主な営業科目として、上海に営業所を設け、インド・東南アジア・シナに投資を展開していった。 1930年、サッスーン財閥は上海を本拠地とし、「25億ドルの資本による50年投資計画」を開始した。 この計画は、毎年1億ドルの投資を前半の25年間に継続し、シナの経済と財政を完全に掌中に握り、後半の25年間で、投資額の4倍の利益を搾取する、というものであった。

サッスーン財閥は、デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーンが相続し、次いで、エドワード・サッスーンが相続し、三代の間に巨富を築いた。 エドワード・サッスーンの死後、ビクター・サッスーン(1881年〜1961年、デビッド・サッスーンのひ孫)がサッスーン財閥を相続した。 ビクター・サッスーンは「上海キング」と呼ばれ、極東で一、二を競うユダヤ人大富豪であり、上海のユダヤ人社会のリーダーであり、サッスーン一族の最盛期を現出した人物であった。 彼は不動産投資に精を出し、破綻した会社の不動産を買い叩き、借金の担保の不動産を差し押さえ、「グローヴナーハウス(現・錦江飯店中楼)」「メトロポールホテル(現・新城飯店)」「キャセイマンション(現・錦江飯店北楼)」などを次々と建築した。 中でも彼の自慢は「サッスーンハウス(現・和平飯店)」で、これはサッスーン家の本拠として建設したものである。 その後、彼は貿易・運輸・各種軽工業などにも事業展開していき、彼の最盛期の資産は上海全体の20分の1もあったと言われている。 彼は「東洋のモルガン」の異名を持っていた。 サッスーン家はロスチャイルド家と血縁関係を結んでいる。 三代目エドワード・サッスーンの妻はアリーン・ロスチャイルドである。 香港最大の銀行「香港上海銀行」の株の大部分を握ったアーサー・サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの孫レオポルド・ロスチャイルドである。

直木賞受賞作家の西木正明氏が書いたノンフィクション小説『ルーズベルトの刺客』(新潮社)には、上海のユダヤ人が大勢登場するが、サッスーン家について次のように紹介されている。
上海屈指の豪商サッスーン一族は18世紀初頭イラクのバグダードに出現したスペイン系ユダヤ人である。 当時の大英帝国の東方進出に協力して、まずインドのボンベイに拠点をかまえた。 やがて東インド会社が支那に阿片の密輸を開始すると、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。 19世紀半ば、阿片戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認めると、時を移さず上海に進出し、阿片を含む物資の売買を開始した。 そして、わずか1世紀足らずの間に、金融・不動産・交通・食品・重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。 その中には、金融業として『サッスーン・バンキングコーポレーション』 『ファーイースタン・インベストメント・カンパニー』 『ハミルトン・トラスト』、不動産では『上海プロパティーズ』 『イースタン・エステート・ランド』 『キャセイ・ランド』、重機械製造部門として『シャンハイ・ドックヤード』 『中国公共汽車公司』 『中国鋼車製造公司』、さらに食品関係では『上海碑酒公司』というビール会社などが含まれている。 支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどと共に『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。 1930年頃、当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はないと言ってよかった。

第3章  「ジャーディン・マセソン商会」と トーマス・グラバーの暗躍
シナにおいて「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せたのは、「ジャーディン・マセソン商会」である。 この会社は、イギリス系貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、1832年にシナの広州に設立された貿易商社である。 設立当初の主な業務は、阿片の密輸入と茶のイギリスへの輸出で、阿片戦争に深く関わっていた。 この「ジャーディン・マセソン商会」は、日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・グラバーが長崎に代理店(グラバー商会)を設立したことで知られている。 横浜にも、1859年にイギリス商人ウィリアム・ケスウィックが支店を設立し、その商館は地元民から「英一番館」と呼ばれていた。

トーマス・グラバーは1859年にイギリスから上海へ行き、ジャーディン・マセソン商会に入社し、その後、長崎に移り、2年後にジャーディン・マセソン商会の代理店として「グラバー商会」を設立した。 貿易業を営みながら、薩摩・長州・土佐の討幕派を支援し、武器や弾薬を販売した。 幕末維新期の日本では、多くの外国人貿易商が諸藩への銃売り渡しに関わっていたが、その中でもグラバー商会の販売量は突出していた。 彼はのちに「三菱財閥」(岩崎家)の後ろ盾となり、キリンビールや長崎造船所を作った。 日本初の蒸気機関車の試走、高島炭鉱の開発など、彼が日本の近代化に果たした役割は大きかった。 1908年、グラバーは勲二等旭日重光章を明治天皇から授けられ、この3年後(1911年)に亡くなった。 墓は長崎市内にあり、邸宅跡が「グラバー園」として公開され、長崎の観光名所になっている。

ジャーディン・マセソン・グループは今でも「マンダリン・オリエンタルホテル」を経営し、14ヶ国に26の高級ホテルを展開するなど、現在でも世界最大級の貿易商社である。

追加情報1: 『阿片の中国史』(新潮社)
中国人の父と日本人の母を持つ譚ろ美さん(ノンフィクション作家)が 『阿片の中国史』(新潮社)という本を出した。 彼女は阿片戦争について、この本の序章で次のように書いている。
中国の近代は阿片戦争という理不尽な外圧で幕を開けた。 4隻の黒船が近代を告げた日本とは大きな違いだ。 この欧米列強との出会いの差が、その後の両国がたどった道の隔たりであり、消すことのできない大きなしこりを残した原因にもなっているにちがいない。 阿片という『麻薬』によって、めちゃくちゃに引っかき回された国が中国以外にあっただろうか。 一国まるごと “阿片漬け” にされた国は中国だけなのだ。

この本は阿片戦争の実態だけでなく、20世紀後半の中国共産党と阿片の知られざる関係や、阿片とサッスーン家の関係についても詳しく言及しており、なかなか面白い本である。 参考までに、この本の中から、興味深い部分をピックアップしておく。 以下、抜粋。
上海では欧米の阿片商人たちを中心に外国人定住者が増え、上海の外国租界は異国情緒にあふれた町になったのだ。  〈中略〉  上海が開港したばかりの1842年の人口は20万人だったが、1900年前後には100万人になり、1930年までに300万人に膨れ上がった。 イギリスその他の国からなる共同租界では、90%が中国国内からの移住者で占められ、フランス租界の人口も5万人から45万人へと爆発的に増えた。 1837年、中国には外国の商社が39社あり、その中で「ジャーディン・マセソン商会」は最大の規模を誇ったが、これと並んで二大商社の名を馳せたのは「サッスーン商会」である。 21世紀を生きる女性たちにとって、サッスーンと聞いてすぐに思い浮かぶのは、ヘアースタイルの「サッスーン・カット」ではないだろうか。 サッスーン社の社長はビダル・サッスーンといい、美容院で販売されている高級シャンプーなどの商品も幅広く生産している。 このサッスーン氏と同じ一族かどうかわからないが、「サッスーン商会」を創業したデビッド・サッスーンは、イギリスのユダヤ系名門の出身で、もとはバグダードの豪商だったが、1830年にバグダードの総督がユダヤ人を追放したため、ペルシアへ逃れた。 折から戦争状態にあったペルシアでは、特産品の阿片の取引が止まり、値がつかない状態になっていたので、サッスーンは底値で買い入れ、生産中の阿片も予約購入した。 阿片が収穫される頃、戦争が終わり、阿片の値段は再び高騰して、サッスーンは巨額の利益を手にした。 その利益を元手にサッスーン商会を創業したという。 勿論、取引商品は主として阿片であった。 やがて、イギリスがインドに設立した「東インド会社」で営業許可を得たサッスーン商会はボンベイに拠点を置いて阿片貿易に乗り出し、香港にも開店して「沙遜洋行(サッスーン商会)」と名乗った。

サッスーン家の優れた部分もご紹介しておこう。 イギリスのサッスーン家は慈善事業でよく知られ、ユダヤ人救済運動にも貢献している。 3人の息子たちはイギリス社交界の名士になり、デビッド・サッスーンの孫エドワード・サッスーンは政治家である。 その息子のフィリップ・サッスーンは空軍次官だったが、美術品の収集家として名が通っている。 サッスーン家の傍系にはヘブライ語文書の収集家のフローラ、詩人で小説家のジークフリード、実業家のビクターなどもいて、多士済々で華麗な一族である。

阿片売買のために、上海へ先陣を切って乗り込んだのは沙遜洋行(サッスーン商会)だった。 この商社は1845年に上海の目抜き通り(現在の江西路と九江路の交差点)に支店を開き、上海の阿片貿易の20%を占めるほどの大取引に携わり、人手が足りずに14人もの親族を呼び寄せ、業務を拡大した。 1864年、創業者のデビッド・サッスーンが亡くなると、長男が沙遜洋行(サッスーン商会)を引き継ぎ、次いで次男が独立して「新沙遜洋行(新サッスーン商会)」を開業した。 新旧の沙遜洋行は、互いに協力しながら、インドのケシ畑の “青田買い” をしたり、独占買い付けをしたりしながら、アジア全域に幅広いネットワークを築いた。  〈中略〉  1870年代には、新旧の沙遜洋行はインドの阿片貿易の70%をコントロールするまでに成長した。

「ジャーディン・マセソン商会」と「サッスーン商会」。 この2つの巨大商社を筆頭にして、その後も続々と貿易商社が進出してきた。「宝順洋行(デント商会)」「仁記洋行(ギブ・リビングストン商会)」「旗昌洋行(ラッセル商会)」などのイギリスとアメリカの商社がいる一方で、中小の地元商社やアジアからの商社などが雨後の竹の子のように増え続けた。 不確実な数字だが、外国の商社は1837年に39社だったものが、20年後には約300社に増え、1903年には、なんと600社強にものぼったという。

欧米の商社が業務を拡大し、取引金額が増えるに従い、儲けたお金を安全にイギリス本国へ送るにはどうしたら良いかが問題となった。 よいアイデアがすぐに浮かんだ。 銀行の設立である。 1865年3月、「サッスーン商会」「ジャーディン・マセソン商会」「デント商会」らは15人の代表発起人を決め、資本金500万ドルを投じて香港に「香港上海銀行」を設立した。 サッスーン・グループのアーサー・サッスーンら8人が理事会役員に就任し、1ヶ月後には上海で営業を開始した。「香港上海銀行」の最大の業務は、阿片貿易で儲けたお金を安全に且つ迅速にイギリス本国へ送ることであった。 この銀行は、第二次世界大戦前、上海のバンド地区を中国大陸の本拠としていたが、1949年の中国共産党政権成立後の1955年に、本社ビルを共産党政権に引き渡した。 その後、中国各地の支店は次々に閉鎖された。 しかし現在、この「香港上海銀行」は、英国ロンドンに本拠を置く世界最大級の銀行金融グループに成長している。 ヨーロッパとアジア太平洋地域とアメリカを中心に世界76ヶ国に9500を超える支店網をもち、28万人の従業員が働き、ロンドン、香港、ニューヨーク、パリ、バミューダの証券取引所に上場している。 時価総額規模では、アメリカの「シティグループ」「バンク・オブ・アメリカ」に次ぎ世界第3位(ヨーロッパでは第1位)である。 現在、香港の「中国銀行」及び「スタンダード・チャータード銀行」と共に香港ドルを発券している。

1860年代から70年代にかけて、新旧のサッスーン商会などを通して中国へ輸出されたインド産阿片は、毎年平均で8万3000箱にのぼった。 一箱は約60kg。 中国産の阿片が増加するにつれて、インド産阿片は少しずつ減少していくが、ピークの1880年代には10万5507箱が輸出され、上海には年2万2000箱が送り込まれた。 上海の町には、阿片の濃い煙が充満した。 阿片は街のいたるところで合法的に売られ、客はいつでも手軽に買うことができた。

時代の流れが変わったのは、1906年のことだった。 アメリカの宣教師たちが阿片生産の禁止を国際世論に広く呼びかけると、国際的に阿片貿易への非難の声が高まった。 清朝政府は「イギリスがもし輸出を削減するなら、中国も阿片の生産と喫煙を禁止する」と発表した。 イギリスも「10年禁絶を目標に毎年段階的に削減していく意向がある」と応じ、翌年には「中英禁煙協約」が交わされた。 1911年、ハーグで「国際阿片会議」が開かれ、世界の潮流は阿片の輸出禁止と生産禁止という明るい未来へ向かって、栄えある第一歩を踏み出した。 いや、踏み出そうとした。 ところが、そうなっては都合の悪い人たちがいたのである。 外国商社は色めきたった。 10年という期間を限定されたことで、今のうちに儲けるだけ儲けておこうと考えた。 新サッスーン商会などの上海の阿片商社は即座に「洋薬公所」を結成すると、上海の輸入阿片の総量をコントロールする一方、潮州商人と協定を結んだ。「洋薬公所」といえば聞こえはよいが、つまり「阿片商人の大連合会」である。 外国人貿易商たちはペルシア産阿片とインド産阿片の独占輸出体制を築き、流通ルートは潮州商人一本に絞られた。 無論、阿片の価格は急騰した。 最高値のときには、なんと銀の7倍まで跳ね上がったというから、驚くほかはない。

阿片商人の悪辣さはこれに止まらない。 10年の期限が近づくと、「洋薬公所」は関係ルートを使って、北京政府と交渉し、残りの阿片を全部買い取らせることに成功した。 1919年、北京政府は阿片を購入後、公開処分した。 こうして世界が監視する中で、中国の「阿片禁止令」は着々と執行されることになった。 このまま順調にいけば、もしかしたら中国からも地球上からも阿片は一掃され、クリーンで美しい世界が訪れたかもしれない。 だが、事態はそうはならなかった。   〈中略〉  アメリカでは1920年から1933年まで「禁酒法」が施行された。 アメリカ政府が酒類の醸造と販売を禁止したことで、シカゴを縄張りにしたアル・カポネのギャング団が密造酒を裏取引し、暗黒街の犯罪が急上昇してしまった。 時期も同じ1920年、中国では阿片が禁止され、同じような事態が生じていた。 阿片の密輸に火がつき、以前よりもかえって大量の阿片が出回る事態になったのだ。 当時、上海に滞在していたフランス人弁護士リュッフェの試算によると、1920年代後半の全中国の阿片消費量は毎年7億元にのぼったという。「中華国民禁毒会」の集計ではさらに多く、毎年10億元を消費し、そのうち中国産阿片は8億元、外国産阿片は2億元であったという。 また、上海の阿片貿易による収益は毎年4000万元強、あるいは8000万元から1億元にものぼると推測される。 なにしろ密輸だから正確な統計はないが、阿片の消費量が、膨大なものであったことは間違いないだろう。

以上、譚ろ美著『阿片の中国史』(新潮社)より

追加情報2: サッスーン財閥の歴史
「日本上海史研究会」が1997年に出した『上海人物誌』(東方書店)には、サッスーン財閥の歴史について詳しい説明が載っている。 少し長くなるが、参考までに抜粋しておく。 以下、抜粋。
清国はイギリスとのアヘン戦争に敗れて締結した「南京条約」に従って、1843年11月に上海を開港した。 上海はイギリスによって、イギリスの利益の為に開港され、イギリスの中国市場支配の拠点となった。 これは動かしがたい事実である。 自由貿易で世界市場に進出するに当って、19世紀半ばのイギリスは、シンガポール以東の西太平洋地域においては、各地域の政治経済の中心地に近く、かつ、ほとんど無人の地に良港を獲得し貿易拠点とする戦略を取っていた。 シンガポールに加え、香港・上海・横浜などは皆この戦略に基づいた港である。 旧イギリス租界の正面に位置する外灘(上海市黄浦区の地名)の建築物の正面には、上海がイギリスを初めとする列強の中国市場支配の拠点となってきた歴史が現在でも色濃く刻み付けられている。 しかし、上海の人々が外灘の建築物の正面を「偽りの正面」と呼ぶように、上海を単に国際貿易の要という意味で捉える場合でさえも、その奥で蠢くものに気付かされる。

イギリス勢力が東アジア海域に進出した18世紀末に、その貿易の中心となっていたのは、「イギリス東インド会社」からライセンスを付与された地方貿易商人であり、彼らが従事したのは、イギリスとアジアとの貿易というより「アジア間貿易」であった。 さらに、この時期にはイギリスによる三角貿易によって「アジア間貿易」が拡大されていた。 この「アジア間貿易」は「海のシルクロード」または「中国を中心とする朝貢貿易のネットワーク」を使った貿易であり、大航海時代が始まる前からあったものである。 そして、東アジア海域は日本・琉球・中国・東南アジア・インド・イスラム圏の商人たちが活躍する舞台であった。

「陸のシルクロード」も「海のシルクロード」も古くからユダヤ人の生活舞台であり、8世紀から12世紀にかけてこれらの地域がイスラム世界に包摂されるようになっても、ユダヤ人は引き続き活動の場を広げていった。 もともとイスラム世界に「ユダヤ人」という概念はなく、ユダヤ人は「啓典の民」として、自治が認められ、各都市で一定の役割を与えられてきた。 最近、「海のシルクロード」と呼ばれるようになったインド洋・南海交易圏では、航海技術・造船技術の点で中国より先進的な海洋民が活躍しており、8世紀以降はイスラム化され、ダウ船と呼ばれる三角帆の船が航海の主役となっていた。 そして、8世紀以降のインド洋・南海交易圏ではイスラム教徒だけでなく、アラブ圏のユダヤ人やアルメニア人も活躍していた。 例えば、インド洋・南海交易圏において最大の商品であった胡椒(こしょう)の産地に隣接する積出港であるインドのコーチンには、紀元1世紀以来、ユダヤ人貿易商人が住み着き、今世紀半ばに至るまでコーチンの胡椒貿易を独占してきた。 現在もコーチンで胡椒の取引を行なう市場は「ジュー・タウン」(ジューはユダヤ人の意)と呼ばれている。

サッスーン財閥は、上海開港後に二番手として登場したイギリス商社で、上海のイギリス代表と目されるが、その実、サッスーン家は二代のうちにアラブ圏のユダヤ人からイギリス紳士へ変身を遂げたユダヤ商人であり、三角貿易の申し子とでも言うべき一族である。 彼らはイギリス紳士であると言われるが、彼らの存立の基盤はユダヤ人のネットワークであり、言わば、「海のシルクロード」を活躍の舞台とするアジア商人という性格を持ち続けてきた。 イギリスのアジア市場進出はサッスーン家の活動を調査・研究することで更に明らかとなろう。

上海外灘の海岸通りで最も目立つ建物といえば、旧「香港上海銀行」(上海本店)と並んで、現在、「和平飯店北楼」として使われている旧「サッスーンハウス」であろう。 私は1970年代末の最初の訪中で「和平飯店」に滞在したとき、和平飯店の旧名が「キャセイホテル」だということを聞き、このホテルがイギリスのユダヤ人財閥「サッスーン財閥」によって建てられたことを知った。 サッスーン財閥はジャーディン・マセソン財閥、バターフィールド&スワイヤー財閥、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ財閥と並ぶ上海のイギリス系四大財閥の一つであった。 サッスーン財閥はイギリスでもロスチャイルド財閥と並び称されるユダヤ人大財閥であったが、いろいろな点でロスチャイルド財閥とは対照的であった。 最大の違いは、ロスチャイルド家がドイツのフランクフルト出身のヨーロッパ・ユダヤ人であったのに対し、サッスーン家はアジア系ユダヤ人で、「海のシルクロード」で活躍するユダヤ人であったことである。

「陸のシルクロード」も「海のシルクロード」も古くからユダヤ人の生活舞台であり、8世紀から12世紀にかけてこれらの地域がイスラム世界に包摂されるようになっても、ユダヤ人は引き続き活動の場を広げていった。 もともとイスラム世界に「ユダヤ人」という概念はなく、ユダヤ人は「啓典の民」として、自治が認められ、各都市で一定の役割を与えられてきた。 サッスーン家の祖先は代々、イスラム帝国の都であったバグダードの名門で、オスマン帝国の支配下では、オスマン帝国によって任じられたバグダードの「ヴァリ」と呼ばれる地方長官のもとで、主席財政官の地位を与えられ、ユダヤ教徒の族長と見なされていた。 ところが、18世紀後半になると、バグダードでユダヤ教徒に対する圧迫が強まり、19世紀前半には当主のサッスーン・ベン・サリは族長の地位を追われた。 1826年、サッスーン・ベン・サリの息子デビッド・サッスーン(1792年〜1864年)が族長の地位を引き継いだが、彼は「ヴァリ」の迫害に抗議した為、身に危険が迫ってきた。 1829年、デビッド・サッスーンは老父を伴い、夜陰に乗じてバグダードを脱出し、バスラに移住した。 バスラは別の「ヴァリ」が統治していたが、ここもサッスーン家にとって安住の地ではなく、サッスーン家は間もなくシャトルアラブ川(チグリス川とユーフラテス川が合流した川)沿いのブシェル(ペルシア領)ヘ移住した。 ブシェルは当時ペルシアにおける「イギリス東インド会社」の拠点となっており、インドヘの道が開かれていた。 1832年、デビッド・サッスーンは商用でインドのボンベイ(現在のムンバイ)を訪れ、イギリスの勢力を直に見た。 熟慮の末、同年、デビッド・サッスーンは一家を挙げてボンベイに移住した。 当時のボンベイは人口20万、ユダヤ人も2200人を数え、発展の時期を迎えていた。 産業革命後、イギリス・ランカシャ産の綿製品がインドに流入し、「東インド会社」の貿易独占も廃止され、ビジネスチャンスが広がっていた。 デビッド・サッスーンは1832年にボンベイに「サッスーン商会」を設立し、ボンベイで本格的に活動を開始した。 これが「サッスーン財閥」の始まりである。 この頃、イギリスの綿製品がインドヘ、インドのアヘンが清国へ、清国の茶・絹・陶磁器がイギリスへ流入するという「三角貿易」が形成されていた。 サッスーン商会はイギリスにも支店を開設し、三角貿易のルートに乗ってランカシャ産の綿製品の輸入などに当り、アヘン貿易にも従事した。 また、1861年、アメリカで南北戦争が起こってアメリカ綿花の取引が途絶えると、インド綿花を輸出して巨利を得た。 デビッド・サッスーンは1864年に死去したが、サッスーン商会は綿花ブーム後の不況をも乗りきり、2代目アルバート・サッスーンのもとで発展を続けた。

デビッド・サッスーンは1854年にイギリス国籍を取得したが、アラブ化したユダヤ人として終生アラブ風の習慣を改めることはなかった。 彼はアラビア語・ヘブライ語・ペルシア語・トルコ語、後にはヒンドスタン語をも解したが、英語を習得することはなかった。 デビッド・サッスーン(サッスーン財閥)はイギリスの世界市場進出に伴ってアジア市場に参入したが、デビッド・サッスーン(サッスーン財閥)のアジア市場での成功はインド洋交易圏に広がるユダヤ人のネットワークに負うところが大きい。 ヴァスコ・ダ・ガマが1498年にインド航路を発見したとき、インドでヴァスコ・ダ・ガマを迎えたのはハンガリーから来たユダヤ人であった。 デビッド・サッスーンがバグダードを脱出してボンベイで成功を収めることができたのも、インド洋交易圏に広がるユダヤ人のネットワークを使ったからであった。 イギリスのアジア市場進出も、中国からインドを経てアラビア世界に至る交易圏が大航海時代の始まる前からあったお陰で出来たことである。

デビッド・サッスーンはビジネスで成功すると、同胞のユダヤ人への恩を忘れなかった。 彼は私財を惜しげもなく慈善事業に投じた。 特に、1861年、彼がバグダードにユダヤ教に基づく学校「タルムード・トラー」を設立し、後継の養成に資したことの意義は大きい。 サッスーン商会の幹部職員はこのユダヤ学校で募集されたのであり、サッスーン財閥が「イギリス帝国主義の先兵」という姿の奥に「海のシルクロードのユダヤ商人」という原籍を持っていたことは、その活動の最後に至るまで見出すことができる。

ボンベイのサッスーン商会は2代目アルバート・サッスーンのもとで工業投資に力を入れるようになった。 1885年以後、サッスーン商会は7つの紡績工場、1つの毛織物工場を持ち、インド工業化に大きな役割を果たした企業であると評価されるようになった。 ボンベイのサッスーン財閥が産業資本家の性格を持つということは、上海のサッスーン財閥と好対照をなすと言えよう。 また、アルバート・サッスーンは親子二代にわたる多大な慈善事業が評価されて、1872年、ナイト(Knight)に叙せられた。 この地位は上海のサッスーン家にも引き継がれていくことになる。

デビッド・サッスーンが三角貿易展開のため東アジアを重視したのは当然である。 彼が華南の商業圏に参入したことは、サッスーン商会のターニング・ポイントとなった。「南京条約」締結後の1844年、デビッド・サッスーンは次男のイリアス・サッスーンを広東に派遣した。 次いで、イリアス・サッスーンは香港に移動し、1845年には上海に支店を開き、更に、日本の横浜・長崎そのほかの都市にも支店網を広げた。 そして、上海がサッスーン商会の第2拠点となった。

中国におけるユダヤ人の足跡はイギリスの世界市場進出を遥かにさかのぼる。 イリアス・サッスーンは1844年に広東に派遣されたとき、10世紀から存在した開封(かいほう)のユダヤ人について聞いたはずである。 彼らは完全に中国人に同化しながら清代まで生き延び、1652年にはシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を再建していた。

イリアス・サッスーンの弟アーサー・サッスーンは「香港上海銀行」の設立(1865年)にも参加し、中国での活動の地歩を固めた。 デビッド・サッスーンの死後、ユダヤの慣習に従って長男アルバート・サッスーンがボンベイのサッスーン商会の管理権を継承したので、次男イリアス・サッスーンは1872年、上海支店を改組して「新サッスーン商会」を設立した。 上海におけるサッスーン財閥の活動は、この「新サッスーン商会」によって行なわれるようになった。 新サッスーン商会の活動は次の三期に分けられるとされる。 第一期は1872年〜1880年のアヘン貿易を中心とする時期。 第二期は1880年〜1920年、イリアス・サッスーンの二人の息子ヤコブ・サッスーンとエドワード・サッスーンの時代で、不動産投資に力が注がれた。 第三期は1920年以後、エドワード・サッスーンの息子ビクター・サッスーンが不動産投資だけでなく、各種の企業にも盛んに投資し、上海の産業を独占していった時期である。 19世紀の新旧サッスーン商会の営業は、何といってもアヘン輸入が中心となっていた。 この点は、ほかの外国商社と比較しても際立っている。 1870年〜1880年代にはインド産アヘンの輸入の70%は新旧サッスーン商会が独占した。 新旧サッスーン商会の強さはアヘンをインドの産地で直接買い付けたことにあった。 デビッド・サッスーンの孫(ヤコブ、エドワード)の代になると、アヘンは輸入品目首位の座を綿製品に譲り、国際的にもイギリス国内でもアヘン禁止の声が高まり、1908年には「中英禁煙協約」が締結された。 それでも新旧サッスーン商会がアヘン取引にこだわったことは、1920年代の新サッスーン商会の文書からも明らかである。 アヘン禁止による価格の上昇が巨利をもたらしたのである。

サッスーン財閥はアヘンで儲けた金を土地の買い占めに回したと非難される。 20世紀にはアヘン取引に加えて不動産投資もサッスーン財閥の主要業務となった。 サッスーン財閥が最初に手に入れた土地は新サッスーン商会の拠点となる「サッスーンハウス」の土地(1877年に取得)であった。 新サッスーン商会が不動産事業に乗りだしたのは、上海共同租界当局の工部局が財政需要の増大から土地税をしばしば引き上げた為、地価が不断に上昇し、土地投資が有利となったからである。 サッスーン財閥はユダヤ人の不動産王サイラス・ハードンから上海の繁華街・南京路の不動産を入手したのを初めとして、さまざまな手段を用いて不動産を取得し、また、建物の賃貸業務などで利潤を上げた。 1941年までに上海に建てられた26棟の10階建て以上の高層建築のうち、6棟がサッスーン財閥の所有であった。 サッスーン財閥は1926年に「キャセイ不動産」を設立したのを始め、たくさんの子会社や関連企業を設立して業務を拡大し、上海の不動産王となった。

サイラス・ハードンとサッスーン家とは共に上海のユダヤ人不動産王であるが、対照的である。 サイラス・ハードンはサッスーン家と同じくバグダードに生まれたユダヤ人だが、サッスーン家のようなユダヤの名門ではなかった。 サイラス・ハードンは5歳でボンベイに移住し、父の友人でサッスーン商会で働いていた人物を頼って1873年に上海に来たときは無一物であった。 彼は上海のサッスーン商会に雇われ、1886年には新サッスーン商会に移った。 そして1901年に独立し、不動産業に乗りだした。 サッスーン家がイギリスの爵位を得てイギリス上流階級入りを果たし、ロスチャイルド家とも姻戚関係を結んだのに対し、サイラス・ハードンは租界の範囲において1887年にフランス租界公董局董事となり、1898年には共同租界工部局董事になり、中国社会に同化していった。 この点では、彼の中国人の妻・羅迦陵(らかりょう)の影響が大きい。 彼女の影響で彼は篤く仏教に帰依し、1904年には「ハードン花園」を建造して、これを中国人士と交際するサロンとした。 その中国人士の中には清朝の皇族から革命派の人物までが含まれていた。 一方、サッスーン家は武器売却先の軍閥などの取引相手を除いて、租界の外の中国人とは交わらず、盛んに行なった慈善事業の対象は中国人ではなく、世界中のユダヤ同胞であった。

ビクター・サッスーンは1924年、父エドワード・サッスーンの死により爵位と「新サッスーン商会」の経営を引き継いだ。 彼はケンブリッジのトリニティ・カレッジ出身の完全なイギリス紳士であり、若い頃から航空マニアで、第一次世界大戦中にはイギリスの航空隊に加わって負傷した。 彼が上海に君臨したことを象徴する建物が「サッスーンハウス」である。 このビルはパーマー&ターナーの設計で、1929年に完成した。 ヨーロッパ式に数えて10階建て(日米式では中2階を含めて12階)で、4階から上はホテルで、10階は彼自身の住居にあてられた。 彼はまた上海西郊の虹橋路に買弁の名義で別荘を営んだ(現在の龍柏賓館)。 さらに、租界の治外法権を利用して中国側の建築計画にも干渉した。 1934年、サッスーンハウスの並びに中国銀行のビルが建ったが、このビルは当初の計画ではマンハッタン風の34階建の摩天楼になるはずであった。 ところが、ビクター・サッスーンはロンドンで訴訟を起こし、自己のビルより30cm低い中国風の屋根を持つ現在の建物に変更させた。

サッスーン財閥は産業資本家・金融資本家としての地歩をも固めた。 ボンベイのサッスーン商会と比べると、上海の新サッスーン商会はのちのちまでアヘン貿易にこだわり、産業投資はあまり活発ではなかったが、この状態を変えたのが、1923年の「安利洋行」買収であった。「安利洋行」の前身はドイツ系の「瑞記洋行」で、第一次世界大戦後、「瑞記洋行」は潰れたが、「瑞記洋行」の共同経営者であったイギリス籍ユダヤ人アーノルド兄弟が「安利洋行」を興した。 アーノルド兄弟は上海共同租界の工部局董事や総董を歴任する一方、紡績・造船などさまざまな企業を興した。 ところが、「安利洋行」は1923年の不況時に経営不振に陥り、新サッスーン商会によって買収された。 業績不振の企業やその不動産を乗っ取るのはサッスーン財閥の常套手段であった。 間もなく新サッスーン商会は経営陣からアーノルド兄弟を駆逐し、すべてを自己の支配下に置いた。 この結果、新サッスーン商会は、紡績・機械・造船・木材のほかバス会社(中国公共汽車公司)をも傘下に置いた。 新サッスーン商会はまた1930年、香港に「新サッスーン銀行」を設立し、上海・ロンドンなどに支店を開設し、多くの投資会社を設立して金融力により上海の産業を支配した。  〈中略〉  第二次世界大戦後、租界が回収され、中国人の民族意識が高まると、上海はもはや冒険家の楽園ではなくなった。 上海のサッスーン財閥直属企業はすべて香港に移り、上海には支社のみを残して業務を大幅に縮小し、1948年には第二次撤退を断行し、不動産を一斉に投げ売りし、バハマに移転した。 上海に残っていた不動産も1958年に中国政府に接収され、サッスーン財閥は中国から姿を消した。

時は移って現在、かつて上海最大のイギリス系財閥であった「ジャーディン・マセソン商会」は香港からバミューダに本社を移す一方で、再び中国との関係を深めている。 ジャーディン・マセソン商会の設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出であり、この商社は阿片戦争に深く関わっていた。 イギリス資本の世界市場進出、イギリス帝国主義のアジア支配と呼ばれている事柄の先駆者は、このアジア海域でアヘンの密売をしていたイギリス系貿易商人のウィリアム・ジャーディンやジェームス・マセソンであった。 更にさかのぼると、イスラム圏からインド圏を経て東アジアに至る海域にはイスラム商人やユダヤ人やアルメニア人などが活躍していた。 サッスーン家もこのルートに乗って中国に至ったのである。 更に、開封のユダヤ人やサイラス・ハードンのように中国に安住の地を見出すユダヤ人もいた。 これからの世界に占めるアジアの力量を考える上で、アジアの海から世界を見ることも必要になってくると言えよう。

以上、日本上海史研究会[編] 『上海人物誌』(東方書店)より

追加情報3: 台湾における日本の阿片政策
19世紀末、日清戦争で負けた清国は下関条約に従って台湾及び澎湖諸島を日本に割譲した。 台湾における日本の阿片政策については、次のような情報がある。 参考までに紹介しておく。

日清戦争後の下関講和会議において、清国の全権:李鴻章は、「阿片には貴国もきっと手を焼きますぞ」と捨てぜりふを残していったそうな。 当時16万9千人もいた阿片中毒患者の問題を日本がどう処理するか、世界各国も注目していた。「わが国に伝播したらなんとする。 吸引するものは厳罰に処すべし。 輸入や販売を行なう者についても同様だ。 従わないものは台湾から追い出せ。 中国大陸に強制送還せよ」という「厳禁説」が盛んに唱えられた。 これに対し、後藤新平は「これでは各地に反乱が起き、何千人の兵士や警官が犠牲になるかわからない。 まず中毒にかかっている者だけに吸引免許を与え、特定店舗でのみ吸引を認める。 新たな吸引者は絶対に認めない。 阿片は政府の専売とし、その収入を台湾における各種衛生事業施設の資金に充当する」という「漸禁説」を唱えた。 この「漸禁説」は阿片を政府の専売とするという破天荒なアイデアであったが、後藤新平の読み通り、大きな混乱も無しに、阿片中毒患者は次第に減って、日本敗戦時には皆無となった。

後藤新平:  明治・大正時代の政治家。 台湾総督府民政長官。 初代満鉄総裁。 彼は阿片の性急な禁止には賛成せず、阿片に高率の税をかけて購入しづらくすると同時に、吸引を免許制として、次第に吸引者を減らしていく方法を採用した。 この方法は成功して、阿片患者は次第に減少した。