ユダヤ人のアメリカ移住史
第1章 イベリア半島から追放されたセム系ユダヤ教徒の新天地
西暦66年〜73年と西暦132年〜135年にローマ帝国のユダヤ属州でユダヤ独立戦争があり、この戦いで大敗を喫したユダヤ教徒はローマ帝国によって徹底的に弾圧された。 この弾圧により離散したユダヤ教徒は地中海沿岸・西アジア・インドに移住した。 その中でもイベリア半島南部(コルドバ、グラナダ、セビリア)に移住した者が多かった。 イベリア半島に移住したユダヤ教徒およびその子孫は強固な共同体を組織し、商業活動を営み、8世紀以降イベリア半島を支配したイスラム文化の中でも、強固な共同体を維持し、商業活動に励み、繁栄し裕福となり、独自性と高い文化を維持した。 これはなぜかと言うと、イスラム教徒はユダヤ教徒に人頭税を課す代わりに自治権と信教の自由を与えたからである。 コルドバは1492年までセム系ユダヤ教徒が世界で一番多くいた都市だった。
12世紀、イベリア半島のキリスト教徒が十字軍遠征に触発されて、イベリア半島をイスラム教徒から奪回しようとする運動を開始した。 所謂「レコンキスタ」(再征服)の開始である。 そして、キリスト教徒の勢力が増大するに連れて、イスラム教徒への圧迫が強まっただけでなく、ユダヤ教徒への圧迫も強まった。 13世紀には多くのイスラム教徒や多くのユダヤ教徒がキリスト教への改宗を迫られ、その結果として、キリスト教に改宗したユダヤ教徒「コンベルソ」が大勢現れた。 特に、カスティラ王国やアラゴン王国の支配階級に入り込んでいた有力ユダヤ教徒たちは次々にキリスト教に改宗してコンベルソとなった。 コンベルソの多くはキリスト教徒を装い、秘密裏にユダヤ教の規範と習慣を守る「隠れユダヤ教徒」であった。 しかし、中には、本当にキリスト教に改宗し政権中枢に入り込み、ユダヤ教徒ではないという自らの立場を明らかにする為に、ユダヤ教徒迫害に積極的に参加した者もいた。 この為、コンベルソは同胞から「マラノ(豚)」と呼ばれ、蔑視された。 14世紀半ばになると、ペスト(黒死病)の大流行が切っ掛けとなり、キリスト教徒の不満が裕福なユダヤ教徒に集中し、14世紀後半にはイベリア半島の各地でキリスト教徒によるユダヤ教徒殺戮が起きた。 西暦1480年にはアラゴン王国でこの国独自の異端審問が始められた。 “隠れユダヤ教徒”だと告発されたコンベルソは異端審問所に連行され、拷問にかけられ、自白を強要され、有罪とされ、その内の多くの者(実数は不明)が火刑に処せられたと言われる。 西暦1483年にトマス・デ・トルケマーダが大審問官(宗教裁判長)になってからの12年間でコンベルソ1万3000人が処刑されたと言われる。
こうした狂気が渦巻く中、イベリア半島にクリストファー・コロンブスが現れた。 定説ではコロンブスはイタリアのジェノヴァ出身とされる。 コロンブスはユダヤ系の家系に生まれたとの根強い説があるが、真偽のほどは定かでない。 コロンブスはポルトガル王室・カスティラ王室・イギリス王室・フランス王室に西回り航海計画を売り込んでいたが、この売り込みはうまく行かなかった。 コロンブスが諦めかけていたところ、3人の有力コンベルソ(アラゴン王国の財務長官で豪商でもあるルイス・デ・サンタンヘル、その親戚でアラゴン王国の有力者であるガブリエル・サンチェス、この2人の友人で侍従職を勤めるジュアン・カプレロ)がカスティラ女王イサベル1世に対し、コロンブスと契約を結ぶよう進言したとされる。 この3人が「もし、コロンブスが黄金の国を首尾よく発見したら、巨万の富が転がり込んでくるだろう」と、言葉巧みに女王イサベル1世に進言したと言われる。 そして、1492年4月17日、コロンブスとスペイン王室とは西回り航海計画に関して「サンタフェ契約」を結んだ。 航海に必要な費用はルイス・デ・サンタンヘルから提供された。 コロンブスの航海には少なくとも5人のユダヤ人が同行していたと指摘されている。 そのユダヤ人とは、通訳のルイス・デ・トレース、外科医のマルコ、内科医のベルナル、アロンゾ・デ・ラカーリエ、ガブリエル・サンチェスといった面々で、このうちトレースはキューバに定住し、その後のユダヤ人によるタバコ産業の利権支配の元祖となったと言われている。
1492年1月6日、スペイン王国の軍隊(キリスト教徒軍)はイスラム教徒の最後の根拠地グラナダを攻略し、「レコンキスタ」(再征服)を完成させた。 そして、1492年8月2日、スペイン王国の女王イサベル1世と王フェルナンド2世は、スペイン王国に居住していた約30万人のユダヤ教徒に追放令を出した。 追放令を出されたユダヤ教徒の大半はポルトガルに逃げ込んだ。 しかし、1497年、ポルトガルでもユダヤ教徒追放令が出された。 こうしてイベリア半島から追放されたユダヤ教徒の大多数は北アフリカ・イタリア・バルカン地方・西アジア・インドへ移住し、少数はアムステルダム・フランクフルト・ハンブルク・ロンドンなど、経済の主要都市へ移住した。 彼らユダヤ教徒の移住は先住民のキリスト教徒から「よそ者が侵入してきた」と思われ、彼らユダヤ教徒は様々な迫害を受けたであろう。 奇しくも、スペイン王国でユダヤ教徒追放令が出された日の翌日(8月3日)、コロンブスは3隻の船でアンダルシアの港町パロスを出航し、航海70日目に現在のバハマ諸島のグアナハニ島を発見し、この島を「サン・サルバドル島」と命名し、この付近を探検して翌年帰国した。 その後、彼は3回の探検航海(1493年〜1504年)を行ない、中央アメリカ西岸と南アメリカ北岸に到達し、1504年11月にスペインへ戻ってからは病気になり、1506年5月に死んだ。
コロンブスの探検航海の成功により、スペイン人は盛んに南アメリカに進出するようになった。 そこで、移住先でキリスト教徒から迫害を受けていたユダヤ教徒は、自分らの新天地が南アメリカにあることを知った。 各地のスペイン系ユダヤ教徒が続々と南アメリカに移住した。 南アメリカに移住したユダヤ教徒は銅・スズ・鉄などの開発に大きな成果を上げ、巨万の富を築いた。 しかし、このユダヤ教徒たちの南アメリカにおける経済的成功の知らせはスペイン政府に大きなショックを与えた。 南アメリカを支配していたスペイン政府は、南アメリカに移住したユダヤ教徒の業績を奪取すべく直ちに行動を開始した。 その為、南アメリカに移住したユダヤ教徒は当地を追われ、中央アメリカを経て北アメリカ大陸の東海岸にたどり着いた。 南アメリカを追われたスペイン系ユダヤ教徒23名が1654年にロングアイランド島に到着したと言われている。 これがアメリカに移住したスペイン系ユダヤ教徒の第1波である、と考えられている。
17世紀になると、スペイン・ポルトガルに代わってオランダが栄え始め、オランダのユダヤ商人たち(オランダ東インド会社)はアムステルダムを商業地として大発展させた。 1614年、オランダのユダヤ商人たち(オランダ東インド会社)は大西洋を渡って北アメリカ大陸北東部に上陸し、現在のニューヨーク州にアメリカ先住民(アメリカ・インディアン)との間で毛皮の取引を行なう拠点を作った。 この拠点はニューヨーク州における最初のヨーロッパ人入植地であった。 1621年、オランダのユダヤ商人たち(オランダ東インド会社)は現在のロングアイランド島に「ニュー・ネーデルランド植民地」を作り、1625年には現在のマンハッタン地区に「ニューアムステルダム」という町を作った。 17世紀前半はオランダの最盛期であった。 しかし、オランダは17世紀後半の3回に渡るイギリスとの海戦でイギリスに負けて衰退して行くことになる。
イギリス国教会からの離脱を意図した清教徒(プロテスタントの一派)41人(のちに “Pilgrim Fathers” と呼ばれる人々)を含む総計102人のイギリス人が1620年9月にメイフラワー号に乗ってイギリスのプリマス港から船出して大西洋を横断し、同年11月に現在のマサチューセッツ州のコッド岬に上陸して入植地:プリマスを作った。 しかしながら、同年から翌年にかけての冬の寒さで彼ら清教徒入植者たちの半数が死んだ。 それでも彼ら清教徒入植者たちは頑張り、1622年頃から北アメリカ先住民のインディアンを殺害・駆逐して自らの生存圏を拡大して行った。 彼ら清教徒に続いて多くの清教徒がイギリスから北アメリカ大陸東部に渡って入植者になった。 彼ら清教徒や彼らの子孫はワスプ(WASP、White Anglo-Saxon Protestant)と呼ばれ、北アメリカ大陸東部の政治・経済とアメリカの建国において主導的な役割を果たし、広い意味でのアメリカ支配階級の主要構成員であり続けて来た。 イギリスが1652年から1654年にかけてオランダを相手に行なった海戦でオランダに勝ったこともあってか、北アメリカ大陸の北東部で生存圏を確保・拡大していた清教徒はオランダのユダヤ商人たち(オランダ東インド会社)のニュー・ネーデルランド植民地を奪い取りたかったのではないか、と思われる。 1664年、彼ら清教徒はオランダのユダヤ商人たち(オランダ東インド会社)のニュー・ネーデルランド植民地を襲撃・占領し、その地を「ニューヨーク」と名付け、ニューアムステルダムを「ニューヨーク市」と名付けた。 そして、彼ら清教徒がニューヨーク市を中心にして繁栄して行くことになる。
ロングアイランド島にやって来たスペイン系ユダヤ教徒はアメリカ先住民に対する防塞建設のために献金したり、警備隊に参加したりするなど、市民として認めてもらう為の様々な努力を続けた。 アメリカ独立戦争の際には多くのスペイン系ユダヤ教徒がジョージ・ワシントンの下で銃をとって戦った。 ユダヤ教徒に対する扱いは州によって異なっていた。 宗教的に凝り固まっていたマサチューセッツ州はユダヤ人を排除し、メリーランド州は信教の自由を認めた。 やがて、スペイン系ユダヤ教徒の多くは企業家としての弛まぬ努力によって次第に経済的実力を蓄積していった。 ロードアイランドのユダヤ教徒アーロン・ロペスはタバコと砂糖の輸出業者として成功した。 ニューヨークでは「バルーク家」「ラザラス家」「ネイサン家」「コルドーサ家」などが傑出し、ニューヨーク証券取引所やコロンビア大学の創立者の一員になったユダヤ教徒もいた。 彼らの中にはキリスト教に改宗して、上流階級(WASP、白人のアングロサクソン系プロテスタント)と婚姻関係を結び、キリスト教徒の排他的な「ユニオンクラブ」に入会を許された者もいた。
第2章 ドイツ系ユダヤ人のアメリカへの流入
ドイツのヴュルツブルクでは西暦1819年にユダヤ人迫害(虐殺など)が発生し、瞬く間に反ユダヤ運動がドイツ語圏の全域に大規模に広まった。 この動きは西暦1870年頃までにユダヤ人を諸悪の根源とみなす過激な反ユダヤ主義にまで発展した。 そして、1840年頃から1870年頃にかけてドイツから20万人のユダヤ人がアメリカにやってきた。 これがアメリカに移住したユダヤ人の第2波である。 1848年のドイツ三月革命の失敗によってアメリカに移住したユダヤ人は「フォーティエイター」と呼ばれて、彼らの多くはアメリカで巨万の富を築いた。 第1波のスペイン系ユダヤ教徒が貴族や上流階級の人間になったのに対し、第2波のドイツ系ユダヤ人は叩き上げのブルジョアになった。 ニュルンベルク出身のヨセフ・セリグマン、ヴュルツブルクの貧しい鞍作りの息子だったヨセフ・ザックス、ドイツ系スイス人のグッゲンハイムなどがいる。 フランクフルトのロスチャイルド家の代理人だったアウグスト・シェーンベルク(のちにオーギュスト・ベルモントと名乗る)はヨーロッパ風の洗練された貴族的マナーでアメリカ人を魅了した。 ドイツ系ユダヤ人の多くは徒手空拳の行商人として職業生活を開始した。 彼らは貴族化したスペイン系ユダヤ人の軽蔑を尻目に未開拓の分野、例えば、綿花・銀鉱・金鉱・鉄道・土地投機・金融(ウォール街)に進出した。
ドイツ系ユダヤ人は母国ドイツとヨーロッパ各地のユダヤ系国際金融業者とのコネクションを武器にして国際的な資本移動の仲介役として活躍した。 鉄道業を中心にした当時のアメリカ国内の主要な企業活動に対する国際資金調達こそ彼らの活躍の場となった。 ドイツ系ユダヤ人が所有する投資銀行はその後長くアメリカ国内の投資銀行業界を二分する勢力のひとつとして栄えた。 行商人から目覚ましく身を立てた例としては、ウォール街の大手証券会社「ゴールドマンサックス社」の創業者であるマーカス・ゴールドマンがいる。 彼は1848年にフィラデルフィアに到着して、2年間その地で行商をし、それから衣服店を開いて資金を蓄え、終に、ゴールドマンサックスの創業者となった。 また、投資銀行業に次いで百貨店業や通信販売業もドイツ系ユダヤ人が威勢をふるった業種である。「R・H・メイシー社」「ブルーミングデール社」「ファイリーン社」「ラザラス社」「リッチ社」「ニーマンマーカス社」など、今日アメリカを代表する一流百貨店の多くは、その起源をドイツ系ユダヤ移民が設立した小売商店に発している。
国際金融業者として成功したユダヤ人ヤコブ・シフは1847年にドイツのフランクフルトで生まれ、1865年に虎の子の500ドルを手にしてニューヨークに到着し、1870年にアメリカに帰化し、1875年にソロモン・ローブ(ニューヨーク・ウォール街のクーン・ローブ商会の設立者の1人)の娘と結婚し、一所懸命に働き、クーン・ローブ商会の頭取となり、クーン・ローブ商会を大投資銀行に育て上げ、アメリカ・ユダヤ人社会の中心的存在となった。 彼の祖先はドイツのフランクフルトのゲットー内にある一軒の家をロスチャイルド家と共有して住んでいた。 シフ(schiff)家の側には「船(schiff)」が、ロスチャイルド(Rothschild)家の側には「赤い盾(roter Schild)」が描かれており、両家の姓は、そこに由来しているという。 ヤコブ・シフが日露戦争(1904年〜1905年)当時、財政難に苦しむ日本政府の発行した国債の凡そ4割を引き受けて、日本の窮状を救った話は有名である。 この話は司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』の第4巻で紹介されている。 日本政府は、「日露戦争」勝利の功績に報いるため、1906年にヤコブ・シフを日本に招待し、明治天皇が午餐会を開き、彼に「勲一等旭日大綬章」を与えた。 大恐慌後、クーン・ローブ商会は次第に支配力を失い、1977年、リーマン・ブラザーズ社に併合された。 リーマン・ブラザーズ社はドイツ南部からアメリカへ移住したハザール系ユダヤ人リーマン3兄弟(ヘンリー、エマニュエル、マイヤー)によって1850年に設立された投資銀行である。 この会社は日露戦争中にヤコブ・シフの呼びかけに応じて日本の国債をたくさん購入してくれた。 リーマン・ブラザーズ社は長らく名門投資銀行と言われていたが、2008年9月に倒産し、所謂「リーマン・ショック」を引き起こした。
この時期のドイツ系ユダヤ人の成功例としてジーンズの発明者であるリーヴァイ・ストロースの名前を忘れることはできない。 リーヴァイ・ストロース(本名はロブ・シュトラウス)は1853年、彼が24歳であったとき、故国バイエルンを後にしてサンフランシスコへやってきた。 彼はアメリカで日用雑貨品を売る仕事に就いたが、売れ残ったテント用の厚手の布地から作業ズボンを作るというアイデアを思いつき、すぐ実行した。 すると、またたく間に評判になった。 こうして、後年「ジーンズ」と呼ばれる「リーヴァイスのズボン」が生まれた。 彼の「リーヴァイス社」は世界で最初の最も有名なジーンズ製造会社となり、今でもジーンズはアメリカを象徴する衣服として若者の間で大人気である。
アメリカ独立(1783年)当時のアメリカ・ユダヤ人口は取るに足りない数であった。 アメリカ独立当時のアメリカの人口300万人中でユダヤ人口は約2500人であったと言われている。 たったの2500人である。 その後も、アメリカ・ユダヤ人口の増加は緩慢で、1840年頃でも1万5000人に過ぎなかった。 しかし、スペイン系ユダヤ人(セム系ユダヤ人)を主体とするアメリカ・ユダヤ人社会にドイツ系ユダヤ人が加わった為、アメリカ・ユダヤ人口はようやく加速度的に増加し始め、1848年には5万人、1860年代半ばには20万人に達した。 しかし、ドイツ語圏のユダヤ人の渡米は長くは続かなかった。 1870年以後は急速に衰え、1880年のアメリカ・ユダヤ人口は23万人であり、アメリカ全人口の0.5%弱であった。 しかも、ドイツ系ユダヤ人は宗教集団として行動することを嫌い、ユダヤ人政治クラブを組織することやユダヤ人としての政治見解を表明することなどを特に嫌悪した。 彼らは典型的な同化主義ユダヤ人であった。 彼らが所有する百貨店の経営上の特色は、決してユダヤ色を見せずに飽くまで地域社会の文化的・宗教的な規範の中に溶け込もうという姿勢を貫くことであった。
第3章 大規模な東欧ユダヤ人のアメリカへの流入
1880年代半ば、アメリカ・ユダヤ人社会に転換期が訪れた。 その当時、ロシア帝国領のウクライナで起きた「ポグロム」(ハザール系ユダヤ人に対する集団的・計画的な虐殺)の影響で東欧から大量のハザール系ユダヤ人がアメリカに流入した。 これがアメリカに移住したユダヤ人の第3波である。 その波は正にどっと押し寄せてくるという感じでやって来た。 1880年代から20世紀初頭にかけてウクライナ(その当時、ウクライナはロシア帝国領であった)ではハザール系ユダヤ人に対する集団的・計画的な虐殺が進行していた。 ヒトラーによるユダヤ人迫害が発生するまで、ロシア帝国はユダヤ人が最も大量に殺された国であった。 当時のロシア帝国は世界で最も多くのハザール系ユダヤ人が住む国であった。「ポグロム」はウクライナだけでなく東欧全域において大規模に広がり、この結果、莫大な数の東欧ユダヤ人がアメリカに渡ってきた。 1880年に23万人であったアメリカ・ユダヤ人口は1900年には100万人を突破した。 この間の20年間においてアメリカ総人口が1.5倍になったのに対し、ユダヤ人口は4.4倍になった。 結局、1880年代から1924年までに280万人という莫大な数の東欧ユダヤ人がアメリカに流れ込んだ。 そして、東欧系ユダヤ人はアメリカ・ユダヤ人口の85%を占めるようになった。 ニューヨーク市マンハッタン区ロウアー・イースト・サイドにはおびただしい数の東欧系ユダヤ人が住み着き、超過密状態になった。 1910年時の同地区には54万2000人が居住し、当時、そこは地球上で最も人口密度の高い地域であると言われた。 貧しい食事、過密で不潔な住居、日光の不足など、ここには病気を蔓延させる条件が揃っていた。 最も恐れられたのは結核だった。 それは「ユダヤ病」とか「仕立屋病」とか言われ、1906年のロウアー・イースト・サイドのユダヤ人の1000人中12人が結核患者であった。 病人の90%は各家で看病され、貧しい人々はなかなか病院に行こうとはしなかった。 ピンスク(ベラルーシの都市)の貧しい家具職人の娘ゴルダ・マボヴィッチが1906年にミルウォーキーに着いた。 この少女はのちにイスラエルの第4代首相ゴルダ・メイアになった。
アメリカのビジネス社会において、先着のドイツ系ユダヤ人(西欧系ユダヤ人)は類い希な国際金融コネクションを駆使して投資銀行業界で成功し、その上、同化主義的でユダヤ色が希薄であったことから準WASP的な“好ましいユダヤ人”としての待遇を獲得していた。 一方、あとにやって来た東欧系ユダヤ人はユダヤ色が強烈で、第1波の貴族的なスペイン系ユダヤ人や第2波のドイツ系ユダヤ人と違って如何にも異様だった。 東欧系ユダヤ人は独特の連帯感・一体感を持ち、宗教的共同体意識が極めて強かった。 そういう人々が次から次へとニューヨークに押し寄せてきて、あちこちに黒々とした集団をつくったので、彼らは非ユダヤ人の目には異様な集団として映った。 20世紀初頭のアメリカの平均的なワスプ系の人々は東欧系ユダヤ人を文化的・生物学的に劣等な輩と見下し、アメリカ社会に同化困難な存在と見なした。 心の奥でそう思うだけでなく、それを態度で表し、露骨な差別行為を行なうことさえ珍しくなかった。
アメリカの歴史に詳しい野村達朗氏(愛知県立大学教授)は次のように述べている。
「東欧系ユダヤ人はドイツ系ユダヤ人とは著しく異なっていた。 中産階級化し宗教的には改革派ユダヤ教を奉じ英語を習得して急速なアメリカ化を遂げていたドイツ系ユダヤ人はアッパー・イースト・サイドやアッパー・ウェスト・サイドの優雅なアパートメントに住んだ。 これに対して、東欧系ユダヤ人はイディッシュ語を話す正統派ユダヤ教徒で、極めて貧しかった。 両者は風俗習慣も異なり、この時期には別々のコミュニティーを形成した。 2種類のユダヤ人はそれぞれ『アップタウン・ジュー』 『ダウンタウン・ジュー』と呼ばれるようになった。 東欧系ユダヤ人の移住が増えるにつれ、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)は急増した。 1917年ニューヨーク市全体では784の恒久的なシナゴーグと343の一時的シナゴーグがあった。 それぞれのシナゴーグの会衆の多くは故郷の共同体(集落)の出身者であった。 貧しい東欧系ユダヤ人は普通の安アパートをシナゴーグとして使っていた。 シナゴーグは同時にクラブハウスであり、信仰熱心なメンバーが聖書を読んだり、故郷の情報を得たり、アメリカについての情報を得たりする溜り場でもあった」。
当時、アメリカ・ユダヤ人社会の中心的存在となっていたヤコブ・シフを初めとするユダヤ人指導者は東欧系ユダヤ人の出現によって在米ユダヤ人の評判が落ちることをかなり深刻に心配していた。 『ジューイッシュ・メッセンジャー』紙は「ロシアに教師団を派遣して、彼らを文明化すること」を提案したほどである。 先行移民で既に成功者の多かったドイツ系ユダヤ人は、この新たな同胞のみすぼらしさとがさつさに、かつての自分たちを見る思いがし、「カイク(kike)」と呼んで蔑んだ。 というのは、東欧系ユダヤ人は語尾が「〜ky」「〜ki」で終わる名前が多かったからである。 ヤコブ・シフは東欧系ユダヤ人がニューヨークに集中する事態を阻止するため、オレゴン州ニューオデッサやニュージャージー州に農地を確保して、東欧系ユダヤ人を入植させた。 しかし、内部の争いと風紀の乱れのために1887年にこの実験は失敗に終わった。 ヤコブ・シフは1894年にはニュージャージー州ウッドパインに農業学校を開設して、東欧系ユダヤ人の農民化を図った。 だが、この学校が1918年に閉校するまでに本当に農民になった生徒は210人しかいなかった。 農民にならなかった生徒のなかにはストレプトマイシンを発見してノーベル賞を授与されたセルマン・ワクスマンや避妊用ピルの発明者グレゴリー・ピンカスなどがいる。 ヤコブ・シフは農場のほかに南部のガルヴェストンや西部のサンフランシスコヘの移住を勧めたが、東欧ユダヤ人が後から後からやってくるので、こんな試みは焼け石に水だった。
アメリカに移住したユダヤ人の第3波は1924年に終焉を迎えた。 アメリカが移民法を改定して、移民を制限した為である。 1880代年から1924年の間に東欧からアメリカへ移住したユダヤ人の総数は280万人前後である。
第4章 ナチス政権成立の影響によるドイツ語圏のユダヤ人のアメリカへの流入
1933年のナチス政権の成立と共にドイツとオーストリアから25万人のユダヤ人がアメリカに流入した。 これがアメリカに移住したユダヤ人の第4波である。 その当時、アメリカは移民の受け入れを制限していたので、流入数は第3波のときほど多くはない。 しかし、この時やってきた人々には科学者や作家などが多く、アルバート・アインシュタインなど20世紀を代表する知識人がたくさん混じっていた。 この第4波ユダヤ移民によってアメリカの自然科学界・人文科学界・社会科学界はユダヤ人の聖域と化した。 例えば、アラブ諸国の留学生が自国の歴史や文化を学習しようと思って、ハーバード大学・プリンストン大学・コロンビア大学などの中近東研究所に入ったとしても、そこの研究スタッフはがっちりとユダヤ人で占められているというわけだ。 多くのドイツ系ユダヤ知識人がヨーロッパを去りアメリカに渡ったことで科学界に大きな変化が生じた。 例えば、1901年から1939年までの38年間に物理学・化学・医学の分野でノーベル賞を受けたアメリカ人の数はわずか14人だった。 ところが、多くのドイツ系ユダヤ知識人がアメリカに渡った後の1943年から1955年までの13年間には、この分野でノーベル賞を受けたアメリカ人は29人にも上った。 ドイツでは逆の現象が起きた。 ドイツでは1901年から1939年までの38年間に35人のノーベル賞受賞者を出したが、1943年から1955年までの13年間におけるノーベル賞受賞者はたったの5人である。 ドイツの著名な歴史研究家であるセバスチャン・ハフナー(ユダヤ人)は著書『ヒトラー注釈』の中で次のように述べている。「ヒトラーの反ユダヤ主義によってドイツの科学が被った頭脳の流失は相当のものだった。 アインシュタインを初めとするユダヤ人科学者が亡命しただけではなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の同僚や師匠のあとに続いた。 そして、それまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科学者もドイツに来なくなった。 ヒトラー以前には核物理学の研究では世界の中心はゲッチンゲンだった。 それが1933年にアメリカに移った。 ヒトラーの反ユダヤ主義がなかったら、アメリカではなく、ドイツが最初に原子爆弾を開発する国になったかもしれないというのはなかなか興味をそそる推測である」。
アメリカのユダヤ人口は1925年で380万人、1940年で480万人となり、この時点でアメリカはユダヤ人が世界一多い国となった。
第5章 ソ連のユダヤ人のアメリカへの流入
イスラエル国は1967年6月の第三次中東戦争(6日戦争)以来、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区を占領し続けている。 その結果、イスラエル国は多くのパレスチナ人(アラブ人)を国内に抱えるようになり、イスラエルの指導者たちは、数十年後にはユダヤ人よりパレスチナ人のほうが多くなるのではないかと懸念するようになった。 そこで、イスラエルのシャロン国防相はソ連の軍高官と密かに接触し、1981年に開かれたイスラエルとソ連との秘密会議でソ連のハザール系ユダヤ人をイスラエルに移住させる計画が立てられた。 ソ連政府は1989年から2010年までの間に120万人のハザール系ユダヤ人を送り出し、ヨルダン川西岸地区へ移住させることに同意した。
1989年12月、マルタ島で米ソ首脳会談が行なわれた。 このマルタ会談では、ゴルバチョフ大統領が東欧の民主化を保証する代わりに、ブッシュ大統領はソ連に「最恵国待遇」を与え、対ソ連経済協力を約束した。 そのとき、アメリカ側が出した条件は、ソ連のハザール系ユダヤ人の国外移住に制限を加えないというものであった。 この条件はアメリカ国内で強大な勢力を有するハザール系ユダヤ人シオニストの要求を代弁したものである。 このマルタ会談により、ソ連の自由化は急速に進み、ソ連は終に崩壊し、ソ連のハザール系ユダヤ人のイスラエルヘの移住は急増し、ソ連のハザール系ユダヤ人のアメリカヘの移住も急増した。 ゴルバチョフは「自分はモーセになったような気分だ」と語った。
ソ連の国勢調査によれば、1989年1月時点で、ソ連のユダヤ人口は145万人であったが、同年末までにハザール系ユダヤ人7万人がソ連を出国し、そのうちの6万人がアメリカへ移住し、残りの1万人がイスラエルへ移住した。 1990年から1993年までに、ハザール系ユダヤ人58万人がソ連を出国し、そのうちの46万人がイスラエルへ移住し、残りの12万人がアメリカへ移住した。 これがアメリカに移住したユダヤ人の第5波である。 1994年以降も旧ソ連の国々のハザール系ユダヤ人の出国は続いた。 1994年から1997年までにハザール系ユダヤ人8万人が旧ソ連の国々を出国しイスラエルへ移住した。 (1994年から1997年までに旧ソ連の国々を出国してアメリカへ移住したユダヤ人の数は不明)
2000年の時点で、アメリカのユダヤ人口は凡そ500万人である。 アメリカ・ユダヤ人口のアメリカ総人口に対する比率は1937年の3.7%をピークとして以後低下傾向を見せ、現在は2.7%になっている。 現在のアメリカ・ユダヤ人の95%は都市に居住し、ニューヨーク(172万人)、ロサンゼルス(50万人)、フィラデルフィア(25万人)、マイアミ(25万人)、ボストン(17万人)、ワシントン(16万人)のほか10万人台の都市が7つある。 また、アメリカ・ユダヤ人社会は多様であり、アメリカ・ユダヤ人の半分ほどはシナゴーグに行かず、共同体活動に関心を払わないと言われている。 教育面ではエシバ大学、ヘブルー・ユニオンカレッジがユダヤ教の神学大学として著名であり、ブランダイス大学もユダヤ系の学校として創設されたが、現在は他民族の学生も在学している。 その反面、アメリカの諸大学は1960年代初めにユダヤ関連の学問を導入し始め、現在300の大学がユダヤ学科をもっている。
因みに、2014年の時点で、世界のユダヤ総人口は1400万人〜1500万人で、そのうち、イスラエルに613万人が、アメリカに542万人が、ロシアに23万人が、ウクライナに8万人が、ベラルーシに7万人が、フランスに47万人が、イギリスに37万人が、カナダに38万人が、ドイツに12万人が、アルゼンチンに18万人が、ブラジルに10万人が、オーストラリアに9万人が、ハンガリーに9万人が、南アフリカに7万人が居住し、その他多くの国に1千人単位から1万人単位のユダヤ人が居住している、と言われている。