ユダヤ人シオニスト団体によって議会を追われたアメリカ議員

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■ チャールズ・パーシー上院議員の場合
1967年にイリノイ州から選出された共和党のチャールズ・パーシー上院議員は1980年から上院外交委員会の委員長を務め、その地位は不動のように思われた。 だが、そのパーシー上院議員が1984年、ユダヤ人シオニスト団体「AIPAC(アメリカ・イスラエル広報委員会)」によってアメリカ連邦議会の議席を奪われてしまった。 この選挙結果は「パーシー現象」と呼ばれ、他の議員たちを震憾させた。
パーシー上院議員とユダヤ人シオニスト団体との関係は初めから悪かったのではない。 彼は、イスラエル国債の購入やイスラエルへの経済援助、ソ連在住ユダヤ人の出国の支持などに関して、長年、親イスラエル派としての議員経歴があった。 このため1972年に再選されたときは、70%という記録的なユダヤ人票を獲得した。 パーシー上院議員とユダヤ人社会との親密な関係に陰りが見え始めたのは、1975年にパーシー上院議員が中東の視察旅行から帰った直後の発言からであった。「イスラエルは和平交渉の機会を見逃してしまった。 アラファトPLO議長は他のリーダーたちに比べ穏健派の指導者だ。 PLOがテロ行為を放棄し、安全で防衛可能な国境内でイスラエルが生存する権利を承認したら、イスラエルはPLOと対話すべきだ」というパーシー上院議員の発言から1週間後、彼のオフィスには2200の電報と4000通の手紙が殺到した。 その95%はこの発言に反発するもので、シカゴ市とその近辺のユダヤ人たちから寄せられたものであった。 彼らは今後、選挙での支持をやめると脅迫した。 だが、次の1978年の選挙ではユダヤ人シオニスト団体はパーシー上院議員を追い落とすことはしなかった。
ユダヤ人シオニスト団体が本格的にパーシー上院議員潰しを始めることになった切っ掛けはサウジアラビアヘのAWACS(空中警戒管制機)売却問題である。 1981年、レーガン大統領がサウジアラビアヘAWACSを売却する方針を出した。 イスラエルとユダヤ人シオニスト団体は、イスラエル空軍の動きがAWACSによってサウジアラビアに調査されてしまうと猛反対した。 当時、外交委員会の委員長であったパーシー上院議員はアメリカの国益をイスラエルの国益より優先させ、連邦議会で売却賛成の投票をした。「AWACSは攻撃用ではなく、防衛用の武器です。 しかも、アメリカが売らなくても、サウジアラビアは英国かフランスから購入しようとするでしょう」と、パーシー上院議員は売却に賛成した理由を語った。 このAWACS売却問題で外交委員会はイスラエルへ特使を送り、イスラエル情報機関の担当官の意見を聞いた。 その担当官は「AWACSはイスラエルとアラブ諸国の軍事バランスに影響を与えるものではない。 しかし、アメリカがサウジアラビアと軍事的な取り引きをやっているという象徴になることが気に入らないのだ」と答えた。 これに対し、パーシー上院議員は「それなら、アメリカがイスラエルに援助した戦車や戦闘機にはサウジアラビアで生産されたガソリンを使用すべきではない」と反論し、上院議員の同僚たちに「我々はアメリカに忠誠を誓うのであって、イスラエルに忠誠を誓うのではない」と訴えた。
ユダヤ人シオニスト団体がパーシー上院議員を攻撃目標にしたもう一つの理由は、イスラエル軍のレバノン侵攻時(1982年)にパーシー上院議員がアメリカ製武器の使用を非難したことである。 アメリカのイスラエルに対する武器売却の条件は、その武器を防衛の目的でのみ用いるというものであった。 だが、レバノン侵攻ではイスラエルはこの条件に明らかに違反していた。 外交委員長としてイスラエルを訪問したパーシー上院議員はベギン首相やシャロン国防相と会談し、この違反に強く抗議した。 しかし、イスラエル側は全く改めようとしなかった。 このようなパーシー上院議員の動きに対しユダヤ人シオニスト団体は1984年の選挙で本格的に反パーシー・キャンペーンに乗り出した。 ユダヤ人シオニスト団体「AIPAC」代表トーマス・ダインはイリノイ州出身のポール・サイモン下院議員をパーシー上院議員の対立候補として担ぎ出した。 その選挙参謀と選挙資金責任者の一人に元AIPAC代表モーリス・アミタイが就任し、反パーシー・キャンペーンの戦術を専門的に研究させる学生数人を専従として雇い、また、イリノイ州の外から100人を超す学生たちをポール・サイモン候補の選挙運動のために動員した。 AIPACの戦術は、パーシー上院議員を「反イスラエル」「議会でのイスラエル最大の敵」として描き出し攻撃することだった。 だが、AIPACの調査によれば、それまでの議会でのイスラエルに関する重要な決議ではパーシー上院議員は89%のイスラエル支持の投票をしてきた。 一方、サイモン下院議員は99%という結果が出た。 これでは大差が無いため、AIPACは調査の基準を変え、小委員会での不透明な投票や署名のない決議にまで調査の対象を広げた。 この結果、パーシー上院議員のイスラエル支持率は51%となった。 サイモン陣営にとって、これはユダヤ人から票と選挙資金を獲得する絶好の材料となった。 この宣伝によってサイモン陣営はシカゴ市とその近辺のユダヤ人から莫大な選挙資金を獲得し、その金額は全選挙資金の40%に当たる301万ドルにまで及んだ。 また、南カルフォルニアのユダヤ人不動産業者マイケル・ゴーランドは個人の選挙寄付金の制限額1000ドルを遥かに超える120万ドルという大金でテレビや新聞の広告を買い、反パーシー・キャンペーンを展開した。 その新聞の全面広告にはアラファトPLO議長の写真を掲載し、「パーシーはこの男を穏健派と呼んだ」というタイトルをつけた。 このような悪質なキャンペーンに反発する著名なユダヤ人数十人がパーシー上院議員を援護する署名広告を出したが、ほとんど効果がなかった。 選挙の結果、8万9000票の差でパーシー上院議員は敗れた。 1972年には70%も獲得したユダヤ人票はこの選挙では35%に落ち込んでしまった。 これはAWACS売却問題でユダヤ人の不評を買ったレーガン大統領が1984年の大統領選挙で獲得した得票率と同じという低い支持率であった。 AIPAC代表トーマス・ダインは「全米のユダヤ人がパーシーを追い落とすために集結した。 今や政治家、公の立場にある人々、または、それを志す人々は私たちユダヤ人社会のメッセージを受け取った」と豪語した。

■ ポール・マクロスキー下院議員の場合
親イスラエル派だったポール・マクロスキー下院議員がイスラエルの政策に疑問を抱き始めたのは、1978年にイスラエルが、一国以上の正規軍に攻撃されたときのみ使用できるというアメリカ政府との協定を無視して、アメリカ製クラスター爆弾を南レバノンの一般市民に対して用いたときであった。 1982年のレバノン侵攻でもイスラエルは再びこの協定を破った。 マクロスキー下院議員はイスラエルの政策に対して批判的になった理由を次のように説明した。「トルコがキプロスでこの協定を破ったとき、アメリカ政府は武器援助を3年間停止した。 しかし、イスラエルの場合にはアメリカ政府は武器援助を停止しなかった。 ユダヤ人シオニスト団体の圧力が余りに強くて、政府や議員たちはユダヤ人社会を敵に回すことを恐れたためです。 私はこれを見逃すことができなかった」。 その後、マクロスキー下院議員はアメリカの多額な対イスラエル援助を修正すべきであると議会で主張した。 その修正案の趣旨は「イスラエル占領地であるヨルダン川西岸地区でのイスラエル人による入植活動を中止させたい。 もし、イスラエルが同意しなければ、入植活動のために使われると想定されている1億5000万ドルの対イスラエル援助を削減すべきだ」というものであった。 だが、他の議員たちはユダヤ人シオニスト団体の圧力を恐れて、その修正案の提出をマクロスキー下院議員に思いとどまるように説得した。 アメリカの対外援助の4分の1という高額の対イスラエル援助を快く思わない議員たちも、対イスラエル援助に反対していると受け取られることを避けたがる。 AIPACを恐れるからだ。 しかし、マクロスキー下院議員はそのタブーを敢えて破った。 更に、マクロスキー下院議員はロサンゼルスタイムズ紙上で、「AIPACがあまりにも強い影響力を持ち、中東の真の平和の障害になっている。 一方、アメリカとイスラエルの国益は異なるにもかかわらず、在米ユダヤ人社会が議会にイスラエルを支持するよう強要している」とユダヤ人シオニスト団体を公に非難した。 このようなマクロスキー下院議員の言動の影響は間もなく在米ユダヤ人社会のマクロスキー離れやマクロスキー攻撃となって現れ、それらは選挙にも影響を及ぼすことになった。 マクロスキー下院議員の地元の新聞も「マクロスキー下院議員は『ユダヤ人シオニスト団体がアメリカの国益を破壊するのに懸命になっている』と非難中傷している」と強い調子で彼を非難した。 1982年、マクロスキー下院議員が共和党からカルフォルニア州の上院議員候補に推薦されたとき、ユダヤ人シオニスト団体は“マクロスキー降ろし”を謀った。 そして、マクロスキー下院議員はトップに10%の差で落選した。 ワシントンポストはこの選挙結果を「ユダヤ人の選挙運動がマクロスキーを破った」と結論づけた。 ユダヤ人社会のマクロスキー下院議員への攻撃は、彼が議会を去ったあとも止まなかった。 マクロスキーは大学の同窓生の法律事務所で弁護士の仕事に戻ろうとした。 だが、この事務所の最大の取引先である会社の社長は、もしマクロスキーを雇うつもりなら取引先を他の法律事務所に移すと通告してきた。 友人に迷惑がかかることを懸念して、彼はその法律事務所での仕事を辞退した。 その後、彼はサンフランシスコ市内の法律事務所から弁護士として招聘された。 しかし、彼に対する圧力はそこにも及んだ。 この事務所の取引先の銀行の主要株主だと名乗る人物が「PLOとその議長アラファトを支持し反ユダヤ主義者として知られる人物を雇うことに抗議して、次の株主総会で取引法律事務所を変えることを提案するつもりだ」と伝えてきた。 だが、事務所側はこれを無視した。 結局、その銀行は取引先として残った。 しかし、ユダヤ人団体ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)の追及はマクロスキーの私生活にまで及んだ。 ADLは彼の下院議員時代の発言や行動を記録したメモと、彼が公の場で発言する場合に反撃するガイドブックを全米のADL支部に配布した。 また、その妨害の手は大学にまで伸びた。 スタンフォード大学でアメリカ下院議会について講義を依頼され、これを引き受けたマクロスキーにユダヤ人学生団体ヒレルは猛反対した。 この圧力で主催者側は、講義に呼ぶゲストの選択の自由やその報酬について様々な制限を加えてきた。

■ ポール・フィンドリー下院議員の場合
22年間、下院議員を務めてきたポール・フィンドリーがAIPACの標的となったのは、彼が1978年にアラファトPLO議長と会談して以来、パレスチナ人の自決権にも理解を示す態度を採るようになったことによる。 彼はイランのアメリカ人人質解放のために秘密裏にアラファトの援助を要請するアメリカ政府の求めに応じて、PLOとの仲介役を果たした。 ユダヤ人シオニスト団体のフィンドリー潰しは1980年の選挙から始まった。 AIPACは対立候補の選挙資金を集めるため、「フィンドリーはアメリカ議会史上、最悪の敵で、反ユダヤ主義者である」と、全米のユダヤ系新聞に広告で訴え、「この議員を破るために寄金を」と呼びかけた。 また、フィンドリーの講演や選挙演説にもAIPACが動員したと思われる運動員たちが演説中に「PLO支持者!」と罵声を浴びせ妨害した。 シカゴでの外交問題の講演では、ある男が「この会場に爆弾が仕掛けられている」と叫んだため会場は大混乱に陥り、講演が中止されてしまったことがあった。 親友やこれまでの支持者たちもフィンドリーから遠ざかっていった。 友人で彼の支持者であった連邦準備委員会委員長は、選挙のための推薦状を依頼したフィンドリーに「君のPLOに対する見解のために、それはできない」と通告してきた。 同じ共和党の大物政治家たちもフィンドリーの選挙応援を躊躇するようになった。 大統領候補となったロナルド・レーガンがフィンドリーの地元を訪問したとき、大統領選挙対策本部が「フィンドリーと親しくすると、ユダヤ人の多いニューヨーク市での票を失ってしまう」と警告したため、レーガン候補の訪問中も、その運動員たちはフィンドリーをレーガンに近づけなかった。 フィンドリーは様々な妨害にもかかわらず、1980年の選挙で辛くも再選を果たしたが、それから2年後の選挙では一層強化されたAIPACの反フィンドリー・キャンペ一ンのせいで、千数百票という小差で敗れてしまった。 このときもAIPAC代表トーマス・ダインはフィンドリーの敗北がAIPACの力によることを誇示した。 自らの体験でアメリカ議会におけるユダヤ人シオニスト団体の強大な影響力を知ったフィンドリーは、その後、AIPACの実態を丸2年がかりで取材・調査し、著書『彼らは敢えて証言する』を出版した。 その本はワシントンを中心に大きな反響を呼び、9週間連続でワシントンポスト紙のベストセラーのリストに挙げられた。

■ ウィリアム・フルブライト上院議員の場合
日本でもおなじみのウィリアム・フルブライト上院議員。 彼は戦後の日本がまだ貧しかったときに、日本の青年たちのためにアメリカ留学の基金をつくったことで有名である。 しかし今日、フルブライトは上院議員ではない。 年を重ねたから辞めたのではなく、イスラエルにとって不利な発言をしたから、AIPACによって落とされたのだ。 フルブライト上院議員は「アメリカ外交はアラブ諸国とイスラエルとのバランスの上に立たなければならない」という意味の発言をした。 それがAIPACの激しい攻撃を受けた理由である。