広瀬隆氏の見解

広瀬隆氏は著書『億万長者はハリウッドを殺す』(講談社)の中で、次のように述べている。
“パール・ハーバー”から間もない頃、「OSS」と呼ばれるアメリカ戦略情報局がスイスの首都ベルンに支局を開き、その支局長としてサリヴァン・クロムウェル法律事務所のアレン・ダレスが派遣された。 首都ベルンの近くにバーゼルの街があるが、ここはスイスとドイツとフランスの三国が接し、戦略上はピラミッドの頂点をなす重要拠点だった。 この三角基地バーゼルに「国際決済銀行(BIS)」があった。 第一次世界大戦のドイツ賠償金の全てを取り仕切るという名目で1930年にジャック・モルガン(ジョン・ピアポント・モルガンの息子)が設立させた特異な銀行である。 この国際決済銀行は銀行家の間で “バーゼル・クラブ” と呼ばれ、完全な秘密主義を守り抜く異様な社交場となっていた。 国際決済銀行(バーゼル・クラブ)の真相はあまりに複雑である為、読者に手際よく説明できる自信はない。 と言うのは、その当時、ドイツ、アメリカ、イギリス、ベルギー、カナダ、スイス、南アフリカ、の7ヶ国にまたがる数々の謀略が渾然一体となり、これらの国々は、利権を追及する国際金融勢力に支配されていた為である。 国際決済銀行(バーゼル・クラブ)の総裁を務めていたトマス・マッキトリックは、モルガンが所有するニューヨークのファースト・ナショナル銀行の取締役であった。 国際決済銀行(バーゼル・クラブ)の重役陣には、ヒトラーを首相にしたナチ党員クルト・フォン・シュローダー男爵と、I・G・ファルベン社の社長ヘルマン・シュミッツと、ドイツ国立銀行の総裁ヴァルター・フンクが名前を連ねていた。 ナチスの資金源を取りまとめたクルト・フォン・シュローダー男爵のシュローダー銀行は、敵国アメリカに支店を持っていて、ロックフェラーとアレン・ダレスに事業を任せていたばかりでなく、もうひとつの敵国イギリスの首都ロンドンにも支店を構え、南アフリカ・アングロ・アメリカン投資会社の取り引きを引き受けていた。 国際決済銀行(バーゼル・クラブ)のメンバー(アメリカとドイツの投機業者)は戦争中の敵と味方である為、公然と会合することが許されなかった。 密談することができる唯一の場所こそ、治外法権に守られた国際決済銀行(バーゼル・クラブ)だったのである。 アメリカ戦略情報局のベルン支局長としてスイスに派遣されたアレン・ダレス(親ナチス派)は、実は70キロ先の国際決済銀行(バーゼル・クラブ)に絶えず出入りしていた。 彼は国際決済銀行(バーゼル・クラブ)に毎日のように顔を出し、ルーズベルトとヒトラーの作戦について情報を交換していた。 これは半ば戦争の情報収集という性格を持っていたが、今日では、ダレスがワシントンに送った情報はどれもこれも周知の事実だったことが明らかにされている。 ダレスは連合軍の情報官と呼ばれるべきではなく、国際決済銀行(バーゼル・クラブ)の情報係と呼ばれるべきである。 彼はよく働き、戦火は日増しに大きく燃え上がり、国際決済銀行(バーゼル・クラブ)の金庫はみるみる膨れ上がっていった。 しかし、1943年2月6日から、国際決済銀行(バーゼル・クラブ)にとって思いがけない事態が持ち上がった。 イギリスとアメリカの爆撃機がドイツの都市への爆撃を開始したのである。 ここで、国際決済銀行(バーゼル・クラブ)にとってヨーロッパ戦線の性格が変わったことは言うまでもない。 国際決済銀行(バーゼル・クラブ)が仕組んだシナリオ通りにはヨーロッパ戦線は推移しなかったのである。 いまやクルト・フォン・シュローダー男爵自身の体が危険にさらされているばかりか、国際決済銀行(バーゼル・クラブ)のドイツ同胞であるドイツ国立銀行、I・G・ファルベン社、アダム・オペル社、クルップ鉄鋼、などが爆撃されるようになった。「クルップ鉄鋼」は工場の3分の1が爆撃で破壊された。 火を着けてここまでにしてしまった以上、いずれかの政府が “参った” と宣言するまで、殺し合いを続けなければならなかった。 ヒトラーとルーズベルトは、いずれも相手国の打倒を国民に約束して戦闘に踏み切っていた。 アレン・ダレスに関する書物によれば、このドイツ空爆からわずか1週間ほどあとに、ナチス親衛隊(SS)の秘密工作員2名がシューデコッフ博士とホッヘンロー二皇太子の偽名を使ってスイスに潜入し、アレン・ダレスと会談した。 このときのアレン・ダレスが伝えた結論は「ヒトラーに退いてもらい、第三帝国を別の人間が継承する」というものだった。 しかし、これはナチス親衛隊向けの柔らかい表現である。 実際には、国際決済銀行(バーゼル・クラブ)の意向は「もはやヒトラーを利用する時期は終わった、できる限り早く奴を抹殺し、ドイツの工業界が破滅するのを食い止めるべきだ」というものだった。 1944年5月12日には、アメリカの第8空軍機935機がドイツ上空に現われ、この一千機近い爆撃機がドイツの中央部と東部にある重油工場を壊滅させ、ドイツ軍需産業の終わりを決定づけた。 アメリカの超富豪モルガン及びロックフェラーが手を組んだのはヒトラーではなく、ドイツの銀行家や工業家であった。 彼ら全員はヒトラーに寄ってたかってヒトラーを利用し、ファシズム旋風を巻き上げ、今、それが行き過ぎだったと気づいた。 国際決済銀行(バーゼル・クラブ)のメンバーはファシストでなく、投機業者である。 彼らはファシストを利用する時もあれば、逆の力を利用する時もある。 だが、ヒトラーは自分を神だと感じ始めていた。 ムッソリーニが逮捕され、ヒトラー批判がいよいよドイツ上層部で火を噴き始めてからも、ベルリン空襲の中でヒトラーは独裁者の座を降りなかった。 1944年6月16日、ドイツがロンドンにV1ロケットを発射したとき、自分の支店をロンドンに構えていたシュローダー男爵の驚きは、いかばかりだったろう。 ヒトラー暗殺未遂事件が起こったのは、その1ヵ月後のことである。

ところで、ドイツの無条件降伏を主張し続けたルーズベルト大統領は急死した。 反ナチス派の急先鋒で、ドイツの打倒を意図していたルーズベルト大統領が1945年4月12日に急死したのは本当に病死であろうか。 彼は頭痛に襲われ、心臓病の薬を注射されたが、効き目なく、ウォーム・スプリングで世を去った。 最も重要な勝利を目の前にして、最高指導者の地位にある人が病死するということは、人の精神力と生理から考えて、なかなか起こり得ない現象だと思われる。 ルーズベルト大統領が死去すると、謎の副大統領トルーマンが昇格した。 それからわずか16日後の4月28日、ムッソリーニがゲリラに捕らえられて銃殺された。 更に、わずか2日後の4月30日、ヒトラーが自殺したとされる。 ヒトラーの遺体がその後どこで処分されたか、誰ひとり知る者なく、今日まで深い謎に包まれている。 仮にこの3人の急死が、何者かに仕組まれたものであれば……。 この答えを知っている人物はJ・R・ディーン少将であろう。 彼は、死亡2ヶ月前のルーズベルト大統領がヤルタ会談に臨んだとき、顧問役としてヤルタ島に同行し、連合国の首脳会談に立ち会った。 次いでトルーマン大統領が7月17日にポツダム会談に臨んだときにも顧問役として同行し、またしても首脳会談に立ち会った。 この両会談の中間で、ルーズベルト、ムッソリーニ、ヒトラーが死亡し、ドイツが無条件降伏した。 J・R・ディーン少将は大戦後の東京軍事法廷の証言台に立ち、大日本帝国の軍人を弁護する雄弁をふるった。 枢軸国側に立つこの異様なアメリカ人の正体は明らかではない。 彼はどこから派遣されたのか。 トルーマンの支援者ジョージ・アレンがナチスに結びつき、もうひとりのエドウィン・ポーレーがダレスに結びつく事実はスイスの国際決済銀行(バーゼル・クラブ)を思い起こさせる。