ダレス兄弟の暗躍

原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc300.html
第1章  シュローダー男爵
古くから投資銀行を経営してきたドイツの名門貴族「シュローダー家」は、ドイツではハンブルクやケルンに、イギリスではロンドンに拠点を置き、鉄道から砂糖・ビールに至るまで大々的な商業活動を行なってきた。 このシュローダー家出身のクルト・フォン・シュローダー男爵は、ロスチャイルド金融勢力の一つであるドイツの投資銀行J・ヘンリー・シュローダー銀行の創立者のひとりであり、ドイツのケルンに自分の銀行J・H・シュタイン銀行を開いていた。 クルト・フォン・シュローダー男爵はヒトラーに心酔し、ナチスに入党して、ゲシュタポ(秘密警察)の高級将校になり、私設の突撃隊員を持っていた。 1931年12月、シュローダー男爵を初めとして、ヒトラーに定期的に寄付することを約束したドイツの著名な実業家12人が秘密友愛組織「ケプラーの会」を結成した。 この組織は後に、ナチス親衛隊の長官ヒムラーを主力メンバーとして迎え入れ、1934年以降は「ヒムラー友の会」と呼ばれるようになった。「ヒムラー友の会」は、ナチス親衛隊を介してナチス指導部と財界首脳が直接交流する機会を提供するとともに、シュローダー男爵の銀行に設けられた秘密口座を通じて、財界の資金をナチス親衛隊へ流すパイプとしても機能していた。

「ヒムラー友の会」について、山口定氏(立命館大学名誉教授)は著書『ナチ・エリート 第三帝国の権力構造』(中央公論新社)の中で次のように述べている。「『ヒムラー友の会』は、『ケプラーの会』を継承し発展させたものである。 この会は毎月第二月曜にベルリンで行なわれ、親衛隊長官ヒムラーは、そのたびにメンバーの出欠を注意深くメモしていたといわれるが、フォーゲルザンクの研究によって、1939年で39名、1944年で44名のメンバーの名がほぼ確認されている。  〈中略〉  このグループはナチスと産業界の一部有力者たちとの融合の場となったと見てよい。 1939年以降のメンバーの中には、ジーメンス・シュッケルト社のビンゲルとブレッシング、I.G.ファルベンのビューテフィッシュ、オーストリアの銀行家フィッシュベック、フリック・コンツェルンのフリック、ドイツ銀行のフォン・ハルト、ハンブルク・アメリカ航路のヘルフェリヒとケプラー、ドレスデン銀行のマイヤーとラッシェ、コンメルツ銀行のラインハルト、ヴィンタースハル社のロステルク、合同製鋼のシュタインブリンク、銀行家のフォン・シュローダーがいた。 そして、彼らは、親衛隊高級将校の名誉称号や親衛隊の管理下にある強制収容所からの労働力の提供と引換えに年々親衛隊へ多額の寄付を行ない、それが、武装親衛隊の装備や、その他、ヒムラーが正規の予算からの支出をあてにできない諸事業のための資金にあてられた。 この寄付金額は、1940年〜1944年の時期で毎年約100万ライヒスマルクであった」。

1933年1月30日にヒトラーが政権を獲得すると、クルト・フォン・シュローダー男爵は国際決済銀行(BIS)のドイツ代表に指名された。 シュローダー男爵はドイツ鉄鋼王テュッセン男爵と共に、ナチスへの財政支援を行ない、シュローダー男爵の銀行J・H・シュタイン銀行は後にヒトラーの個人取り引き銀行になった。 1936年、ロスチャイルド金融勢力の一つであるドイツの投資銀行J・ヘンリー・シュローダー銀行はロックフェラー財閥と資本を提携し、シュローダー・ロックフェラー商会という名称の投資銀行を設立した。 この投資銀行の経営者には、シュローダー男爵とジョン・ロックフェラーの甥のエーヴリー・ロックフェラーなどが名を連ねていた。 これによって、ロスチャイルドとヒトラー政権とロックフェラー財閥との絆は強くなった。 そして、ヒトラーが政権を維持するために更なる資金が必要になったとき、イングランド銀行(イギリスの中央銀行)、すなわち、ロスチャイルド自らが登場してきた。 また、ニューヨーク・ウォール街のディロン・リード商会もヒトラー政権に融資を行なっていた。 このディロン・リード商会の創立者はC・ダグラス・ディロンで、法外な賠償金をドイツに支払うように決めたアメリカの賠償委員会委員長バーナード・バルークの右腕だった男である。

因みに、シュローダー男爵の名はミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』に登場している。 この映画は、1938年3月にオーストリアがナチス・ドイツに併合され、ナチスを毛嫌いするトラップ大佐が、金持ちの貴婦人との再婚よりも、子供たちの家庭教師マリア(修道女)を選んでアルプス越えをした実話である。 トラップ大佐が避けた貴婦人はシュローダー男爵の未亡人であった。

第2章  ダレス兄弟
ヒトラー政権が成立する26日前の1933年1月4日、シュローダー男爵はケルンにある自分の大邸宅にヒトラーとパーペン元首相等を招いて、秘密会議を開いた。 主要出席者は、ヒトラーとパーペン元首相以外に、ニューヨークの法律事務所「サリヴァン&クロムウェル」に所属するジョン・フォスター・ダレス(兄)とアレン・ウェルシュ・ダレス(弟)のダレス兄弟で、この2人はドイツの投資銀行J・ヘンリー・シュローダー銀行を代表して出席していた。 この日、ダレス兄弟がヒトラーと会談した目的は、ヒトラーをして合法的にドイツの政権を獲得させる為に必要な資金をヒトラーに提供することを確約することだった。 こうして巨額の政治資金を得たヒトラーは、その資金を使って選挙に勝つことが出来た。

ここでダレス兄弟について簡単に紹介しよう。 まず、弟アレン・ウェルシュ・ダレスは、ハーバード大学出身の弁護士で、1916年にアメリカ国務省に入省し外交官となり、第一次世界大戦下のオーストリアやスイスで諜報活動に従事し、パリ講和会議(1919年)のアメリカ代表団の一員となり、1920年にベルリンのアメリカ大使館第一書記になり、第一次世界大戦のドイツ賠償問題など多数の軍事外交に関与し、のちに長年にわたってドイツのシュローダー男爵の銀行J・H・シュタイン銀行の理事を務め、更にアメリカのスタンダード・オイル(ジョン・ロックフェラーが1870年に創業)の顧問弁護士も務めていた。 彼はアメリカ企業ITT(International Telephone & Telegraph Corp.)のベーン会長とアメリカ軍との間をとりもち、ベーン会長を背後から操っていた。 戦後も 彼とITTとの深い関係は続いた。 一方、兄のジョン・フォスター・ダレスもハーバード大学出身の弁護士で、ニューヨーク・ウォール街の法律顧問を務め、国際決済銀行(BIS)の創立者の1人として活躍し、アメリカが参戦する前はドイツのI.G.ファルベンの重役陣に名を連ね、アメリカきってのドイツ通であった。 パリ講和会議(1919年)では叔父の国務長官ロバート・ランシングの秘書官を務め、ジャネット・ポムロイ・エーヴリーとの結婚によりロックフェラー家の一員となり、ロックフェラー財団の理事長を務めた。 1936年に誕生したシュローダー・ロックフェラー商会の法律顧問には、ダレス兄弟が就任した。

イギリス情報機関が秘密作戦を駆使してアメリカのマスメディアを操り、スタンダード・オイルとI.G.ファルベンとの提携関係を暴露し始めた時、ダレス兄弟は両社を擁護する行動に出ていた。 その時の様子を研究家のロフタスとアーロンズは次のように記している。「イギリスの機密文書によれば、ダレス兄弟はアメリカのマスメディアの動きを阻止すべく、即座にイギリス情報機関に手を回した。 アメリカのマスメディアの口を封じたその手法が機密文書にこう記されている。 『ダレスともう1人の同僚がI.G.ファルベンに関する暴露を中止するよう要請してきた。 その根拠は、このまま続ければ、スタンダード・オイルなどの大企業をも巻き込むことになり、ひいてはアメリカの戦争遂行能力に支障をきたす恐れがある』というものだった」。

第3章 アレン・ウェルシュ・ダレス
真珠湾攻撃から間もない頃、アメリカの戦略情報局(OSS)がスイスの首都ベルンに支局を開き、ダレス兄弟の弟アレン・ウェルシュ・ダレスがその支局長に就任した。 彼に課せられた任務は、ナチス・ドイツ内における反ヒトラーの動きを探り、その進展具合を分析するというものだった。 そのため、彼は、第二次世界大戦中のスイスで活動する多くのスパイ組織と接触する機会に恵まれ、スイスに彼の情報帝国が誕生した。

アメリカが戦略情報局(OSS)ベルン支局長に軍人ではなく、敏腕弁護士であるアレン・ウェルシュ・ダレスをあてたことはとても意味深いと語るのはスイス人歴史家ジャーク・ピカールである。「これはとても重要なことである。 軍人ではなく弁護士を派遣したのだから。 それも頭が切れて腕が立つ弁護士である。 物事の裏を見抜く目を持った男で、資金や物資が戦争を引き起こす仕組みを知り尽くしていた。 スパイたちに混じって彼もゲームに参加したのである」。

アレン・ウェルシュ・ダレスが弁護士時代に作ったナチス・ドイツとのつながりは彼にとって極めて有利に働いた。 例えば、ドイツの投資銀行J・ヘンリー・シュローダー銀行とのつながりのお陰で、彼は開戦時までナチス・ドイツとの商取引を公然と続けることが出来た。 また、アレン・ウェルシュ・ダレスは部下の諜報員たちの多くとは異なり、ナチズムを嫌う反ファシストではなく、むしろ反ユダヤ主義に染まっており、ユダヤ人に好感を持っていなかった。 アメリカ人歴史家マーク・マスロフスキーはアレン・ウェルシュ・ダレスについて次のように語った。「彼は非常に自己中心的な男で、スイスのベルンから戦争を指揮しようと考えていた。 企業弁護士としての実績は相当なもので、ドイツの実業界や法曹界の友人は数えきれないほどであった。 ヨーロッパ各地の社会の奥深くまで潜入して情報活動を展開し、人脈を築いていたのである。 終戦後に予想される冷戦時代に備えて、彼のアンテナははっきりソ連の方向に向けられていた」。

ダレス兄弟によって結ばれていた、J・ヘンリー・シュローダー銀行と国際決済銀行(BIS)とアメリカ戦略情報局(OSS)とI.G.ファルベンとの黒い関係は、大戦中のヨーロッパ全土に拡がっていたことになるが、ダレス兄弟とナチス・ドイツとの黒い関係が彼らの終戦後の政治活動に支障を及ぼすことはなかった。 その証拠に、アレン・ウェルシュ・ダレスは終戦時には在イタリアのドイツ軍を降伏させるサンライズ作戦を指揮し、その後、3代目CIA長官に就任した。 一方、ジョン・フォスター・ダレスはアメリカ国務長官に就任した。