広島・長崎への原爆投下と東京大空襲について

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第1章  マンハッタン計画に参加したユダヤ人科学者
マンハッタン計画(Manhattan Project)は第二次世界大戦中にアメリカ政府が極秘に進めた原子爆弾製造計画である。 フランクリン・ルーズベルト大統領は此の計画を1942年6月から実行に移した。 マンハッタン計画は大統領直轄の最優先プロジェクトで、最高機密の軍事プロジェクトであった。 そのため、この計画の内容については陸軍長官など限られた関係者だけに知らされ、議会への報告などは一切なかった。 そして、この計画には膨大な人材と資金が投入された。 具体的には、科学者と技術者とを合わせて総計5万人と20億ドル(7300億円)の資金が投入された。 比較の為に言うと、1940年の日本の一般会計の歳出は59億円で、1945年のそれは215億円であった。 ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス国立研究所」で科学者や技術者は原子爆弾を完成させるべく日夜研究に没頭した。 マンハッタン計画には「どうしてこんなに多くのユダヤ人科学者が参加したのか」と思える程、多くのユダヤ人科学者が参加した。 そこで、マンハッタン計画に参加したユダヤ人科学者を具体的に見てみよう。

まずは、マンハッタン計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれ、ロスアラモス国立研究所の初代所長に就任したロバート・オッペンハイマー(1904年〜1967年)である。 彼はドイツから移住してきたユダヤ移民の子としてニューヨークで生まれたユダヤ人である。 ロバート・オッペンハイマーは非常に早熟で、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、ゲッティンゲン大学で物理学や化学を学び、1929年に25歳でカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学の助教授となり、1936年には教授となった。 ロバート・オッペンハイマーは理論物理学の広範な領域にわたって卓越した業績をあげた。 ロバート・オッペンハイマーは1943年にロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原子爆弾製造研究チームを主導した。 彼は「原子爆弾投下は日本に警告なしに行なわれるべきだ」と反日的な強硬論を主張した。 彼は最初から最後まで原子爆弾投下目標については日本だけを論じており、ドイツを原子爆弾投下目標として論じたことはなかった。 彼は戦後、核兵器製造、特に水素爆弾製造に反対するようになり、水素爆弾製造推進派のエドワード・テラーと激しく対立した。

次はジョン・フォン・ノイマン(1903年〜1957年)である。 ジョン・フォン・ノイマンはハンガリーのブダペストの裕福なユダヤ人家庭で生まれたユダヤ人で、驚異的計算力を持つ数学者であり、1937年にアメリカへ亡命した。 ジョン・フォン・ノイマンはノイマン型コンピュータの数学的基礎付けや自己増殖オートマトンの考案により、アラン・チューリングやクロード・シャノンらと共にコンピュータの基礎理論を築いた。 また、ジョン・フォン・ノイマンはゲーム理論におけるミニマックス法を発明し、これにより経済学に大きく貢献した。 また、彼は物理学では量子力学を数学的に基礎付けた。 彼はロスアラモス国立研究所で爆縮型原子爆弾の製造に従事し、爆薬を32面体に配置することで爆縮型原子爆弾を製造できることを10ヶ月に渡る計算により導いた。 彼は、原子爆弾は地面ではなく空中で爆発させたほうが破壊力が増すことも計算により導いた。 原子爆弾投下の目標地点を選定する際、彼は京都への原子爆弾投下を進言した。 京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているという理由によって京都の破壊を求めたのである。 彼は驚異的計算力と極めて広い活躍領域により「悪魔の頭脳」と評された。

次はレオ・シラード(1898年〜1964年)である。 レオ・シラードもハンガリー生まれのユダヤ人で、物理学者・分子生物学者であり、1938年にアメリカへ亡命した。 レオ・シラードは原子爆弾のアイデアを思いつき、ドイツからアメリカへ亡命したアインシュタインの知名度を利用して、フランクリン・ルーズベルト大統領(在位 1933年3月4日〜1945年4月12日)宛に原爆製造を促す手紙「アインシュタイン書簡」(1939年8月)を送ったことで有名である。 アメリカの原爆製造計画はこの手紙が切っ掛けとなってスタートした。 アインシュタインは、レオ・シラードが手紙を持ってきてから2週間悩んだすえに署名した。 アインシュタインは手紙に署名しただけで、マンハッタン計画には参加していない。 彼は手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の人生を平和のために捧げた。

次はエドワード・テラー(1908年〜2003年)である。 エドワード・テラーもハンガリー生まれのユダヤ人で、原子核物理学者である。 エドワード・テラーはハンガリーからドイツに移り住んでいたが、ヒトラーの迫害を恐れ、イギリスを経てアメリカへ亡命し、マンハッタン計画に参加した。 エドワード・テラーは「核分裂だけの核爆弾(原子爆弾)から核融合を用いた超強力爆弾(水素爆弾)へと核兵器を発展させるべきだ」と誰よりも早く主張し、戦後、積極的に水素爆弾の製造に携わった。 そして、1952年にソ連より半年早く水素爆弾実験に成功し、「水爆の父」と呼ばれた。 その後、ロスアラモス国立研究所に代わる第2の核兵器研究所として1952年にカリフォルニア州に作られた「ローレンス・リバモア国立研究所」の所長に就任した。 冷戦中、ローレンス・リバモア国立研究所はアメリカの戦略核ミサイルの10発中9発の核弾頭の製造を担った。

次はユージン・ウィグナー(1902年〜1995年)である。 彼もハンガリー生まれのユダヤ人で、原子核物理学者であり、アメリカへ亡命して、マンハッタン計画に参加した。 彼は原子核反応理論で1963年にノーベル物理学賞を受賞した。

次はリチャード・ファインマン(1918年〜1988年)である。 彼はニューヨーク生まれのユダヤ人で、物理学者であり、大戦中マンハッタン計画に参加した。 彼は量子力学における繰り込み理論で1965年にジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎と共にノーベル物理学賞を受賞した。

ユダヤ人物理学者ハンス・ベーテ(1906年〜2005年)はドイツからイギリスへ亡命し、イギリスからアメリカへ渡り、マンハッタン計画に参加した。 ハンス・ベーテはリチャード・ファインマンの良き指導者となり、ロスアラモス国立研究所の理論物理学部門の責任者(初代理論部長)を務め、疲れを見せない研究への没頭ぶりから「戦艦」と称された。 戦後、彼は歴代アメリカ大統領の核兵器問題担当上級顧問を務めた。 彼は星の内部における原子核融合の研究で1967年にノーベル物理学賞を受賞した。

ユダヤ人化学者ハロルド・ユーリー( 1893年〜1981年)はアメリカ・インディアナ州に生まれ、1934年に重水素発見の功績によりノーベル化学賞を受賞し、第二次世界大戦ではその功績を買われてマンハッタン計画に参加した。 彼はウラン235を濃縮するためのガス拡散法を開発し、原子爆弾の製造に大きな貢献をした。

量子力学の育ての親で、原子物理学への貢献により1922年にノーベル物理学賞を受賞したニールス・ボーア(1885年〜1962年)は第二次世界大戦中、アメリカへ亡命し、マンハッタン計画に参加した。 ニールス・ボーアもユダヤ人である。 第二次世界大戦後、ニールス・ボーアは祖国デンマークに戻り、その後の人生を「超大国が責任を自覚し、核エネルギーを適正に管理し、平和利用に専心するように促すこと」に捧げた。 しかし、その努力が実を結ぶことはなかった。 彼は、量子力学の育ての親として、相対性理論の確立者であるアインシュタインと双璧を成すと言われる。

ユダヤ人物理学者ジェームズ・フランク(1882年〜1964年)は1925年にノーベル物理学賞を受賞し、ドイツからアメリカに亡命し、マンハッタン計画に参加した。 ジェームズ・フランクはオッペンハイマーと違って、原子爆弾の対日使用に反対していた。 彼は対日戦での原子爆弾の不使用を強く勧告する「フランク・レポート」を1945年6月11日にアメリカ政府に提出したことで知られている。

レオ・シラードも、ナチス・ドイツの敗北が決定的になると、原爆の対日使用に反対するようになった。 レオ・シラードにとって原子爆弾はナチスの脅威に対抗するためのものであって、日本に使用する為のものではなかった。 1945年3月、レオ・シラードはアインシュタインと会い、原爆の対日使用を阻止しようと大統領に働きかける手紙にサインするよう求めた。 原爆製造を進めるにも、原爆投下を止めるにも、アインシュタインの名声が必要だったのである。 アインシュタインは、再びレオ・シラードの意見に同調しサインした。 しかし、効果はなかった。 レオ・シラードは原爆を日本に使用することに対して最後まで反対請願を展開したが、時すでに遅しであった。

最後に、マンハッタン計画に参加した高名な非ユダヤ人物理学者エンリコ・フェルミを挙げておこう。 エンリコ・フェルミ(1901年〜1954年)はイタリアのローマ出身の物理学者で、1926年にローマ大学の理論物理学教授に就任し、統計力学・原子核物理学・量子力学の分野で顕著な業績を上げ、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。 エンリコ・フェルミに由来する物理学用語は数多い。 彼は実験物理学と理論物理学との双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者である。

第2章  原子爆弾の対日使用とヘンリー・スチムソン陸軍長官
マンハッタン計画を実行に移したフランクリン・ルーズベルト大統領は強烈な親シナ・反日主義者であり、日本人を劣等人種として激しく差別したことで知られている。 一般のアメリカ人の間にも日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。 当時のアメリカの雑誌には次のように書かれていた。「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。 これは、かつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ」「普通の日本人は知性が低く、無知である。 彼らはたぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない」。 当時、トマス・ブレーミー将軍は次のように演説していた。「諸君らが戦っている相手は奇妙な人種である。 彼らは人間と猿の中間にある、と言って良い。 文明存続の為に、我々は最後まで戦い抜かなければならない。 日本人を根絶しなければならない」。

強制収容所といえば、真っ先にナチスを思い浮かべる人は多いと思うが、第二次世界大戦中、自由と民主主義の国アメリカにも強制収容所があった。 それは日系人専用のもので、約12万人もの日系民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる11ヶ所の強制収容所に収容された。 日系人に対するアメリカ政府の強制収容政策の裏には有色人種に対する白人の人種的偏見や差別意識があったことは明らかである。 この時期、同じ敵国であったドイツ系・イタリア系のアメリカ人は「お構いなし」の状態だった。 この日系人強制収容政策の最高責任者はヘンリー・スチムソン陸軍長官である。

ヘンリー・スチムソン(1929年に撮影)
ヘンリー・スチムソン(1867年〜1950年)は大東亜戦争と原子爆弾の対日使用を語る上で、非常に重要な人物である。 彼はセオドア・ルーズベルト大統領(在位 1901年9月〜1909年3月)の時代に政権に入り、以後、1950年に死ぬまで、7人のアメリカ大統領に仕えた。 彼は1906年にセオドア・ルーズベルト大統領によってニューヨーク南地区の連邦検事に任命された。 彼はタフト大統領(在位 1909年3月〜1913年3月)の下で1911年から1913年まで陸軍長官を務めた。 彼は1927年にクーリッジ大統領(在位 1923年8月〜1929年3月)によってニカラグアに派遣され、アメリカ大使や海兵隊司令官と密接に連携してニカラグアに内政干渉した。 彼は1927年から1929年までフィリピン総督に任命された。 ヘンリー・スチムソンは「アメリカは国際社会のエリートであるから、白人の責務を果たすために、アメリカの一流企業を世界のすみずみまで進出させるべきであり、必要であれば政治干渉も行なうべきである。そうすれば早晩、劣等民族はアメリカの基準を受け入れるだろう」と考えていた、と言われる。 彼はフーバー政権(1929年3月〜1933年3月)の国務長官として、また、ロンドン海軍軍縮会議(1930年)においてはアメリカ代表団の長として、日本海軍力の制限のために中心的に働いた。 ヘンリー・スチムソンはフーヴァー政権の終焉と共に下野して弁護士に戻った。 第二次世界大戦が勃発すると、ヘンリー・スチムソンはイギリス・フランスが行なっている戦いをアメリカが助けるようにラジオ演説で主張した。 フランスがナチス・ドイツに降伏した後の1940年6月、彼は中立法の破棄や徴兵制の導入を訴えるラジオ演説を行ない、賛否両論の大反響を呼んだ。 そして、彼はフランクリン・ルーズベルト大統領から陸軍長官への復帰を要請され、1940年7月に陸軍長官として復帰した。 第二次世界大戦中、ヘンリー・スチムソン陸軍長官はマンハッタン計画の事実上の最高責任者であり、マンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴス陸軍准将を監督し、原子爆弾の対日使用を検討・勧告したと言われる「暫定委員会」の委員長を務めていた。 フランクリン・ルーズヴェルト大統領と後任のトルーマン大統領は共に原子爆弾に関する全ての事でヘンリー・スチムソン陸軍長官の助言に従った。 レズリー・グローヴス陸軍准将が提出した原爆投下の目標リストには京都が挙げられていたが、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は「京都は日本文化の中心都市である」と主張し、京都への原爆投下に強硬に反対し、原爆投下の目標リストから京都を外させた。 ヘンリー・スチムソン陸軍長官の1945年7月24日付の日記には「私は京都を目標から外すべきだと大統領に伝えた。 もし一般市民が暮らす京都に原爆を落とすという理不尽な行為をすれば、戦後和解の芽をつみ、日本が反米国家になってしまうと。 すると、大統領は『全く同感だ』と答えた」と記されていた。 フランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月12日に急死すると、ヘンリー・スチムソン陸軍長官はトルーマン大統領(在位 1945年4月12日〜1953年1月20日)の背後で実質的にアメリカの戦争を指揮した。 1945年7月2日、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は「我が軍は日本上陸を準備しているが、特別攻撃隊の攻撃が激しくなっており、この調子では日本上陸後も日本人の抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出るだろう。 天皇制くらい認めて降伏を勧告すべきである」と、トルーマン大統領に進言した。 トルーマン大統領はヘンリー・スチムソン陸軍長官を全面的に信頼した。 第二次世界大戦後の1947年2月、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は広島・長崎への原爆投下に対する批判を抑える為に、「広島・長崎への原爆投下は戦争の終結を早め、100万人のアメリカ兵の命を救った」と表明した。

第3章  ユダヤ人大富豪バーナード・バルーク
  バーナード・バルーク
バーナード・バルーク(1870年〜1965年)というユダヤ人大富豪はマンハッタン計画について述べる時に忘れてはならない人物である。 バーナード・バルークはサウスカロライナ州出身のユダヤ系アメリカ人で、バルーク家はラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリーである。 バーナード・バルークは投機的取引の世界では冷徹な投資で巨万の富を築いた相場師であり、政治家としても幅広く活躍した。彼は第一次世界大戦中の1916年に行なわれたアメリカ大統領選挙ではウッドロー・ウィルソン大統領の選挙資金集めで大きな役割を演じ、ウィルソン大統領の側近となり、アメリカの国家防衛会議に所属し、総力戦体制の遂行のために設置された戦時産業局の長官を務め、独裁的権力を振るった。 彼は第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)に参加し、賠償委員会の委員長を務め、ドイツに巨額の賠償金を課すことを取り決め、ロスチャイルド傘下の国際銀行家やダレス兄弟と組んで、ドイツにヒトラー政権が誕生する手助けをした。 彼はウィルソン大統領、ハーディング大統領、クーリッジ大統領、フーバー大統領、ルーズベルト大統領、トルーマン大統領から絶大な信頼を寄せられ、大統領の特別顧問という特権的な肩書きでアメリカの重要政策に関わり続けた。 その為、バーナード・バルークは「影の大統領」と呼ばれていた。 また、彼はチャーチルの親友であった。 チャーチルはロスチャイルドの代理人である。 第一次世界大戦前、バーナード・バルークは100万ドルの資産を持っていたが、第一次世界大戦が終わった時、彼の資産は2億ドルになっていた。 ヒトラーが戦争を起こすと、彼はチャーチルやルーズベルトと語らってアメリカを参戦させようとした。 彼は第二次世界大戦中には原爆製造の有力な支援者となり、マンハッタン計画を支えた。 そして、1945年7月16日に核分裂物質としてプルトニウム239を使った爆縮型原子爆弾が完成すると、バーナード・バルークは大統領の特別顧問(指南役)として原子爆弾の対日使用をトルーマン大統領に積極的に勧めた。 彼は京都への原爆投下を主張していた。 第二次世界大戦後、バーナード・バルークは国連原子力委員会のアメリカ主席代表となり、原子力の管理に大きな影響力を持つようになった。 彼はアメリカ随一のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として活動する投機家でもあった。 1946年、彼は全ての核兵器技術を国際的な管理下に置くことを提案した。 しかし、それはアメリカによる核兵器の独占を意図したものであることが明らかになり、この国際原子力管理協定の実現は破綻した。 1947年4月、彼は「冷戦(コールド・ウォー)」という言葉を世界で初めて使用した。 一般に、彼が「冷戦」の名付け親であるとされている。 このように、ユダヤの大富豪バーナード・バルークは第一次世界大戦と第二次世界大戦で重要な役割を演じ、原爆や東西冷戦に深く関与していた。 彼は戦争によって自分の資産を増やしていった。 一部の研究家の間ではバーナード・バルークは戦争仕掛人と呼ばれている。 バーナード・バルークはロスチャイルド勢力を形成する集団の一員であり、新進気鋭の相場師であった、と見ることが出来る。 国際金融勢力を形成している集団の大御所はロスチャイルドである。 大御所たるロスチャイルドは表舞台には登場しない。 その代わり、ロスチャイルドは十分に信頼できる新進気鋭の者を代理人として表舞台に登場させ、自らの意図を実現させようとする。 バーナード・バルークはロスチャイルドの代理人としてロスチャイルドの意図を実現したのである。

第4章  アメリカ政府は日本に対して原子爆弾を使う必要があったのか
アメリカ原子力規制委員会のサミュエル・ウォーカーは次のように語った。「日本に原爆を落とさなくても、日本本土へ上陸しないで済む方法があったことは識者の間では既に常識となっていた。 トルーマン大統領や彼の顧問はそれを知っていた」。 1946年に実施された戦略投爆調査も「原爆が投下されなくても、また、ソ連が日本に宣戦しなかったとしても、更には、アメリカ軍が日本本土に上陸しなくても、1945年12月31日までには確実に、そして、おそらく1945年11月1日までには、日本は降伏していたであろう」と、サミュエル・ウォーカーと同じ結論を出した。 陸軍省諜報部による1946年の最高機密調査(1989年に公開)では、「日本の降伏に原爆は殆ど関係が無かった」という大胆な結論が出された。 そして、第二次世界大戦終結の決定的要因はソ連の対日参戦(1945年8月8日)であったと記されている。「日本を降伏に追い込んだのは、原爆の対日使用ではなく、ソ連の対日参戦であるといっても過言ではない」というのが同調査の結論である。 また、スタンフォード大学の歴史家バートン・バーンスタイン教授によれば、統合参謀本部の諮問グループ「統合戦争計画委員会」は「ソ連が日本に宣戦しない場合でも、アメリカ軍が九州へ上陸するだけで戦争を終結できるだろう」と結論づけていた。

原爆の対日使用の決定を聞かされたアメリカ軍部の指導者の中には嫌悪を催した者もいた。 ヨーロッパのアメリカ軍司令官アイゼンハワー将軍はヘンリー・スチムソン陸軍長官から原爆投下の計画を報告された時のことを次のように記した。「彼の報告を聞いているうちに暗い気持ちになった。 私は彼に深い不安を伝えた。 まず、日本はすでに敗北しており、原爆の対日使用は全く必要ないということ、次にアメリカ人の命を救う手段として最早不要とも言える兵器を使用することで国際世論に衝撃を与えることは避けるべきだと伝えた」。 アイゼンハワー将軍の見解は「日本は出来る限り体面を損なわない降伏の方法を模索している。 恐ろしい兵器で日本に打撃を与える必要はない」というものであった。 1945年7月20日、彼は「原爆の対日使用は不必要である」とトルーマン大統領に進言した。

日米開戦時の駐日アメリカ大使であったジョセフ・グルーは開戦と同時に帰国し国務次官となった。 1945年5月28日、彼は「天皇制を保証すれば日本は降伏するであろう」とトルーマン大統領に進言した。

陸軍次官補ジョン・マックロイは1945年6月18日に開かれた対日戦略会議において原爆の対日使用は事前警告すべきだと主張し、無警告による原爆投下に反対した。

アメリカ極東軍司令官だったダグラス・マッカーサーは1961年の書簡で次のように証言した。「私は原爆使用については相談を受けなかった。 もし相談を受けていたとすれば、それは不要である、日本はすでに降伏の準備をしているとの見解を表明していたであろう」。

アメリカ海軍太平洋艦隊の空母機動部隊の司令官だったウィリアム・ハルゼーも次のように述べている。「最初の原子爆弾はいわば不必要な実験であった。 これを投下するのは誤りだった。 あのような兵器を、必要もないのになぜ世界に明らかにするのであろうか」。

海軍元帥で当時の大統領主席補佐官のウィリアム・リーヒも1950年発行の回顧録「私はそこにいた」の中で、原爆の対日使用は不要だったと、次のように断言した。「この野蛮な武器を広島と長崎に投下したことは日本との戦争でなんら重要な意味をもたなかった。 日本軍はすでに敗北していたし、アメリカ軍による海上封鎖と通常兵器による爆撃との効果が上がった為、日本は降伏しようとしていた。 この新兵器に『爆弾』という言葉を使うのは間違いだ。 これは爆弾ではない。 爆発物ではない。 恐ろしい放射能によって多数の人間を殺す『毒物』であり、爆発力によるより、放射能による死者の方が多くなる」。 彼は非戦闘員を犠牲にすることをよしとしない軍人としての立場から原爆の対日使用については批判的だった。

最新の調査によると、アメリカ政府は1943年5月の時点で原爆の対日使用を決定し、原子力製造競争においてソ連に対して如何に優位を確保していくかを議論していたことが判明した。 第二次世界大戦中、アメリカとソ連は同じ陣営に属していたが、戦後の世界再建に向けて睨み合い、互いに相手の軍事的脅威に危機感を持っていた。 ソ連はヨーロッパ戦線でベルリンを陥落させ、東ヨーロッパの大部分を掌中に収めており、第二次世界大戦後にはアメリカと対等の席につくはずであった。 ところが、ソ連政府は原子爆弾という切り札によってアメリカ政府に交渉の主導権を握られてしまった。 アメリカ政府(トルーマン大統領)が日本に対して原爆を使用した理由の第1は戦争の終結を早める為ではなく、第二次世界大戦後におけるアメリカ政府の対ソ外交を有利に運ぶ上で原爆の対日使用が極めて有効であるとアメリカ政府が判断した為である。 とは言え、原爆の対日使用が戦争の終結(日本の降伏)を早めたのは確かである。

第5章  広島・長崎への原爆投下を命じ、且つ、水素爆弾の製造を命じたトルーマン大統領
  トルーマン大統領
トルーマン大統領(在位 1945年4月12日〜1953年1月20日)は日本に対する警告なしで広島・長崎への原爆投下を命じた。 先に述べたように、トルーマン大統領が広島・長崎への原爆投下を命じた理由の第1は戦争の終結を早める為ではなく、第二次世界大戦後におけるアメリカ政府の対ソ外交を有利に運ぶ上で原爆の対日使用が極めて有効であると彼が判断した為である。 言葉を換えて言えば、トルーマン大統領はソ連の対日参戦(1945年8月8日)で日本が降伏する前に原爆という圧倒的なインパクトのある兵器を使用することで、「日本にとどめを刺したのはソ連の対日参戦ではなくアメリカ製の原爆の対日使用である」というイメージを全世界に与えようとしたのである。 そして、トルーマン大統領が広島・長崎への原爆投下を命じた理由の第2は、アメリカ政府が原子爆弾の製造に大量の資金と大量の人材を投入し、大急ぎで原子爆弾を製造したからには、日本が降伏する前に是非とも原子爆弾を広島・長崎に投下して原爆の殺傷能力を観察したいと彼が思った為である。 彼は其の気持ちを抑えきれずに日本民間人を実験対象として人体実験をしたのである。 尤も、今述べたことはトルーマン大統領の心の内の事なので、推測に過ぎない。 しかし、「第二次世界大戦後におけるアメリカ政府の対ソ外交を有利に運ぶ上で原爆の対日使用が極めて有効である。 そして、アメリカ政府が原子爆弾の製造に大量の資金と大量の人材を投入し、大急ぎで原子爆弾を製造したからには、日本が降伏する前に是非とも原子爆弾を広島・長崎に投下して原爆の殺傷能力を観察したい」という、当時のアメリカ政府要人やアメリカ軍要人の総意をトルーマン大統領が代表して、広島・長崎への原爆投下を命じたのである。

広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は人体実験だったとして、1994年に次のように述べた。「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。 1つは戦後世界でのアメリカの覇権確立である。 そして、もう1つは原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。 だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。 第2に、史上前例のない火傷・放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。 第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。 たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。 そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。 第4に、被爆者を治療せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。 加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか」。

14歳の女学生だったとき広島で原爆投下に遭い、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、『少女、14歳の原爆体験記』(高文研)の中で、ABCCについて次のような恐ろしい事実を述べている。「私は広島の生き残りのひとりです。  〈中略〉  ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。 これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。 そして、地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査・記録を行ないました。 その際、私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。 治療は全く受けませんでした。 そればかりでなく、アメリカはそれら調査・記録を独占するために、外部からの広島・長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。 日本政府もそれに協力しました。 こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査・監視・記録をされたのでした。 しかも、それは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。 私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。 あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。 このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。 このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと、私は思っています」。

「ホロコースト」という言葉は、ユダヤ教の「燔祭」(祭壇で羊などの動物を焼いて神に捧げること)を意味するギリシア語であった。 敗戦確実の日本の広島・長崎への原爆投下は一瞬にして数万人の民間人を焼き殺し、辺り一面に放射性物質という毒を撒き散らした「原爆ホロコースト」である。

1949年にソ連が原子爆弾の製造に成功すると、トルーマン大統領は翌年(1950年)に水素爆弾の製造にすんなりとゴーサインを出した。 1952年に最初の水素爆弾の実験が行なわれた。 この核実験は太平洋の小島エルゲラブ島が消滅してしまうほどの威力を見せつけた。 この核実験成功によってユダヤ人科学者エドワード・テラーの唱え続けていた超強力爆弾の理論が妄想でないことが実証された。

水素爆弾の完成はアメリカの科学者たちの間に大変な反響を呼び、彼らをテラー派と反テラー派とに分裂させた。 更に、この頃、マッカーシズム(赤狩り)が荒れ狂っており、ロスアラモス国立研究所の初代所長で、原爆製造のリーダー的存在であったロバート・オッペンハイマーはソ連のスパイではないかと告発され、「政治的理由から水爆の製造計画に反対を唱えた」というテラー博士らの追い打ち証言もあって、オッペンハイマーは国家反逆のレッテルを貼られて第一線から追放された。 因みに、マッカーシズムとはジョセフ・マッカーシー上院議員によって1948年頃から1950年代半ばにかけてアメリカで起こされた激しい反共産主義運動である。

トルーマン政権以降、アメリカとソ連は核兵器製造競争に明け暮れ、20世紀の末までに米ソ両国は合わせて4万発強の原爆・水爆を製造し、1700回強の原爆・水爆実験を実施し、世界中に死の灰を降らせた。
核実験の回数

第6章  潰されたスミソニアン原爆展
第二次世界大戦終結50周年にあたる1995年にアメリカのワソントンD.C.にあるスミソニアン国立航空宇宙博物館がB29「エノラ・ゲイ」の展示を中心とする「原爆展」を開催することにした。 このスミソニアン原爆展では広島・長崎の被爆の様子をも大きく取り上げ、被爆者の様々な遺品も展示される予定だった。 キノコ雲の下で起きた悲惨な出来事にも光を当てることで、核兵器の全体像を捕えようという意図だった。 しかし、この企画はアメリカ国内で大きな反発を招いた。 と言うのは、アメリカ人の大多数は「第二次世界大戦は正義と民主主義を守る為の良い戦争であり、原爆の対日使用は戦争の終結を早めた」と思っている為である。 B29「エノラ・ゲイ」とキノコ雲はアメリカにとって勝利と栄光のシンボルである。 このスミソニアン原爆展の前に、アメリカはキノコ雲をデザインした原爆切手を発行しようとしたが、日本の反発で発行中止となる騒ぎがあった。 この騒ぎでアメリカ国内に、広島・長崎への原爆投下が残虐行為として認定されてしまうのではないかという危機感が広がり、この危機感がそのままスミソニアン原爆展への反発につながっていった。 スミソニアン原爆展への反発は、やがて、アメリカ連邦議会議員やアメリカ政府を巻き込んで、大きな動きとなった。 特に、スミソニアン原爆展反対を大きく唱えた団体は「全米在郷軍人会」なる組織であった。 こうした動きに関連してクリントン大統領はスミソニアン原爆展の中止を支持し、「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」と言明した。 結局、スミソニアン原爆展は、50年前に勇敢に戦ったアメリカ兵を侮辱するものだとされ、中止に追い込まれた。 スミソニアン原爆展を企画したマーチン・ハーウィット館長は一連の騒動の責任を取り、辞任した。 彼はスミソニアン原爆展の企画から中止までの経過を一冊の本にまとめて出版した。 彼は、取材に訪れた日本人記者に対して、原爆展の挫折で日本人に学んでほしい事として、次のように語った。「戦争教育は諸刃の剣にも似た危うさを伴っています。 もちろん、アメリカの正義を主張するのも大切ですが、その側面だけを強調して、他の側面(被害者の立場)を度外視してしまえば、単なる戦争礼賛のためのデモンストレーションとなってしまいます。 私は必死に説得活動を続けましたが、結局、私の考えは拒否され、館長を追われる結果となってしまいました。 このたび、考えに考えた末、ようやく脱稿した『拒絶された原爆展』という本が出版されましたが、真の戦争教育とは何かという主題をみんなで徹底的に議論してほしいという祈りをこめて、この書を世に問うたつもりです。 日本では、アメリカのタカ派とは全く逆の論調から、ややもすれば『被害者の立場』のみが強調されがちだと聞きますが、これもまた戦争の一面しか伝えないという意味において実に危険なことだと思います。 スミソニアン博物館で何が失われ何が得られたかという議論を通じて、日本の戦争教育のあり方をもう一度真剣に考え直してもらえればと、私はいま痛切に感じています」。

スミソニアン原爆展の諮問委員を務めたスタンフォード大学の著名な歴史学者バートン・バーンスタイン教授(ユダヤ人)は、アメリカの外交雑誌『フォーリン・アフェアーズ』に「広島再考」と題した論文を寄稿し、「対日戦の早期終結に向けて、アメリカ指導者は原爆使用以外の道を探求しなかった」などと、日本への原爆投下に批判的な説を展開した。 バーンスタイン教授は、マンハッタン計画の目標委員会の会議録などをもとに、ニューメキシコ州での爆発実験前から日本での原爆投下先が詳細に検討され、都市中心部に目標が定められていた事実を紹介しながら、アメリカ指導層が当初から民間人の大量虐殺を前提にしていたと指摘した。 原爆投下が早い段階で既定路線になった背景として、彼はアメリカ軍による「ドレスデン空襲」や「東京空襲」など戦略爆撃の例を挙げ、指導層や国民の戦争モラルが変質したと強調し、「民間人の大量虐殺」を許す素地があった為、原爆投下を避けようとはしなかったと主張している。 また、彼は、こうしたモラルの変質を「第二次世界大戦の産物」とし、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害とアメリカによる原爆投下に本質的な違いはないと結論づけている。 (ドイツのドレスデンは米英空軍の4日間にわたる徹底した無差別爆撃で、宮殿や教会など18世紀バロック建築の建ち並ぶ街は瓦礫と化した)

更に、バーンスタイン教授は次のように主張している。「広島・長崎への原爆投下が戦争の終結を早めたという主張の根拠は乏しく、たとえ、原爆を投下していなくても、ソ連の参戦によって11月前には日本は降伏していただろう。 加えて、アメリカの指導者の中で1945年の春から夏の段階において、50万人のアメリカ兵の命を救うために原爆を使用すべきだと考えていた者など一人もいなかった。 広島・長崎への原爆投下を可能にしたものは、20億ドルもの資金を投入したプロジェクトの持つ政治的・機構的な勢いと、第二次世界大戦の熾烈な戦闘を通じて、市民を戦闘行為に巻きこまないという旧来の道徳観が荒廃してしまったことである。 この道徳観の荒廃こそが後における核兵器による恐怖の時代を作ったのである。 ドイツや日本の軍国主義者たちだけでなく、なぜアメリカを含むほかの国々の道徳観までもが荒廃したのか、この点にこそ我々が歴史の教訓として学ぶべきテーマがある」。

第7章  東京大空襲
日本への爆撃作戦の指揮官を務めたのはカーチス・ルメイ空軍少将である。 彼は対ドイツ爆撃(ドレスデン空襲、その他)で実績を上げ、空の英雄と呼ばれていた。 彼は日本家屋が木と紙で出来ていることに注目し、焼夷弾(ゼリー状の粗製ガソリンを長さ50cm程度の筒状の容器に詰めた爆弾で、爆発すると、油脂を撒き散らして炎を上げる)を用いて焼き払うことを考え、ユタ州の砂漠に日本式家屋を建てて焼夷弾を投下し、その効果を確かめた。 アメリカ軍による日本への爆撃は初め軍需工場や飛行場などの軍用施設を狙う精密爆撃だったが、カーチス・ルメイ空軍少将が日本爆撃作戦の指揮官に任命されてからは、焼夷弾を投下して民間人(非戦闘員)を皆殺しにする無差別爆撃になった。 彼は日本家屋を燃やして日本人を焼き殺そうという意図を初めから持っていた。 これは非常に重要なポイントである。 アメリカ軍は東京大空襲(1945年3月10日の午前0時7分から2時間30分間に渡って行なわれた、東京都東部の下町一帯への焼夷弾爆撃)で325機のB29爆撃機を使って1783トンの焼夷弾を東京都東部の下町一帯に投下した。 この爆撃による火災の煙は高度15kmにまで達し、秒速100mの火炎旋風が吹き荒れ、一夜の内に10万人の民間人(非戦闘員)が焼き殺された。 東京都東部の下町一帯の運河や道路や公園は真っ黒焦げの死体で埋め尽くされた。 まさにホロコーストである。 これは原爆攻撃に匹敵する戦争犯罪であり、大虐殺である。

戦後、カーチス・ルメイは回想記の中で次のように述べた。「私は日本の民間人を殺したのではない。 日本の軍需工場を破壊したのだ。 日本の都市の民家は全て軍需工場だった。 ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。 木と紙で出来た民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。 女も子供も老人も全て戦闘員だった。 これをやっつけて何が悪いのか」。 カーチス・ルメイは東京大空襲を初めとする無差別爆撃、及び、広島・長崎への原爆投下の直接の責任者であった。 しかし、1964年12月6日、日本政府はカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を授与した。 授与理由は「カーチス・ルメイは日本の航空自衛隊の育成に協力した」というものである。 この時の総理大臣は後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作である。

第8章  都市に対する無差別爆撃は犯罪である
スミソニアン原爆展が中止になってからすぐ『スミソニアンの判断』という本がアメリカで出版された。 内容はスミソニアン原爆展が中止になるまでの経過の解説と、スミソニアン原爆展の企画書全文の紹介で、残り3分の1は歴史学者バーンスタイン教授の長い論文である。 フィリップ・ノビレという異色のアメリカ人ジャーナリストがこの本を編集した。 フィリップ・ノビレは「アメリカ政府は原爆投下について日本に謝罪すべきだ」という考えを持っている。 彼は「都市に対する無差別爆撃そのものが犯罪であり、広島・長崎への無差別爆撃はその極限に位置する」と考えている。 彼は「広島・長崎への無差別爆撃は、それが原子爆弾によるものだから犯罪だというのではなく、東京その他の日本の都市やドイツのドレスデンや広島や長崎からベトナムのハノイやハイフォン、イラクのバグダッドにまでつながってくる、20世紀の戦争に特有の戦略爆撃の歴史の中で位置づけなければならない」と言う。 彼は次のように述べている。「戦略爆撃、すなわち都市に対する無差別爆撃は悪魔的で残酷な行為であり、ローマ教皇も『無差別爆撃は神に対する犯罪である』と言っている。 多くのアメリカ人は都市への爆撃そのものが間違いだったということに気付いていない。  〈中略〉  爆撃する側も払うコストが大きく、ヨーロッパではアメリカ軍の戦死者の10人に1人が飛行士だった。 アメリカ人が「我々は善人で、あいつらは悪人だ」と考えているうちは、真実の全体像は浮かんでこない。 わが国は、日本とドイツの戦争犯罪人を裁判にかけて絞首刑にしたわけだが、同時に自分自身も罰すべきなのだ。 善意に満ちたアメリカ人が日本人と協力して、トルーマン大統領やチャーチル首相の戦争当時の意思決定や行動について徹底的に調査して、彼らを戦争犯罪人として裁く法廷を開くべきだ」。

追加情報1: アメリカの原爆製造技術はソ連に流出していた
1992年3月10日に朝日新聞は、「ソ連原爆1号はアメリカのコピーだった」として、次のような記事を載せた。「1949年8月に初めて実験に成功したソ連の原爆は、アメリカの原爆製造に参加したドイツの亡命物理学者クラウス・フックスからのスパイ情報をもとに、アメリカ製原爆の構造をほぼ真似たものだったことを、ソ連の原水爆の設計責任者を長年務め『ソ連の原爆の父』とも呼ばれるユーリー・ハリトン博士(88)が、朝日新聞とのインタビューで明らかにした。 西側でも、フックス情報がソ連原爆開発の力になったと推定されてはいたが、当事者がこれを認めたのは初めて。 また、ソ連初の原子炉は、占領したドイツから押収したウランを燃料としたなど、これまで秘密にされてきたソ連の核兵器開発の様子を詳しく語った」。

クラウス・フックスはユダヤ人で、ドイツ共産党員だったが、ナチスの弾圧を逃れてイギリスに亡命し、物理学で頭角を現し、1943年にアメリカに渡り、マンハッタン計画に参加し、その間、原爆情報をソ連政府に流していた。 彼はスパイ容疑で尋問され、1950年に自白し、懲役14年の判決を受けたが、1959年に釈放され、その後、旧東ドイツの原子力研究所副所長を務め、1988年1月に死亡した。

1994年4月18日、中日新聞は次のような記事を載せた。「第二次世界大戦中にアメリカが原爆を開発した『マンハッタン計画』の責任者で『原爆の父』といわれるロバート・オッペンハイマー博士らが核戦争回避のため力のバランスをつくり上げようと自らの原爆製造情報を当時のソ連スパイに秘密裏に提供していた事実が明らかになった。 18日発売の米誌『タイム』(4月25日号)が元ソ連の大物スパイ、パベル・スドプラトフ氏(87)の回顧録の抜粋で紹介したもので、戦後の『冷たい戦争』も『核抑止力による平和』も実はこれら科学者たちが“演出”したものだったことになる。 スドプラトフ氏は、現在は引退してモスクワに住むが、大戦当時はソ連の欧州・北米担当情報網の責任者。 スターリンによるトロツキーの暗殺計画も担当した大物スパイ。 『タイム』誌が抄録した同氏の英語版新著『特殊任務 望まれない証人の回顧録』によると、原爆製造情報の秘密提供に参加したのは『マンハッタン計画』の責任者でロスアラモス国立研究所所長のオッペンハイマー博士のほか、1938年のノーベル物理学賞受賞者で1939年にイタリアからアメリカに移住したエンリコ・フェルミ博士、さらに、ニールス・ボーア博士ら。 3博士らとも熱心な戦争反対論者として知られるが、スドプラトフ氏によれば、『原子力の秘密情報を米ソが共有することで力のバランスをつくり上げ、核戦争を回避しようとした』のが動機という。 ソ連は広島・長崎に原爆が投下される以前の1945年初めに、アメリカの原爆設計図を入手。 33ページにわたるこの設計図がその後のソ連製原爆の基礎となった。 ソ連は1949年に最初の原爆爆発テストに成功している」。 この記事で紹介されているパベル・スドプラトフの回顧録は、現在、日本でも翻訳出版されている。 邦題は『KGB衝撃の秘密工作』(ほるぷ出版)である。 かなり衝撃的な内容である。

追加情報2: 渡部昇一氏の主張
多数のベストセラーで有名な渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は月刊『WiLL』(2007年8月緊急増刊号)の中で「アメリカが行なったホロコースト」と題して、次のように述べている。
「アメリカは原爆および東京大空襲の無差別爆撃という『ホロコースト』を日本に仕掛けた国です。 ホロコーストとは全てを焼き尽くすという意味です。 東京は何度も空襲され、被災者は60万人を超えています。 一晩で10万人が死んでいます。 その90%以上は女子供です。 これをホロコーストと言わずして、何がホロコーストか。 アウシュヴィッツでも10万人を焼き殺そうと思ったら何ヶ月かかりますか。 アメリカ議会は日本の人道を問うなどと言っていますが、ではアメリカが日本で行なった無差別爆撃と原爆投下についてはどう考えるか問うべきです。 これはホロコーストであり、ホロコーストはいかなる理屈をつけようとホロコーストなのです。 アメリカは苦しまぎれに、『戦争を早く終えるために原爆を落とした』などと言いますが、この件を私はベルリンの学会に出席した際に話したことがあります。 プライベートなお茶の時間でしたが、『アメリカは戦争を早く終えるために原爆を落とした』と言う人がいたので、『早く終えるために一般国民を殺戮してもよいのであれば、原爆でなく毒ガスを使ってもよかったではないか』と言いました。 すると、相手は『それは考えもしなかった』と言っていましたが、このようにアメリカが言っていることは弁解にもならないのです。 アメリカ人も心の底では弁解にならないと思っているはずです。 ですから、彼らの唯一の慰めとして『日本人は殺されてもいいような悪い奴らだった』ということをなんとしても言いたいのです。 実に悪魔のような潜在意識的欲求があると見なければならないと思います。 事実、私は7年前に出したカタログの序文に『 Tokyo was a holocaust city 』という表現を使ったことがあります。 これを読んだ古書を扱う国際的な学会の編集者が感激し、その学会が発行する国際的な雑誌に全文を掲載しました。 ですから、私は世界に向かってアメリカの爆撃をホロコーストと書いた最初の人間ではないかと思います。 私たちはこの『ホロコースト』という言葉を使わなければならない。 『 Holocaust bombing 』と言わなければなりません」。

追加情報3: パール( Pal)博士が述べたこと
東京裁判の判事11名の中でただ1人「日本無罪」を主張したパール博士(インド代表の判事)は判事11名の中で唯一の国際法学者だった。 彼は、国際法に拠らず事後法によって行なわれた東京裁判を「リンチと何ら変わらない、戦勝国による復讐であり、違法裁判である」と非難した。 のちに、その主張は世界中で高く評価された。 パール博士は1952年、広島の爆心地「本川小学校」の講堂で開かれた世界連邦アジア会議にゲストとして招待され、この会議の中で次のように述べた。「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。 日本は投下される何の理由があったか。 当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思を表示していたではないか。 それにもかかわらず、アメリカはこの残虐な爆弾を『実験』として広島に投下した。 同じ白人同士のドイツにではなくて日本に、である。 そこに人種的偏見はなかったか。 しかも、この惨劇については、未だ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。 彼らの手はまだ清められていない。 こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか」。 そのあとでパール博士は原爆慰霊碑を訪れ、献花し黙祷を捧げた。 そして、その碑に刻まれた文字を通訳させ、疑うかのように二度三度と確認したという。 その慰霊碑にはこう刻まれていた。「安らかに眠って下さい。 過ちは二度と繰り返しませぬから」。 この慰霊碑の碑文を書いたのは被爆者のひとり、雑賀忠義氏(広島大学教授)である。 パール博士は怒りを顔に表して、次のように述べた。「ここで言う『過ち』とは誰の行為をさしているのか。 もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。 それがどんな過ちなのか、私は疑う。 ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。 落とした者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》と言うなら、うなずける。 この『過ち』が大東亜戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。 その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。 さらにアメリカはABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行なって挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。 アメリカこそ開戦の責任者である」。

追加情報4: ユダヤ人原子核物理学者テラー博士の発言など
「水爆の父」と呼ばれるエドワード・テラー博士。 彼は1958年に「ロスアラモス国立研究所」に代わる第2の核兵器研究所「ローレンス・リバモア国立研究所」の所長に就任し、その後、カリフォルニア大学バークレー校で教える傍ら、同研究所の副所長を務めた。 彼は絶えず「核兵器開発推進」の主張者であり続け、実験と開発の継続を訴えた。 1993年6月8日、テラー博士はニューメキシコ州のロスアラモス市で開かれた原爆開発50周年の記念イベントで講演し、次のような貴重なコメントを残した。「広島に原爆を投下するよりも、東京湾のように被害が少なくて済む場所で爆破して戦争を終結する方法もあった」。 この件に関しては1993年6月10日付『朝日新聞』夕刊で詳しく報じられている。 朝日新聞の取材に対しテラー博士は「広島への原爆投下は核兵器時代の誤った幕開けだった」とも話したという。

ある歴史研究家は次のように述べている。「広島に次いで3日目、長崎に原爆が落とされた。 これにはさすがにアメリカ市民の間でも早過ぎるという非難の声が上がった。 また、現在に至るまで、もし、日本の軍部がもっと早く調査をし、政府が早く終戦の決定をしたなら長崎は防げたと考えられている。 しかし、この観察には一番重要な要素、すなわち主導権を握っていたアメリカが欠けている。 なぜ2発目が時間を置かずに相次いだのか。 この原爆投下は誰が、いつ、何の動機で決定したかの問題である。 当時、トルーマン大統領は、実は日本が降伏しようとしまいと、それには余り関心はなかった。 だからこそ、ポツダム宣言を発表して日本に降伏勧告はしたものの、『原子爆弾を使うぞ』とも言わず、また、ポツダム宣言から『天皇制は存続させてもよい』という保障を削った。 従って、ポツダム宣言が日本政府に黙殺されたから広島攻撃を命令したのではない。 また、広島がやられても、まだ降伏しないから、長崎を攻撃せよ、と命令したのでもない。 当時、原爆開発の責任者だったレズリー・グローヴス陸軍少将(1944年12月、少将に昇進)は、日本が早く降参しないようにと祈っていた。 同時に早く原爆が出来るようにと祈っていた。 1945年6月と7月、『急げ。 金も手間も材料も惜しむな。 とにかく急げ』の厳命がマンハッタン機構の隅々にまで走っていた。 これについての証言は、いくらでもある。  〈中略〉  結局、アメリカの指導者たちは原爆を人間が密集する都市に落とすことで、その殺傷能力を観察したかったのだ。 つまり、彼らは原爆による生体実験をしたかったのだ。 それは、ウラン型とプルトニウム型という2種類の原爆を連続して投下したことからも分かる。 また、彼らは戦後の覇権争いをにらんで、アメリカの力を世界に誇示し、ソ連を威嚇するために、2発の原爆を使用したのだ」。

追加情報5: ドキュメンタリー映画『フォッグ・オブ・ウォー』でのマクナマラ元アメリカ国防長官の告白
2003年にアメリカで「フォッグ・オブ・ウォー」というドキュメンタリー映画が制作され、大きな話題になった。 この映画は、ハーバード大学院卒、フォード社社長、ケネディ政権とジョンソン政権で国防長官を務め、1968年から1981年まで世界銀行総裁を務めたロバート・マクナマラがキューバ危機・東京大空襲・ベトナム戦争当時の真実を告白する衝撃のドキュメンタリー映画である。 この映画の中で85歳になったマクナマラは「私の人生は戦争と共にあった」と驚くべき告白をしている。 マクナマラはカーチス・ルメイの部下として東京大空襲での焼夷弾使用を立案し、多くの民間人を殺し、更に原爆まで投下したことを「明らかに行き過ぎた行為」と振り返り、「第二次世界大戦中、私は統計管理官として東京大空襲でいかに効率的に日本人を殺戮できるかを仲間と共に研究した。 その結果、一晩で子供を含む10万人を殺した」と述べた。 マクナマラは、東京大空襲は不要だったと断言した。 その理由は残虐とか無差別爆撃ということではなく、「日本を敗北させるのに要した日本民間人死者数が多過ぎる」ということである。 この映画の中でカーチス・ルメイは「負ければ、戦争犯罪人だ」と述べている。「それでは勝ったから許されるのか。 私もルメイも戦争犯罪を行なったんだ」とマクナマラは自問自答する。 更に「日本全土、67都市を爆撃し、その上、原子爆弾を落とす必要があったのか。 私は戦争にも目的と手段の釣り合いが必要だと考える」とマクナマラは語っている。 この映画は第76回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。 この映画が制作された翌年(2004年)、マクナマラは来日し、日本人に向けて次のような勇気あるコメントを残した。「原爆投下が必要だったとは思わない。 賢明な選択ではなかった。  〈中略〉  原爆投下がなければ、核戦争が起きるかも知れない時代の到来は避けられた」。 (『読売新聞』 2004年1月31日)

追加情報6: イスラエル在住の日本人からのレポート
次の文章はイスラエル在住の日本人が書いたレポートである。 この文章を読むと、ユダヤ人の中にも広島・長崎への原爆投下に対して強い疑問を抱いている人がいることがわかる。 参考までに、どうぞ。
── なぜトルーマンは日本に原爆を落としたのか ──
イスラエルに移住して、キブツでビジネスに携わる40代のカナダ系ユダヤ人のA氏と話したときのこと。 国際法に詳しく、弁護士資格を持つA氏は、歴史には疎いと言いながらも、私の妻が長崎生まれだと教えると、話題がアメリカの原爆投下の話になった。「日本人は原爆投下でアメリカを非難しているのか。 」とA氏。「少なくとも高校までの歴史教育では、アメリカを非難する論調はなかった」と答えると、「どうして?」と不思議そうにさらに尋ねてきた。「日本の歴史学者は左翼が多く、戦争に導いた日本の旧指導部を非難することはあっても、原爆を投下したアメリカを非難することはあまりない」などと答えておいたが、自らを振り返り、原爆投下の功罪を大学生になって、自ら歴史を勉強するようになるまで考えることのなかった教育環境についても考えさせられた。「しかし、アメリカでも、本土決戦に突入した場合、アメリカ軍に50万から100万人もの犠牲者が出ると想定し、その前に原爆投下をしたことで日本の早期降伏をもたらしたとの、いわゆる原爆投下を正当化する意見もあるが…」と、こちらが問い返すと、「それは詭弁だ」とA氏。 A氏によれば、仮に原爆投下で日本を早期降伏に導くつもりなら、北海道の原野など過疎地域に原爆と落とし、その威力を日本の当時の指導部に知らしめることで、その目的は十分達せられたというのだ。 それをわざわざ人口密集地に落とし、非戦闘員である多数の婦女子を含む一般市民を大量虐殺したのは、やはりアメリカの大きな戦争犯罪であると指摘するのである。 A氏の話を聞いていて、当時のアメリカ指導部(トルーマン大統領など)は、殺戮兵器の威力を具体的な人体実験で試してみたいという“悪魔の思想”に取りつかれていたのではないかとの考えがよぎった。 そして人体実験には白人ではない日本人を選択した。 日本の歴史学者などは、過去の日本の悪事を暴くのに熱心だが、アメリカの原爆投下の真意なども、冷静な目で研究すべき課題ではないのか。 ユダヤ人A氏との会話で、そう強く感じた。