アメリカ暗黒街のユダヤ紳士たち

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第1章  初期のユダヤ・ギャング
かつて、ギャング映画は西部劇と並んでハリウッド映画の二大ジャンルであった。 日本のヤクザ映画が単なる犯罪映画でないように、ギャング映画も単なる犯罪映画ではない。 成功の段階を登りつめて最後に悲劇的な死を遂げるのがギャング映画のヒーローの典型的な運命である。 アメリカのユダヤ・ギャングを描いた映画としては、1984年に制作された名作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(ロバート・デ・ニーロ主演)が有名である。 ニューヨークの貧民街に育ったユダヤ移民の少年たちがギャングになり、その後、崩壊していくまでの40年にわたる壮大なストーリーを描いている。 こうしたユダヤ・ギャングは架空の存在ではなく、実際に数多く存在した。 1907年、ニューヨーク市警察長官のシオドア・ビンガムは2000枚の犯罪者カードの顔写真を公開し、そのうちの1200人はロシア系ユダヤ人移民だと断言し、翌1908年には1冊の公的報告書を出し、その中でニューヨークに台頭してきたユダヤやイタリアやアイルランドの犯罪シンジケートについて詳しく報告し、ニューヨークの強盗・かっぱらい・売春婦のヒモの50%はロシア系ユダヤ人だと主張した。 実際、1907年にニューヨークで有罪判決を受けた2848人の犯罪者のうち、ユダヤ人は460人もいた。 ビンガム長官と彼の右腕のペトロシーノ警部補はニューヨークにおける犯罪者の地下活動を厳しく取り締まり、それなりの成功を収めた。 悪名高いイタリア人マフィアのボス「アル・カポネ」の叔父ジョニー・トリオはニューヨーク市警察から絶えず圧力をかけられ、その結果、ニューヨークからシカゴへ追いやられた。 しかし、ビンガム長官はユダヤ人の団体「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」から「ユダヤ人を中傷した」という理由で攻撃を受けるようになった。 ADLは1913年に設立されたユダヤ人団体で、設立当初からユダヤ犯罪組織を防衛する為の団体として機能してきた。 ADLがビンガム長官を反ユダヤ主義者呼ばわりする運動を繰り広げた結果、ビンガム長官はニューヨーク市警察長官の地位を追われてしまった。 この結果、イタリア人およびユダヤ人双方のギャング活動は隆盛を極めるようになった。 このように、アメリカの組織犯罪業界では、イタリア人マフィアと並んで、ユダヤ・ギャングが大きな役割を果たしていた。

古くはマー・マンデルバウム(マンデルバウムおばちゃん)というドイツ生まれのユダヤ人女性が有名だった。 彼女は、ニューヨークのクリントン街79番地で数十年にわたってアメリカ最大の故買屋(盗品専門のディーラー)を営んでいた。 彼女の配下の泥棒や強盗は100人強もいて、盗品売買の網はフランスにまで広がっていた。 賄賂漬けにした警察と、ニューヨークの組織犯罪史上で悪名高い民主党組織「タマニー・ホール」の庇護を受け、あらゆる法の抜け穴に通じた弁護団を抱えて、商売は繁盛した。

20世紀に入ると、ニューヨークのユダヤ・ギャングは益々力を付けるようになった。 アメリカ第一のスリ集団の親分はエイブ・グリーンタールという名のユダヤ人であった。 ユダヤ人ロジー・ハーツが経営する売春宿に、船から下りたばかりの移民の娘を連れこんで、アメリカでの初仕事をやらせたのもユダヤ・ギャングの一団だった。 ニューヨークの様々な客商売経営者からゆすり取る“保険金”もユダヤ・ギャングの大きな収入源だった。 特に、あやしげな商売をやっている者が“保険金”の支払いを拒否すると、きまって警察の手入れを受けた。 1912年に起きたユダヤ人の賭博場経営者ハーマン・ローゼンソール殺害事件で、警察とユダヤ・ギャングの癒着が暴露されたとき、ラビ(ユダヤ教指導者)のユダ・マグネスを長とする「ユダヤ人自警団」が組織された。 ユダヤ人の悪行に心を痛めていたドイツ系ユダヤ人ヤコブ・シフと、当選したばかりでまだ腐敗していなかったニューヨーク市長ゲイナーの支援を受けて、「ユダヤ人自警団」は暗黒街の魔窟を閉鎖したり、何人かのユダヤ・ギャングを逮捕したりした。 だが、この「ユダヤ人自警団」の活動は焼け石に水だった。 アメリカのユダヤ・ギャングはアメリカ暗黒街の一角に隠然たる勢力を保持し続けた。 1897年に小商人の息子として生まれたユダヤ人レプケ・ブックホルターの主な稼ぎ場所は「労働争議」だった。 彼の配下のガンマンたちは、資本家のためにスト破り、労働組合のために機械の打ち壊しをやっては、双方から報酬をせしめた。 彼が1939年に殺人罪で電気椅子に座ったとき、彼の年間収入は1000万ドルに達していた。

ユダヤ移民史に詳しいある研究家は次のように述べている。
「移民社会では単身男性が多く、また貧しい女性が多かったので、売春が広がっていた。 ユダヤ人売春婦が他の民族集団に比べて比率的に多かったわけではないとしても、隣接して住むイタリア系に比べると多かった。 ユダヤ人のイーディッシュ語新聞は『妻、娘、あるいは許婚(いいなずけ)と一緒に歩くならば、アレン街、クリスティ街、フォーサイス街は避けたほうがよい』と読者に警告した。 当時、『白人奴隷取引』が大きな問題となっていた。 その業者の過半数がユダヤ人であり、その中心はニューヨークであった。 結婚の約束を信じて東ヨーロッパから騙されて連れてこられ、到着すると、すぐに売春宿に連れ込まれ、英語を話せないので、助けを求められず、『囚人』となり、結局は売春婦になるといった事例が多かった。 マイケル・ゴードンの『金のないユダヤ人』には、生きるために売春をやらねばならなくなった東欧系ユダヤ人女性の例が出てくる。  〈中略〉  悲劇を生んだのは、売春だけではなかった。 1905年、モーリス・フィッシュバーグは、東欧系ユダヤ人の間では稀だった自殺がニューヨークで増加しつつあり、『極めてしばしばユダヤ人の自殺を聞いた』と報告している。 多くのユダヤ人が逆境に圧倒されて死を選び、『ガス自殺』という言葉がイーディッシュ語新聞のありふれた見出しになったという。 移民世代の抑制心を失いアメリカ化した第二世代の中から多くの犯罪分子が生まれた。 ユダヤ人ギャングはイーストサイドを震えあがらせた。 ユダヤ人ギャングは同地域の暗黒街から『貢ぎ物』を要求した。 泥棒・賭博師・売春宿の経営者から利益の分け前を徴収しただけでなく、商店主からも『みかじめ料』を要求した。 食堂を開こうとすると、ギャングに『みかじめ料』を支払わねばならず、行商人は手押し車で営業する権利に対して1ヶ月あたり1〜2ドルの割前金を強要された。 また、ストライキが起きると、ギャングはスト破りの暴漢を派遣して企業から金をまきあげた。 映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』はユダヤ系二世ギャングの世界を描いたものである。 荒唐無稽な点も多いが、主人公たちが『ガキ』だったころのロウアー・イーストサイドの描写は秀逸である。  〈中略〉  ロウアー・イーストサイドは、いつも市内の犯罪分子をその周辺に引きつけてきたのであり、ユダヤ人はその犠牲者であった。 ユダヤ人は偏見や差別の対象となり、『ユダヤ人いじめ』は日常茶飯事だった。 他の民族集団によるユダヤ人攻撃に反撃した者たちの一つがユダヤ人ギャングである」。

第2章  禁酒法とギャングのシンジケート化
1919年に制定された禁酒法により、5%以上のアルコールを含む飲料は、製造・輸入・販売が禁止された。 この法律でアメリカ人は飲酒の楽しみを奪われることになった。 しかし、長年の習慣は簡単には変えられず、密造酒がはびこることになり、ギャングは密造酒で大もうけをした。 禁酒法が出来てから、ギャングの事業は正に全盛を極めた。 この時期の大きな特徴はギャングのシンジケート(競争関係にある企業が競争を緩和するために共同の中央機関を設け、生産割り当てや共同購入・販売などを行なうようにした企業組合)化である。 有力なボスの下に組織が作られ、縄張りが定められ、ギャング間の連合が形成され、カルテル化が行なわれた。 ギャングのボスたちは定期的に集まって、カルテル化の戦略を練った。 こうして、全国的な「犯罪シンジケート」が出来上がっていった。 禁酒法時代のギャングは一般に、アル・カポネやラッキー・ルチアーノやジョニー・トリオといったイタリア系マフィアが有名であるが、この時代の組織犯罪はユダヤ・ギャングによっても行なわれていた。

公正な歴史家・論評家として有名なポール・ジョンソンは著書『ユダヤ人の歴史』の中で次のように書いている。
「ニューヨークでユダヤ人犯罪者は一般的なユダヤ型犯罪の他に、保護料のゆすり・放火・競争馬に毒を盛る犯罪に集中した。 ここでもユダヤ人社会は矯正学校を含む犯罪防止運動でこれに応えた。 このような努力は三流のユダヤ人犯罪に対しては非常に効果的であった。 実際、禁酒法がなければ、1920年代末までにユダヤ人犯罪組織は小グループになっていたであろう。 しかし、禁酒法がアルコールの違法取引を合理化し組織化する機会をずる賢いユダヤ人に提供したため、彼らはその誘惑に抵抗することができなかった。 ユダヤ社会学の権威であったアルトゥル・ルピンが書いているように、『キリスト教徒はその手で罪を犯すが、ユダヤ人は頭脳を使う』のである」。

第3章  「全米犯罪シンジケート」を作り上げたマイヤー・ランスキー
アメリカのユダヤ・ギャングの中で最も有名なのがユダヤ人マイヤー・ランスキーである。 彼は1902年にロシア・ベラルーシのグロズノで生まれたユダヤ人で、本名をスチョウリャンスキーといった。 1911年、彼は両親に連れられてアメリカに渡ってきた。 成長しギャングとなったマイヤー・ランスキーはアーノルド・ロススタインというユダヤ人の賭博王の支援を受けていた。 アーノルド・ロススタインはニューヨークに登場した最初のユダヤ人犯罪ボスである。 彼はデイモン・ラニャンの小説で「頭目」として描かれ、スコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』で登場人物のモデルになった。 このアーノルド・ロススタインが1928年に暗殺されると、マイヤー・ランスキーは押しも押されもせぬシンジケート・ボスの地位に就いた。 マイヤー・ランスキーは、少年時代からの友人ラッキー・ルチアーノ(イタリア系マフィアの大ボスで、本名はサルヴァトーレ・ルカーニア)と組んで、「殺人会社」(殺し屋集団)をつくり、それによって北米のすべての都市に、密造酒と麻薬の流通ルートを支配する全国的犯罪連合をつくっていった。

マイヤー・ランスキーのほかにも、大物ユダヤ・ギャングがアメリカとカナダに現れた。 例えば、カナダにおけるサム・ブロンフマン率いる「ブロンフマン・ギャング」。アル・カポネの帳簿係と会計をしていたジェイコブ・グツィク(別名グリージー・サム)。クリーブランド・デトロイト・シカゴの五大湖周辺に根を張ったサミュエル・コーエン(別名サミー・パープル)やモリス・ダリッツ。マックス・フィッシャー率いる悪名高い「パープル・ギャング」。ニュージャージーからボストンへの酒と麻薬の流通路を支配した「ジョセフ・レインフェルド・シンジケート」である。 マイヤー・ランスキーと親しいユダヤ・ギャングの殺し屋ベンジャミン・シーゲル(別名バグジー)は、禁酒法時代にウイスキーの密売と麻薬で稼いだ金を基にネヴァダの砂漠の中にギャンブル王国ラスベガスを築いた。 彼らが儲けた金の残りはハリウッドの映画制作会社に注ぎ込まれた。 ベンジャミン・シーゲルはラスベガスをつくったユダヤ人として、アメリカ犯罪史および文化史に名を残した。 後にベンジャミン・シーゲルはマイヤー・ランスキーによって暗殺され、マイヤー・ランスキーがラスベガスのボスになった。 因みに、ベンジャミン・シーゲルの生涯は1991年に映画化された。

禁酒法時代にあっても、ユダヤ・シンジケートはイギリスと特別な関係があったお陰で大いに繁栄した。 カナダやカリブ海にある引き渡し地点までスコッチ・ウイスキーを自由に配送することができる「イギリス酒造評議会」を支配していたのはウィンストン・チャーチル(後のイギリス首相)であった。 そして、引き渡した地点からはマイヤー・ランスキーの所有する船が極上の酒をアメリカへ運び込んだ。 当時の警察の記録は、アメリカの東海岸や五大湖の湖岸線を支配していた「ユダヤ海軍」について言及している。

マイヤー・ランスキーは人種間でバラバラに仕切られていたアメリカのギャングを統一し、アメリカのギャングのあり方を、それまでの「殺し・抗争」から「金・協調」という方向に変えた。 彼は合法的組織犯罪を目指し、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策において全米の公共事業の監督に当たった「全米復興庁」を手本として、「全米犯罪シンジケート」を作り上げた。 全米犯罪シンジケートの意志決定は、それぞれの地方組織を代表する委員から構成される「全米委員会」でなされた。 また、「全米委員会」は、犯罪シンジケートへの法規制強化とアメリカ国民の反感をもたらす可能性があるギャングの抗争を未然に防ぐ自警団組織となる狙いを持っていた。 禁酒法時代のシカゴにおける「カポネ戦争」は全米犯罪シンジケートを著しく弱体化させたが、マイヤー・ランスキーはこのような些細な抗争で自分の大計画が潰れることのないように心掛けた。 マイヤー・ランスキーは1930年代を通じて、彼のあり余る資金を投入できる新しい市場を獲得するのに忙しかった。 彼の非合法な活動の主たるものは有りと有らゆる種類のギャンブルであり、その経営には綿密な計画と自己規制が求められた。 マイヤー・ランスキーはこの仕事を見事にこなし、ボス中のボスと呼ばれた。 全米犯罪シンジケートの勢いが最も強かった頃、イタリア系マフィアも全米犯罪シンジケートに加わっていた。 マイヤー・ランスキーのリーダーシップには狂いがなく、彼はアメリカ・ギャングの頂点に立ち、アメリカ・ギャング界における権威となった。 マイヤー・ランスキーはアメリカ最大の犯罪組織「全米犯罪シンジケート」の会長として、50年間もこの組織を運営し続けた。

    マイヤー・ランスキー
1940年7月、アメリカとイギリスの情報部は所謂「暗黒街工作」を始めた。 この「暗黒街工作」の目的は、アメリカ軍のシチリア上陸から始まる将来の対ドイツ攻略戦に備え、シチリア・マフィアの中で「これはという人物」を連合国側に取り込むことであった。 この時に、マイヤー・ランスキーとラッキー・ルチアーノの両人はアメリカ海軍情報局の情報提供員として働いた。 今世紀における麻薬(ヘロイン)交易の復活を促したのは、この時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとマイヤー・ランスキーとの間に交わされた密約だった。 マイヤー・ランスキーは、戦争中に東海岸を守り、のちにはフランスの港湾の独占権を社会主義者の手から奪い取ったことと引替えに、ヘロインの密輸を許可された。 また、この取引の一部として、ラッキー・ルチアーノが第二次世界大戦後に釈放された。 彼はすぐに、キューバにヘロイン密輸の根拠地を設立する行動に移り、のちにはマイアミのサントス運輸に支配権を移した。

アルフレッド・マッコイは『ヘロインの政治学』の中で次のように語っている。「第二次世界大戦末期、消費者の需要が過去50年間で最低に落ち込み、犯罪シンジケートが混乱を起こしたときに、アメリカは国の重要な社会問題だったヘロインを根絶する絶好の機会をもった。 だが、政府はこれら犯罪組織に致命的打撃を加える代わりに、CIAおよびその戦時中の前身OSSを通じ、シチリア・マフィアとアメリカ・マフィアとコルシカの地下組織が国際的麻薬交易を復活させることのできる状況を作り出したのだ」。 こうして、第二次世界大戦を経てマフィア組織は急速にCIAに接近した。 アメリカ政府もまた、各国との裏面工作にマフィア組織を活用するようになった。 なかでも1952年のキューバのバチスタ政権の返り咲き劇の主役はマイヤー・ランスキーであった。 彼はその実績からキューバにおける利権のほとんど全てを握った。 カジノ・売春・ヘロインと、まさにキューバは彼にとって金の成る木そのものであった。

ところで、全米犯罪シンジケートの最高幹部にアブナー・ツビルマンというユダヤ人がいた。 アブナー・ツビルマンはニュージャージー州アトランティックシティのボスであり、全米犯罪シンジケートの設立時からの一員で、ハリウッドの映画会社に多額の投資をしていた。 禁酒法時代、アブナー・ツビルマンは「ビッグ・セブン」の一員であった。「ビッグ・セブン」とはマイヤー・ランスキーの仲間たちからなる東海岸のグループで、カナダから密輸入した密造酒の配給を取り仕切っていたギャングである。 この酒はカナダのユダヤ・ギャングのボス:サム・ブロンフマン一味がカナダで製造したものであった。 アブナー・ツビルマンはマイヤー・ランスキーが私的に運営していた「殺人会社」の当初からの構成員でもあった。 この「殺人会社」は、これまで判明しただけでも800件を超える殺人契約を実行したという。 この「殺人会社」には、「ザ・ジャッジ」として知られ、FBIが「合衆国の最も危険な犯罪者」と呼んだユダヤ人ルイス・レプケ・ブチャルターが所属していた。 1935年、アブナー・ツビルマンは、ルイス・レプケ・ブチャルターの指示により、ニュージャージー州でのライバルであるユダヤ・ギャングのアービング・ウェクスラー(別名ワキシー・ゴードン)とアーサー・フレゲンハイマー(別名ダッチ・シュルツ)を暗殺した後、ニュージャージー州のシンジケートの商売を一手に引受けることになった。 そして、アブナー・ツビルマンはラスベガスのカジノとハリウッドの映画会社にまで手を拡げるに至った。 アブナー・ツビルマンが病に倒れ、再開された政府の捜査にマイヤー・ランスキーがひっかかる恐れが生じたとき、全米犯罪シンジケートの「全米委員会」はアブナー・ツビルマンの「排除」を決定した。 1959年2月27日、アブナー・ツビルマンはニュージャージー州ウエストオレンジにある部屋数が20室もある自分の豪邸の地下で死んでいるのが発見された。 地元警察は彼の死を自殺と考えたが、実際は、彼自身がその設立に手を貸した「殺人会社」によって殺されたのである。

1960年代に入ると、全米犯罪シンジケートはケネディ兄弟によって激しい攻撃を受けるようになった。 ケネディ兄弟の妥協のない態度は、ジョン・F・ケネディが言った次の言葉に要約されている。「遠慮せず、徹底的に調査を続けろ。 ここには、規則は1つしかない。 もし、奴らが悪なら、単に傷つけるというようなことでなく、完璧に殺してしまわなければならない」。 1961年、ジョン・F・ケネディが大統領に就任し、弟ロバート・ケネディが司法長官に就任すると、ケネディ政権はかつて無かった程のスケールで、全米犯罪シンジケート撲滅作戦に乗り出した。 ケネディ兄弟は伝統的マフィアの本拠地シカゴにまでその手を伸ばしていった。 この時、ロバート・ケネディは全米犯罪シンジケートに対して大がかりな戦略を練っていた。 その戦略とは、FBI・国税庁・商務省など連邦政府の全機能をフルに使って、全米犯罪シンジケートの本拠地であるラスベガスを直撃することだった。 1963年10月には、この戦略のプランは完成していた。 だが、いよいよという時になって、このプランは中止された。 敢行直前にケネディ大統領が暗殺されたからである。 ラスベガスへの直撃は中止されたものの、ケネディ兄弟が全米犯罪シンジケートに与えた打撃は大きかった。 ロバート・ケネディが司法長官になってから、司法官の対全米犯罪シンジケート作戦部はその規模が4倍になり、起訴対象のリストに挙げられたギャング構成員の数は2300人に上った。 ロバート・ケネディは著書『正義の追及』の中で、次のような具体的数字を挙げて、アイゼンハワー時代との相違を説明している。「1963年の前半6ヶ月のうちに、我々は171人のシンジケート・メンバーを起訴に持ち込んだ。 3年前の同じ時期には24人だった。 1963年全期を通して、我々がかち得た有罪判決は、160件に達した。 3年前は35件だった。  〈中略〉  1962年、司法省管轄の検事達が法廷で過した時間は809日、法廷外の調査に費やした時間は7369日に上った。 2年前の数字は法廷で283日、調査に1963日だった」。 しかし、1968年6月、ロバート・ケネディも銃で頭を撃たれて死んだ。

マイヤー・ランスキーは「全米犯罪シンジケートを合法化し、合法的組織犯罪帝国を作り上げる」という大きな夢を持っていた。 それは、大犯罪を行なっても人目につかぬよう、まともな体裁を装うことにより、政府のいかなる検察官も手出しができないようにした上で、全米犯罪シンジケートを世界最強のビジネス・金融集団に作り変え、イスラエルを買収し、そこを自分の合法的組織犯罪帝国の世界本部とすることであった。 マイヤー・ランスキーは数字に強く、経済学の本を読み、経済感覚が秀でていた。 彼はマネーロンダリング(資金洗浄)の創始者とも言われている。

晩年のマイヤー・ランスキーは様々な罪に問われて逃げ続けた。 1971年にイスラエルへの入国も試みたが成功せず、結局マイアミに戻り、厳重な護衛付きの隠遁生活を送った。 彼は、非合法活動を60年以上続ける中で、刑務所で過ごしたのは総計3ヶ月半に過ぎなかったのであるから、いかに彼が法の網をくぐることに巧みであったかが分かる。 マイヤー・ランスキーは1983年1月15日、4億ドル強の財産を残して肺ガンで亡くなった。 因みに、彼の生涯は映画化された。

第4章  全米犯罪シンジケートを受け継いだ「ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)」
シオニズムに反旗をひるがえしたユダヤ人ジャーナリスト:ポール・ゴールドスタインとジェフリー・スタインバーグによると、ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟)は全米犯罪シンジケートを受け継いでいるという。 ADLは、第二次世界大戦後に大規模な組織再編成が行なわれ、全米各界の最も優秀なユダヤ人を選抜して、303人から成る「全米委員会」を構成した。 その下に「全米執行委員会」が置かれ、その会長にニューヨークのユダヤ教ラビ:ロナルド・ソベールが就いた。 ADLの実態について、ユダヤ人ジャーナリスト:ポール・ゴールドスタインとジェフリー・スタインバーグは次のように告発している。「ADLは設立当初からユダヤ犯罪組織の為の防衛機関であった。 警察や新聞が、勢力を拡大する全米犯罪シンジケートにおけるユダヤ・ギャングの役割を解明しようとすれば、ADLはこれを『反ユダヤ主義者』として攻撃した。 ADLはマイヤー・ランスキーが築き上げた全米犯罪シンジケートを受け継いだ。 ADLが戦後、組織の立て直しを図った際、全米犯罪シンジケートと全く同じ方法で組織を再編成しただけでなく、その統括本部を『全米委員会』と呼ぶようにしたのは決して偶然ではない。 ADLの『全米委員会』の名誉副会長に名を連ねる人々を見ていると、ユダヤ・ギャングと彼らの手先となって働いている政治家からなる犯罪者リストを眺めている気分がする。 ADLは反ユダヤ運動に対抗するものと言われるが、ADL自体どれほど多くの麻薬取引に関わっていることだろうか。 世界の麻薬取引のほとんど全てに関係していると言ってもよいだろう」。

また、ポール・ゴールドスタインとジェフリー・スタインバーグの調査によれば、マイヤー・ランスキーによる「全米犯罪シンジケート合法化計画」の鍵を握るのは、腐敗した銀行家と腐敗した弁護士の存在であり、この合法化計画の中でADLは重要な役割を果たしているという。 彼らは次のように告発する。「ADLと全米犯罪シンジケートとの最も古くかつ強力な結び付きは、組織犯罪集団の御用達であったニューヨークの銀行の一つ、スターリング・ナショナル銀行に見ることができる。 組織犯罪の専門研究家によると、この銀行はマイヤー・ランスキーに非常に近い仕事仲間フランク・エリクソンにより1929年に設立されたものである。 ADLの活動に詳しい金融界筋の情報によると、1978年以後、ADLはADL財団を含む全ての銀行、投資活動をスターリング・ナショナル銀行へ移していた。 今日、ADLはアメリカや西ヨーロッパやラテンアメリカのすべてのユダヤ人社会にその触手を伸ばしている。 ADLは多くの地方の弁護士会を支配することによって、また、州および連邦裁判所の判事の選任に影響力を行使することによって、アメリカの司法機構の殆ど全てを密かに支配している。 また、ADLは大手銀行や大手マスメディアの枢要な地位に工作員を送り込んでいる。 また、ADLはアメリカの数多くの警察幹部をイスラエル政府およびユダヤ・ロビーの手先として抱き込むことに成功している。 ADLが『全米委員会』のメンバーに強力な政治家や金融界の大物たちを揃えている為、その専門スタッフは人と交渉して影響力を行使する場合に絶大な力を発揮することが出来る。 ADL『全米委員会』のメンバーと全米大手企業とのコネクションのお陰で、ADLの資金調達活動はフォーチュン誌が調べた全米大手企業500社(大手銀行、大手マスメディアなど)の取締役会のメンバーにまで行き及んでいる。 そして、ADLは、自分たちに貢物を納めるか、それとも『反ユダヤ主義』の烙印を押されたいのかと言って、アメリカの大手銀行や大手マスメディアをゆすっている」。

第5章  ブロンフマン一族
現在、マイヤー・ランスキーの築き上げた全米犯罪シンジケートのトップには、ADLの最高幹部で、世界的なウイスキーメーカー「シーグラム」の会長であるハザール系ユダヤ人エドガー・ブロンフマンが就いている。 シーグラムは世界中で年間100億ドル強の飲料を販売する巨大飲料会社であり、この会社には「VO」「セブン・クラウン」といった人気ブランドがある。 初代ブロンフマン(エチェル・ブロンフマン)は、ルーマニア王国領だったベッサラビア地方から年季奉公人として1889年にカナダにやって来たハザール系ユダヤ人である。 彼はカナダに着くとすぐに売春業を始め、1915年にカナダで禁酒法が施行されると、酒の密輸に手を出した。 さらに、その儲けで、彼は麻薬の密売にも手を染め、あらゆる犯罪に関与した。 1919年にアメリカで禁酒法が制定されると、彼はアメリカのユダヤ・ギャングと組んでアメリカヘの酒の大規模密輸業を始め、巨富を得た。 そして、この巨富を基に、シーグラム社を設立した。 ブロンフマン一族は禁酒法時代を通じて、マイヤー・ランスキーの全米犯罪シンジケート向けウイスキーの有力供給者だった。 アメリカ政府の記録によると、1920年から1930年の間に3万4000人強のアメリカ人がブロンフマンの醸造した酒を飲んでアルコール中毒により死亡したという。 因みに、「ブロンフマン」とはイーディッシュ語で文字通り「酒屋」の意である。

初代ブロンフマンの息子フィリス・ブロンフマンがジーン・ランバートと結婚したことで、ブロンフマン家はロスチャイルド家の一員となった。 そして、3代目のエドガー・ブロンフマンは1957年にシーグラム社の社長に就任し、1979年から2007年まで「世界ユダヤ人会議(1936年から活動しているユダヤ人の国際組織)」の議長を務め、ADLの名誉副会長でもある。 また、エドガー・ブロンフマンはアメリカ多国籍企業の中でも最大かつ最強の企業の一つであるデュポン社の株の過半数を支配している大株主でもあった。 エドガー・ブロンフマンは、投資銀行「ローブ・ローデス商会」のユダヤ人オーナー:ジョン・ローブの娘と結婚して、ウォール街との接近も深め、アメリカの民主党に多額の献金をして、陰でアメリカ政治を動かすと言われるほどに、その政治力を拡大していった。 (エドガー・ブロンフマンは、大リーグ「モントリオール・エクスポズ」のオーナーだったことでも名高い)。 また、ブロンフマン一族は熱烈なシオニストとして知られている。 例えば、第二次世界大戦が終わった時、カナダのユダヤ・ギャングのボス:サム・ブロンフマンは「イスラエル・ユダヤ更正全国協議会」を設立した。 その名前の趣旨に反し、この組織の主たる目的はパレスチナのユダヤ人地下組織「ハガナ」向けに武器を密輸することだった。 ブロンフマン一族だけでなく、アメリカやカナダのユダヤ・ギャングは積極的にシオニズムを支援してきた。 マイヤー・ランスキーの言い分によると、アメリカやカナダのユダヤ・ギャングはアメリカのシオニスト組織に何百万ドルも献金してきた。 1980年代半ばにドイツの雑誌記者とのインタビューで、エドガー・ブロンフマンは「世界ユダヤ人会議」の議長として次のように答えている。
【問】 世界ユダヤ人会議の前議長ナフム・ゴールドマンは、イスラエル国の様々な行為について、大変批判的な発言をしていましたが、現会長のあなたからはそのような批判が聞かれませんね。
【答】 もちろん私だって、多くの問題でイスラエル国に対して大変批判的に臨んでいますよ。 〈中略〉 しかし、ここでナフム・ゴールドマン前議長と私の違いをはっきり言っておきます。 私は次のような確信に達したのです。 イスラエル国に対するあらゆる攻撃は、ユダヤ人に対する攻撃である、と。 誰であろうと、ユダヤ民族とイスラエル国の間を裂こうとする者は大きな過ちを犯しているのだ、と。
【問】 イスラエル国の存在とその政策は、非ユダヤ人にとって、あらゆる批判の対象外であるべきだ、と言うのですか。 これはまた現実的ではありませんね。
【答】 ユダヤ人であるという事実と、ユダヤ民族の未来はイスラエル国にあるという認識との間には、実に密接なつながりがあるのです。
【問】 反ユダヤ主義という非難を受けずに、イスラエル国の政治活動を批判するのが、どんなに難しいことか、あなたには分かりますか。
【答】 私が妻の弟を犬畜生と罵ることはできても、あなたには許されていないのと同じことですよ。

このインタビューから分かるように、エドガー・ブロンフマンによれば、イスラエルの問題に非ユダヤ人は一切口を出すなというわけだ。

1972年、「モントリオール犯罪委員会」はエドガー・ブロンフマンの甥ミッチェル・ブロンフマンを、カナダ暗黒界の大ボス:ウィリー・オブロントの犯罪仲間と認定する報告書を提出した。 この報告書によると「ウィリー・オブロントとミッチェル・ブロンフマンの関係は不法活動にまで及び、彼らは相互にあるいは共同で犯罪行為に関与していた。 彼らは互いに便宜を図ることで高利貸し・ギャンブル・不法賭博・有価証券の絡む取引・脱税および買収などの事柄で利益を獲得した」とされている。 1970年代半ば、ウィリー・オブロントとミッチェル・ブロンフマンと、もう一人の仲間サム・ローゼンは共に麻薬資金洗浄の罪で投獄された。

1989年、高齢化したエドガー・ブロンフマンの後を継いで、エドガー・ブロンフマン・ジュニアが「シーグラム」の社長に就任し、エドガー・ブロンフマンは会長に退いた。 エドガー・ブロンフマン・ジュニアは「MCA」を松下電気からユダヤ人の手に買い戻したことでも名高い。 ブロンフマン家はデュポン社の大株主として知られていたが、「MCA」買収のために、その株を手放した。 その後、エドガー・ブロンフマン・ジュニアはユダヤ・コネクションを利用してスティーブン・スピルバーグ監督の新会社「ドリームワークス」と契約し、同社の作品の独占的配給権を持っている。 彼は「タイム・ワーナー」にも資本参加していることでも知られ、有線放送局「USAネットワーク」を17億ドルで買収した。 最近では、世界最大のレコード会社「ポリグラム」を買収するなど、メディア界への進出に積極的である。 ブロンフマン一族の築き上げた莫大な財産は「ケンプ」や「キャディラック・フェアビュー」と呼ばれる投資会社を通じて管理されている。「ケンプ」は100億ドルといわれるブロンフマンの不動産や株を所有し、石油会社や化学会社などの企業を傘下に収め、ブロンフマン財閥を陰から支えている。 また、エドガー・ブロンフマンの従兄弟であるエドワードとピーターの兄弟は、ブロンフマン財閥とは別に独自の「ヒース・エドパー財閥」を作り上げている。 この財閥には複数の保険や鉱山関係の企業が含まれており、その資産は数十億ドルに達すると言われている。