アメリカの優生思想とナチスとのつながり
優生思想とは、劣等な子孫の誕生を抑制し優等な子孫の誕生を促進することにより、国家全体あるいは民族全体の健康を保とうとする思想をいう。 ドイツの歴史学者シュテファン・キュールが書いた『ナチ・コネクション』(明石書店)という本では、アメリカの優生学者とナチスとの親密な関係が紹介されている。 この本を読むと、優生思想は決してドイツの科学者だけのものではなかったことが判る。 戦後、ドイツを裁いたアメリカこそが実はナチスの優生政策の先駆者であった。 この本の中から興味深い部分をピックアップしておきたいと思う。 以下は抜粋。
アメリカとドイツとの密接な関係を支えていたのは、ドイツの優生学研究を確立させようと考えたアメリカの財団の熱烈な資金援助だった。 最も重要な後ろ盾はニューヨークの「ロックフェラー財団」だった。 1920年代初期にロックフェラー財団はドイツの人種衛生学者アグネス・ブルームの遺伝とアルコール中毒の研究に資金援助を行なった。 1926年12月にロックフェラー財団の職員がヨーロッパへ赴き、その後、ロックフェラー財団はヘルマン・ポール、アルフレート・グロートヤーン、ハンス・ナハツハイムといったドイツの優生学者に資金援助を開始した。 「カイザー・ヴィルヘルム精神医学研究所」、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」など、ドイツの重要な優生学研究所の設立と資金援助に関して、ロックフェラー財団は中心的な役割を演じた。 〈中略〉 1928年、研究所を新築するためにロックフェラー財団は32万5000ドルを寄贈した。 ロックフェラー財団がミュンヘンの「精神医学研究所」に資金提供をした為、アメリカの他のスポンサーもあとに続くことになった。 実際、ベルリンにあった「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」の建物の一部もロックフェラー財団の援助金で建設されたものだった。 〈中略〉 世界が大恐慌に陥ってから数年間、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」は深刻な財政問題を抱え、閉鎖の危機に追い込まれたが、ロックフェラー財団は赤字が出ないよう資金援助を続けた。 所長のオトマール・フォン・フェアシュアー男爵は重要な局面で何度かロックフェラー財団の代表者と会見した。 彼が1932年3月、ロックフェラー財団のパリ支部に宛てた手紙のなかで、彼はさらに6つの研究計画に対する資金援助を依頼した。 2ヶ月後、ロックフェラー財団は肯定的な返事をした。 ナチスがドイツ科学を支配した後も、ロックフェラー財団はドイツの優生学者に資金援助を続けた。 1930年までに国際的な優生学運動の推進役として、アメリカとドイツはイギリスを遥かにしのぐ力を持っていた。 〈中略〉 アメリカの優生学者たちはナチスの人種政策を最も強力に支持した外国人だった。 アメリカ以外の国の優生学運動はどちらかといえばナチス・ドイツに批判的だった。 ナチスの人種政策に対する諸外国の姿勢の中心的監視者だったドイツの『人種政策外信』は、アメリカ内の優生学運動について11の報告を掲載したが、そのうちの4つはアメリカの優生学運動がナチスの政策を支持していることについての報告である。 ナチスのプロパガンダで、アメリカほど目立った役割を演じた国は他に無かった。 1934年2月、ナチスから特別な庇護を受けていた人種人類学者のハンス・ギュンターは、ミュンヘン大学の講堂に詰めかけた聴衆を前に、「アメリカは世界でもっとも寛大な国だと思われているが、アメリカの移民法が圧倒的多数で可決されたことは注目に値する」と述べた。 そして、ハンス・ギュンターは、グラントとストダードがこの移民法制定の「精神的な父親たち」であり、この法律をドイツのモデルにしようと提案した。 ナチスの人種衛生学者たちは、アメリカの移民政策が優生学と民族選別を結合させたその方法に特に強い感銘を受けた。 アメリカの優生学者たちは、自分たちがナチス・ドイツの断種法制定に影響を与えたことを自覚していたし、誇りを感じてもいた。 彼らはドイツの「遺伝病の子孫の出生を予防するための法律」がカリフォルニア州の断種法の影響を受けており、1922年にハリー・ローリンが考案した「優生学的断種のモデル法」にならって立案されたものであることを知っていた。 〈中略〉 ナチスが政権の座についてから僅か6ヶ月のうちにドイツで断種法を可決させることができた理由のひとつとして、ナチスがアメリカの断種の法的・医学的側面に関する情報を握っていたことがあげられる。 〈中略〉 ナチスはアメリカにおける断種の実際的・法的経験に学んだだけではなく、1870年代以降にアメリカで行なわれてきた研究も参考にしていた。 カリフォルニア州の主要な優生学組織だった「人間改良財団」と「アメリカ優生学協会」のカリフォルニア支部は、1930年代を通じて、ナチス・ドイツにとって常に重要な情報源だった。 この2つの組織を指導する立場にあったポール・ポペノーは特に注目された。 〈中略〉 1930年代の後半に至るまで、ドイツの科学雑誌とナチスのプロパガンダは、カリフォルニアの優生学運動から生まれた新しい出版物や優生学運動の進展、優生学運動が強く求めることについての報告を続けた。 ナチスの断種法を支持したのはカリフォルニアの優生学者たちだけではなかった。 他州の優生学と断種のための組織もナチス断種法の熱狂的な支持者だった。 ヴァージニア州の優生学・断種運動で指導的な立場にあったジョゼフ・デジャネットは、ヴァージニア州政府に宛てた書簡のなかで、ヴァージニア州は断種法の適用範囲を拡大し、包括的なドイツの断種法に近いものにする必要があると主張した。 〈中略〉 「アメリカ優生学協会」の事務局長レオン・ホイットニーもヒトラーの人種政策を支持した。 彼がいくつかの新聞に宛てた1933年の書簡の中で、彼は「アメリカ優生学協会」を代表して、ヒトラーの断種政策は彼の偉大な勇気と政治家としての手腕の証明であると主張した。 〈中略〉 アメリカの優生学運動がナチスの断種法制定を広範囲にわたって支持したことは、『優生学ニュース』に多くの記事が掲載されたことからも明らかである。 ハリー・ローリン、チャールズ・ダヴェンポート、ローズウェル・ジョンソンが1930年代に編集していた『優生学ニュース』はアメリカの三大優生学組織の公式機関誌としての役割を果たしていた。 1934年、『優生学ニュース』は「世界を見渡しても、ドイツほど応用科学としての優生学が盛んな国はない」と報告し、ナチスの断種法を賞賛した。